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2013年08月27日
今のままでは
ファンブログのコメント機能については、このブログで7月22日にコメント機能の一時停止について言及していることからすれば既に1ヵ月が経っていることになります。
この間、一時的なものなら早期に回復するだろうと期待して待っていましたが今日現在8月27日に至るも、コメント機能は回復せず、ファンブログ側からは何らの案内もありません

こういう現状では、伊藤肇「喜怒哀楽の人間学」についてのブログ記事を更新していくことには私自身気持ちの上で野晒し状態に記事を放置することになるという懸念からコメント機能の回復を待ってから更新することにしました。

コメント機能がどうしても回復しないようなら他のブログに移行することも決断しなければならないと思いますが、ここまで来たらファンブログ側の対応を見てみたいという気にもなった次第です。

次回からコメント機能がなくても差し支えがない記事にしていくこととしました。
この間の事情、ご賢察の程よろしくお願いいたします。


Posted by ゼットキ at 15:05 | この記事のURL
2013年08月19日
十八史略の登場人物
ファンブログのコメント機能の一時停止状態がまだ続いている状況で先日8月14日のメンテナンスに期待していましたが、どうなったのかファンブログの方からは何も案内がありません。

それにしても、いつ頃になればという時期的なメドくらいは示せるように思うのですが、本当にどうなっているのでしょうね。
試しに「ウンとかスーとでも言ってみろ」という気にもなります。

まぁー今回はこのくらいにして伊藤肇「喜怒哀楽の人間学」の続きを紹介していきます。
今のところは、まだ導入部分のようなところですが、これから面白くなっていきますので皆さんからのコメントがいただけたならコチラも更新する意欲も出て来るだけに何とか早くコメント機能を回復してもらいたいものです。

今回は鮎川義介が伊藤肇の挙げたツバイクや森鴎外に対して小説ではなく歴史的な事実を書いた「十八史略」を読んだらどうか、と言った続きになります。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

『十八史略』とは中国歴史の入門書である。
『史記』「漢書』『三国志』など、正史といわれる十八史のエキスをぬいて配列したもので、
太古伏羲(ふくぎ)氏から南宋の滅亡に至るまでの治乱興亡をうきぼりにしている。

多分、筆者が怪訝(けげん)な顔でもしたのだろう。鮎川がいった。

「君にきいても、無理だと思うが、『十八史略』の中に何人の人物が登場しているかわかるかネ」
もちろん、そんなことがわかるわけもないが、およその見当で「三千人くらいか」といったら

「ノー。4517人だ。しかも、その登場人物の性格が全部違うんだ。
したがって、これを徹底的に研究すれば、自ずから、人間学とか、人物学とかが身についてくるのだ」といい、さらに「『十八史略』というのは、そういうすばらしいものなんじゃが、読み方が大事なんだ。

つまり、古い暦でも繰るような調子でペラペラと読んだんじゃ、何のことか、さっぱりわからんだろうて。
ああいう本は『読書百遍、意自ら通ず』で、繰り返し、繰り返し読むことが大切なんだ。
読めば読むほど、味わいが出てくるし、人生が深くなる。

しかし、これは当り前なんじゃ、何しろ、無数の人間が気の遠くなるような長い時間をかけて織りなした壮大な社会劇が『十八史略』なんじゃからな」とつけ加えた。

早速、「善はいそげ」とばかりに、その足で神田の古本屋へとんでいった。


以上です。

十八史略というものは中国では昔は子どもの読む歴史読本という性格があったようですが、日本の明治期に高い評価を受けるようになりました。
確かにいろんな歴史書から抜き出したものかも知れませんが、治乱興亡の歴史舞台そして、そこへ登場する人物を見ていくことは、まさに「喜怒哀楽」に通じるものがあるのではないでしょうか。


2013年08月12日
とりあえず様子を見てから更新
このファンブログの更新は週1回のペースで更新していますが、アクセス機能がなくなりコメント機能も一時的にせよ停止状態では何かもう一つやる気が出ないのも、やむを得ないのが現状です。

アクセスについては「足あと」などを付け加えることでカバー出来る部分もありますが、やはり記事を見て読んでもらってコメントの交流があってこそブログ記事の更新をしようと言う気になるものです

コメント機能(現在時点だけでなく過去のコメントも含めて)が回復されないと「足あと」を付けてみても現状では効果が限定されるように思いコメント機能が回復して改めて足あと機能なども整えるつもりでいますので今は全く暗中模索の状態です。

リンクすればいいのは分かっていますが、ブログ記事を介しての交流を基本と考えていますので私のブログではコメントを通じてつながりを持てればと思っています、こういうことでコメント機能の回復を待っています。

コメント機能が回復になるのか、どうかは分かりませんが8月14日にファンブログの方でサービス安定のメンテナンスを行なうとのことなので今回は、いつもの記事の更新を延ばしてメンテナンス後の様子を見てから更新することにしました
コメント機能が回復し以前の様にサクサク動くファンブログになっていることを期待しています。



Posted by ゼットキ at 14:07 | この記事のURL
2013年08月05日
伊藤肇の答えと鮎川の反応
ファンブログのコメント機能に対する案内は、どうもファンブログユーザーに対する配慮が足りないように思われてなりません。

コメント機能はいつ頃になれば再開出来るのか、という時期的なメドについて案内すべきであり現在の様な「問題が解決すれば再開いたします」と言う文言では問題は解決出来るのか出来るとすれば大体いつ頃になるのかくらいは言及すべきではないでしょうか。

とりあえずファンブログと言うのであればファンを大事にして欲しいものです、と先ずは苦言を呈しましたが、本題に戻って鮎川のどんな本を読んでいるかという問いに対して伊藤肇はステファン・ツバイクに触れていますが前回の続きで伊藤肇「喜怒哀楽の人間学」を紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

一方、日本のものでは、森鴎外の『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』である。

(一部略)

もともと、鴎外は曖昧なものには一切満足できなかった。
文章の秘法を問われた際にも「一に明晰、二に明晰、三に明晰」と答えている。

(一部略)

自分はこのままで人生の下り坂を下って行く。
そして、その下り果てた所が死だといふことを知っている。
しかし、その死はこはくない。
人の説に、老年になるに従って増長するといふ「死の恐怖」が自分にはない。

若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に横たわってゐる謎を解きたいと痛切に感じたことがある。
その感じが次第に痛切でなくなった。 次第に薄らいだ。

解けずに横たわってゐる謎が見えないのではない。
見えている謎を解くべきものだと思わないのでもない。
それを解こうとしてあせらなくなったのである。
死を怖れもせず、死にあこがれもせず、自分は人生の下り坂を下って行く。

「死」を観念的に詮索する愚を知りすぎていた鴎外は、悟りの言葉でもなく、といって気力の衰えからくるあきらめでもない、こういう文章を淡々として書き綴れたのである。

いうなれば、非常におしゃれな人が非常に贅沢な着物をいかにも無造作に着こなして、そのおしゃれを人に見せない。
しかし、よくよく見ると、その無造作な普段着のように着こなされたものが、大変上等な結城(ゆうき)であったり、久留米絣(がすり)であったり、というような文章である。

もともと、鴎外の文体は「言葉を吝(おし)むこと、金を吝(おし)むが如く」に書かれたものだから、鷹揚な持続必要とする長編には適さない。
しかし、その鴎外の作品の中で『渋江抽斎』は最も長いものの一つであり、明晰にして簡潔な文体で書かれたギリギリの長編である。

それは、あまりにも凝縮され、人生の波瀾があまりにも圧縮されて詰め込まれているので、まるで濃いエキスをのむように一般の読者には苦いのみものなのだ。

当然、鮎川の問に対して、『ステファン・ツバイク全集』と「森鴎外の『渋江抽斎』を挙げたことはいうまでもない。
ところが鮎川は木で鼻をくくったような調子で、「つまらんものを読んどるのう」といった。
いささか、こちらもムッとして、「では、何を読んだらいいのか」ときくと、鮎川は核心をズバリと衝いてきた。

「いいかね、いかに小説が面白くても、歴史的な事実や迫力にはかなわないのだ。
中国には『水滸伝』という有名な小説がある。
読みだしたらやめられぬくらい楽しいものだ。

しかし、事実を書いた『史記』の迫力にはかなわない。
『三国演義』という戯曲も面白い。
だが、陳寿の『三国志』もしくは司馬光の『資冶通鑑(しじつがん)にははるかに及ばない。
これは何故か。

実際に行為された事柄のなかから『人間の事実』を見出すのが、『史記』であり、『三国志』であり、『資冶通鑑』なのだ。
その観点からすると、君の挙げた『ツバイク』も『森鴎外』も、しょせんは小説なんだ。
そこで君にすすめたいのは『十八史略(じゅうはつしりゃく)』を読んだらどうか、ということなんだ」


以上です。

森鴎外の文章の特徴か伊藤肇の答えたことに対する鮎川義介の反応まで長くなりましたが鮎川の歴史的な事実や実際に行為された中から人間というものを見ていくという考え方を知る上では参考になるものだと思っています。

次回は「十八史略」の中にどれだけの人間が登場して来るかについて取り上げます。



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