2009年08月12日
「お久しぶりの“のうじょう真人物語”について」
パタゴニアに暮らし始めた時、日本の友人から「どんな生活なの?」と興味津々の手紙を何度ももらいました。いまから10年以上前の事です。
あの当時メールは無く、連絡手段は手紙でした。手紙でこちらの様子を書いて送くると3週間かかって届きます。友達が急いで返事を書いても受け取るのはやはり3週間後。その返事を書いて送ってまた3週間・・・と、今から考えるととてものんびりしたやり取りでした。
そんな手紙のやり取りの中で、自分のパタゴニアでの生活を、どうしたら分かりやすく伝える事が出来るかなあ?と思い、考えついたのが物語を書くと言う方法でした。
本当にあったこと、その中で自分が感じたこと、感動したこと、悲しかったことなどを照れずに素直に伝えるには、物語として少し距離を置いて書けばいいかも?と思ったのです。
そして正人くんという架空の男の子を主人公にして、彼を通して自分の暮らしや思いをノートに書いていきました。一冊のノートが一杯になると友達に送って読んでもらっていました。つまり最初は一人の友人の為にだけ書いていたのです。
一年の暮らしを書いて終わった時、ノートは5冊ほどになっていました。彼女は「凄く面白かった。でもこのノートは大切な物だから返します。」とわざわざ返送してきてくれました。
これで少しは私の暮らしや気持ちが伝わったかな?と思っていたら、見知らぬ人達から「とても面白い、そして考えさせられる物語でした。」と感想の手紙を頂いたのです。友人が500枚近いページ数をコピーしてみんなに読んでもらっていたのです。
思わぬ事でしたが、とても嬉しかったです。
数年後サイトを立ち上げた時、スペースが余っていたのでこの物語を少し設定は変えましたが、ほとんどそのまま連載する事にしました。そして昨年の9月まで書き続けていたのです。
ところが・・・書いている内に、たった10年の間に変わってしまったことが多すぎて、その変化が嬉しいことよりも悲しいことの方が多くて、書き続けられなくなってしまったのです。
この物語を書いた頃の正人君の生き生きした暮らしが、たった10年で“懐かしい”物に変わってしまった事に改めて気付き、とても辛くなったのです。
けれども最近、それは間違いではないかと思いました。昔は懐かしいものです。辛いことも乗り越えたからこそ、良い思い出として残っているのです。変わってしまった事を嘆き悲しむより、今ある素晴らしいことに目を向けて行くべきだと。
そうすると、今がとても魅力のある楽しい暮らしに変わりました。問題や嫌な事、希望の持てないような事も沢山あります。でもそれをどう解決していくか?どう気持ちを切り替えて楽しい事に変えるか?と思える自分が嬉しいのです。
そう言うわけで、中途半端だった物語も「終わり」まで、きちんと書くことにしました。内容は10年前の暮らしがベースですから、今とは事情が違います。もしこちらに実際に来られた時「なーんだ!物語と随分違うじゃない。」とガッカリなさいません様に。
そして何時か、10年後の大人になった正人君をのうじょう真人に招待して、新しい物語を始めたいと思っています。

2009年06月29日
「パタゴニアの変人暮らし」
15年前にここに引っ越してきた時は、マジン地区の人口は約1500人でした。我が家の周りも住民不在の農場が結構あり、のどかで静かな環境でした。電話のある家庭は無く、テレビも冷蔵庫も誰も持っていませんでした。子供達は林を抜け、小川を超えて7kmの道を歩いて学校に通っていました。薪が主燃料で、ガスコンロのある家も殆どありませんでした。私達は冷蔵庫を持っていて、時々近所の人が「野ウサギを沢山捕ったから、少し冷凍庫で保存して置いて。」などと持ってきました。物々交換も盛んで、交換する物が無い時は、柵直しや薪割り等の労働で交換していました。
私はそんな暮らしがとても気に入っていました。
15年の歳月は、恐ろしいほど環境を変えました。人口は約5倍に増え、今も増え続けています。当然多くの林が姿を消し、住宅や道に変わりました。殆どの家に電話が付き、コンピュターのある家も増えました。テレビは当たり前で、衛星放送も付いています。歩いて学校に通う子はおらず、親が車で送り迎えしています。冷蔵庫ばかりか大型冷凍庫を持ち、電子レンジ、オーブンも珍しくはありません。人が増えた分、雑音、騒音と呼びたくなるものも増えました。当然人との付き合いも変わりました。
私には今のマジンの変化を嬉しいとは思えませし、時々息が詰まりそうにもなります。私は私の好きだった静かな暮らしがなくなりつつあると悲しく思っていました。でも最近、それは間違いだったと気付きました。
嫌な事に目を向けてばかりいないで、良い事を探して感謝していくべきだったのです。周りがどんなに変わろうとも、その変化に私が付いていく必要は全く無かったのです。便利と豊かさとは違うのです。ですから、自分達で出来る事は機械に頼らずやろうと決めました。今はチェーンソーは使わず、ノコギリと斧で木を伐り薪の準備しています。洗濯機もテレビも電子オーブンも欲しいとは思いません。電話は有った方が便利ですが、我が家には電波が届かないので仕方ないと思っています。サイトの更新もメールの連絡も、週一回車で30分かけて町に行きWiFiでしています。(これに関しては連絡下さった方に直ぐにお返事が出来ないことがあるので、申し訳なく思っています。)水は農業用水路から電気ポンプで汲み上げ、タンクに貯めています。けれども冬になると水が凍るので、水タンクが割れないように空にしてしまい、蛇口から水が出ない日も多くなります。バケツで汲んできた水で掃除をし、薪ストーブの上に置いた大鍋のお湯で洗い物をしています。
電気やガソリンを使いお金をかければ、町の人と同じ様な便利な生活が出来ます。お金が無いから出来ない事もありますが、例え有っても私には興味がありません。それはここで、自分達の手で工夫していく楽しみを見つける事が出来たからです。こんな私達を「変人」と言う人も多いですが、実は「変人」であることは面白いと思っているのです。
自分で出来ないことは有り難く文明の利器の恩恵を受けているので「甘えた変人」ですが、出来るだけ自分達の手で暮らしを造りだして、楽しみを作り出して、周りに流されない暮らしを続けていこうと思っています。
こんな変人暮らしを覗てみたいと思って下さる方もいますが、ほとんどの方は辿り着けないので“必ず事前に連絡”下さい。我が家は町から土道を17km。私にとっては人口過密な騒がしい村に思えますが、我が家に来る人は「なんて辺鄙な田舎。」「自然に囲まれた雄大な暮らし」と驚き、そうそう容易く辿り着ける場所ではありません。勿論自動販売機やコンビニも無ければ、郵便配達も来ない様な場所です。「日本人は住んでいる」と知っていても、何処にいるのか分からない人が殆どです。エルボルソンまで行けば、人に聞きながら何とか辿り着けるだろうと思っていたら大間違いです。それだけはしないよう、くれぐれも宜しくお願いします。

2009年06月16日
「天通が伝えてくれた事」
4月17日、我が家の仲間になった犬の「天通」。
すけすけに透けていたあばらにも肉が付き、訪れる人が「どうしたんだ、この犬は!」と驚く事がなくなりました。歩く時にもふらつかず、元気に走り回るようにもなりました。
猫扉の下の猫用昼寝棚が気に入ってしまって猫達が自由に家に出入りできなくなったので、別の場所にその棚を移動して天通専用寝床とし、彼女も一国の主となりました。
相変わらず車が大好きで、車が動くと何時までも何処までもついてきて来てしまうので、いつも一緒に出掛けています。
10ヶ月齢の伏姫は、遊んで貰えるお姉ちゃんが出来たので大喜びです。以前は伏姫に簡単に転がされてしまっていたけど、今では一緒に走り回り、時々はしつこい伏姫を叱ったりしています。
食事の合図の口笛も覚え、呼ぶと一番に飛んで来ます。早食いはまだ治りませんが、飲み込む様に食べていたのが、少しは噛んで食べられる様になりました。
がに股で上下運動無しで蜘蛛の様に走り、その走る姿が可笑しくて私達を笑わせてくれます。
農場にも慣れ、以前は私達の後にぴったり付いて歩いていたのが、今はパクや伏姫とじゃれ合い寄り道を楽しみながら散歩をする様になりました。
本当にあっと言う間の一ヶ月半でした。最初は元気になれるだろうか?ここに馴染んでくれるだろうか?他の仲間達と上手くやっていけるだろうか?と心配もしましたが、今では天通のいる風景は当たり前の、のうじょう真人の風景となりました。
言葉を話さなくても、彼らはいつも多くの事を私に伝えてくれます。突然やって来た天通を家族として受け入れてくれたパク、伏姫、羅空。時には喧嘩もするけれど、仲良く並んで昼寝をしている姿は私を暖かい気持ちで包んでくれます。
天通を見ていると、信頼の本当の意味、恨まない心、そして何よりも素直に前を向いて生きるという事の大切さに気付かされます。
私も天通の様に、過去を引きずらず、誰も恨まず、前を向いて明るく進んでいかなくてはと思うのです。



2009年06月01日
「私の般若心経」
アルゼンチンに暮らして、特に日本語教室を始めてから、自分の信仰に付いて真剣に考える様になりました。それは日本の習慣、文化を語る時、私には切り離して考える事が出来ないからです。
実家には神棚とお仏壇がありました。でもそれに手を合わせる家族は居ませんでした。お墓参りの記憶も殆どありません。ずっと無宗教、無信仰で、いつも目の前の事に追われ、自分の事だけを考えて暮らしていた気がします。
今でも「私の信仰は仏教です。」と答えるには抵抗があります。それでも毎朝、建具屋の義父が作ってくれた仏壇に手を合わせ、般若心経をお唱えします。亡き義母は信仰の厚い人でした。その影響で般若心経を唱える様になりました。でもそれもほんの4年程前からです。最初はただ文字を追うだけで、次に意味を考え、今はやっと、私なりに解釈して思いを込めながら唱える事が出来るようになりました。
自然の理に適った思いは、強く願うと叶うと言われますし、私もそう思います。だから楽しいこと、嬉しいことを考えなくてはいけないのですが、叶わなかった時の失望感を思うと、ついつい最悪の予想をしてその失望感から逃げようとしてしまうのです。
「ああ、だめだ。もっと良いことを考えなきゃあ・・・」と思い直しても、気が付くとまた最悪の事を考えているのです。そうでなければ、「あの人が居なくなれば問題解決できるのに。」という様に、人の不幸を願ってしまっているのです。
これでは事態が好転する事はありえません。それならいっそ頭を空っぽにしていた方が良いと思っても、こちらの方が更に難しいのです。そんな私が考え実践しているのが、般若心経をお唱えする事です。声を出してお唱えしている時は余計な事は考えません。そうかと言って頭を空っぽにしている訳ではないらしく、ふっと良いアイデアが浮かぶ事があったりします。
文を書いたり、本を読んだり、日本語教室の予習をしたり、予定を立てたりする時などには無理ですが、日常の暮らしの中で、私は良く声に出して般若心経をお唱えしています。特に嫌な事があった時は思い出さない様、引きずらない様に、落ち着くまで何かの作業をしながらお唱えします。
「こだわってはいけない。幸せはいつも自分の心が作るのだから。自然の中で自然に許され生かされているというだけで幸せなのだから、いつも全てに感謝しよう。」
私が般若心経をお唱えしながら思い続けている事です。
今はまだ、声に出して般若心経をお唱えしなければ、自分の弱くて恨みがましい心にうち勝つ事が出来ませんが、いつか般若心経をお唱えしなくても、自然に全てが楽しく感じる様になりたいと思うのです。





2009年05月11日
「種を集める楽しみ」
青果を切った時、私は「種」を捨てたりしません。それがパタゴニアでは寒くて育たないと言われる檸檬でも同じです。
「種」はゴミではないのです。生きていて条件さえ揃えば芽をだすのです。ですから集めた種はそのままか、粘土に包んで粘土団子にして農場に播きます。発芽しないかもしれませんし、発芽しても育たず枯れてしまうかもしれません。でも、絶対無理、絶対育たないという事は誰にも言えないと思うのです。勿論時期は選びます。例えば冬に南瓜の種を播いたりはしません。
農場で付いた種は、種が落ちた時に播きます。それは花でも木でも果樹でも同じです。今は毎朝林檎を木からもいで囓りながら散歩し、芯を“ぽいっ”と禿地に放り投げます。農場には犬が、野鳥が、野ネズミが播いた(食べて出した)種から育った林檎やサクランボが色んな所で育っています。そんな苗木を見つけるのは、本当に楽しいことです。
私は農業とは無縁に育ちました。子供の頃には近所の池にザリガニがいて、それを捕まえたり、草笛を吹いたりと、それなりに自然の中で遊んではいましたが、食べ物は買うという暮らしでした。ですから、小学5年の時、理科の教材に付いていた玉蜀黍の粒(種)をどうして良いか分からず、そのまま窓から外に捨てました。暫くして窓の下に見慣れない草が出ているので抜いてみると、玉蜀黍から発芽した物だと分かったのです。その時は玉蜀黍の粒からこうして芽が出ることにとても驚き、感動しました。慌てて埋め直しましたが、そのまま枯れてしまい、実が付くところまで見ることが出来ませんでした。それでも、私の食べている実は、埋めると芽を出すという当たり前の不思議に気づき、感動出来ました。
農業専門学校で自分の畑を持ち、始めて馬鈴薯やレタスを収穫した時の感動は忘れることが出来ません。家族や友人に送り「馬鈴薯に土がついていた!」と苦情が来ましたが、私だって自分で育てる事をしなければ「なんで馬鈴薯に土がつくの!」と文句を言ったことでしょう。
今、青果から種を取り、それを洗って乾かしていますが、もし私が都会の生活者だったら、絶対こんな面倒な事はしていないと思います。
種を播いて砂漠を緑化する事に賛成する人は多くいますが、では「種を集めて下さい」とお願いしたら、いったい何%の人が実行に移してくれるでしょうか?
種を播いて育てる楽しみや感動を知らなければ、無理な事なのかも知れません。
粘土団子や種をばら播く時、理屈抜きに楽しいです。播いた種の成長を見る幸せも、育った木の実を食べる感動も知っています。その楽しみを知っているから、そして種を播く場所があるから、私は種集めが楽しいのです。
パタゴニアの観光地巡りも素晴らしいです。でも、パタゴニアの大地に種を播き、その成長に思いをはせる事も、きっと今まで知らなかった感動を知る事が出来ると思うのです。
興味の有る方ご連絡下さい。是非一緒に種まきしましょう。

2009年05月04日
「天通のその後」
天通をのせての道中、道沿いの家から犬が走り出てきて「ワンワン」車に吠えました。するとそれまで大人しく座っていた天通が、突然「ワンワン」と吠えだしたのです。
大人しい静かな犬だと思いこんでいたので驚いていると、夫が「可哀相に。町で他の犬にいじめられたんだろう。」と言うのです。でも、こんな風に我が家の犬達とも吠えあったら困るなあ・・・と不安が増しました。
けれども天通には事情がわかるのか、我が家に着いたら決して吠えませんでした。そして怖がることもなく、車から降りました。
ぎょっとしたのは我が家の犬達でしょう。臆病な伏姫は悲鳴の様に吠えまくって近づこうとしませんでした。パクも一瞬身構えましたが、相手が雌で、しかも戦意が全くないので、用心しながらも挨拶に行きました。らくうは案の定、完全無視でした。
伏姫が落ち着くには一日かかりましたが、元々が平和主義の犬。喧嘩したり意地悪したりはなく、不安は杞憂に終わりました。
こうして天通はのうじょう真人の大切な仲間となりました。
それでもやはり天通は不安なのか、体力も無いのに、私達が農場を歩くとどこまでも必ず付いてきます。そして私達が家に入ると、入り口を見つめて座って見ています。
今はまだ、少量の柔らかい食事を何回にも分けてやっていますが、その食べ方に飢餓の辛さを感じて涙が出ます。
こんなに辛い思いをしたのに、それでも人間が好きで、車が好きで、荷台を開けて荷物を下ろそうとするだけで乗ろうとするのです。
この先、天通が体力を回復したら、彼女がどうしたいのかは分かりません。何時までもここを自分の家だと思って、安心して私達と暮らしてくれたら嬉しいです。
私はただ天通に「あの時、私を信じてくれてありがとう。」という気持ちだけです。私を信じて付いてきてくれた尊い命に、ただただ「ありがとう」と感謝するだけです。自分の命を預け、私を信じて付いてきてくれたその信頼を決して裏切ってはいけないと思っています。

2009年04月18日
「ありがとう」
時々ふっと思い出す40年前のシーンがあります。
近所にできたスーパーの開店の日、子供には風船プレゼントがあると知り、母と一緒に出掛けました。万屋(よろずや)に毛の生えた程度のスーパーでしたが、その当時の田舎町では画期的な事で、既に店内は満員でした。子供達も風船目当てに集まっており、私もその列に並びました。そして私の番が来て風船を受け取ったその瞬間、店長と思われるおじさんが「この町の子供はありがとうと誰も言いやがらん!」と吐き捨てるように言ったのです。
まるで自分一人が叱られた様で、恐ろしくて、それでも風船はしっかり握ったまま急いでその場を離れました。その時は「なんて恐ろしいおじさん・・・。もう二度とここには来ないぞ。」と思ったのです。
私に子供はいませんが、友人や近所の子供達と接する機会はあります。私は子供に自分から声を掛けたり、「いないいないばー」などと相手になったりするタイプでは無く、なるべく子供とは関わりたくないと逃げてしまうタイプです。それでも知り合いの子供の誕生日やクリスマスにはプレゼントをあげる気遣いは持っています。そして多くの場面で40年前のスーパーの思い出が蘇るのです。
私は子供に物を買い与えるのが嫌いなので、プレゼントは自作の焼き物や手作りのお菓子にしています。欲しい物は殆ど手に入れる事が出来る今の子供達には、ありがた迷惑な貧乏くさいプレゼントなのでしょう。でも、そう分かっていても、ニコリともしない子供を見るとガッカリします。
でも、40年前のおじさんの様に「ありがとうも言えないの?」と言う気持ちは有りません。また親が「ありがとう」を子供に強制する事も賛成しません。そうして強制された気持ちの籠もらない「ありがとう」は寂しいだけです。
私も自然に「ありがとう」と言える様になったのはほんの最近です。今では一日に何度も「ありがとう」と声に出しています。それは農場で実った果実を口にした時、猫達がごろごろ喉を鳴らして甘えて来た時、いつでもどんな時でも私の後を付いてくる犬達と歩く時、遠くの友人がわざわざ遊びに来てくれた時、雨が降った時、晴れた時、風が吹いた時、鳥がさえずった時、花が咲いた時、無事遠出から帰った時・・・。
嬉しい時、感動した時、楽しい時に、友人に、犬に、猫に、鳥に、風に、雨に、太陽に、植物に、車に「ありがとう」という言葉を出さずにはいられないのです。
「ありがとう」は強制され、単なる単語として口にする言葉では無いはずです。「ありがとう」と言えないのは、普段の暮らしの中で、心の籠もった本物の「ありがとう」に出会っていないからなのでしょう。
私は長い時間を掛けて優しい「ありがとう」に出会って来ました。そんな多くの「ありがとう」に包まれて来たからこそ、今やっと「ありがとう」と自然に言える様になったのです。
「ありがとう」を子供に強制するよりも、心を込めた優しい楽しい「ありがとう」で子供を包んであげられたらと思います。





2009年04月06日
「種まき」
自然の動植物はとても敏感です。私達人間がとうの昔に失ってしまった「先を感じる勘」を持っています。
地震も津波もその他の自然災害もやって来ることを感じる力を持っています。直接聞いた訳ではありませんから、私が勝手にそう思い込んでいるだけかもしれませんが。
今年のパタゴニアは林檎やスモモなどの果樹も、クルミや栗などの木の実もたわわに実を付けています。そして自生種の木々も同じように種がびっしり付いています。こんなに沢山の種を付けた木々を今まで見たことはありませんでした。これは自生種だけではなくて、楓やダテカンバや松も同じです。
私は「今年は果樹の収穫が多くて良かったな。」「風に飛んで行く木の種が綺麗だな。」と単純に喜べません。それが豊かな大地の恵とはどうしても思えないからです。
昨年から干魃が特に酷くなっています。もともと夏は雨が少なかったのですが、空気の乾き方が全く違ってきています。アンデスの万年雪も恐ろしい勢いで溶け始めています。我が家から見える「デドゴルド岳」「リオアスール岳」の万年雪が消えました。15年暮らしていて初めてのことです。先日登った「ペリートモレノ岳」も僅かに残った万年雪の下から、岩がごつごつと顔を出し、今にも大岩が転げ落ちて来そうで恐ろしくて近づけませんでした。
こんな風景を間近に見ると、如何に勘が鈍くとろい私でも「何かおかしい。」と感じます。
自生種のシプレスと言う木は、種をびっしり付けたら3年以内に枯れてしまうと言われています。我が家の多くのシプレスの大木に種が付いています。村の周遊道路を走ると、種が付いたシプレスの木で山が緑よりも茶色に見えます。今は種で茶色に見えるのですが、数年後にはその茶色は立ち枯れした木に変わってしまっているかもしれないのです。
自分の命と引き替えに、それでも新しい命を少しでも多く残そうとしているのでしょう。
干魃も災害も大昔から繰り返し起こって来た事だから、今の状況もそんなに心配する事じゃあない。その内良くなると多くの人は言います。
何もしないのなら不安になるよりも楽観した方が幸せかもしれません。でも私はダメです。
自己満足でも良いのです。種を集め、それを粘土に混ぜ粘土団子を作り、乾いた大地に撒こうと思います。それは「地球を緑に」なんていう使命感からではありません。ただただ種を集めることが楽しいからです。粘土団子を作る事が楽しいからです。そしてその粘土団子を播く事が楽しいからです。そして数ヶ月後、数年後、数百年後の緑に覆われた大地を想像するのが楽しいからです。
きっと自然の木々は、自分が枯れてしまうかもしれない悲しい気持ちではなく、新しい命に先を託す楽しい気持ちで種を付けているのだと思います。
風や鳥や昆虫や動物達に混じって、私も種を新しい大地に運ぶ仲間に加わりたいと思います。

2009年03月30日
「砂漠緑化」
パタゴニアはアンデス山脈沿いの一部の土地を覗いて、殆ど砂漠化しています。これは砂砂漠ではなく、礫砂漠です。以前は草が生い茂り、川も干上がってはいませんでした。これは地元の老人達が「子供の頃は、ここには湖があった。」「草が生い茂って背よりも高かった。」と言っているのでそれ程遠い昔の話ではないのです。
100年にも満たない年月で、灌木がちょろちょろ生えるだけの礫砂漠に変わってしまったのです。そして、この3年でその砂漠化、乾燥化は急速度で進んでいます。多くの川が干上がり、野生動物は勿論、放牧の牛や馬、羊が餓死し、殆ど雨が降らなくなっています。
よそ者の私でさえ、その砂漠化には恐くて体が震えます。ですからこの土地に生まれ育った人達は、きっともっともっと深刻で切実な問題だと思っていました。
自然農法の故福岡正信氏の弟子で、ヨーロッパでの緑化第一人者、ギリシャのパノス氏が3月アルゼンチンに実践指導に来て下さいました。ギリシャでの実績もあるので、この砂漠緑化運動は大きな反響を呼び、多くの人が粘土団子で種を播いてくれると思っていました。
ところが、思わぬ問題がありました。それは砂漠を緑化する為、出来るだけ多くの種類の種を粘土団子に混ぜて播こうとしたのですが、「自然の形態を崩す。」と反対する人が多かったのです。つまり、自生の植物だけの種を播き、よそ者の種は絶対にダメだと言うのです。生命力の強い松は一番にやり玉にあがりました。
でも、これだけ砂漠になり雨が降らなくなっているのだから、少しでも早く禿地を緑で多い輻射熱を遮り地温を下げ、葉っぱからの水蒸気で湿気を大地に保たなければいけないと思うのです。その為には種類の少ない成長の遅いパタゴニア自生の植物の種だけではとても間に合わないのです。もし正義を振りかざし、反対を唱えるのなら、先ず自分が行動しなければいけないのではないでしょうか?
でも、そう言って反対を唱える人の殆どが、自生の種を集めることも、粘土団子を作ることもしないのです。そして彼らの土地には外来種の珍しい木や果樹、野菜や草花が整然と植えられているのです。
パタゴニアの砂漠は肉食の為の家畜の放牧、鉱山開発、森林伐採と人間が引き起こした事です。そして砂漠化によって雨が降らず、川が干上がり、草が育たず家畜が餓死するという悪循環が始まっています。もう完全に自然の生態系は崩れているのに、何を今更「自生種だけを播け」と叫ぶのでしょう?
けれどもパノス氏に言わせると、粘土団子で緑化をしようとすると、世界中でこの事が問題になるのだそうです。だから、ダメだと言われたら外来種は混ぜずに粘土団子を作るそうです。争う事よりも、一粒でも多くの粘土団子、種を播くことが大切だからです。
パタゴニアの緑化なんて、気の遠くなるような夢物語の様な気がしてしまいます。でも、パタゴニアの礫砂漠の中の広大な自分の土地を緑にしようと木を植え、種を播いている人も居ます。礫砂漠の中に突然現れるそうした緑のオアシスを見て、パノス氏が「パタゴニアは緑化出来る。」と確信したそうです。
今の私に出来る事はたった一つです。それは一粒でも多くの植物の種を集めることです。その種達がいつか粘土団子にくるまれ砂漠に播かれ、芽を出し、乾いた大地を覆い尽くす日を信じて。

2009年03月02日
「共に生きると言うこと」
9月にのうじょう真人の仲間になった犬の「伏姫」も、すっかり大きくなりました。大食いのくせに何故か痩せてひょろひょろとしていますが(お腹に虫がいる訳ではないのです)大きな耳がぴんと立ち、女の子なんですが、なかなかりりしい顔になりました。
眠る事と食べる事が大好きで、親分の「パク」がワンワン吠えていても全く興味を示さず、段ボールのベッドに入って高いびきで寝ています。
臆病で、来客があったり、私達が見慣れない帽子を被って外に出たりしただけで「いつもと違う!」と悲鳴の様な声で吠えながら、一目散に彼女の隠れ家である水タンクの裏側に逃げ込みふるえています。
本当はいるだけで恐わがられる様な番犬になって欲しかったのですが、伏姫の持って生まれた性格なのですから仕方ありません。
私は毎朝、この伏姫とパク、最長老のらくうと一緒に農場内を散歩します。今年の夏は干魃と高温で日中はとても外に出る気がしませんが、早朝は湿気が無いので清々しく犬達も走り回りながら喜んで付いてきます。私の大好きな時間です。
我が家では草刈りはしませんし、果樹の剪定や林の木の枝を払ったりしません。自然を私達に合わせ利用するのではなく、私達が自然に合わせ共に暮らさせて頂くという気持ちを持つようにしています。でも、犬達と散歩していると、自分は自然の一部だと言うことをまだまだ分かっていないと反省します。
林の小道に小枝が張り出している場所があります。小さなパクとらくうはそこをトンネルの様にくぐっていきます。伏姫も小さい頃はそこを難なく通り抜けていました。体が大きくなっても、わざわざ腰をかがめてその枝をくぐっていました。そして最近は、その枝をぴょんと飛び越えるようになったのです。
ところが私はその枝を腰をかがめてくぐる事も、飛び越える事もせず、枝を押しのけて進んでいました。つまり自分の都合に合わせて毎朝その枝を押しのけていたのです。そしてそうしていることに、伏姫が初めてそこを飛び越えるまで気付かずにいたのです。
犬達は学校には行きません。本も読みません。偉い学者さんや先生の講演も聞きません。それでも生きる上で一番大切な自然と共に生きる術を、心優しい思いやりの心を身につけています。
人間が万物の霊長なんて思いません。私の大嫌いな言葉です。でも、私は飛び越えられるその枝を、平気で押しのけ進んでいたのです。それは思い上がり以外の何ものでもありません。
自然は、犬や猫達は、何時でも私に多くの大切な事を教えてくれます。








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