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2019年04月08日
4月8日は何に陽(ひ)が当たったか?
19世紀末期、イギリスとフランスは友にアフリカ政策を実施していました。イギリスのカイロとケープタウンの縦一直線の支配が計画されたアフリカ縦断政策、フランスのジプチとサハラ砂漠の横一直線の支配が計画されたアフリカ横断政策です。
ジブチを出たフランス軍は、ジャン・マルシャン大尉(1863-1934)のもとで、スーダンを横断の形で東進、200名の探検隊をフランス領コンゴからナイル川上流に出発させて、1898年7月、スーダン南東部のファショダに到着し、同地でフランス国旗を掲げました。そこへイギリス縦断政策を実行していたホレイショ・キッチナー将軍(1850-1916)率いる2万5000の軍隊がファショダに辿り着きますと、すでに同地に身を置いているマルシャン大尉率いるフランス軍と出くわし、多大な緊張が走りました。これが有名なファショダ事件です。
英仏植民地戦争の再来とされたこの事件は、すでに西南アフリカ(ナミビア)・カメルーン(ギニア湾岸)・トーゴ(トーゴランド。ギニア湾岸)・東アフリカ(現在のタンザニア・ルワンダ方面。タンザニアは当時タンガニーカと呼ばれ、その後イギリス領)をドイツの領土として抑えていました、皇帝ヴィルヘルム2世(帝位1888-1918)率いるドイツ帝国(1871-1918)の動向に着目し、英仏両国が同志として外交的な歩み寄りがなされて、結果フランスは折れてスーダンから撤退しました。これまで敵対していた英仏の急速な接近は、フランス領モロッコ、イギリス領エジプトの相互承認が約束されて、陽の当たった1904年4月8日の英仏協商へと導かれ、新たな国際情勢が形成されていったのです。
英仏協商により、長きにわたった英仏間における植民地の利害関係は緩和され、特に"光栄ある孤立"を誇っていたイギリスは、南ア戦争(ボーア戦争。1899-1902)の難航化や対露・対独政策について徐々に他国との協力姿勢を見せ始め、極東では日本と日英同盟(1902-23)を結ぶなどしてイギリス一強主義を終わらせ、そしてヨーロッパでも英仏協商によってフランスとともに相互協力体制を敷いていくのでした。
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2019年04月07日
4月7日は何に陽(ひ)が当たったか?
1494年にイタリア戦争(1494-1559)を起こし(こちら。『世界史の目』より)、そして敗れた先代の温厚王シャルル8世(位1483-98)が突然の事故死に遭います。シャルル8世の継承者対象となる子どもたちは夭逝していたため、ヴァロワ朝の本流が途絶え、ヴァロワ王家存亡の危機が訪れます。
この頃、4代目の狂気王シャルル6世(位1380-1422)の弟オルレアン公ルイ1世(公位1392-1407)を父にもつ、オルレアン公シャルル1世(公位1407-65)が、3番目に結婚したクレーフェ公女マリー(1426-87)との間になした一男、ルイが、父亡き後に幼少からオルレアン公ルイ2世(公位1465-98)として即位していました。このルイ2世がヴァロワ朝の王位継承者となり、8代目フランス国王ルイ12世として即位することになりました(王位1498-1515)。こうして、ヴァロワ朝は傍系か引き継がれたことで存亡の危機を脱しました(ルイ12世のヴァロワ朝は正式にはヴァロワ・オルレアン朝といいます)。
ルイ12世の治世においても、先代のシャルル8世に引き続いて、イタリア戦争が再開されました(1499-1513)。1508年、ルイ12世はローマ教皇ユリウス2世(皇位1503-13)、神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝マクシミリアン1世(ハプスブルク家。帝位1493-1519)らと対ヴェネツィアのカンブレー同盟を結んでヴェネツィア相手に戦いますが、フランスの強大化にユリウス2世をはじめ同盟国側が脅威を持ち初め、ユリウス2世が主導となって1511年神聖同盟をイギリス、スペイン、神聖ローマ帝国、そしてヴェネツィアらと結成し、今度は対フランスを掲げた戦争になりました。フランスは神聖同盟軍相手にラヴェンナ戦では勝利したものの次第に劣勢になり、1513年に敗北してイタリアの全権益を失うこととなりました。
ルイ12世は男子を残さず1515年1月1日に没したため、ヴァロワ・オルレアン朝は一代で終わり、ルイ12世の従兄のアングレーム伯シャルル(伯位1467-96)の子であるアングレーム伯フランソワ(伯位1496-1515)がヴァロワ王家に迎え入れられました。これがフランソワ1世(王位1515-47)です。ヴァロワ朝はまたもや傍系であるアングレーム家を引き寄せてヴァロワ朝の存続維持に成功し(ヴァロワ・アングレーム朝といいます。1515-89)、フランス王家を守り抜きました。
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2019年04月06日
4月6日は何に陽(ひ)が当たったか?
1881年海軍機関士補となったピアリーは、1884年からニカラグア運河の測量を行い、1891年から数回グリーンランドの調査を行いました。1888年にはグリーンランド探検で知り合ったイヌイットの女性(Josephine Cecilia Diebitsch)と結婚し、二児をもうけました。
グリーンランド探検に続き、ピアリーは北極点を目標に定め、1898年から3次にわたる極地探検を始めました(1次:1898-1902、2次:1905-06、3次:1908-09)。1899年には凍傷によりピアリーはほとんどの足指を失うことになりましたが、陽の当たった1909年4月6日、ピアリー率いる6人の探検隊はついに北極点に到達、人類最初の北極到達として大きな話題になりました。
しかし帰国後、ピアリーの第2次探検隊にも隊員として属したフレデリック・クック(1865-1940)が、ピアリーより早い1908年4月に北極点に到達したと主張し、論争に発展しました。結果的にはアメリカ地理学協会の調査の結果、ピアリーが初到達したと認定し、クックは到達が認められず、詐欺罪で収監されました。実はこの調査で、ピアリーがクックの証人を買収したという説があるものの、実際クックは到達点の数百区キロ手前にしか至っていないといわれています。
現在の調査では、ピアリーが到達した場所が北極点から約6kmの地点であったと見る動きもあり、極点到達に関する疑問点も少なくはないようです。
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2019年04月04日
4月4日は何に陽(ひ)が当たったか?
1081年に前王家のドゥーカス王朝(1059-81)がクーデタで倒れ、ドゥーカス朝と同じく軍事貴族のコムネノス朝が始まりました。初代皇帝アレクシオス1世(位1081-1118)の治世では、これまでの軍管区制(全国をいくつかのテマという軍管区に分けて再編成し、それぞれに地方行政を兼任する軍司令官を置く制度)を中心としていた中央集権国家体制から、貴族の軍事奉仕を条件に土地およびその管理権を分与させる(ただし譲渡や相続は不可能)制度を採り入れたのです。東ローマ帝国における封建制度の導入で、これをプロノイア(プロニャ)といいます。プロノイア制の導入で軍事貴族の連合体制が整い、帝国は幾分安定しました。しかしドゥーカス王朝時代からのセルジューク朝(1038-1194)の圧迫は依然として続きました。ちなみにセルジューク朝では地方分権化しており、占領した小アジアではニカイア(ニケーア。現イズニク)を首都にルーム・セルジューク朝(1077-1308)がおこされました。
コムネノス朝では帝国再興にむけて、前のドゥーカス家と手を結び連合体制をとりました。軍隊を再建するため、かつての東ローマ帝国の自治領であり、その後独立した海洋国家ヴェネツィア共和国(697-1797。別称"アドリア海の女王")と提携して海軍拡張に努め、海の防衛を徹底的に行いました。これにより、まず南イタリアを占領したノルマン人撃退に成功しました。
そして今度は各地の地方政権を従えたセルジューク朝対策にむけて、アレクシオス1世は大きな決断を行いました。西欧のキリスト教世界を支配しているローマ教皇ウルバヌス2世(位1088-99)に向けて西欧の援軍要請を中心とした内容の書簡を送ったのです。結果的にこれがイェルサレム奪還に向けた第1回十字軍(1096-99)としてあらわれ、ニカイアは第1回十字軍により取り戻されました(1097)。これによりルーム・セルジューク朝はイコニオン(現コンヤ)に遷都することになります。アレクシオス1世の兵力拡張策は功を奏し、領土も幾分は回復しました。
しかし12世紀になると、ブルガリア(第二次ブルガリア帝国。1185/6-1396)やセルビア(ネマニッチ朝。1171-1371)が独立するなどして、コムネノス朝の失政が続き、同王朝はやがて滅亡(1185)、コムネノス家の遠縁にあたるアンゲロス家が引き継ぐことになりました(アンゲロス朝。1185-1204)。
引用文献『世界史の目 第199話』より
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2019年04月03日
4月3日は何に陽(ひ)が当たったか?
ムリリョはスペイン南部のセビリャで理髪屋(医師の説もあり)の家に生まれましたが、11歳の時に両親を亡くし、親戚に養われます。1645年にセビリャのフランチェスコ修道院での装飾による11点の連作で脚光を浴びたムリリョは、1660年にセビリャの画院の院長に就任しました。
ムリリョの絵画は暖かみのある色彩が特徴で、修道院の宗教画や庶民画を中心に描き、聖母子画などを数多く残しました。描かれる人物は愛らしさがあり、代表作は『Immaculate Conception of Mary(邦題"無原罪の御宿り"。画像はこちら。以下Wikipediaより)』『Annunciation(邦題:受胎告知。画像はこちら)』『St. Justa(邦題:聖フスタ。画像はこちら)』などがあります。
全ヨーロッパにその名が知られたスペイン初の画家として数々の傑作を残したムリリョでしたが、1682年、カディス(セビリャ南郊)の修道院で制作中に足場から転落、数日後の4月3日、64歳で没しました。
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2019年04月01日
4月1日は何に陽(ひ)が当たったか?
一般に流通する硬貨としては、高額面硬貨として話題になりましたが、偽造や変造が多発したことで、2000年8月にデザインや材質が一新されました(写真はこちら。wikipediaより)。
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2019年03月31日
3月31日は何に陽(ひ)が当たったか?
この隕石は"笠松隕石"と名付けられ、石質で微粒子があり、磁力はなく、調査の結果、約50億年前の石であると判明、1988年6月29日に笠松町指定文化財とする天然記念物に認定されました。
参考サイト:笠松町のホームページより
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2019年03月30日
3月30日は何に陽(ひ)が当たったか?
12世紀後半、神聖ローマ帝国(962-1806)では第一次シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝。1138-1208,1215-54)が南イタリアに勢力を上げ、シチリアを征服しました(ドイツのシチリア征服。1194)。このシュタウフェン朝シチリア王国では2代目王として、後に神聖ローマ皇帝となるフリードリヒ2世(帝位1215-1250)がフェデリーコ1世(シチリア王位1197-1250)の名で同島に君臨しました。
しかしイタリア政策をめぐって神聖ローマ帝国とローマ教皇間で紛争が勃発、イタリアでは都市単位、貴族単位にはゲルフ(グェルフ。教皇党)とギベリン(皇帝党)をそれぞれ結成して対立を深めました。そこで教皇は、フランス・カペー朝(987-1328)の聖王と呼ばれたルイ9世(位1226-70)の弟で、カペー系のアンジュー家の始祖であるアンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー。伯位1246-1285)をシチリア王位の最有力継承者として推薦、ローマ教皇(ウルバヌス4世。位1261-64)に支持されたシャルルは、当時シチリア王だったフリードリヒ2世の庶子マンフレート(王位1258-66)を南イタリアのベネヴェントで破り(1266)、マンフレートを戦死させました。これにて、ホーエンシュタウフェン家のシチリア支配は終焉を迎え、アンジュー伯シャルルはカルロ1世(シチリア王位1266-1285)として王位に就きました(1266)。フランス支配下におけるシチリア王国の誕生です(アンジュー朝シチリア王国)。
同じ頃、ビザンツ帝国(395-1453。東ローマ帝国)のパラエオロゴス朝(パレオロゴス朝。1261-1453)という、ビザンツ帝国における最後の王朝がおこり、ビザンツ皇帝ミハイル8世(ミカエル8世。初代皇帝。位1261-82)は、以前のような強大国ではないものの、ビザンツ再興を果たしたことでその権威をあらわにし、帝国の版図を最盛期の状態に戻すことのみを考え、十字軍時代における首都コンスタンティノープル奪還時に援助のあったジェノヴァや、かつての敵ヴェネツィアとも協力体制を取るなど、数々の策略でもって版図を拡げ始めていきました。また十字軍結成に至る、教皇側における本来の目的であった東西教会の統合をローマ教皇に進言して(第2回リヨン公会議。1274)、教皇から支持を得ようとしました。
一方でアンジュー朝シチリア王国のカルロ1世は、ホーエンシュタウフェン家のシチリア支配を終わらせた後、そのミハイル8世が誇るビザンツ帝国の征服を考えていました。地中海における大帝国を築くことがカルロ1世の野心であったのです。
当然この動きはビザンツ帝国パラエロゴス朝にも伝わり、ミハイル8世はアンジュー家と敵対するイベリアのアラゴン王国(1035-1137。1137年からはバルセロナ伯のカタルニャと同君連合国家を組み、アラゴン連合王国となる。1137-1479)と協力体制を敷きました。
このとき、アンジュー伯シャルルことカルロ1世の支配するシチリアでは、圧政を続けるアンジュー家の支配を快く思わず、島のイタリア系住民は不満をあらわし、情勢はどちらかといえば悪化傾向にありました。これを知ったビザンツ皇帝ミハイル8世は、カルロ1世からの厳しい搾取に苦しむシチリア島民の反仏精神を扇動する行動に出て、フランス人排斥運動へと発展させていきました。
1282年3月30日は、復活祭の翌日にあたる月曜日でした。教会では大勢の島民が夕刻の祈り(晩禱。ばんとう)を捧げ、これを告げる入相の鐘、つまり晩鐘(ばんしょう)が鳴らされました。
この瞬間、惨事は起こりました。シチリア島の中心都市パレルモで、島民によるフランス兵虐殺が始まりました。晩禱に集まっていた島民に近寄ったフランス兵が、地元の女性に手を出したことで、その夫が怒り、その兵士を刺し殺したことが直接の原因でした。その場にいた他の島民もたちまち暴徒と化し、次々と兵士の一団に襲いかかり、全員虐殺してしまったのです。
晩鐘が鳴らされたと同時に起こったこの暴動は、瞬く間にシチリア全土に拡大し、フランス系住民と分かるやいなやすぐにその場で殺されていきました。この事件で亡くなったフランス系住民は約4000人といわれています。この事件を、"シチリアの晩鐘"や"シチリアの晩禱"と呼びます。このとき、暴動を起こしました島民が叫んだ合い言葉、「Morte alla Francia Italia anela(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)」の頭文字をとった言葉が、"mafia(シチリアの方言で「乱暴な態度」の意)"であり、"マフィア"という言葉の由来となったといわれています(創作など諸説有り。しかしマフィアの言葉そのものは、シチリアが発祥です)。
この事件を軽く見ていた、フランス・カルロ1世は対応に遅れ、気づいた時には全土に広がる排仏運動を目の当たりにするしかありませんでした。結局、シチリア全土を失うことになり、シチリア王位はマンフレートの娘婿であるアラゴン国王ペドロ3世(位1276-85。シチリア王ピエトロ1世。シチリア王位1282-85)にとって代わられ、アンジュー家のシチリア支配は終わりを告げました。同時に、ビザンツ帝国征服計画もミハイル8世によって阻止されたのです(ミハイル8世は晩鐘事件のあった同1282年末に病死しますが、パラエロゴス朝はローマ帝国史において最長寿王朝となっていきます)。
引用文献『世界史の目 第141話』より
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2019年03月29日
3月29日は何に陽(ひ)が当たったか?
サントーリオ・サントーリオはヴェネツィアの貴族の出で、イタリアでボローニャ大学に次いで歴史あるパドヴァ大学に医学を学びます。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は1592年にこの大学で教授として務めました。大学を出たサントーリオ・サントーリオはその後ヴェネツィアで医療業を開業しました。
サントーリオ・サントーリオはヒッポクラテス(B.C.460?-B.C.370?)やガレノス(129?-200?)といった古代ギリシア/古代ローマの医学者を信奉し、数々の研究や開発を打ち立てます。1603年には脈を数えるための、pulsilogiumといわれる、脈拍を時計(振り子)で計る医療器具を開発しました。ガリレオも開発歴はありますが、医学での実用にむけてはサントーリオ・サントーリオが最初でした。また体重の研究では、食料や水分の摂取および排泄後の体重を記録するため、大がかりな天秤を製作して、サントーリオ・サントーリオはその天秤の中に入って生活するという実験を行いました(図はこちら。Wikipediaより)。そのほかにも体温計や、膀胱結石を取り除く医療器具などを開発しました。
1611年から24年まではパドヴァ大学医学部の理論医学長として、自身の研究した呼吸や体温、体重などの実験や教授を行いました。1636年2月22日、ヴェネツィアで74年の生涯を閉じました。
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2019年03月28日
3月28日は何に陽(ひ)が当たったか?
ゲルマン一派の西ゴート族は、農耕社会を築いて傭兵隊(アウクシリア)をローマ帝国に差し出すことを条件に、10万人のトラキア(バルカン南東部)定住を求めました。ローマ帝国のウァレンス帝はドナウ河畔の発展を切望していたことと、軍人皇帝時代(235-284)におけるローマ軍の疲弊から未だ回復しなかったことを理由に、西ゴート族の申し出を承諾しました。これにより、フリティゲルン族長(?-380?)率いる西ゴート族のドナウ渡河が始まりました(375)。民族大移動の始まりです。
しかし西ゴートのドナウ渡河は思わぬ展開を呼び込みました。西ゴートの移民がドナウ渡河を果たした移民の規模は約束の10万ではなく、その3倍にのぼる30万規模でした。西ゴートの諸部族がフリティゲルン族長を頼り、多くが渡河を始めたのです。瞬く間にトラキアは西ゴート族で埋め尽くされました。このためトラキア総督は移民全員の生活保障ができず、西ゴート族は貧困を極め、帝国領内で略奪行為を始めました。これが4世紀における本格的なゴート戦争(376-382)の契機で、ローマ兵も倒される勢いでありました。378年、西ゴート族は親征したウァレンス帝相手に大戦争を展開することとなるのです。
ゴート戦争における主要な戦場となりましたハドリアノポリス(アドリアノープル。現トルコのエディルネ)で大激戦が展開され(378)、司令官をはじめ大多数のローマ軍人が殺され、戦傷を負ったウァレンス帝は臣下に抱えられながら小屋に避難しましたが、西ゴート族によって小屋に火を放たれ、帝は小屋ごと灰と化したといわれています。ゴート戦争におけるこのアドリアノープルの戦いによって、ローマ帝国はゴート族を蛮族ととらえますが、西ゴート族はローマ属州トラキアに定住し、蛮族とされたゲルマン諸族が次々と帝国領内に侵入していきました。375年の西ゴートのドナウ渡河によっておこされた、ゲルマン諸族における民族大移動は、ローマ帝国を脅威にさらす結果となったのです。
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