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2015年10月28日
「無私」
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から「人を見る明」の第三のメルクマールとして「出処進退」について紹介していますが前回の「退いて後継者を選ぶ」の続きとして「無私」ということを紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「無私」とは何か。

フランスの原子力潜水艦が地中海沖で故障を起こしたまま、再び浮上しなかったことがある。
乗組員の家族や関係者たちは続々ツーロン軍港に集まり、やがて「原潜乗り組み反対」のデモにふくれあがってフランス海軍が動揺しはじめた時、ドゴールは自ら同型同種の原子力潜水艦に乗り込み、同じ場所で同じ深さまで潜って、「原潜は大丈夫だ」ということを身をもって証明した。

この自分の命を投げすててかかる「無私」の迫力で、デモは自然におさまってしまった。

命を投げだす、といえば山岡鉄舟と大親分、清水次郎長とのやりとりが面白い。
鉄舟が次郎長に「お前は随分と子分をもっているけれど、そのうち何人がお前のために体を張ってくれるかね」ときくと、「残念ながら一人もおりません」と答えた。
鉄舟が怪訝(けげん)な顔をすると、次郎長はいった。

「しかし、わっちでしたら、子分どものために何時でも命を投げ出す覚悟ができておりやす」
剣禅一如の極意に到達していた鉄舟が「うーん」とうなったままだったという。

宗教的な「こころの詩」を得意とする坂村真民が、その辺の呼吸を一言にしていいあらわしている。

「生かされて生きるということは、任せきって生きるということであり、任せきって生きるということは、自分を無にして生きるということであり、自分を無にして生きるということは、自分の志す一筋の道に己の力を傾け尽くすということである」

宗教家でもない生ぐさい仕事に取り組む経営者がそこまで徹するのは無理かもしれないが、せめて、出処進退にあたっては「無私六割、私四割」くらいのところがギリギリのバランスで、その線くらいは、どんなことがあっても保ってもらいたいものだ。


今回は以上です。

山岡鉄舟と言えば幕末の三舟(勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟)の一人ですが、次郎長とは旧幕府海軍の榎本武揚が率いた艦隊のうち咸臨丸が暴風雨により修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され交戦死亡(咸臨丸事件)し海に放置されていた遺体を次郎長は収容し埋葬、翌年には「壮士墓」を建立しました。

新政府軍より収容を咎められますが死者に官軍も賊軍もない、として突っぱねた次郎長の義侠心に鉄舟は感動し明治後も付き合いが続きました。

また、江戸城無血開城と言えば勝海舟と西郷隆盛の会談がよく知られていますが、その下交渉にあたったのが山岡鉄舟で駿府城下で西郷と会談しますが「朝敵、徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と大声で叫び官軍も度肝を抜かれたということや西郷は後に「あんな生命もいらぬ名もいらぬ金もいらぬという男はどうにも始末に困る、だがそういう男でなくてはともに天下の大事を語ることは出来ない」と言わしめています。

今回は余談が長くなりましたが「無私」とは、まさに山岡鉄舟の生き方そのもののかも知れませんね。

2015年10月22日
己を無にする作業
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介いていますが、「人を見る明」のメルクマール(判断基準)として、「人相」「応待辞令」に続いて今回から「出処進退」について紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「人を見る明」の第三のメルクマールは「出処進退」である。
特に「退」を重視する。
何故、「退」が大事か、というと、「退」には、のっぴきならぬものが出るからだ。

まず、退くに当たって、二つの「人間くさい作業」をやらねばならない。
一つは「退いて後継者を選ぶ」という作業である。

これはきわめて当たり前のことである。
だが、「退いて後継者を選ぶ」ということは、企業において、自分がいなくなっても仕事がまわっていくようにすることである。
いわば、「己を無にする作業」をしなければならぬのだ。
これがなかなかむつかしい。

「パーキンソンの法則」に皮肉なのがある。

「サラリーマンは自分の部下ができることは気にしないが、競争相手ができることは大きな脅威だ。
だから、できるだけライバルがでてこないようにいろいろな手を打つ。
たとえば、部下ができて、これまでの仕事の半分ずつ受けもつようになることは絶対に反対である。
というのは、将来、その男が自分のライバルになる可能性があるからだ。
そこで、こういう場合は部下を二人つけてもらって、その二人にそれぞれ半分ずつ仕事を与えて、自分だけがその仕事の全般をしる立場に立とうとする」

こんな環境に育ってきた経営者にとって、「己を無にする作業」がいかに至難の業か。
ある一流企業の常務がこぼしていた。

「社長が後継者を選ぶ第一の基準は、どうやって、自分の権力が温存できるか、ということだ。
有能で実力があり、まごまごすると自分を棚上げしかねないような副社長を選ぶことは、まずない。
必ず、自分が会長や相談役になっても、もと社長として精神的にも物質的にも遇してくれる人物を選ぶ」

残念ながら、これが後継者選びの一面であることは否定できない。

あるトップなどは「後継者? それはこのわしが死んでからも、ちゃんとお墓参りにきてくれる人物をえらぶよ」といってのけたが、常務の告白を裏から説明したことになろう。


今回は以上です。

「人を見る明」の第三のメルクマールは「出処進退」ということで、のっけから人間くさい話しですが確かに上記で取り上げられているトップの言と似たようなことは私も聞いたことがあるだけに「退」ということを考えさせられました。

それにしても「出処進退」の人間学、面白くて難しい話ですね。

2015年10月15日
知識と見識と胆識と
伊藤肇の「喜怒哀楽」より人を見る明ということで応待辞令ということについて、いろいろと紹介して来ましたが「応待辞令」とは、と大上段に振りかぶって結論を紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽」より

以上、「応待辞令」について、さまざまな角度からのモデル・ケースを書いてきたが、つきつめていえば、「応待辞令とは、知識、見識、胆識の反映」ということになる。

知識と見識とでは似ているようで全く違う。

知識というものは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られる。
学校へいって講義をきいているだけでも、あるいは参考書を読んだだけでも得ることができる。
しかし、知識だけでは、人間の信念とか、行動力にはならない。
もっと権威のあるものが加わらぬといざという時にこれは役に立たない。

ある一つの問題についていろいろな知識をもった連中がいろいろな解答をする。
だが、それはあくまでも知識であって、「この問題はかくあらねばならぬ」あるいは「こうすべし」という判断は、人格、体験、あるいは、そこから得た悟りなどが内容となってくる。
これが見識である。

ところが、この見識だけでも、まだ不十分である。どうしても反対がでる。
いうなれば見識が高ければ高いほど、低俗な人間が反対するのだ。
そこで、これを実行するためには、あらゆる反対、妨害を断乎として排除し、実行する知識や見識が必要となってくる。それを胆識という。

「決断力や実行力をもった知識や見識」のことである。
もし、この胆識がないと、せっかく立派な見識をもっていても、優柔不断に陥って、事を成すことはできない。


今回は以上です。

知識という言葉は日常的に使われていますが見識という言葉はそれほど頻繁に使われる言葉ではありません、ましてや胆識という言葉は先ず聞かないもので胆嚢や胆石の胆で内臓を指す言葉で肝と同じですが胆は決断力を司るものとされています。
肝は「きも」で胆は「たん」であり「きもだま」で肝っ玉と言えばよくご存じだと思います。

チシキ(知識)やケンシキ(見識)という言葉は入力するとキチンと変換してくれますが、タンシキと入力すると単式と変換されるところから見ても現代ではほとんど死語化しているようです。
それだけに「胆識」の意味するところが重要であることを教えられます。

2015年10月07日
呉起と田文
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より応待辞令ということで、いろんな話を紹介して来ましたが今回のこんな話はいかがでしょうか?

以下、「喜怒哀楽の人間学」より

現代の政治家や経営者たちがトップの座を交替する時には「こんなやりとりをしてもらいたい」と思うコクのある「応待辞令」が『史記列伝』に出ている。

魏、相(しょう)ヲ置キ、田文ヲ相トス。呉起、悦(よろこ)バズ。
田文ニ謂イテ曰ク「請ウ、子ト功ヲ論ゼン。可ナランカ」ト。
田文曰ク「可ナリ」
起曰ク「三軍ニ将トシテ士卒ニ死ヲ楽シマシメ、敵国ヲシテ敢テ謀ラザラシムルハ、子(し)、起ニ何レゾ」ト。
文曰ク「子(し)ニシカズ」ト。
起曰ク「西河ヲ守リテ、秦兵、敢テ東ニ郷(むか)ハズ。韓、趙、賓従(ひんじゅう)スルハ、子、起ト孰(いず)レゾ」ト。
文曰ク「子にシカズ」ト。
起曰ク「此レ、子、三ツノ者、皆、吾ガ下ニ出デテ、位、吾ガ上ニ加ウルハ何ゾヤ」ト。

文曰ク「主少(わか)クシテ国疑イ、大臣、未ダ附カズ。百姓(ひゃくせい)信ゼズ。是(こ)ノ時ニ方(あた)ツテ、之ヲ子ニ属センカ」ト。
起、黙然タルコト良(やや)久シウシテ曰ク「之ヲ子ニ属セン」ト。
文曰ク「此レ乃(すなわ)チ、吾ガ子ノ上ニ居ル所以ナリ」ト。
呉起、乃(すなわ)チ自ラ田文ニシカザルヲ知ル。

「孫呉の兵法」という成語が残されたくらい、孫氏と並び称せられた呉起が魏の国で重用されていた時、宰相を誰にするかという問題が起った。
呉起は自信満々で、当然、自分のところへ舞い込んでくると思い込んでいたのが、ライバルの田文のところへいってしまった。

面白くない呉起は直接、田文の許へのり込んで「君と俺とどちらがすぐれているか、比べてみようではないか」という。
呉起曰ク「君ト功ヲ論ゼン」と。田文曰ク「ヨシ」。ということで、軍事からはじまって行政、財政、外交とあげてゆく。
その一つ一つについて、田文は「そりゃ、呉起よ、お前にはかなわぬ」と兜をぬぐ。

そういわれて、調子にのった呉起が「君の能力ははるかにわが下なのに位はわが上に居るのは一体、どういう料簡なのか」ときめつけると、田文曰ク「主、少クシテ国疑イ、大臣、未ダ随ワズ。百姓信ゼズ。其ノ時ニ方(あた)ツテ、之ヲ子ニ属センカ、之ヲ我ニ属センカ」。

先君が亡くなられた後、まだ幼君が位につかれたばかりで、国中がこれでやっていけるかどうか疑っている。
大臣たちもまだ先君の時のように心から随ってはいないし、民衆もまだ朝廷に全面的な信をよせていない。
そういう時の宰相の任は君が適任と思うか、俺が適任と思うか。
しばらく考え込んだ呉起は「なるほど、君のほうが適任だ。よろしく頼む」という。

さすがに呉起も偉い。軍事だの、行政だの、外交だのと一つ一つの問題をとりあげれば、呉起のほうがよくできる。
しかし、国をあげて不安な状態にある時には、手腕があるというだけでは宰相の役は勤まらない。
とにかく、その人がそのポストにいるというだけで国民が信頼し、安心する、ということが頭脳とか手腕などよりも根本的、本質的な問題として優先するのである。
いきりたっていた呉起も田文にいわれてそこに気がついたのだった。


今回は以上です。

今回は少し長くなりましたが、「なるほどと感じさせられるものがありますね。

その人がそこに居るだけで周りの雰囲気が和むという経験は私もありますが、如何にもやり手というタイプの人は態度や言動に「俺が」という意識が出過ぎて周りとの軋轢を生みやすいものかも知れませんね。
それにしても呉起と田文のやりとりは「応待辞令」そのものと言えるように思います。


2015年10月01日
シュバイツェルと老子
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介しています。

前回は「漢詩作法の起承転結」という件を紹介しましたが、起承転結ということは知ってはいるものの言われてみれば人生も起承転結というものですね。

さて今回は前々回のシュバイツェルの一言について、いつもに比べれば短いですが紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

それにしても、シュバイツエルの一言は『老子』に出てくる文句である。
果たして、シュバイツエルが東洋人にとっても難解といわれる『老子』を本当に読んでいたのかどうか。
あるいは表現が偶然に一致したのか。
それがしばらく心の奥底にひっかかっていた。

ところが、たまたま、『人間シュバイツエル』<野村実著、岩波新書>を開いた時、博士が『老子』をひもとく場面にぶつかって、<なるほど>と合点(がってん)がいった。

一九四五年五月七日。
戦闘中止の報がもたらされたとき、博士は急ぎの手紙や患者の治療、植林の見廻りに追われて夕刻まで働きつづけた。
夜に入って、休息の時間となった時、博士は初めてヨーロッパの終戦が何を意味し、また数年来、初めて空襲の心配がなく夜を過す数百万の人々が何を感じているかを考えた。

博士は戸外の暗がりで椰子(やし)を燃やしていたが、その光の中で『老子の句集』を拡げ、戦争と勝利についての感銘深い句を読んだ。
それは「戦勝テバ喪礼ヲ以テコレニ処(お)ル」という一節であった。
多分、『老子』のフランス語訳かドイツ語訳を手にしていたのであろう。


今回は以上です。

伊藤肇は経済誌「財界」の記者から編集長になり評論家になっていますが、さすがに経済誌の記者だけあって前回のところでも伊藤肇自身が言っているように記者というのは、へその曲がり具合が普通の人とは違うようでシュバイツェルが『老子』を読んでいたのかどうか、が心の奥底にひっかかっていたと言うととろが面白いですね。

1945年5月7日午前2時41分、カール・デーニッツ元帥から降伏の権限を受けたドイツ国防軍アルフレート・ヨードル大将が連合軍司令長官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥とドイツの降伏文書に調印していますが、文書での停戦発効時間はヨーロッパ時間で5月8日23時01分となっていました。