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2014年12月25日
范蠡(はんれい)の台詞
今日はクリスマスですが、クリスマスに関係したものにしようかな、とも思いましたが、クリスマスに相応しい内容はどう考えても私には似合わないので、いつも通りに伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から今回は「十八史略」に出てくる人相についての話を紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

『十八史略』の中にも人相に関する話がアチコチに出てくる。
その中の一つに有名な范蠡(はんれい)の台詞がある。

越王、勾践(こうせん)を扶(たす)けて呉の国を平定した范蠡(はんれい)は、その直後に<どうも自分は越王に消されるかもしれない>という予感をもった。

消されてはたまらないから、凱旋(がいせん)すると間もなく一書を呈し、

「昔から、主(あるじ)に憂ある時は臣たるもの労し、主、辱しめられたる時は死をもって讎(あだ)を報ゆるべきものといわれています。
昔、君王は会稽山(かいけいざん)において、呉のために大恥辱にあわれましたが、あの時、臣が敢(あえ)て死を選ばなかったのは、何時の日か、君主の御無念をそそがんものと、心の奥深く誓ったからであります。
しかし、今や宿敵、呉を平定し、臣の望は達せられました。
この上は、どうか、臣が君主の許(もと)を去ることをお許し頂きたい」

と申し入れた。

寝耳に水と驚いた越王、勾践(こうせん)は直ちに返書をしたためた。

「何故、かくまで唐突に余(よ)が許(もと)を去るなどと申すのか。
余は卿(けい)の苦労と大功を決して忘れはしない。
もし、待遇に不満があるなら、余はこの越を二分して持とう、どうか、去るなどという心は捨てて、余のもとにとどまってくれ。
しかし、それでも卿があくまでも立ち去るというのなら、余は心ならずも卿に誅(ちゅう)を下さねばならぬことになる」

と半ばなだめ、半ば脅したのである。


今回は以上です。

このお話が人相とどう関係するのか、どういう結末になるのか、ということはこの後をお待ちいただくことにして、世の中には独占欲や権力に執着する人も多いことから歴史上、いろんなことがあり、身近なことでは「苦楽を共にする」ということは世間ではよく聞かれる言葉ですが苦は共にしても楽は共にしない人もいるようです。

世間的に、よく言われる言葉に「糟糠の妻」って、ご存知だと思いますが、昔からの言葉で「糟糠の妻は堂より下さず」と言われていますが意味は貧乏のときから辛苦を共にしてきた妻は、成功を収めて富貴の地位に至ったとしても大切にするべきであるということですが、事業などに成功すると苦労を共にしてきた妻を袖にする人もいます。

やはり、クリスマスには似つかわしくないものになりましたが、「苦楽を共に」して来た人とクリスマスを過ごしていただけたら、と思います。

2014年12月18日
孔子の弟子 子路の死
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より人品骨柄の人間学ということで孔子とその弟子、子路について前回は孔子が子路に向かって「お前だけは畳の上では死ねそうもない」といった続きを見ていきます。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

この孔子の予言は不幸にして的中した。
孔子の推薦で、子路が仕えていた衛の国で叛乱が起きたのだ。
主人の孔悝(こうかい)が謀叛人たちに捕えられ、脅迫されているときいては、子路として黙っているわけにはいかない。

おっとり刀で城門に馳せつけると、ちょうど中から出てくるチンチクリンの男にぶっかった。
同門の高柴(こうさい)で子路の斡旋で大夫(たいふ)となっていた正直だが小心者である。

その高柴(こうさい)が叫んだ。 
「もう城の内門は閉まっていますよ」 「いやとにかく、いくだけいってみよう」
「「無駄だと思いますなあ。いや、それどころか、かえって難に遭うことになりますぜ」

これをきいて、子路が声を荒げた。

「高柴(こうさい)!貴様も孔家の禄を喰(は)む身ではないか。
何のために難を避けるのか。それでも大丈夫(おとこ)か」

必死にひきとめる高柴をふりっきって内門へとび込むと、はたして、若い孔悝(こうかい)が謀叛を起こした母と叔父とに抑えられ、露台へひき出されて「政変の宣言」をするよう脅迫されている最中だった。

群集の背後(うしろ)に立った子路は、露台にむかって叫んだ。
「孔悝(こうかい)を捕えて何になるか!孔悝(こうかい)を離せ。孔悝(こうかい)一人を殺したとて正義はは亡びぬぞ!」

あわてふためいた露台の上の簒奪者(さんだつしゃ)たちは、剣士に命じて子路を討たしめた。
往年の勇者、子路は激しく斬りむすぶが年齢には勝てない。ついにここで斬り死してしまう。

はるか魯の国にあって、衛の叛乱をきいた孔子は沈痛な面持でつぶやいた。
「高柴(こうさい)は生きて帰ってくるが子路は死ぬであろう」

そして、その言の如くなったのを知らされた時、
「老賢人、佇立瞑目(ちょうりつめいもく)スルコト暫(しば)シ、ヤガテ潸然(さんぜん)トシテ涙下ル」とある。
また、「子路の屍が醢(しおびしお)にされた」と聞くや、家中の塩漬(しおづけ)の類(たぐい)を悉く捨てさせ、以後は一切、食膳(しょくぜん)にのぼせなかったという。

この子路の死は、孔子にとって最後の痛烈な打撃となった。
その翌年、孔子は波乱多き生涯の幕を閉じている。

今回は以上です。

子路の人物像が上記の文章からうかがえますね、現代においても見られるタイプかも知れませんが最近はあまり聞かなくなった次の言葉を思い出しました。

「義を見てせざるは勇無きなり」

意味は既によくご存知のことと思いますが、人として行うべき正義と知りながらそれをしないことは、勇気が無いのと同じということで孔子の言葉で、『論語・為政』にあります。

「其の鬼に非ずして之を祭るは諂うなり。義を見て為さざるは勇無きなり(自分の祖先ではない霊を祭るのは諂うことである。人としてなすべきものだと知りながら、それをしないことは勇気が無いからだ)」
「義」は儒教の五常(義・仁・礼・智・信)の一つで、筋道の通った正しい行いを指します。

孔子が論語の中で子路をして語らしめたものかも知れませんね。


2014年12月11日
孔子と子路
近ごろは師弟という言葉をほとんど聞かなくなりましたが、今回は伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から孔子と、その弟子である子路について紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

中国の古典にも「人相」に関するエピソードがあちこちに出てくる。
一例をあげれば『論語』にでてくる孔子と子路である。

子路というのは孔子の弟子のなかでも一種特別な人物で、元来は遊侠の徒だったのが、発心して孔子の弟子になったのである。
遊侠あがりだけに一筋に孔子を思いつめ、道を歩いていて、師の悪口がちょっとでも耳に入ろうものなら、いきなり、そいつの面を張りとばしたために、しまいには子路の姿を遠くからみただけで人々は口をつぐんでしまった。

もちろん、孔子は、そういう子路を度々たしなめたが、いっこうに改めようとせず、一年もたつと、さすがの孔子も苦笑しながらこういった。
「子路の奴が、わしの門に入ってからというもの、わしの悪口が全然、聞こえなくなってしまったわい」

また、戦争の嫌いな孔子にむかって「もし、先生が遠征軍の総司令官になられたら、誰を参謀になさいますか」と尋ね、
「とにかく、君には頼まないよ」と叱られたのもこの弟子なら、孔子が陳の国へ行く途中、兵乱にあって困窮した時、
「道を行う君子でも困窮することがあるのですか。これじゃ、お天道さまの是非が疑われます」

とくってかかって、孔子に
「窮スルトハ道ニ窮スルノ謂(いい)ニアラズヤ。
今、丘(きゅう)<孔子のこと>、仁義ノ道ヲ説キ、乱世ノ暴ニ遭ウ。
何ゾ、窮ストナサンヤ。
モシソレ、食足ラズ、体瘁(つか)ルルヲモッテ窮ストナサバ、君子、固(もと)ヨリ窮ス。
但(ただ)、小人ハ窮スレバココニ濫ル」

<小人は窮すると自暴自棄に陥って、いい加減なことをやるが、君子は泰然自若として己を失わない。
そこが違うだけだ>と諄々(じゅんじゅん)とさとされたのも子路である。

とにかく、弟子のうちで子路ほど孔子に叱られた者はいないし、また、子路ほど遠慮会釈なく師に反問した者もいない。
それでいながら、孔子はこのとっぴなやんちゃ坊主がかわいくて仕様がなかったらしい。

ある時、挫折感に打ちひしがれた孔子は
「道行ナワレズ。桴(いかだ)ニ乗リテ海ニ浮(う)カバン。我ニ従ワン者ハ、ソレ由カ」
<世の中に失望して、わしが海へ出る時には、子路よ、お前はついてきてくれるだろうな>とまでいっている。

しかし、こんな一節もある。
閔子(びんし)ハ側ニ侍シテァ々如(ぎんぎんじょ)タリ。子路ハ行々如(こうこうじょ)タリ。冉有(ぜんゆう)ト子貢(しこう)ハ侃々如(かんかんじょ)タリ。子、楽シム。由<子路>ハ、ソノ死ヲ得ザルガゴトク然リ。

閔(びん)先生は師のお傍で和やかに談笑しておられ、子路は屈たくなげに眼を細め、冉有や子貢は弁舌さわやかに意見をたたかわせている。
それぞれに個性を発揮する弟子たちを孔子は楽しげに見わたしている。
「だが、子路よ、お前だけは畳の上では死ねそうもない」と孔子がいった。

いかにも突飛な発言のようにみえるが、絶対に信頼を置きあった人間と人間との間にかわされる口調がこのやりとりに滲みでている。


今回は以上です。

師は求める者であり与えられる者ではないとすれば子路にとっては、まさに孔子は求めるべくして巡り会った師であっただけに孔子を思う気持ちと子路の侠気に少なからぬ危うさを孔子は感じ取っていたのかも知れませんね。
この続きが気になるところですが、次回をお待ちください。



2014年12月04日
面に見(あらわ)れ、背(はい)に盎(あふ)る
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より人相ということから、うしろ姿というものを前回は紹介しましたが、今回も後姿として背中の持つ力について紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「社長」というのはPresident である。
読んで字の如く「人前に」<Prae>「坐っている」<Sedeo>人である。

皆が彼のあとをついてくる。
だから、皆は彼を頼りにすることができるが、彼自身は何処にむかって進むかを自分自身で決めねばならない。
皆は彼の後姿を見ているが、彼は誰の後姿もみることはできない。
そして、皆をリードするには後姿をもってするより他はない。

孟子にも「面に見(あらわ)れ、背(はい)に盎(あふ)る」とある。

人間は面よりも背のほうが大事だ。
徳や力というものは、まず面に現われるが、それが背中つまり後姿、肩や背に盎(あふ)れるようになってこそホンモノである。
「俗に後光がさす」というが、前光よりも後光である。

経済学者の難波田春男が面白い述懐をしている。

「親鸞(しんらん)<鎌倉前期の僧、浄土真宗の開山。『教行信証(きょうぎょうしんしょう)の著作や、その弟子唯円(ゆいえん)によって編集された『歎異抄(たんにしょう)がある>
は『弟子ひとり持たず候』といって、必死になって仏を念じた。

その後姿に惹(ひ)かれて、かえって大ぜいの門弟ができた。
私も、ひとつ、その真似をしようと思って、そうしたわけではない。
むしろ、反対に<これではいけないな>と思いながら、人のことに構っておられなくて、一所懸命頑張り、頑張ってきたあとをふり返って、ひとり言をいっていただけである。

であるのに、『私の弟子である』といってくれる人たちが、次第に多きを加えてきたようである。
倖せなことである」


今回は以上です

私も社会に出て現場の仕事で右往左往していた時に、お世話になった人は小柄で決して偉丈夫という人ではありませんでしたが後姿が何とも頼もしく大きく感じた当時のことが思い出され後姿の持つ迫力のようなものは何となく分かるつもりですが、それにしても後姿が語るものは後ろ向きになった気持ちを前に向かせてくれますね