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2018年12月31日

12月31日は何に陽(ひ)が当たったか?

 335年12月31日は、ローマ教皇、シルウェステル1世(シルヴェスター1世。在位314-335)の没年月日です。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(帝位306-337)がシルウェステル1世の洗礼を受けた伝説で知られています(史実かどうか諸説あります)。

 カトリック教会、正教会ともに列聖され、聖人崇敬された教皇です。そのうち、カトリック教会での彼の記念日が12月31日とされており、ドイツなど西ヨーロッパではこの日を"聖ジルヴェスターの日"と呼んで大晦日を祝います。

 日本国内では、大晦日のカウントダウン時に放送される"東急ジルベスターコンサート"が有名で、クラシック演奏を年越しとなる1月1日午前0時に終わらせて、新年を祝うというもので、モーリス・ラヴェルの代表曲”ボレロ”などが演奏されました。

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2018年12月30日

12月30日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1906年12月30日は、パキスタン建国のきっかけとなった、全インド・ムスリム連盟の発足年月日です。

 1906年当時、国民会議派(12月28日の項を参照。イギリスからの解放とインドの自治が目標)はヒンドゥー教徒からの支持力が強かったため、イギリスは少数派のイスラム教徒に近づき、イギリスの支援で12月30日に全インド・ムスリム連盟を結成、イスラム教徒を親英、反国民会議派の立場をとらせ、国民会議派との対立を増長させようとしました。1909年にはインド担当国務大臣モーリー(1838-1923)とインド総督ミント(任1905-10)が、モーリー・ミント法と呼ばれるインド統治法を改定して、イスラム教徒の代表選出する選挙区を別個に設け、ヒンドゥー教徒より有利に導かせていきました。

 1914年、第一次世界大戦(1914-18)が始まり、イギリスは大量の兵士と物資をインドから供給するため、インドはイギリス側に立って参戦させられ、メソポタミア戦線で40万人以上の戦没者を出しました。さらに1915年にはインド防衛法を制定して、インド総督にインドの反英運動を取り締まる権限をさらに強化させました。これにより、インドはこれらの代償として自治要求が高まりました。また全インド・ムスリム連盟においても、連合軍イギリスが同盟国側にいるイスラム帝国・オスマン・トルコ(オスマン帝国。1299-1922)と戦うことに不満を抱き、1916年、インド北部の都市ラクナウで、全インド・ムスリム連盟は国民会議派との協調を約束しました(ラクナウ協定)。カリフ擁護を目的とするインドのイスラム教徒の反英・反帝国主義運動(キラーファット。ヒラーファト)と呼ばれる運動はこれを機に動き出しました。
 このため1917年、イギリスはインド担当国務大臣モンタギューの宣言によって、大戦後、インドに自治を与える約束(漸次自治権)を取り付けました。これにより、100万人以上のインド人がイギリスを信頼して軍隊に奉仕したとされています。しかし大戦終了後、インド人はこれまでにない大きな代償を受けることとなるのです。これが1919年にインド政庁が発布したローラット法と呼ばれる法です。ローラット法はインド政庁のローラット委員長の率いる委員会が、大戦中に制定されたインド防衛法をさらに強化して、弾圧を継続させるために制定された法律です。違反者は、令状なしで逮捕され、裁判を通さずに投獄されるなど、インド人の人権を度外視した、大胆で高圧的な政策を押しつけたのです。これによりローラット法を撤廃する運動が各地で勃発し始めていき、こうした中から、マハトマ・ガンディー(1869-1948)が登場するのでした。

 その後の全インド・ムスリム連盟では、これまで国民会議派と提携してイギリスに立ち向かっていたきましたが、1937年以降は反ヒンドゥー・親英路線に代わり、国民会議派との対立を深めていきました。その後も第二次世界大戦勃発(1939)にともないインドは再び参戦させられ、国民会議派は必死にイギリスからの弾圧に抵抗していきました。一方の少数派の全インド・ムスリム連盟は富裕層が主導してパキスタンの建設を主張していき、ムスリム、ヒンドゥー両宗派がそれぞれイギリスから独立するのは、終戦後の1947年8月まで待たなければなりませんでした。

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年12月29日

12月29日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1721年12月29日は、フランス王国・ブルボン朝(1589-1792,1814-30)のルイ15世(1710-74。王位1715-74)の公妾(こうしょう)だった、ポンパドゥール侯爵夫人であるジャンヌ・アントワネット・ポワソン(1721-64)生誕の日です。

 ルイ15世は5歳で即位したブルボン朝第4代の国王です。先代ルイ14世(王位1643-1715)の子どもたちのほとんどは夭逝し、唯一成人に達した王太子ルイ(1661-1711。グラン・ドーファン。大王太子。ドーファンは王太子の意味)も父に先立って没し(1711)、大王太子の息子ルイ(1682-1712)が次の王太子となりました(小王太子。プチ・ドーファン)。しかし小王太子も1712年に病死し(天然痘?)、長男もすでに1705年に、次男は小王太子が没した直後にそれぞれ天然痘等で夭逝したため、次の王太子(ドーファン)は三男ルイがたてられました(王太子位1712-15)。これが1715年に王として即位するルイ15世です。ルイ14世の次期王位を曾孫が受け継ぐのはこのような経緯があったのでした。

 即位したルイ15世は、1725年、ポーランド王の娘マリー・レクザンスカ(1703-68)と結婚し、1737年までに11人の子を産みました(うち1人は死産。2男8女)。しかしほぼ毎年のように妊娠を繰り返しては、王位継承対象となる男児よりも女児を多く出産することで、次第に王妃とは別の情愛を求めるようになっていきます。
 フランスがカトリックを信仰する王国である関係上、王宮に側室を入れることは許されませんでしたので、ブルボン朝ではメトレス・アン・ティートル(Maîtresse-en-titre。メトレス・ロワイヤル、ロイヤル・ミストレス、公式寵姫、公妾などの呼び方があります。国王の公式の愛人)の制度が採用されていました。メトレス・アン・ティートルは王室から生活と身分を保証され、重臣と同等の政務を行うことができました。ルイ15世はマリー王妃とは別に、ネール侯爵家の5人姉妹(ネール姉妹)と関係を持ち、うち長女ルイズ・ジュリー(1710-51。マイイ公爵夫人)ら3人をメトレス・アン・ティートルとして関係を持ちました(1734)。次女のポーリーヌ・フェリシテ(1712-41。ヴァンティミール公爵夫人)もルイ15世のメトレス・アン・ティートルとして権力を手に入れた後は、宰相などの重職に対しても介入し、宰相を置かずに親政することを国王にすすめました。

 オーストリア継承戦争(1740-48)中の1743年、ルイ15世は宰相が死去したのに伴い、親政を開始しました。とはいえ政治にはあまり関心がなかった国王でしたが、同戦争の一環でフランスは1744年にオーストリア領の南ネーデルラント(現ベルギー)に侵攻することになり、ルイ15世みずから親征しました。このとき、ネール姉妹の5女で王のメトレス・アン・ティートルとなったマリー・アンヌ(1717-44。シャトールー公爵夫人)が同行しました。宰相を置かず、しかも政治に無関心な王に対し、マリー・アンヌは姉たち同様、王の執務に口出しし、その存在は国内外にわたって強い影響力を及ぼしたのです。しかしマリー・アンヌは病気のため同1744年末に没し、ルイ15世はその死を悼みました。

 翌1745年、パリから出た一人の女性がルイ15世の目に留まりました。その女性は平民身分でありながら上流ブルジョワ階級の出で、幼少期から才知に富み、類い稀な美貌に恵まれ、1730年の9歳の時に、占術師より「将来国王の公妾になる」と予言され、王室に通用する最高の教育を受けることとなりました。彼女がジャンヌ・アントワネット・ポワソンで、父の莫大な遺産を受け継いで、1741年3月徴税請負人のシャルル・ギヨーム・ル・ノルマン・デティオール(エティオール。1717-99)と結婚しました。エティオールの居館があるセナールの森は、ルイ15世もよく狩猟などで愛用する森でした。エティオール夫人となったジャンヌ・アントワネット・ポワソンは、、国王のメトレス・アン・ティートルになることを目指して、狩猟を楽しむためにこの森にやってきたルイ15世に接近を試みましたが、当時マリー・アンヌがいたため、ルイ15世には当初は対面する程度でした。しかし、マリー・アンヌが急死して悲しみに打ち拉がれたルイ15世は、あらたな愛人となるジャンヌ・アントワネット・ポワソンに接近していくのでした。

 1745年2月、ルイ15世の長子でドーファンのルイ・フェルディナン(王太子位1729-65)がスペイン・ブルボン朝(1700-1931)のフェリペ5世(位1700-24,24-46)の娘であるマリー・テレーズ・ラファエル(1726-46)と結婚することになり、これを祝した仮面舞踏会がヴェルサイユ宮殿で開催され、ジャンヌ・アントワネット・ポワソンも出席しました。ローマ神話に登場する狩猟の女神ディアーナ(ダイアナ)に扮したジャンヌは、国王が参上するのを心待ちにしていましたが、妃のマリー・レクザンスカをはじめ、今回の主役で羊飼いに扮したドーファンのルイ・フェルディナンと彼に嫁いだ同じく羊飼い姿のマリー・テレーズ・ラファエルが姿を現しても国王は登場しませんでした。やがて、彼らの後に登場したのは、8体のイチイの樹木に扮した人たちでした(【外部リンク】から引用。wikipediaより。パリの美術家シャルル・ニコラ・コシャン作。1715-90)。王宮の女たちは国王の寵愛を求めて、そのイチイの樹木に扮した人たちに接近しましたが、さきにイチイの仮面を脱いでその場を離れた人物がおり、その場には7人しかいませんでした。しかも、その7人は国王ではありませんでした。さきに仮面を脱いだ人物はすでにエティオール夫人であるジャンヌ・アントワネット・ポワソンに近づいていました。彼がルイ15世だったのです。ルイ15世はセナールの森でジャンヌを見初め、彼女を次なるメトレス・アン・ティートルとして迎え入れるつもりだったのでした。事実、後日に開催された舞踏会でルイ15世はジャンヌを同行させ、その後王室の行事や会食に彼女を招きました。そしてジャンヌは夫のエティオールから離れて宮殿に居座るようになっていきました。23歳にして、ジャンヌ・アントワネット・ポワソンの悲願が果たされたのでした。そして5月、国王よりポンパドゥールの爵位を賜り、同侯爵領を与えられ、ジャンヌはポンパドゥール公爵夫人(ポンパドゥール夫人)と呼ばれるようになり、1745年9月14日、彼女は正式にルイ15世のメトレス・アン・ティートルとなったのです。ブルジョワの階級とはいえ、これまでの貴族階級とは違い平民階級から初の誕生でした。そして、ポンパドゥール公爵夫人の残したあまりにも有名な言葉、"私の時代が来た"を象徴する、フランスの歴史にその名が刻まれる数多くの実績を残すのでした。

 ポンパドゥール公爵夫人は次々と城館を与えられて国王の厚遇を受けました(有名なのは1753年に与えられた現フランス大統領官邸のエリゼ宮殿など)。夫人が30歳になった1751年頃から、体調面などの理由で情事を重ねることはなくなったが、夫人は国王の寵愛を失わないために、ヴェルサイユ市内にル・パルク・オ・セール(Le Parc-aux-cerfs。"鹿の園"、"鹿の苑"などの呼称がある)を活用しました。ル・パルク・オ・セールはその名が示すとおり、もともと歴代の国王が趣味としていた狩猟で捕らえられた鹿を入れておく場所でしたが、しだいに人々が住み着き、居住区となりました。夫人はこの地を利用し、町の若い娘たちを言い聞かせて居館に住まわせ、情事を求める国王の相手を担いました。これは、国王の寵愛を独占させて権力を維持し、新たなメトレス・アン・ティートルを求めなくとも国王の欲情は町の若い娘が充足してくれるという、ポンパドゥール公爵夫人の施した制度でした(ただし夫人が自発的にこれらを施したかどうかは諸説あり)。こうしたことから"鹿の園"は娼館、売春宿を表す場合があります。ポンパドゥール公爵夫人はこれを機会に、ヴェルサイユ宮殿から離れて自身の館に移りました。

 こうして宮殿を離れた後も、ポンパドゥール公爵夫人はルイ15世によって王政の助言を求められ、権力は維持されました。また同1751年には啓蒙思想の風潮から登場したドゥニ・ディドロ(1713-84)やジャン・ル・ロン・ダランベール(1717-83)ら百科全書派による『百科全書』の発刊を支援し、結果『百科全書』は1772年までに全28巻刊行されることになります。夫人はサロンを開いて、ディドロやヴォルテール(1694-1778)ら啓蒙思想家と交友を結んだ他、絵画、歌、演劇など芸術を奨励し、当時流行したロココ芸術のパトロンとなり、フランス文化を積極的に振興させました。
 また、高級な磁器収集を趣味とするポンパドゥール公爵夫人は、国内の磁器が材質が悪いため、マイセン(ドイツのザクセン州都ドレスデン北西。現在でも陶磁器の名産地で有名)の陶工が1738年にヴァンセンヌ(パリ東部)に開いた磁器製陶所に着目し、ルイ15世を口説いて王室がこの製陶所を買い取り、1756年製陶所をセーヴル(パリ〜ヴェルサイユ間の都市。1920年のセーヴル条約で知られる)に移し、優秀な陶工を招き入れ、1759年国家事業として磁器の製造を奨励しました(セーヴル焼)。夫人はセーヴル焼をフランス国民の誇れる産業とするため、徹底してこの事業に取り組みました。

 しかしオーストリア継承戦争での戦費だけでなく、王室の財力を壟断していくポンパドゥール公爵夫人の存在は、国家の経済情勢を切迫させていきました。財政問題解決のため、歳入の捻出を当時の財務総監ジャン・ド・マショー(任1745-54)に命じて増税を全ての身分に課しました。貴族や聖職者ら免税特権身分までも課税対象となったことで、貴族階級を擁護するパリ高等法院も増税に反対しました。こうした状況の中で、ルイ15世は1756年、プロイセンやイギリスを敵とする七年戦争(1756-63)に参戦しました。この戦争は、フランスは、ロシア、そして長年の宿敵だったハプスブルク・オーストリアと手を組むという、いわゆる"外交革命"が果たされて勃発した戦争ですが、この"外交革命"は、オーストリアのマリア・テレジア(1717-80。オーストリア大公位1740-80)、ロシアの女帝エリザヴェータ(帝位1741-62)、そしてフランスのポンパドゥール公爵夫人ら3人の有力な女性たちがプロイセン打倒という共通の意志でもって為し得た革命的同盟であり、これまでの固定された国際関係が大きく変わった瞬間でした。これを"3枚のペティコート作戦"と呼ばれました。こうしてポンパドゥール公爵夫人は国際情勢を動かすほどの存在となっていきました。そしてこの革命の後、フランスのブルボン王家に、マリア・テレジアの11女であるマリ・アントワネット(1755-93)が、1765年のフランス王太子ルイ・フェルディナン没後、子ルイ・オーギュスト(ルイ15世の孫。1754-93。王太子位1781-89。のちのルイ16世。王位1774-92)に嫁いだのです。

 こうしたことから、ブルボン王家は行政、軍事、財政のすべての面において無頓着のルイ15世に対し、これらに介入したポンパドゥール公爵夫人の意のままとなりました。ルイ15世はフランス国王としての人気が凋落していき、ブルボン王政の国家運営に不満が立ちこめてきました。七年戦争が勃発して半年後の1757年1月、ルイ15世は、貴族に仕えていた使用人ロベール・フランソワ・ダミアン(1715-57)に襲撃され、世間を震撼させた(ルイ15世暗殺未遂事件。1757.1)。腹部を刺されましたが、傷は浅く命を取り留めました。ダミアンは捕らえられ、八つ裂きの公開刑に処されました。

 ポンパドゥール公爵夫人はかつての増税政策で王室不支持者が増加し、さらには夫人自身の浪費や権益の壟断への非難も高まったことで、その増税政策の実施者で財務総監退任後、海軍大臣を務めていたジャン・ド・マショー(任1754-57)を罷免させました。この出来事でルイ15世は心に深い傷を負うこととなりました。七年戦争は結果的に敗北を喫し、新大陸で展開されていた英仏植民地争奪戦争の一環であるフレンチ・インディアン戦争(1755-63)も敗北して広大な植民地を失い(1763年パリ条約)、フランスは内憂外患こもごも至る状態となってしまいました。

 そして、1764年4月15日、ついにこの日が訪れます。フランスを混乱に陥れ、社会不安が増大する中で、どうすることもできないルイ15世に厳しい追い打ちをかけたのでした。ポンパドゥール公爵夫人は、肺と心臓の疾患によりヴェルサイユ宮殿にて没したのです(ポンパドゥール公爵夫人死去。1764.4.15。享年42歳)。ルイ15世が夫人のためにヴェルサイユ宮殿内に離宮として建築中であったプティ・トリアノン宮殿の完成を見ることができませんでした(1768年完成)。"Après moi le déluge !(我が後に大洪水あれ!。後は野となれ山となれの意味) "の言葉はルイ15世、あるいはポンパドゥール公爵夫人が呟いたか、時の情勢を嘆く言葉として流布されたものとされております。そして、前述の通り、夫人没後の翌1765年にはドーファンのルイ・フェルディナンも没し、ルイ15世の後継者はルイ・オーギュストに託すこととなった。そして1768年には王妃マリー・レクザンスカも没した。ポンパドゥール公爵夫人没後はマリー・アデライード(1732-1800。ルイ15世とマリー妃の四女)が執務を担うことになりました。

引用文献『世界史の目 第246話』より

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2018年12月28日

12月28日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1885年12月28日は、本国イギリスが領有するインド帝国(1858-1947)の知識人層において、インド総督の承認をもとに、インド国民会議(National Congress)が結成された日です。

 1877年、イギリス・ヴィクトリア女王(位1837-1901)がイギリス領インドにおいてインド皇帝を兼ねることを宣言し、インド帝国としてイギリスの植民地としての完全支配がはかられます。それ以降、インドはイギリス資本で開発が促進され、労働者の激増に加えて、英語による近代教育を施した知識人の増加など、近代化が進んで親英インド人も増えましたが、こうした発展から得た収益は本国イギリスのものであり、インド人の生活は停滞しておりました。
 やがて、綿工業などにみられるインド本来の産業が活性化しましたが、これは民族資本の成長によるものです。民族資本とは、土着民族が形成した資本で、外国資本と対抗してつくられた資本です。労働者は待遇改善を主張し、農民は茶などのプランテーションの発達による酷使で不満を訴え、また地主の土地集中によって貧窮化しました。知識人にいたっては、官吏・ジャーナリスト・教育者などとして活躍していましたが、真理を追究することによって、民族意識(ナショナリズム)にめざめ、植民地支配下におかれていた立場を見直し、イギリスの統治に対する批判と、民族主義にもとづく解放を目的とした啓蒙運動がおこされるようになっていきました。

 本国イギリスはインドのこうした動きを見て、1885年、ボンベイ(現ムンバイ)でインド人による国民会議(National Congress)を開催させて、インド人懐柔策として彼らの不満を反らせるように仕向け、対英協調を求めました。インド総督のもと、親英的な知識人や地主などが集まり、元裁判所判事で教師のバネルジー(バナジー。1848-1925)、元教師で藩王国の首相も務めた下院議員ナオロジー(1825-1917)、宗教団体ブラフモ・サマージの活動家パール(1858-1932)らが出席し、当初はイギリスとの協調に重点を置いて、穏健に進みました。
 しかし、ナショナリズムの高揚と拍車のかかった植民地支配が進行すると、反英精神からくる民族独立を主張し始め、政党化して国民会議派(コングレス党)が誕生することになりました。特にナオロジーは、インドの貧窮化は、インドの"富"がイギリスへ"流出"しているためだと説明し、イギリスからの解放を求めました。また元新聞発行者ティラク(1856-1920)は、派内の急進的存在となり、急進化したパールや、"ヴェーダに帰れ"というスローガンをもとに設立されたヒンドゥー教徒の改革運動組織アーリヤ・サマージ(設立者ダヤーナンド・サラスヴァティ。1824-83)の指導者だったラーラー・ラージパット・ラーイ(1865-1928)らも立ち上がって、共に反帝・反英を強力に主張していきました。特にラーイの協力は、国民会議派の活動を、ヒンドゥー教徒の支持によって一層強化させていきました。

 これによりインド総督カーゾン(任1859-1925)は、1905年、反英運動の激しいベンガル行政区において、イスラム・ヒンドゥー両教徒の居住地域を、東西、宗教的に強制分割し、宗教的対立から反英運動を反らせ、さらに地租増収を定めました(ベンガル分割令。カーゾン法)。しかしこうした分割統治は効力があるわけがなく、分割反対運動(1905-08)がティラク、パール、ラーイら急進派らによって激化し、かえって反英闘争は促進され、独立運動の気運を高める結果となってしまいました。また折しも日本がロシア相手に日露戦争(1904-05)で勝利した影響が、大国イギリスに立ち向かうインド国民会議派へ好都合に動いていきました。

 国民会議派は議長バネルジーをはじめ穏健派が中心であり、ベナーレス(ヴァーラーナシー)での大会(1905)までは常に穏健派による推進が続いたが、翌1906年、国民会議派はティラクら急進派が中心となり、同年に開催されたカルカッタ大会でイギリスに対する四大決議(四大綱領)を通過させました。その4つとは、@英貨排斥(ボイコット)Aスワデーシー(インド国産品愛用)Bスワラージ(インドの自治、そして独立)C民族教育(植民地奴隷の意識付けの廃止)であり、実践的な内容が打ち立てられました。これにより穏健派と急進派との間に対立が生じ始めました。翌1907年末のスーラト大会では、穏健派が巻き返しをはかろうとして急進派との対立が表面化し、会場でサンダルが投げつけられるといった不名誉な事件も起こるなどして両派は完全に分裂、またイギリスも急進派には弾圧を、穏健派には懐柔をはかり、ナショナリズムの鎮静化を期待しました。ティラクは逮捕・投獄されましたが(1908-14)、ラーイは本格的な海外活動(1913-1920。1915年には訪日も)を始めて独立運動に支持を取り付けました。一方穏健派のバネルジーは1918年、穏健派メンバーを率いて国民会議派を脱退、1921年政界を引退しました。

 こうしてインドでの国民会議派は、その後はひとまず穏健派が主導となり、さらに第二段階を迎えていきます。

引用文献『世界史の目 第54話』より


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2018年12月27日

12月27日は何に陽(ひ)が当たったか?

 683年12月27日は、中国、王朝(618-907)の第3代皇帝、高宗(こうそう。李治。619-683)の没年月日です。

 高宗は第2代皇帝で、貞観の治といわれる善政を現出した太宗(たいそう。李世民。位626-649)の第9子で、鮮卑(せんぴ)民族の拓跋一族(たくばつ)出身である外戚の長孫氏(ちょうそん。後に述べる名臣と呼ばれた長孫無忌、またその妹は太宗の皇后で知られる)の奨めもあって高宗が太宗の後を継ぐことになりました(位649-683)。

 百済(?-660)、高句麗(?-668)の滅亡に尽力、663年の白村江での戦勝、西突厥(582-741)征討など、外敵への対策は盤石で、高宗の治世において、唐の最大版図を現出しました。内政においても前半は貞観の治を受け継ぎ、長孫無忌(ちょうそんむき。?-659)や、初唐の書家であり名臣の褚遂良(ちょすいりょう。596-658"ちょ"は'ころもへん'に'者')の活躍もあって安定した治世を現出できました。

 しかし、676年、唐との同盟を破棄し、唐と戦争を展開していた新羅(B.C.57-A.D.935)が、朝鮮半島を統一したことで唐の朝鮮半島経営を諦めざるを得ませんでした。また宮中でも高宗が政治を顧みずに、側室蕭淑妃(しょうしゅくひ。?-655)への恋に溺れてしまい、当時の高宗の正室である王皇后(?-655)は仲を引き裂くため、父太宗の後宮だった武氏を再び高宗の後宮に入れてしまいました。この女性は武照(ぶしょう。624-705)といいます。結果、高宗の恋心は蕭淑妃から王皇后に舞い戻ると思いきや、武照に移っていったのです。これにより武氏の勢力は強まっていきました。武氏は長孫氏の排斥をおこなって長孫無忌を失脚させ、褚遂良を左遷させて中央の行政権を掌握し、王皇后は廃后されて蕭淑妃とともに処刑され、代わりに武照の立后が果たされ、武照は皇后となりました。彼女こそのちの武則天、世に言う則天武后(そくてんぶごう)です。

 高宗は自身の過ちを憂いながら、660年以後から晩年にかけては自身の病魔との戦いに専心したため、唐はほとんど武氏の行政になりかわりました。高宗は失意の内に683年12月27日に没しました。治世の前半は長孫氏、後半は武氏によって国家が運営されたことで、高宗は唐の最大版図を築きながらも、主導権を握ることはない、"名許り(なばかり)皇帝"と印象づけられてしまいました。

 高宗の死後、武則天による垂簾政治が始まり、大きな騒動となっていくのでした。

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2018年12月26日

12月26日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1530年12月26日は、北インドにあったムガル帝国(1526-1858)の初代君主、バーブル(1483-1530)の没年月日です。

 パンジャーブ地方で勢力を上げていたアフガン系のロディー族が、デリーにて政権樹立を叫び、その中心人物であったバフロール(バハロール=ロディ。?-1489)がサイイド朝滅亡を機にスルタンに即位(位1451-89)、アフガン系初のデリー・スルタン政権・ロディー朝(1451-1526)が誕生します。ロディ朝はデリー南郊にアグラを建設、アグラは発展していきますが、1519年以降、カーブル(現アフガニスタンの首都)を拠点とし、ティムール帝国(1370-1507)の復活を掲げていたバーブルの軍隊による、度重なる侵攻に悩まされました。バーブルはティムール帝国の創始者ティムール(1336-1405)の5代目の直系子孫だといわれております。

 1526年ロディ朝率いる10万の象軍と、少ないながらも鉄砲を活用したバーブルの騎馬隊がデリー北のパーニーパットで激突、激戦がおこなわれました(パーニーパットの戦い)。果敢に攻めるバーブルの軍隊によって、ロディ朝軍は次々と倒されました。同年、デリーとアグラは占領され、遂にロディー朝は滅亡しました。その後バーブルは自身の国、ムガル帝国を創設し、北インド支配の基礎を築いていくことになるのです。

 バーブルは自伝『バーブル・ナーマ』をトルコ語で著すなど、軍事・行政のみならず、文筆業にも長けておりました。しかし1530年12月26日、病気のためアグラで没し、長子のフマーユーン(1508-56)が後を継いだのでした。

参考文献『世界史の目』より

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2018年12月25日

12月25日は何に陽(ひ)が当たったか?

 800年のクリスマス、12月25日は、カールの戴冠が行われ、西ローマ帝国(395-476)が復興した日です。

 フランク王国(481-887)では、カール1世(王位768-814)が就任してからは、出征の繰り返しで、その数は50回を上回りました。北イタリア遠征ではロンバルド王国(568-774)を滅ぼし(774)、ゲルマン一派のサクソン族(ザクセン。ドイツ地方・エルベ川中流域)と30年以上に及ぶ大戦争を繰り広げ(サクソニア戦争。772-804)、結局サクソン族はカール1世によって征服されました。778年にはイベリア半島に遠征してイスラム教徒に進撃し(778-801)、エブロ川以北を占領してスペイン辺境伯領をおきました。この戦いは12世紀になって、フランス最古の武勲詩『ローランの歌』でも広く読まれました。
 787年にはバイエルン公国(ドナウ川上流。555?-1623)を併合、791年には中央アジアから侵入してきたモンゴル系遊牧民アヴァール人を平定し、ドナウ中流域にまで勢力を広げました。こうしたカール1世の出征によって、西ヨーロッパは次々とフランク王国にのまれていき、8世紀末までには西ヨーロッパ統一が完成しました。こうして、ヨーロッパ世界は東方にビザンツ帝国(395-1453)、西にフランク王国が二分する形態となっていきました。

 もともとビザンツ帝国は、330年、つまりローマ皇帝コンスタンティヌス1世(位310-337)が統治していた専制ローマ帝国時代に首都がローマからコンスタンティノープル(当時名:ビザンティオン)に移され、395年のローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の東西分裂後、東ローマ帝国として継続を続けてきた国であり、当然教会もコンスタンティノープル教会としての首位権を主張していました。一方のローマ教会は、イエス・キリスト(B.C.7/B.C.4?-A.D.30?)の12使徒の筆頭ペテロ(?-64?)がローマで殉教したことから教会の首位性を主張、ペテロをローマ第1代の司教として、その後継者が教皇であるとし、コンスタンティノープル教会の首位権を否定しました。その結果、東西における教会の対立が生まれたのです。コンスタンティノープル教会は、バックにビザンツ皇帝(東ローマ皇帝)がいることを武器に、ローマ教会と敵対していきました。ビザンツ帝国の脅威を感じたカール1世は、広大な西ヨーロッパの領土を統治するためには、西ローマ帝国を復活して、この皇帝になり、権威を高める必要があると考え始めました。

 799年、教皇領で、ローマ教皇レオ3世(位795-816)が、前教皇の一族に暗殺されかかり、危うく難を逃れてフランク王国に亡命し、カール1世の保護を受けて、再びローマ教皇領に帰還した。そして陽の当たった翌800年12月25日クリスマスの日、サン・ピエトロ大聖堂での「イエス・キリスト生誕ミサ」の席上、教皇レオ3世は保護の報償として、教皇自ら、西ローマ皇帝の冠を、突然カール1世に授けた(カールの戴冠)。カール1世は西ローマ皇帝カール大帝の就任となり(位800-814)、これによりレオ3世は帝国復活の宣言を行ったのです。これが西ローマ帝国の復興です。ゲルマン民族が創始したフランク王国とローマ教皇を頂点とするキリスト教会とのタッグによって、西ヨーロッパ世界が新たに生まれ変わったことを意味しました。つまり、古代のローマ帝国、ゲルマン民族の帝国、ローマ・カトリック教会の国の3要素が融合した、ヨーロッパ世界の誕生でした。実際は、ローマ教皇からしてみれば、コンスタンティノープル教会に対して教皇権の優位性を知らしめる結果となり、西ローマ皇帝にしてみれば、ビザンツ皇帝に対して西ローマ帝国復活による脅威を与える結果となり、フランク王国は絶頂期を現出したのです。

 その絶頂期、カール大帝は、中央集権国家を確立するため、各地方に国王直属の地方行政官・伯(はく。グラーフ)を設置し、また伯の専横を防止するために巡察使を派遣して監視しました。また文化面ではイギリスの神学者アルクィン(735?-804)をはじめとする有能な学者らを宮廷に招いて古代文化の復興に励み、ラテン語の普及を促して、聖職者の教養を向上させました。これがカロリング・ルネサンスというフランク王国風の文化復興でありました。

 カール大帝は、アーヘンで72歳の生涯を閉じ、のち聖人に列せられました。

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2018年12月24日

12月24日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1491年12月24日は、スペインの前身に当たるカスティーリャ王国(1035-1715)領バスク出身の修道士、イグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556)生誕の日です(10月23日の説もあります)。

 カスティーリャの貴族軍人だったロヨラは、1521年フランスとの戦争で戦傷を負い、療養生活を強いられますが、その間仕方なくイエスや聖人の書を読みながら傷を癒やす日々が続きますが、それがもとで回心し、聖人への憧れを持つようになり、イェルサレム巡礼を行って、パリで勉学に励んだとされています。そこで同郷のフランシスコ・ザビエル(1506-52)ら6人と知り合い、彼らと共に清貧・貞潔・教皇への絶対服従を理念に修道会結成案が持ち上がり、1534年、イエズス会(ジェズイット教団。耶蘇会)は組織されたのです。1537年、ロヨラは司祭となり、1540年にはパウルス3世(位1534-49)のイエズス会としての活動の認可を受け、翌年ロヨラは総会長に就任しました。
 教皇パウルス3世の時代は、ヨーロッパの旧教勢力(カトリック)が、新教勢力(プロテスタント)による宗教改革への対抗と、ローマ教皇の権威の復活を目指した反宗教改革(対抗宗教改革)を起こしていた時期で、イエズス会は海外布教、それも新天地への伝道を最も重要な活動として展開していき、ザビエルのアジア布教へと進んでいくのでした。

 イグナチウス・デ・ロヨラは1556年7月31日にローマで死去し、1609年7月27日に列福され、1622年5月22日に列聖され、聖人となったのでした。

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2018年12月23日

12月23日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1978年12月23日は、アメリカのロック・グループ、TOTOのデビュー・シングル、"Hold the Line(邦題:ホールド・ザ・ライン)"がBillboard HOT100シングルチャート同日付でTop10入りを果たした日です。

 デビュー時のメンバーは、Bobby Kimball(ボビー・キンボール。vo)、Steve Lukather(スティーヴ・ルカサー。gtr,vo)、Steve Porcaro(スティーヴ・ポーカロ。key)、David Paich(デヴィッド・ペイチ。key,vo)、David Hungate (デヴィッド・ハンゲイト。bass)、Jeff Porcaro(ジェフ・ポーカロ。drums)の6人でした。David Paich、David Hungate、Jeff Porcaroは1976年にリリースされたBoz Scaggs(ボズ・スキャッグス)のヒット・アルバム、"Silk Degrees(邦題:シルク・ディグリーズ)"のレコーディングに参加したのが縁でTOTO結成に発展しました。

 1978年10月、デビュー・アルバム"TOTO(邦題:宇宙の騎士)"が彼らのセルフ・プロデュースでリリースされました。全盛期となる80年代ではクォリティの高いAORサウンドで人気を博しましたが、70年代のTOTOはプログレやジャズ寄りのアメリカン・ハードロック色が濃いグループでした。デビュー・アルバム"TOTO"からカットされたデビュー・シングルが"Hold the Line"です。

 非常にドラマティックなハード・ロック・ナンバーで、Bobby Kimballのクリアな歌声がポップ・エッセンスをもたらし、耳に馴染みやすいロック・サウンドです。David Paichのピアノや、David Hungateのダブル・ネック・ベース(同曲のプロモーション・ビデオでも披露)、間奏部分でのSteve Lukatherのギター・ソロやJeff Porcaroの超高速連打など聴き所が多く、デビュー曲にしてこの完成度の高さは、チャートにおいても大きく反映しました。

 1978年10月7日付HOT100で84位にエントリーした"Hold the Line"は、その後76位→68位→61位→53位と当初はおとなしめの上昇でしたが、11月11日付でいきなり37位と、エントリー6週目でTop40入りを果たして以降のアクションは目覚ましく、33位→23位→18位→15位→13位と迫り、陽の当たった12月23日付、12週目にして10位とTop10入りを果たしたのです。翌週付のHOT100は休刊のため順位は同じ10位、年が明けると8位→5位→5位と、1月13日付から2週連続記録した、5位が最高位となりました。その後は下降しましたが(8位→20位→34位→52位→98位)、デビューにしてHOT100内21週のチャートイン、Top40内14週は立派な成績であり、1979年のYear-Endチャートは100位内44位を記録しています。また南アフリカの当時のシングルチャートでは1位を記録する大ヒットを打ち立てております。

 デビュー曲のヒットで、アルバム"TOTO"は1979年2月17日付Billboard200アルバムチャートで2週連続9位を記録しました。第2弾シングルの"I'll Supply The Love(邦題:愛する君に)は1979年3月31日付HOT100で45位、第3弾シングルの、初期の名曲と讃えられた"Georgy Porgy(邦題:ジョージ・ポージー)"は48位を記録しています。

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2018年12月22日

12月22日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1885年(明治18年)12月22日は、日本で初の内閣が誕生した日です。
 内閣は天皇指名による内閣総理大臣、および総理任命の国務大臣によって構成され、第一次伊藤博文内閣が誕生しました(1885.12.22-1888.4.30)。

  • 内閣総理大臣・・・伊藤博文(いとうひろふみ。1841-1909)。
  • 外務大臣・・・1887年まで井上馨(いのうえかおる。1836-1915)、1888年2月まで伊藤、その後大隈重信(おおくましげのぶ。1838-1922)
  • 内務大臣・・・山県有朋(やまがたありとも。1838-1922)
  • 大蔵大臣・・・松方正義(まつかたまさよし。1835-1924)
  • 陸軍大臣・・・大山巌(おおやまいわお。1842-1916)
  • 海軍大臣・・・西郷従道(さいごうつぐみち。じゅうどう。1843-1902)
  • 司法大臣・・・山田顕義(やまだあきよし。1844-92)
  • 文部大臣・・・森有礼(もりありのり。1847-89)
  • 農商務大臣・・・1886年まで谷干城(たにたてき。かんじょう。1837-1911)、1886年まで西郷、1887年7月まで山県、同年9月まで土方久元(ひじかたひさもと。1833-1918)、その後、黒田清隆(くろだきよたか。1840-1900)
  • 逓信(ていしん)大臣・・・榎本武揚(えのもとたけあき。1836-1908)


 明治維新の流れに沿った、薩長中心の藩閥内閣で、議会が誕生する前の内閣のため議院内閣制の性質を持たず、内閣は総理大臣や天皇から任命された国務大臣が、天皇に対してのみ責任を負うというものでした(単独輔弼責任制)。発足後の内閣では自由民権運動への対策、条約改正などに尽力しました。

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