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2017年01月23日
清白の士は爵禄をもって得べからず
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から三人の心友について紹介してきましたが、今回はその「三人の心友」という幕賓(ばくひん)についての定義です。
幕賓という言葉自体、今では聞かれなくなっただけに、幕賓とはを知る機会になればと思います。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「ジャーナリスト」「宗教家」「名医」の「三人の心友」は何れも幕賓であり、パーソナル・アドバイザーである。
中国では、この幕賓が歴史の重要な役割を演じているが、幕賓を定義してみると、もともと、帝王を非常に好きである。
しかし、毎日、裃(かみしも)をつけて朝廷へ出仕するのは窮屈でかなわない、という一種の浪人的風懐と気骨とをもった人物である。

「浪人的風懐と気骨」とは何か。
伝記作家の小島直記が、その著『無冠の男』<新潮社>の中で明快に指摘している。

「その位にありて、その事を行はざるは尸位素餐(しいそさん)の徒なり。その位にあらざるも、その事を行ひ、ことに自家の米塩を憂へずして、君国の経綸に志す者は浪人なり。すなはち、浪人は、政府または人民より頼まるるにあらず。また一紙半銭の報酬をも得るにあらずして、自ら好んで天下の事にあたる」のが浪人の真骨頂で、「筆者の名もわからず、表現も古風だが、見事に浪人のポイントを掴んでいる」

と小島の評である。

したがって、こういう人物を幕賓として迎えるためには、帝王自体にかなりの魅力がなくてはならない。
逆説的にいえば、いかなる幕賓を何人かかえているか、によって帝王の器量がわかるのである。

中国の古書『六韜三略(りくとうさんりゃく)に「清白(せいはく)の士は爵禄(しゃくろく)をもって得べからず」とある。
立派な人材を得るためには爵禄を惜しむな。同時に、爵禄などで釣ろうと思ってはいけない。
これが幕賓に対するけじめであり、礼儀である。

今回は以上です

幕賓の定義、一種の浪人的風懐と気骨とをもった人物を指すということは分かっても具体的な人物像が思い浮かばないのではないでしょうか。
私がイメージするのは、幕末の志士に影響を与えた横井小楠であり、今ひとりは宮崎滔天という人物ですが天下国家を声高に論じるというよりも、当に自ら好んで天下のことにあたるというに相応しい人物では、と思っています。

私が思い浮かべる人物はさておき、次回に幕賓とは、このような人物ということで紹介していきます。


尚、良ければこのページの左側にあるバナー、どれでも一つ「いいね」の代わりにクリックしていただければ幸いです。


2017年01月16日
「名医」がなぜ心友として必要か
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より池田勇人は三人の心友を持て、ということで「すぐれたジャーナリスト」「立派な宗教家」に続いて今回は「名医」がなぜ心友として必要か、についてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「名医」がなぜ心友として必要か。
強靭な肉体は強靭な精神を生む。その理非曲直にかかわらず、その状態の多種多様なるにかかわらずである。
では「健康」とはいかなる状態をいうのか。
世界保健機構(WHO)では「七つの条件」を挙げている。

一、何を食べてもうまい。
二、よく眠ることができる。
三、すぐに疲れを覚えない。
四、快い便通がある。
五、風邪ぎみでない。
六、体重がかわらない。
七、毎日が楽しく、明るい。

このうち一つでも欠けたら、「不健康」ということになるが、トップたる者、「肉体的には健康で、精神的には幸福で、社会的には世のため、人のために役立つことができる状態」を維持しなければならない。
それには、どうしても「名医の心友」が必要となってくる。

「心友」でなくてはならないのは、科学は自然を対象とするが、医学は人間を対象とし、ビッセンシャフト<科学>とともにクニスト<芸術、人扱いのコツをも含めた技術>やフィロソフィー<哲学>が要求されるからである。

近鉄会長の佐伯勇は「故種田社長は病気がちの人だったが『元気な時でも、ほどほどの能力しかないのに、病気で寝ていながら、何かと会社の仕事に指図するのが、私は絶対にそれをやらない。病気中は、他の重役たちにまかせて、療養に専念する』といわれた。たしかにその通りで、人間は元気な時でも往々、誤まった判断を下すことがあるのに、ましてや、病気にかかって、肉体的にはもちろん、精神的にも正常でありにくい時に重要な判断を下すことはきわめて危険である」

と述懐しているが、いかなる実力者、名社長といえども、亡くなった日から逆算して、三年間にやったことはすべて失敗である。それは肉体の衰え、頭の呆けが、どうしても判断を誤らせるからだ。

ある高名な法律家が長寿を全うして亡くなった。
葬儀の席で故人をみとり、死後解剖のメスをとった心友の老教授が会葬者に述べた挨拶を龍角散本舗の藤井康男が、その著『病気と仲よくする法』<日経>の中で紹介している。

「故人は生前、高名な弁護士でありながら、思想問題などで弾圧された無名の若い学究の弁護を進んでひき受けられた。そして、多くの人々が故人の高い学識と有能な法廷技術によって救われたのです。
こういう際にも、故人は相手の事情によっては弁護料なども請求されず、調査費用すらも自弁で活動されました。
しかし、晩年になって故人はかわりました。
時として、高額な弁護料を請求されて驚かれた方や、かつて、あれほど無欲無私だった故人が金銭に異常な執着を示されるのに気づかれた方もあられると思います。
死後、故人を解剖してみましたところ、脳の部分に著しい老年性の退行変化がみられました。そのため、人格が一変したかのような印象を与えたものと思います。
申してみれば、故人の脳は人格的には、その持前の立派な能力を生理的な死を迎える何年か前にすでに失っていたものと考えられます。
ご来席の皆様は、その辺の事情をお汲みとりの上、改めて、生前の故人を偲んでご会葬をお願いいたします」

人に迷惑をかける前に一線を退くことを教えてもらうためにも「名医の心友」がどうしても必要なのである。

今回は以上です

「名医」がなぜ心友として必要か、この項の法律家の話に尽きるのではないでしょうか。
心友なればこそ、故人を思い遣る会葬挨拶は、ただただ感じ入るばかりで言葉が出てきません。


2017年01月10日
「立派な宗教家」が何故心友として必要か
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から三人の心友ということで「すぐれたジャーナリスト」「立派な宗教家」「名医」のうち前回は「すぐれたジャーナリスト」を紹介しましたので、今回は「立派な宗教家」についてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「立派な宗教家」が、何故、心友として必要か。
フランスの心理学者、エミール・クーエは「人間というものは、自分の心の中にはかりがたい力をもっている。
これを無意識にとり扱う時には、しばしば有害になるが、反対に意識的にかつ賢明な態度で取り扱えば、自分を支配することができ、しかも、生理的、精神的障害から自分を避けることができる」といっている。

これを意訳すると、こういうことになる。
たとえば、三十センチ幅の板を地上に置いたとする。
誰でも、片目片足で、その上を歩くことができるが、同じ板を百メートルの空中に吊ったとすると、恐ろしくて這って渡ることもできはしない。

何故だろうか? 理由は簡単である。
地上では足をすべらせても絶対にケガをすることはない、という確信が精神を闊達にし、これが肉体に作用して、のびのびと行動させることになるのだ。
その反対に、板が空中にある時には、もし、足を踏みはずしたら、脳天を打ち砕いて即死である。
その思いが頭にこびりついて離れないために肉体が委縮してしまって、地上なら平然とやれることが空中では手も足もでない状態に陥ってしまうのである。

本来、信仰とか、宗教心とかは、そういうものであるが、一人の作家と一人の学者とが、その核心を衝いた発言をしている。一人はスエーデンの作家、ストリンドベリである。

「君が経験か、直感かで、宗教とは何であるかをすでに知っていなければ、宗教についての説明はできない。また、説明してきかせたところで、君たちには馬鹿げたこととしか思わないだろう。だが、君がもし、宗教とは何かを知っているなら、いろいろと説明することがある。そして君にもわかるだろう」

もう一人は『善の研究』で有名な哲学者、西田幾多郎である。

「世の中には、往々、何故(なにゆえ)に宗教が必要であるか、などと尋ねる人があるが、かくの如き問いは、何故に生きる必要があるのか、と問うのと同一である。したがって、かかる問いを発するのは、自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え、真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感せずにはいられないのである」

昔から、北条時宗における無学祖元(むがくそげん)、足利尊氏における夢窓疎石(むそうそせき)。徳川家康における天海。住遠財閥の名総理事といわれた伊庭貞剛(いばさだたけ)における峨山。協和発酵会長の加藤弁三郎における松原致遠。日本信販会長、山田光成における梶浦逸外(かじうらいつがい)。資生堂相談役、岡内英夫における苧坂(おざか)光龍。宮崎交通相談役、岩切章太郎における木津無庵といったように一廉(ひとかど)の人物には必ず偉大な宗教家がついている。

しかし、この宗教家にもホンモノとニセモノとがある。いや、ニセモノのほうが幅をきかせている世の中である。
たとえば、本当の禅坊主は、あっけらかんとしているものである。毎日、きちんと座禅をやっているくせに座禅などやっているようなことは一言もいわずに飄(ひょう)々としている。それがホンモノである。

ところが、自分が禅僧であることを意識して、いかにも豪放磊落にふるまうのは大体、インチキと思って間違いない、そんなのは、一見、豪放にみえて、裏のほうでは小心翼々として俗世間のことばかり気にしているつまらぬ坊主である。

事実、峨山老漢を師として、禅の深淵を高めた伊庭貞剛などは、生涯を通じて、在家の人々の前では禅を談じたことは一度もなかったし、居士などと称して、わがもの顔に偈(げ)などをひねくったり、ことさららしく禅語を喋(ちょう)々する奴は大嫌いだった。

そういえば、ヒトラーに対するレジスタンス運動で倒れた牧師にして神学者のディートリッヒ・ボンヘッファーは「神の前に、神と共に、神なしに生きる」という名言を残している。
信仰者の真の生きかたは無神論者のような生きかたである、というのである。

神について、もっともらしいことや、わかったようなことをいう人間は最も神から離れた存在である。
あたかも、人生や恋愛について得々と語るのは、本人の体験の浅薄さを物語っているようなものである。
しかも、それらは自分のことを喋っているにすぎないのだ。
同様に、神について饒舌すぎる連中は、神にことよせて、自分のことを語っているのだ。

今回は以上です

「立派な宗教家」が何故、心友として必要か、ということで長くなりましたが分けて紹介すると分かり難いような気がしましたので長くなりましたが、著者の宗教観ということからも「立派な宗教家」が必要という部分は一挙に紹介いたしました。

人それぞれに宗教観はあるでしょうが、西田幾多郎博士の「真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈な宗教的要求を感せずにはいられないのである」という件は納得させられるものがありました。
また、三十センチ幅の板の話は以前に紹介した「百尺竿頭にのぼりて、手足を放って一歩を進めよ」という言葉を思い出しました。


2017年01月01日
玉葱
新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


今年も伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」で新しい年の始まりとなりますが、残すところ後僅かとなりました、というところで去年の続きと言うか昨日の続きを紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「すぐれたジャーナリスト」が、何故、心友として必要か。

リコー前社長の館林三喜男が「玉葱(たまねぎ)というものは、八百屋の店先で見ると、外側が赤茶けて、泥がついている。
ところが、その玉葱を部下が課長に上げる時は、泥のついた赤茶けた皮をむいて『これが玉葱です』といってみせる。
また、課長が、この玉葱を部長に見せる時には、二皮くらいむいてもっていく。
それと同じように部長もむいてくるから、社長の私のところへくる玉葱は、中の芯だけの小さなものになってくる。
それを『玉葱でございます』といわれて、まるまる信じていたら、とんでもないことになる」と書き遺している。

それほど、フォーマルな情報はあてにならぬとみていい。
これを補うにはどうしたらいいのか。社長が独自でインフォーマルな情報網をつくる以外に手はない。

その点、ジャーナリストは「時代と社会」とに密着しているから、彼らと接触することによって、世間の実態がよく把握できるのと、「ジャーナリストは常に大衆の中に在らねばならぬ。だが、このことはジャーナリストが大衆の中に埋没してよいということでは決してない」と定義されているように、いかなる場合にも客観性を失わぬ基礎的訓練を経てきているから、たとい心の底から敬愛している総理といえども、つき放した目で眺めて直言してくれる。

さらにもう一つの特技は断片的に集めてきた情報を分析整理した上で、目にみえるハッキリしたデータの隙間隙間にはめ込み、表も裏もぴたりと合ったニュースの真相を再現してみせる能力である。

今回は以上です

今回は、「三人の心友」のうち「すぐれたジャーナリスト」についてですが、玉葱の話は身近な話だけにナルホドと考えさせられるところがありますね。
また池田勇人は「三人の心友」の他に優秀なブレーンがいました、池田勇人の経済政策「所得倍増論」のバックボーンになる成長理論を唱えたエコノミストのことは機会があれば紹介したいと思っています。

伊藤肇もジャーナリストの一人であることからすれば、上記の内容は頷けるものがありますが池田勇人と言えば何と言っても所得倍増論ですので、つい話がそちらの方に向いてしまいました。



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