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2017年12月15日

大阪【五階百貨店】




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大阪【五階百貨店】



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(三階建てのビルなのに【五階】?!の看板)



【五階】あるいは【五階百貨店】の名を持つ街をぶらりと散策して来ました。

場所は、日本橋の電気街(でんでんタウン)近く。

外国の方や若者、家族連れの買い物客、オタクやマニアックの人達で賑わう街並み。



その中に【五階百貨店】と呼ばれる界隈がありました。



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(大阪日本橋の電気街・でんでんタウン)


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(日本橋4丁目の交差点)



大阪市浪速区日本橋4丁目堺筋をひとつ西隣の筋に入ります。
通称【五階】と呼ばれる電気商などが集まる地域です。





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(電気街の大通りを1本中に入ると進行方向には、通天閣の姿も見えます。)



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(日本橋4丁目堺筋をひとつ西隣の筋周辺に到着。)



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(有名な(大阪名物・五階)の看板があがる三階建てのビル。)



実は【五階百貨店】という名称を聞いて、五階建てビルの百貨店と誤解する方が多いようです。
この【五階】を(誤解)することから、大阪ならではの洒落(しゃれ)や宣伝ではないのだろうか?という解釈をされる方も・・・やはり、これも(誤解)なのですが・・・。



因みに上記写真のビルは(新五階)と称される五階百貨店を構成している建物のひとつ。
五階百貨店の全てではなく、一部に過ぎないそうです。



確かによく見てみると、大きな黄色・赤文字の【五階】看板のビルから、道を挟んだお向かいの白いビルにも【五階】の文字がありました。




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(辺りの商店街シャッターに貼られた【五階】の歴史と由来を示したもの。)


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(明治時代、この界隈に建てられた五階建ての展望台・眺望閣(ちょうぼうかく)の写真。)




IMG_5782.jpg

(眺望閣(ちょうぼうかく)と五階(ごかい)について。と書かれた文章)


◯眺望閣(ちょうぼうかく)と五階(ごかい)について◯
〜以下、上記・原文のまま〜

・・・
・・・
わては生粋の大阪商人だす せやから文章も大阪弁にさしてもらいまっさ すんまへん。
五階百貨店を語るに「眺望閣(ちょうぼうかく)」をなくしては語ることはでけまへん。
眺望閣が建たんは明治21年4月21日のこと、当時の所在地は大阪府西成郡今宮村大字関谷(せきや)でした
この眺望閣を中心にして色んな店が軒を連ね所狭しと商品が並べてあったそうです。
そんな中に高価な商品がうす汚なく他の商品とゴッチャ混ぜにしてあって、目の利く客が目ざとく見つけて買っていったそうです。
船場、島之内の商屋や旧家から出たゴミの中に混ざってましたんやろ。
そんな事で、いつしか「ミナミの五階へ行ったらエエ掘り出し物あるでぇ」と人々の口にのり忽ち巷に広がり、近郊近在はもとより遠い所からも買いにきたといいます。
眺望閣と共に露店も賑わいを呈しましたんや。
五階(ごかい)の名はお客はんが付けてくれたんだす。わてはそう思ってます。
そうして一躍「大阪名物」と化した眺望閣の露店でしたが、眺望閣の老朽化に伴い終号を迎えました。
・・・涙が出ましたわ
眺望閣なきあと商人は周辺の空き地を求め商いを続けました。
大正時代に入り、東関谷町1丁目から2丁目にかけての空き地で腰を据え商いをしていましたけど・・・時恰も大阪市に於いて市道下寺・芦原橋線の設置計画が持ち上がり、大騒ぎに発展しましたけど、この辺の大地主、泉岡氏が商人に愛の手をさしのべてくれはりました。
まさに商人にとり「福の神」でした。
五棟中二階の建物(五会百貨店)と露天(通称ひろっぱ 五階百貨店)を設け多くの商人を入れました。昭和二年のことです。
それから昭和二十年迄の十八年間、これまさに第二期黄金時代の幕開けだす。お客さんも沢山来てくれはりました。
眺望閣の事、五階の事、お客はんは忘れてはしまへんかった、嬉しおました。
時は流れ、日本は太平洋戦争に突入。 昭和二十年三月十三日 B29爆撃機による大空襲により一瞬にして焦土となってしまいました。 それはものすごくエゲツナイものでした。
終戦を迎え商人はなけなしの品を持って五階の地に帰ってきはりました。
昭和二十一年秋、日本橋筋四丁目から東関谷町一丁目いかけての細長い土地に復興しました。五階商人の意気込みでんな。建物こそ戦前には及びまへんが、活気は戦前以上のものがおました。当然周辺の店にも大きな影響を与えたことは云ふまでもおまへん。
昭和三十年代に入り、土地の権利は泉岡氏から大南氏へ移り、一時は「五階」の灯も消へるではないかと危ぶまれましたが大南氏は東関谷町側に「五階」を残すことにしましたんやけど全部ははいれまへん。入れなかった人は少し南にあった泉岡氏と高橋氏の土地に入りました。
大南氏の方を「五階百貨店」、泉岡氏、高橋氏の方を「日本橋五階百貨店」として現在に至りました。
因みに戦前の五階昼店の跡に新五階という商店街ができましたんや、後に「日本橋商店会」と改称しましたんや。
明治から平成と五階商人が辿った道は決して平坦なものではおまへん、厳しいものでした。
でもお客さんが五階を愛してくれている間は、わしらはこの灯を消してはあきまへんのんや・・・消しては。
商売人とお客さんの心はいつまでも繋がっている、これからもそんな街を大切に守っていきまっせえ。
・・・
・・・

「五階」に対する強い愛情と思い入れと歴史が、今の大阪でもほとんど耳にすることが少なくなった大阪弁で綴られています。

文中にもある(船場)・・・谷崎潤一郎氏の有名な「細雪」は船場言葉が出てきます。当時の船場は裕福な商家や旧家のいわゆる(*ええし)の文化がありました。
(*ええし)、良家、良い家柄の意味。

大阪弁には種類があり、泉州弁や河内弁などありますが、船場言葉もそのひとつです。



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(やはりお店の窓辺に「眺望閣」の写真)



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(上記文中にもあった「日本橋五階百貨店」)



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(この辺り一帯の地図のようです。)



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(上記文中にもあった「日本橋商店会」)



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(「日本橋商店会」の中の着物屋さん)



実はこの「五階」界隈に来たのは、人形造りに使用する着物を探しに訪れた人形作家から聞いたことがきっかけでした。面白い場所があるとのことで。

沢山の着物・・・ピンキリ(上物から安価なものまで)ですが、いくつかのお店に沢山の着物が眠っています。玉石混合ながら、掘り出し物探しにはピッタリの場所でした。

お店の方もとても気さくで面白い大阪商人の方も。(吉本のような話方で。)

お聞きすると、本来の目的以外にも人形造りや着物から服へのリフォーム、またバッグなどの小物づくりにも素材として探しに来られる方が多いとのことでした。



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「五階」という独特の文化と歴史のある街並みに入ってみると、そこはタイムスリップしたようなレトロな独特の雰囲気。

大阪の街は、新しくも、古くも、本当に面白いと思います。
街全体が(お好み焼き)のような感じとでも言うような・・・。





(次号に続く)







***

http://r.goope.jp/ne-casa-ruoka

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