2016年09月29日
屋号#大阪丸その(42) (大阪城*W 徳川大坂城)
(大阪城*W 徳川大坂城)
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我々が現在、見ている大阪城は幾度かの再建を経た城です。
とはいえ、日本全国・数ある城の中でも独特の存在感=歴史的な背景を持つ城でもあります。
歴史的にも・・・・・戦国武将はもちろんのこと、この大坂城自身は、戦国時代を経た3(スリー)トップの歴史と共に歩みます。
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3トップ=つまり、【鳴かぬなら・・・・・ホトトギス】の有名な句で表現される三大将のことです。
●【鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス】
・・・・・豪放磊落・野生的な人物・織田信長
●【鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス】
・・・・・創意工夫で叩き上げた人物・豊臣秀吉
●【鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス】
・・・・・人質時代を生き抜いた忍耐の人物・徳川家康
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このホトトギスの句は、戦国時代を生き抜き、天下を取った三武将の個性を表現した有名なものですが・・・この三大天下人の歴史にまつわる天下の名城こそが、【大坂城】なのです。
元々は浄土真宗・石山本願寺跡地(←大阪城築城の地)を最初に手にしたのは、織田信長でした。
彼はこの地に、より大きく新しい築城を考えていたといわれています。
しかし本能寺の変で、信長は暗殺されてしまいます。
信長亡き後、この地を手にしたのは、部下であり、天下人の跡取りとなった豊臣秀吉でした。
彼は、信長の建てた安土城をモデルとしながらも、全ての面で凌駕することを目指し、豪華絢爛に仕上げて行きました。
秀吉が築城した大坂城は空前の(金銀の装飾含む)富の集積で、彼の権力を誇示するものでした。
秀吉亡き後、関ケ原の合戦に敗れた豊臣家は、一大名に降格はしたものの、相変わらず豪華絢爛たる城に居城し、他大名に影響力を持っていました。
晩年の徳川家康は、天下を取ったとはいえ、この大坂城と豊臣家について、深刻な危惧を持っていました。
ついに徳川家康は、冬の陣で、大坂城に切り込みます。(秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘銘の件を理由として)
攻めたてる徳川方は20万の大軍ですが、寄せ集めの10万の豊臣軍が守る惣構の中には一兵も突入できなかったと言われています。
それほど難攻不落の堅城だったようです。
しかし講和による終戦後、大坂城は講和条約により、惣構・三の丸の破却、二の丸の堀も強引に埋め立てられ、本丸だけの裸城にされてしまいました。
秀頼の大坂城の思いも深く、しばらくすると、埋められた堀の掘り起こしなど復旧工事を始めます。
これを再軍備の講和条約違反とみなされ、冬の陣より約半年後、大坂夏の陣が起こり、豊臣家は滅びます。
徳川家康は、実は豊臣家を完全に滅ぼした翌年にこの世を去ります。
死後、彼の外孫である松平忠明に与えられましたが、江戸幕府は後に大坂藩を廃止して天領(幕府直轄領)にすると・・・・・1620年(元和6年)から2代目将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払しょくすべく、大坂城修築工事が開始されます。
大坂夏の陣によって、焼失した豊臣大坂城の焼け跡に多くの大名を集め、足掛け約10年を費やし、すべての面で豊臣期の大坂城を上回った大城郭の完成を目指したのです。
(徳川大坂城は豊臣大坂城焼け跡を埋め立てた後に築城。
因みに豊臣大坂城の位置は、現在の大阪城前にある貯水池辺りの地下にあるとされています。)
この徳川家による大坂城修築工事は3期にわたる工事により、1629年(寛延6年)に完成しました。
その後、幕府直轄の城である大坂城の城主は、徳川家の歴代将軍になりました。
こうして徳川大坂城は江戸時代の歴史をわたって行きました。
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豪華絢爛たる金細工と黒下見板を使った豊臣大阪城とは、異なる白亜の天守でした。
【本丸東面:1865年(慶応1年)撮影。本末の周辺には11基の三重櫓があり、本丸東面には4基の三重櫓がほぼ一直線に並び、壮観な景色であった。写真は4基のうちの北側3基。(左から)馬印櫓(うまじるし・やぐら)、月見櫓(つきみ・やぐら)、糒櫓(ほしいい・やぐら)】
【徳川大坂城】
別称:錦城、金城
城の形態:輪郭式の平城
天守の形態:五重・五階・地下一階・層塔型・独立式
築城年:1620年 (元和6年)
築城者:2代目将軍・徳川秀頼
主な遺構:本丸 二の丸 大手門 多聞櫓 千貫槍 乾櫓 一番槍など
文化財指定区分:(天守)登録有形文化財、(大手門など13棟)重文
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(次号に続く)
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