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2016年08月25日
行動の起爆剤
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介していますが、今回は伊藤肇自身が師の安岡正篤に行動の起爆剤というものを教えられたことについてのお話です。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

筆者自身、師から身をもって原理原則の厳しさを教えられたことがある。
第一線の記者から、いきなり編集長に据えられた時は、さすがに横着者の筆者もあわてて師の安岡正篤の門をたたいた。
そして、「編集長の心得を教えて下さい」と頭をさげた。

師はまず、「大国を治むるは小鮮(せん)を烹(に)るが若(ごと)くす」といわれた。

「え!?」とききなおしたら、「これは老子にでてくる文句でネ。政治というものは、小魚を煮るようにゆるやかな火でトロトロと煮込み、箸などでつつきまわさぬがよい。でなくて、強火で激しく煮たてたり、つつきまわしたりすると、肉が破れて形を失ってしまう。つまり国を治める場合も、やたらに法律を設け、術策を弄すると、かえって取り返しのつかない争乱が起るという意味です」

と解説された。

<なるほど>と感心したが、それと自分とどういうかかわりあいになるのか、どうもよくわからない。
多分、筆者の怪訝(けげん)な面持をみて、<こいつ、ちっともわかっちゃいないな>と思われたのだろう。

「君は編集長になって、やけに張りきっているが、決して急激な改革をやってはいけない。少なくとも一年間は『キレモノが編集長になった、といわれたのに、案外、あいつは呆(ぼ)けちゃってダメじゃないか』といわれるぐらいでいいのだ。
二年目に入ったら改革に手をつけなさい。ただし、その改革は部下が気がついた時には、もう改革が終わっていた、というやり方をすべきだ」と補足(ほそく)された。

思わず、ドキンとした。
まっさきに記者の担当部署の再編成をやろうと、すでに腹案までつくりあげていたからだ。
しかし、それはひっ込めて、師のいわれる通りにしようとうなずいたら、次にこういわれた。

「部下を完全に掌握しておらねば、いい編集ができるわけがない。そのために二つ守らねばならぬことがある。
一つは、編集長の仕事の大部分は部下の経済生活の面倒をみる、ということである。も一つは、その部下に愛情を感ずるまでは、彼の書いた原稿を批判してはならない」

これは二つとも、よくのみ込めた。

実際、部下の冠婚葬祭や病気入院した時の費用あるいは、おでん屋のつけなどをこまめに消化してやらぬと、部下を思いきって働かせられない。
また気持ちの通じている部下の原稿は、かなり厳しく批判しても、それはお互いのわだかまりにはならないが、愛情を感じていない部下はちょっとした小言(こごと)でもこたえてしまう。
だから、むしろ、ほめて使うべきである。

「よく、わかりました。ありがとうございました」といって、ひき下がろうとしたら、今度は師がきかれた。

「君は、何年、編集長をやるつもりかネ」
<出処進退を問われたな>と直感して答えようとしたら、「編集長というのは全力投球したら、何年が限度かね」といい直された。

内心、五年ぐらいはやる腹づもりでいたが、大変な激職だから、もし、良心的に精魂を傾けてやったら、せいぜい三年が限界である。それ以上やったら、マンネリ化してしまうか、体のほうが参ってしまうかのどちらかである。

まさか、師にウソはいえないから、正直に「三年です」と口ごもったら、「では、二年でひきなさい」とビシッとした調子でいわれた。そして「任期を一年あまして座を降りるということは、よほどの人間的自信がなければできない業だよ」とつけ加えられた。

これだけ具体的かつ核心をついた「編集長心得」をきかされながらも、当座は必ずしも、全面的に納得はできなかった。
だが、師の言は、納得できようができまいが、一切の拒絶反応なしで、鵜(う)のみにするのが筆者のいき方なので、この四箇条を愚直の愚の字に徹して守り通した。
その結果、編集長をやめて二年ほどしてから、師のいわれた内容がどんなに深いものであるかが腑に落ちたのである。

師が雑誌の経営を知っておられるはずがない。けれども編集長として、上にたつ人間の原理原則はどうあるべきかを教えられたのである。
そのころの日記をひもといてみたら、真摯な筆致で次のように書きしるしていた。

仏典に「菩提心(ぼだいしん)を発して後、六趣四生に輪廻(りんね)すといえども、その輪廻の因縁、みな菩提の行願(ぎょうがん)となるなり」とある。
仏になりたい、と志を立てても、か弱い人間のことだから、つい、いろいろとあやまちや間違いを起こす。
しかし、一度、志を立てさえすれば、その間違いがかえって向上の因縁になるという意味だそうだ。

師に教えられた原理原則も、そういったものであろう。完全な実行はなかなかむつかしい。
だが、原理原則を知っているのと知らぬのでは生き方において天地雲泥の差がでてくる。というのは、原理原則を知っておれば、何かの問題にぶつかった時、ふと立ち止まって、考え、心を整理することができるからだ。

師も「人間の原理的教養の欠落は、必ず、精神力の不振となってあらわれる。
これは善悪の区別がハッキリしなくなり、悪に対して弱くなる。
弱くなれば、やがて逃避的か迎合的になる」といっておられるが、原理原則をもたぬ人間は「行動の起爆剤」をもたぬのと同じだから、やがて没落の運命を辿ることは火をみるよりも明らかである。

今回は以上です。

今回は長くなりましたが「行動の起爆剤」とは、人生のテーマと向き合うことで己のなかの「原理原則」というものを試されていると言えるのかもしれませんが人生という航路を照らす灯りでもあるのではないでしょうか。

「原理原則を知っておれば、何かの問題にぶつかった時、ふと立ち止まって、考え、心を整理することができるからだ」
というところは結論として本質を言い表していると思います。


今回で「原理原則の人間学」を終わりましたので、ここで一段落として一休みさせていただきます。

2016年08月18日
百尺竿頭で手を放せ
道元と弟子の懐奘(えじょう)の出会いに続いて今回は懐奘が書いた『正法眼蔵随聞記』にでてくる道元の言葉を、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「潟瓶(しゃびょう)」という古語がある。

「潟」は「そそぐ」と訓(よ)むから、瓶(かめ)の中身をことごとくそそぎうつすことで、師が弟子に対して、その見解、その技法、その識見をあますところなく、うつし伝えてやることである。
当然、そこには、教える者と教えられる者との魂が触れあって、閃光を発するような烈しさと深さとがある。

その「潟瓶(しゃびょう)」のさまを宗教学者の紀野一義は次のように書いている。

「懐奘のような人が侍者になると、師匠の挙動を朝から晩まで見ているし、師匠の言葉は一言一句、全部覚えているから始末が悪い。だが、覚えていてくれたからこそ『随聞記』ができたのである。
聞いたことを全部記憶していて整理してくれたのである。

わたしどもが今読んでも、<道元禅師はこういうようにいわれたのか>と思うようにきちんと書いてある。
師匠とトントンか、ある面ではそれ以上の者がいると、こういう立派なものができあがるのである。後世に記録が残っていないお坊さまは懐奘のようなすぐれた弟子がいなかったということである。懐奘がいたからこそ道元の最もいいところが後世に伝ったのである。いい弟子をもつということは師匠にとってもしあわせなことである」

前にも触れたが『随聞記』にでてくる道元の言葉には曖昧な表現は一つもない。常に断定である。

□主人いわく「霧の中を行けば、覚えざるに衣しめる」と。よき人に近づけば、覚えざるによき人となるなり。

□君子の力、牛に勝れりといえども、牛と争わず。
われ法を知れり。かれに勝(すぐ)れたりと思うとも、論じて人を掠(かす)め難ずべからず。
もし、真実に学道の人ありて法を問わば、法を惜しむべからず。ために開示すべし。
しかあれども、三度(みたび)、問われて一度答うべし。多言閑語することなかれ。

といった調子で、快刀乱麻を断つ鋭さである。

□また、身を惜しまずして「百尺竿頭にのぼりて、手足を放って一歩を進めよ」というときは、「命あってこそ仏道も学すべけれ」といいては、真実に知識に随順せざるなり。よくよく思量(しりょう)すべきなり」

師から「百尺の竿頭にのぼって、そこで手を放せ」といわれたときに「命あってのものだねですよ、手を放したら、落ちて死ぬじゃありませんか。死んだら、仏道も何もないでしょう」

といって、師のいうことをきかない。そんなことでは仏道がわかるわけがない。
何という厳しい言葉だろうか。

しかし、師たるもの、あやふやなことは一切いえないのである。
弟子から問われた時には「これはこうだ」と明確に裁断しなければならないのだ。
鵜の毛でついたほどの曖昧さも許されないのだ。

そのためには、どうしても「決定(けつじょう)」が必要になってくる。
仏道における原理原則を身につけ、一番最後のところで開き直ったものをもっていなくてはならないのである。
それがない限り、道元のような言葉は絶対に発せられないだろう。

今回は以上です。

「百尺竿頭にのぼりて、手足を放って一歩を進めよ」
という言葉は非常に厳しいものですが、百尺竿頭という修行の末に到達した境地に満足することなく、さらに一歩を進めるというもので努力を怠らず、向上心をもち、さらに歩みを進めよというように解釈すべきものということです。

決定は「けってい」と読むのではなく「けつじょう」という仏教語で信じて疑心や迷いのない心境に達してこそいえることのようです。

皆さんは、今回どのような感じを持たれたでしょう。
仏道における原理原則を身につけ、一番最後のところで開き直ったもの、こそが「一歩を進める」と言えるのではないでしょうか。

2016年08月10日
道元と懐奘の出会い
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介していますが、前回、道元と懐奘(えじょう)の出会いがドラマチックである、というところで紹介を終わっていましたので今回は、この続きで道元と懐奘の出会いについてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

懐奘は多武峰(とうのみね)の大日能仁(だいにちのうにん)に禅を学び、その印可(いんか)をもらった。
剣でいえば免許皆伝である。
ちょうど、その頃、道元は中国大陸から帰って、建仁寺にいた。
碩学(せきがく)ぶりは天下にあまねく、当然、懐奘の耳にも入ってきた。

道元も若かったが、懐奘も若かった。
青年客気の懐奘は「自分は浄土の教もきいた。天台の行(ぎょう)も積んだ。禅はその奥義を極めた。きくところによれば、宋から帰った道元という坊主が都でえらく評判になっているが、何程のことやあらん。ひとつ、完膚なきまでにやっつけてやろう」と嘯(うそぶ)き、建仁寺へのり込んで道元に論争を挑(いど)んだ。

勢いこんで、肩をいからした懐奘の前に坐ったのは、何のことはない、二つも年下の青坊主だ。
懐奘はただちに鋭い質問をやつぎばやに浴びせかけた。
ところが、てんで勝負にならない。

いくら気張っても歯がたたぬのだ。
とどのつyまりは、こてんぱんにやっつけられて、ついに兜をぬぎ、その日から道元の侍者にしてもらった。
身のまわりの世話をする役である。

懐奘とても、一派をなした学僧である。それがよくも思いきった転身をやってのけたものである。
人物評論的立場からいえば、こういう潔い負けっぷりができる懐奘もやはり、相当な人物であったといえる。
一方、道元にとっては、何でも知っている二つ年上の侍者、しかも目を皿のようにして自分を見つめている弟子は、まことに使いにくく、窮屈な思いをしたのではないか。

しかし、宋の留学を終えて帰る日、師の如浄(にょじょう)から「お前は日本へ帰ったら、大勢の人々を集めて説教するなんてことを決して考えてはいけない。一人、いや半人にその道を伝えれば、それで十分だ」といわれ、それを死の瞬間まで遵守した。
だから、越前の永平寺を開く時も、連れていったのは懐奘ただ一人だった。

それだけに師の道元と弟子の懐奘との会話は内容も濃いし味も深い。
懐奘が全身を耳にして、師の一言一句にきき入った図が想像されるのである。


今回は以上です。

道元と懐奘(えじょう)の出会いをどのように読まれたでしょうか、こういう内容については、読んだ人がどのように感じたのかということが大切になってくるように思います。
道元と懐奘の関係は道を求める気持ちに相通ずるものがあったのではないでしょうか。

師と弟子の出会いが縁なら、このブログを目にしていただいたのも一つの縁なのかも知れませんね。


2016年08月05日
花は愛惜(あいじゃく)に散る
このブログは週1回の更新というペースでやっていますが、このところ他用もあって更新が延びる場合もあるかも知れませんが、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」も残り頁も少なくなっていますので出来るだけ今の更新ペースを維持して最後まで紹介していくつもりですが更新が延びた時はご容赦下さい。
それでは今回「花は愛惜に散る」を紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

鎌倉時代、曹洞禅を開き、永平寺を建立した道元に『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』という全九十五巻に及ぶ難解の書がある。

通産省出身の経営者で石油資源開発社長の森誓夫が、手塩にかけて育ててきた共同石油を去るにあたり、「後任をきめるために共石グループの社長会を招集して、その意見をまとめるのにすごく骨を折った。あたかも、自分の首を落とす塚穴を掘るような心境だった」と述懐したが、政府と民間の寄合世帯という会社だから、後任をきめるのも、その根まわしが大変だったに相違ない。

しかし、そんな辛い思いに耐えかねている最中、ふと思いたって『正法眼蔵』を開いたら、「花は愛惜に散る」の一語が目にとび込んできた。

仏法の奥義(おうぎ)を究めつくし、「花は咲き咲きて成就。葉は散り散りて成就」と実にすっきりとした達悟の境地を示した道元にして、散る花のあわれに涙をそそいだ日があったのか、ひどく道元を身近に感ずるとともに、人事が錯綜して、困難な事態に直面すると、心の中で「花は愛惜に散る」とお題目みたいに唱えて、ピンチを切りぬけた。
以来、この書を片時も手許から放さず、今では「道元の『正法眼蔵』こそ人生最高の書である」といっている。

また、石川島播磨重工社長の真藤恒は「人生の苦境というものには何度も遭遇しているが、それを克服できたのは『正法眼蔵』と『王陽明全集』だった」といい、特に敗戦直後、戦犯容疑で出頭を命ぜられて服毒自殺した橋田邦彦<近衛、東条内閣の文相>の『正法眼蔵釈意』を推せんする。
ただし、この本、四巻で中絶してしまったのはかえすがえすも残念である。

真藤にいわせると「初心者には『正法眼蔵』にいきなりとびつくのは難しいかもしれない。弟子の懐奘(えじょう)がまとめた『正法眼蔵随聞記(ずいもんき)』から入るのがいいだろう。
『正法眼蔵』が大学における教室のオーソドックスな講義とするなら『随聞記』は、先生との雑談をまとめたものといえる。

もちろん、まともな講義も大切だが、雑談の中には、教室ではきくことのできない人間くさい人生の哲理がある。
いや、むしろ理路整然とした講義よりも、片言雙句のほうに真実が含まれている場合が多い」そうだ。
『随聞記』をまとめたのは弟子の懐奘で、道元よりも二歳も年上だが、その出会いがまたドラマチックである。

今回は以上です。

『正法眼蔵』という難しい書物が今回出てきましたが、もちろん私は読んだこともありませんので解りませんが、『正法眼蔵』の中に出てくる「花は愛惜に散る」という愛惜という言葉は喜怒哀楽の「哀」に通じるものであり、「あわれ」という情趣を感じさせられました。

「花は咲き咲きて成就。葉は散り散りて成就」と「花は愛惜に散る」二つの言葉から、難しいことは別にして感じ取るものこそが大事なのではないでしょうか。