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posted by fanblog

2016年09月23日

花千骨

このドラマを分類するとアイドル系ファンタジー学園ドラマとでもなるのだろうか。仙人になるために修行する女の子の花千骨の成長と師弟愛を描くドラマだ。あえて似た雰囲気を挙げればハリー・ポッターや初期のNARUTOに近い感じである。仙人となるための学校で日夜魔法を修行する学園での人との別れや友情と先生との愛情の物語だ。ただハリー・ポッターが現実の世界では嫌われ者で全体的に暗いストーリー展開なのに対し、花千骨は最初こそ呪われた子供として生まれるが成長すると誰にでも好かれて蜀山派を率いるリーダーとして人望もあるという設定なので全体的に明るく元気のよいストーリー展開となる。
花千骨
若いアイドル系の女の子が主人公なので声がキャーキャーうるさいほどに響き渡り、一定の年齢以上になると見るのがつらいかもしれない。対象年齢はかなり低めで大学生くらいの女の子層向けのドラマと思っていれば、そう期待もしないで見れるだろう。

花千骨の師匠となるのは白子画という仙人学校のイケメン校長で、実力もあり仙人たちからも一目置かれた存在だ。白子画はやがて花千骨が自分の生命を奪うことになると知りながら彼女を弟子にする運命から逃れられない。この子弟間のプラトニックな愛情物語がドラマの中盤から主題となってくる。
白子画

おもしろい設定としては、花千骨はなぜか仙人学校に入る前に妖怪の頭目でオカマの殺阡陌から気に入られて姉妹関係を結んでいる。殺阡陌は厚化粧をしたオカマの魔人だが、部下に毒を飲まされて狂人となってしまう。魔界と仙人界の二人の巨頭の愛情の間で揺れ動く花千骨の恋はいかに。殺姐姐

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タグ:花千骨

2016年08月18日

川島芳子は生きていた(補足2)

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載
2016年8月17日ー19日に中国中央テレビ科学教育チャンネルCCTV−10の「探索・発見」という番組で、「川島芳子死亡調査」と題して3回にわたり川島芳子の生存説が紹介された。川島芳子の生存説は中国でも民放でこれまで何度も放送されてきたが、今回の放送は中央テレビでしかも教育チャンネルでの有名な番組での紹介とあって反響が大きい。

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基本的な内容は李剛/何景方著『川島芳子 生死の謎』にある内容に沿って紹介されており、アニメや切り絵などを使用した場面説明なども入りかなりまじめに制作されている様子が伺える。すでに川島芳子が処刑を替え玉を使って逃れ、方おばさんと名乗って長春で1978年まで生存していたことが中国で発表されてからかなりの年数がたっていることから、今までの番組のようにセンセーショナルな描かれ方はされなくなったが、手堅く長春での川島芳子生存説の調査を再現する番組であった。

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方おばさんと名前を変えて中国の田舎に身を隠していた川島芳子の遺品の一つが蓄音機だが、これはスイス製の高級機で上海のマフィアのボスであった杜月笙の旧宅に今も飾ってある蓄音機と同じメーカーである。川島芳子の自伝によれば誘拐されたロシア人を救出しに杜月笙の家に乗り込んだそうだから、その二人が同メーカーの蓄音機を持っていたというのは興味深い。
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李香蘭・川島芳子・白光という3人の美女と関係が深かったのが、日本の陸軍で宣伝映画を制作していた山家亨だ。川島芳子の初恋の相手で、後に李香蘭をスカウトして映画スターとしてデビューさせている。川島芳子は山家亨と李香蘭の男女の仲を疑って李香蘭に喧嘩を吹っかけたことがあった。やはり中国人の映画スターだった白光は山家亨と同棲していたが、山家亨を追っかけて日本にまで探しに来るほどだった。戦後に山家亨は李香蘭に子供の世話を託した後に逃亡先で死体となって見つかっている。山家亨の死体は愛人との心中自殺として処理されたが、実際には他殺の可能性が高いというから美女の嫉妬は恐ろしい。

2016年08月13日

イップ・マン3(葉問3)

中国映画の代表的なジャンルの一つであるカンフー映画の最新作イップ・マン3を見た。イップ・マン(葉問)は香港のカンフーの伝説的な人物だが詠春拳という拳法の使い手で、あのブルース・リーの師匠として有名な人だ。映画はすでにシリーズ化されていて、日本でも前作は上映されているがドニー・イェンが演じたシリーズは三作ともなかなか出来が良い。

葉問

ドニー・イェンは誠実そうな顔つきでカンフー使いには見えないほど体も華奢だが、それが家族や地域の人を守るためにやむを得ず戦うイップ・マンの悲壮感にぴったりとくる。もちろん映画の最大の見せ場はアクション・シーンなのだが1対1よりも1対50とか大勢を相手の立ち回りが見せ場となる。今回はアクションスターの張晋が演じる同門の詠春拳の使い手との友情も絡められ、張晋の切れの鋭いアクションも見どころの一つだ。下の写真は張晋の得意とする包丁の二刀流だ。
張晋

このシリーズにはアクション以外に一貫して主張されているテーマがあって、それが家族愛と植民地として外国人に統治されてきた香港人の悲哀である。イップ・マンの奥さんは病弱で癌にかかって余命半年なのだが、襲ってくる刺客から奥さんをかばうためにぼろぼろになって戦うイップ・マンには涙が出そうになる。ただ奥さん役を演じる熊黛林はモデル出身の女優で主演のドニー・イェンより背が高いので、並んで歩くシーンではあまり癌で余命半年のかよわい奥さんには見えない。むしろ奥さんの方が強そうに見えるのはどうにかならないのだろうか。
奥さん

植民地として外国人に支配されている香港で占領軍の日本人やイギリス人から無理難題を押し付けられて困惑する香港人の悲哀が描写されているのもシリーズの一貫したテーマだ。今回は敵役としてボクシング世界王者のマイク・タイソンが出演している。さすがにイップ・マンでもマイク・タイソンをボコボコにはできないのだが、マイク・タイソンは三分間勝負でイップ・マンが死ななければ許してやるというイップ・マンに有利な条件を出すのでそこは問題がない。マイク・タイソンも試合自体は圧倒的に優勢を見せつけ顔が立つというものだ。
タイソン


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2016年07月13日

孔子巡礼の旅(10)泰山

泰山は孔子の故郷の曲阜からほど近くにある霊山で、中国では皇帝が支配権を握ったことを天に報告する儀式が行われる特別な山だ。曲阜からは高速鉄道で20分ほど、古代の馬車でも一日あれば十分に行ける距離にある。下は泰安駅で泰山から最も近い高速鉄道の駅だ。ここから泰山の入り口まで直通のバスが出ていて、30分ほどで泰山ふもとに到着する。
泰安

孔子もしばしば泰山に来ていたようで、泰山に関するいくつかのエピソードが記録されている。その一つは孔子が泰山の付近を通った時にある夫人が泣いているのを見て理由を尋ねると、夫と子供が野生の虎に食われてしまったという。そこでどうしてこんなに辺鄙な場所に住んでいるのか尋ねると、ここまでは役人が税を取り立てに来ないからだと答えた。そこで孔子は弟子たちに、「過酷な政治は虎よりも恐ろしいのだ」と述べたという。

もちろん孔子もこの山に登ったことがあり、孟子によれば「孔子は泰山に登り天下を小さしとした」。確かに泰山の頂上から、はるか雲の下に広がる黄河平原を見渡すと、何か皇帝が玉座から下を見下ろすような優越感に浸れる。
泰山
泰山

山の頂上付近には孔子廟があり、その近くには孔子がそこから呉国の方向を眺めたという場所に「望呉聖跡」と書かれた記念の門がたっている。また「孔登岩」と呼ばれる孔子が遠くを見るために上に登ったという岩がある。
孔子廟
孔子門
孔子廟

孔子の辞世の句は「泰山は崩れるだろうか、梁木は朽ちるだろうか、哲人は萎えるだろうか」というもので、自らを泰山に例えるものであった。泰山の高さ自体は1545メートルとさほど高いわけではないが、黄河平原においてはどっしりとひときわ目立つ存在であることは間違いない。さらに山上の景観は仙人が住んでいそうな中国独特の岩山の風景が広がり、霊山として古今通じて信仰の対象となっていることもうなずけるはずだ。

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タグ:孔子 泰山

2016年07月11日

青州の思い出

青州市は山東省にある中規模の都市で、宋の時代の古い町並みが残る「古街」など歴史的な遺跡が多く残る田舎町である。三国志に出てくる曹操がここで兵を集め黄巾の乱の鎮圧に青州の兵が活躍したため、「青州兵」と言えば強兵として古代より名が高い。下は川沿いに広がる宋の街並みを再現した場所で、観光客向けのホテルや売店が並ぶ。また川沿いが公園として整備されており散歩しながら美しい風景を楽しめる。
青州3
青州

青州博物館には青州市の歴史を物語る多くの出土品や歴史文物が展示されている。パスポートを見せれば無料で中に入れ、夏は空調も効いてさわやかだし、そばには美しい公園もあるので青州ではおすすめのスポットだ。博物館は2階建てで古代から現代までの青州市の歴史がわかるように展示されている。
博物館

博物館の展示の中でひときわ目を引く美人を見つけた。宋代の女流詩人として有名な李清照の肖像画である。古代の中国美人画を見て初めてその美しさにドキッとさせられたくらいに色っぽい。
李清照

李清照は宋詞と呼ばれる自由な形式の詩の女流作家として有名で、夫を若くして戦乱で亡くしたものの亡夫の意思を継いで「金石録」を完成させた。近くの公園には李清照を記念する碑文や記念館がある。下は彼女の「声声慢」という詞で未亡人として過ごす不安な夜を描写している。

「声声慢」

尋尋覓覓       恋ふれども したへども
冷冷清清       つれなし すげなし
悽悽惨惨戚戚    やるせなし さぶし せつなし
乍暖還寒時候    暖しとおもへば 寒き 季節なれば
最難将息       しぬぎがたくて
三杯両盞淡酒    薄酒の 三杯(みつき) ふたつき
怎敵他         さはされど
晩来風急       夕ざれの風をふせがず
雁過也         雁がねに
正傷心         こころはいたし
却是旧時相識    ふるとしも聞きけむものを

満地黄花堆積    地に満ちてさきし 黄菊も
憔悴損         おとろふる
如今誰忺摘      いま たれありて 摘みなむや
守著窓児       窓辺に ながめ
独自怎生得黒    ひとりみの 夜の闇 まつに
梧桐更兼細雨    あをぎりに 小雨かかりて
至黄昏         たそがれを
点点滴滴       ほとほとと しとしとと
這次第         このこころ
怎一個         愁いたし
愁字了得       といひてやむべき

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タグ:青州

2016年06月26日

張作霖爆殺ソ連関与説

張作霖爆殺事件は1928年6月4日に瀋陽の皇姑屯で張作霖の乗った汽車が爆発され暗殺された事件で、広く信じられている説では爆発物を仕掛けたのは関東軍の河本大作とされている。ところが数年前に航空自衛隊幕僚長だった田母神氏が張作霖爆殺はソ連のコミンテルンの陰謀だったとする論文を発表して話題となった。またユン・チアンの毛沢東伝『マオ』においてもソ連の関与が示唆されている。彼らの根拠とするところはソ連の作家ドミトリー・プロホロフの著作やソ連のコミンテルンに関する資料だ。意外なことに中国でも張作霖の爆殺にソ連が関与していたことを示唆する本が出版されていて、それが托托著『皇姑屯事件真相』遠方出版社2011年出版の書である。

張作霖

この書の著者が依拠しているのも田母神氏らと同じプロホロフの著作が主だが、それ以外のソ連やコミンテルンの文献も参考にされている。この書の結論としては確かに張作霖の暗殺にソ連のコミンテルンが関与した可能性があるが、それは関東軍や河本大作が無関係だったことを意味するわけではない。真相は関東軍の一部や河本大作がソ連やコミンテルンと連携を取って起こした事件というのがその主張だ。

ソ連が張作霖の暗殺に動いた理由の一つは、張作霖が北京を統治していた際にソ連大使館が保護していた共産党員の李大サを処刑したことにあるという。本来は大使館は国際法で現地の政府が無断で入り込むことは許されていないのだが、張作霖はソ連大使館を許可なく襲撃し中に踏み込んで李大サを処刑してしまった。張作霖の国際法を無視したこの態度にソ連側が激怒したことが暗殺の理由の一つだった。

もう一つの理由はソ連が権益を握っていた東清鉄道に対抗して、張作霖が並行する鉄道を建設することでソ連の権益を奪おうと計画していたことであった。東清鉄道とは満州里からハルピンを経てウラジオストックに抜ける鉄道で、ソ連はシベリア鉄道と連結してユーラシア大陸を横断する鉄道を建設する計画だった。日露戦争により長春から大連への南満州鉄道は日本に権益が移譲されたが、長春より北の鉄道路線は引き続きソ連が権益を握っていた。張作霖はこの鉄道に関する利権をソ連から奪おうとしたのである。

しかしソ連に張作霖爆殺の動機があったとしても、関東軍がソ連のコミンテルンと提携した証拠は何かという謎が残る。提携の証拠の一つは爆破状況だが、河本大作が線路に仕掛けた爆弾以外に張作霖が乗っていた列車の内部にソ連の工作員により爆弾が仕掛けられていた可能性が高いという。張作霖の乗っていた列車はもともと西太后のお召し列車で特別な張作霖一行の専用列車であったから、ソ連の工作員が関東軍や張作霖側の協力者の手引きなしに乗り込んで爆弾を仕掛けるのは不可能である。つまりソ連の工作員が張作霖と同じ列車に乗っていたとすれば、それは関東軍や張作霖側にも協力者がいたことを示している。

では関東軍内部にはコミンテルンに通じたエージェントがいたのであろうか。エージェントである可能性が高いのは張作霖の顧問で直前まで同じ列車に乗っていたものの、途中の天津で降りた関東軍の町野武馬と張作霖の手下であった張宗昌である。二人は事前に張作霖暗殺の情報を知っており、しかも暗殺のためにソ連のエージェントと共に爆薬を列車内部に仕掛ける工作を見届けた後に列車を降りた可能性が高い。

では河本大作の役割とは何だったのかということだが、河本大作の仕掛けた爆薬はソ連の工作を隠蔽するための補助的な役割に過ぎなかったのではないか。張作霖に致命傷を与えたのは河本大作の仕掛けた爆薬ではなく、ソ連のエージェントにより列車内部に仕掛けられた爆弾だった。

ではなぜ河本大作が補助的な役割を果たすことになったかと言えば、河本大作とコミンテルンの間をつないだのは岡田啓介であったという。岡田啓介は張作霖爆破事件当時は田中義一内閣で海軍大臣を務めていたが、以前よりソ連のエージェントと連絡があったらしい。そして張作霖爆殺事件の責任を取って辞任した田中義一に代わってまんまと総理大臣の位についたのであった。そして、これが2・26事件で岡田啓介が陸軍青年将校に狙われた隠された原因だった。岡田啓介とソ連との繋がりは、その後もゾルゲや義理の甥にあたる瀬島龍三らを通じて続いたという。

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2016年06月20日

青島の思い出

青島(チンタオ)といえば青島ビールが有名だが、これはドイツ人の植民地だったころの名残りである。第一次世界大戦で日本がドイツ人を追い出して統治したが、1922年には中国からの抗議で返還せざるを得なくなった。日中戦争がはじまると再び占領して統治しているから、日本人にとってもなじみの深い土地である。海岸沿いの街で日本の風景や天候に似ていることも日本人の好みそうな街だ。下の写真はドイツ風の別荘が残っている地域で、おしゃれなカフェもある。

青島ドイツ街
青島ドイツ

青島のドイツ風の街並みが残っている地域の隅のほうに小さな要塞風の異様な屋敷がある。ここは蒋介石が別荘に使っていた屋敷と屋敷前の看板で紹介されているが、実際にはロシア人が建てた洋館で蒋介石が住んだことはない。ただ映画のロケでたびたび蒋介石の屋敷として使用されたため、蒋介石の別荘ということになってしまったらしい。本当の名前は「花石楼」と呼ばれ、中も見学できるようになっている。

蒋介石別荘
蒋介石別荘2

海の近くなので夏は海水浴客やヨットなどのマリンスポーツが盛んだ。青島に近接して紅島や黄島という地名もあり、赤・青・黄となんだか信号のような名前の付け方だなと思った。海が好きな人や海鮮料理が好きな人にとっては中国の中でも有数の保養地だろう。

ヨットはーばー
船

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タグ:青島

2016年06月15日

長春の友誼公園

長春市の友誼公園は5年ほど前に長春市の南に移転した長春市の市役所や吉林省図書館の後ろに広大な敷地を使って新しく造成された公園だ。以前はこのあたりは長春市の南の郊外で広い畑が広がっていたのだが、再開発によりこの周辺が新たな長春市の政府機関の移転地区となったため巨大な建物や公園や団地が整備中である。
友誼公園
 この近くには世界各地の彫刻家が作った彫刻やモニュメントが置かれた彫刻公園もある。ただ彫刻公園のほうは有料なのに対し、友誼公園のほうは市民の憩いの場として無料で開放されているので多くの市民でにぎわっている。真ん中には大きな人工池があり、そこを取り囲むように歩道が整備されている。歩道は犬の散歩をしている人やジョギングをしている人が行きかっている。人工池の真ん中には橋が架かっていて、東屋があり休憩できるようになっている。
友誼公園4
公園にはスピーカーが設置されており、ムードミュージックがうっすらと流れているのでデートコースにも最適だ。公園内の設備や草木もよく手入れされていて散歩してもすがすがしい。長春市内の公園の中では満州国時代に作られた南湖公園などもあるが、友誼公園のほうがほどよい広さで手入れが行き届いているためより美しいのではないかと感じた。
長春友誼公園
公園の後ろにはオーストラリアのシドニーにあるオペラハウスのデザインを彷彿とさせる貝のようなデザインの建設中の巨大な金色の建物があるが、これは博物館と劇場を兼ねた建物であるらしい。
博物館

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タグ:長春 公園

2016年05月18日

川島芳子は生きていた(37)憲立の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載
日本訪問期間に我々はまた川島芳子の同腹の兄である愛新覚羅・憲立が川島芳子について書いた手記を手に入れることができた。これは我々調査団にとって、貴重な資料的価値があるものだ。

清粛親王善耆には五人の妻がおり、合わせて三十八人の子供を設けた。そのうち第四側福晋、張佳氏は善耆の五番目の妻で、十人の子供を生んだが、憲立はそのうちの最も長じた子供(全部合わせると第十四王子)で、川島芳子は三番目の子供(全部合わせると第十四王女)であった。

以下は川島芳子の兄である愛新覚羅・憲立の証言である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そこへ、孫連仲が北京接収のために乗込んで来た。彼の夫人は私の一族である関係上、孫夫人とは簡単に連絡がついた。そこで私はいろいろと働きかけて、芳子の除名運動を開始した。芳子の官選弁護士になった中の一人とも連絡がついて、差入れもできるようになった。判事にも働きかけて、やっと連絡はついたものの、
「命を助けたいなら、金の延棒五十本、出せ」
と言われたのには驚いた。なにしろ、金の延棒は一本が当時オフィシアル・レートで三百五十ドル、ヤミ相場ならば七百ドルだったから、それを五十本ほしい、それだけ出せば、釈放とまではいかないまでも、命は助けると言われて、私も困った。今の日本の金に換算してみてもざっと千二百六十万円程になるのである。
しかし私は結局、要求された全部ではなかったが、それに近い相当な金を渡してやった。もちろん私の手からではない。表面上はある有力者(現存に付き特に名を秘す)を立てて、関係者に綿信たのである。私の手から出ていることはまちがいない。おそらくその全部が判事の手に渡らなかったかもしれないが、受取ったことは確実である。無罪のほうへ誘導しかけていたことを見ても、それは判る。

芳子の裁判は、法廷内では狭いというので、公園の広場を臨時の法廷にして、傍聴公開で行われた。
それでも証拠は挙がらない。断罪の理由が立たないのである。
ところが、たまたま調べが上海当時のことに触れていった。すると、立法院長をしていた孫科から
「公開中止、直ちに処刑せよ」
という電報が来たことがわかってきた。
そこでたちまち公開裁判は中止され、急に死刑の宣告となった。
孫科は、前に上海で芳子から機密を奪われている。それが明るみへでたら大変だ、と思ったのであろう。
死刑と決められたが、まだ私は諦めなかった。なおも働きかけていると、それでは処刑したような恰好にして生かしておいてやろう、という話になった。それには金の延棒を、こんどは百本出せ、というのである。私はどうせ財産は奪られてしまうだろう。財産のことは考えず、妹を助けてやろうと考えて、要求通りのものを出す覚悟をした。

しかし、生かすことに成功したとして、あとをどうするか、という問題にぶつかった。処刑された恰好になった以上は、幽霊のような存在だから、日本へ連れてくるわけにもいかない。蒙古へ送りこもうか。それともロシアへ送りこもうか。その二つしか手段は考えられない。

その時、働きかけてくれる白系ロシア人があって、ロシアも芳子から情報をとりたがっているからロシアの出先の兵隊に渡りがつくと云った。そしてロシアの飛行機が二台来たことも事実である。

そのうち、いよいよ最終判決の日が来た。もちろん死刑。ただちに刑を執行する、ということになった。夜明けの五時ごろに執行するというので、多勢の新聞記者が押掛けたが、呉盛涵という判事が建言をもって入れさせなかった。ただ一人、アメリカの新聞記者が入ることを許された。それだけは断りきれなかったらしい。中国側の記者は全部シャット・アウトされた。
やがて暁の空気を破る銃声一発。処刑は終わった。アメリカの新聞記者が彼女の死体という写真を撮って出て来た。万事は終わったのである。

今、何処にいるか
弁護士が私の所へ来て、弁解やら、不満やらを述べ立てた。
「あんなに金を取っておきながら、こんなことにして、まったく怪しからん」
と怒った。かれとしても私に顔向けできないからである。
「しかし、どうも私には、ほんとうに処刑したとは思えない。替玉を殺したのではあるまいか」
とも言った。私としては芳子が生きていることを信じたい。裁判所が誰かを身代わりに処刑して、川島芳子を処刑した、とすることも不可能ではない。しかし、簡単にそう考えるのも、希望的解釈にしか過ぎない。
それにつけても口惜しいのは、有罪の証拠が一つも挙がらないのに、強引に処刑してしまった、当局者の態度である。芳子の判決理由書を見ると唯一の証拠らしきものは、村松梢風著「男装の麗人」という本一冊だけである。

しかも芳子が中国人であるか、日本人であるか、ということが論叢の的になった。日本人とすれば漢奸の罪にはならない。そこで日本の川島浪速に照会を発した。
「あなたの家の養女だというが、籍は入っているか」
それに対する川島の返事は、
「籍をいれたかどうか、忘れた」
なんということであろうか。もし川島が戸籍謄本を送り、芳子は確かに養女である、と証明すれば、芳子は戦犯になったかも知れないが、処刑されなかった。
処刑した死体は、引取り人がなければ共同墓地に入れられる。死体の上に肢体を積むという埋め方をされる。私としてそんなことをされてはいやだから、日本人の坊さんに頼んで引取ってもらうことにした。ただし、すぐに荼毘に付さなかればならない規則である。そこで日本人の坊さんは、ある死体を引取って荼毘に付してくれた。これは確実である。しかし、その死体が芳子であったかどうか。これは私には判断する材料がない。引取ってくれた坊さんは、芳子に面識がないし、顔を見たとしても、弾丸が後頭部から入って顔面が見分けられない位に貫通していたから、どんな顔だか判断がつかない。一人だけ許されて処刑の現場を見たアメリカの新聞記者も、芳子に面識のない人である。

川島芳子が現在生存しているかどうか。私にはいずれとも判断がつきかねる。
ただ、芳子が処刑されたという相当日後、蒙古とロシアとの国境線に近く、粛親王家の昔からの領地がある。そこの管理者から私に宛てて、こういう通知が来た。
「御一族は確かに着きました。これから北方へおいでになるところです」
あるいは、と私は思う。もしも芳子が生きているとしたら、蒙古の牧場にいるのではあるまいか。いや、北方へ出発するという通知だから、もうロシアに入っているかも知れない。ロシアは彼女からいろいろな情報を得たいと思っていたらしいから、入国させたかもしれない。・・・しかし、私の一族といっても、それは芳子のこととは限らない。私の一族は多勢いる。兄弟だけでも三十数人いるのだから、芳子が蒙古へいったと考えることにも、まだ疑問がある。

骨肉の情として、私は芳子が生きていることを信じたい。なんとしても生きていてもらいたい。あの親分肌のサバサバした気性の芳子。至る所で彼女を親分のように慕う多くの男たちに取巻かれていた芳子。蒙古でもロシアでもいい、生きていてくれ。
だが、「御一族は確かに着きました。これから北方へおいでになるところです」という通知のあと、何の連絡もない。果して芳子はどこにいるのであろうか?あの弱い体である芳子が一人で蒙古の草原をさまよう姿を偲ぶにつけ、或はあの大草原の真中で枯れ果てたのかも知れない、将又本当に北国へ脱出しているかもしれない、何れにせよ、骨肉の兄としてはその生存を願うて止まない次第であり、又その生存を信ずるものである。

2016年05月08日

川島芳子は生きていた(36)フランス人の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

フランス人記者であるロジェ・ファリゴとレミ・クーファーによる中国の諜報機関を扱った"The Chinese Secret Service"という本の中でも川島芳子の生存説について取り上げられている。この書は黄昭堂訳で『中国諜報機関』1990年光文社出版と日本語訳があるのだが、この日本語版は一部しか翻訳されていない抄訳でちょうど川島芳子生存説の部分は抜け落ちているため、全体を知りたい人は英語版あるいはフランス語版を参照してほしい。

著者のフランス人記者であるロジェ・ファリゴとレミ・クーファーはフリー・ジャーナリストを名乗っているが、その著作がほとんどスパイ物という経歴から見ると、記者というのは表向きの身分で本当はフランス情報機関の人間である可能性が高い。

フランス人記者2人によるこの書は主に康生という毛沢東の時代の中国情報機関のボスの伝記を中心に書かれている。この康生という男は中国特務機関のボスとして麻薬取引や文化大革命を背後から指揮し恐れられた人物である。元女優の江青を毛沢東に近づけて篭絡し、背後から毛沢東を操ろうとしたのも康生であった。

この書の中では川島芳子が次のように紹介されている。「中国の“マタ・ハリ”。満州国で生まれ、日本人により育てられた。土肥原大佐の情報機関のために働いた。中国のラスト・エンペラーを日本の支持の下で満州国の皇帝にしようとした。数多くの情報工作に関わったが、康生のためにも動いたとされている。国民党により捕縛され北京で銃殺されたが、今なお北京で生きているという説もある。」

ここで注目したいのは、川島芳子が北京で生きているという説をフランス人記者が耳にしていることである。これは川島芳子が長春の郊外で方おばあさんと名乗り暮らしていたという話とは矛盾しない。なぜなら方おばあさんが長春にいたのは夏の数カ月だけで、そのほかの時期には各地の工作拠点に出没していたからである。方おばあさんはしばしば北京で元首相の息子であった西園寺公一を訪問していたという情報がある。そもそも西園寺公一が民間大使として中国に派遣されたのは、1957年に溥傑の長女の慧生が表向きは恋人との心中自殺という名目で殺害され川島芳子を日本の皇室との秘密外交に使えなくなったためである。

さらにフランス人記者は中国共産党の情報機関のボスであった康生と川島芳子が協力関係にあったとほのめかしている。では康生と川島芳子とは具体的にどのような関係にあったのであろうか。本文の別の部分を読むと、康生は1930年代にモスクワから中国に戻ると満州国皇帝溥儀の統治下にあった中国東北地方の情報活動を始めた。そこで溥儀の宮廷で料理人をしていたある男から情報を得て、その男を通じて川島芳子とも連絡を取っていたというのである。大変にグルメであった康生は満州国崩壊後に溥儀の宮廷でコックをしていたこの男を雇い入れて自分専属の料理人とした。後に康生亡き後このコックはケ小平によって暗殺されたそうだ。ともかく川島芳子が康生を通じて中国共産党と連絡があったというのは注目すべき情報である。

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