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2014年11月27日
うしろ姿
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を<人相は自らつくるもの>ということで紹介して来ましたが、今回はうしろ姿ということについて見ていきます。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

ところが「人相よりも後姿のほうがごまかしがきかない」というのは名古屋のスギー株式会社社長の小杉仁造男である。

「人間も真正面から見つめられると即応的に身構えるから、わりかしごまかしがきく。
だが、うしろ姿だけは、どうやってみても、のっぴきならぬものがでる。
特に首のうしろの肉がげっそりと削ぐように落ちたのは、もう影がうすいといってもいいだろう」

たとえ、どんなに若造りしていても、人はそのうしろ姿から年齢をかくすことはできない。
おのずと、その過ごしてきた職業の特徴をそれぞれの年輪にしたがって、うしろ姿に滲(にじ)ませ、これがまた味わい深い観ものともなるのである。

だから、少女のころから老人になるまで名優で鳴らした田中絹代なども

「映画の演技のなかで、一番むつかしくて、また味があるのは、カメラに背中をむけての芝居です。
それがうまくできたら、俳優も一人前といえましょう。
たまたま、私は、はじめのころから背中ばかり撮られていましたので、カメラが何処からきても動じない心構えだけは早くから身につきました」

と書き遺している。


以上です

うしろ姿ということで今回は次回と2回に分けて紹介することにしました。

人相よりもうしろ姿、とは言われてみれば確かになるほどと思いますね。
うしろ姿、ということで思い浮かぶのは映画のラストシーンですが先日亡くなられた高倉健さんの映画「幸せの黄色いハンカチ」でのシーンが思い出されます。

上記にもありますように、年輪を経た人の背中は男であろうと女であろうと自ずと人生を物語っているのでしょうね。




2014年11月20日
人相は自らつくるもの 小泉信三
顔というのは己の心の内を映しだす鏡とも言うべきものでは、ということから「人相は自らつくるべきもの」ということで前回に続いて伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

もう一つ、今は亡き小泉信三<経済学者。東宮教育参与として皇太子の教育に尽瘁(じんすい)した>の「顔」について書いた学友、高橋誠一郎の随筆を紹介したい。

大火傷(おおやけど)前の小泉君が、たぐい稀(まれ)な美男子であったことは、ここにいうまでもない。
それだけに、君の顔面の大火傷は、いっそう痛ましかった。
負傷後の君の顔を初めて見たときは胸迫る思いがした。
しかし、君の容貌は、慶応病院形成外科の力によって、しだいに醜さを失った。
いや、見様によっては、昔の奇麗さは永久に消えてしまったが、立派さは以前に増すものがあるようになった。

私は、ある時、こんなことを小泉君にいった。

「ボクは若いころの君の顔を実に美しいと見た。しかし、世の中が戦時色を帯びるようになると、精神的動揺によってか、栄養不足のためか、君の頬の筋肉がだんだん垂れさがってくるのを感じた。
あえて、老醜というところまではいくまいが、とにかく、君の秀麗な容貌は危機に際会していると思った。
ところが、今度の災難で君の顔は鏝(こて)でもかけたように、再び、ぱっちりと張りきって立派さをとりもどした。
かえっていい顔になった」

小泉君は、ただ「ウン」とだけいった。
しかし、その無表情な顔に、いささか得意の色がうかんだような気がした。

小泉君は退院後も、しばしば病院通いをしたらしい。
「まだ傷がなおりきらぬのか」と訊くと、「いや、お化粧をしてもらいにいくのだ」と答えた。

小泉君は画家や彫刻家のように形成外科の医師を助手に使い、自分の皮膚や筋肉や血液を材料んび使って、立派な自分の顔の理想像をつくり上げようと努めたのであろう。
そして、内から外から、どうやら責任をもつことのできる自分の顔をつくり出したとき、一時は人前に顔を出すことを嫌がっていると噂された小泉君は、どんな会合にも欣(よろこ)んで出席し、杖こそついていたが、大股にノッシノッシと歩を進めたのである。

神の与えた一つの顔は消えて、自分みずからが造りあげた今一つの顔が残ったのだ。
そして、「人間、生まれたままの顔で死ぬのは恥ずべきことだ」といった森鴎外流の言葉でいえば、君は生まれながらの顔で死ぬ恥を免(まぬが)れたのである。


以上です。

小泉信三氏と言えば明仁皇太子(後の今上天皇)の教育参与として、ご存知の方もおられると思います。
1945(昭和20)年の東京大空襲で焼夷弾により顔面に火傷を負ったことについてのことですが、火傷の傷を治すということから新たな顔につくり上げるという考え方は当に「人相は自らつくり上げるもの」という言葉そのものですね。



2014年11月13日
「人相は自らつくるもの」 
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介しています。

前回は伊藤肇がインタビューに行った日本揮発油油鈴木社長から待たされた二分間についてを取り上げましたがでしたが今回は「人相は自らつくるもの」ということで前回の続きで紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

この鈴木よりも、もう一歩進んでいるのは「世界のブック・ストア」丸善相談役の司忠である。
司は出勤前に必ず鏡の前に起って、自分の顔をうつす。
じっと眺めていて、我ながら<陰悪な相だな>と思った時には、一所懸命、顔の筋肉をゆるめて柔和な表情にする。
「人相は自らつくるもの」というのが司の信念だからだ。

司の六十年間の経験によれば

「人相というものは朝と晩とでかわる。自分の心の状態を恐ろしいほど敏感にうつし出す。
だから、人相は始終かわる。たとえば、極めて不運な人相をしている人が社会へ出て永久にそのままかというと、決してそうではない。自分の心がけ一つで、自らの相をなおして開運することができる。
今の若い人たちは一笑に付すかもしれないがこれは本当だ。

もし、嘘だと思うなら早速、明日から鏡に写る自分と対話をはじめてみるといい。
それはやがて、自分の心との対決であることに気がつくだろう。
私は、この鏡と自分との対決を六十年余年間、一日として欠かしたことはない。
それでもまだ、修業が足りないから、高僧のような風貌には達していないが、少なくとも前日の不快をもち越すようなことは絶対にない、と断言できる。

また、人と折衝したり、人に注意を与える場合なども、まず鏡に向って自分の相を整えるがよい。
鏡は常に無言だが、人の心を赤裸々に写し出してくれる」
という。
たしかに司は「風雪に耐えぬいてきた顔」の魅力をもっている。

こんな逸話はどうか。
白隠禅師の師僧だった正受老人のもとへ、ある修業僧が自作の仏像をもってきて、開眼(かいげん)を頼んだ。

当時は、仏法がさかんで僧侶の中にも仏像彫刻を自慢にする連中がやたらに多く、開眼を頼みにきた坊主もまさしくその一人だったが、正受老人はしみじみとその顔を眺めてポツリと一言いった

「仏像を彫るよりもなあ、お前の面を、も少し何とかせんかい」
骨身にこたえる言葉ではないか。


今回は以上です。

「鏡を見て自然な笑顔を心がけるように」とは私も若い頃よく言われました。

そこで鏡を見て笑顔をつくってみると何やら不自然なつくり笑顔になってしまい、うまく出来ませんでしたが、その後営業の仕事をするようになり、とっつき難い顔では相手と話すことも出来ず毎日営業の現場で頭を打ちながら何とかつくり笑いから少しはマシな笑顔の自信はありますが、しかし、世の中には魅力的な笑顔で人を惹きつける人もいるものでここで言われているような毎日鏡との対話をして来た人かも知れませんね。

笑顔で思い出しましたが私の若い頃はニコポン社長という言葉をよく聞き実際に見て来ましたが今では聞かなくなって久しいですがニコポンもある意味で効果があったようにも思います。


2014年11月06日
二分間
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を前回に続いて紹介していきます。
前回は北宋の詩人、黄山谷の言葉を紹介しましたが、今回はその具体的な例え話から続けます。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

例えば、金は掃いて捨てるほどもっているが、何とかして、それ以上に貯めたい。
ごまかしてでも金儲けをしたい、と朝から晩まで考えている人間は、たしかにそのことが顔つきにまであらわれてくる。

第一、眼に落ち着きがなく、瞳に冷酷な光が宿り、雰囲気に和やかさがなく、誰もがそこへよりつかなくなる。
そんな主人をもつ家庭はひんやりと冷たい。
初めて訪問した家の玄関に立った途端に<嫌な家だな>と感ずることがある。
「和気藹々(わきあいあい)」とか「和気満堂(わきまんどう)」という雰囲気が全くないのだ。
そういうところの主人は、大体、人相もよろしくない。

確かに黄山谷の指摘する如く、本を読んで考えた人間と全く読書の習慣のない者とでは明らかに顔がちがう。

小泉信三は「読書家が精神を集中して細字をみることが、その眼に特殊の光を生ぜしめ、これが読書家の顔をつくるのだ」といったが、あるいはそうかもしれない。
しかし、眼光だけに限らない。

偉大なる作家、思想家の大著を潜心(せんしん)、熟読玩味することは、人をして別人たらしめる。
それが人相にあらわれないわけがない。
小島直記は「文字で心を洗い、心のノミで顔を彫る」とよく書くが、その文字とは『論語』であり『孟子』であり『言志四録』であり、人生の原理原則を記した古典類である。

この反対に下品で空疎なポルノ週刊誌ばかり読んでいると、人格も自ら低劣となり、顔も卑しくなってくる。

人相は自らつくるもの

日本揮発油社長の鈴木義雄にインタビューのため、定刻かっきりにいったら、秘書の女の子がでてきて「すみませんが、二分間だけお待ち下さい」といった。
社長族の仕事が分刻みであることくらいはしっていたが、<それにしても恐ろしく几帳面な会社だなあ>と、やや皮肉な気持ちで時計を眺めていたら、本当に二分かっきりに鈴木があらわれた。

そこで、インタビューのきっかけに「私がお待ちしていた二分間に社長はどんな仕事をされたのですか?」
と少々意地の悪い質問をぶつけてみた。

「実はあなたがこられる前に、経営上の問題で、ある部長と大激論をたたかわせていたのです。
当然、嶮しい顔をしてやっていたでしょうから、その表情を残したままで、あなたに会うのは失礼だと思い、秘書に二分だけ暇をくれ、といったのです」
そして、その二分間に「姿見の前に立って、顔かたちを整えた」という。

自分で自分の顔つきをちゃんと知っていることは、自分自身を知るのと同じくらいに難しいだろう。
さすがなものだ、とひどく心を打たれた。


以上です。

掃いて捨てるほど金を持ってみたい気もしますが、逆に言えば与えられたものが和気ということなのかもしれません。
私も経験したことですが訪問した立派な家の玄関で何となく冷たい雰囲気を感じたこともあり、家はそんなに立派なものでなくても暖かみを感じたこともありますが、冷酷な感じというのは顔つきに出るものですね。

今回はタイトルにもありますように自分で自分の顔つきを整えるということは私もよく言われたものですが実際は分かっていても、なかなか出来るものでないだけに、このお話にに出てくる二分間に対する伊藤肇の質問と鈴木社長の答えが見事に噛み合っているのに感心させられました。