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2019年02月28日

2月28日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1953年2月28日は、吉田茂首相(任1946-47,48-54。自由党総裁任1950-54)が衆議院予算委員会で"バカヤロー"と叫んだ日です。

 社会党右派の西村栄一議員(在任1946-71)は、首相が述べた国際情勢は英米の首脳が述べた意見に賛同していたことを批判し、"イギリス首相の翻訳か"と皮肉りながら問いただし、吉田首相は「日本の総理大臣として述べた」と返しました。西村議員はその返事に対し、「別に興奮しなくても」と首相に告げると、首相は「無礼だ」と激高、それに答えた西村議員も「何が無礼だ!」と反論し、質疑がヒートアップしていきました。言葉の投げ合いが続く中、吉田首相は着席した状態で、小声で"バカヤロー"とボソッと呟いてしまい、それをマイクが拾い西村議員が聞いてしまったため、余計に騒動がエスカレートしていきました。結局内閣不信任決議まで出され、自由党の一部が造反、脱党して賛成に回ることになり、決議は可決、吉田首相は衆議院を解散し、第26回衆議院議員総選挙へと向かうこととなりました。これが"バカヤロー解散"です。

 ちなみに、閏年の2月29日も加えて話すと、2012年2月29日に陽が当たります。この日、東京スカイツリーが竣工し、日本に世界一高い自立式電波塔が誕生したのであります。

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タグ:日本史
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2019年02月27日

2月27日は何に陽(ひ)が当たったか?

 272年2月27日は、帝政ローマ(ローマ帝国。紀元前27-紀元後395)のコンスタンティヌス帝(コンスタンティヌス1世。位306-337)の生誕年月日です(272-337)。前日に引き続いて専制君主政(ドミナートゥス。284-395)を取り上げます。

 コンスタンティヌス1世の時代は、312年の戦争(ミルウィウス橋の戦い)の際、天空に"汝これにて勝て"という文字が十字架とともに現れ、これに弾みがついて戦勝をもたらしたという伝承があり、これはディオクレティアヌス帝(284-305)の時代に迫害されても絶やすことなく、カタコンベ(地下墓所)などでも活動していたキリスト教会の教父たちに広められていきました。翌313年、コンスタンティヌス帝は東帝リキニウス(位308-324)とミラノ勅令を発してキリスト教を公認しましたが、リキニウス帝が迫害に転じたことで、彼を破って単独皇帝となりました、帝国統一の最初の事業として、325年、ニケーアで公会議を開き、アタナシウス(295?-373)の主張する"三位一体(父なる神・子なるキリスト・聖霊が一体である)"を正統とし(アタナシウス派)、イエス・キリスト(B.C.4?-A.D.30?)の神性を認め、これに対抗するするアリウス(250?-336)のアリウス派("キリストは父なる神の被造者"としてキリストを人性を主張)を異端としました。また330年、非キリスト教的伝統の強いローマを離れ、ビザンティウム(ビザンティオン)へ遷都、コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)と名付けました(現トルコのイスタンブル)。
 内政ではコロヌス土地緊縛令(332)を発して身分と職業の固定を重視し、官僚を整備してドミナートゥスを維持しました。外政ではゲルマン一派のゴート族の討伐を行いました。


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タグ:ローマ帝国
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2019年02月26日

2月26日は何に陽(ひ)が当たったか?

 364年2月26日は、帝政ローマ(ローマ帝国。紀元前27-紀元後395)のウァレンティニアヌス朝(364-392)が始まった日です。帝政の体質が専制君主政(ドミナートゥス。284-395)だった時代です。

 コンスタンティヌス帝(帝位307-337)、ユリアヌス帝(帝位361-363)を輩出したコンスタンティヌス朝(305-363)に続く王朝です。ゲルマン民族の大移動(375)があった時代になります。ウァレンティニアヌス朝の最初の皇帝、ウァレンティニアヌス1世(帝位364-375)はコンスタンティヌス帝の大甥にあたります。そして同王朝の最後の皇帝ウァレンティニアヌス2世(帝位375-392)の治世では、379年より東方皇帝としてテオドシウス帝(帝位379-395)が即位しておりました。結果的にウァレンティニアヌス朝では、実質4代続きました。

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2019年02月25日

2月25日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1848年2月25日は、フランスで第二共和政が発足した日です(1848.2-1852.12)。前日24日に二月革命が勃発し、臨時政府がおこされました。

 臨時政府は、産業資本家や有産市民、またロマン派の詩人ラマルティーヌ(1790-1869)ら穏健共和主義者たち、また少数の労働者や、急進的雑誌『良識』の編集長ルイ・ブラン(1811-82)ら社会主義者などで構成されました。政府はすぐさま共和国宣言を行い、陽の当たった2月25日、フランス第二共和政が成立しました。ルイ・ブランは、武装した下層市民を従えて徐々に台頭、リュクサンブール委員会という労働委員会を設置して、その委員長に就任しました。そしてその幕開けとして委員会に属する"国立作業場"の設置を発表、実行に移しました。ルイ・ブラン委員長は最低賃金・労働時間の設定など、労働者階級の改善策を施し、労働問題を収束させて、生産の国家統制をはかろうとしましたが、これは紛れもなく社会主義的改革でありました。

 このため、穏健共和主義者は、ルイ・ブランの社会主義的改革に不満を呈し、やがて両者は対立しました。国立作業場は、恐慌における失業者対策としての土木作業など、有効ではありましたが、社会主義の理念に基づくため、開店休業中でも賃金を給付する義務があり、資本家やブルジョワは困惑するのも当然でありました。またにわか作りの工場であるため資材の流通、仕事の配分、土地の確保などで混乱し、特に農民は社会主義化(農場国営化・集団化)による土地没収の不安が高まりましたので、ルイ・ブランら労働者・社会主義者側を離れて穏健共和主義者側を支持するようになっていきました。
 1848年4月、総選挙が行われ(四月普通選挙)、結果、労働者・社会主義者側は惨敗、穏健共和主義者による組閣が行われました。リュクサンブール委員会は解散させられ、国立作業場も閉鎖となりました(6月21日)。このため、作業場の労働者は一転して再度失業者となり、23日から26日にかけて大規模な労働者暴動がパリを中心に展開(六月暴動)、ルイ・ブランは亡命身分となり、彼の改革は崩壊しました。

引用文献『世界史の目 第102話』より


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2019年02月24日

2月24日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1848年2月24日は、七月王政を主導してきたフランス国王、ルイ・フィリップ(位1830-480)が退位した日です。

 ナポレオン時代(1799-1815)の終焉とウィーン体制の確立により、1814年、フランスはルイ18世(位1814-24)によるブルボン復古王政となりました(ブルボン朝。1589-1792,1814-30)。ルイ18世没後は弟のシャルル10世(位1824-1830)が、兄と同じく極右王党派を指導して反動政治を行いました。国民による革命を抑止しようとする反動政治は、ルイ18世の治下ではまだ緩めでしたが、シャルル10世即位後は露骨に打ち出され、極右王党派からポリニャック(1780-1847)を首相に任命(任1829-30)、言論抑圧・旧教聖職者保護・国民軍解散などを行いました。なかでも、フランス革命(1789-1799)によって国外逃亡の身分となり、財産を没収された亡命貴族(エミグレ)に多額の補償金を供与して救済しようとした動きは、血税を納めてきたフランス国民を激怒させ、内閣不信任決議案を提出するなど、自由主義勢力が動き始めました。議会を解散させたシャルル10世は、こうした国民の政治批判回避の目的で、1830年7月、アルジェリア出兵を行いました。

 同じ頃、総選挙が開かれましたが、当然復古王政に反対する自由主義勢力が多数を占める結果となりました。シャルル10世は7月25日、議会が招集される前に議会解散の命令を出し、国王派以外の選挙権を剥奪する選挙法改悪と、言論・出版の厳しい統制を義務づけました(七月勅令)。上層ブルジョワジーを中心とする市民は、翌々日の7月27日、政府軍に対して戦闘を開始、3日間市街戦を展開しました(「栄光の3日間」)。結果、国王軍は敗北、シャルル10世は8月2日に国外亡命となりました(七月革命。1830.7)。
 革命派は共和政派と立憲王政派の2大派閥がありましたが、相互間の融和がはかられることになり、自由主義精神であることと、立憲王政も取り入れることで、ブルボンの分家であり、革命を支持したオルレアン家から、ルイ・フィリップ(1773-1850。自称"国民の王")が金融資本家らのバックアップでフランス王位に就き(位1830-48)、七月王政を開始しました(1830-48。オルレアン朝)。ブルジョワジーの支配的地位が確立した瞬間でありました。これにより産業資本家が急成長、産業革命がフランスにも到来しました。

 七月王政下に始まった産業革命は、労働者階級を形成していきました。労働者は、社会的不平等の根源を私有財産に求める社会主義精神を身に付けるようになっていきます。これにより様々な労働運動・社会主義運動が勃発していきました。これが共和政支持、すなわち王政打倒につながっていったため、ルイ・フィリップはしばしばこうした運動を弾圧するようにもなっていきます。復古王政を倒しブルジョワ支配を確立して、選挙権を拡大させたものの、それでも有権者は全人口の1%に満たない状況(約0.6%)でした。銀行家・大商人・大地主といった大資本家が物を言う時代であり、労働者・中小市民は以前の復古王政とさほど変わらなかったのです。
 これにより工場者・労働者ら中小市民による集会(改革宴会)がフランス各地で結成され、選挙法改正運動が始まりました。折しも1847年、恐慌に陥ったこともあり、改革宴会は、1848年2月、パリで全国大会を開催、政府へ過激な改正要求を突きつけました。時の首相フランソワ・ギゾー(任1847-48)は「選挙権が欲しいのなら金持ちになれ」と発し、上層ブルジョワの代表として威厳を高め、これらの要求を拒絶し、逆に改革宴会の解散を命令しました。

 1848年2月22日、改革宴会の選挙法改正運動は遂に暴動と化し、パリはデモの嵐となりました。ルイ・フィリップはこの事態を重く見て、23日ギゾーを更迭しましたが、暴動は収まらず、翌24日は武装反乱も始まってパリは火の海となりました。これにより同2月24日、ルイ・フィリップは遂に退位してイギリスに亡命、七月王政は崩壊したと同時に、フランス二月革命の勃発となりました。

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2019年02月23日

2月23日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1623年2月23日は、モルッカ諸島のアンボン島で、アンボイナ事件が発生した日です。

 17世紀、東南アジアに進出したオランダは、アジアの拠点をインドネシアに置きました。当時ジャワ島東側では、ヒンドゥー王国マジャパヒト(1293-1520?)の後、ジョクジャカルタを中心にイスラム国家のマタラム王国(16C末-1755)が米貿易で、西側にはバンテンを都にイスラム国家・バンテン王国(1526?-1813)が胡椒貿易で、それぞれ栄えていましたが、オランダはバンテン王国を服属させて、バンテン東方のジャヤカルタ市にアジア貿易の本拠地を築き、ジャヤカルタ市は1619年にバタヴィア市と改称されました(現・ジャカルタ市)。ジャワを拠点としたオランダは、17Cの間に、モルッカ諸島・マラッカ・セイロン・ケープといったかつてのポルトガル領を次々と占領していきました。

 オランダがアジア貿易を有利に動かしていた時、モルッカ諸島で大きな事件が勃発しました。オランダは1607年にポルトガルから同諸島を領有していましたが、1600年に東インド会社を設立したイギリスが、モルッカ諸島の1つであるアンボン島に商館を設置し、そこに日本人傭兵を置いていました。これには1619年における英蘭同盟により共存策をとっていましたが、イギリス商館に不審を抱いたオランダ商館長は、イギリス商館の日本人傭兵を捕らえ、そこでの自白からイギリス側のオランダ商館襲撃計画が発覚したのです。1623年2月23日、オランダ商館側はイギリス商館長、商館員、日本人傭兵ら21人全員を拷問のうえ虐殺しました。これがアンボイナ事件です。事件の影響でイギリスの東南アジア経営は頓挫し、イギリスはモルッカ諸島から撤退することになるのです。

引用文献『世界史の目 104話』より

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2019年02月22日

2月22日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1983年2月22日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)の11枚目スタジオ・アルバム、"Kilroy Was Here(邦題:ミスター・ロボット〜キルロイ・ワズ・ヒア〜)"がリリースされた日です。タイトルはアメリカ軍兵士による壁への落書き、"Kilroy Was Here(当時の和訳は「キルロイ参上」)"からとられたものとされています(画像はこちらWikipedia Commonsより)。

 実はこの2月22日は、Styxが1972年の同月同日にて、最初のレコード・レーベル、Wooden Nickel社と契約に至った日でもありますが、9月16日のブログでこのあたりの話を綴っておりますので、そちらを参考にしていただこうかと思います。本日は"Kilroy Was Here"を取り上げます。

 Styxの黄金時代の最終作品がこの"Kilroy Was Here"です。Dennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)、John Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ。Bass)、James [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,vo)、Tommy Shaw(トミー・ショウ。gtr,vo)の5人によるスタジオ・アルバム制作はこの作品がラストと言うことになります。

 このアルバムは1981年の前作"Paradise Theatre(邦題:パラダイス・シアター)"に続くコンセプト・アルバムです。アルバム・コンセプトの内容はイギリスの映画監督Brian Gibsonの脚本と監督によってショート・フィルム"Kilroy Was Here"が作られ、1983年のライブ・アルバム"Caught in The Act(邦題:スティクス・ライヴ)"およびそのビデオ版(2007年DVD化)では、"Kilroy Was Here"のロック・オペラとして具現化されました。
 その中にThe MMM(the Majority for Musical Morality)と呼ばれるアンチ・ロック・ミュージック団体が登場しますが、かつてStyxは前作"Paradise Theatre"収録の"Snow-blind"問題(詳細は1月19日のブログの"Snow-blind"の項をご参照下さい)において、"Snow-blind(邦題:白い悪魔)"を薬物撲滅を掲げるアンチ・ロック・ミュージック団体らに抗議された経緯を、政治がロック・ミュージックを制圧するという話に置き換えて"Kilroy Was Here"を制作したとされております。実質的に、このアルバムからのファースト・シングルに選ばれた"Mr.Roboto(邦題:ミスター・ロボット)"とのカップリングは"Snow-blind"が選ばれました。

 では、本コンセプト・アルバム、"Kilroy Was Here"のストーリー内容を見ていきたいと思います。アルバムの内ジャケットには"The Past(過去)"と"The Present(現在)"の見出しでストーリー内容が示されています。

The Past

 The MMMの創設者であり、代表を務めるDr.Everett Righteous(配役はJY)は、彼自身のケーブルテレビ・ネットワークを使ってアメリカ政界の有力者となっていました。Dr.Righteousはロック・ミュージックを社会悪ととらえ、どんな形であってもロックを許すことは非難の対象となり、この悪影響によってアメリカ経済も減退させると説いていました。ロックがアメリカを潰すという実態をメディアを通じて説いたThe MMMはたちまち人々の支持を集め、ロックンロールを禁じる法律も決まり、Dr.Righteousは人々のカリスマ的存在となっていたのです。
 世界的に有名なロック・スター、Robert Orin Charles Kilroy(配役はDennis)もこの法律が決まる頃には自身のロック・バンドによるコンサートツアーを終えようとしていました。"Paradise Theatre(パラダイス・シアター)"劇場での最終日、大入りの観客の前で上演するはずだったKilroyの最終ツアーにて、MMMの委員たちが、可決したばかりのロック禁止法を試験的に施行しようとしてステージに上がり込み、ロック・コンサートを終わらせてしまいました。会場は大混乱におちいり、MMMの委員の一人は群集に殺害されました。Kilroyは委員殺害の疑いをかけられて逮捕され、委員殺害の有罪判決を受け、監獄送りになってしまったのです。

The Present

 日本製のロボットによって監視された近未来。テクノロジー過剰の機械に依存する社会となっていました。このロボットは日本製だけに、仏像の雰囲気を醸し出すロボットでありますが、そのロボットは日本風に"Mr.Roboto(ミスター・ロボット。英語ではrobot。日本製らしく語尾に「o」をつける)"と呼ばれます。低コストで終身で働くように設計されたロボットで、かつては人間が行っていた肉体労働を担い、近未来の社会を管理していました。
 Dr.Righteousは彼自身のモラルを強く主張するため、夜に集会を開催し、支持者にロックにおける"負"のシンボルとも言うべきエレキ・ギターやロック系のレコード集を火に投じさせ、ロックの社会悪をうったえました。一方で彼の主張に反し、ロック復興の地下活動を行っていた中心者、Jonathan Chance(配役はTommy)という人物がいました。JonathanはKilroyをロック復興のシンボルとして捉えておりましたが、当のKilroyは、もう何年も刑務所に入れられており、しかもMMMのケーブルテレビ・ネットワークを通じてマインド・コントロールされるという屈辱を受けておりました。JonathanはKilroyとコンタクトを取ろうとして、MMMの電波を妨害し、違法映像であるKilroyのコンサート(劇中では"Cornerstone〔邦題:コーナーストーン〕"収録の"Borrowed Time〔邦題:虚飾の時〕"が流れる)を流してMMMからのマインド・コントロールを解除させようとしました。
 Jonathanの尽力で目が覚めたKilroyは脱出を企てます。Kilroyは、ある夜更けに大胆にも警備Robotoを取り押さえて解放を試み、Robotoに扮して街の至る所にJonathan宛のコード・メッセージ"Rock Code"の落書きを残していきました。そのコード・メッセージを発見したJonathanは解読した通りに動いていくと、かつての"Paradise Theatre"にたどり着きます。そこはDr.Righteousの設立した「ロック病理博物館」という、ロックによって発生した異常や機能障害を歴史的に展示する場所に成り変わっていました。展示物としてElvis Presley(エルヴィス・プレスリー)やJimi Hendrix(ジミ・ヘンドリックス)、そしてKilroyのバンド(これがStyx)の機械仕掛けの人形が置かれ、演奏シーンをモーターで動かしていました。その中でKilroy人形はエレキギターで人を殴る動きをしていました。Dr.Righteousはロック病理博物館の展示物を、"最後の"ロック・コンサートと銘打ち、ロックの暴力的な末路として表していましたが、この有様に堪えきれなくなったJonathanはそのギターを奪い人形を壊そうとしました。しかしこれを阻止しようと、一体のRobotoが近づいてきます。JonathanはギターでRobotoを殴ろうと構えますが、Robotoはゆっくりと頭部のマスクを外します。Robotoの中身は正真正銘のKilroyでした。Jonathanに安堵が流れ、Kilroyと初めての対面を果たすのでした(ツアーでは、ここで"Mr.Roboto"が披露されます)。


 個人的に所有している"Kilroy Was Here"は1989年2月21日リリースのCD(D20Y4008)ですが、内ジャケットに書かれていたThe PastとThe Presentの大まかな内容は以上の通りです。Robotoのデザイン製作は、1982年の「The Thing(邦題:遊星からの物体X)」や、のち1984年の「 The Terminator(邦題:ターミネーター)」のデザインを担当したSFXクリエイターのStan Winstonが手掛け、これが本作"Kilroy Was Here"の表ジャケットにも使用されました。

 レコーディング・スタジオは前作"Paradise Theatre"同様、エンジニアのGary Loizzo(ゲイリー・ロワイツォ)の Pumpkin Studiosで行われ、GaryやRob Kingsland、Ted Jensenらエンジニア/マスタリング陣、またプレイヤーとしてもサックス奏者Steve Eisen(スティーヴ・アイゼン)を中心とするホーン・セクションも前作に引き続いて参加しました。プロデュースは名義としてはStyxですが、これも前作と同じくDennis DeYoungが主導しました。

 さて、ようやく曲目リストの紹介です。
A面(アナログ盤)
  1. "Mr. Roboto(邦題:ミスター・ロボット)"・・・Dennis作
  2. "Cold War(邦題:冷たい戦争)"・・・Tommy作
  3. "Don't Let It End(邦題:愛の火を燃やせ)"・・・Dennis作
  4. "High Time(邦題:ハイ・タイム)"・・・Dennis作

B面
  1. "Heavy Metal Poisoning(邦題:ヘヴィ・メタル中毒)"・・・JY作
  2. "Just Get Through This Night(邦題:ディス・ナイト)"・・・Tommy作
  3. "Double Life(邦題:ダブル・ライフ)"・・・JY作
  4. "Haven't We Been Here Before(邦題:時が過ぎれば)"・・・Tommy作
  5. "Don't Let It End〜Reprise〜(邦題:ロックン・ロールの火を燃やせ)"・・・Dennis作


 1983年の音楽は、Culture ClubやDuran Duran等、イギリスで始まった"ニュー・ロマンティック"と呼ばれるムーヴメントに代表されるように、エレクトロ・ポップを前面に押し出したシンセ・サウンドが主流で、硬派のロック・ミュージシャンがシンセを多用するケースも見られるようになり、アメリカにも伝播していきました。
 同時に、これらに並行してMTVの活動が活発化した時期でもあり、プロモーション・ビデオの勃興が見られました。サウンド面だけでなくヴィジュアル面でもアーチストが評価されるようになり、イメージ戦略としてのプロモーション・ビデオは欠かせないツールとなって、優れたビデオが多く誕生しました。
 "Kilroy Was Here"はこうした背景にリリースされたこともあり、ファースト・シングルの"Mr.Roboto"では上記The Presentまでのストーリーが軸となった大がかりなビデオが製作され、ジャケットのRobotoも数体登場するインパクトの強いビデオとして世に出ました(映像はこちらYoutubeより)。"演奏"ではなく、"演技"を披露するビデオが世に出たことで、ライブ・バンドとしてこれまでプレイしてきたStyxの、大胆なイメージ・チェンジでありました。
 サウンド面でも大きな変革があり、ギター・サウンドは減り、これに変わりシンセサイザーがこれまで以上に多用されたのも大きな特徴ですが、シンセサイザーは過去の作品とはベクトルを変えた使い方で、いわばパワーポップ、あるいはシンセ・ポップを主体とした楽曲群がほとんどを占めます。その代表がA-1の"Mr.Roboto"です。リード・ヴォーカルはDennisが担当、ヴォコーダーを通した日本語が飛び出すこのナンバーが最初にシングル化されたのです。
 この曲でStyxを認知した日本人リスナーも多く、場合によっては、Styxはニュー・ロマンティック系のポップなバンドとも思われたり等、少々誤解されることもありました。"The Grand Illusion(邦題:大いなる幻影)"や"Pieces of eight(邦題:古代への追想)"の時代の硬質なロック、さらにはWooden Nickel時代のプログレを愛好するStyxのリスナーにとっては、非常にざわついていたと思われます。日本にとってはオリコンチャートに唯一チャートイン(1983年5月16日付で29位)した楽曲であり、日本での初めてのヒットを記録したことで、Styxの代表曲としてその存在感を見せつけています。
 ちなみにBillboard HOT100シングルチャートでの"Mr.Roboto"のチャート・アクションも素晴らしく、1983年2月12日付HOT100で40位で初登場、Top40内でのエントリーを果たしました("The Best of Times"が1981年1月24日付で31位にエントリーして以来のTop40内エントリーです)。その後34位→24位→20位→13位と順調に上昇、3月19日付で10位とTop10入りを果たします。その後は7位→7位→5位とアップし、4月16日付より2週連続3位を記録しました。その後は後退していきますが(4位→8位→16位....)、HOT100内18週、Top40内16週はお見事です。この結果より、1983年のYear-Endチャートは100位内28位を獲得しています。カナダのRPMシングルチャートでは1位を記録しています。
 このナンバーのシングル・エディットはヴォコーダーでの"Domo Arigato Mr.Roboto"から始まります。日本のイントロ当てクイズを扱った番組では、このヴォコーダーでのフレーズがクイズで出たりしたことでも記憶に残っています。
 A-2の"Cold War"はTommyがリード・ヴォーカルをとる軽快なロック・ナンバーです。ライブ・ビデオとしてリリースされた"Caught in The Act"ではTommyはこの曲のプレイ中に客席に飛び込んでギター・ソロを聴かせる無謀なアクションを見せてくれます。やはりこの曲でもポップなシンセ・サウンドが基本となっています。
 A-3の"Don't Let It End"はセカンド・シングルとしてリリースされた、Dennisがヴォーカルをとるラブ・ソングです。このナンバーのプロモーション・ビデオは、"Mr.Roboto"とは異なりしっかりと演奏シーンはあります(映像はこちら)。1983年7月2日付HOT100シングルチャートで6位を記録し、16週チャートインしたバラード・ナンバーで(エントリーは4月30日付35位。その後27位→23位→20位→14位→14位→9位→7位→7位→6位→9位→18位→28位....)、1983年のYear-Endチャートでは100位内60位でした。Tommyのリード・ギターも美しいですが、Styxの得意とするコーラス・ワークでも変化があり、本作品はTommyだけがバック・ヴォーカルを担当しています。そのせいか、DennisのリードとTommyのバックが光るサビのパートでは、Tommyのバッキング・ヴォーカルには存在感が強く出ており、ほぼデュエットのような印象を受けます。Top10入りした名バラードですが、なぜかグループとしてはこの曲は疎遠されがちで、例えば2002年リリースのA&M専用ベスト盤"20th Century Masters"では収録されず、2004年リリースの集大成的ベスト盤"Come Sail Away – The Styx Anthology"にいたっては2枚組にもかかわらずやはり収録されず、1999年のDennis離脱によって、ライブ盤収録は疎か、ツアーでもリストに載ることはありません。
 A-4の"High Time"はサード・シングルとしてカットされ、1983年9月10日付HOT100で48位を記録、7週間チャートインしたミュージカル風のポップ・ナンバーです。Dennisの歌声が力強く、ホーンセクションも効果的で華やかな印象を受けますが、女性的高音が持ち味だったStyxのバック・コーラスが、イントロダクションでは男気ある低音を聴かせるのには驚きの一言です。実はB-4の"Haven't We Been Here Before"もサード・シングル候補に挙がっており、プロモーション・ビデオも作られるなどして準備していたのですが、この曲の作者兼リード・ヴォーカルをとるTommyが"Haven't We Been Here Before"のシングル化に難色を示し、シングル化は見送られ、急遽"High Time"に差し替えられたというエピソードがあります。
 B-1の"Heavy Metal Poisoning"はタイトルとは裏腹にポップなナンバーですが、JYが歌うので、サウンドもヘビーに聞こえます。プロモーション・ビデオはショート・フィルム"Kilroy Was Here"から取られ、"Caught in The Act"でも同様のカットが挿入されました。Dennisは登場せず、The MMMサイドでの進行で、Dr.Righteous役のJYと、彼を取り巻く配下のVanish役のChuck Panozzo、Col Hyde役のJohn Panozzoの3人が主役です。間奏で3人はダンスも披露しながら、JYはおどろおどろしく歌い、そこへギター・ソロを弾くJonathan役のTommyが入り込む設定です。JYが奏でるギター・シンセも非常に印象的です。このナンバーはライブ盤"Caught in The Act"からシングルカットされたスタジオ録音の"Music Time(邦題:ミュージック・タイム)"とカップリングで収録されました。なお、イントロの逆再生はラテン語の"Annuit cœptis(アンヌイト・コエプティス。=彼は我々の取組を支持します)"と"Novus ordo seclorum(ノヴス・オルド・セクロールム。=新たな時代の秩序)"という、アメリカ合衆国の国章(国璽)に書かれた標語を発しています。
 B-2の"Just Get Through This Night"は個人的にもこのアルバムの中で最も聴いたナンバーで、収録曲中、最もドラマティックな作品です。過去では長尺の曲もたくさん作られたStyxの楽曲でしたが、"Just Get Through This Night"は"The Grand Illusion"収録の"Come Sail Away(邦題:永遠の航海)"以来の6分超えとなりました。静けさの中にTommyの奏でる三味線が流れ、高いキーでTommyが歌い始めた瞬間に、この歌の世界に引きずり込まれます。ロック復興にむけて、クーデターを起こそうとする若者が、静寂の夜を迎え、覚悟を決めてこの長い夜を乗り切ろうとする情景が目に浮かぶ楽曲です。個人的にも暗闇の夜を走る夜汽車の中にいるイメージを抱きながらこの曲を聴いていました。Tommyのドラマティックなギター・ソロやPatrick Moraz(パトリック・モラーツ。スイス出身のキーボード奏者。Yes、Moody Blues等に在籍)を彷彿とさせる、星空を見ているるようなエンディングにおけるシンセサイザーの響きは非常に美しく、聴き惚れてしまいます。
 B-3のJYが歌う"Double Life"はDavid Bowieの雰囲気を醸し出すナンバーです。ホーン・セクションも印象的ですが、JYのギター・シンセが美しいのがこの曲一番の魅力です。JYの作品と言えばStyxの楽曲の中でもとりわけハード路線になりますが、この曲でもJYはワイルドな絶唱を聴かせてくれるものの、サビのコーラスがポップで、サウンドもシンセ中心で、"Heavy Metal Poisoning"ほどヘビーではないので、耳に馴染みやすいナンバーだと思います。
 B-4の"Haven't We Been Here Before"は"High Time"の項でも述べた通りシングル化が検討されたナンバーで、ヴォーカルをTommyがメインリードでとり、サビではDennisと掛け合いでツイン・リード・ヴォーカルをとるバラード・ナンバーです。同時にTommyとJYの間奏でのツイン・リード・ギターも大変味わい深いです。プロモーション・ビデオではTommyが時計の振り子につかまるパフォーマンスがあったり、バーで、賭け事をしている客人のDennisとJY(同じく店の客でChuck、店員でJohnもいる)が、査察隊の手入れにしらを切るための作戦を演じる場面があったりと、バラエティに富んだビデオでしたが、別の意味で捉えると、Tommyだけ他の4人のメンバーと行動を別にしているようにも窺えて、その後TommyがStyxのレコーディングに消極的になっていくことを考えると(関連内容はこちら)、一抹の寂しさを感じてしまいます。
 B-5"Don't Let It End〜Reprise〜"ではTommyがA-1"Mr.Roboto"のメロディに乗せて歌い、サビはコーラスでA-3"Don't Let It End"を叫びながら、Dennsの力強いロックを聴かせてくれます。この曲でthe MMMに打ち勝ち、夜通しロックし続けていくということで、ようやく最後でStyx本来のロックを聴かせてくれます。短尺の楽曲ですが、個人的にはこの楽曲も気に入っております。

 "Kilroy Was Here"はBillboard200アルバムチャートでは34週チャートインし、1983年4月30日付より2週連続3位を記録、Year-Endチャートのアルバム部門(Top POP ALBUMS )では24位にランクされました。Michael Jacksonの"Thriller(邦題:スリラー)"やサントラ盤"Flashdance(邦題:フラッシュダンス)"などの驚異的セールスと1位独占もあって、前作に続く連覇はなりませんでしたが、本作はアメリカ、カナダともにプラチナディスクを獲得しています。
 現時点では、Styxは1977年の"The Grand Illusion"から続くアルバムTop10入りはこの"Kilroy Was Here"が最後になっており、全盛期から徐々に後退していきます。この5人でのアルバム制作は次のライブ盤"Caught in The Act"のみとなり、スタジオ・アルバムは本作が最後となりました。その後メンバーはグループ活動を休んでソロ活動を始め、1990年になってTommy ShawはDamn Yankeesとして再出発し、残ったメンバーも同年"Edge of the Century(邦題:エッジ・オブ・ザ・センチュリー)"がようやくリリースされることになりますが、それまでのStyxの残りの80年代はライブ盤とベスト盤のリリースのみにとどまり、鳴りを潜めることになるのでした。

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2019年02月21日

2月21日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1559年2月21日は、満州(まんしゅう。満洲。マンジュ)におこった女真族(満州民族)の国家、後金(アイシン。1616-1636)の創始者で、のちの中国王朝・(しん。1616-1912)の初代皇帝にもなった、アイシンギョロ・ヌルハチ(1559-1626)の生誕年月日です。

 ヌルハチの部族は建州女真(けんしゅうじょしん)といいました。1583年、ヌルハチは瀋陽を中心として、女真族の統一をはかって自立、女真の他部族を破って東北地方全域を統一することに成功しました。1616年、ヌルハチは推されてハン位につき(太祖。位1616-26)、統一国を"後金"としました。これが清王朝の前身です。軍事面でのヌルハチは、八旗(軍事・行政・社会組織)を編成、その構成は、黄・白・紅・藍の4色と、そのそれぞれに縁をつけた旗をもつ計8個の軍団となっており、八旗に属する旗人(きじん)は、多くの特権と土地(旗地。きち)支給が約束されました。ヌルハチの八旗制度は満州八旗と呼ばれます。満州は、女真の改称です。またヌルハチは、モンゴル文字を借りて満州文字をつくり、衰運著しい中国王朝の(みん。1368-1644)を脅かしました。そして1619年のサルホ(サルフ)の戦いで、ヌルハチの第8子ホンタイジ(1592-1643)が従軍する満州八旗軍は明朝の大軍を破り、遼東進出を決定的なものにして、1625年、遂に瀋陽を首都に置いたのです。

 1626年のヌルハチ没後はサルホで軍功をあげたホンタイジがハンに即位し、太宗となりました(位1626-43)。太宗は内モンゴルの部族チャハル部を征服したとき、そこで元朝(げん。明の前に中国を征服したモンゴル人の王朝。1271-1368)の皇室に伝えられた玉璽(ぎょくじ。天子の印のこと)を得ることができましたので、1636年に国号を後金から中国風に""と改めることになり、太宗は清朝皇帝となったのです(位1626-43)。

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2019年02月20日

2月20日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1790年2月20日は、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(神聖ローマ皇帝位1765-90。オーストリア大公位1780-90。ハンガリー王位1780-90。ボヘミア王位1780-90)の没年月日です。

 18世紀のヨーロッパで流行していた、いわゆる啓蒙思想(リュミエール、エンライトメント)は、これまでの旧体制を打破するための改革精神に結びついていきました。そして、プロイセン王フリードリヒ2世("大王"。位1740-86)やハプスブルク家(ハプスブルク・ロートリンゲン家)のマリア・テレジア(1717-80。オーストリア大公位1740-80。ハンガリー王位1740-80。ボヘミア王位1743-80)、当時のロシアの女帝エカチェリーナ2世(帝位1762-96)など、当時の後進国とされた国家の君主たちはこの啓蒙思想の立場に立ち、"上からの改革"を行って自国の近代化、強国化を目指していきました。これを啓蒙専制主義といい、彼らを啓蒙専制君主といいます。
 18世紀において、先の3君主に続いて啓蒙専制君主と呼ばれた人物がいます。啓蒙思想の立場に立って改革を急進的に行った神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝で、フランツ1世(帝位1745-65)を父に、マリア・テレジアを母に、マリー・アントワネット(1755-93)を妹に、レオポルト(1747-92)を弟にそれぞれ持つ、長男のヨーゼフ・ベネディクト・アウグスト・アントン・ミヒャエル・アダム(1741-90)という人物で、父フランツ1世の死後、神聖ローマ皇帝として即位した、ヨーゼフ2世のことです。

 1765年に神聖ローマ皇帝に即位したヨーゼフ2世は、これまで摂政を務めていた母マリア・テレジアの死去(1780)にともない、オーストリア大公(公位1780-90)、ハンガリー王(王位1780-90)、ボヘミア王(王位1780-90)に即位、母の後を継ぎました。これにて実質的なヨーゼフ2世の親政が始まりました。自身が崇拝する啓蒙専制君主フリードリヒ2世の諸改革を理想に掲げ、フリードリヒ2世、マリア・テレジア、エカチェリーナ2世に次ぐ"第4の啓蒙専制君主"として、希望に燃えました。

 ヨーゼフ2世はフリードリヒ大王の諸改革(フリードリヒ内政)に倣った、理想の啓蒙専制改革に遂に着手することになりました。これまで心の中で温めていた、夢の諸改革を大いに企画しながらも、なかなか着手できなかったヨーゼフの志は、親政が始まった途端、いっきに発動しました(それまでは母マリア・テレジアの保守反動政策に遮られていました)。

 プロイセン王フリードリヒ2世が発した言葉、「君主は国家第一の下僕(しもべ)」はヨーゼフ2世の精神そのものでした。国家のために努力を惜しまず、国王が国家第一の下僕となって国力増大を目指すのがヨーゼフ2世の理想の君主像でした。こうした君主の存在が、国民生活を向上させると考えたのです。しかしヨーゼフの意気込みは、まるで青二才の若者が、若気の至りで過激に物事を考えるかのようでありました。それゆえ改革に対する意欲は充分に感じられ、急進的であったのです。

 まずは宗教改革です。マリア・テレジアは生前、啓蒙専制改革の一環としてイエズス会の活動禁止令を出していました(1773)。主権国家体制を王権でもって整える中で、教皇に忠誠を誓い、国境を越えて自由に布教を続けるイエズス会の存在は国家にとって近代化の妨げとなっていましたので、同会の活動禁止と財産没収を行いました。しかしマリアは敬虔なカトリック信者でしたので、徹底しませんでした。しかしヨーゼフは母と同じ敬虔なカトリック信者でありながら、1781年3月に国家の教会への優越権を発し、10月末に宗教寛容令を発しました。これにより、カトリック信者と同等の権利を非カトリック教徒や異教徒に保証し、新旧両教徒の反乱を抑え、ユダヤ人の解放を促しました。これは商業の奨励にユダヤ人や新教徒の力が必要だったためでもありました。しかも翌1782年1月には修道院の財産没収も行い、6月にはウィーンにて宗教委員会を発足して、教会の検閲を禁止し、検閲権は国家にあるとしました。また同様に結婚や教育における教会の優先権を取り上げました。
 1782年3月、ローマ教皇ピウス6世(位1775-99)がウィーンを訪れましたが、ヨーゼフ2世はオーストリア司教の権限は国家が管理し、ローマ教皇権が入る余地はないことを主張しました。

 国民生活の向上を考えたヨーゼフ2世は宗教改革を施す傍ら、農奴制廃止令を発布しました(1781.1)。プロイセンでもフリードリヒ2世が行いましたが、地主貴族階級であるユンカーによって農奴制が強化されていきましたので(グーツヘルシャフト。農場領主制度)、結果的にユンカーの反対で失敗しましたが、ヨーゼフ2世はこれを断行しました。大土地所有者によって酷使されている農民を解放し、農民は君主が管理するものとしたのです。農民を保護するのは地主ではなく君主であり、農民が自由に活動できるようになれば、自作農となって税収が見込まれ、商業は活発化し、人口も増え、国家増強となることを目指したものでありました。1781年9月には領主裁判権の規制を行い、司法権の独立は国家の裁判所にあることを決めました。また、農民の営業権、居住・移転・職業選択・結婚の自由権・荘園内での賦役の廃止も保障されました。しかもヨーゼフ2世は農民の生活を知るために、皇帝自ら畑仕事を行ったといわれております(その画像はこちらこちらWikipediaより)。これが農民から"人民皇帝"と親しまれたゆえんです。

 さらなる改革は法改正の着手です。まず法の下の平等を行い、聖職者も貴族も同等の平等権が与えられました。また1787年に発布された拷問の禁止、死刑の禁止、残酷な刑罰の禁止、囚人の労働の廃止、さらには婚外子と嫡出子の平等権や相続権の均等化などにも着手しました。財政改革としては税制の大改革を行い(1784)、宮廷において租税規制委員会を発足させて、納税率の平等化を行いました。貧民救済改革としては、学校や病院の建設も積極的に行いました。

 マリア・テレジアとの共同統治時代においても、宮廷の倹約政策を行いましたが、親政になってからは一段と強化しました。多くの儀式や祝行事を廃止し、宮廷のみ使用されていたプラーター公園やアウガルテン公園を開放して国民に癒やしと安らぎを与えました。また葬儀簡素令を発布して埋葬の簡素化を図り、共同墓地への埋葬を促しました。

 外交では、バイエルン問題以降(ヴィッテルスバハ家がつとめるバイエルンの選帝侯位継承問題。ヨーゼフ2世が侯位継承に介入し、プロイセンら相手に戦争にまで発展した問題)、プロイセンを含むドイツ諸邦は、オーストリアの領土拡大に警戒していました。この問題から発展したバイエルン継承戦争(1778-79)では、ハプスブルク・ロートリンゲン家の支配下にありましたチェック(チェコ)人のベーメン王国(ボヘミア王国。1197-1918。正確には東部のモラヴィアなど他の諸邦も含めて"ボヘミア王冠領"と呼ぶ)の領内が戦場となりましたが、マリア・テレジアの説得もあって本格的な戦闘は行われず、シュレジェンのチェシン(現ポーランド。ドイツ語ではテッシェン)で講和となりましたが(1799.5)、中欧・東欧での緊張状態はいまだぬぐえずにいました。それでもヨーゼフ2世は領土拡大に野心を保ち続けました。
 同じくハプスブルク・ロートリンゲン家の支配下にあったハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)について、ヨーゼフ2世は大胆な改革を実施しようとしました。その内容とは、オーストリアの体制下にハンガリーを組み込むことでした。司法や行政、軍隊などはオーストリア式を採用させ、ハンガリー内にドイツ語を強制し、州区分の再編成行い、ヨーゼフの治世でオーストリア国内で発した前述の諸改革をハンガリーにも持ち込むことを決めたのです。この強制策は皇帝の完全な中央集権国家体制でした。ハンガリーは言うまでもなくドイツ人ではなくマジャール人の居住区であり、またオーストリア・ハプスブルク家への抵抗心や独立心がボヘミア以上に強く、こうした中央集権的な統治を嫌いました。マリア・テレジアがハンガリー王だった時代は、マジャール人の心情を理解し、またハンガリーの情勢も知り尽くしていましたので大きな混乱がありませんでしたが、ヨーゼフ2世はハンガリーの精神については気にもとめず、改革の実施に踏み切りました。1784年頃に始められたこの高圧的な強制策はハンガリー以外にも、ボヘミアやオーストリア領ネーデルラント(ベルギーおよびルクセンブルク)にも同様の強制を行いました。

 このようにヨーゼフ2世の諸改革は矢継ぎ早に行われていきました。ヨーゼフの単独統治以後、彼の国民生活の向上させるために施した啓蒙改革は「ヨーゼフ主義(Josephinism)」と呼ばれました。しかし改革に抵抗勢力が生まれるのは時および場所に関わりなく自然なものであり、ヨーゼフの改革も例外ではありませんでした。彼の急激に施した多くの改革は徐々に歪みが生じていくのでした。

 宗教寛容令に対しては、新教徒やユダヤ人の活動の自由化により、商業活性化には一定の利益を上げましたが、カトリック系教会の猛烈な抵抗がおこり、優先権の復活をうったえました。カトリック教徒の反乱も消えず、ユダヤ人も含めた公民権上の同等は予想以上に賛同を得られませんでした。
 農奴制廃止令については、プロイセンのフリードリヒ2世でも成功しなかった改革でしたが、プロイセンと同様、地主貴族階級からの猛烈な反発を招きました。このため地主貴族との妥協が図られ(1875年以降)、農奴の賦役廃止は中止となりました。ヨーゼフ2世は2つの改革に対して中止しなかったものの、強い反発はその後も残り、ヨーゼフ2世への支持が急落しました。
 また拷問のl禁止、死刑の禁止など刑法関連の諸改革についてはイギリスの刑務所改革家のジョン・ハワード(1726-90)からの強い非難がありました。倹約令については、宮廷内の保守派に非難されました。葬儀簡素化においても、あの宮廷音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)が没した際の葬儀が簡略化され(1791)、ザンクト・マルクス墓地(ウィーン郊外)で共同埋葬されたために、遺体が特定できませんでした。

 そしてハンガリー、ボヘミアなど非ドイツ人居住域などへの強制策も当然ながら猛烈な反抗がおこりました。特にマジャール人居住域であるハンガリー王国の抵抗が激しくなりましたので、ヨーゼフ2世は軍隊を出動して屈服させる手段に出ました(1788-89)。しかしハンガリー側は徹底抗戦したため、この政策は断念せざるを得ませんでした。バイエルン問題に端を発した周辺諸国との外交問題に関しては、オーストリア拡大策に警戒する周辺諸国のプロイセンやドイツ諸領邦が動き始め、プロイセン主導でハノーファー、ザクセンら十数諸国らが対墺同盟(君侯同盟)を結成し(1785.6)、オーストリアに強く牽制しました。フリードリヒ2世が結成した同盟でしたが、彼は君侯同盟だけでなく、かつての七年戦争(1756-63)の敵国だったフランスやロシアに対しても関係修復に尽力し、プロイセンの国力維持に努めました。これが、フリードリヒ2世の最後の外交策でした(フリードリヒ2世死去。1786)。ヨーゼフ2世は、憧れていたプロイセン大王にも不快を露にされてしまいました。

 こうして、ヨーゼフ2世が単独統治をしたわずか数年もの間に施していった諸改革は、多くの反発を受けて、その多くは頓挫してしまう結果となっていきます。ヨーゼフ2世自身も体の不調をうったえるようになり、徐々に体力も失われていきました。そしてヨーゼフ2世は、後々の帝位継承者となる甥のフランツ(1768-1835)の妃としてドイツ南西部のヴュルテンベルク家からエリーザベト・ヴィルヘルミーネ(1767-90)を呼び寄せ、皇帝自ら教育係として彼女を世話し、かつヨーゼフの心の拠り所としていました。1788年にエリーザベトはフランツと結婚したが、1790年2月18日にエリーザベトが長女出産翌日に急逝し、長女も夭逝しました。心の拠り所だった大公妃が若くして亡くなったことで、ヨーゼフは悲嘆に暮れ、生きる気力を失い、革命挫折の失意の中で、エリーザベトが亡くなった2日後の1790年2月20日、49歳で没しました(ヨーゼフ2世死去。1790.2.20)。
 性急に人々の意識に入り込んださまざまな改革は、1790年のヨーゼフ2世の死でもって終わりました。国民生活の向上を目的とした諸改革の結末を待たずして、ヨーゼフは失意の内に没しました。ヨーゼフは子を残さずに没したために、ヨーゼフの弟でフランツの父であるレオポルト(ラベル233。1747-92)が神聖ローマ皇帝レオポルト2世として即位しますが(帝位1790-92。オーストリア大公位1790-92。ハンガリー王位1790-92。ボヘミア王位1790-92。トスカナ大公位1765-92)、彼は兄にはなかった冷静な判断で、兄の実施した諸改革の後片付けを行い、そのほとんどは廃止されました(ただし宗教寛容令は撤回しなかったとされます)。なおレオポルト2世は即位してわずか3年で急逝、その後フランツが最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世として即位するのでした(神聖ローマ皇帝位1792-1806。オーストリア皇帝位1804-35。オーストリア大公位1792-1835。ハンガリー王位1792-1835、ボヘミア王位1792-1835)。

 ヨーゼフ2世はウィーンのカプツィーナ教会の地下にある納骨堂に埋葬されました。その中でも、彼の治世で行われた倹約政策により、ひときわ質素で地味だったのが、ヨーゼフ2世の棺でした。自ら選んだ墓碑銘は"善良たる意志にもかかわらず、何事にも成功しなかった人、ここに眠る"でありました。

引用文献『世界史の目 第234話』より

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2019年02月19日

2月19日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1972年2月19日は、英米混合のロック・トリオ、America(アメリカ)のデビューシングル、"A Horse with No Name(邦題:名前のない馬)"がBillboard Hot100シングル・チャート84位に初登場した日です。現在においても色褪せないフォーク・ロックの名曲です。

 グループ名は"America"ですが、メンバーのDewey Bunnell(デューイ・バネル。gtr,vo)はイギリスのハロゲイト出身、Dan Peek(ダン・ピーク。1950-2011vo,gtrmkey,bass)はフロリダのパナマシティ出身、Gerry Beckley(ジェリー・ベックリー。vo,gtrmkey,bass)はテキサス出身と、英米混合で構成され、イギリスのロンドンで結成されました。3人とも父親は駐英米軍で、母がイギリス人、ロンドンにあるアメリカン・ハイスクール出身です。1971年12月、グループ名を冠した"America"でデビューしました。

 Dewey Bunnell作で、リード・ヴォーカルも彼がとる"A Horse with No Name"は、実はデビュー作"America"には収録されておらず、新人ということもあり、アルバムの売れ行きはよくありませんでした。そこで、アルバム未収録の"A Horse with No Name"をシングルとしてリリースしたところ、バンド名と曲調と当時の流行サウンドとが相まって知名度が上昇し、急遽このナンバーをアルバムのA面5曲目に収録し、再リリースすることになりました("America"。アルバム邦題:名前のない馬)。

 "A Horse with No Name"はおおよそ2コードのアコースティック・サウンドで、淡々と進んでいきます。歌詞内容に「名前のない馬にまたがり砂漠を横断する」とありますが、もともとこの曲は"Desert Song(=砂漠の歌)"というタイトルでした。それは、Dewey Bunnellが幼少期に父がカリフォルニアのヴァンデンバーグ空軍基地在駐だった頃があり、そこで砂漠を渡った記憶がベースになっているといわれています。メディアでは"horse"が薬物の隠語であったことで話題を集め、一部放送禁止となる局も出たりしましたが、チャートの上ではこの上ないアクションを見せたのです。

 陽の当たった1972年2月19日付HOT100に84位にエントリーしたこの曲は翌週47位、3週目でさらにジャンプアップして20位に駆け上がり、Top40入りはおろか、いっきにTop20入りを果たしたのです。すると4週目でTop10入りとなる7位、5週目で2位、そして6週目の3月25日付で1位に輝き、3週間キープしました。
 その後は後退しましたが(2位→4位→5位→6位→10位→20位)、14週間のチャートインの中で、Top10内10週とどまるという異例の大ヒットとなり、1972年のBillboard Year-Endチャートで100以内27位を獲得しました。

 アメリカ以外においてもAmericaの健闘ぶりが目立ちました。カナダRPMシングル・チャート1位、オーストラリアのKent Music シングル・チャート2位、本国イギリスUKシングル・チャート3位、フィンランドのシングルチャートも1位を記録しました。アルバム"America"も1位を記録し、華々しいデビューとなりました。
 見事な功績によって、Americaは1973年の15th Grammy AwardsではBest New Artistを受賞しました。

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