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2019年01月31日

1月31日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1月31日は、ポルトガル王国アヴィス王朝(1385-1580)の最後の君主、エンリケ1世(1512-80。王位1578-80)の生没年月日です。生誕月日と没月日が1月31日の王様です。

 1512年1月31日にリスボンで産まれたエンリケ1世は王位に就く前、数々の聖職を歴任し、1545年に枢機卿として活動していました。先代の王セバスティアン1世(位1557-78)がモロッコのイスラーム政権サアド朝(1509-1659)との戦争(アルカセル・キビールの戦い)で没し、ポルトガル軍が大敗を喫したうえ、国運を懸け、大枚を費やして大事な一戦に敗退したことでアヴィス家最大の危機が訪れました。しかもセバスティアンも独身でしたので王位継承も難航し、先々代のジョアン3世(王位1521-57)の弟であるエンリケが継承者となりました。
 王位に就いたエンリケは、王家存続のため枢機卿を辞して結婚相手を探そうとしたが、ローマ教皇に反対されました。このため先代同様、後継者を残すことなく、1580年1月31日に没し、アヴィス朝は断絶しました。

 当時はローマ教皇庁はハプスブルク家スペイン(1516-1700)に通じていたため、財政難に苦しむポルトガル王国はスペインの国王フェリペ2世(スペイン王位1556-98)に首都リスボンを落とされ、形の上は併合ですが同君連合を取り、フェリペ2世は1580年、ポルトガル王フィリペ1世(王位1580-98)として即位したのです。

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2019年01月30日

1月30日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1889年1月30日は、ハプスブルク家のオーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世(帝位1848-1916)の子であるルドルフ皇太子(1858-89)の没した年月日です。マイヤーリンク事件と名付けられた彼の死は多くの謎をもたらしました。

 ルドルフは1881年、ベルギー王女ステファニー(1864-1965)と政略結婚し、一女を授かりましたが、夫婦生活は悪く冷え切っていました。保守的な父とは異なり、自由主義的なルドルフ皇子は女優や娼婦と交遊をおこないましたが、決して政治的に無能ではなく、単に父にはない漸進的な部分があり、父とは相容れられないだけでありました。1888年、ルドルフは外交官だったアルビン・フォン・ヴェッツェラ男爵(1825-87)の令嬢、マリー・フォン・ヴェッツェラ(1871-1889)と禁断の愛を育んだことで父帝の怒りを買いました。翌1889年1月30日、ルドルフは狩猟館マイヤーリンクにおいて、マリーとピストルで心中、絶命しました。これが多くのナゾを生んだマイヤーリンク事件で、現在も真相は不明です。

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2019年01月29日

1月29日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1737年1月29日は、アメリカ独立革命、フランス革命という歴史的な革命に立ち会った人物で知られる、トマス・ペイン(1737.1.29-1809.6.8)の生誕年月日です。

 イングランド東部のイースト・アングリア地方にあるノーフォーク州。1737年、服飾品製造業(女性のコルセットを製造した)の家にひとつの生命が誕生しました。男児でした。彼は13歳に職人として父親に弟子入りしましたが、その後断念して職を転々としました。2度の結婚と離婚を繰り返すなど、生涯の前半で早くも激動ぶりを見せつけた人物でした。しかし彼の生涯の後半は、それ以上に波乱に富んだ人生でした。彼こそが、トマス・ペイン(トマス・"トム"・ペイン。1737.1.29-1809.6.8)です。

 1774年6月、トムは2番目の妻と別れ、ロンドンに出向きました。そこでトムは友人の紹介で、大学創設者(この大学はのちのペンシルヴァニア大学)であり、また科学者でロンドン・ロイヤル・ソサエティの一員でもあり、ペンシルヴァニアで議員活動もしていたことがありますベンジャミン・フランクリン(1706-90)と知り合いました。フランクリンはトムにイギリス領アメリカ(独立前のアメリカ)への移住を提案、フランクリンからの薦めを受けて、北アメリカ大陸に渡りました。大西洋横断中は過酷で、船内チフス菌が蔓延し乗客数名が死亡するなど悲惨な航海であり、トムも航海中に重い病気にかかりました(回復までに1ヶ月半かかったといわれています)。1774年11月にやっとの思いでフィラデルフィアに到着しました。翌1775年にはペンシルヴァニアの市民権を得て、「ペンシルヴァニア・マガジン」の編集者になり、成功を収めました。

 1775年アメリカ独立戦争(1775-83)が勃発しました。当時の植民地人は約250万人、その中で独立を支持する愛国派(パトリオット)は植民地人全体の3分の1ほどで、いまだ独立という危ない橋を渡るより本国イギリスを支持する国王派(勤王派。忠誠派。ロイヤリスト)や、同じく独立よりは本国と北米植民地との和解を望む中立派が多数を占め、独立気運を呼び起こす状況ではありませんでした。こうした中、フィラデルフィアでトムの出版したパンフレット、『コモン・センス(Common sense。常識)』が2シリングで発刊されました。
 簡易な表現で記された『コモン・センス』の内容とは、イギリスにおける君主制と批判とアメリカ独立の正当性、つまり共和政をおこして独立することを"常識"としたものでありました。初版1000部が出ると、同パンフは飛ぶように売れ、結局3ヶ月で12万部売れるという大ベストセラーとなりました。これにより、植民地ではいっきに独立支持に傾くこととなりました。

 独立宣言(1776.7.4)採択後、トムはパンフレット『危機シリーズ(Crisis)』を発刊する傍ら、独立軍として従軍し、その後は外務委員秘書官、州議会書記を歴任しました。パリ条約(1783)でアメリカ独立が達成されますと、トムはフランスに渡り(1787)、その年に故郷であるイギリス・ノーフォーク州に戻りました。

 折しもフランスはアメリカ独立革命の影響を受けて、旧制度(アンシャン・レジーム)の打破と財政・政治改革の気運が高まっていました。やがてバスティーユ牢獄襲撃(1789.7.14)をきっかけにフランス革命が勃発しますが、イギリスでは翌1790年、かねてから革命思想について批判的であったホイッグ党下院議員エドマンド・バーク(任1765-94)が、著書『フランス革命についての省察』においてフランス革命をするどく批判したことにトムが反論、翌々1791年にフランス革命を擁護する『人間の権利(人権論。Rights of Man)』を発表しました。トムが発表したこの書はイギリスで約200万部売れたといわれます。しかし以前、対フランス戦争を匂わせていたイギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット。任1783-1801)に対して、非戦を説得したことがあり、今回フランス革命擁護を主張したためイギリス政府から追放処分が下されました。しかしトムはこれを機に『人間の権利』の仏訳に努めるべく、再度フランスへ渡りました。

 フランスでのトムは、革命派によって大いに歓迎されました。フランス語はできませんでしたが、『人間の権利』発表時にフランス市民権を得ていたトムは、第一共和政(1792-1804)の幕開けとなったフランスの国民公会(1792.9.21-1795.10)の議員として参加し、共和政憲法の草案担当メンバー(ジロンド憲法プロジェクト)に加えられました(1792)。ジロンド憲法プロジェクトには、1789年の"第三身分とは何か"で知られるアベ・シェイエス神父(1748-1836)もおりました。トムは憲法草案の前文を書いたと言われますが、その後ジロンド派政権と対立する山岳派(ジャコバン派。最左派)の台頭でジロンド派は没落し(1793)、トムの関わったジロンド憲法制定は幻となってしまいました。
 またトムはフランス国王だったルイ16世(王位1774-92)の処刑には反対し、『人間の権利』の内容を基に、国王はアメリカへ亡命することを提案、国王処刑反対の演説を行いましたが(1793年1月15日)、同月21日に処刑は執行されました(1793.1.21刑執行)。その後ジロンド派の没落と合わせて、ジロンド支持派のトムも対仏外国人の1人として逮捕されてしまいました(1793.12.28)。

 トムは後に第5代米大統領となるジェームズ・モンロー駐仏大使(大使任1794-96。大統領任1817-25。民主党の前身である民主共和党出身)によって翌1794年11月に釈放されました。この時点で国民公会は同年7月にテルミドールのクーデタ(1794.7.27)によって変動、山岳派リーダーとして恐怖政治を行っていたマクシミリアン・ロベスピエール(1758-94)は既に処刑されており、テルミドール派(反ロベスピエール派)による主導となっていたことで、身分回復を許されたトムは再び国民公会に迎えられました。トムはこの頃、やがて独裁政権を形成するナポレオン・ボナパルト(1769-1821)についても評価しており、「これまでに存在した中で最も完全ないかさま師」と述べています。

 1802年、トムはトマス・ジェファソン第3代米大統領(任1801-09。民主共和党)の招きで再渡米しました。しかしフランスを敵対するフェデラリスト(連邦派。後の国民共和党、ホイッグ党、共和党)たちとの対立を深めたため国内では孤立していき、不遇な晩年となってしまいました。そして1809年6月8日朝、トムはニューヨークで没しました。72歳でした(1809.6.8)。

 トマス・ペインはアメリカ独立革命、そしてフランス革命という、歴史を揺るがした二大市民革命に生き、後世に大いなる影響を与えました。彼の晩年の作品『理性の時代(The Age of Reason。1794,95,1807)』に心を動かされ、"アメリカ独立に関わったすべてのアメリカ人において、最も偉大な人物の1人である"と、常に心に留めていましたのは、後にアメリカの大発明家となるトーマス・エディソン(エジソン。1847-1931)でありました。

引用文献『世界史の目 第186話』より

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2019年01月28日

1月28日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1547年1月28日は、イングランド・テューダー朝(1485-1603)の君主エドワード6世(1537-53)が第3代国王として即位した日です(位1547-53)。

 陽の当たった1月28日、1547年、イングランド国教会を導いた国王ヘンリー8世(位1509-47)が没し、彼が残した唯一の王子がエドワード6世で、病弱ではあったものの、9歳で即位しました。エドワード6世の治世では、ヘンリー8世支持派プロテスタントのヒュー・ラティマー(1485?-1555)や同じく支持派でケンブリッジ大学教授トマス・クランマー(1489-1556。カンタベリー大司教)らの尽力で、イングランド国教会の教義や規則が書かれた一般祈祷書(共通祈祷書聖公会祈祷書)がつくられました(1549)。これにより旧教(カトリック)とローマ教会からの脱却策が本格的に行われて、国教会における諸制度が整えられたのです。
 エドワード6世の書き記した日記は、英語で書かれた日記としては現存最古のものだとされています。

 しかしエドワード6世は、サマセット公エドワード・シーモア(公位1547-52)やノーサンバーランド公爵ジョン・ダドリー(爵位1551-53)の権利欲に対する画策に翻弄されながら、我が病身は回復されないまま、1553年7月6日に15歳で没しました。

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タグ:イギリス
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2019年01月27日

1月27日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1142年1月27日は、中国、南宋(なんそう。1127-1279)の武将、岳飛(がくひ。1103-42)の没年月日です。

 満州の女真族(じょしん)が起こした王朝(きん。1115-1234)による靖康の変(せいこうのへん。1126-27)で北宋(ほくそう。960-1127)が滅んだ後、臨安(りんあん。浙江省)を都に再建された宋では、その後の経済や貴賤の格差は消えることなく、1130年、均産一揆(政府による農作物収奪強化に抵抗した一揆。均産とは貧富や貴賤の格差をなくそうという意味)が再発しました。これを鎮圧したのは岳飛将軍で、金に対して戦争徹底を唱える主戦派でした。岳飛は、河南省の農民出身で、学問を修得し、一兵卒から飛躍的に昇進を遂げ、数々の軍功をあげたことで、多くの支持を得る反面、諸将からは妬まれたりもしました。
 一方この当時、宰相秦檜(しんかい。1099-1155)という和平派(金と和平を結んで安全をはかるためには、多額の歳幣と要地の割譲もやむを得まいとする派)の人物がいました。彼は靖康の変で北宋の皇帝だった徽宗(きそう。位1100-25)らとともに連行されましたが、金の和平派将軍の取り計らいで帰国を許されました。秦檜は、ただ1人金の内情を知る人物として南宋の初代皇帝である高宗(こうそう。位1127-62)に支持され、宰相に任じられた人物でした(1131)。秦檜は、金との戦争は、長期化することで膨大な戦費を負担することにつながり、国民の不満も増大すると主張、唐末の戦乱を再来させるとして和平派を支持、高宗も靖康の変で拉致された徽宗・欽宗(きんそう。北宋最後の皇帝で、高宗の兄。位1126-27)らの帰国を願いました。また金の太宗(位1123-35)が没して兄である太祖(完顔阿骨打。ワンヤンアグダ金の建国者。位1115-23)の嫡孫が帝位に就くと、状況も緩和され、周囲には和平の声が聞こえ始めました。しかし、岳飛ら主戦派は、徽宗の代に集まった勤王の軍(徽宗の失政による金の襲撃に対し、北宋の首都開封の防衛に集められた義勇軍)出身で、漢人の民族精神(ナショナリズム)の高揚から、女真族の金軍を駆逐しようとして、金に対し反撃を始めました。

 秦檜は主戦派を抑圧するため、地方の軍隊を中央軍隊に改編することを名目に、揺れ動いている地方軍の諸将に呼びかけを行いましたが、唯一、湖北一帯を軍事支配する岳飛だけはこれに従おうとしませんでした。このため秦檜は、岳飛に無実の罪を着せて幽閉し、獄死させたのです(1142)。1142年1月27日のことです。岳飛を抑えた秦檜は1142年、和平を実現するため、瞬時に和平条約を締結、淮水(わいすい。淮河。わいが。河南省南部が水源)と秦嶺(しんれい)山脈を結ぶ線が、南宋と金の境界線となり、結果的に華北の畑作地帯と江南の水田地帯を分ける線となって、とうとうかつての首都開封や燕雲十六州(北方の契丹族<きったん>に割譲していた中国本国の要所である長城線以南の北京<燕州>と大同<雲州>を結ぶ、周辺16州)を中心とする華北一帯の奪還は、断念の方向へ向かわざるを得ませんでした。
 内容はこれだけでは済まされませんでした。この条約は毎年贈る銀25万両、絹25万匹歳貢(歳幣)だけでなく、金王朝に対し臣下の礼の義務を突きつけられるという、南宋にとってこれまで以上に屈辱的であり、同時に徽宗の棺の姿で召還された上、和約締結時には存命だった欽宗は召還されなかったのです(1161年没後も遺体は召還されず)。
 恥辱的な要求に加え、高宗の父徽宗を遺体で返還させ、兄欽宗を召還させない金の行為は、主戦派をひどく怒らせ、講和締結に抗議しました。しかし秦檜は、高宗の信任をバックに、主戦派を次々と弾圧しました。秦檜没後(1155)、岳飛の無実が証明され、岳飛は祖国の民族的英雄として「岳王廟(浙江省)」に祀られ、一方秦檜は金に華北を売り渡した"売国奴"・"姦臣"として烙印を押され、酷評されたのです。

世界史の目 91話』より

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タグ:中国
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2019年01月26日

1月26日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1699年1月26日はカルロヴィッツ条約の調印の日です。オスマン帝国(1299-1922)の歴史における運命のわかれ道となりました。

 オスマン帝国は常にオーストリア()公国(1278-1918)のハプスブルク家との間には、ハンガリー問題で揺れていました。ハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)は16世紀、王国からトランシルヴァニア公国(1571-1711)が自立し(その後はオスマン帝国の保護下へ)、王国の北部・西部(全体の3分の1)をオーストリア・ハプスブルク家がハプスブルク家領ハンガリー(1526-1867)として、中央部・南部(全体の3分の2)をオスマン帝国がオスマン帝国領ハンガリー(1541-1699)としてそれぞれ支配し、ハンガリー王位はハプスブルク家が世襲する状態で、ハンガリー王国は分裂状態でした。オーストリア・ハプスブルク家においても1648年の屈辱的なウェストファリア条約を締結して以後、かつての帝国的立場からは後退していました。

 神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝レオポルト1世(帝位1658-1705)はハプスブルク家のオーストリア大公であり(公位1658-1705)、ハンガリー王位(王位1655-1705)も兼ねていました。彼の治世でのハンガリー対策は一貫して、反ハプスブルクを掲げるハンガリーのルター派貴族テケリ・イムレ(1657-1705)に対する問題解決でした。領地を没収され、ルター派などプロテスタントを弾圧するレオポルトのハンガリー行政に反抗するテケリ・イムレはフランスを味方に1678年に武装蜂起し、反乱を起こしました。これにオスマン帝国が軍隊を使わし支援、レオポルト1世はハンガリーへの高圧策を緩和する動きを見せましたが、オスマン帝国軍に支援されたテケリ・イムレの勢力はなおも抵抗を続けました。
 この情勢をみたオスマン帝国の大宰相・カラ・ムスタファ・パシャ(任1676-83)は、オーストリアを制圧する好機と判断して、1683年7月13日つまり、1529年の第一次ウィーン包囲以来、およそ150年ぶりにオーストリアに侵攻、首都ウィーンを包囲しました。これが第二次ウィーン包囲(1683.7.13-9.12)です。

 しかしオーストリア軍だけでなくこれを支援したポーランド軍やドイツ諸邦軍の堅い防衛と抵抗により、包囲は2ヶ月で解かれ、オスマン帝国軍は敗走することになってしまいました。1571年のレパントでの敗戦以来、およそ110年間においてヨーロッパ軍に大敗したことのなかったオスマン帝国が、軍事面においてにヨーロッパの軍より劣勢に転じた瞬間でした。
 失態したカラ・ムスタファ・パシャはベオグラードで軍の立て直しを図りましたが、敗戦責任を負わせようとした反政府派が時のオスマン皇帝メフメト4世(位1648-87)へ讒言したことで、カラ・ムスタファ・パシャはメフメト4世に見限られ、イスタンブルへの帰還を許されず、勅命により12月末にベオグラードにて処刑されてしまいました(1683)。

 第二次ウィーン包囲の失敗はヨーロッパのキリスト教勢力の奮起を促すものとなりました。ローマ教皇インノケンティウス11世(位1676-89)は神聖ローマ帝国(ドイツ諸邦)、ポーランド、ヴェネツィアらと"神聖同盟"を結成して(1684。のちロシアも加入。なお、1815年に結成されたウィーン体制期の神聖同盟とは別)、オスマン帝国と激戦を展開しました。この激戦はハンガリーやトランシルヴァニア、そしてバルカン半島が戦場となる大戦争となっていきました。このオスマン帝国が激戦を交わした、第二次ウィーン包囲から発展した神聖同盟を中心とするヨーロッパ連合軍との実に16年におよぶ戦争を大トルコ戦争(1683-99)と呼びます。この戦争でオスマン帝国はいっきに後退し、唯一オスマン帝国が頼りにしていたハンガリーのテケリ・イムレの軍も失敗が続き、ハンガリーを含むオスマン帝国の東ヨーロッパ諸領が次々と神聖同盟軍によって制圧されていきました。

 1695年、オスマン皇帝メフメト4世の子ムスタファ2世(1664-1703)が即位しました(位1695-1703)。この治世では大宰相エルマス・メフメト・パシャ(位1695-97)のもと、続行する大トルコ戦争を決着すべく、オスマン帝国のハンガリー奪還を敢行、神聖同盟軍との大トルコ戦争の決戦がドナウ川支流のティサ川東岸にて行われました(現セルビア、ゼンタ近郊での戦闘なので"ゼンタの戦い"と呼ばれます。1697.9)。しかし敵軍はオーストリアの名将プリンツ・オイゲン(1663-1736)の奇襲戦略で1万のオスマン軍がティサ川にて溺死、大宰相エルマス・メフメト・パシャも殺され、あわせて3万のオスマン兵士が戦死するという惨敗ぶりでした。結局オスマン帝国は、第二次ウィーン包囲をきっかけとして、相次ぐヨーロッパ軍と連戦連敗を重ねていき、かつての脅威は完全に消え失せました。
 ムスタファ2世はキョプリュリュ・ヒュセイン・パシャ(1644-1702)を召集して大宰相に任じ(任1697-1702)、大トルコ戦争におけるヨーロッパ諸国との和平にむけた交渉を任せました。そして1699年、ドナウ河畔のカルロヴィッツ(現セルビアのスレムスキ・カルロヴツィ)で国際会議としては初の円卓会議であるカルロヴィッツ会議が開催されました。円卓会議は、立場が優位であろうと劣位であろうと、これらの序列を定めない平等な会議を行うことを意味しました。参加国はオスマン帝国、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィアで、ロシアは不参加でした。

 カルロヴィッツ会議において、オスマン帝国とヨーロッパ諸国との間で交渉が行われました。結果、陽の当たった1699年1月26日において講和条約が調印されました。これがカルロヴィッツ条約です。この講和は歴史的に見て重要な意味を持つものとなりました。

 条約締結の内容は、
  • オーストリアとオスマン帝国間・・・オスマン帝国はオスマン帝国領ハンガリーや、保護下に置いていたトランシルヴァニアをはじめ、クロアチア東部(スラヴォニア)などを放出。オーストリア領となる。
  • ポーランドとオスマン帝国間・・・オスマン帝国はウクライナ西部のポジリア(ポドリア)を放出。ポーランド領となる。
  • ヴェネツィアとオスマン帝国間・・・オスマン帝国はダルマツィア(クロアチアのアドリア海沿岸部)の大部分を放出、ヴェネツィア領となる。


 対ロシアとは翌1700年、単独でイスタンブル会議を開催しました。この会議で締結されたイスタンブル条約でオスマン帝国はドン川河口のアゾフを放出、ロシアに割譲しました。
 これにて大トルコ戦争は終結しました。カルロヴィッツ条約の締結は、オスマン帝国の大敗北を意味しました。帝国史上初めての、キリスト教勢力のヨーロッパ諸国に対する、大幅な領土割譲でありました。オスマン帝国のヨーロッパでの勢力が後退する一方で、ウェストファリア条約以来後退を余儀なくされていたハプスブルク家のオーストリアが、中欧における勢力を回復、大国再興のきっかけにつながったのです。イスタンブルで講和したロシアにとっても、不凍港を求めて南下政策へと前進する契機にもなりました。
 カルロヴィッツ条約によって、オスマン帝国の勢力衰退が表面化となり、国際的に示されることとなりました。国内では軍隊イェニチェリの反乱が起こるなど政情不安に陥りました。騒動の原因をつくった大宰相キョプリュリュ・ヒュセイン・パシャは結局ハンガリー放棄の責任をとる形となり辞任、皇帝のムスタファ2世も同じく退位、幽閉処分となりました。

 宮廷の劣化から始まった国力の衰退によって、オスマン帝国は国際的地位も下降線をたどっていき、その後ヨーロッパ列強の介入に苦しむことになります。17世紀に大きな転換期を迎えて以後も混乱を重ねていき、かつての強力な勢力を誇った時代に戻ることは二度とありませんでした。

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2019年01月25日

1月25日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1077年1月25日は、"カノッサの屈辱"と呼ばれる歴史的出来事が起こった日です。

 封建制度下の中世ヨーロッパ世界では、キリスト教の精神が国王・諸侯(貴族)から下層民にまで溶け込んだことで、教会の権威はますます高まり、教皇・大司教・司教・司祭・修道院長といった聖職者の階層制度(ヒエラルキー)が確立しました。政治的にも支配権を兼ね備えるようになり、農奴などに十分の一税を課すなど、教会の領主化も進んでいきました。

 さらに教会は、聖職叙任権(領主的存在となった司教や修道院長の任命権)や聖職罷免権を教皇が持つといった、公会議で決めた信仰・慣習・規律などを絶対的なものとしました。しかしこれはあくまでも内輪だけの形式理念であり、現状では多くの教会は世俗権力者の支配にあったのです。荘園領主は領内に教会・修道院を建て、領主自身が修道院長や司祭を任命して自身の支配下においている現状でした。その典型的なのが神聖ローマ帝国(962-1806)という、当時のドイツ地方にあった大封建国家であった。

 神聖ローマ帝国の教会は帝国教会として、神聖ローマ皇帝の直接支配制度であった。ここは諸侯勢力が強く、皇帝権を維持するためには聖職叙任権や罷免権といった教会の権威を皇帝が握らねばならないというのが当然とみなされていました。しかし、領主の聖職売買(シモニア。司教や修道院職といった聖職とそれに伴う世俗財産の売買行為)がおこり、教会の世俗化・腐敗化がすすんでいきました。聖職売買は10〜11世紀には日常的に行われていくようになりました。

 この事態を悲観した修道院は、聖職売買や聖職者の妻帯といった、教会の腐敗と世俗化を自浄し、教皇が頂点に立ち、聖職者の権威をもとに戻そうとする教会刷新運動を起こしていきました。イタリア人ベネディクトゥス(480?-547)の「祈り、働け」を戒律としたモンテ・カシノ修道院、フランスで荒れ地開墾を推進したシトー派修道会、教会の財産所有を否定したフランチェスコ修道会やスペイン人ドミニコが南フランスに建設したドミニコ修道会など、修道院の教会刷新運動は盛り上がっていきました。その中で、11〜12世紀にかけて、刷新運動が最も盛んだったのが、フランス南東部にあるクリュニー修道院でした。ロマネスク様式の修道院で、刷新運動の中心的な存在でした。さらに教皇レオ9世(位1049-54)は、刷新運動の改革者らと教皇庁の改革をはかり、1059年教皇の選出する際、皇帝の介入を受け入れないことを決定しました。このため、神聖ローマ帝国の帝室に動揺が走りました。当時神聖ローマ帝国は皇帝ハインリヒ4世(位1056-1106)が幼少の頃であり(即位した1056年、彼はまだ6歳)、強い諸侯勢力から皇帝権を維持するために、皇帝が教会の権威を握るという意味では、大きな打撃となったのです。

 1073年、教皇にグレゴリウス7世(位1073-85)が選出された。彼は腐敗した高位聖職者を退かせ、教皇自ら高位聖職者を任命し、強い宗教支配体制を築こうとしていました。また1075年、彼は教皇権の絶対権威、世俗権に対する優越権を宣言しました(「教皇教書」)。この宣言により、ローマ教皇グレゴリウス7世と、教会のあらゆる政策を国策と考える神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との対立は決定的となりました。1076年、ハインリヒはミラノの大司教任命を行う予定でした。この叙任権による闘争が大きな事件へとつながっていくのです。

 教皇グレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世に書簡を送り、ミラノの大司教を皇帝が任命することへの憤りを伝え、叙任権を教皇に返却するように皇帝に求めました。これに対し皇帝はウォルムスでのドイツ司教会議で教皇の廃位を決め、教皇に宣告しました。ところが教皇はこれをものともせず、教皇の最後の切り札、"破門"を皇帝に投げかけたのです。

 皇帝が破門を受けるということは、臣下は君主に対する忠誠の義務がなくなるわけで、これまで皇帝によって任命されていたドイツの司教は当然の事ながら動揺し、神聖ローマ帝国は死に等しいほど大混乱に陥りました。そもそも神聖ローマ帝国は諸侯の選挙によって皇帝が選ばれる選挙王制であり、強い勢力を持った世俗諸侯は、破門された皇帝の廃位をめぐって、各地で反乱を起こしていくようになりました。グレゴリウス7世側につく地方の領主も増え、皇帝はいよいよ劣勢に立たされました。さらに不運は続き、ドイツ諸侯は集会を開いて、破門から1年後の1077年2月までに国王が破門を解かれない限り、帝位を廃することを決定したのです。

 1076年末、皇帝ハインリヒ4世は決意し、ローマに赴きました。そして1077年1月25日トスカナ女伯マティルダ(マティルデ・ディ・カノッサ。トスカナ辺境伯位1076-1115)の仲介により、カノッサ城に滞在していた教皇グレゴリウス7世に破門を解いてもらうよう、雪中の城門で3日間、裸足になり断食を続け、謝罪しました。よって破門は解かれたのです。これが歴史上有名な事件、「カノッサの屈辱」です。そのときの模様を伝える有名な絵画がこちらで(Wikipediaより)、左がクリュニー修道院長、中央にハインリヒ4世、右にマティルダ女伯が描かれています。

 破門を解かれ、皇帝の勢力が回復したことによって、皇帝に反抗していた諸侯の大義がなくなり、結局皇帝によって反対派諸侯は抑圧されました。逆に劣勢に立たされたグレゴリウス7世は再度破門を通告しましたが、皇帝はこれにそむいてローマ出兵し、グレゴリウスを追放しました。結局この聖職者の叙任権闘争で始まった皇帝と教皇の対立は、グレゴリウス7世死後も続きましたが、皇帝ハインリヒ4世の息子、ハインリヒ5世(位1106-25)が教皇カリストゥス2世(位1119-24)間によるヴォルムス協約(1122)により、司教選挙に皇帝参加が認められ、叙任権は教皇が容認するとし、ようやく叙任権闘争は終結したのでした。

世界史の目 第10話』より

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2019年01月24日

1月24日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1848年1月24日は、アメリカの大工James Wilson Marshall(ジェームズ・マーシャル。1810-85)がカリフォルニアのサクラメント東方にあるアメリカンリバーと呼ばれる川で砂金を発見し、大きな騒動となった日です。

 マーシャルはサクラメント川で農業を営んでいましたが、メキシコとの米墨戦争(1846-48。アメリカの勝利でカリフォルニア、ニュー・メキシコを獲得)に従軍しました。戦役を終えたマーシャルは、製材所の工場を建設するためにアメリカンリバー沿いのコロマに赴き、水車を設置して水を排出させる作業に取りかかりました。するとマーシャルは水車近くの川底に粒状の金属を発見しました。それは純度の高い砂金でした。陽の当たった1848年1月24日朝の出来事です。

 この出来事は瞬く間に世界に発信され、翌1849年で30万人にものぼる人たちが金を採掘しようとカリフォルニアに駆け込んでいきました。カリフォルニア・ゴールドラッシュのはじまりで、彼らは1849年にカリフォルニアを訪れたことから"49ers(Forty-niners)"と呼ばれました。

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2019年01月23日

1月23日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1579年1月23日は、スペインの支配から独立するために結成された、ユトレヒト同盟の発足年月日です。現在のオランダの母体となりました。

 現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク、いわゆるベネルクス3国を中心とする地域をネーデルラントと呼びます。ネーデルラントの主産業はフランドル地域(ベルギー西部・オランダ南西部)が中心の毛織物生産で、貿易ではアントワープ(アントウェルペン)市が15世紀から繁栄していました。16世紀には宗教改革で、カルヴァン派プロテスタントがオランダにも波及し、ゴイセン(ヘーゼン。"乞食"の意味)と呼ばれていました。

 ネーデルラントは1556年、スペイン・ハプスブルク家の領土として支配されていました。時のスペイン国王はカルロス1世(位1516-56)でした。スペインは熱心なカトリック国で、次のスペイン国王フェリペ2世(位1556-98。カルロス1世の子)は、ゴイセンの多いネーデルラントに、カトリック信仰を強制し、カルヴァン派を反逆罪で処刑するなど、徹底した大弾圧を行いました。カルヴァン派は、土着農村における中小貴族に多く、彼らはスペインの暴政に対して同盟を作りました。スペイン軍は、これを"乞食党(後にゴイセンと呼ばれる)"とののしり、繰り返し弾圧を行っていきました。弾圧に逃れた者の中には、"海乞食(ゼー・ヘーゼン)"と呼ばれて海賊船隊をつくり、スペイン船軍を追放するなど活躍しました。

 ゴイセンの反抗に対し、フェリペ2世は1567年、ネーデルラント総督アルバ公(1507-82)を派遣して恐怖政治をしき、反抗者は次々と処刑されました。ネーデルラントの独立運動を図ったフランドルの軍人・政治家のエグモント(1522-68)は、この頃に捕らえられ、処刑されています。このため、毛織物生産地フランドルや、アントワープ市があるブラバントにいた商工業者1万人が他地方に亡命していきました。ネーデルラントの人民はこの高圧的な行政を"スペイン人の狂暴"とさけびました。 

 この恐怖政治に立ち上がったのが、オラニエ公ウィレム("沈黙公"。1533-84)という人物です。オラニエ家とは、現在のオランダ王家の家系で、ドイツのナッサウ伯が南フランスのオラニエ公領を相続しました。ウィレムはオラニエ公領を相続(1544)したのち、カルロス1世に仕え(1548)、ホラント州(ゾイデル海西側)など3州の総督に任命されました(1555)が、次のフェリペ2世の治世下、ウィレムはスペイン・ハプスブルク家の反動政治に対抗してカトリックからプロテスタントに改宗し、ゴイセンを率いて、スペインからの独立運動を指導し、戦闘を開始しました。1568年オランダ独立戦争の火蓋が切って落とされたのです。

 イギリスの支援もあって、ウィレム軍は一時優勢でしたが、フランドルやブラバントなどのネーデルラント南部の10州(南部10州。現在のベルギー地方)は、スペイン軍による猛攻撃で、商工業の中心アントワープなどが陥落し、結果カトリックの小領主層がスペインに投降して脱落(1579)、スペイン寄りのアラス同盟が結成され、スペイン・ハプスブルク家領に留まりました。このため、ホラントなどのネーデルラント北部の7州(北部7州。現在のオランダ地方)は、アラス同盟に対抗、陽の当たった1579年1月23日ユトレヒト同盟を結成、1581年、遂にネーデルラント連邦共和国として独立宣言を行い、ウィレムはオランダ総督(統領。任1581-84)となりました。統領はオラニエ家が世襲する最高官職で、ウィレムが初代統領となったのです。特に北部7州の中でもホラント州が優位を占め、同共和国はその州名から"オランダ"と呼ばれるようになりました。

 オランダ総督ウィレム1世として、戦時中でも南部10州を説得するなど努力を尽くしましたが、1584年、フェリペ2世が、ウィレム1世を暗殺した者に褒賞金を給付することを北部7州に流したことで、ウィレム1世は北海沿岸のデルフトで、旧教徒により暗殺されました。

 スペインはその後も、オランダ独立軍(ウィレムの子フィリップスが後継)とオランダを支援したイギリスと戦いました。このときスペインは、大規模な海上戦力"無敵艦隊(アルマダ)"を130隻と約3万人の船兵で構成、1588年7月、リスボン(現ポルトガル首都)からアルマダを出動させました(アルマダ海戦)。しかし、当時のドーヴァー海峡の悪天候もあって、イギリス海軍が優勢となり、アルマダは壊滅、スペインは大敗北を喫し、これ以降、どの領土にいても"太陽の沈まぬ国"として君臨したハプスブルク家のスペイン帝国の植民地規模は縮小の一途を辿っていきました。

 オランダでは、アントワープに代わる巨大都市アムステルダムが政治経済の中心部として大いに栄えました。1602年にはオランダ東インド会社が設立され、香辛料貿易によって東南アジア経営にのりだし、経済発展につとめました。1609年にはアムステルダム銀行も設立されました。

 1609年、独立戦争は休戦となり、スペインとの和平が成立し、事実上の独立が達成されました。その後、ドイツで行われた1648年のウェストファリア条約で、カルヴァン派の公認に加えて、オランダと、同時にハプスブルク家により支配されてきたスイスが、独立を国際的に承認され(オランダ・スイス独立承認)、ハプスブルク家の威信は、一時失墜しました。

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2019年01月22日

1月22日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1966年1月22日は、アメリカのガレージ・ロック・グループ、The Knickerbockers(ザ・ニッカボッカーズ)のシングル、"Lies"がBillboard HOT100シングルチャートで最高位20位を記録した日です。彼らにとって唯一のTop40入りヒットで、この曲を含むアルバム"Lies"もBillboard200アルバムチャートで唯一チャートインしました。

 1962年ニュージャージー州のベルゲンフィールドで結成されたThe Knickerbockersは、Beau(gtr)とJohn(bass) のCharles兄弟によって結成されました。3枚目のアルバム"Lies"で脚光を浴び、The Beatlesを彷彿とさせるシングル"Lies"は大きなチャート・アクションを見せました。
 シングル"Lies"は1965年12月4日で96位で初登場、次週80位に続いて、65位→53位と順調に上昇、年が明けた1月1日付で4週目で40位とTop40入りしました。その後35位→26位と順調に上がりますが、陽の当たった1月22日付で最高位を記録した20位をピークに下降を始め、22位→24位→24位→32位→34位を最後に圏外へ移りました。計13週のチャートインでしたが、"Lies"はThe Knickerbockersの代表曲として後世に残りました。その後は2曲がHOT100にランクインしましたが、Top40入りは逃しました。アルバム"Lies"はBillboard200アルバムチャートでは1966年2月26日付より2週続けた134位が最高ランクで、5週間のチャートインでした。The Knickerbockersは1970年代初め頃まで活動を続けました。1983年と1990年の2回に再活動した時期もありました。21世紀に入り、復刻編集盤などもリリースされています。

 代表曲となった"Lies"は、のちにアメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)がカバーし、1973年のシングル"22 Years"のB面として収録されました。さらには1974年の4枚目アルバム"Man of Miracles(邦題:ミラクルズ)"にも"Lies"が収録され、The Knickerbockersの代表曲を忠実に再現して、"Lies"を後世に伝えております。

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