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2016年11月28日
人間の本分の大事
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から側近の人間学ということで、前回はジンギスカンと耶律楚材の関係について紹介しましたが、今回は耶律楚材のもう一つの名言と人間の本分の大事についてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

また、「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生やすは一事をへらすにしかず」とも喝破した。

大宰相の言にしては、一見、消極的に思えるかもしれない。
だが、実際の政治に多少ともかかわりあい、苦労した人間なら、これが軍国非常の際の経験から滲みでた叡智であることに気がつくだろう。

二人の間は年齢のへだたりこそあったが、どんなことをいっても誤解されない間柄であり、第三者にはうかがいしることのできない深い内面的な関係に結ばれていたのだ。

イタリアの独立運動の志士、マッチーニは「l境遇のために家庭の和楽を味わうことのできない者の胸の中には、何物にも充たし難い空虚がある。こう書いている私には、それがよくわかる」と『ロンドン日記』に記しているが、まして、故郷はるかに遠征し、凄じい戦争と破壊のうちに日々を送る武人の心はいうまでもあるまい。

英雄ジンギスカンといえども、この空虚な悩みに堪えがたかったであろう。

殊に耶律楚材は、昨日まで、静かな山の容(すがた)、渓の声に親しみながら「只管打坐(しかんたざ)」につとめた身が、今日は幾万の鉄騎を擁して、住みなれた中原を後に遥かに胡沙(こさ)に向う。

「恨むらくは師を離るること太(はなは)だ早く、淘汰未だ精(くわ)しからざりしことを。乳慕(にゅうぼ)の念起る」と万松老師のことをしきりに偲んでいるのも、荒涼たる寂莫感にさいなまれたからであろう。

こういう時、人は非常に感じやすくなる。
はじめて、人間の本分の大事に触れるからである。
つまり、ジンギスカンと耶律楚材とは、その「人間の本分の大事」においてつながっていたのである。

今回は以上です

「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生やすは一事をへらすにしかず」

これは、ひとつの利益のある事を始めるよりも一つの害あることを取り除くがよい。
また一つの事を新しく始めるよりも無駄な一つの事を減らす方がよい。
という意味であり、補佐役の心構えを述べてもので自ら新しい事業を興そうとか華々しい勝利を得ようとするのではなく、どこに問題があり、何を除けばよいかを常に考えなければならないとするものです。

確かに消極的に思わないでもありませんが、組織が円滑に動くよう、自らは黒子に徹することが必要になってくるものだけに、伊藤肇も組織の中で苦労した人間の叡智としているのも頷けます。

それにしても、ジンギスカンと耶律楚材の関係に「人間の本分の大事」においてつながっていた、というところは伊藤肇本人が感得するものがあったのではないでしょうか。
文章の書き方に気持ちが込められているのを感じるのは私だけではないと思いますが、皆さんは、どのような感じをもたれたでしょうか。


2016年11月24日
ジンギスカンと耶律楚材(やりつそざい)
このところ、いろいろと振り回されることがあって更新が後回しになってしまいました。

とにかく伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」は、このブログの芯になっているだけに大切にしていきたいと思っています。
ということで今回はジンギスカンと耶律楚材(やりつそざい)についてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「君主の頭脳の程度は、その宰相を見ればわかる」とマキャヴェリがいっているが、蒙古の英雄、ジンギスカンの宰相であると同時に、懐刀(ふところがたな)、側近として、よく、これを輔(たす)け、三十余年の長きにわたって複雑多難な蒙古の国政を運用したのは耶律楚材、その人であった。

耶律楚材は祖父の時代から金朝に仕えていたが、もともとは遼(りょう)の王族で、遼の滅亡後、金に仕官した。
幼少のころから儒学を修め、その天稟(びん)の偉大さは周囲から羨ましがられるほどだったが、すでに金の社稷は傾き、頽廃的でなげやりな亡国の風潮が一世を風靡していた。

そんな中にあった耶律楚材は若くして、三界に住するところもなき魂の不安に襲われ、儒学から禅へと転じていった。
そして、万松(ばんしょう)老師の鉗鎚󠄀(けんつい)の下で修業している最中にジンギスカンが金の首都、燕京を占領し、二人の邂逅となった。

性急一徹なところはあったが、同時に道理に明るく、竹を割ったような気性で殊に人材を愛したジンギスカンは一見してのめり込んだ。

耶律楚材、二十七歳の秋、内心鬱勃(うつぼつ)たるものがあった。これに対してジンギスカンは五十四歳。
ようやく円熟の境地に達していた。
以来、影の形に添うごとく、ジンギスカンのあるところ、必ず、耶律楚材の姿があった。

二人の問答は、常に「蒙古がいかにしたら強大になってゆくか」の一点にしぼられていたが、そのやりとりは内容の深い語録を形成し、読み返す度に深くうなずくことばかりである。
その一節を紹介しよう。

ジンギスカンが、ともすると武力万能を主張するのに対して、耶律楚材は

「高度の文化に対する関心を激しくもちつづけることこそ肝要であります。蒙古が蒙古自身の高い文化をもたぬ限り、せっかく武力で征服したとはいうものの、この金国を完全に支配することはできません。いや、それどころか、いつかは蒙古が金国に吸収され、逆に金国に支配される破目となりましょう」

と歯に衣きせぬ厳しい直言をし、「馬上、天下を取るべし。されど馬上、天下を治むべからず」の名言を残した。
武力で天下を取ることはできる。だが、武断政治では天下は治まらぬの意である。

今回は以上です。

ジンギスカンは知っていても耶律楚材という懐刀、側近については、この本を読むまで知りませんでしたが「馬上、天下を取るべし。されど馬上、天下を治むべからず」とは、今の時代においても当てはまる言葉ではないうでしょうか。
耶律楚材の名言は、その名を知らなくても聞いたことがある方も多い有名な言葉がありますが、それは次回に触れることにいたします。

尚、記事を見て「いいね」と思われたなら左横のバナーの何れかを一つクリックしていただければ幸いです、もちろん、「いいね」と感じなければクリックしていただかなくてもかまいません。
あくまでも、記事に対する評価として判断していただければということで、ご賢察の程よろしくお願いいたします。


2016年11月14日
一国、争臣なければ殆(あや)うし
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介していますが、残り頁数も僅かになって来ましたので更新も慌てなくてもと思っているうちに、ついつい遅くなってしまいました。
前回に続き側近の人間学ということで今回は、一国、争臣なければ殆(あや)うしについてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

明治時代というのは、若き明治天皇を擁して、西郷隆盛の実直さあり、山岡鉄舟の剛直さありで、時に陛下に面とむかって直諫し奉り、陛下が過ちを改められない限り、一歩も退かぬという気風が強かった。

これもその一つの実例だが、明治天皇が酒の上で、侍従の山岡鉄舟に相撲を挑まれたことがある。
ところが、<天皇と臣下とは相撲など争うべきでない>という信念をもっていた鉄舟は平身低頭したまま応じなかった。

<むっ>とされた天皇は「それなら、坐り相撲じゃ」と仰せられて鉄舟にとびかかられたが、剣禅一如で鍛えた体は微動だもしない。
ますます、逆鱗された天皇は、やにわに拳を固めて、鉄舟の眼を突こうとされた。

眼をつぶされてはたまらないので、鉄舟が、ひょいとかわしたために天皇は空(くう)をついて鉄舟のうしろへどうと倒れ、顔をすりむかれて、そのまま、酔い潰れた格好で御寝(ぎょしん)になった。
さあ、あとが大騒動である。
侍従たちは、よってたかってお詫び申しあげるようすすめたが、鉄舟は頑として応じない。

ただ、頭をかわしたことについては、「一身はもとより、陛下にお捧げしたものだから、負傷などいささかもいとうところではないうが、もし、陛下が酔狂で臣下の眼を砕かれたとあっては、陛下は後世『暴君』の汚名を冠せられることになる。それでも陛下が拙者の措置が間違っていると仰せられるなら、腹かき切ってお詫び致す所存でござる」といいきった。

結局、明治天皇が「朕が悪かった、もう相撲も挑まぬし、深酒もしない」と仰せられて一件落着となったが、体を張って直言した鉄舟も偉かったし、それを素直に受け容れられて反省された天皇も偉かったということになる。

「一国、争臣なければ殆(あや)うし」という。
「争臣」とは『主君に直言して主君と争う臣」のことである。

今回は以上です

「争臣」というと逆臣というか現代では組織にとって有害な存在のような意味合いが強いようにも思いますが、有益にするか、有害にするかは上に立つ者の器量によるのではないでしょうか。

えてして組織というものは「沈香も焚かず屁もひらず」という人間を集めたがるものだけに「一国、争臣なければ殆(あや)うし」は現代においても意味を持っていると思います。

江戸城無血開城と言えば、勝海舟が有名ですが勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府に辿り着き、単身で西郷と面会しています、このとき官軍が警護する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄舟まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったため官軍もこれに気圧されたとのことです。

また維新後、侍従になったのも西郷隆盛のたっての願いでありました。
山岡鉄舟を含めて「幕末の三舟」と言えば、いろいろなエピソードがありますが、機会があれば書いてみようと思っています。


2016年11月04日
大隈重信の「短所五ヵ条」
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から前回に続き「諫言の友」ということで、五代友厚が親友の大隈重信に宛てた「短所五ヵ条」を紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「諫言の友」で、まっさきに思い出すのは五代友厚<明治前期の実業家、薩摩藩士、大阪商工会議所を設立した>が親友、大隈重信<明治、大正の政治家、総理として第一次世界大戦にのぞんだ。早稲田大学の創立者>に、その短所五ヵ条を忠告した手紙だった。

大隈重信という人物は、烈しい覇気と闘志との持主であったにとどまらない。
性格において極度に外交的、外発的で自己主張に甚だ急であった。これは支配への根強い欲求に通ずる。
そして、このような性格は他面からいい直せば、自己に沈潜(ちんせん)し、内面的充実をはかることに意を用いず、情操に乏しく、散文的であった。

これは自己の才気を恃(たの)む者にしばしば見られる一つの性格である。
五代はそこのところを戒めたのである。

閣下の恩恵を蒙(こうむ)る者は恐らく其の美を挙げて、其の欠点を責むる者なかるべし。
今、友厚は従来の鴻恩の万分の一を報ぜん為、閣下の短欠を述べて赤心を表す。
閣下、高明、其の失敬を恕(じょ)せよ。〈以下は意訳〉

第一条、「愚説」「愚論」に我慢して耳を傾けられたい。一をきいて十をしる、といういき方は閣下の賢明に由来する欠点である。

第二条、自己と同地位でない者の意見が閣下の意見と大同小異の場合には、常にその者の意見を賞めて、それを採用されよ。他人の主張を賞め、他人の説を採用しなくては閣下の徳をひろめることはできない。

第三条、怒気、怒声を慎まれよ。部下が閣下に及ばぬことを知りながら、しかも怒気を現し、怒声を発するのは、徳望を失うのみで何の益もない。

第四条、時務に裁断を下すのは、時期熟するを待ってなされよ。

第五条、閣下がある人を嫌えば、その者も閣下を斬らうであろう。それ故、自分の好まぬ人間とも交際するように務められよ。

大隈重信は晩年、すこぶる円満となり、誰に対しても寛容だったが、壮年時代は前述のように血気さかんで奇行が多く、自ら信ずるところに驀進(ばくしん)して、禍(わざわい)をあちこちに及ぼした。

五代はそれを心配して忠告したのだが、大隈家には、この五代の手紙が三百通以上も保存され、しかも、その手紙の中には、しばしば「五ヵ条お忘れなく」とか、「五ヵ条に御注意」などと「五ヵ条」をくり返したものが多い。

今回は以上です

大隈重信という人は相当な自信家であったことから、「あるんである」、若しくは、「あるんであるんである」という言い回しを好んで用いたといわれています。
上記の「短所五ヵ条」は大隈重信だけでなく、誰にも当てはまるものかもしれませんね、読んでみて改めて感じるものがありました。

大隈重信がその力量を発揮したのは明治になってキリスト教禁令について、イギリス公使パークスとの交渉で如何なく発揮したことがキッカケとなったようで、この時の面白い話もあり機会があれば紹介出来ればと思っています。

また五代友厚は大隈重信とほぼ同年代で非常に有能な人物で大阪経済発展に貢献しましたが大隈重信が83歳と長命であったのに対し49歳と早逝でした。



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