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2016年09月29日
川田小一郎
いつもは伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介していますが、今回は川田小一郎という人物についてです。

岩崎彌太郎といえば、よくご存じだと思いますが、川田小一郎は、その岩崎彌太郎より二歳年下で同じ土佐の郷士出身で理財の才を認められ土佐藩の会計方に登用されています。

松山藩の旧幕府資産を接収するにあたっては乾(いぬい)(板垣)退助の旗下に入り別子銅山の接収には現場責任者として乗り込んだが、総支配人広瀬宰平(ひろせさいへい)の捨て身の嘆願に耳を傾けた川田は「操業現場の混乱は国にとって得策ならず。住友が幕府から得た稼行権をこのまま認めるべき」と判断、明治政府にその旨進言した。

川田は、ちゃんと話を聞いてやり差し押さえを解くぐらいの筋の通った人で、このときに川田が差し押さえしていれば今の住友はなかっただけに住友は川田小一郎に今でも感謝しているということです。

川田小一郎は明治3(1870)年、藩営の海運業九十九商会の民営化に伴い、管事として岩崎彌太郎を補佐し高島炭鉱など鉱山開発、共同運輸との海運業の覇権を巡る抗争など、常に先頭に立ち末期癌の彌太郎が無念の臨終に近づいたとき、川田は彌之助とともに枕辺に呼ばれた。「…川田よ、もう一度盛り返したかった…あとをたのむ…」。

彌太郎の歿後、川田らの根回しにより状況は急展開、ほどなく競合2社は合併することになり『日本郵船』が誕生した。三菱は海運事業を手放し看板も『三菱社』に改め社長の彌之助を輔(たす)ける管事の川田は、炭坑、金属鉱山、造船といった近代国家の基幹産業への集中的な投資を推進し今日に至る繁栄の礎を築きました。

川田は岩崎家にとってパートナーともいうべき特別な存在でしたが、明治24(1891)年に岩崎久彌が米国留学から戻り彌之助の下で副社長に就くのを見届けると世代交代を唱えて、あっさり三菱の管事を退いています。

この頃、松方正義が黒田清隆内閣での大蔵大臣のとき、こう考えた。
「日銀は近代日本の根幹。大局を見ることの出来る強い総裁を据える要がある。薩長の寄り合い所帯である元老や閣僚に対して毅然として意志を通すことの出来る人物。となると、岩崎彌太郎とともに三菱の今日を築いた川田小一郎しかいない」。

こうして、松方の強い推薦で川田小一郎は明治22(1889)年に日銀の第三代総裁に就任します。

川田の日銀総裁としての権勢は絶大で、「日銀の法王」と呼ばれ、株主総会の日以外は出勤せず、行員を牛込の私邸に呼びつけ、当時の大蔵大臣も呼びつけました。
明治23(1890)年の経済恐慌を乗り切るなど、日銀の中央銀行としての機能を確立し、日清戦争時には財政・金融の維持に尽力したとされています。
 

岩崎彌之助は彌太郎の弟で第二代社長、岩崎久彌は彌太郎の長男で第三代社長です。
今回は川田小一郎という人の主な経歴を紹介しましたが、次回は別の面を見ていきます。


2016年09月19日
「惣菜」、「カッカ」
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介していますが、今回はチョット面白いと言うか皮肉の効いた話です。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

明治維新成って、権勢の中心にあった総理大臣、伊藤博文の側近たちが氷川(ひかわ)の勝海舟の許へやってきて、しきりに伊藤博文の悪口をいう。

「ふん、ふん」ときいていた海舟は最後にたずねた。
「お前さんたち、いま、わしにいったような批判を伊藤の前でじかにいえるかい?」

「そりゃ、とてもいえたものではありません」
「そうだろう。伊藤はもともと、聡明な人なんじゃよ。けれども、お前たち側近が誰も苦言を呈せず、調子のいいことばかり耳に入れとれば、いくら賢くても、三年も経ちゃ、バカになるのが当たり前だよ」

聡明な人間がどれくらいバカになるか。

福沢桃介が、その著『財界人物我観』の中で紹介している日銀三代目総裁、川田小一郎の恰好のゴシップがある。
芸者のおしめが川田のことを「総裁、総裁」と人がいうものだから、大いに怒り、「惣菜、惣菜と旦那様のことを野菜物扱いするとは怪しからん」と川田に訴えたというので、それ以後、川田は殊におしめをかわいがったという話だ。

また、横浜の紛争解決にのり出した時、横浜の巨商連がきて、川田に「閣下、閣下」と連発した。
これを側できいていたおしめが「またしても、カッカ、カッカと総裁様を蚊の仲間扱いするのは怪しからん」と怒ったものだ。
川田は笑いながら「閣下というのは総裁以上の尊称だ」と説明して、大変に御機嫌だった。

「惣菜」といい「カッカ」といい、おしめは胸中に、その意味は十分、了解していたんだろうが、しらぬ顔で怒ってみせ、まんまと川田にとり入った腕の凄さは川田以上だ。

今回は以上です。

勝海舟の話は、確かにあり得ることで、周りの人間がヨイショばかりだと三年どころか三日もすればバカになっているケースもありますが、川田小一郎の話は福沢桃介の『財界人物我観』を紹介しているもので、これだけでは川田小一郎という人物が、どんな人だったか分からないと思いますので次回は川田小一郎という人物に触れることにいたします。


2016年09月13日
トップの孤独
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介していますが、前回の<原理原則の人間学>の紹介を終わったところで暫く更新を休ませていただきました。
この「喜怒哀楽の人間学」は第八章で終わりで今回から第七章の<側近の人間学>になります。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

帝王学の第二の柱である「直言してくれる側近」は何故必要か。
かって、佐藤栄作が総理大臣在任中、御用始めの日に伊勢神宮に詣で、随行の記者団から「何を祈ったのか」ときかれた時、「総理大臣として胸中をうちあける人もなくなったので神様に訴えたのさ」と笑って答えた。

権力座にある者は、大衆の前に立った時は身構えた「自分」がものをいうけれども、独りになった時にはひどい寂寥(せきりょう)を感ずるものらしい。
俗物の最たる大ナポレオンは腹にできたタムシがかゆくて、独りになると子供のように泣きべそをかき、従卒が〈これが英雄か〉としばしば怪しむほどの狂態を示すことがあったという。

一九六四年、『中国の赤い星』の著者、エドガー・スノーが招かれて第二回目の中国訪問をした時のことである。
あたかも国慶節の日で、毛沢東の傍らで「大行進」を眺めていたスノーは、この国家主席という座にある最高権力者が、何やらうかぬ顔をしているのに気がついた。
「どうか、なさったのですか」

群衆はプラカードを高くかかげ、歓声をあげながら、次々とその前を通りすぎて行く。

それを眺めつつ、毛沢東はつぶやくようにいった。
「あの群衆を大別すると三つになる。第一は忠実な毛沢東主義者だ。第二は皆がそうするから自分もそうするという迎合派だ。そして第三は表面をいかに装っていても、その実はまぎれもない反毛主義者だ」

このやりとりは、革命家の「醒めた眼」と同時に、心にある、どうにもしようがない「孤独の寂寥」を伝えている。
「孤独はすべてのすぐれた人物に課せられた運命だ」とショーペンハウエル〈独・哲学者。カントの後継者〉の名言だが、トップは何故、孤独となるのか。それには五つの原因がある。

一、トップには同僚がいない。
二、意志決定に助力を求められない。
三、自由に意志の伝達がしにくい。
四、正しい情報を得ることが稀である。
五、しかも、なお、最終的な責任を負っている。

今回は以上です。

トップの孤独、について五つの原因が挙げられていますが、この五つは逆に言うとトップと言うよりも権力の正体と言い換えられるようにも思います。
五つの原因を一つひとつ見ていくと奥の深いものを感じます、次回は、この具体例をみていきます。

それにしても、トップや権力の座、というのは、人に言えない寂寥感と引き換えにしても手に入れたいものなのかも知れませんね。