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2020年03月25日

そろそろ宗教というものとの距離を@

コロナウイルスのせいで仕事が暇なので
(原因はそれだけじゃないかもしれないけど)
宗教について色々調べる時間がたっぷりある。

昨日エホバの証人の人が客として来てくれた。
教団のチラシを渡されたのでじっくりと読んでみた。

チラシには、我々は現状ではサタンに支配されているらしい。
何なのだろう、サタンって。

ウィキペディアでエホバの証人を調べてみると
キリスト教主流派からは邪教とされているらしいが
一応はキリスト教の一派であるそうだ。
一神教で神の名がエホバだという。

このエホバは、ユダヤ教のヤハウェとおそらく同じ神なのだが、
その記述が子音のみで母音がないため
エホバの証人ではエホバ、ユダヤ教ではヤハウェ
となるらしい。

いずれにせよまずユダヤ教がありきで
それを踏まえたうえでキリスト教が成立して、
そのキリスト教をベースに枝分かれしたうちの
比較的新しい一派がエホバの証人ということらしい。

まあ要はそれまでのキリスト教を否定して
サタンなる敵を創造することにより危機感を煽って
ちょっと先祖返りしてヤハウェをエホバと読んで崇拝してみました、
という教団だと私は解釈した。

まあこういった既成の宗教を否定して攻撃し
信者を獲得していくというのは新興宗教の常套手段である。

なぜこのようなことが繰り返されるのか。
その理由はたくさんあるのだが、
一番大きいのは既存の宗教を信じても
この世の中から「不幸」は消えないからだ。

宗教を厚く信仰したからと言って
この世の中から天災はなくならないし、
争いはなくならないし、
疫病が根絶されることはない。
世の中のことはだいたい思うようには行かないものだし、
人は必ず死ぬ運命だから身近な人が死ぬと悲しいし寂しい。

人間って弱いから、
不幸なことが起きると何かにすがらないと
立ち上がることができない。

中には宗教を信じることによって救われる人もいる。
それはそれで良い事なのだが、
大部分の宗教団体というのは経済活動団体であるから
弱みにつけこまれている場合も多いはずだ。

このへんのことは書き出すと長くなるので
次回に。









posted by 黒豚猫 at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教

2016年04月01日

やはりリンクする宇宙と仏教

宇宙に関する番組を見ていて、
太陽の一生に関する場面で
ふと思い当たるものがあった。

太陽が生まれてだいたい48億年。
現在が太陽にとって人間でいうところの働き盛りだという。

やがて太陽も老化していき、
あと70億年もすれば
燃やすための燃料である水素がなくなり
巨大化して赤色巨星となり、
やがて何兆カラットにもなる巨大なダイヤモンドと
変わり果てるのだそうだ。

その壮大な時間の単位を聞いていたら
弥勒菩薩のことが思い出された。

弥勒菩薩はゴータマ・シッダールタ入滅後
56億7千万年後の未来に人々を救済するためにこの世界に現われる、
と言われている菩薩である。

太陽が死んでしまう時も人間同様
一気に老衰するわけではなく、
徐々に変調をきたすのでろう。
人間が歳をとって、体のあちこちにガタが来るように
太陽も燃え方にムラが出てくるのだろう。
だとすれば、この弥勒菩薩が現れる時というのは
太陽がなんとか燃えていて、
地球上の生物が生き残っているギリギリの時間なのではないだろうか。

そう関連付けると
56億年後に弥勒菩薩降臨という
無意味に感じる途方も無いはるか未来が
意味のある数字に思えてくる。

もう一つ。
恒星というものは内側からの爆発する力と
外側から押さえつける重力のバランスによって
球体として成り立っているのだそうだ。
そのバランスが崩れれば
星として成立できなくなり消滅する。

我々の体を構成している元素は
星が消え去る際の超新星爆発の時に生まれている。
星の材料は水素と重力と時間で、
星が歳をとって死にゆく時の爆発でできた
その他の元素たちが塵となって宇宙を漂い
それらが集まってまた別の星が誕生し、
その元素で我々地球上の生物も作られている。

我々は宇宙の法則に則ったもので構成されているのだから
宇宙の法則に従うのが自然だ。

仏教において「中道」という言葉がある。
儒教やアリストテレスにおいての「中庸」と
広い意味で同義語と考えていい。
思考に偏りがない状態、
バランスがとれている状態を指す。
つまり洋の東西にかかわらず
人間の考えにとって良いと思われるのが
「中道」「中庸」なのだ。

現在の我々は、
仏教において悟りを得るというと
厳しい修行の果て、ということを思い浮かべるが、
ゴータマ・シッダールタ(釈迦)はそれを否定している。
釈迦は6年に及ぶ苦行の末に悟りを得られず、
ゆえに苦行を捨て、
適切な修業(四諦八正道)によって悟りを得ることができた。
それが「中道」である。

恒星が星として成立しているのは
内からの力と外からの力が均衡しているからで
宇宙の要素でできている人間も人として自然に成立するのは
バランスがとれている状態のはずである。
普遍的なものは宇宙に答えがあるということか。

最後に、
私が昔から不思議に思っていたのが
何故金や銀という金属は
太古の昔から人々の欲望の対象なのか、
ということだ。
金や銀という金属は、即物的に何かの役に立つ金属ではない。
ピカピカして綺麗ではあるが、
道具にするには柔らかすぎるし、
食べて美味しいわけでもない。
なのに人々を惹きつける。

金や銀、プラチナという元素は
超新星爆発の時のほんの僅かな時間でしか
生まれてこない元素なのだそうだ。
宇宙レベルで貴重な元素であることを
同じ超新星爆発で生まれた我々は
無意識のうちに認識できているのかもしれない。
太陽の成れの果てがダイヤモンドということも
同様に感じとっているのかもしれない。






タグ:物理と仏教
posted by 黒豚猫 at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教

2015年10月27日

宗教という薬

昨夜郵便受けを覗いてみたら
キリスト教関係の小冊子が入れられていた。

私は無宗教ながら宗教には関心があるので、
浅いながらも宗教に関する知識はある方だと自負している。

だからこういった小冊子を配り歩くような
真面目な信者と宗教に関して話してみたい気もするが、
かと言って実際に話すと虚しさを覚える気もするので
実際に話すことはない。

キリスト教を例に取れば、
聖書というものはイエスは神の子、ということがまずありきで
それに沿った福音書が残され、
他の人間臭いイエスが書かれたものは処分された。

イエスの神秘性を最も表しているのは
母マリアの処女懐胎だろう。
だがこれは、聖書研究家によれば
原文の若い娘というワードを、
翻訳するときに処女と誤訳したことによって
それが広まったという。

おそらくその誤訳は、
神の子イエスというイメージに合致していたため
そのまま使われることになったのだろう。

仏教の祖のゴータマ・シッダールタが母親の脇の下から生まれた
という神秘性のある話が微妙に反映されている気がしないでもない。

例えばこういう話を信者にしたとしても
彼らの考えが揺らぐことはない。
何故ならそういった問答はキリスト教成立から
千数百年間繰り返されてきているからだ。
ダーウィンの進化論ですらキリスト教をひっくり返せなかったのだ。
ちょっとやそっとの問答で覆るわけがないほど
強固なバイアスがかかっている。

宗教自体を否定するつもりはない。
宗教というのは常備薬のようなものだというのが私の認識だ。
なにか起きる前の予防薬として、や
起ってしまった際の特効薬、
そして死んだ後のアフターケアまでしてくれる。
本当に死んでしまったらどうなるのか誰にも分からないが、
少なくとも死の際までは役に立つ場合が多いのだろう。

薬と違って宗教が厄介なのは
薬の種類の違いで争いごとが起きることである。
それも大元の薬の処方者が同じにもかかわらず。

薬というのは正しく使えば効果がある。
しかし過剰に摂取したり
間違った使い方をすれば危険である。

そういった話を彼らにしても難儀するだけである。
なにせ彼らは薬の効果を信じて疑わない常習者なのだから。




posted by 黒豚猫 at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教

2015年10月26日

素人参加番組と善財童子

人間誰でも一つは物語を書けるという。
自分の人生を書けばいいからだ。
その人の人生というのは
他の誰もが経験していないから。

テレビ番組でも素人を扱う番組というのは
長寿番組になりやすい。
制作費は安くすむということもあるだろうが、
意外に世間の人は特殊な経験をしている人が多く、
予測不能で予定調和にならない面白さがある。

たとえば、年寄りを笑い者にしているという批判もあった
「ご長寿クイズ」。
プロのタレントの「お約束」の真逆で、
どこから球が飛んで来るか分からない面白さがあった。

予測不能なら見当違いのことを言っていれば
それだけで面白いのかといえばそれは違う。
それぞれのご長寿が醸し出すそれぞれの雰囲気があって
初めて成立するものだ。

そういう素人の個性がよく現れる番組として注目しているのが
「ドキュメント72時間」だ。
いろんな場所にカメラを据えて
3日間72時間撮り続けるというもの。

3日くらいで興味深い人が撮影できるのかと思うのだが、
色んな人が色んな目的でその場にいて
毎回飽きることがない。

本当にこの世の中は様々な興味深い人で溢れているのだ。

そんなことを思っていたら
たまたま華厳経のことを目にした。

華厳経の経典の中に、
善財童子の話というものがある。

かいつまんで書くと、
昔インドに皆からバカにされていたボンボンがいた。
ボンボンはある日勉強に目覚め、
文殊菩薩の勧めにしたがい様々な人に会いに行く。
仏教徒や教徒ではない人、遊女や子供に会いに行っているうちに
会う人会う人それぞれが為になることを教えてくれることに気づく。
53人に出会うとこで悟りに近づき、
最後普賢菩薩と出会って悟った、という話。
この53という数字が東海道五十三次の宿場数という説もある。

人それぞれ様々な経験をしていて、
それぞれが含蓄に富んだ修行話だ。
だからその修業話を教えとして素直に取り込めば
自ずと悟りの道は開ける、
という説話なのであろう。

なぜ素人を扱った番組が人気かといえば
人間は潜在的に他人の経験を知りたいという欲求があり、
本質的に求めてしまうということも理由の一つではないだろうか。

録画していたドキュメント72時間の後に
華厳経を目にするなどということは
文殊菩薩のお導きかと考えたりもするが、
あいにく私は無宗教者なのである。




posted by 黒豚猫 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教

2015年07月15日

キリスト教と同性婚

誤解がないように最初に言っておくけど、
私はLGBTに対して全く偏見はない。
私自身はLGBTではないけれど、
LGBTの人が変だとは思わない。
これだけたくさん人がいるんだから、
確率的に同性好きが生まれても不思議ではないし、
性障害もまた同じように不思議には思わない。

先日アメリカで同性愛者同士の結婚が認められたため、
女子サッカー選手が同性婚をしたというニュースがあった。
その女子サッカー選手は敬虔なクリスチャンだという。

これが私には引っかかった。

アメリカの保守派の人たちは、
キリスト教に反するという理由で
同性婚に反対していたはずだ。

敬虔なクリスチャンにして同性婚をする者、
聖書の記述を理由に同性婚に反対する者。

わざわざ聖書に記述があるということは
聖書が書かれた当時から同性愛者がいたということだ。
昨日今日起こった事例ではない。
何千年も前から同性愛者はいたが、
同性愛者は聖書を理由に迫害されてきていた。

にも関わらず、
ここに来て同性婚を認める人が増えたということは、
その点においては聖書を信じるのをやめる、
神は間違ったことを言っている、
もしくは過去に遡って、バチカンを筆頭にしたキリスト教指導者たちは
間違った解釈をしていた、
とアメリカ国民は突きつけたことになるのだろうか。

元々聖書には疑惑が多々あり、
ダビンチコードの創作のヒントも
破棄された福音書からのものである。

また、マリアの処女伝説も
「若い娘」という単語を「処女」と誤訳したことから生まれた
作られた逸話であるという研究もある。

こうなってくると聖書を理由にああだこうだ言うことが
無意味に感じてくるのは私が門外漢だからだろうか。

私としては、
マイノリティに光が当たることを喜ばしく思っている。
そしてキリスト教が今後どのように変わっていくのか、
また、変わらない努力をしていくのか、
これに興味がある。


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posted by 黒豚猫 at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教

2014年09月21日

日曜日は週末?

感覚的に日曜日って週の終わりだよね。

だって聖書の創世記で
神様がこの世を作って
7日目に休みましょって言うことで
日曜日が安息日になったわけでしょ。

と思って調べてみたら、
一日の区切り方の解釈の違いで
聖書的には土曜日が安息日に当たるらしい。

でもミサは日曜日にやっているよね、
と思ったら、
当初土曜日に礼拝していたキリスト教は時を経て
キリストの復活日である日曜を安息日としたので
元々は土曜日が安息日だった。
キリスト教の教団の中には
今でも土曜日にミサを行うところがあるそうだ。

また、厳格なユダヤ教徒は
今でも土曜日を安息日としており、
イスラエルでは金曜日の日没前までに
土曜日用の食事を作っておくのだそうだ。

なるほどそれでカレンダーの日曜は
週の先頭にきているんだな。

でも「週末」という表現では
「土日」という意味を含んでいる。

ややこしいわー

日曜日に書き込まれた
「今週のランチは〇〇です。お楽しみに!」っていう店ツイートに
ツッコミを入れていいものなのか悪いのか。





posted by 黒豚猫 at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教

2014年07月19日

海外ニュース

最近に限ったことじゃないけど
国際的なニュースとか見ていると
やたら宗教とか民族の対立を煽っているようで
嫌になるね。

一神教が何故こんなにもメジャーになったのかを調べていくうちに
古代ギリシャやローマに遡っていたら、
きっと中世ルネサンス期の人々も同じように
宗教とか民族の対立に辟易していたんだろうと思った。

ルネサンス期は東ローマ帝国が
オスマン帝国に滅ぼされた後に興った。
東ローマ帝国の考え方としては
「ローマ帝国」は「文明世界全てを支配する帝国」であり
「キリストによる最後の審判まで続く、地上最後の帝国」
だという建前があった。
それがイスラムに滅ぼされてしまったわけだから
キリスト教国にしてみればすごくショックだったはず。

教会の堕落による宗教改革もあったし
その前には十字軍の遠征もあった。
ペストの流行の時には
ユダヤ人は被害が少なかったということもあって
この時期のキリスト教徒たちの思いは
複雑だったんじゃないだろうか。

個人としての宗教の場合、
だいたいどの宗教も教義としては
「執着を捨てましょう」、
ということだと私は理解している。

恨みを捨て、愛を持って相手に接する。

だが人間は社会的な生き物なので
集団が形成されると執着を捨てることができなくなる。
厄介なことにその「集団」には宗教も含まれる。

そうなると本来人間は執着があるから
執着の方を優先させる。
土地を奪われれば取り返すし、
仲間が殺されれば報復する。

そういう報復の連鎖がどんどん積み上がって
引き返せないところまできてしまっているんだろう。

一旦静まったように見えてもくすぶり続け
いつまでたっても火は消えない。
そうやっていつか大火事になって
人が焼き尽くされてしまうまで続いていくんだろう。

よく西洋医学は対処療法で病気の症状を抑え、
東洋医学はその人の体質を変え根本から治療する
と言われている。

今世界が行っている紛争への対応は
対処療法でしかない。
とりあえず病理のところだけを抑えこんで鎮めている。
でも根本が治っていないからすぐに病気は再発する。

それで儲けている人がいるんだろうけど。





posted by 黒豚猫 at 14:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教

2014年06月26日

スンニ派とシーア派

いまイラクで戦闘が激しくなっている。

そこでよく耳にするのが
スンニ派とシーア派の対立という言葉。

スンニ派もシーア派も
教義は全く変わらないイスラム教であって
何をもってスンニ・シーアと分けるのかといえば
信者本人の意向のみである。

本人が自分はシーア派だなあ、と思えばシーア派、
スンニだと思えばスンニ派になる。

だから同じ家族の中でも
スンニ・シーアが同居している家族もある。

そもそもスンニ派・シーア派が何故生まれたかといえば
イスラム教創始者のムハンマドが亡くなったあと、
カリフという統治者が設定された。
その4代目を決める際に
ムハンマドの娘婿のアリーにするか
名門の出のムアーウィヤにするかでもめた。
結局アリーが4代目のカリフになったのだが
それ以後も対立は続いた。

アリーが暗殺された際に
アリーの系統を支持した人たちがシーア派となり
ムアーウィヤを支持した人たちはスンニ派となった。

アリーの子であるフサインが
ムアーウィヤの子であるヤズィードに
カルバラーの戦いで殺害されたため
両派閥が決定的に分裂してしまった。
と同時に
戦いに敗れたシーア派は政治的立場を失い、
スンニ派はウマイヤ朝として勢力を拡大していった。

アリーの義父(従兄弟でもあるが)のムハンマドと
ムアーウィヤの父アブー・スフヤーンは対立した間柄であり、
(ムハンマドのメッカ制圧後にアブー・スフヤーンはイスラムに改宗)
親子孫3代に渡る確執の末にスンニ派とシーア派は生まれた。

カルバラーの戦いが西暦680年。
日本では大海人皇子と大友皇子が争った壬申の乱の8年後になる。
そんな大昔の出来事が現代にまで尾を引いている。

尾を引いているとはいえ、
そうやって宗派間の対立に仕立てているのは
欧米各国であり戦闘当事者である。
イラクの一般的な避難民たちは
インタビューで口をそろえてそう言っている。

それはそうだろうと思う。
両派の遺恨ははるか昔のことである。
マリキ首相がシーア派を優遇しているというのも
身内を優遇しているに過ぎず、
身内から派生した優遇の範囲は
当然シーア派中心となる。
フセイン時代は逆にスンニ派が優遇されていたのだから
その落差が激しいものだったことは容易に想像できる。
スンニ派が反発するのも当然だろう。

派閥の利用は政治抗争の常套手段で
ルワンダのツチ族フツ族間抗争にも見られる。
ツチとフツに分けたのは
植民地化していたベルギー人などの欧米人で
本人たちは普通に隣人として平和に暮らしていた。

だから我々は
スンニやシーアといった記号を
そのまま受け止めるべきではない。
そこにはその記号を利用して
物事を有利に運ぼうとしている勢力があることを
知っておかなければいけない。





posted by 黒豚猫 at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教
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