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2014年08月27日
言葉の意味 なるほどね
言葉の意味ということで前回に続いて普段からよく使われている割にはあまりよく知られていない言葉を取り上げます。

今回もわかっている積もりの言葉として「あくせく」とは、どういう意味なのかを取り上げました。

「あくせく働く」「あくせくしながら」や「あくせくしたって」「あくせくしないで」と言う場合に使うことが多いように思いますが、「あくせく」とは、どんな意味があるのでしょう。

調べてみますと漢字で書くと「齷齪」、何か難しい漢字ですが、もとは「あくさく」と読み、上の歯と下の歯がよく噛み合って、すきまがほとんどないことから休みがほとんどない働きぶりにたとえるようになりました。

「あくせく」と入力して漢字変換すると齷齪と表示されますので漢字は分かりますが、こういうこととは知りませんでした。
「あくせく」って言葉の語感も何か急き立てられるようにも感じますね。

また「にべもない」という言葉の「にべ」とは何でしょう?

そっけない、愛想もないようすを「にべもない」といいますが、この「にべ」とは何のこと?

(答え) ニベ科の海魚の浮き袋を原料にする膠(にかわ)。
粘着力が強いが、その粘着力がないという意味で、「にべもない」という。

なるほどね、言葉って結構面白いですね。



2014年08月21日
言葉の意味?
伊藤肇による「伝説の怪物相場師の痛烈な人生」も前回で終わり次は同じく伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を予定していますが、一段落して直ぐに書こうという気にもならないもので暫くは気楽なものをと思うものの何を書くかとなると難しいものがありついつい更新が延びてしまいました。

そこで、こんなのは如何でしょう?

普段何気なく使っている言葉ですが改めて考えると分かっているつもりになっているものがあるのではないでしょうか。
例えば次の言葉は結構よく使われていると思いますが改めて問われると直ぐに答えられないものではないでしょうか。

「あくまでも」って、どういうあくま?

もちろん悪魔ではなく「飽くまでも」。
つまり、もともとは「飽きるまで十分に」という意味で、転じて「思う存分、徹底的に」という意味になりました。

それでは次にこんなのはどうでしょうか。

「玄人はだし」のはだしとは?

素人なのに本職顔負けの技芸をそなえた人のことを、よく「玄人(くろうと)はだし」と呼びますが、なぜ「はだし」なの?

(答え) もちろん「裸足」のことであり、素人の腕があまりに素晴らしいので、それを見た本職が恥ずかしくなって、履物もはかずにあわてて逃げ出したという意味。

こうして見て来ると成程と納得しましたが、「あくまでも」なんて私もよく使っていたのに「飽くまでも」という漢字は思いつきませんでした。

次回もこういうことで暫くつづけていくことにしています。





2014年08月12日
棺を覆うて後も定まらず
いよいよ怪物相場師の人生を終盤となりましたが近藤のライバルだった奥村綱雄氏と比べて近藤信男の最期はどうだったのか、を相場師列伝より前回の続きとして紹介いたします。

以下、相場師列伝から伊藤肇による「伝説の怪物相場師の痛烈な人生」より

この奥村にくらべて近藤はどうだったか。
あくの強い人間ほど子どもをかわいがるという。
あくの強い人間は自己愛が強烈だから、その自己愛の変形として子を溺愛するのであろう。
近藤信男は猛獣だった。 相場の世界の一匹狼だった。

この猛獣は、死を自覚したとき、自分の経験のすべてを、伜の禎男にたたき込もうとした。
毎日、病院の枕もとへよびつけて、相場の実地教育をしようとしたが、既にその時には声が出なかった。
いらいらしながら、サインペンをもたせてもらい、紙の上に字を書こうとするが、いたずらにみみずのような線が走るだけのことだった。

たまりかねた禎男が、「お父さん、こういうことですか」と、近藤がいわんとしていることを大声でいうと、意にかなったときは、かすかな笑をうかべてうなずき、違っていると、禎男の頬をつねった。
元気なときなら、「バカヤロー」の一つもいって、平手打ちをくらわせるところだろうが、たたく力などはもうない。
つねるといっても、やっとの思いで爪をたてる程度だった。

そんなことを繰り返しているうちに音もなく死が訪れた。
一世を風靡し、アッチラ大王の如く暴れまくった怪物相場師の最期にしては、あっけないほどだった。

ただ、いかなる人間も「棺を覆うて後定まる」といわれているのに、近藤だけは棺を覆うて後も、なお、毀誉褒貶がついてまわる。
そこらあたりが、怪物相場師の怪物相場師たる所以(ゆえん)であろうが、近藤の死をみつめつつ、ふと三人の作家の死にざまを思いだした。

高見順は食道癌だった。
まだ二十年も残っている自分の人生にしがみつくようにして、詩集『死の淵より』を書きのこして逝った。

外村繁は上顎癌だった。
冷静に、自分の最期を刻一刻、見定めつつ、癌に冒されてゆく自分を『落日の光景』という作品に書き残してから粛然と死を迎えた。

中山義秀は、四年間、癌と闘いながら、そういう自分について何も書いていない。
ただ、ひたすらに『芭蕉庵桃青』を書きつづけた。
それを書くことだけが、中山の最期の人生だった。

このうちでは中山義秀が最も近藤に近い死にざまである。
近藤もまた相場に生きて、相場に死ぬことだけが彼の人生だったからだ。

近藤信男にしろ、奥村綱雄にしろ、よもや、そのまま、すっきりと極楽へいけようとは思えないが、冥土の何処かで二人が顔をあわせたとしたら、一体、どんな会話をかわすことだろう。


以上です。

棺を覆うて後も定まらず、とは、普通の評価基準では捉え難い人物だったと言えるのかも知れませんね。
よく毀誉褒貶相半ばする、と言われますが近藤信男の場合は毀・貶と誉・褒がかけ離れた評価をされているところが、怪物相場師たる所以といったところでしょうか。

怪物の定義について、以前にも触れましたが大宅壮一氏によれば

「複雑怪奇で割りきることのできないばかりでなく、分母も分子大きくなければいけない。 具体的にいうと、行動半径が大きくて、振幅が広いことを必要とする。
また、心の中の奥の院は他人には絶対のぞかせないし、のぞいてもわからない。 
いわば多次元の世界に住む人間である」

とされていますが近藤信男氏はこの定義にあてはまる人物だったのではないでしょうか、それにしても伊藤肇は近藤信男と奥村綱雄の二人を引き合わせたかったようですね。

今回で相場師列伝は区切りといたします。



2014年08月06日
近藤信男のライバル 奥村綱雄
今回は相場師として四大証券を相手に売りに回って当時、野村証券会長だった奥村綱雄を泣かせソニー売りでは逆に完敗を喫した近藤信男のライバルでもあった奥村綱雄について、相場師列伝から紹介いたします。

以下、相場師列伝から伊藤肇による「伝説の怪物相場師の痛烈な人生」より

近藤信男のライヴァルだった野村証券前会長の奥村綱雄も、近藤信男と69歳で、この世を去っている。
奇しき一致というべきか、あるいは六九歳というのが、人生の峠で、なかなかこれを越すことがむずかしいのかもしれない。
しかし、考えようによっては六九歳という年は、最も惜しまれて逝ける年ではないのか。

「命ながければ恥多し」とか、「死すべきときに死なざれば、死するにまさる恥辱あり」といわれる。
そのギリギリのところが六九歳といってもいい。

奥村綱雄がなくなる三ヵ月前、熱海の別荘へよばれた。
食道癌であることは既に知っていたから、〈これが今生の別れになるだろう〉と思っていた。
山海の珍味を味わった後、庭ごしにくれなずむ海を眺めながら、コーヒーを楽しんだ。

奥村はタバコのつめていないパイプをくわえながら、「いつも、こうして海に沈む夕陽を見とるんじゃ。夕陽の美しさにひかれるようになるのは‥‥」
そして、しばし、言葉をとぎらせると、「七〇の坂を越すのはしんどいもんじゃでえ」と、ポツリと一言つけ加えた。

その語調には、〈まだまだ、俺はやらねばならぬ仕事が沢山あるのに、七〇の坂道にかかって息がきれる。情けねえなあ〉という無量の思いがこめられていた。

しかし、反面、奥村の随筆集『わが半生伝』(読売新聞社)のなかでは、宇野千代の一文を引用し、

「祖母は一〇〇歳になっても、まださきのプランがいっぱいあった。 これが祖母の命をささえた。
この死は秋になって、木の葉が落ちるように、ある日、ことりと、何の前触れもなく、自然に来た。
悲しみではない。ある感動を与える死であった」

と書いているから〈七〇の坂を越せねば、それはそれで仕様がない。適当にピリオドを打つさ〉という一種の諦観もあったに違いない。
再入院して、急性肺炎で逝ったときには、実に穏やかな顔だった。


以上です。

怪物相場師と言われた近藤信男と野村証券中興の祖と言われた奥村綱雄が同じ六九歳で死を迎えたのは、ライバルと言う以上にヒョットしたらお互いに波長が合うところがあったのかも知れませんが、海に沈む夕陽を見ながら、その胸に去来するものは何だったのでしょう。

「祖母は一〇〇歳になっても、まださきのプランがいっぱいあった。これが祖母の命をささえた‥‥」という一節は、まさに人が生きるということを意味しているのではないでしょうか。





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