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2013年06月25日
怪物の定義
更新が遅れてしまって申し訳ありません。

いつものペースとは言いながら遅くなって来ているようですので、これからは更新間隔を少し詰めるようにしていくつもりにしています。

それにしても、このファンブログがどうも安定しないようで先日などは何回やってもログイン出来ずにエラー表示が続きました。

そして、やっとログイン出来たと思って次にクリックすると
「このページにアクセスするにはログインが必要です」ということで、またログインさせられるということの繰り返しですがファンブログさん、何とかしてください。

まぁー、愚痴はこの辺ぐらいにしておいて伊藤肇「喜怒哀楽の人間学」をもとに今回は怪物という人間とはどんな人間か、を見ていくことにいたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

戦争中、独力で日産コンツェルンをつくり、これを関東軍の要請によって満州重工業へ移駐する
という離れ業をやってのけ、敗戦後はA級戦犯となって巣鴨プリズン入り。

パージがとけると、再び返り咲いて、日本中小企業政治連盟を組織し、自らも参議院議員に打って出たあげく、伜、金次郎まで政治家にしようとして失敗。
当時としては日本最大の選挙違反をやらかして、親子ともども参議院を退くという波乱万丈の
生涯を送った人である。

そこで、われわれは、鮎川議介を「政財界の両棲動物」ということで「怪物」の項に分類していた。

「怪物」とは、大宅壮一の定義によると

「馬鹿では怪物になれないが、悧巧すぎてもいけない。
複雑怪奇で割りきることのできないばかりでなく、分母も分子も大きくなければいけない。
具体的にいうと、行動半径が大きくて、振幅が広いことを必要とする。
また、心の中の奥の院は他人には絶対にのぞかせないし、のぞいてもわからない。
いわば多次元の世界に住む人間である」

しかし、も一つ条件がある。
それは修羅場を切りぬけた経験を何度もっているか、ということである。
修羅場とは、理くつでは割りきれない極限状態だ。
ギリギリの場でぽしゃってしまうようでは、怪物の資格はないのである。


以上です。

稀代の怪物事業家、鮎川議介については次回にもう少し触れることとして大宅壮一による怪物の
定義が面白いですね、「馬鹿ではなれないが悧巧すぎてもいけない」という件は確かに複雑怪奇ということになるのでしょう。

それと修羅場を切りぬけた経験を何度持っているか、ということは考えさせられますね。
出来れば修羅場は経験したくないものですが、ギリギリの極限状態を踏んばりぬくことは人生に
おいて求められることがあるものかも知れません。




2013年06月17日
伊藤肇が興味を持った人物
伊藤肇「喜怒哀楽の人間学」という本のタイトルにも惹かれますが、それ以上に伊藤肇という人物に私自身が興味をもったからです。

私がまだ学生の頃に読んだ「相場師列伝」という本があり、その中で近藤信男という相場師について、書いていたのが伊藤肇であり氏の独特な筆致に惹き込まれて一気に読破したことがあって伊藤肇という名前だけは憶えていて本屋でその名前の本「喜怒哀楽の人間学」を見て直ぐに購入する気になりました。

その伊藤肇が経済誌「財界」の記者として多くの実業家や経営者と会った中で伊藤肇も非常に
個性的な人間ですが、個性的でクセの強い伊藤肇がどんな人物に興味を持ったかについて「喜怒哀楽の人間学」より一部を紹介いたします。

筆者は経済記者である。
いろいろな経営者に会って、この人物はホンモノかニセモノか、あるいは企業内容は決算の数字
にあらわれているような内容であるか、どうか。
そんなことを克明に調べて報道するのが主たる仕事である。

かけだし時代、先輩から教えられたことは「嫌な奴だな、と思う人間ほど数多く会え」と
いうことだった。
ところが、ふりかえってみると、全く、その反対をやってきた自分に気がついて愕然とした。

好きな経営者の許へは、実に足繁く通ったし、その交友もだんだん濃密の度を加えていったが
<鼻もちならん奴だな>と思った向には、公式の会合で会っても、こちらからすすんで声をかける
ことはなかった。

もちろん、先輩から度々、厳しく忠告された。
その度毎に「以後、気をつけます」と頭をさげたが、内心は別のことを考えていた。

<先輩、申しわけありませんが、僕は好きな奴とつき合うのに忙しくて、嫌いな奴とつきあって
いる暇がないのですよ。

吉田松陰の有名な『士規七則』の中にもあるじゃありませんか。
『徳ヲ成シ材ヲ達スルニハ、師ノ恩友ノ益多キニ居ル。故ニ君子ハ交遊ヲ慎シム』と>

一部略

作家の司馬遼太郎もつくづく述懐している。

「四十すぎると、他人さまを平気で嫌いになってしまう。
嫌な男にでもあった時など、その時の自分の如才ない態度など思いあわせて、三日も四日も
不愉快で、一カ月たっても、何かの拍子で、それを思い出すと、何をするのもいやになり、
あの一日だけは死ねばよかった、と思うほどだ」

ただ、肝腎(かんじん)なことが一つある。
それは、自分の好きな人が立派な人、すぐれた人であることだ。
その意味で人間的興味をもった人物の一人に鮎川義介がいる。


以上です。

鮎川義介の名前は聞いたことがあるという方もおられるでしょう、その名前を聞いて思われたこと
は人によって違いがありますが、お若い方は先ず御存知ないでしょう。
私も中学生の頃に聞いたことがありますが、正直言ってよく分からない善悪の振幅が大きな人物というイメージがありました。

次回はこの鮎川義介という人物を見ていきます。


Posted by ゼットキ at 12:55 | この記事のURL
2013年06月10日
いかに生きるか
このブログの柱として伊藤肇「喜怒哀楽の人間学」スモール・ビジネスの二つを今後は掘り下げていければと思っています。

当面は「喜怒哀楽の人間学」を紹介する中で私自身のこのブログに対する考え方をまとめられれば、自ずと私自身が提供出来るもの即ちそれがスモール・ビジネスにつながるのではないだろうか、と思っています。

先ずは伊藤肇「喜怒哀楽の人間学」から前回の続きを紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から

「人間をかえる学問」とは何か。それは「心性(しんせい)の学」であり、「人間学」である。
客観主義的な朱子学に対して「知行合一」の陽明学を樹立した王陽明<中国明代の思想家>が
弟子の王純甫に与えた手紙は、この「心性の学」「人間学」を明確に規定している。

「天下ノコト、万変ナリトイエドモ、吾ガ之(これ)ニ応ズル所以(ゆえん)ハ、
喜怒哀楽ノ四者ヲ出デズ。
此レ、学ヲ為スノ要ニシテ、而シテ政ヲ為スモ亦(また)、其(そ)ノ中ニ在リ」

<人生は千変万化、いろいろさまざまであるが、自分がこれらの問題をテキパキと処理できる
理由は「人生のいかなる変化も、つきつめれば、喜怒哀楽の四つを出でないこと」を知っている
からだ。

よく考えてみれば、いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむか、ということが人生の
すべてである>

世の中には、道徳というと「一切、喜怒哀楽を表面に出さない、感情などには動かされないこと
だ」などと頑(かたく)なに信じ込んでいる向きがあるが、これはとんでもない誤解である。

人生とは、いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむかということ――つまり
「いかに生きるか」ということに「正しい自律」をたてること、「原理原則」をもつことである。
そして、この「正しい自律」や「原理原則」これが「心性の学」であり「人間学」である。


以上、喜怒哀楽の人間学の本質について触れていますので引用いたしました。

人間の歴史が始まって以来、変わらないものは人間としての感情であればこそ喜怒哀楽を通して人間いかに生きるか、を自らに問うことが時として必要な場合があるのではないでしょうか。




Posted by ゼットキ at 01:16 | この記事のURL
2013年06月04日
牢獄へもっていく「一冊の本」
前回、何度も読む本ということで伊藤肇「喜怒哀楽の人間学」の書き出しを紹介しましたが、
今回からその続きの要点を紹介していくことにします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

フランスの文学者、モンテルランは

「この生涯において、何度も読み返し得る一冊の本を持つ人は倖せな人である。
さらに数冊を持ち得る人は至福の人である」

といっているが、日本の経営者たちが、最後の最後まで読み続ける本というと、『論語』が圧倒的で
ある。

「財界総理」と呼ばれた経団連会長の石坂泰三なども、夏、軽井沢へこもる時には、必ず『論語』
をもっていったし、よく、こんなこともいっていた。

「『論語』は昔、矢野恒太さんから、自著の『ポケット論語』を押しつけられてムリヤリ読まされたものだが、実は、その頃はあまり身を入れて読まなかった。
ところが、五十をすぎてから新しく読み直してみると、なるほど、矢野さんがいわれたように味わいが深い。

しかも平生の考え方、生き方にもぴたりと役に立つ。
いうなれば、僕は齢八十をこしてはじめて孔子とじっくり膝をまじえて話し合ったわけだ」

たしかに噛みしめればしめるほど味が深くなるし、協和銀行頭取の色部義明などは

「もし、牢獄へつながれる時、一冊だけ本の携帯を許されるとしたら、わたしは躊躇なく『論語』を
もっていく」

といいきっているほどである。

――知ヲ好ミテ学ヲ好マザレバ、ソノ弊(へい)ハ蕩。

<知識だけを身につけたというのでは、単なるものしりにすぎない。
そんなものは人生を問題にしている間はカッコいいが、人生が問題となった時には全く役にたたない。

この知識も一歩進むと、事に当たって「この問題はこう処置しよう」とか「かくあらねばならぬ」と原理原則をもつようになる、それが見識である。
ところが、見識だけでは未だしである。

一つの事をやろうとすると、どうしても反対がでる。
いや、見識が高ければ高いほど、低俗な輩(やから)が反対する。
それらの反対、妨害を断乎として排除し、実行するのが胆識である。

せっかく、知識や見識をもっていても胆識がないと優柔不断に陥ってしまう>


以上、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より一部を紹介しました。

知識という言葉は、結構聞いたり使うこともありますが見識となると先ず見聞きすることがなく、
胆識という言葉は滅多に聞くことが無いように思います。
それでは見識に基づく胆識とはについては、よければ一緒に読み進めていく中で会得していければと思っています。



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