息子であるローレンス・ブラッグはエックス線を結晶格子にあてて、格子を構成する原子をX線が回折する様子を思いつきました。つまり個々の粒子にX線が当たった時に光子が入射方向と角度をもって回折されていく様子をイメージできたのです。個々の粒子が結晶構造を持っていたとしたら原子配置に応じて反射波は特定のパターンを描くはずであると分析したのです。結晶パターンに従って回折したX線ビームの「透過後のパターン」を計測して結晶内の原子の配置を算出(推定)するアイデアを父であるヘンリー・ブラッグに話しました。父ヘンリーはリーズ大学で息子ローレンスのアイディアを使いX線分光計を開発したのです。開発した装置が、色々な結晶の分析が可能としました。1915年(息子のローレンスが25歳の時に)父ヘンリー・ブラッグと共にノーベル物理学賞を受賞します。この25歳での受賞は自然科学の分野では現在でも最年少の受賞となっています。非常に悲しい出来事なのですが同年にはローレンスの兄弟がガリポリの戦いで戦死したという悲しい事件もありました。その直後の時期に、親子はノーベル物理学賞受賞の知らせを聞いているのです。
そもそも、ローレンスが5歳の時に3輪車で転び腕を骨折しました。父ヘンリーがその時に、最新情報・ヴィルヘルム・レントゲンによるX線の発見を思い出し、検査に応用したのが始まりです。父ヘンリーの検査事例はオーストラリアでのX線の初の医学的応用となりました。そこから話を親子は計測を発展させて、もっとサイズの小さい結晶構造を考察する道具としてX線を解析の道具としてつかったのです。その家族の歴史がノーベル賞につながったのです。
また一方でローレンスの研究は第一次世界大戦と第二次世界大戦のときに中断されました。戦時下では有能な才能が軍事的に貢献されることが好ましかったのです。ローレンス自身の当時の意向は調べ切れていませんが、それぞれの大戦でローレンスは敵兵器の場所を特定する音響測位法の研究に従事しました。海洋探査の現場で使われる方法で大気中で兵器の位置を測定をしようとしていたようです。第一次大戦の際にはミリタリー・関連の勲章と大英帝国勲章を受けています。また、1916年、1917年、1919年に3回、柏葉敢闘章 (Mentioned in Despatches) を授与されています。
1948年頃にはX線によるタンパク質構造の研究に関心を持ち、物理学の知識を生物学の研究に応用する研究グループを作ることに貢献している。1953年、所長を務めていたキャベンディッシュ研究所でフランシス・クリックとジェームズ・ワトソンがデオキシリボ核酸 (DNA) の二重らせん構造を発見した際にも重要な役割を演じている。
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