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2016年04月04日

川島芳子は生きていた(35)阿尾博政の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

阿尾博政著『自衛隊秘密諜報機関ー青桐の戦士と呼ばれて』には阿尾氏が戦後に古谷多津夫氏の自宅で白髪の老婦人を見かけ、それが誰か尋ねると川島芳子だと告げられたという証言が載せられている。

古谷多津夫とは、戦時中、上海におけるスパイ組織である「南城機関」の機関長をしていた人物である。古谷は三十歳にならずして同機関の機関長となり、日本人、フランス人、インド人、ロシア人、中国人など約八百四十名のスパイを自らの指揮下に置いていた。そして、彼らを上海から広東省までの華南一帯に展開し、国民党、共産党への熾烈な特務戦をおこなってきた人物である。南城機関は日本海軍第三艦隊司令部付兼上海在勤海軍武官府付の特務機関であった。

この当時の上海は〈東洋の魔都〉と呼ばれ、世界四十八カ国および中国国内の各勢力が、生死を賭した諜報戦を展開していた。当然のことながら、諜報の一手段としてテロが横行した。古谷は戦後も内閣調査室の顧問として、日本の各諜報機関の現場において神様≠ニ評価されていた。古谷は、アメリカの安全保障に緊要な地域である極東の日韓台の情報網の中で、優れて信用された人物だった。

 戦後に川島芳子が日本に潜入していたのは某財団関係者によれば1955年前後であるから、阿尾博政氏が古谷多津夫の自宅で川島芳子を目撃したのもこのころになろう。戦時中に上海で海軍のスパイをしていた児玉誉士夫や、児玉を海軍に紹介した笹川良一などとも関係があったことは想像に難くない。

阿尾博政氏と川島芳子のつながりはもう一つある。それは阿尾氏が佐郷屋留雄の書生をしていたことだ。佐郷屋留雄は1930年に首相の浜口雄幸を東京駅で銃撃して暗殺した右翼のテロリストである。佐郷屋が犯行に使用したピストルはもともとは川島芳子が所蔵していたピストルであった。

元はというと、このピストルは張作霖の部下であった張宗昌という男が川島芳子の弟である愛新覚羅・憲開の殺害に使用したピストルであった。川島芳子は死んだ弟の形見の品としてピストルを譲り受けたのだった。

川島家に出入りしていた右翼活動家の岩田愛之助は川島芳子に結婚を迫り、川島芳子はそれを拒否してこのピストルで自分の胸を打ち自殺未遂を引き起こしている。そしてこのピストルはなぜかこの岩田愛之助の手に渡る。そして岩田愛之助が子分の佐郷屋留雄にピストルを渡して浜口雄幸首相を襲撃させたのであった。しかも佐郷屋は小学校までの幼少時代を中国の吉林省で過ごしているから、その当時の中国東北地方の軍閥だった張作霖のことは知っていただろうし中国語も話せた可能性が高い。

佐郷屋の家で書生をしていた阿尾博政氏が川島芳子に出会うというのは、こうして見ると決して偶然ではないことがわかるだろう。阿尾氏が古谷や佐郷屋といった極めて川島芳子に関係の深い人脈と状況に身を置いていたことが読み取れるのである。阿尾氏は佐郷屋のタンスにはいつも多額の現金が収められていたのを目撃している。つまり佐郷屋は自分の意志で浜口首相を暗殺したのではなく、誰かの指示と出獄後の生活の保障を受けて浜口首相を暗殺したのであろう。彼ら玄洋社系の右翼には香港のユダヤ系財閥の金銭的援助があったという黒い噂もある。

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2016年04月03日

川島芳子は生きていた(34)白光の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載
白光は李香蘭らと共に日中戦争期に活躍した中国人の映画スターで歌手である。東京女子大学へ留学経験があり日本語ができるため日本軍の宣伝映画などに出演していたこともある。川島芳子の初恋の相手で李香蘭を歌手としてスカウトした日本陸軍の山家亨と一時期は同棲生活を送っていた。また中国国民党のスパイの親分だった戴笠とも愛人関係にあったようなので、美貌を利用した二重スパイの役割を果たしたのであろう。

彼女が台湾を訪問した際に蒋勲という人からインタビューを受けた記事が『雄獅美術月刊』1978年5月号第87期という中国語の雑誌に掲載されているそうだ。その記事が2011年に舞台で演じられた白光の一生を描いた劇「如果没有你」のパンフレットに再録されている。下はそのパンフレットだ。

白光白光2

この記事の中で白光は1947年に川島芳子に出会ったと述べている。白光によれば川島芳子は死刑を替え玉ですり替えて死刑を逃れて、米国からの依頼で外モンゴルの独立運動に関して情報活動を行っていたという。この記事が正しいとすると川島芳子の処刑は公式には1948年3月だから、すでに1947年の時点で川島芳子が監獄から外に出されて身代わりとすり替えられていたことになる。

また川島芳子の替え玉がソ連と米国の働きかけによるものであったとすれば、川島芳子の死体の撮影を許されたのが米国人記者だけであったことも納得がいく。米国人記者の報道は川島芳子を逃がすためのオトリ報道だったのである。米国はヤルタ会談で外モンゴルを中国とソ連の緩衝地帯として独立させることで密約があったようだ。川島芳子はモンゴル人のカンジュルジャップと結婚し、モンゴルで一時期生活したことがあるためモンゴルに人脈があり何らかの情報活動に携わるのに便利な存在だったのだろう。

 なぜ米国が川島芳子を助けたかというと、東京裁判で日本の戦犯に不利な証言をした田中隆吉は、以前の恋人であった川島芳子を助けようとマッカーサーに川島芳子が隠し持っていた清朝の財宝の一部を贈ったという。その中でも特に値打ちがあったのが赤い琥珀で、元は西太后の持ち物だったが溥儀により川島芳子に贈られた大変に珍しいものであった。これらの清朝財宝により買収されたマッカーサーの指示もあり、米国が川島芳子の救出に関ったという話がある。

以下は原文の中国語
2011年云门演出编舞家林怀民的舞作《如果没有你》的节目单转载1978年5月第87期《雄狮美术月刊》美学家张勋访问白光的文章《向生命投降-访白光》有一段川岛芳子的事。
------------------------------------
「打不打算写一点回忆录之类的东西?」我想应该结束这次访问了,就转入这个话题。
「我自己的?」她说:「没有。我在写一个朋友的故事。我最好的一个女朋友。她在日本侵华计划下,从小被训练成一个情报员,给日本军阀工作,然后卷入中国抗战时几个不同政治组织的斗争中,然后抗日战争胜利了,她以战犯的名义被捕,报上大登特登:XXXX被枪毙。可是他并没有死,美国人花了六根金条买了一个不知名的女人,拉到刑场上代替她就枪毙掉了。她又继续被美国人利用做间谍。我最后一次见她是1947年,美国人送她去外蒙古,准备做控制外蒙的前锋。」她听了一下又说:「这就是人,你认识她,你才知道她其实多么简单,善良,应该是一个普普通通的女人,可是她的一生给几个政治组织在做贱。现在,不知道她还在不在。」
「好像是川岛芳子的故事。」我说。
「就是她。我最好的一个朋友。」
「她太出名了。」我说:「我倒在想那个不知名的女人,给人用六根金条买了。拉到刑场无声无息的就枪毙了。她不应该向生命投降,如果生命是这样子。她应该站起来,用拳头把这样的生命砸的粉碎。」

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2016年04月02日

川島芳子は生きていた(33)金塊で替え玉を買収

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

川島芳子処刑のニュースから数日もしないうちに、北平の新聞には再び金璧輝(川島芳子)のニュースが紙面を賑わし、静かになったばかりの北京は再び震撼することになる。
最新ニュース「金璧輝(川島芳子)の死刑の替え玉となったのは劉鳳玲」
事情は次のようなものであった。名を劉鳳貞という女性は、死刑の替え玉となった劉鳳玲の妹であるが、前後して二度も河北高等法院検察所と新聞社に投書して、(もう一つの説は替え玉の妹である劉鳳貞は南京国民政府監察院に訴えたという)彼女の姉が金で買われて替え玉となった詳細を暴露して訴えた。
一通目の手紙にはこのように書いてあった。

新聞

「私の姉は劉鳳玲といい、親孝行で外見が金璧輝に似ており、日本語も出来ました。私の母親は義理の兄である劉仲儕の甘言に乗って、私の姉を十本の金の延べ棒で売りました。」
「刑が執行される夜に、私と母は姉を監獄の官舎に送り届けて、監獄二科の万、王の二人の科長と典獄長呉さんに会いましたが、彼らは四本しか金の延べ棒を渡してくれず、残りの六本は後で渡すといいました。母親は後悔して泣きだしやめると言い出しましたが、三人の役人は怒って、『お前たちがまた来たら、三人ともみな殺しにする』と言いました。私たちは怖くなって、姉は胃の病気で死ぬ身だし、親孝行にもなるからと、母親を説得して家に帰りました。」
「劉仲儕が後で言うには、金璧輝(川島芳子)は女子監獄から庭に出てきた所で、私の姉と入れ替わり、小門から東北に逃げたということです。」
「劉仲儕は阿片製造の罪で収監され、刑が満期になった後で、私の姉を売った金の延べ棒をネコババして職員の地位を買収した。刑を受けた人間が、官吏になれるなど全く不思議だ。」
「王科長は家で座っていながら看守の禄を貪り、呉典獄長は大金持ちになった。王科長は民国三十一年に第一監獄の科長となり、賄賂を好み、陳医官、秋専門員らも皆呉監獄長が金儲けするのを助けている。私は彼らを恨むのではないが、彼らが金の延べ棒が少ないと、私たち親子を害するのを恐れる。」

この一つ目の手紙が出されて数日もしないうちに、法院と新聞社はさらに劉鳳貞からの二番目の告発文を受け取った。

「四月十九日の夜に、私の母親劉李氏は呉典獄長と、万、王の二科長と秋専門員に会って、私の姉が金璧輝(川島芳子)の替え玉となって銃殺された身代金の残り金の延べ棒六本を要求したが、万・王の二人の科長に殴られた。呉・秋の二人は『お前たちは生かしておけぬ!』と脅したので、母親はそれ以上は言えなかった。」
「私の母親はそれから義理の兄の劉仲儕を探して説得したが、モルヒネ製造で捕まって、なおかつ金で事務員の地位を買った劉仲儕に説得など効くはずもなく・・・・・・」
「四月二十日の夜、私の母劉李氏は再び第一監獄に行き、呉典獄長、万・王二科長、秋専門員に金を要求したが、その日以来母親が戻ってこない。私が劉仲儕に訪ねると、『お前も早く逃げないと命が危ないぞ』と言った。私はすぐにあちこちへ身を隠し、表に出られなくなった。私の姉は替え玉にされ、母親の命も取られてしまった。どうぞ法院で調査してください。」

疑問の余地なく、手紙の差出人がこの二つの手紙を発表したことにより、金璧輝(川島芳子)が処刑に「替え玉」とすりかわった内幕を暴露しただけでなく、第一監獄に金璧輝(川島芳子)の死刑に賄賂が使われて汚職により法が曲げられたという幾多の事実を暴露することとなった。劉鳳貞が新聞にこの驚くべき事情を明らかにした後、南京政府の腐敗ぶりに失望し、憤りを抱いていた北平市民たちは疑問を抱くと共に、徹底的にこの事件の裏を調査するように要求した。
ことがここまでにいたっては、国民党の北平当局に巨大な圧力を与えざるを得ず、さらに加えて国民党がけし掛けたはずの内戦ではすでに国民党の全国統治風前の灯のような状態であった。この情勢に押し切られて、国民党北平当局は人々の不満をやわらげるための政策を取ることを強いられ、新聞上に大きな紙面を割いて、記者の取材調査報告を発表させた。そのなかには、女子監獄主任趙愛貞のインタビューや、死刑を執行した当事者の談話、看守長の証明があった。死体を引受けた日本人古川大航のはっきりしない言い方も、市民の疑問を解くためであった。
その後に、当局は以下のような文書を発表した。

「劉鳳貞が典獄長を収賄で告訴した案件は棄却
 監督部門が調査し全くの虚構と判明
法院の命令により河北第一監獄長呉峙沅らが賄賂を受け取って金璧輝(川島芳子)を逃がしたとされる事件を調査し、ここにその調査結果を謹んで報告する。
(一)執行経緯:記録によれば、河北高等法院検察処は今年三月二十四日、核丁学第一八三号に基づき、河北北平第一監獄典獄長呉峙沅に訓令し、最高法院検察署寅魚捷事一六号代電により主席検察官は命令に従い、当該犯人金璧輝(川島芳子)を取り調べ、本人であることを確かめて、法に基づき死刑を執行した。今月二十五日午前七時に、本院は検察官何承斌を派遣して、命令どうりに執行されているかを監督し、協力して執行した結果を報告した。この事件調査の責任者である検察官何承斌は命令を受けた後、二十五日午後六時ごろに、書記官、法医、警吏などを率いて、第一監獄に赴き刑を執行した。監獄へ到着後に当該監獄の科を主管する王科長が女子監獄へ行き金璧輝(川島芳子)を引き取りに行き、女子監獄主任の趙愛貞が金璧輝を監房から呼んで女子監獄の横門で王科長に引き渡し、王科長は金璧輝を高等検察所の警吏に引き渡して処刑場に連行した。処刑場についた後に、検察官何承斌は自ら確認をして、金璧輝(川島芳子)本人に間違いないことを確かめ、遺書を残すかどうか訪ねた後、刑執行を宣告し、再び同じように検分して、三回にわたり確かめ、すでに死亡していたため、監獄吏に命じて、死体を後ろ門の外に運ばせた。これが当日の死刑執行状況の概要である。
(二)告訴内容:
(劉鳳貞の二つの告訴状と同内容のため略す)
(三)事実分析:
一、第一の告訴状の情況によれば、被害者劉鳳玲は金璧輝(川島芳子)の替え玉となって死ぬことを甘んじて受けたのであり、その原因は親孝行であったからで、その代価は金の延べ棒十本で、その動機は母が義理の兄劉仲儕の言を容れたことで、選ばれた原因は「外観が金璧輝に似ており、日本語が出来た」という以上四つの原因により、死刑の替え玉となったとされている。しかしその挙げたところの紹介人である劉仲儕は、一貫して義理の妹に劉鳳玲なる人間がいたことを否認しており、かついかなる親戚友人関係も、さらにはその人との面識も否認している。かつ告訴人が顔を出さず、また住所もなく、その紹介人とされている人間もそのことを否認していることから、告訴人が姿を現して質問に応じない限りは、劉仲儕が否認していることを嘘と証明することが出来ない。この理は明らかである。
二、その告訴状に述べるところによれば、「劉鳳玲は胃の病気を患い余命幾許もなく、また親孝行にもなるからと、母に家に戻るよう説得した」とあるが、胃の病気を患い余命幾許もない人間であれば、その病気の程度が重いはずである。金璧輝(川島芳子)が死刑を執行される前には、健康は普通で、余命幾許もない病人が健康正常な人間の替え玉になれば、たとえ告訴状の言うように「外観が金璧輝に似ていて、日本語ができた」にしても、その健康状態は、大きく差があり、このように死刑執行検察官をだまそうとしても、その検察官が騙しとおせるものであろうか。
三、「金璧輝(川島芳子)が女子監獄から庭に連れ出され、劉鳳玲と入れ替わり、小門から東北に向かって逃げた」とあるが、女子監獄の主任趙愛貞の供述によれば、「本監獄王科長が女子監獄に来て金璧輝(川島芳子)を要求したので、自分が金璧輝を女子監獄の側門から連れ出して、王科長に手渡した。」と述べており、また「私は側門の外側で、王科長が金璧輝死刑囚を女子監獄側門から刑場に連行するのを見た。」と語っている。その後にその場にいた警護人員、当該監獄科員秦紹武に供述したところによれば、本監獄王科長は金璧輝死刑囚を女子監獄側門から連れ出し、高等検察所の何検察官が連れてきた法官に手渡し、刑場へ連行し、その場で何検察官が本人であることを確かめ、姓名、年齢、本籍を尋ね、遺言を尋ねるなど各種の手続きをした後、何検察官の命令で刑執行人により執行された。また当該看守の饒希曽に質問したところ、このものは当日の刑場で警護責任者であったが、確かに処刑されたのは金璧輝本人であったと認めた。すなわち金璧輝死刑囚は女子監獄の側門よりでた後、高等検察所の法官が連行したことは事実であり、女子監獄と刑場の距離はわずか五〇ヤードで、法院唯一の小門すなわち非常門とは距離が七、八〇〇ヤード隔たっており、告訴人の言うようなことは、大勢の人が見ている中で不可能な事である。
四、「劉仲儕が刑を受けたことがある人間で、事務員の地位を金で買った」とか「呉、王、万、秋は賄賂で財を成した」などは本件とは関係なく、別の収賄事件とする。
「母は四月二十日晩に受け取っていない六本の金の延べ棒を要求しに行って、それから帰ってこない」、また告訴人が「あちこちに身を隠して、身元を明らかに出来ない」。上述の通りであるとすれば、告訴人の劉鳳貞は、その姐を金で売り母が失踪した後に、仇を討つためには、当然名乗り出て治安機関に保護を求め、社会の援助を求め、母と姉の仇を討つのが当然であるのに、ただ「身を隠し、身元を明らかにしない」のは、世の愚か者が出てくるのを恐れているのであり、でたらめを言っているのは、別の意図があるからであることが想像できる。
(四)告訴への疑問
一.告訴状の各段を見て、もし仮に賄賂があったという部分が事実であるとしたならば、請負人はすでに賄賂と誤殺人犯の二種の罪状があるのに、なぜ再び本件とは無関係の賄賂事件を持ち出す必要があるのか。もし告訴人がか弱い女子の身で、自分の母と姉の命が奪われたというなら、どうして監獄の過去の様々な汚職事件を詳細に知ることが出来たのか?疑問の一つである。
二、告訴人が告訴状に述べるような被害を受けたなら、即ち姉が金十本で命を売り、親孝行であったなら、告訴人は母と妹の仇を一身に担っているのに、どうして恐れて隠れるのか。これが疑問の二つ目である。
三、査察団が任務執行期間中に記録を調べると、過去の匿名で呉峙沅等を訴えた二つの告訴状にある告訴人の筆跡と本案の筆跡がよく似ており、さらに紙質と紙の大小も似ており、同一人物の手になるものが明らかである。劉鳳貞の告訴とどんな関係があるのか、たまたま代書しただけであろうか?全く理解しがたい。これが疑問の三つ目である。

この長大な文章の目的は、ほかでもなく北平市民に「替え玉」など存在しないと言わんがためのものであった。しかし、結果としては逆に民衆に疑わしい感覚を与えただけであった。当局が隠蔽しようとすればするほど、かえって怪しく思われてしまうだけであった。この文章の発表後に、あの「替え玉」の妹であった劉鳳貞も姿をくらまし再び姿を現すことなく、果たして当局に口を封じられたものか今となっては知るすべもない。
国民党政府当局はこのように不細工にもそそくさと金璧輝(川島芳子)事件への処置を終了したが、民衆の心には消しがたい懸念と謎を残したのであった。
一九四八年十二月上旬から一九四九年一月三十一日、天津戦役が終了後に、北平は平和的に解放され、人民共和国の首都北京となって人民の手に帰り、北京市民は新しい心持で偉大な祖国の建設を開始し、金璧輝(川島芳子)の死刑の謎は徐々に人々の記憶から薄れていった。

川島芳子の刑死は六十年余り経った今日でも、やはり彼女自身の足跡と同じくミステリーであり、世紀を超えて歴史的懸案となっている。もし、画家の張玉が祖父段連祥の遺言を世に明らかにしていなければ、おそらく川島芳子の生死の謎はそのまま謎であり続けていただろう。
川島芳子の養父川島浪速は一九四八年十二月十二日に親友の滝沢徳太郎への手紙の中で次のように書いている。
「中国の《大公報》の報道によれば、川島芳子の死刑は実際には執行されておらず、、処刑されたのは替え玉だった。新聞に載った死体の写真は現代中国風の長髪だった。彼女と一緒に生活していて、先に釈放されて帰国した小方八郎は、彼女は男のように短い髪にしていたから、処刑されたのは川島芳子司令ではありえないと言っている。」
古川大航も次のように述べていた。
「死体は血まみれで判別し難かった。ただ髪の毛は肩まで伸びて長かった。」

川島浪速のこの手紙は現在も米国国立公文書館に保管してあり、すでに英訳も添付されている。
当時古川大航が一九四八年九月に、いわゆる「川島芳子」の遺骨の半分を川島浪速に手渡すと、川島浪速は川島芳子の遺骨の安置を手配し、長野県松本市黒姫山雲竜寺の永井徳温住職に託した。
永井徳温の一九六五年の回想によれば、「浪速先生は夫人と芳子の遺骨を一緒に私の寺に預けた。当時も芳子の替え玉説があったが、浪速先生は『たとえ替え玉でも供養しなければならない、もし芳子本人ならなおさらだ。』と言って私どもにあつく供養させた」。

二〇〇八年九月二十四日、日本に留学中の中国人学生孫洋が日本の名古屋市から日本の川島芳子の資料を送ってくれたが、その中には「川島芳子生死の謎」に関する次のようないくつかの噂が含まれていた。
一、日本政界で親中派の政客であった藤山愛一郎が一九五五年バンドン会議に参加した際、渡航前に周恩来首相と面識のある吉薗周蔵を訪ね、周恩来宛ての紹介状を書いてくれるよう頼んだ。すると、吉薗周蔵はそれと引き換え条件として、藤山愛一郎にことづけて周恩来にあったら川島芳子は生きているのかどうか尋ねてほしいと頼んだ。藤山愛一郎は会議の間に周恩来と親しく会見し、吉薗周蔵からの紹介状を手渡すと共に、吉薗周蔵の名義で周恩来に「川島芳子が生きていると聞きましたが本当ですか?」と尋ねた。周恩来は日本の友人からの言伝を拒否することもなく、「そんなことは答えられる問題ではありません。ただ吉薗先生にはこうお伝えください」と言いながら、手で丸を描いた。藤山愛一郎は帰国すると吉薗周蔵に周恩来からの挨拶とともに、その問題への回答も伝えた。
二、一九九七年八月、日本外務省出身の某議員が日本海軍の特務機関にいた塚田という人物から聞いた話として、川島芳子は金の延べ棒五本で命を贖ったあと当局に軟禁されたと述べた。
三、川島芳子が死刑を執行される十日前に外国人のAP特派員が監獄で単独取材をした。その時、この特派員はその眼で川島芳子が男のような短髪であったのを目撃している。しかし処刑されて公開された死体の髪の毛は首に巻きつくほど伸びていた。
四、二〇〇二年日本ABC記者が愛親覚羅・連伸の紹介で東北地方の暁玲という女性を取材した。この女性が言うには、川島芳子は一九四八年に死刑を逃れた後、中国に残留した旧日本軍人である松本章と結婚し、一人の娘を産んだが、それが彼女暁玲だという。ところが、一九五三年に川島芳子と松本章は自宅で何者かに殺害された。当時、わずか四歳だった暁玲は親切な人に養子にもらわれた。暁玲が大人になった後に、養父母は彼女に出生の秘密を語って聞かせた。愛親覚羅・連伸によれば彼女は「川島芳子」の祭壇に花を供えているという。
 現在、こうして日本に流布している川島芳子の生死の謎に関する数々の噂は、「川島芳子生死の謎」が半世紀以上にわたってずっと議論され、いまなおその余波が続いていることを示している。

我々は当時北平当局が川島芳子を審理した機密文書を手に入れることができた。『川島芳子の秘密―国民政府金壁輝審判文書』というもので牛山僧の編集により香港で少数出版されたものである。当該資料の中には、国民党軍統調査室の尋問記録、検察官の告訴文書、裁判官の審理記録(筆記)、被告の自白と抗告、弁護人の弁護、裁判所と検察院の往復文書、すべて原資料のコピーであるが、その中に意外な発見があった。当該文書の第三十八巻の中に「古月山人」という匿名の人物が、金壁輝に「災いを転じて福となす策」を書いて寄こしているのだ。その文書は以下のようなものであった。

 「大恩人さまがお書きになった手紙を受け取りびっくりしています。私めは今日南京より古都へ戻り、ついでに福星の行方を尋ねますと、すでに北京にきて数日になるとのこと。どうぞ大恩人さま早急に訪ねてください、機会を逃して後から後悔しても遅いのです。さもなければ私めがせっかく恩返しをしたくても無駄になってしまいます。どうぞ大恩人さま疑わないでください。試みに人生の危うさを考えてください、朝に生まれ夕に死ぬものがどうして謀略に打ち勝てるでしょうか。ただ勇敢な者だけが打ち勝てるのです。いま私めは恩に報いるために、危険を顧みずに機会を探っているのです。大恩人のために災いを転じて福となす計画を考えたのに、なお疑って決心しなければ、災いが降りかかってから後悔しても遅いのですよ。どうか考え直してください。私めが早く北京に戻ったのも、この事のためです。明日の朝処刑場に向かわれるときに、この手紙は燃やして、ほかの人の目には触れないようにしてください。さもなければ効力を失ってしまうばかりか、大きな災いを招きます。これは大恩人さまの生死にかかわることですから、決しておろそかにしないでください。金壁輝大恩人さまへ。
古月山人
北京東四九条金宅
金壁輝様親展
古月山人封」

この手紙の文面を表面的に見ると次のことが読み取れる。
一、送り主の古月山人(筆名か号)はかつて川島芳子に救われたことがあるか、財政的援助を受けたか、その恩返しのために動いている人物である。
二、古月山人は南京国民政府の人間か、あるいは国民党軍統の成員か、あるいは南京当局の権力者とつながりのある人物である。
三、この手紙は同じような内容の二番目の手紙で、しかも処刑の前日(一九四八年三月二十四日)に送られている。当事者は大恩人(川島芳子)に最後の機会(救出の)を逃すことないよう忠告している。
四、手紙は川島芳子の手に渡ったが、なぜか焼却処分されず、この裁判の関係者により資料の中に入れられたのは、後世の人に示すためであろうか。川島芳子がなぜ焼却処分しなかったかといえば、おそらく生死の境を前にしてそれどころではなかったのであろう。
 総じて言えば、この手紙が伝えているのは次のような情報である。川島芳子を救い出す秘密の計画があり、最後の最後にいたる直前まで、緊密に連絡を取り指示をしていた人物がいるということだ。

2016年04月01日

川島芳子は生きていた(32)川島芳子の処刑と逃亡

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

一九四五年十月十一日夜、国民党「軍統」(軍事統計調査局)の北平第二粛奸小組が、北平東四楼牌九条公館の大門を叩き、川島芳子の逮捕を実行した。はじめは国民党第十一戦区長官孫連仲司令部の倉庫部屋に拘留された。その年の十二月に、彼女は北平第一監獄に移された。
その後は、大体毎月一回は川島芳子に尋問が行われた。最初の段階では、彼女の国籍問題がおよそ論争の焦点となった。その後、法廷は川島芳子を中国人金璧輝として審判することとした。中国の法律によれば、「中国人が中国に対し不利な事を行った場合」は漢奸罪が適用されることになっていた。こうして、川島芳子は死刑判決を受けることとなったのである。
川島芳子は事実上日本人川島浪速の養女であったが、しかし日本の戸籍上は正式な手続きが行われていなかった。
一九四七年十月二十二日、検察官の起訴に基づき、川島芳子に河北法院から死刑が宣告された。その主要な罪状は以下のようなものであった。

(一)被告がたとえ中国と日本の二重国籍を有していたとしても、その父(清朝)粛親王善耆は疑いなく中国人であり、これにより漢奸罪が適用されるべきである。
(二)被告は日本軍要人と密接な交際があり、上海で「一・二八事変」(第一次上海事変)のさい、上海でダンサーになるなどしてスパイ活動を行った。
(三)「満州事変」後に、被告は関東軍と関係を保持し、満州安国軍を組織した。
(四)溥儀と婉容の天津脱出を手伝い、満州国建国の陰謀に加担した。
(五)各方面から提供された証拠に基づき、被告を漢奸罪、スパイ罪と判決し、国際スパイ処罰条例第四条第一項に基づき、被告に死刑を宣告する。

死刑を宣告された後も、川島芳子は生への望みを捨てなかった。死刑執行前の五ヶ月間に、彼女は何度も養父川島浪速に日本国籍の証明を送るよう手紙を書き、養父に彼女の出生日を十年遅らすように頼んだ。そうすれば、満州事変の際に彼女は十五〜六才の少女ということになり、そのような重大事件に関わることはできないと主張するつもりであった。その他にも、彼女は手紙で養父に彼女を多方面から死刑を逃れる方法を講じてほしいと頼んだ。その他、川島芳子が最大の希望を寄せていたのは、愛新覚羅家と彼女の兄である憲立らが、彼女の為に金を「替え玉」を用意することであった。

一九四八年三月二十四日になると、すでに死刑が宣告されていた川島芳子が数ヶ月行ってきた刑を逃れるための努力はどれも功を奏さなかったように思えた。
二十四日の夕方、河北省高等法院裁判長、検察官、北平第一監獄天国長は突然に省高等法院の会議室で会議を開いた。人々はこれはきっと川島芳子の死刑と関係があると推測した。様々な動きから見れば、明日の二十五日が執行日だと、人々は噂した。
確かに、二十五日明け方四時ごろ、実弾を込めた銃を担った軍警を満載した軍のトラックが、省高等法院から北平第一監獄に到着すると、軍警たちは第一監獄の周囲を厳しく警戒し始めた。朝六時に、一台の黒塗りの乗用車が監獄の大門に入ると、薄暗い朝方の光の中で、車から執行検察官、書記官、検験員の三人が降りてきた。
監獄の後ろの庭の西南の角には畑があったが、そこを臨時の刑場として一台の長方形の机と三脚のイスを並べた。机の上には硯と巻紙が置かれ、いたって簡単な配置であった。川島芳子がこの小さな刑場に引きずり出されると、刑場は水を打ったように静かになり、人々は声をひそめた。執行検察官は形式どうりに被告の姓名、本籍、年齢などを尋ねるとこう言った。
「金璧輝!お前の抗告は棄却され、その裁定書は昨日の夜に手元に届けたから、すでに承知のことだろう。本検察官は命令に従い今日お前に死刑を執行するが、何か言い残すことはないか?」
しかし、川島芳子は何も言わなかった。続けて、習慣どうり死刑犯への二個の饅頭を与えようとしたが、川島芳子は受け取らなかった。ちょうどこの時に、監獄の大門の外からますます大きくなる人声が聞こえてきて、刑場の静寂を破った。それは監獄の大門の外で夜中から張っていた記者達と市民の叫び声で、門をドンドン叩く音と共に、「門を開けろ、門を開けろ、中に入れてくれ!」という声が聞こえてきた。
この時に執行検察官が手を振るうと、二名の法官が川島芳子を支え、一人が身を翻すと、彼女を後方に数十歩退かせ、それから彼女の肩を抑えて、川島芳子は検察官を背に声を出すことなくひざまづいた。法官が身を避けて遠ざかると、この時に一人の頚執行官が銃を掲げ、川島芳子の後頭部から銃弾を打ち込み、川島芳子は銃声と共に倒れた。用いられたのは「爆裂弾」で、死者の後頭部から打ち込まれ、顔の額の部分が爆発で裂け、頭部は血漿と泥にまみれていた。
執行検察官が腕にある時計を見ると六時四十分であった。この時、ようやく黎明の曙光が徐々に天を照らし始めた。検死官は死体を検分するために、いまだ硬化していない死体のほうへ向かったが、死者の顔はすでに血漿によって黒ずんだ泥土にまみれており、完全にはっきり顔を確かめることは出来なくなっていた・・・・
監獄の大門の外では徹夜で待っていた人たちが、先を争って門を入って女スパイ川島芳子の最後を見ようと騒いでいた。しかし監獄の中から聞こえた一発の銃声は彼らの希望を打ち砕き、彼らの憤激を引き起こした。北平の十数社の大小の新聞社から来た写真機を手にした外回りの記者たちは全て入場を拒否され門外に留め置かれた。怒り狂った群集は、新聞記者たちと一緒になって門を叩いたり蹴ったりしていたが、重い鉄の大門はびくとも動かなかった。

二十五日午前九時前後に、一台のアメリカ式ジープが監獄の前で止まり、車からはアメリカ人記者が降りてきて、人ごみを掻き分けて、鉄の門扉を叩いて叫んだ。
「ハロー!門を開けてくれ!」
この外国人の叫び声を聞くと、監獄の鉄の門扉にあるのぞき穴がすぐに開いた。門衛の軍人は金髪碧眼の外国人が門で叫んでいるのを確認すると、いささかも躊躇わずに、このアメリカ人記者の名刺を持って指示を仰ぎに行った。戻って伝えられた回答は、川島芳子は国際的なスパイであるから、外国人記者の取材は許可しようというものであった。そこでこのアメリカ人記者だけが中に入れられたが、中国人記者は一人も中へ入ることを許されなかった。
監獄のこうした外国人だけ優遇するやり方は、民衆の怒りを買ったばかりでなく、さらに待機していた数十名の中国人記者たちの怒りを引き起こし、彼らは抗議のため声を大きくして叫んだ。
「外国人だけに媚を売るな!どうして外国人記者だけに取材させて、自国の中国人記者に取材報道させないんだ。」
「お前たちは何かたくらんでいるだろう!どうして公開審判だったのに、秘密に刑を執行するんだ?」
「どうして執行後にも取材を許可しないんだ?」
しかし、人々がどのように叫んでも、鉄の門扉は堅く閉じられたままであった。
AP通信記者が川島芳子の死刑執行後の写真を撮影し「独占配信」することになった後、川島芳子の死体は監獄の門外に運び出された。

死体

おおよそ、一週間が過ぎたころに、再び門のところに人がやって来た。やって来たのは身を袈裟に包んだ日本人僧侶で名を古川大航と言った。この七十八歳の日本人僧侶は日本の静岡県興津清見寺の住職であった。一九三八年に日本の対中国侵略戦争がまさにたけなわのころ、彼はふらりと海を越えて中国の華北にやってきて、中国軍民の攻撃を受けて戦死した日本軍人のために冥福を祈っていたのである。日本降伏後に、彼はなおも北平の単牌楼観音寺胡同二十号の日本臨済宗妙心寺に住んでいた。
古川は法院に紹介状を持ってきて来意を告げると、門衛の軍人は指示を求めに奥へ行った。
古い板の上に川島芳子の硬直した死体が載せられ、その上にはムシロがかけられていた。周囲には二、三十名の軍官がとりまいて人垣を作り、野次馬たちが入り込まないようにしていた。古川大航はひざまづき、ムシロをあげて覗くと「金璧輝」の顔は血と泥土で汚れて、彼女の面影を認識することは出来ず、ただ長い髪の毛が方まで伸びているのを見た。死体を包んでいた灰色の囚人服が見えたが、「彼女」はがっちりとした、やや中太りしたような体格に見えた。古川は死体を見取ると、目を閉じて手を合わせて、口の中で念仏を唱えて、「死者」のために祈祷を始めた。一緒にやって来た川島芳子の親戚が泣きながら古川は持ってきた新しい敷布団を死体の下に敷き、さらに白い毛布で死体を包んで、それを新しいシーツにいれ、上に日本人が死人のために用いる覆いを掛けた。これらの処理が終わると、古川大航は荷役を雇ってきて、この死体を荷車に運び上げると、北平朝陽門外の日本人墓地に隣接した火葬場に運ばせた。
川島芳子が荼毘に付されると、古川大航は川島芳子は日中両国に属していたということで、彼女の遺骨を二つに分け、半分は中国に葬るために残し、もう半分は日本に持って帰った。古川大航と川島芳子の親戚が火葬上で「墓地」を選び、その後で遺骨を半分に分け、半分は遺骨箱にいれ、もう半分は骨壷に入れた。親戚は川島芳子の遺骨を入れた骨壷を、「墓地」に掘ってあった穴の中に入れて、「墓前」には小さな墓碑を立てた。墓碑には「愛新壁苔妙芳大姐之墓 昭和二十三年」と刻まれた。古川はもう半分の川島芳子の遺骨が入った遺骨箱を持ち去った。
一九四八年九月、古川大航はついにあの川島芳子の遺骨が入った遺骨箱を手に船に乗り日本へ戻ってきた。

二十六日は「金璧輝(川島芳子)」が処刑されてから二日目の朝であったが、北平の各社新聞は川島芳子が処刑されたというニュースの外にも、記者たちの連名の抗議書を掲載し、各種の疑問を引き起こすこととなった。これらの疑問は詳細かつ具体的で、ずばり核心を突いた理屈に合うもので、それらをまとめると大体以下のように集約される。

一、過去にはずっと金璧輝(川島芳子)の案件は見せしめの典型として、新聞ラジオで過剰なほどに宣伝して、破格にも立錐の余地がないほどの公開審判をやり、映画記録まで撮影しておいて、名前最後の刑執行の場面になって、こうも秘密裏にしかも急いで処理したのか、全く解せない。
二、どんな理由があって慣例を無視して、新聞記者が刑執行前の尋問現場を取材するのを許さなかったのか?処刑が何故これほど秘密に行われたのか?
三、一歩譲って、被告が脱走するのを防止するためあるいは思いがけない自体が発生するのを防ぐためであったとしても、何故処刑後にも現場と刑執行の情況を新聞記者に公開しなかったのか?さらに不思議なのはどうして中国人記者は門外で拒否され、アメリカ人記者だけが現場に入れたのか?
四、どうして死者の顔面部が血と泥ではっきりせず、誰だかわからないようになっているのか?
五、金璧輝(川島芳子)は男装で短髪がトレードマークで、公開審判の際にも人々にそうした印象を与えたのに、どうして使者の髪の毛は首にまとわりつくほど伸びていたのか?
六、どうして人の顔がはっきりわかりにくい薄暗い明け方の時間を選んで死刑を執行したのか?
これらの疑問により北平市民が一致して次のように疑った。三月二十五日の明け方に処刑されたあの長い髪の女性は、本当は金璧輝(川島芳子)本人ではないのではないかと。
北平記者が連名で出した抗議書の前文は以下のようなものであった。

「冀北高等検察処は昨日命令により金璧輝(川島芳子)を死刑にした際、冀北第一監獄は記者たちの入場を拒否し、本市の外回り記者連合会はこのため特に冀北高等検察と冀北第一監獄に質問を提出して、答えを請うために以下のごとく質問状を提出する。
関係者に金璧輝の死刑執行に関し、本会は会員報告に基づき、数点の質問を呈するものである。
(一)中国の各新聞社のデスク(中央社、天津大公報弁事所、民国日報北平弁事所、中電三厰、華北日報、明報、民強報など)は昨日明け方五時頃に高等検察所主任書記官陳潔夫の電話連絡を受け、六時に第一監獄へ金璧輝(川島芳子)死刑執行のニュースを取材に出かけ、各社記者は時間どうりに赴いたにもかかわらず、貴監獄が記者の入場を拒否したのはなぜか。貴監獄は司法部門であるのに、どうしてこのように言を反故にするのか。
(二)昨日明け方に米国の新聞記者は、貴監獄で許されて中に入り金璧輝(川島芳子)の死刑執行のニュースを取材できたのに、知らせを受けて取材に行った中国の記者三十人余りは門前払いを受けた。貴監獄官員によれば、昨日の金璧輝(川島芳子)の死刑は秘密執行の命令を受けたと言っているが、秘密執行でありながら、しかも記者の参加を許したのに、中国人記者三十余人が皆門外に待たされ、中国と外国の新聞にニュースを配信する中央社も例外でなかったのは、貴監獄のこの措置はいかなる法律に根拠があるものか?またいかなる心理によるものか?はたまた別の事情があるのか?我が会の会員は納得できない。ここに謹んで貴監獄にお答えを要求すると同時に、我が会は司法の尊厳と報道の自由が損害を受けたことに極めて大きな遺憾を表明するものである。」

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2016年03月31日

川島芳子は生きていた(31)川島芳子と戴笠

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

歴史的記録によれば、川島芳子は一九四五年十月十一日に北平の住まいで逮捕されたが、国民党軍統粛奸小組が逮捕した第一陣の対象であった。しかしながら、国民党北平当局による逮捕の過程と案件の処置においては、名実の伴わない個人的動機がかなり混じったものであったようだ。

歴史的記録によれば、かつて満州国安国軍司令であった金璧輝(川島芳子)は一九三五年初めに「関東軍」により職務を剥奪されて事情聴取を受けている。つまり、その時から川島芳子はすでにいかなる日本軍内部での身分も持たなくなったのであり、彼女はただの日本人川島浪速の養女であった。一九三五年から日本敗戦に至るまでの十年の間、川島芳子は天津で東興楼の食堂を経営したが、その期間は日本軍の駐華北の高級将官多田駿と密接な交際があった。しかし個人の身分で当時の日本陸軍大臣東条英機に自推で「日中和平工作」の仲介役を買って出た際には、東条英機の厳しい制裁を受けて日本から追い出されてしまったのである。こうして寄る辺をなくした川島芳子は故郷北京へ帰るしかなかった。この時期の川島芳子はたいした力のない品行不良な個人に過ぎなかった。それなのに彼女は華北政務委員会の大物漢奸である王揖唐・殷汝耕・斎燮元や、汪精衛政権の要員など重量級の漢奸と同様の待遇を受けているのである。その原因は一体何だったのか、我々は国民党の軍統内部から暴露された秘密から知ることが出来た。それは軍統北平弁事処主任馬漢三が背後で操った私怨から生じていた。

我々が調査した歴史資料によれば、国民党の軍統(情報機関)内部で、川島芳子の死刑問題に関連して、二つの派による勢力闘争が存在していた。軍統北平事務所の主任馬漢三を主とする一勢力は川島芳子の処刑を主張し、彼女を殺して口封じをしようとしていた。しかし局長戴笠をトップとする軍統当局者は川島芳子を生かしておき、馬漢三の裏切りと日本への敵通を調査する証人とすることを考えていた。馬漢三と戴笠はどうして一人は殺そうとし、もう一人は生かそうとしていたのか?その主要な原因は川島芳子の北京の住宅に隠してあった、清朝乾隆帝の宝物である九龍宝剣という一振りの剣にあった。この宝剣が原因となって、川島芳子は捕縛され、さらには戴笠の生命まで奪うことになるのである。

戴笠

一九二八年の下半期、東陵は大盗掘に遭ったが、それは国民党四十一軍軍長孫殿英が軍事演習という名目で、清朝の東陵にあった乾隆帝と西太后の墓荒しをしたことによる。一九三九年八月上旬に、孫殿英は沢山の宝物を持って重慶を訪問して、彼はまず国民党の軍統局長戴笠に面会し、いつもの通りに盗掘品の宝物を上納した後、戴笠にそっと打ち明けた。彼にはこれらの宝物の他にもっと貴重な九龍宝剣があり、それを戴笠を通じて蒋介石に渡したいというのである。この九龍宝剣というのは、乾隆帝の帝墓のなかから盗まれた宝物で、剣の長さは五尺、柄はやや長くそこには九匹の金の龍が象嵌してあり、「九九帰一」と至尊の皇位を象徴していた。剣の刀身は光り輝き、錆も欠損もなく、その鋭いことは毛が触れただけで切れ、鉄を泥のように切ったという。剣の鞘は高級なサメの皮で造られており、ルビーやダイヤモンドが沢山ちりばめられており、太陽の光をあびると、キラキラ輝いて眩しいほどであった。孫殿英はかつてこれを見せびらかして言った。
「この剣を得た後、私は密かに考証させたが、それによるとこの剣は乾隆二十八年、新疆、アフガン、バダクシャン、フェルガナ、カザフ各部落の使節が北京を訪れ、高宗乾隆帝に謁見した際に献じた宝物である。当時乾隆帝は玉座に座ってこの剣を帯びると、宮殿中が光で満たされ、光で目がくらみ、宮殿の中が天上の雲の上の世界のようで、朝廷にいた文武大臣はみなこれを称えた。乾隆帝は大いに喜び、特に龍泉と二字を命名し、使節と文武大臣に紫光閣で宴を賜った。これから後、乾隆帝はこの剣を愛して身から放さず、崩御するまで常に持ち歩き、遺言によりこの剣をともに葬り、永遠に離れることがないようにした。」
戴笠はこの情報を得た後に、各地を視察する機会を利用して、山西五台山孫殿英の部署にわざわざ出向いてこの宝物を受け取りに行った。

孫殿英はこっそりと戴笠の耳にささやいた。「この剣は私が東陵から盗み出した数多くの珍宝貴宝の中でも最も貴重なもので、この剣を得てからは秘密の場所に隠し、誰にも見せませんでした。いまこの宝剣を渡しますから、雨農(戴笠の号)から蒋委員長に献じてください。」

戴笠はこの剣を得た後、手にとってまじまじと眺めてみると、宝剣はたしかにその名にまごうことなく、今まで見たことのないような珍宝で、次のように考えた。確かにこの宝剣を校長(蒋介石)に献ずれば、校長の歓心を買い、信任を得るだろう。戴笠はこの宝剣を重視したが、まだ引き続いて中原に赴き各部隊を視察しなければならず、この剣を身辺に置いておくと徒に噂を招き万一の紛失することを恐れて、戴笠が河南林県を過ぎる際に、この宝剣を特務の馬漢三に自ら手渡し、よくこの剣を保管しておき、後々に彼本人が校長蒋介石に手渡すようにと命じた。馬漢三は元々は軍統北平区張家口察綏所所長であったが、このたび戴笠により配置換えされて軍統陜壩工作組組長となり、内蒙古一帯のスパイ活動を専門に受け持つこととなった。

馬漢三は戴笠の手中よりこの九龍宝剣を受け取ると、すぐにこの類まれなる宝物に驚かされた。彼にはその価値が黄金でも計算できないことがよくわかった。この宝剣を手に入れて後、彼は終日この剣に魂を奪われたかのように、食事ものどを通らないのであった。馬漢三はもともと非常に貪欲な男で、手に入れた剣を重慶に送り手放すのが惜しくなったが、またその後に載局長に罪を問われることを恐れた。いろいろ考えた挙句、ずるがしこい彼は、宝剣の上納をしばらくせずに、状況を見守ることにした。戴笠はしばらくしても馬漢三が宝剣を重慶に持ってこないので、至急電報で問い尋ねると、馬漢三はびくびくしながら戴笠に電報で答えた。宝剣はとても貴重なもので、現在の形勢は不利であるので、安全の為に宝剣は孫殿英のところに送り保管させ、時機を見て再度計画したい等々言い訳をならべた。戴笠が再び電報で孫殿英に尋ねると、孫殿英はとっくに戴笠に宝剣を差し出したはずなのに、戴笠が今になって再び宝剣を差し出せと言うとは、どういう意味かわから疑問に思うのみであった。その他に、彼はちょうど日本軍へ投降する手続きについて話し合っている最中で、その他のことを顧みる暇なく、そのためすぐに電報に答えなかった。戴笠は孫殿英が宝剣を手放すのが惜しくなりネコババしているのではと疑ったが、再びこのことを持ち出すの機会もなかった。孫殿英は日本軍に投降したことが明らかになり、宝剣を要求することはなおさらできなくなったのである。馬漢三はこうして幸いにも隠匿した宝剣を私蔵したままやり過ごすことができたのであった。

戴笠は馬漢三が大胆にも宝剣を隠しているとはまったく思いもつかなかった。彼はただ、この宝剣がなお孫殿英の手元にあると思っており、もう一方では、彼自身もすぐにこの宝剣を蒋介石に献じる気がしなかったので、真剣にこのことを調査することもなかった。こうして戴笠が目を放しているうちに、この九龍宝剣はまたも持ち主を変えることとなった。一九四〇年代初頭に、馬漢三は商人の身分で張家口一帯で活動していたときに、日本の特務機関が運営していた大隆洋行と接触した。馬漢三の金遣いが荒く、生活が豪華であったため、大隆洋行の影の支配人である日本軍特務田中隆吉の注意を引いた。

田中が特務を派遣して調査した結果、馬漢三の本当の身分がすぐに露呈し、田中隆吉はすぐに張家口特務機関長田中新一に指示を出して馬漢三を逮捕して尋問させた。馬漢三は自分が既に残虐な日本特務田中隆吉の手中に陥ったことを聞き、状況が好ましくないことを悟って、全ての情況を供述し、さらに命を助けてもらうために九龍宝剣を差し出した。思ったとおり、田中隆吉はこの宝剣を得た後にたいそう喜んで、馬漢三をの命を助けただけでなく釈放して、影で日本軍特務機関の為に働かせた。一九四〇年春、田中隆吉は日本軍部により日本軍山西派遣軍の少将参謀長として派遣され、同年十二月に、田中隆吉は山西作戦の指揮で失敗したため、免職されて国内での職に回された。田中隆吉は自身の仲間内で好き勝手に振る舞い、評判が悪かったため、帰国後の先行きに不安を覚え、中国で一番信頼できる人間を探して、九龍宝剣を保管させようとした。いろいろ考えた挙句に彼の頭に浮かんだのは以前の恋人であった川島芳子だった。

芳子のことを思うと、田中隆吉の心は底なしの沼に落ちて抜け出せないかのようであった。彼の心の深いところでは、以前に上海で芳子と過ごした美しい日々のことがずっと忘れられなかったのである。一九三二年初頭に、川島芳子が彼の下を離れて行ったのは、田中というこの重荷を遠くに捨て去りたかったからだということを、彼は知りすぎるくらいにわかっていた。彼のように独占欲が人一倍強い人間から言えば、惚れた女から捨てられるというのはこれとない屈辱であった。それで田中は悩み苦しみかつ怒り狂い、彼の手にある権力を利用して、一九三五年には日本軍に川島芳子を始末させようとした。それにより、田中隆吉と川島芳子は愛憎半ばした感情を骨にさらに一層深く刻み込んだ。しかし時が経つにつれて、芳子と別れてこの八年間というもの、芳子と過ごしたあの刺激に満ちた忘れがたい日々を思い起こすたびに、田中はなおも捨てがたくも苦しい恋の思い出がよみがえるのであった。

田中隆吉が手中の九龍宝剣を撫でながら、最終的に決断したのは、この世にまたとない宝をいまも忘れられない芳子に贈ることであった。そこで、田中隆吉は帰国の途上に北平に立ち寄り、わざわざ北池子に住む川島芳子を探し出し、九龍宝剣を贈って彼女の許しを求めたのであった。川島芳子も高価なものには目がない人間であったので、この貴重な宝物をひと目見てそれが自分の手に入るとなると、自然と機嫌もよくなり、以前の田中隆吉への怒りも恨みも消え去ってしまっていた。この宝剣に免じて、再び田中とベッドを共に温めさえした。しかし、川島芳子も田中隆吉もまだ気づいていなかったことだが、この九龍宝剣には手にするものに不幸と流血をもたらす呪いがかかっており、後々に川島芳子はこの九龍宝剣のために命を危険にさらすことになるし、戴笠も自分の命を失うことになるのである。

馬漢三は田中隆吉から釈放されると、彼のこの裏切りと敵への投降はいまだ暴露していなかったが、馬漢三の心は病的にも宝剣のことが気に係り、彼は常にこっそりと田中隆吉の行方を注視して追っていた。
一九四一年に田中隆吉が帰国した後、馬漢三は田中のような敗戦の将の身分では、この宝剣を日本に持って帰るような危険は冒すまいと考えた。そこで、馬漢三はあちこち聞き回り、田中隆吉が帰国前にどんな人間と接触したのかを調べた。こうして、彼はついに田中隆吉が帰国前に、北平へ行って川島芳子と密会していたことを知った。そこで、馬漢三は秘密裏に手下の特務を送り、日本側の情報を盗撮するという理由で、長期にわたり川島芳子の住所の周囲に潜伏し、情況を把握しようとした。

抗日戦争勝利後に、馬漢三は軍統北平事務所の主任、平津地区粛奸委員会主任委員、北平行営軍警督察処処長に任命された。馬漢三は宝剣を早く探し出すために、北平に赴任すると最初に手をつけたのは、始まったばかりの漢奸粛清を利用して、自から川島芳子逮捕の命令を下すことであった。川島芳子は九条会館の三重の門の中の四合院に居住していたが、馬漢三の右腕である鐘慧湘が人を率いてまる半日かかって、土地を三尺掘り進めて探し、ようやく川島芳子の住所の秘密の地下室に九龍宝剣を見つけた。一九四五年末に、戴笠がちょうど日本軍の漢奸特務を捜索していた時に、内蒙古方面の反共特務を組織して、内蒙古の広大な地区に派遣して活動させた。川島芳子は長期にわたり華北地区で活動し、またかつて蒙古族のカンジュルジャップと婚姻していたため、内蒙古方面の情況に比較的詳しく、彼女の手にある人間関係を利用することができた。そのため、戴笠は北平で秘密裏に北平第一監獄にいた川島芳子を尋問した。川島芳子はこの有名な載局長が自分と差し向かいに座るのを見て、すぐにあることを思いついた。彼女は戴笠が必要としている情報を提供する外に、戴笠があっと驚く秘密を密告した。それは軍統特務の馬漢三が抗日戦争時期に裏切って日本に投降したことや、彼女の家から九龍宝剣を持ち去ったということであった。

川島芳子が宝剣のことに触れたとき、本来の意図はただ馬漢三がこの宝剣を田中隆吉に贈ったことを証明して、彼が日本に投降したことを示そうとしただけであった。しかし意外にも、戴笠は「九龍宝剣」という四文字を聞くと、すぐに神経を緊張させ、すぐに孫殿英が当時彼に送った九龍宝剣のことを思い出し、詳細に川島芳子にこの宝剣の情況を尋ねた。川島芳子がこの剣の外観、長さ、剣の柄に彫られた龍および鞘の上にちりばめられた宝石の数や形状を詳細に戴笠に説明すると、戴笠はすぐにこの剣が孫殿英が差し出したあの九龍宝剣であると断定し、数年来心にひっかかていた疑問がついに解けたのである。自分がずっと追い求めてきた九龍宝剣がいまだ馬漢三のところにあると知り、馬漢三が影で団体を裏切り、国家の異族に歯向かったことを知ると、大きな怒りが心中に巻き起こり、すぐにでもその肉を食らわなければ気がおさまらないほどであった。そこで、戴笠は心腹の秘書龔仙舫を呼んで対策を密かに話し合い、まず龔仙舫が馬漢三に話を伝えることに決定した。そのさいただ「金璧輝の家から出てきた宝剣」のことだけを尋ねて、その他のことは話さないこととした。龔仙舫が宝剣のことを話すと、馬漢三はすぐに内情が暴露されたことに気づいたが、その場では調子を合わせるふりをして、すぐに宝剣を差し出して、彼がいかに命をかけて宝剣を保護してきたかを釈明したが、このすぐにばれる嘘は当然謀略にたけた戴笠をだますことはできなかった。載局長は考えを表に出さなかったが、しばらく馬漢三を泳がしておき、しばらくたってから、手を出して彼を片付けても遅くないと考えていた。馬漢三はかねてより準備していた十箱におよぶ莫大な価値のある書画骨董、金銀財宝を宝剣と一緒に、自ら北平弓弦胡同什綿花園にある戴笠の住所に護送した。戴笠はよろこんで受け取り、馬漢三のこの忠実な行動に疑いを少しも抱くことなく、すぐにまえもって準備してあった軍統特務文強に宛てた手紙を馬漢三に手渡した。この戴笠の失策が、ついに彼を馬漢三の手により非命に至らせることとなる。馬漢三は戴笠がすぐに彼に手を下して殺そうとしないのを見て、先手を打とうと自分の秘書劉玉珠を呼び出して、二人で戴笠が文強に宛てた手紙を盗み見た。手紙には、戴笠のこの度の旅程が書かれており、まず天津に行き、その後青島に行き、上海に行く行程が書かれてあった。そこで馬漢三は先手を打って証拠を戴笠ごと隠滅することとした。そこで劉玉珠は車を駆って飛行場に急行し、二二二号戴笠の専用機を警備する特務に飛行機の中に入り安全情況を検査させるよう要求した。劉玉珠は軍統華北督導員という特殊な身分であったし、軍統内の特務はみな彼をよく知っていたので、誰も彼を疑うことはなかった。そこで劉玉珠はなんなく一人で飛行機に入り込み、馬漢三が彼に渡した鍵を使って、九龍宝剣の入った木箱を開けて、中に偽装した爆発力の高い時限爆弾を入れて、時限爆弾の時刻をセットした。

戴笠専用機は青島の滄口飛行場を離陸した後、濃霧が発生していたため、飛行時間がさほど経っていない間に、上海の龍華飛行場と連絡すると、相手方は上海方面が大雨のため、飛行機が着陸できないと述べたため、戴笠は南京に直行することに決定した。飛行機が南京地区の上空に差し掛かった際、大雨に遭遇し、さらに雲が低層に立ち込めていたため視界が悪く、飛行機は通常の飛行ルートから外れてしまった。午後十三時十三分、飛行機が南京郊外区江寧県板橋鎮上空に差しかかった時、劉玉珠が飛行機に仕掛けた時限爆弾が爆発し、飛行機はコントロールを失い、板橋鎮南の二百米ほどの高さの載山に激突した。飛行機には充分に燃料が備蓄してあったので、飛行機が墜落した後、雨の中でも火は消えず二時間あまりも燃えた後にようやく鎮火した。戴笠と同乗者十三人は全員死亡した。興味深いことに、戴笠が一生忌み嫌っていた十三という数字と、彼が水の欠乏により死ぬ運命という予言が、全て重なって的中した。三月十七日は陰暦の二月十三日、十三時、十三分、十三人が濃霧と大雨の中で載山で死んだ。戴笠の死体は困雨濠の水中から引き上げられた。さらに山麓には載廟があった。三月十九日、軍統成員の沈酔などは戴笠の遺品の捜索のため、わざわざ載山の飛行機墜落現場に踏み込み、古剣を探し出したが、この剣こそは戴笠が馬漢三の手中から奪還した九龍宝剣であった。この剣は烈火にさらされて、鞘と柄は共に毀損していたが、剣身は依然として鋭く光り、切れ味は鋭く、人々を感嘆させた。三月二十一日、国民党『中央日報』及びその他の新聞は戴笠の搭乗した二二二号専用機が青島から上海に行く途中に、南京上空で大雨に遭遇し、飛行機が江寧県で山に衝突し、戴笠および机上の人員全員が死亡したとのニュースを掲載した。

戴笠の死因は、『中央日報』のニュース報道により結論とされた。国民党全体および軍統内外な基本的にこの結果を受け入れている。こうしてこの事件の真相は隠蔽された。一時盛名を轟かせたスパイ王は、結果的に原因不明の死を遂げた。戴笠のような一代の英雄が、やすやすと馬漢三の手中に落ちたと言うことは、まさに信じがたいことであった。二年後に、戴笠が自ら書いた手紙に基づき、軍統局北総督察王蒲臣は、戴笠が生前に秘密裏に託した使命を果たすべく、馬漢三およびその一党の平津での行動を監視し、軍統局に戴笠の死が馬漢三の手によるものであるとの確実な証拠を報告した。軍統を受け継いだ毛人鳳は馬漢三らのグループを消すよう命令を下し、馬漢三と劉玉珠などを秘密裏に処刑し、内々に戴笠の死の謎を解決した。毛人鳳は川島芳子の生死に関する問題を処理する際に、戴笠が生前に残した遺言に基づいて妥当に処理するよう指令したであろう。

川島芳子の馬漢三が敵に投降したという供述と、九龍宝剣の行方をしゃべったために戴笠は生前に川島芳子のことを自己の忠実な部下である王蒲臣に任せ、川島芳子を生かしておいて馬漢三を処置する際の証人にしようとしたのではないか。馬漢三はすでに河北省高級法院に川島芳子を死刑判決を下すよう圧力をかけていたのだが、彼の勢力が失墜すると同時に、王蒲臣が馬漢三の地位にとって代わり、新たに川島芳子の死刑の問題を処理したと考えられる。当然、一九四七年十月にすでに川島芳子の死刑が宣告されており社会的影響も大きいため、判決結果を変えることはできずやむなく「替え玉」という方法によって馬漢三を除くのに功があった川島芳子を救った。我々が後に調査した結果から見て、川島芳子の保護のため北平から東北長春に護送した秀竹・于景泰・段連祥の三人は、軍統の王蒲臣など上層部の支持を受けていた可能性がある。この三人の中に軍統の成員がいた可能性があり、于景泰がおそらく軍統の特別任務を帯びていた可能性が高い。

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2016年03月30日

川島芳子は生きていた(30)川島芳子の遺骨発見

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

二〇〇七年十一月初め、我々研究団は証人逯興凱の「方おばあさんは夏は長春新立城に住み、冬は国清寺に行った」という証言に基づいて、川島芳子の国清寺での証拠探しに出かけ、何景方が浙江省天台県国清寺で探索を行った。探索の結果、国清寺の悠久の歴史と中国仏教会における重要な地位について認識を深めた。また国清寺が日本仏教天台宗の源流であり、日本仏教と切っても切れない関係にあることが分かった。そこから方おばあさん川島芳子が毎年冬に国清寺へ赴く理由を察することが出来た。

二〇〇八年、我々の研究はまた新たな進展を見せた。張玉の父親張連挙が次のように証言したのである。「一九八一年国清寺の一人の老僧が四平に来て方おばあさんの遺骨を持ち去った。」獅子像の中から出現した紙片から秀竹の実在が確認できたが、彼は一九四八年三月二十五日以後に川島芳子護衛の責任者でもあり、さらに秀竹の仏教法号は「広幸」であると推測された。我々はそこで、方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去った国清寺の僧侶は秀竹である可能性が高いと判断した。方おばあさん(川島芳子)の遺骨の行方を探し、《秀竹》が国清寺にいた証拠を探すため、日本のテレビ朝日撮影スタッフと共に、李剛の委託を受けた研究者の何景方と顧問王慶祥が二〇〇九年一月十六日―十九日再び国清寺を訪れた。

方おばあさんが住んでいた大家の逯興凱は方おばあさんが毎年寒くなる前に南の国清寺へ冬籠りに出かけ、いつも次の年の春に暖かくなってから新立城に戻っていたと証言した。しかし、方おばあさん(川島芳子)が毎年国清寺で半年も生活したというのは、これは女居士の身から考えて実際に可能なのかどうかというのが始終我々の心の中に一つの疑問となっていた。我々はこの点を確かめるべく、国清寺で実地調査を行った。
研究の便を図って、我々は寺院内の客室に宿を取り、数日を寒い部屋で精進料理を食べる「苦行僧」の生活を過ごした。四日の探索期間で、我々はこの寺の住職である可明方丈、徳の深い克慧、乗方、法方などの老僧を尋ね、また国清寺公安派出所の老警備員から事情を聞いた。また彼らの紹介を聞き、寺院の参観と宿での自らの体験により、我々は次のように感じた。一千四百年の歴史がある国清寺は歴代王朝の拡充と修理を経て、土地と建物をかなり多く所有するようになった。「文化大革命」の無情の歳月の間に、仏堂の仏像は重大な損失と破壊を受けたとは言え、すでに「人民公社」化した「国清寺大隊」はなおも存在していた。改革解放前に、寺院内に住んでいる僧と仏像を拝んで香を焚いている居士は今日のように多くはなかった。それゆえ、寺院を訪問する居士は男女に限らず、何らかの力が及ぶ限りでの生活手段があれば、寺院内の修行や寂寞にも耐えることができ、また食事や宿舎にも事欠くことはなかった。さらに方おばあさんは居士証を所有して合法的な身分だったのだから、たとえ「文化大革命」の時期でも、ここに住むことが出来たであろう。

このたび国清寺では我々は百を超える「参拝客」のための宿舎である「万字楼」、また賓客を招待するための「迎塔楼」と「貴賓楼」を見ることができた。また同時に数百人分の食事が用意できる二階建ての大食堂、また寺院の中の各隅に分布している小食堂と僧の宿舎があった。我々は以下のように想像した。国清寺のこの桃源郷のような世俗を離れた静かな地なら、方おばあさん(川島芳子)が後半生を過ごす場所として選択してもなんら不思議ではない。当然のことだが、長い冬季に川島芳子が南方のその他の寺院や場所に立ち寄った可能性も否定できない。

寺院内で、我々は出会う人毎に尋ねて、一九六〇年代から七〇年代にかけて、毎年冬にやってくる俗家の女弟子である「方居士」と法号を「広幸」と名乗る僧侶がいなかったかどうかを尋ねた。八十二歳になる可明方丈は両耳が遠くなっていたので、筆談で我々の質問に答えてくれた。可明方丈は十数歳の時に出家して国清寺に来て以来七十年にわたりここを離れたことがない。「文化大革命」で僧侶が散らされた時にも、可明方丈が「国清生産大隊」の労働責任者となっていた。一九九七年に彼は寺の住職(方丈)となって今に至る。しかし彼はこの女性の《方居士》についてまったく印象が残ってなかった。我々が《方居士》の写真を見せて知っているか尋ねた時も、彼は写真の人物を知らないと答えた。我々は紙の上に川島芳子と四文字を書いて、彼がその人を知っているかどうか尋ねると、可明方丈は我々に「これは日本の地名ですか、人名ですか。」と尋ねた。傍で待機しいてた延如さんが補足して「方丈は小説も読まないし、テレビや映画も見ないので川島芳子が誰かなんて知りませんよ」と述べた。

しかし我々が克慧と乗方の二人の僧侶を訪問した時、思いもかけない結果を得ることが出来た。
克慧法師は年齢八十歳、一九五七年に剃髪して出家し、一九六七年三〜九月紅衛兵により原籍の浙江象山の実家で半年を過ごした外は、国清寺で修行して五十年余りになる。我々が彼に三十数年前に女性の《方居士》という名前と《広幸》と言う僧侶を見たり聞いたりしたことはないかと尋ねると、彼はあっさりと答えていった。「私は僧侶のことは管理していないから《広幸》という僧侶の名前は知らないし聞いたこともない。しかし《方居士》というのは聞いたことがある。」我々はさらに彼に《方居士》にはどんな記憶があるかと尋ねた。彼は「これは僧侶の間の噂話でだが、《方居士》という在家の女弟子がいると聞いたことがある。しかし彼女は私の在家の弟子ではないので、会ったことはないが、名前を聞いたことはある。」

その後に我々は乗方法師を訪ねた。乗方は七十八歳で、一九六一年に国清寺へ来てから今までそこを離れたことがない。「文化大革命」中には「国清大隊」の保林防火員を担当し、国清寺にたいして発言権を持つ徳のある僧侶である。我々が再び《方居士》と《広幸》の二人について尋ねると、彼はなんの戸惑いもなく女性の《方居士》と《広幸》という僧侶の名前を聞いたことがあるが、会ったことはないと答えた。

どちらも寺院内で数十年修行してきた老僧侶であるが、《方居士》と僧侶《広幸》に対して、どうしてある人は聞いたことがあるのに、そのほかの人はまったく印象がないのだろうか。我々が居士の遺骨を保存している「五峰塔院」の老僧である法方師を訪れた時に、その答えが分かった。法方師は七十五歳で、「文化大革命」の後に国清寺で出家して、克慧法師は彼の先生に当たる。しかし、すぐに我々がその疑問を解くことが出来たのは、彼は国清寺に四十年もいるのに、同じ寺でしかも長年いる乗方法師のことをなんと知らなかったのである。もとより、寺院が比較的大きいことも一つの要素であるが、更に主要な原因は寺院内の僧侶の仕事の区別がはっきりしており、どの僧侶も自分の持ち場で余計なことに耳をはさまずに、一心に修行したり念仏しているため、老僧の間でも相互に知らないという現象が珍しくもないのである。

国清寺の克慧と乗方の二人の高僧は、どちらも《方居士》の記憶があり、また乗方法師はさらに僧侶《広幸》にも印象があった。このことは、方おばあさん(川島芳子)が一九六〇、七〇年代に、かつて国清寺の居士として常客だったことを証明している。途中で出家した僧侶《広幸》(秀竹)も国清寺にしばしば宿を取っていたのではないか。彼が四平から方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去って、国清寺の風水に優れた土地に頬むったというのは、可能性としてまったくありうることである。

我々がこのたび国清寺を訪れたのには、さらにもう一つの重要な任務があったからである。それは《方居士》(川島芳子)の遺骨の行方を探すことであった。我々が寺院内の各殿堂で細心の注意を払って調査した後に発見したのは寺院の西北角にある「地蔵殿」で、たくさんの物故した居士の位牌が置かれている。可明方丈の紹介によれば、これらの位牌の居士たちは、みな国清寺の改修の過程で力を貸したり寄付をしたり、あるいは家族や友人が寺院に供養代を供えている場合で、寺院には「仏事登記所」がありそこにすべて記載がある。しかし、我々が「仏事登記所」に来て《方居士》の位牌を探そうとしたところ、登記所を管理している僧は我々に位牌を具えているという「証書」を提出するよう求めた。しかし、我々の手元には「証書」がなかったので、調査は拒否されてしまった。しかしこの熱心な管理係の僧侶は我々に一つのヒントを与えてくれた。それは寺院の外にある霊芝峰南麓に、居士の遺骨が置いてある「五峰塔院」があり、そこを訪ねて見てはどうかということであった。

二日目の早くに寺院で精進料理を食べてから、我々は寒拾亭から潤渓を過ぎて、山沿いの小道をあるいて小さな峰に登り「五峰塔院」にたどり着いた。ちょうど、塔院の管理事務所の僧である法方師が出勤してきて、我々が可明方丈の許しを得て居士の遺骨を捜していると聞くと、彼は熱心に我々を建物の中に入れてくれた。塔院は三合院で、正殿は南向きで、三間続きである。殿門の正面の上に「同登極楽」の額がかかっている。殿内の正面には仏像が三体祭っており、中間には阿弥陀仏、左は観世音菩薩、右は大勢至菩薩である。両側には一画一画ガラス戸がついた木の棚があり、なかに遺骨箱が置かれている。法方師は、殿の左側に置かれているのはすべて女居士の遺骨箱であると述べた。我々は女居士の遺骨箱が安置されている左殿に入り、一つ一つを丹念に調査した。

突然、一つの格子の中にガラス窓を通して、毛筆で書かれた「方覚香骨灰盒」を発見して、我々は目の前が明るくなったような気がした。この漆が塗られてもおらず、花が彫られてもいない木製の遺骨箱は見ただけで数十年前の古い箱であることがわかり、またこの部屋の中でただ一つだけ死者の姓が方で、また女性でもある。覚香の二文字は仏教の法号のようでもある。我々がまた理解できたのは、川島芳子の出身は愛新覚羅皇族であり、覚香の「覚」の字はちょうど愛新覚羅の「覚」である。さらに清朝皇族が世を去るとみな香冊があるが、方覚香の「香」の字は香冊の「香」の字と符合する。また、あるいは「香」の字は「芳香」を意味するのかもしれないし、「李香蘭」の「香」の字であるのかもしれない。また「方」の字は川島芳子の「芳」と同じ音である。まさに靴も擦り切れるほどにあちこち探したものが、突然何の苦労もなく目の前に現れたかのようであった。まさかこれが我々の捜し求めていた《方居士》(川島芳子)の遺骨ではあるまいか?我々は胸の高鳴るのを抑えられなかった。

方覚香

テレビ朝日記者と相談の後、塔院の管理をしている僧侶の同意を経て、「芳覚香居士」の遺骨をDNA鑑定用に採取した。法方師の許可を得て、何景方と王慶祥はマスクとゴム手袋をつけて、棚から「方覚香」の遺骨箱を取り出し、細心の注意を払って蓋を開け、中を補填している綿を取り去り、遺骨を入れた白い布の袋を開けると、一枚の新聞紙にくるまれた遺骨が出てきた。新聞紙を注意してみるとそれは一九八八年七月十七日の『寧波日報』であった。ここから推定できたのは、遺骨は一九八八年七月十七日以後にこの塔院に送られたか、あるいはそれ以前にこの塔院に送られていたものをその頃に新たに入れ直したかである。

幾つかの遺骨を採取した後、何・王の二人は遺骨を再び新聞紙でくるみ、袋の口を閉めて、綿を箱の中に詰めて、丁寧に拝んだ後に再び遺骨箱を元の場所にもどした。法方師はずっと我々が塔院の山門を出るまで見送ってくれた。

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2016年03月29日

川島芳子は生きていた(29)川島芳子と李香蘭

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

方おばあさんの隠居生活における趣味の一つは、李香蘭のレコードを聞くことであった。李香蘭の歌の中でも方おばあさんが特にお気に入りだったのは『蘇州夜曲』と『蘇州の夜』である。この二つの歌は題名が良く似ているが異なる歌で、『蘇州夜曲』は作詞西條八十、作曲服部良一で映画『支那の夜』の中で李香蘭が歌ったが、レコードは渡辺はま子の歌で一九四〇年に発売されている。一方の『蘇州の夜』は同名映画の歌で、作詞西條八十、作曲仁木他喜雄、レコードは李香蘭の歌で一九四一年に発売されている。張玉が方おばあさんから教わった歌にはこの二曲が共に含まれており、『蘇州の夜』のレコードが残されていた。
蓄音機

晩ご飯の後、張玉がオンドルの上にトランプを並べると、方おばあさんはとてもご機嫌がよかった。方おばあさんは香を焚き、コーヒーを沸かして、手で蓄音機のハンドルを回し、『蘇州の夜』が部屋に悠々と流れてくるのを聞いていた。突然に方おばあさんは寝椅子から立ち上がると、しばらく経口モルヒネを口にして精神が高揚してくると、周りの木イスの傍にもたれてダンスを始め、あたかも以前に李香蘭と一緒だったひびを思い出したかのようであった。方おばあさんは李香蘭は彼女が最も好きな映画スターで、とても優しくて人の気持ちをよく理解してくれ、歌が上手で演技もすばらしく仙女のように美しい姿をしていると語っていた。李香蘭は方おばあさんが最も慕っていた女性の一人だった。李香蘭の歌は方おばあさんが最も好んだ日本の歌で、伊藤宜二作曲『乙女の祈り』や服部良一作曲『蘇州夜曲』がお気に入りの曲だった。張玉の記憶に残っているのは方おばあさんが大病が癒えたばかりのときに、張玉と祖父が彼女の傍で見守っていると、方おばあさんが眼を覚まし、「万一私が死んだら、喪服を着たり葬儀に哀歌を流さなくてもいいから、あなたたちが『蘇州夜曲』を歌ってくれればそれでいい。私の霊魂を永遠に蘇州の寒山寺に残したい」と語っていた。一九七八年初頭に方おばあさんが亡くなった時も張玉と祖父の段連祥は方おばあさんの遺言に従って、『蘇州夜曲』を歌って彼女を見送ったのであった。

方おばあさんが使用していた蓄音機はスイスで生産された初期の「銀盆式」で、性能がとても良かった。この蓄音機には電源は要らず、「ハンドル」を何度か回して、ターンテーブルの上にレコードを置くと旋回して音声を発する。当時の農村で電気がまだ十分整備されていなかった状況下では、確かに大変実用的なものであった。

方おばあさんが生前に語っていたのは『蘇州の夜』のレコードを李香蘭に届けてほしいということであった。我々が丁寧なつくりの箱を開けると、白い布にくるまれた黒いレコードがあり、レコードは多年にわたって使用されていたため、見るからに古く、真ん中の赤いラベルもすでに文字がかすんでいた。望遠鏡で拡大するとかすかに読めたのは、このレコードが松竹映画録音の『蘇州の夜』の主題歌で、西条八十作詞、仁木他喜雄作曲、李香蘭歌、レコード番号は一〇〇三三三、日本コロムビア社が一九四一年に発売したものであった。

野崎の紹介によれば映画『蘇州の夜』の内容は、李香蘭演じる中国の乙女が佐野周二が演じる日本人青年と恋に落ち、二人は互いに深く愛し合う。しかし様々な原因で二人は最後は別れ離れになるというものである。この映画の筋書きは川島芳子が経験した身の上と大変似ている。川島芳子と日本人はとても密接な関係があり、戦後小方八郎と李香蘭は日本へ帰ったが、川島芳子は中国に永遠に留まることとなった。もし方おばあさんが確かに川島芳子であったとするならば、彼女が『蘇州の夜』を好んで聞いていた原因は、きっと自身の経歴にあり、遠く離れ離れになった友人の小方八郎と李香蘭を恋い慕ってのことであろう。李香蘭と川島芳子は同じ時代の歴史舞台でともに日中の政治と戦争に巻き込まれたが最終的な運命は全く異なっていた。またレコードの裏面にある『乙女の祈り』は西条八十作詞、伊藤宜二作曲、仁木他喜雄編曲、李香蘭歌である。

『蘇州の夜』のレコードに収められた二曲の歌詞についてはさほど多くを語る必要はないだろう。総じて言えば、これらの曲の歌詞に反映された思いは当時の川島芳子の経験と重なるものがあったということである。張玉と母親の段霊雲が証言して言うには方おばあさんが一生のうちに最も重いが深かった三人の一人は李香蘭で、段連祥も臨終前に養孫の張玉に機会があれば『蘇州の夜』のレコードを李香蘭に渡すようにと遺言した。こうして、外見だけ見れば薄いレコードだが、その意味は極めて重厚なレコードを前にして、我々はこれをいつ李香蘭に渡せばいいのか、また李香蘭はどういう反応をするだろうかと考えた。

李香蘭は現在でも健在の日本人で、本名は山口淑子といい、一九二〇年中国遼寧省撫順に生まれた。十三歳の時に父親と親交のあった当時の瀋陽銀行総裁を勤めていた李際春将軍(一九三一年十一月天津暴動の際の「便衣隊」指導者)の義理の娘となり、その際に李香蘭という中国名を付けられた。瀋陽、天津、北京などでも生活し、中国の小学校と中学校を卒業している。彼女は生まれつきの美人で、そのはっきりした顔立ちから「東洋屈指の美人女優」と呼ばれた。流暢な中国語を話すことができ、またロシア人歌手に師事して美しい歌声を響かせて、「満州映画協会」の看板女優となり、満州と日本で映画スターとして売れっ子になり、日本の侵略を正当化する国策映画に出演させられた。当時の満州映画協会第二代理事長甘粕正彦は李香蘭を多方面で支援した。満州映画協会の初代理事長は川島芳子の兄である金璧東で、当然に甘粕正彦と川島芳子も大変に良く知った間柄であった。李香蘭は『万古流芳』や『百蘭の歌』などの映画に出演し、また彼女が歌った「夜来香」は大ヒットして、後にテレサ・テンのカバーで中国でもよく知られている。李香蘭は日本の敗戦後、川島芳子と同様に漢奸罪で中国の裁判にかけられたが、日本人であることを証明する戸籍謄本があったため、漢奸罪の適用を免れて無事に日本に戻ることができた。また彼女は外交官の大鷹弘と結婚し、大鷹淑子の名前で参議院議員にも選ばれ、日本の環境政務次官などを務め、日本でも異色の女性政治家と知られ、日中国交回復後の一九七八年に中国の長春映画製作所に昔の友人を訪ねている。

メディアの報道により、李香蘭は我々の川島芳子「生死の謎」研究を知った。かつて国会議員まで務め、現在八九歳の高齢に達した李香蘭(山口淑子)は「川島芳子生死の謎」に関するニュースを聞いた後、二〇〇八年十一月十八日の時事通信社のインタビューに次のように答えている。

李香蘭

「信じられない気持ちがある一方で、あり得ない話ではない」と当惑しながらも、「もし証言が本当なら、あーよかった。心が安らぐ思いがする」と語った。「妹のようにかわいがってくれた」。山口さんが芳子と初めて会ったのは十六歳の時、天津の中華料理店「東興楼」でだった。芳子は「君も『よしこ』か。ぼくも小さいときに『よこちゃん』と呼ばれたから、君のことを『よこちゃん』と呼ぶよ」と最初から打ち解けた。山口さんは十三歳年上で、りりしい男装姿の芳子を「お兄ちゃん」と呼んだ。
「方おばさん」として処刑から三十年生き延びたとされる芳子が形見として残したものの中に、李香蘭が映画「蘇州の夜」の主題歌を歌ったレコードがあった話を知ると、「そう言えば、お兄ちゃんと最後に博多で会ったときに、李香蘭のレコードを擦り切れるまで聞いているよ、と言ってくれたのを思い出した」。
「生存情報とともにレコードが残されていたということも縁を感じる」と感慨深げだった。 清朝の王女ながら日本人の養女となり、日本籍を取得していなかったため、中国人として死刑判決を受けた芳子。中国で生まれ育ち、中国名で活躍した山口さんも終戦後、中国で「売国奴」として裁判にかけられたが、国籍が日本だったため帰国を果たした。 「国籍という紙切れで、私とお兄ちゃんは運命が変わった」と山口さん。「七八年まで生きていたのなら会いたかった。でも、隠れて暮らしていたんでしょうから、会えなかったでしょうね。切ない思いもする」と声を詰まらせた。

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2016年03月28日

川島芳子は生きていた(28)獅子像の中の暗号文

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

二〇〇八年十一月十六日午前、李剛の事務所。『新文化報』記者の劉マが段霊雲と張玉母子に対してインタビューを行っていた。李剛・何景方と研究顧問王慶祥など多数の人がインタビューを見守った。方おばあさんが川島芳子であることを証明するため、記者の劉マが再び方おばあさん(川島芳子)の遺品である獅子像の底の封印を解いて、中に何が入っているのか見るよう要請した。なぜなら、二〇〇四年末に段連祥が臨終の前に養孫の張玉に、もし可能ならこの獅子像に入っている手紙を小方八郎に渡して、方おばあさん(川島芳子)の遺言を実現して欲しいと言い残したからである。

それならば、獅子の「腹中」には一体何が隠されているのか。少し開いた隙間から見えるのは古い新聞紙の補充物であるが、他にも秘密が隠されたのだろうか。これ以前にも、多くの人が獅子像の底を開けるよう説得したが、張玉は始終同意しなかった。理由は彼女はまだ祖父の遺言を果たして、獅子像を小方八郎に手渡してないからというものであった。二〇〇八年三月十八日張玉はかつて日本の小方八郎に手紙を送ったが、宛先不明で送り返されていた。野崎が現れてから調査してもらうと、小方八郎はすでに二〇〇〇年に逝去しているとのことであった。このような情況であったので、張玉は研究責任者の李剛に決断をゆだねた。李剛は助手の何景方の同意を取り、さらに王慶祥先生の支持を得た後、この秘密の「封印」を解く決定を下した。

そこで、二〇〇八年十一月十六日午前一一:三〇分、李剛の事務室で関連する人々が期待しながら見守る中、李剛が小刀と錐を持ってきて、机の上に新聞紙を敷いて、獅子の底を慎重に剥し始めた。その漆による封は大変丈夫で、少しづつ少しづつしか剥げなかったが、五分余りほじくったところで、ようやく獅子の底の漆の封印が全部はがすことができ、底に直径数センチの穴が現れた。李剛はまず中から二つの丸められた古新聞を引っ張り出した。それを広げてみると、二〇〇二年五月十七日の天津市『毎日新報』であった。続けて中から取り出したのは暗褐色の燃えカスの結晶体で、我々は少量保存された川島芳子の遺灰ではないかと疑った。その他に一掴みの茶色の毛糸が出てきたが、川島芳子の遺品ではないかと感じられた。
李剛

最後の瞬間が訪れた。第三番目の丸まった新聞を引っ張り出すと、それと共に小さな巻紙が獅子の「腹中」から落ちてきた。それを開いてみると、長さ十二センチ、幅七・五センチの紙の上に、毛筆で篆字十六文字とそのほか落款と十文字が書かれていた。文字は規範通りではなく、また現場にいた人たちはあまり篆字に詳しくなかったので、個別の字を識別することができなかった。そこで李剛はすぐに古代文字の専門家を呼んで、現場で解読してもらったが、やはり全部は解読できなかった。
李剛

紙の上に書いてある文字ではっきり識別できたのは、「芳魂」「帰来」「今奇才」「秀竹敬具小方閣下」という文字と、ヒョウタン型の図章の中に書かれた「広幸」という文字だけが解読できた。そこから我々はただちに次の推測を立てた。
1、「芳魂」は川島芳子がすでに死んだことを意味する。
2、「秀竹」とは即ち川島芳子を北平から長春に護送した責任者で、その他にこの文章が秀竹が書いたものを証明するために「広幸」という秀竹の筆名を用いている。この紙の上に書かれた「広幸」の二字は方おばあさんの描いた「日本風情女子浴嬉図」に書かれた落款にある図章と「広幸」と同一人物の筆名であり、それはすなわち秀竹を意味する。小方閣下とは即ち日本人小方八郎であり、川島芳子のかつての秘書であり理解者であった。

二日目、吉林『新文化報』がこのニュースと図を報道すると、長春市と吉林省の関心を持った人々から沢山の反響があった。自分が暗号を解読したという人が続々と新聞社に電話をかけてきたので、幾つかの異なる暗号文への解釈が出現した。

吉林省旅行局の王さんによれば、この十六文字は、「芳魂西天、尚未帰来、含悲九泉、遺今奇才」と読む。第五番目の字は尚であるが、書いた人が草書体を用い、逆さに書いている。さらに王先生が言うには、前の八文字は「芳魂西天、尚未帰来」はおそらく「川島芳子の魂はまだ天国に行っていない」という意味で、「含悲九泉」は川島芳子の身代わりとなった人を暗示し、「遺今奇才」は川島芳子が生き残ったことを意味する。

吉林大学古籍研究所馮勝君教授の説によれば、この十六文字は「芳魂西去、至未帰来、含悲九泉、古今奇才」と読む。馮教授が言うには、これらの篆文には書方の不明な点がある。「私は第四番目の文字が去と読めるかどうか確定できない以外は、その他十五文字はこれで確定できたと思う」と述べた。馮教授がさらに説明するに「第四番目の字は篆文の角度から見れば、《天》の字に見えなくもないが、前後の文書から見て、私は《去》の文字だと思う」「字面からすると、この人物が死んだという意味を伝えるものだ」と述べた。

我々は景泰藍の獅子像を再び面前で調査し、獅子像の底を開けて中の新聞紙と、そのなかの紙片を取り出し、獅子像の頭部近くにあった茶色の燃焼物の顆粒と小豆色の毛糸を科学鑑定することにした。
調査の結果、新聞紙は二〇〇二年五月十八日天津市『毎日新報』であることが分かった。さらにここに三つの科学鑑定を要する問題が提出された。
暗紅色の燃焼物の顆粒は川島芳子の遺灰か?
小豆色の毛糸は川島芳子の遺品か?
景泰藍獅子像は二〇〇二年五月十七日以後に封印されたのか?
 
これらを鑑定するため、我々は二〇〇八年十一月に中国科学院長春応用科学研究所へ赴き、高級エンジニア葛遼海が熱心に我々の要望に応じてくれた。葛遼海は軍隊から転勤後に応用科学研究所に来て、そこですでに二十数年勤め豊富な実験経験を持ち、犯罪現場の遺物や痕跡の検査などを通じて公安機関に協力して幾多の犯罪事件の解決に貢献し、事件を扱った部署から賞賛され、その鑑定意見が正確かつ権威のあるものと見られている。

葛遼海高級エンジニアは獅子像の中の結晶体の「燃焼物顆粒」と「毛糸」を観察した後、微量部分を採取して検査を進め、その場で真剣な検査を行った。その後に検査結果として、獅子像は普通のガラスではなく、その含む成分から景泰藍製品に間違いない。また獅子像の中の燃焼物の顆粒は有機物質ではなく無機物質であり、炉のコークスであり遺灰ではない。毛糸は化学繊維である。

その後、葛遼海高級エンジニアは証印の押された鑑定書を我々に発行してくれた。その鑑定書は我々が待ち望んでいたもので、とても興奮させるものだった。まず、獅子像は確かに「景泰藍」で、それ自身が「貴重」なもので送り主の感情が大変深いことを表している。その次に、遺灰と思われていたコークスの顆粒は遺灰ではなくて炉の灰であった。加えて補填物の中の新聞は天津市二〇〇二年五月十七日の『毎日新報』であったが、このことから推定できるのは方おばあさん(川島芳子)は一九七八年に死亡し、一九八一年に浙江天台県国清寺の僧が吉林省四平市から遺灰を持ち去ったので、二〇〇二年に再び天台県国清寺から少量の遺灰を取り出して景泰藍の獅子像の中に入れたとは考えにくい。その次に、毛糸は化学繊維であることが分かったけれども、量がとても少なく、それを特別に入れたとは考えにくく、おそらく偶然に入り込んだ可能性が高い。

最後に、コークスは補填物として入れられたのか、あるいは何か意味があって入れられたのかということについて、我々が獅子像を開けた過程から推理するに、当該のコークス様の顆粒が先に中に入れられ、獅子像の頭部に位置していた。その後に新聞紙を丸めて(その間に紙片を挟み)空洞を充填してから、さらに黄泥を底の部分に塗り、それをあぶって乾かした後にさらに漆で封をしていた。すなわち、コークスは黄泥の付着物や偶然入り込んだものではなく、一種の象徴的な意味を表すために故意に紙片と共に入れられたのであり、小方八郎に対して川島芳子がすでに死んで炉の中の灰と化したと伝えたかったのであろう。

我々はさらに検証を重ねるため、景泰藍獅子像の中のコークス状の顆粒を、日本の新聞では遺灰ではないかと報道していたが、二〇〇九年一月十八日に日本の鑑定専門家林葉康彦博士が長春に来て鑑定した結果、コークス状燃焼物と確認し、我々の鑑定結果と同じ結論を下したことを付け加えておこう。

方おばあさん(川島芳子)の遺品――景泰藍獅子像の底を開けると、確かに予見していた通りに、獅子像の「腹中」には文字が書かれた紙片が隠されており、これが六十年にわたる川島芳子「生死の謎」論争についに決着をつけ、真相を明らかにする決定的証拠となった。この小さな文字の書かれた紙片は、我々が川島芳子「生死の謎」を解く自信をさらに深めさせた。

川島芳子は「替え玉」によって死刑を逃れ、秀竹(老七)および于景泰の護送により、北平から煙台を経て船に乗り大連に向かい、そこから瀋陽で段連祥と合流して、三人で一緒に川島芳子を長春新立城に護送した。秀竹は川島芳子を新立城の斎家村に匿い、于景泰と段連祥の二人に委託して川島芳子の身近で護衛させ、彼自身は南方(江蘇・浙江一帯)に戻り、不定期で夏になると北方へ川島芳子を訪ねて来ていた。

一九六〇年代中期、「文化大革命」が始まると于景泰は獄舎で死亡し、秀竹も最後に川島芳子と別れを告げてからは、おそらく浙江国清寺へ行き剃髪して僧となり、それ以来東北には来なくなった。「文化大革命」の十年間に、川島芳子は夏は新立城に住み、冬は国清寺へ行き、毎年このようにしていたのは、秀竹(おそらく背後にさらに高位の僧侶の支持があった)が国清寺にいたので、川島芳子は苦とせずに喜んで赴いた。

一九七九年初頭、川島芳子は四平で病気によって死去し、三年後の一九八一年にすでに僧となっていたらしい秀竹が四平に来て、川島芳子の遺灰を持ち去った。二〇〇二年春に、すでに死期を迎えようとしていた秀竹は川島芳子の死を川島芳子の日本にいる友人である小方八郎に伝えようと、ずっと前に書いておいた小さな紙片を持ち出し、国清寺から四平に来た。途中で天津に立ち寄った際に『毎日新報』を一部購入した。秀竹がこの紙片とコークス状燃焼物を段連祥に渡した後、段連祥はこの文字の書いた紙片とコークス状燃焼物を景泰藍の獅子像の中に入れて、さらに秀竹が残した『毎日新報』を補填物として詰めて、その後に漆で封印をした。段連祥は臨終前に再び獅子像をメッセージとして養孫の張玉に渡し、彼女にもし機会があればメッセージとしてこの獅子像を方おばあさん(川島芳子)の以前の親友である日本人小方八郎に渡して欲しいと遺言した。

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2016年03月27日

川島芳子は生きていた(27)川島芳子と小方八郎

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

段連祥が臨終の前に、「獅子像」を指して養孫の張玉に次のように語った。「方おばあさんは元秘書の小方八郎をとても気にかけていた。将来機会があれば、この物を小方八郎に渡して、《形見の品物》として欲しい。」ここからすると、小さなこの七宝焼きの獅子像は相当重要なものであるらしかった。この小さな七宝焼きの獅子像は、それから数年後に、日中の専門学者から新たな解釈を与えられ、さらに底の封印を解いた時に人々を驚かせる発見があったのである。

方おばあさんの遺品の中で、手紙として渡すように遺言された七宝焼きの獅子像があった。詳しく我々の前に置かれた獅子像の大きさを観察すると、獅子像の高さは十センチ、長さは九・五センチ、幅は六・三センチである。獅子は細い銅線を組み合わせ、外側を景泰藍の外面で包まれており、その外表面の厚さは約二ミリで、中は空洞になっている。獅子の底の部分はすでに泥とニワカを固めたもので封じられており、中に何が入っているかは当初分からなかった。
獅子像

この獅子像は情報によれば明朝時代に制作されたもので、獅子の体はステンドグラスのような透明な結晶体に鮮やかな色彩を帯び、遠くから見ると深緑色に見えるが、近くから見ると緑、青、赤、紫、黒、黄色など多種の色が斑点模様にちりばめられている。顔は黒い眼玉に、緑の眼底、黒の眉毛に黄色の髭と丁寧に色分けされている。二つの赤い花が耳の辺りを覆っているのが目を引く。獅子の体全体に赤い花や緑の葉が象嵌されており、質感の美をあらわすと共に、光に当てるとまばゆいばかりの光を放つ。正面からみると、この獅子像は怖い凶暴な動物ではなく、ユーモラスなかわいらしい表情をしている。

この芸術的工芸の技術を見ると、この七宝焼きの獅子像は透き通るような輝きと、精巧な細工が見事で、また生き生きと表現されており、全く珍しい歴史的文物である。この獅子像は室内に置けば魔除けにもなり財と福を招くとされている。一見して、普通に手に入るおもちゃや土産物の類ではない。

川島芳子と小方八郎との関係について話すには、七・七盧溝橋事件から話さねばなるまい。一九三七年七月早朝に、ちょうど日本で外傷性の脊椎炎を治療していた川島芳子は、ラジオで日本軍が七月六日に宛平城外で発砲し、一人の日本兵が失踪したことを理由に盧溝橋に砲弾で攻撃をしたとのニュースを聞き、敏感に日中全面戦争が始まったことを意識した。彼女は傷がまだ癒えないうちに川島浪速夫婦に別れを告げて帰国の途についた。川島芳子が長崎に立ち寄った際に、彼女を特に慕う日本の青年小方八郎に出会った。ちょうど、川島芳子は適当な秘書が欲しかったので、しばらく様子を見てから真面目で誠実なこの青年が気に入り、彼を連れて中国に戻ったのである。

小方八郎

天津の東興楼の食堂時代から北平の東四牌楼の九条公館時代まで、八年の長きにわたって小方八郎は芳子の秘書となり、公館の財務を管理したり芳子の世話をするために生活と起居を共にした。その忠実で誠実な性格により、彼は深く芳子から信頼をされていた。一九四五年八月十五日に日本の敗戦によって、九条公館の川島芳子の周りの人々にも去るものがいたが、小方八郎は変わらず主人の芳子に付き添って守っていた。一九四五年十月十一日夜、国民政府北平当局「漢奸粛清」組長馬漢三が行動開始して第一の目標としたのが川島芳子を逮捕することであった。川島芳子の逮捕の際に芳子をかばおうとした小方八郎も一緒に身柄を拘束された。

その日は憲兵が川島芳子の寝室に突然入り込んできて、有無を言わせずに彼女に手錠を掛け、また黒い布で彼女の頭を覆うと、小方八郎は平素のおとなしい秘書の態度とは一転して激怒して憲兵たちに抗議した。「あなたたちの任務執行を妨げるわけではないが、このようなやり方は無礼すぎるではないか。何も言わずに女性の寝室に入ってきて、病気で寝ている婦人に手枷をつけて、服を着替える暇も与えずに連行するとは何事か!」
小方八郎は憲兵たちの威嚇をものともせずに、従容と芳子の衣服を探してきて、彼女を着替えさせようとした。おそらく小方八郎の態度に圧倒されたのか、憲兵たちも一歩引いて小方八郎が主人のために行う最後の奉公を見つめていた。さらに連行される車の中で、小方八郎は川島芳子の隣で彼女の慰めてこう言った。
「何処に行こうとも、私がきっとあなたを保護します。しっかりしてください、大丈夫です。」
拘留されている時にも、小方八郎は川島芳子を極力弁護して、「金璧輝は女性で、中国生まれながらも、日本で育ちました。さらに今は病気の身です。どうぞ、彼女にご配慮を・・・。」と述べた。
一九四七年二月八日、北平地方法院は小方八郎の尋問を行い、裁判官は被告の申し出を受けて、川島芳子が出廷して証言することを許した。二人は別れて一年余り経っていたが、主従は法廷でまた見えることが出来たのである。小方八郎のすっかりしょげて元気のない様子を見ると、川島芳子は小方八郎を励まして、さらに何のためらいもなく全力で小方八郎を弁護しようとした。法廷で、川島芳子は小方八郎のために証言をしたが、実際に彼女は内心から小方八郎を守るために大声で釈放を求めた。川島芳子はこう証言したのである。「小方八郎の行動はすべて、彼が自発的にしたものではなく、すべて僕の命令に従ったに過ぎない。もし罪ありとするならば、罪があるのは僕であって、彼は何の関係もない。もし私の罪を問うというならば、彼は即刻釈放されるべきだ。」

小方八郎は何度も法廷で発言しようとしたが、そのつど川島芳子に遮られるのであった。彼女は小方八郎に何の罪をもかぶせようとはしなかったのである。間もなくして、小方八郎は保釈されて日本に帰国した。川島芳子は一九四七年七月に小方八郎が日本の長崎から寄せた手紙を見て、始めて小方八郎が釈放されたことを知った。そしてすぐに小方八郎に返信を書いている。川島芳子が一九四七年七月に小方八郎の日本からあてた手紙を受け取ってから、一九四八年三月二十五日に「死刑執行」されるまでの八ヶ月の期間中、彼女は頻繁に日本の知り合いに連絡を取り、釈放されるための手段を積極的に指示していたが、それらはすべて小方八郎との手紙の遣り取りによって進められた。小方八郎は自分のかつての主人を救うために、出来ることは何でもやり川島芳子に対する忠誠のほどは誰にも真似できないほどであった。それで死刑を免れた後の川島芳子は三十年後にも、なお彼女のかつての秘書を忘れられず、七宝焼きの獅子像を形見として残して小方八郎に渡すように託したのである。ここからも主従二人の感情の深さがうかがえるだろう。

一九四八年四月、小方八郎は日本で川島芳子が「死刑執行」されたというニュースを聞いたが、一九四八年四月二十日に川島浪速にあてた手紙の中で、芳子に対する切実な思いを語り、芳子が「死刑」とされたことを悲しみ、川島芳子が中国でなしたことについて弁解をしている。さらに、もし当局の許しが得られれば、川島芳子の遺体を粛親王王府の墓地あるいは川島浪速の傍に葬って欲しいと書いている。このことは彼の芳子への思いをよく表しているといえるだろう。

川島芳子と小方八郎の主従の感情と友情がこのように厚かったのであれば、どうして七宝焼きの獅子像を送る必要があったのか。獅子は中国でとても尊崇されており、多くの企業の門前には日本の狛犬と同じように獅子像が据えられており、魔除けとされている。さらに家の中に小さな獅子像を置くのもやはり同じ魔除けの意味である。一九四八年三月二十五日以後に川島芳子と小方八郎は別れ離れとなり、お互い合うことも連絡を取ることもできなくなった。であるから形見として送るべきものは決して適当に選ばれたわけがない。ならばどうして「虎」や「象」や「豹」やその他の物ではいけなかったのか?方おばあさんがそうしたものを選ばずに、なぜか獅子を送って小方八郎に渡させようとしたのも、やはり魔除けと財と福を招くためであったのであろうか。

野崎はこの点を推理した後に述べた意見は我々が参考に値するものである。野崎によれば、獅子の日本語の発音は、「子子」あるいは「死し」に非常に近い。それゆえ、この獅子像を小方八郎に渡す者すなわち張玉が川島芳子の養孫であるということを伝えるとともに、芳子はすでに「死し」て灰になったということを伝えようとしたのではないかと推理した。小方八郎は生前に川島芳子の「処刑」後の写真を見て、髪が長いことを不審に思い、あれはきっと替え玉で川島芳子はどこかで生きていると信じ、彼女からの便りを待ち続けたという。張玉の回想によれば、方おばあさんと山に登ったときに、方おばあさんは山の上で「オーガーター」と大きな声で叫んでいたという。これらのことは、方おばあさんが川島芳子であり、川島芳子と小方八郎の主従がそれぞれ別れ離れになっても三十年の長きにわたって互いを思い続けていたことを証明している。

著名な骨董品の鑑定家郭相武先生は吉林省所蔵家協会の創始者で、吉林省民俗学会の名誉理事長でもあり長年にわたり各種の民間の骨董品数十万点を鑑定し、清朝の歴史にも大変詳しい。彼が七宝焼の獅子像の「真相」について異議を提出した。景泰藍はまた「焼青」と呼ばれ、ガラス質の釉薬を銀(銅)の土台の上に焼き付けて製作するエナメル質の美術工芸品である。明の代宗皇帝景泰年間に流行し始めたので、景泰藍と呼ばれる。
銅(銀)の土台の上に銅(銀)線を嵌めこみ、斑状にしてから、窪みにガラス粉を埋め込み、釜に入れて焼き、さらに表面を磨いて作成する。ガラス粉はほとんどが緑色か青色で、花瓶や碗や皿やコップなどを製作する。清朝から民国に至るまで、土台には銅銀以外に、磁器、陶器、紫砂などが使われた。しかし、これらは本当の意味での景泰藍ではない。

獅子は一目見て日本風であり、土台は瑠璃ガラスで、そのなかにある金属質の線があるが景泰藍の工芸とは異なる。景泰藍の場合は、銀や銅の器の表面に金・銀・銅などをまず嵌めこんで、磨いた後で色をつけて焼く工程により製作される。だから、この獅子像は伝統的日本の工芸品あるいは置物である。おそらく日本が中国に進出し、開拓団がわたってきた時に中国にもたらされたものであろう。吉林省は日本の侵略の中心地区であったので、戦後も様々な物品が残されている。郭相武先生の獅子像が日本の物であるという鑑定は、我々を興奮させた。ここから、さらに方おばあさん(川島芳子)の日本への思いと小方八郎との関係がさらに証明できる。検証によってさらに「真相」に近づき、結論はさらに合理的になった。

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2016年03月26日

川島芳子は生きていた(26)愛新覚羅・徳崇の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

吉林省社会科学院研究員で国内で著名な溥儀研究家王慶祥先生は、我々の「川島芳子生死の謎」をテーマとした調査と研究に大きな支持と支援を表明し、調査団団長の李剛の招待を受けて、「川島芳子生死の謎」課題研究顧問となった。

ちょうど二年に一度開催される第二回溥儀研究国際学術討論会が、二〇〇八年六月二十八日に天津で開催された。王慶祥先生は長春溥儀研究会の副会長として、積極的に天津会議準備委員会に「川島芳子生死の謎」の研究課題を推薦した。我々は、愛新覚羅皇族の成員で歴史上かつてラスト・エンペラスの婉容を天津から東北に連れ出した川島芳子の天津での活動、およびその「生死の謎」の最新調査成果を論文の形式で天津会議に発表し、「調査の手がかりを探す宣伝」とする目的を達しようとした。

「天津会議」では、調査員の何景方が会議に参加できなかった調査団長の李剛に代わって、『川島芳子の天津での活動及び「生死の謎」の最新調査』と題する論文発表をした。川島芳子に関する「生死の謎」の爆弾発言が披露されると、すぐに天津会議で反響を呼び起こした。会議の休憩と参観活動の期間に、少なからず会議参加者が調査員何景方に川島芳子が死刑を逃れた証拠とその後三十年にわたる生活の軌跡について質問し、あるものはさらに詳しく調査員何景方が持ってきた天津会議の証拠写真や資料を閲覧した。
天津会議

天津会議の期間、王慶祥先生の紹介により、調査員何景方は会議に参加していた二人の愛新覚羅家の成員と知り合った。一人は遼寧省満州族経済文化発展協会常務副会長の愛新覚羅・徳崇(溥旻)先生。もう一人は中国承徳避暑山荘保護協会理事で、中国で著名な書道家である愛新覚羅・兆基先生である。会議が用意した天津「静園」参観に向かうバスの中で、何景方と徳崇先生は隣に座り、二人がお喋りしていると自然と川島芳子生存説の話題になり、徳崇先生は何気なくこう述べた。「川島芳子(金璧輝)のことは、うちの家族のものは昔から知っていた。」徳崇先生が無意識に発した言葉が、すぐに何景方の琴線に触れた。しかし、何景方がさらに徳崇先生に「家族の人が川島芳子(金璧輝)について知ったのは何時頃のことですか?」と尋ねると、徳崇先生はただ笑うだけで答えなかった。この時バスは「静園」の門前に到着し、何景方と徳崇先生の談笑もそれで終わった。天津会議の日程はとても忙しく、何景方と徳崇先生はその後このことを話す機会はなかった。
溥儀研究会

天津会議の後、調査員何景方はずっと徳崇先生の何気ない「一言」が気にかかっていた。二〇〇八年九月初め、我々調査団が『川島芳子生死の謎新証』の原稿を討論していた際、王慶祥先生と当事者張玉もその場にいたが、何景方は天津会議期間に徳崇先生に接触した際に、徳崇先生がふと漏らしたあの「一言」を皆に聞かせた。彼が思うに、徳崇先生は早くから川島芳子が一九四八年に死刑を逃れた事を知っていたようだと語った。王慶祥先生は始めてこのことを何景方から聞き、やはりそこには何か裏があるに違いないとにらんだ。張玉の反応はさらに敏感で、彼女はその場で王慶祥先生に徳崇先生へ電話を掛けさせ、さらに徳崇先生の「川島芳子生死の謎」調査結果への見解を聞いてみるよう促した。最後に調査団長の李剛が徳崇先生の言葉は我々の調査にとても重要なので、王慶祥先生に徳崇先生に連絡を取って詳細を尋ねるよう要請した。

二〇〇八年九月十六日、王慶祥先生は徳崇先生に電話をかけ、まず長春の『川島芳子生死の謎新証』という前清朝皇族と密接な関係のある書籍が出版予定であることを告げて、徳崇先生に支持と貴重な意見を提供してくれるよう頼んだ。徳崇先生は王慶祥先生と電話で話す過程で、ついにその口から「一九五五年―一九五六年の冬に、彼が瀋陽の家にいた際、その目で川島芳子を目撃した」と我々を震撼させる史実が出てきた。

王慶祥先生は我々にこの知らせを継げたあと、我々はまるで「新大陸」を発見したかのような興奮を味わった。王慶祥先生はさらに我々に言うには、徳崇先生は自ら長春に来て『川島芳子生死の謎新証』のために題字を書き、そのついでに川島芳子(金璧輝)の養孫の張玉に会いたいと述べていると伝えた。李剛はすぐに王慶祥先生に徳崇先生へ次のように伝えてもらった。「彼の大きな支持に感謝するが、わざわざ遠い長春までご足労願うのは申し訳ないので、我々が瀋陽を訪問したい。」こうして約束を交わして、二〇〇八年九月二十五日我々調査団一行六人は、瀋陽の徳崇先生のもとを訪れた。

徳崇

徳崇先生は彼の事務室で熱心に我々を接待し、我々に対し事実を追及し歴史の真実を明らかにする態度で、愛新覚羅家の成員の一人である川島芳子(金璧輝)の六十年にわたって懸案となっている「生死の謎」を新たに緻密に調査し、新たな成果を発表することに支持を表明した。そしてその場で我々に王慶祥先生が九月十六日に電話で話した内容の録音を公開した。「あれは私が北京から瀋陽の家に来たばかりの頃でした。当時、我家は瀋陽市の皇姑屯三義桟胡同の門がある大きな邸宅にありました。一九五五年―一九五六年の冬に、確かに綿入れを着て、ショールを被った女性が我家に来て、家の人は彼女を『壁輝』と呼びました。」「当時は私はまだ子供で、私の家には決まりがあり、客が来ると子供は客人の居る部屋から出て行かなければなりませんでした。私は大人たちが満州語と日本語を交えて話していたのを憶えています。何を話していたのかまでは、聞いていません。私は当時十七歳だった姉の溥賢(私より七歳上の異母兄弟)なら知っていたでしょう。彼女は接客をしていて、ずっと部屋でお茶を入れたり、煙草に火をつけたりしていましたから。その後に姉は私にこう言いました。あの日家に来た璧輝は学問があり、忍耐力があり、文武に優れ、多才多芸で、代わりに死んでくれる人までいると」

愛新覚羅・溥賢は徳崇より七歳年上だったので、家の中のことや愛新覚羅家の事は良く知っていた。彼女はよく暇な時に徳崇に家のことや家族のことを話して聞かせた。「母親の家はどうだこうだ、父親の副官たちの現状はどうだ、家族の中の誰それが抗聯で、誰それが八路軍幹部で、誰それが義勇軍英雄だとかいう話です。また国民党中央軍の兄について、外蒙古で死んだ兄について、香港に逃げた姉についても話してくれました。それから家族の財産は誰それの手に渡ったとか、こういうことを彼女は良く覚えていました。それから溥賢は父親の愛新覚羅・載驌の最も信頼できる家の管理者でした。彼女は思想が進歩的だっただけでなく、何事も果たすことが出来ました。ただ惜しいことに彼女は文化大革命の嵐の中で死んでしまいました。もし溥賢姉がまだ健在なら、川島芳子(金璧輝)が一九五五年〜一九五六年の冬に我が家を訪れたことを、さらに詳しく語ることが出来たでしょう。」徳崇先生の提供した証言に対し、当時現場で聞いて証人となったのは王慶祥先生とその夫人張素娥、本書の作者である李剛、何景方、当事者張玉と孫仁傑である。『川島芳子生死の謎新証』の書の出版に対し、徳崇先生はすぐに筆をとり本書の為に満州語と中国語を対照した書道作品を揮毫してくれた。

徳崇先生は「愛新覚羅」という特殊な家系身分を有し、このために一九五〇年代中期にその目で川島芳子を目撃した唯一の証人となった。我々はすでに得た多くの物証と文献証拠に加えて、さらに目撃証人の証言まで得ることが出来たのである。川島芳子が死刑を逃れて東北に潜伏していたという歴史的事実を証明するため、我々の『川島芳子生死の謎新証』のための証拠をさらに充実させることができた。

二〇〇七年夏に、我々は段霊雲に対し方おばあさんの印象と見方を聞いた際に、段霊雲はかつて書面の形式で我々に次のように証言していた。一九五五年春節の後に、彼女は敗血症を患い、長春鉄路中心医院では治せないとのことで、遼寧の湯岡子養院に一ヶ月ほど入院し、さらに大連の海浜療養院、天津の外国人医師がいる病院、最後にさらに北京協和医院に行って治すことができた。彼女の記憶では、方おばあさん(川島芳子)はかつて天津の医院に彼女を見舞いに来て、彼女の治療のために多額のお金をくれた。

二〇〇八年九月二十五日、我々が瀋陽から長春に戻ると、張玉が徳崇先生がかつて一九五五〜一九五六年の冬に、瀋陽で方おばあさん(川島芳子)を見たことを母親の段霊雲に告げた。段霊雲はその知らせを聞いた後、「映画を見るように」一九五五年の冬の病気を患っていた時のことを思い出した。そのとき方おばあさんは養女の段霊雲が病気になったことを聞くと、遠くの国清寺から長春にすばやく戻って来た。長春鉄路中心医院で彼女は《小雲子》(段霊雲の幼名)の病状を見ると、《小雲子》を遼寧の「湯岡子」の温泉で治療させるように主張した。段連祥はいつも方おばあさんの言葉にすぐに従っていたが、そのときも例外ではなく、二人は段霊雲に付き添ってまず瀋陽鉄路総医院に連れて行き、それから湯岡子療養院に一ヶ月以上入院して、その後また大連の海浜療養院に行った。道理から言えば、段霊雲の病気は四平でも長春でも治せなかったのだから、すぐに医療条件のもっと良い大病院で治療させるべきなのに、段連祥と方おばあさんはなぜか娘を湯岡子療養院に連れて行ったのである。このことは次のことで説明できるのではないか。満州国時代に静かで世俗を離れた湯岡子温泉を川島芳子は良く知っており、彼女の主観的考えでは、湯岡子の温泉につかれば《小雲子》の血液病が良くなると思ったのであろう。一ヶ月近く温泉で療養しても《小雲子》の敗血症は好転する兆しがないので、ようやく天津の病院と北京協和医院に連れて行ったのである。段霊雲が今まではっきり記憶しているのは、あの冬の日に、方おばあさんは綿入れを来て、黄色のショールを被って、さらに方おばあさんの綿入れの帽子のふちには狐の毛皮が付いていたことである。

段霊雲と徳崇先生は一方は瀋陽に住み、一方は四平に住んでいて、それぞれ別々に暮らし、これまで面識もなく、話したことすらないのに、彼等の半世紀前の歴史のそれぞれの記憶が驚くべき類似を見せたのである。方おばあさん(川島芳子)の瀋陽での出現は時間においても着ていた服装にしても、二人の説明は完全に符合している。これに我々は驚きを禁じえなかった。全く我々の予想を超えて、徳崇先生と段霊雲の証言が期せずして一致したのである。

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