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2016年09月29日

屋号#大阪丸その(42) (大阪城*W 徳川大坂城)





(大阪城*W 徳川大坂城)





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我々が現在、見ている大阪城は幾度かの再建を経た城です。
とはいえ、日本全国・数ある城の中でも独特の存在感=歴史的な背景を持つ城でもあります。



歴史的にも・・・・・戦国武将はもちろんのこと、この大坂城自身は、戦国時代を経た3(スリー)トップの歴史と共に歩みます。



〜〜〜〜〜



3トップ=つまり、【鳴かぬなら・・・・・ホトトギス】の有名な句で表現される三大将のことです。

●【鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス】
・・・・・豪放磊落・野生的な人物・織田信長

●【鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス】
・・・・・創意工夫で叩き上げた人物・豊臣秀吉

●【鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス】
・・・・・人質時代を生き抜いた忍耐の人物・徳川家康



〜〜〜〜〜



このホトトギスの句は、戦国時代を生き抜き、天下を取った三武将の個性を表現した有名なものですが・・・この三大天下人の歴史にまつわる天下の名城こそが、【大坂城】なのです。



元々は浄土真宗・石山本願寺跡地(←大阪城築城の地)を最初に手にしたのは、織田信長でした。
彼はこの地に、より大きく新しい築城を考えていたといわれています。



しかし本能寺の変で、信長は暗殺されてしまいます。
信長亡き後、この地を手にしたのは、部下であり、天下人の跡取りとなった豊臣秀吉でした。



彼は、信長の建てた安土城をモデルとしながらも、全ての面で凌駕することを目指し、豪華絢爛に仕上げて行きました。
秀吉が築城した大坂城は空前の(金銀の装飾含む)富の集積で、彼の権力を誇示するものでした。



秀吉亡き後、関ケ原の合戦に敗れた豊臣家は、一大名に降格はしたものの、相変わらず豪華絢爛たる城に居城し、他大名に影響力を持っていました。
晩年の徳川家康は、天下を取ったとはいえ、この大坂城と豊臣家について、深刻な危惧を持っていました。



ついに徳川家康は、冬の陣で、大坂城に切り込みます。(秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘銘の件を理由として)



攻めたてる徳川方は20万の大軍ですが、寄せ集めの10万の豊臣軍が守る惣構の中には一兵も突入できなかったと言われています。
それほど難攻不落の堅城だったようです。



しかし講和による終戦後、大坂城は講和条約により、惣構・三の丸の破却、二の丸の堀も強引に埋め立てられ、本丸だけの裸城にされてしまいました。



秀頼の大坂城の思いも深く、しばらくすると、埋められた堀の掘り起こしなど復旧工事を始めます。



これを再軍備の講和条約違反とみなされ、冬の陣より約半年後、大坂夏の陣が起こり、豊臣家は滅びます。



徳川家康は、実は豊臣家を完全に滅ぼした翌年にこの世を去ります。



死後、彼の外孫である松平忠明に与えられましたが、江戸幕府は後に大坂藩を廃止して天領(幕府直轄領)にすると・・・・・1620年(元和6年)から2代目将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払しょくすべく、大坂城修築工事が開始されます。



大坂夏の陣によって、焼失した豊臣大坂城の焼け跡に多くの大名を集め、足掛け約10年を費やし、すべての面で豊臣期の大坂城を上回った大城郭の完成を目指したのです。

(徳川大坂城は豊臣大坂城焼け跡を埋め立てた後に築城。
因みに豊臣大坂城の位置は、現在の大阪城前にある貯水池辺りの地下にあるとされています。)



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この徳川家による大坂城修築工事は3期にわたる工事により、1629年(寛延6年)に完成しました。





その後、幕府直轄の城である大坂城の城主は、徳川家の歴代将軍になりました。



こうして徳川大坂城は江戸時代の歴史をわたって行きました。





**********





豪華絢爛たる金細工と黒下見板を使った豊臣大阪城とは、異なる白亜の天守でした。



【本丸東面:1865年(慶応1年)撮影。本末の周辺には11基の三重櫓があり、本丸東面には4基の三重櫓がほぼ一直線に並び、壮観な景色であった。写真は4基のうちの北側3基。(左から)馬印櫓(うまじるし・やぐら)、月見櫓(つきみ・やぐら)、糒櫓(ほしいい・やぐら)】

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【徳川大坂城】

別称:錦城、金城

城の形態:輪郭式の平城

天守の形態:五重・五階・地下一階・層塔型・独立式

築城年:1620年 (元和6年)

築城者:2代目将軍・徳川秀頼

主な遺構:本丸 二の丸 大手門 多聞櫓 千貫槍 乾櫓 一番槍など

文化財指定区分:(天守)登録有形文化財、(大手門など13棟)重文




**********



(次号に続く)
















































2016年09月16日

屋号#大阪丸その(41) (大阪城*V 徳川大坂城)





(大阪城*V  徳川大阪城)



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現在、私達が見ている大阪城は、通名・徳川大坂城。



江戸時代に修築された大坂城の遺構からのものです。



(実際の天守閣は、現在、SRC造(鉄骨鉄筋コンクリート造)になっています。
徳川大坂城は江戸時代からの火災や落雷で消失した後、昭和初期に市民の寄付で再構築、その後、第二次世界大戦の空襲の標的にもなり、度重なる災難の後、いくつかの手を経て現在の姿になっているようです。)



前述したように、石垣なども江戸時代当時の遺構のままです。



私自身が最初に疑問を抱いた大坂城天守閣入り口付近にあった金明水・井戸の【葵のご紋】も、もちろん、徳川家・江戸時代の名残のものでした。



因みに現在の大阪城の天守閣に入場すると、3階・4階は撮影禁止となっています。



実は、ここには大坂城にまつわる数々の当時の自筆の文書や品々が保管展示されていて、また大阪城にまつわる史実なども紹介されています。



大阪城の3階・4階にある膨大な資料の中から、いくつか目についたものを書き記そうと思います。
(詳細は大阪城、若しくは大阪城関連図書をご参照下さい。)



まず、文書や品々は、やはり豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康関連のものが多く目につきました。


史実なのですが、秀吉はもちろんのこと、家康関連も多く、展示されていました。
またこの二人の天下人に関わった大名たち。


絵屏風や絵巻物も解説文と共に展示されていました。


歴史物に興味がある方や好きな方には、十分、見ごたえがあるかと思います。


自筆の文書に目をやったり、様々な展示物をゆっくり見学するのも趣きがあると思います。


またVTRでの大阪城にまつわる史実の紹介コーナーもあり。


館内は外国客の方も含めて、結構なにぎわいでした。



私も大勢の中、列に並びつつも、3階や4階を見学して回りました。



意外に徳川家康関連の展示も多いことが判明しました。



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〜〜〜〜〜



*徳川家康を身ごもった母親が後光を放った観音菩薩?から、啓示を受けているような絵もありました。



沢山ある資料の中で、この絵・・・何故?目に留まったのかというと・・・・・・・・。


@歴史に詳しくない私は、この天守閣近くの井戸に【葵のご紋】を見つけて不思議に思ったこと・・・大阪城は豊臣秀吉が築城したままだと思い込んでいたこと。

大阪城の井戸にある【葵のご紋】の徳川家康由来を知ろうと、展示物をくまなく見ているうちに、この絵と前後の史実解説文に行き当たりました。



Aこの絵は、徳川家康を身ごもった母・於大の方が右手・家屋の下に描かれており、左手・外界天空に雲が浮かび、その上に観音菩薩?が、於大に啓示の光を送っています。


(その昔から、例えば仏教の釈迦の場合は、マーヤ妃が6本の牙を持つ白い象がお腹に飛び込んで来た夢・啓示を受け懐妊したと言われ、やはり三大宗教の一つであるキリスト教のイエスもマリアの処女懐妊を大天使ガブリエルから啓示を受けている。
日本の場合、聖徳太子の母・間人皇女は救世観音が体内に入り、身ごもったとの伝説がある。他、古今東西の聖人や偉人について同様の伝承伝聞がある。)


そうです。この絵を見て、古今東西の聖人や偉人を懐妊した時にまつわる話や神兆の伝説を思い出したのです。



Bそして、この絵は丁寧に彩色され、後光が指す観音菩薩?も、於大の方も美しく描かれていたのですが・・・
将来の天下人・家康(竹千代)を懐妊した母のいる家屋の描き方が・・・全く遠近法を度外視して描かれているところに思わず、見入ってしまいました。


ぱっと見た感じでは、遠近法に目が慣れている現代人には違和感がある家屋の書き方でした。
(何故か?家屋だけが、いびつな形に・・・)


まだ西洋絵画の技術が入ってこない時代の建物の描き方なのだと確信。
昔の人は不思議には思わなかったに違いありません。






〜〜〜〜〜





また史実の解説文を読むと、家康の母・於大の方は、家康の父・松平弘忠に離縁されていました。

元々は於大の父が決めた政略結婚でした。
戦国時代ならではの結婚や離婚でした。

於大の方の兄が松平氏の主君である今川氏と絶縁して、織田氏に従った為、今川氏との関係を慮った弘忠に離縁されていたのです。

離縁された母は、永らく家康と音信不通も。

(後日、皮肉なことに父の意向とは相反し、家康は今川氏から独立し、織田氏と同盟を組みます。)

桶狭間の戦い以降、家康は再婚した母と義理の兄弟を迎え入れます。
晩年、再婚相手死去後、母・於大の方は剃髪し、出家します。



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〜竹千代(後の家康)自身も幼少時より、人質として数奇な人生を歩んでいることは有名です。〜




一時は命を狙われた父・弘忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に忠誠を誓う為に竹千代を人質として差し出すことにした。


しかし竹千代が今川氏に送られる際、同盟の戸田康光に奪われ、今川氏と敵対する織田氏に送られ、人質となる。
竹千代は織田氏の元で数年過ごしたのち、織田信広との人質交換で再び、今川氏の元に送られた。

また数年、今度は今川氏の元、忍従の人質生活を強いられる。

その後、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、混乱に乗じて岡崎城に入城し、今川家と決別。
信長と同盟を組んだ。(清州同盟)





・・・・・・・・・・・・・・





その後の活躍は、よくご存じの通りです。









秀吉没後に関ケ原の合戦に勝利し、覇権をものにする。

征夷大将軍になり、江戸幕府を開いた。




天下を取ったように思われた家康だが、秀吉亡き後も豊臣家は最大の脅威であり続けた。

最晩年を迎えていた徳川家康の望みは、天下取りを盤石なものにすることであった。


後継者をめぐるお家騒動に近いものもあったうえ、一大名に転じたものの、未だに豊臣家は特別な存在であり、西側の他大名の多くはこれに従った。
徳川家康には、いつの日にか天下を奪い返す位、驚異ある勢力と映っていたに違いない。


そして慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣氏の処遇を決するべく、動いていく。

豊臣氏は家康の勧めで方広寺を再建。
慶長19年(1614年)4月のことである。
同8月3日、大仏の開眼供養を行う予定であった。

しかし、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。

その語とは「国家安康」で家康の名前の文字を避けなかったのは不敬罪に当たるというものであった。
家康の名を分断し、呪詛する言葉とし、「君臣豊楽」など言葉も豊臣氏を君主として繁栄を願うものと解釈された。

これを受けた豊臣氏は弁明を持たせた家臣を江戸に送るが、家康は会見すら拒否をする。




この件は、豊臣氏攻撃の口実、言いがかり的とも、いや当時の常識では不敬罪にあたるので、秀頼の軽率な呪詛・挑発など、諸説様々である。


いずれにせよ、この件をきっかけとし、大坂城冬の陣が起こることになる。


そして大阪城夏の陣で、ついに豊臣家(秀頼・淀君)は滅んでしまう。


******


この後、徳川二代目秀忠により、大坂城は、徳川家・江戸幕府により、豊臣色を払しょくした修築工事を行う。


これが、私たちが今日見ている大阪城の基盤となる徳川大坂城である。





余談ですが・・・竹千代(家康)は、織田家・今川家の両方の人質となったのですが、最終的には、元々の君主であった今川家よりも対立する織田家を選び、同盟を組んでしまうのは、何故なのだろうか?

*竹千代の家(父)は、有力大名・今川家に忠誠を誓っていた。
*その誠実さを示すために竹千代を人質に差し出し、また妻の兄が織田家に付くと、離縁したほどである。

・・・・・・・





後の家康である竹千代は、父方よりも母方に感性が似ていたのだろうか?
竹千代の伯父(母の兄)は、織田家を選んでいる。

若しくは将来の天下人の嗅覚なのだろうか?

あるいは、自身を人質に差し出し、母を離縁した父やその原因である今川家に背いたのだろうか?





家康は思慮深いと、(あるいはタヌキとも)言われています。
彼の長い人質生活が、与えた後天的性質かも?知れません。
感情を表に出さないことで過酷な環境の中、生き残って来た人なのだろうなぁと思います。





織田信長の豪放磊落な性質は、野生児で思うままに生きて来た証だとしたら、豊臣秀吉の創意工夫も家康の思慮深さもなんとなく腑に落ちるような気がします。



家康の思慮深さ・・・時に非人間的な策略家であったり、良くないイメージもありますが、自身の大坂城入りが間に合わず、秀頼自害の報を聞いて泣いた。という伝説も残っています。



現在に生きる私達は、当然、その場にいたわけでもなく、会ったこともない歴史や歴史上の人物なのですが、色々な史実(もちろん、真贋は別とした伝説も含む)や残された品々を見ていると、なんだか身近に感じられたのも不思議でした。



(次号に続く)




























































2016年09月13日

屋号#大阪丸その(40) (大阪城*U  豊臣大阪城)






(大阪城*U  豊臣大阪城)





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私自身は、大阪城と聞いてまず思い浮かぶのは、昔、学校の歴史で習った豊臣秀吉が安土・桃山時代に築城した大阪城でした。




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しかし、(大阪城Tで前述もしましたが)現在の私たちが目にしている大阪城は、豊臣秀吉が建てたものではなく、実は徳川家二代目秀忠・江戸時代の遺構の上にあるものなのです。

(厳密には、現代の天守閣は鉄骨鉄筋コンクリート造=いわゆるSRC造です。近年に再構築されました・・・【近代における大阪城】は後述予定。)



冬の陣・夏の陣も記憶にはあるのですが・・・知識不足ゆえ、その後に徳川2代目徳川秀忠や江戸幕府により、豊臣色を払しょくする修築工事が行われていることは知りませんでした・・・。




(端的に言うと、江戸時代からの度重なる火災や落雷→ほとんどが消失→昭和初期に市民からの募金150万円で再建→第二次世界大戦での空襲の標的も経る。→幾度もの災難をくぐり抜け、その都度、沢山の手を経て、現在の姿があります。現在の大阪城の土台は、徳川家と江戸時代築城の時のものです。)



1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓、石垣などは全て徳川氏、江戸幕府によるものであることが確認されています。






************





本来の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が築城した大坂城。
(註釈*当時、大阪は大坂と表記されていました。)


実は地中に【豊臣大坂城】の遺構が残っています。
(豊臣大坂城は、丹羽長秀が築城した安土城の石垣をそのまま踏襲。)
現在の大阪城地下7メートル下から、当時の石垣が発見されています。


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今回は、【豊臣大阪城】にスポットを当ててみたいと思います。





〜安土・桃山時代に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)により築城された・・・通名【豊臣大坂城】〜





摂津・上町台地北端に築いた平山城である。または輪郭式平城。

地形的に恵まれてもいた。
北に流れる淀川に旧大和川が合流し、その辺りには瀬戸内海最大の港・渡辺津があった。
また堺や京都、山陰をもつなぐ陸上的にも重要な箇所でもあった。
つまり水陸ともを網羅出来る要塞なのである。

元は浄土真宗の本山である石山本願寺があったとされるが、天正8年(1580年)、石山合戦の講和後、織田信長に明け渡された地でもある。
織田信長は、この地に新たな城を築くことを検討していたと言われている。


しかし本能寺の変で織田信長は暗殺される。


●翌・天正11年(1583年)
信長の後継者として天下統一を目指す秀吉がその拠点として、石山本願寺跡地に築城を開始する。

・輪郭式平城・・・本丸を中心とし、大規模な郭を同心円状に連ねている。その間に内堀・外堀を配置した。
秀吉は水陸の要塞として、辺りも見渡せるよう考慮したといわれている。


●天正13年(1585年)
豪華な望楼型天守の完成・・・5層6階地下2階。
金箔瓦。金の飾り金具。黒塗りの下見板など。
秀吉の当時の威光を表わすにふさわしい豪華絢爛たる城であった。


●天正18年(1590年)
小田原攻めより、小田原城の総構えからヒントを得て、町屋を囲む総構えを築く。


●慶長3年(1598年)秀吉死亡まで、城の拡充は続いていた。





〜〜〜〜〜〜〜〜〜



ここまでが、【豊臣大坂城】の簡略化した歩みなのですが・・・



豊臣秀吉死後、関ケ原の合戦に敗れたのち、豊臣家は摂河泉65万7千400石の一大名に転落します。・・・しかし二代目秀頼は、秀吉亡き後も、豪華絢爛な大坂城を居城としていました。


●1614年(慶長19年)大坂冬の陣・・・徳川家康率いる大軍に攻められ、篭城戦を行う。
そして講和が結ばれ、二の丸、三の丸などの破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城となる。


●秀頼は堀の再建を試みる。
しかし、これが講和条件破棄とみなされる。


●1615年(慶長20年)大坂夏の陣・・・冬の陣から4か月後、大坂城はついに落城し、豊臣家は滅亡。



ここまでが、実質の豊臣大坂城の(簡略化した)歩みとなります。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜



その後は、どうなったのか?というと、前述(大阪城T参照。)した通りです。




●落成後の大坂城は、徳川家康の外孫である松平忠明に大坂城下の復興の任務とともに与えられます。


●1619年(元和5年)に忠明は大和郡山に移封。


●江戸幕府は大坂藩を廃止し、大坂を幕府管轄領(天領)とした。


●その後、二代目将軍・徳川秀忠、江戸幕府による豊臣色を払拭する大坂城の修築工事が行われた。


(因みにこれ以降の大阪城を【徳川大坂城】と呼びます。)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜





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(上の図=豊臣大坂城(右)、徳川大阪城(左)にある極楽橋。下写真は徳川大阪城由来の現在のもの。その下絵図は豊臣大坂城の極楽橋。)


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【豊臣大坂城】と【徳川大阪城】

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【豊臣大坂城】の図面資料

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*****************




はるか悠久の史実に想いを馳せながら、【豊臣大坂城】の姿を想像するのも良いかも知れません。





全体像が分かり易い*写真は、当時の【豊臣大坂城】を再現された城郭模型作家・島 充氏の作品です。
(今回、ご無理を言ってお願いし、島さんより写真をご提供して頂きました。)





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上記は城郭模型作家・島氏の作品なのですが、当時の【豊臣大坂城】を三次元・立体の姿で垣間見ることが出来、大変、参考になりました。

(城郭模型作家・島 充氏の作品ギャラリー*** http://www.geocities.jp/joukakumokei/ )




(城郭模型作家の島 充さん、ご協力、本当にありがとうございました。)







(次号に続く)










































2016年09月05日

屋号#大阪丸その(39) (大阪城*T)







屋号#大阪丸その(39)
(大阪城*プロローグ)




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今回は、大阪城を特集してみたいと思います。



大阪城の様々な側面を上手くとらえることが出来たら、良いのですが・・・。






〜〜〜〜〜〜〜〜〜





【大阪城/大坂城】
(別名:金城、錦城)



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●以下、プロローグ編



大阪にある歴史的にも有名なあの大阪城です。




今から数カ月前の暖かなある日のこと、大阪城に行ってみることにしました。
子供の頃以来のことです。



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環状線・大阪城公園駅で降り、大阪城ホールの方向を歩いて行きます。



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その日は若い女性が、沢山、駅で降り、大阪城ホール方向に向かって歩いていました。
思い思いのお洒落をお友達と楽しみつつ、うちわやタオルなど、グッズを手にして・・・。

その賑わいは大阪城ホール前周辺ではピークに達していました。



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本当に沢山の人達・・・・・ほとんどが、綺麗に装った若い女性達。


後から知ったのですが、TVにも出ているジャニーズの若手グループのコンサートのようでした。

(余談ですが、コンサートが始まる前の早い時間帯に大阪城ホールか→駅→電車で戻っていく人達は、ジャニーズファンでありながらもチケットが取れず、せめてとばかりにグッズだけ買いに来て戻る人達のようです。
偶然ですが、知人の娘さん達もチケットが取れず、グッズだけを買いにこの日、大阪城ホールに向かったそうです。)





その人並みをかぎ分けるように大阪城ホールの横を通過し、大阪城公園に。
(裏にあるコンサート用のトレーラーも越えて、大阪城公園の中心部を目指します。)



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やっとのことでたどり着くと、大阪城のお堀の外側で、皆、楽しそうにバーベキューしていました。
子供たちもバーベキュー横で、ローラースケート、ローラーボードや一輪車、などを楽しんでいて。



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こんなところでバーベキューは有り?なのかなぁとも一瞬思いましたが、実は、この辺りはバーベキュー解放地区でした。
わいわい、楽しそうです。


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*********************************





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お堀沿いに真田幸村の恰好をされた方達の行列に出くわしました。
NHKの大河ドラマで脚光を浴びた大阪城のPRのようです。



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季節は春から夏にかけてのこと・・・この日も暑い一日で、赤い武将の恰好の方も汗をぬぐいながらの出陣でした。






お堀の周りにある水路に架かっている小さな橋を渡り、既に見えている大阪城を見ながら、城壁の石垣を眺めつつ、進んで行きます。



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いわゆる残念石(築城の為に切り出されたが、実際には使われなかった石達)が設置してある小さな公園を歩きました。

山里丸という場所だそうです。



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模様が入った様々な石が、あります。
刻印石=築城にかかわった大名が持って来た石を示す印。他大名に持っていかれない為に刻印したといわれています。



少し奥に、敵陣に追い詰められた秀頼と淀君が自決した辺りに石碑があります。



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木々に囲まれた空間は、はるかかなたの歴史に想いをはせながらの小休憩には良いかも知れません。



幾人かの鷹匠の方達が、タカを手に止まらせていました。

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さらに木々の間に見える大阪城天守閣方面を目指して行きます。




大阪城のチケット売り場で、チケットを購入後、長い列を並んで入場を待ちました。
列の中には外国からの旅行者の方も多かったです。




列で並んでいるときに横にある案内板で、お城の天守閣近くの小高い丘の地下に上水道【大手前配水池】があると書かれていました。

こんな場所に、しかも地下に?と思いましたが、約120年前に作られた明治生まれの近代的上水道は今も健在だそうです。

今、現在も淀川からくみ取った飲み水を電力を使用せず、自然放流やポンプで周辺地域に供給しているらしい。


一日の配水量は大阪市内全体の3%を占めるとのこと。(約3万6千世帯に水を供給する貯水槽。)
場所は、大阪城天守閣に隣接しています。



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城前にあるサッカー場のような広い芝生に水槽が埋まっているようです。






かなり脱線しつつではありますが、ようやくお城の石垣に囲まれた大きな階段を上って行きます。



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石垣・・・・・クレーンなどの重機もない昔の人たちのすぐれた技術に驚きます。

大きな石をうまく組み合わせているのが分かります。



いよいよ大阪城。




その手前左側に井戸がありました。



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私はここであるものを発見しました。



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井戸の上に紋があったのですが、その紋はTVの「水戸黄門」などでおなじみの【葵のご紋】なのです。



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【葵のご紋】・・・・・三つ葉葵紋は、徳川家のルーツである松平家の家紋であったとのこと。(他説では、元は本多家や酒井家の説もあり。)
そもそもは賀茂神社の神紋であった葵紋(二葉葵)から、三つ葉葵紋は派生したとも言われています。
江戸時代には、この三つ葉葵紋を他家での使用禁止とし、徳川家一門だけに許された権威ある紋となりました。




私自身は、あまり歴史に詳しくないので、実は、一瞬、あれっ?!と思ったのですが・・・。
大阪城は、豊臣秀吉が築城したと記憶していたので。



豊臣秀吉築城は正解ではあるのですが、大坂城の歴史はそれだけではなく、その後、城の運命は激動の時代を経て来ているようです。






実は、通称「太閤さんの城」と言われる大阪城ではあるのですが、現在、地表に見える大阪城の遺構=城跡に現存する櫓や石垣も全て、徳川家、江戸幕府によるものと調査で判明しているそうです。



つまり私達が現在見ている大坂城は、豊臣秀吉による大坂城ではなく、徳川家、江戸幕府による大坂城跡なのです。
(厳密にいうと、江戸時代からのたびたびの火災や落雷、ほとんどが消失・・・昭和初期に市民からの募金150万円で再建。しかし第二次世界大戦の空襲でも大坂城は標的となり、火の手をあげ、多大な被害を受けています。幾度もの火災などの災難をくぐり抜けて、現在の大阪城は存在しています。)




●また後の号で、大阪城の簡単な史歴にも触れる予定ですが、簡単に要約すると、豊臣秀吉死後、関ケ原の合戦に敗れたのち、摂河泉65万7千400石の一大名に転落・・・しかし二代目秀頼は、秀吉亡き後も、豪華絢爛な大坂城を居城としていました。


●1614年(慶長19年)大坂冬の陣・・・徳川家康率いる大軍に攻められ、篭城戦を行う。
そして講和が結ばれ、二の丸、三の丸などの破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城となります。


●秀頼は堀の再建を試みます。
しかし、これが講和条件破棄とみなされます。


●1615年(慶長20年)大坂夏の陣・・・冬の陣から4か月後、大坂城はついに落城し、豊臣家は滅亡します。



●落成後の大坂城は、徳川家康の外孫である松平忠明に大坂城下の復興の任務とともに与えられます。





●1619年(元和5年)に忠明は大和郡山に移封。



●江戸幕府は大坂藩を廃止し、大坂を幕府管轄領(天領)としました。



●その後、二代目将軍・徳川秀忠、江戸幕府による豊臣色を払拭する大坂城の修築工事が行われました。





(その後やその他の史歴は、また別号にての予定です。)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜






私が、ふと不思議に思った大阪城の井戸にある【葵のご紋】の意味が・・・大阪城の歴史を知ることで、やっと腑に落ちたのでした。





(次号に続く)


































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