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2014年03月25日
売りで完敗
怪物相場師として近藤信男が昭和38年のケネディ・ショックを契機とした暴落で、野村証券など四大証券を向こうに回して売り向かって成功したことは前回に紹介しましたが完敗したケースについても紹介いたします。

以下、相場師列伝から伊藤肇による「伝説の怪物相場師の痛烈な人生」より

ひと戦争が終わったころ、たまたま、奥村綱雄と東京は神田の「天政」でのみながら、近藤は黙って、話に耳を傾けながら、あちこちから断片的に集まってきた情報を頭のなかで分析整理して、眼にみえるデータの隙間隙間にはめ込み、表も裏もぴたりとあった真相を浮き彫りにする操作を繰り返しているのだ。

兜町を沸きたたせたソニーの売りも、その作業を何回となく、反復した上での結論だった。
ソニーはかつて、近藤に煮え湯をのまされた野村証券が買い向かった。
宿怨が絡んでいるだけに、息づまる場面の連続だったが、結果は、近藤紡の完敗に終わった。

90億円の打撃で、ウォール街でも、歴史始まって以来の損害ベスト・テンの第3位にはいった。
当然、噂が噂を生んだ。
「さすがの近藤紡もふっとんでしまった」とか、「さすがの近藤将軍、今度は野村に息の根をとめられた」など、
ついには近藤信男蒸発説までが、まことしやかに伝えられた。

もともと、この種の噂は、面白おかしくでっちあげられるから、あとを追っていったらキリがない。
近藤の耳にも二、三ははいってきたことだろう。

誰しも、そんなことを聞いて愉快になる奴は、ひとりもいないが、近藤は歯牙にもかけぬ態度で、持株を売り払うなり、住友銀行会長の堀田庄三のところへのり込み、「やあ、ちょっと失敗しまして」と腕白小僧がいたずらを見つけられた格好で禿げ頭をかいて、金を借り、90億円の大穴を埋めてしまった。

「近藤のおやじに会ってみますか」と奥村に聞いたら、一膝のりだしたが、しばらく考えてから、「うーん。やっぱり、やめとくよ」といった。

奥村も女好きなら、近藤も負けず劣らずだから、二人で相場の話はぬきにして、女性論でもたたかわせたら面白かったろうに、と悔やまれてならない。


以上です。

相場師と言えども人生、晴れる日もあれば曇る日雨に降られる日もあるのは当然なことかも知れませんが、しかし、それだけに歯牙にもかけぬ態度には悔しさを押し殺していたものがあったのかも知れません。
それにしても伊藤肇が近藤信男、奥村綱雄という人間に惚れ込んでいればこその筆致が面白いところですね。

次回は相場のことは少し脇に置いて近藤と奥村の哲学と言っても女好きの哲学を紹介いたします。





2014年03月18日
泣いたら負け
相場師、近藤信男の生き方を相場師列伝から紹介していますが今回は大証券を相手に売って売りまくった際の「泣いたら負け」という話です。

以下、相場師列伝から伊藤肇による「伝説の怪物相場師の痛烈な人生」より

相場は非情である。
一方で、巨億の富をつくった人間がおれば、一方では、すってんてんとなって、陋巷(ろうこう)に窮死する奴もいるのだ。
しかも、陋巷に窮死したとて、誰も同情などはしない。
この世界では、勝った者が常に正義であり、負けた側は悪のレッテルを貼られる。

昭和38年7月のケネディ・ショックを契機として、兜町は一直線に恐慌相場へつっ走った。
玄人は売りで儲ける。
近藤信男は、この暴落に拍車をかけるように売って、売って、売りまくった。

四大証券は結束して買いささえたが、時の勢いというものは、どうにも仕様がない。
ダウ平均は40年7月まで、まる2年間、下げに下げて、ついに1600円台から1020円まで転落した。

そのころ、野村証券会長だった奥村綱雄(故人)が近藤と親しいある政治家に、ぼやくというより、むしろ悲鳴に近い訴えかたをした。

「近藤紡に持株があるのか、あるいは完全な売り投機なのか、さっぱりわからんが、官民一体となって、暴落対策に腐心している最中に、こんなメタメタの大量売りを浴びせかけるのは、首吊りの足をひっぱるようなもんや。
いくら、相場師でも経済道義ということを少しは考えてくれんとなあ」

それを伝えきいた近藤は、せせら笑いながらいった。

「盗っ人たけだけしいとはこのことだ。
奥村は正義の味方みたいなことをいっているが、いつも首吊りの足をひっぱるのは野村証券ではないか。
たとえば、他の証券会社が投信の組み入れをやるときに、きまってその銘柄を売り浴びせるのは野村証券だ」

この喧嘩は、泣いたほうが負けである。
常時、相場師と株価評論との二足のワラジをはいている、これもゲテ者の曾根啓介が次のような判定を下していた。

「近藤紡売りを一部の新聞や雑誌は、目のカタキのような書きかたをします。
しかし、誰が何といおうと、また、相場のためによかろうと悪かろうと、このおじさんは、株の方法では「売り」に力を入れ、その方法を少しも変えようとはしません。
たまたま、相場の大勢が近藤紡に味方していますので、四大証券も、個々の銘柄に関する限りの関係では、個人の投資家の力に押しつぶされている格好です。」(38・12・26 『週刊現代』)


今回は以上です。

相場というものが持つ本性をよく表しているのが、今回紹介した部分で何よりも結果が全ての世界であれば言い訳は通用しないだけに泣いたら負けと言うことに尽きるのではないでしょうか。
相場という世界は巨利を得ることもあれば、全てを失うこともある中で相場師とは勝負師そのものでもあるのでしょうね。




2014年03月11日
窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず
後に怪物相場師と言われた近藤信男は親爺が残した会社と一銭銅貨が通用する時代の負債900万円を返済するために不肖の二代目から一転して工場で綿ぼこりにまみれつつ陣頭指揮をとりながら叔父の店に通い商品相場を徹底的に研究していましたが、さてその後はどうなったのでしょうか。

今回は伝説の相場師前半のハイライトを日本相場師列伝から伊藤肇による「伝説の怪物相場師の痛烈な人生」を紹介いたします。

以下、日本相場師列伝から伊藤肇による「伝説の怪物相場師の痛烈な人生」より

たまたま、不況のドン底にあった日本経済も、高橋是清が大蔵大臣になると同時に積極策に転じ、絶望視されていた輸出ものびはじめた。
近藤がそれを肌で感じとっていた時も時、相場の師匠である叔父の永岡弥兵衛が罫線を睨みながら、「どうやら、ニューヨーク綿花は荒れ模様だぞ」といったことから、「よし、買い出動だ」と踏みきった。

典型的な底入れ罫線と見てとったのだ。
しかし1ヵ月たっても、値動きはあまりなく、現物は低迷していた。
手持ちの玉は加速度的にふえていく。
綿花の収穫期が近づいてきた。 大豊作は大暴落に通ずる。

一つ間違えば、近藤紡は跡かたもなく、ふっとんでしまうし、近藤信男自身もぽしゃってしまう。
周囲は、かなりはらはらして、大損を蒙らぬうちに手仕舞うことをすすめる向きもあったが、本人は頑として受けつけなかった。

それはそのはずである。
サーカスの綱わたりにしたって、見物は「いま、落ちるか、いま落ちはしないか」と手に汗を握って観ている。
ところが綱をわたっている人間のほうは、落ちるなどということは、毛頭、考えていない。
本人が〈落ちるかもしれない〉と迷ったが最後、本当に足を踏みはずすのだ。

強気一点張りの近藤に、ふってわいたような僥倖(ぎょうこう)が舞い込んだ。
アメリカの綿花地帯を貫流しているミシシッピーが氾濫したのだ。
収穫期前後だけに壊滅的打撃である。

ニューヨーク綿花相場は一挙に9セント50にまではね上げた。
間髪を入れず、玉を整理した近藤は、トランクに現ナマをつめると、のっそりと住友銀行名古屋支店に現われ、900万円の借金をきれいに片づけてしまった。 時に28歳の若さだった。

この場面は、よほど痛快だったとみえて、晩年、よく話をした。
「親爺の残した会社が潰れるからといって、そこから逃げ出したとあっちゃ、そんな自分に自分自身が我慢ならないんだ。
人間、平常は多少のチャランポランはいい。

しかしある瞬間、己を賭けなければならないときには、トコトン、自分自身を投げ出し、そこから活路を求める以外に手はない。
死中、活あり、とか、窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず、というやつだよ」


今回は以上です。

運が強いと言うか、それ以上に不肖の二代目から一転して己を賭けた再建に取り組む中で自ずと体得したものがあるとすれば、それこそが「死中、活あり」であり「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」だったのでしょう。
綱渡りの例えが今回の内容を象徴しているように感じましたが、皆さんはどのように受けとめられたでしょうか。





2014年03月04日
不肖の二代目から一転して
怪物相場師、近藤信男について日本相場師列伝の中から伊藤肇による近藤信男の伝記を紹介していますが今回は近藤が相場の世界に本格的に関わるようになった経緯を前回に続き、日本相場師列伝から伊藤肇による「伝説の怪物相場師の痛烈な人生」を紹介いたします。

以下、日本相場師列伝から伊藤肇による「伝説の怪物相場師の痛烈な人生」より

昭和4年、父、繁八が急逝した。まだ50歳の働きざかりだった。
第一次大戦後の反動景気で世界的恐慌に見舞われ、暗く惨めな時代だった。

下宿屋はことごとくアパートに改築され、学生と妾と女給とが二階の窓から首をつきだして、ボンヤリ空を眺めながら、なげやりな声で流行歌を合唱している珍妙な風景がいたるところに見うけられた。
一日一日の享楽の対象を求めるよりほかには、何の感激もないような慌しい生活のなかで国民は無気味な焦燥にかりたてられていった。

この恐慌のさなか、「服部カネカの望遠鏡」と唄にまでいわれた分限者、服部兼三郎が悲痛な遺書を残して自殺した。

「皆が苦しい時に勝手な真似をして申しわけない。ただ、これ以上、わしがいることは会社の将来にとって決してプラスにはならない。だから、わしの死後は何もいらない。
私財の一切は会社に提供するから、これを整理に当ててほしい。
皆の手で一日も早くカネカの暖簾(のれん)が再興される日を待っている」

ほかに三輪支配人(常次郎、興服産業前社長、故人)あての手紙があり、それには
「個人名義で30万円の保険にはいっている。
もし、それがとれたら、社員の了解を得た上で、半分を家族にわたし、残り半分は会社で使ってほしい」

と認(したた)めてあった。

近藤の親爺、繁八も「名古屋綿糸布取引所」の初代理事長に就任したほどの実力者だったが、不況の波に抗しきれず、900万円の借財を残したまま倒れてしまった。
何しろ、一銭銅貨が通用するころの900万円だから、べらぼうな負債である。
時価換算すれば40億円とは下るまい。

メイン・バンクだった住友銀行も、慶応の落第坊主、近藤信男では、とても再建はおぼつかないと踏み、ひそかに内整理の準備をすすめた。
そんなこととは露しらぬ近藤は不肖の二代目から一転して工場へもぐり込み、綿ぼこりにまみれつつ、陣頭指揮をとる半面、叔父の永岡弥兵衛がやっている店へ足繁く通って商品相場を徹底的に研究していた。

紡績業は相場経営である。
原料の綿花をいかに安く買いつけるかで勝負がきまるのだ。


今回は以上です。

服部兼三郎という人は繊維業界で丁稚から一代でのし上がった事業家ですが豊田佐吉の理解者で支援者でもあり後にトヨタ自動車の社長となる石田退三も身を置いていた服部商店の社長で中京財界の実力者でありました。
さて近藤信男は親爺が残した会社と負債をどのようにしたのでしょうか、次回をお待ちください。