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2011年09月27日
「俄」 読ませどころ 万吉と帯権の出会い
前回は一柳家の西大坂警備を引き受けることを前提に京の新選組を訪れ土方歳三に対面した件を紹介しましたが、今回は大坂へ戻ってきて一柳家の大坂藩屋敷を訪ねるところでの出来事です。

以下、司馬遼太郎「俄」より

大坂へもどると、万吉はそのままの衣装で土佐堀の方角に出かけた。
(たしか土佐堀ニ丁目ときいたが)と、万吉は歩いてゆく。
中之島の箱前橋を南へ渡り、川筋にある諸藩の屋敷をさんざんさがしまわったが、一柳藩の藩屋敷などはない。

ひとにきいても「さあ、存じまへんな」と、どの男も知らなかった。
万吉はそろそろ疑問に感じてきた。
(だいたい一柳家などは一万石の小世帯や。大坂に屋敷などをもっているはずがない)とまで思えてきた。

ひょっとすると、わるい狐にばかされているのではあるまいか。
陽が傾くし、腹も減ってきた。
やむなく常安橋のそばの茶店に入り、めしと汁を注文した。

そこへ、妙な大男が入ってきた。
顔中、血だらけである。
右袖も千(ち)ぎれ、雪駄は片っぽうしかはいていない。
その足がとほうもなく大きかった。
(こいつ、博奕うちやな)と、万吉は奥の暗がりから目を据えて見つめた。
どうせ、喧嘩の帰りだろう。

「めし。――」男は、亭主に命じ、ずしっと腰をおろした。
亭主はふるえあがってしまった。
(変わった男や)と万吉がおかしく思ったのは、男は顔の血を拭こうともしないのである。よほど無頓着な男らしい。

表情も目鼻立ちが大きくて堂々とした風格がある。
喧嘩帰りの昂奮もなく、けろりとしている。
めしが運ばれてくると、男はざぶりと汁をかけ、うまそうに食いはじめた。
(おもしろそうな男や)万吉はこいつを家来にしようと思った。
面構えを見たところでは、侍大将ぐらいは十分につとまりそうである。

「もうし」と万吉は奥の暗がりから声をかけた。
男は大きな頭をあげた。「なんや」不愛想な声である。
「私は北野村太融寺門前に住む明石屋万吉という者やが」というと、男の顔に驚きと畏敬の色があらわれた。

万吉の名はこのころには市中無頼の徒によほど慕われるようになっている。
「顔の傷はどうしやはった」「へい」男は苦笑した。
そのむこうの河岸からあがってきた御用盗らしい浪人が、やにわにこの男の懐ろに手を入れたので、大喧嘩をしたという。
「勝ったかね」「負けた。財布も取られた」と、落ちついて言った。

この負けっぷりのよさから見ると、万吉の鑑定ではよほど頼もしい男と思われた。
「申しおくれました。わていは堀江に住む帯権(おびごん)という人間だす」
と、茶碗を置いて名乗った。


以上は「俄」文中の一節でした。
この後の展開は次回までお待ち下さい。



Posted by ゼットキ at 17:27 | この記事のURL
2011年09月24日
「俄」 読ませどころ 万吉と土方歳三
前回は万吉が新選組を訪ねて副長助勤の山崎烝に面会し「堂島米相場ぶち壊し」の明石屋万吉ということで土方に通じてもらった件でしたが、その続きになります。

以下、司馬遼太郎「俄」より

新選組副長土方歳三と明石屋万吉との対面というのは、ちょっと珍奇なものだった。
土方というのは、口もとに苦味が走り、色白で二重瞼のくっきりした男で、これほど絹の黒紋服の似合う男もめずらしい。
が、生来の無口なのだ。

それになにがきらいといってもこの男は、遊侠という類いの人種ほどきらいなものはない。
明石屋万吉をも、それと見た。
いや、現に万吉は遊侠である。

「土方先生、この明石屋はおもしろい男でありましてな」と、山崎烝がさかんに座談の糸口をほぐそうとするが、土方はぶすっとだまったきりで万吉を見つめている
。(この野郎)という意識は、万吉にもある。
対座している客の顔をだまってこれほど見つめる相手に出遭ったのは、万吉もはじめてだった。

当然、不愉快である。
「明石屋、用件を申しあげろ」と山崎烝がはらはらして取りなそうとするが、万吉はそっぽをむいてだまっていた。
「明石屋、無礼だぞ」山崎はついそう叫ばざるをえなかった。
「へい」万吉は、山崎のほうをむいた。
「相手がお偉すぎてはものが言えまへんのでな。こうしてだまっております」
「そのほう、一柳藩たのまれて大坂の西部の警備に任ずるというが、そのことについて何か頼みにきたのであろう」
と山崎が万吉のかわりに用のあらましを言ってやった。

「武士になるのか」土方が、くそおもしろくもない、という顔つきでいった。
いかに世が乱れているとはいえ、こういう遊侠を武士にするとは何事だという意識が土方にある。
「べつによろこんでは居りまへんので」と万吉はいった。
「わしはもともと四民(士農工商)の外にいるものでござりましてな、これが好きでなった以上、いまさらうろたえて一柳家で武士に取りたてていただく、というような悪ふざけはしたくござりまへん」

「ふむ」土方は、意外な顔をした。
「ただな、引きうける以上は、新選組の真似はしたくないと思いましてな」
「どういう意味(わけ)だ」土方の目が底光りに光った。

万吉はその視線を真正面から浴びながら、「訳はべつに」といった。
「真似をした、といわれては業(ごう)っ腹でごわりますさかいな。一劃一点も同じところがないように、念のために屯所を拝見させて頂いたわけでごわります」

「度胸のある男だ」土方ははじめてわずかながらも顔の造作を崩した。
対面はそれだけでおわった。
万吉は大坂へもどった。


以上は「俄」文中の一節からでした。
万吉の西大坂警備はどの様に展開していくのでしょう、次回をお待ち下さい。



Posted by ゼットキ at 00:42 | この記事のURL
2011年09月19日
「俄」 読ませどころ 万吉、新選組を訪ねる
前回は一柳藩の依頼を引き受けることにしたが正式な返事は四日後ということにして京の新選組のやり方を知るために新選組を訪ねることにした件でしたが今回はその続きになります。

以下、司馬遼太郎「俄」より

京に入ると、洛西壬生村にゆき、新選組屯所の門前に立った。
妙な男だ。

門番に、近藤先生に御目にかかりたい、といきなり言い、名刺を渡した。
短冊に「摂州大坂・明石屋万吉」と書かれている。
取り次ぎの若い隊士が出てきて、万吉の風体をじろじろと見たが、
やがて、「どのような用件か」といった。

新選組といえば京で鬼のようにいわれている非常警察軍である。
普通なら壬生界隈に足を踏み入れることさえ恐れるほどの存在だ。
(この町人、よほどの度胸がありそうだ)隊士はむしろ気味わるそうに見た。

万吉はニコリともせず、かわい顔で突っ立っている。
(ここは一喧嘩せねば会わせてもらえぬな)と、万吉は思った。
ペコペコ低腰で会釈していては追っぱらわれるだけだ。
むしろ喧嘩してひきずり込まれたほうがいい。

「なんだ汝(うぬ)ア」と、若い隊士は、傲岸すぎる万吉の態度に腹が立ってきた
らしい。
「汝とは何だす」と、万吉は詰め寄った。
「近藤先生に面晤(めんご)を得たいと申しておりますのに汝(うぬ)呼ばわりは恐れ入る。それが、皇城鎮護を目的とする新選組の作法だっか」
(妙なやつだな)若い隊士は気味わるくなり、「この門前に控えていろ」
といってなかに入った。

隊には、大坂の町人あがりで監察をつとめている山崎烝(すすむ)という人物がいる。それに通じようとした。
折りよく山崎はいた。
「会ってみよう」と、山崎烝はいった。
玄関わきの小部屋に通させた。
「私が、山崎だが」と、この新選組では、近藤・土方の信頼のもっともあつい男はいった。

もとは大坂の高麗橋筋の鍼医のせがれである。
少年のころから家業がきらいで、天満の与力町にある剣術道場に通い、抜群の腕前になった。
ほかに香取流の棒術の皆伝もうけ、新選組の第一期募集のときに加盟した。
この人物がほどなく副長助勤に抜擢されたのはその武術のためではなかった。
一つは大坂の富豪に顔がきく。隊費調達の先導役がつとまるという点。
いま一つは上方の町人言葉が使える。このため密偵になりうる。
その才覚もあった。
そういう点で、この結社のなかでは独特の位置をもつにいたっている。

「明石屋万吉と申します」「聞いたことがあるな」と、山崎は首をひねった。
やがて思い出した。
十四五のころ、二百人の油搾(あぶらじめ)職人をひきいて堂島の米相場をぶちこわしたという男と同一人物ではあるまいか?
「その明石屋万吉か」ときくと、万吉はうなずいた。
「これは浪華の名士だ」山崎は笑い出し、副長の土方歳三にまで通じた。


以上「俄」文中の一節でした。
万吉と土方歳三の対面、如何なりますでしょうか、次回をお待ち下さい。



Posted by ゼットキ at 18:03 | この記事のURL
2011年09月16日
「俄」 読ませどころ 一柳藩の依頼を受ける
前回は一柳藩大坂留守居役、建部小藤冶から大坂における一柳藩の担当警備地区についての話と一柳藩の大坂の人数を聞かされる件でした。

今日はこの続きです。

以下、司馬遼太郎「俄」より

「ひっひっ」と、万吉がわれにもあらず妙な笑い声を立てたのは、やはり昂奮してきたせいらしい。
あたりまえのことだ。
人間、自分が自分で自分を評価している以上に思わぬ評価をうけたとき、しんねりむっつりと澄ましているなどはできぬものだし、それが出来る男はよほどつきあいにくい種類の人物にちがいない。

所詮、万吉も尋常一様の男だ。
「武士になれ」といわれて陰々滅々とうなだれる心境にはなれない。
が、(いまさら、あほらしもない)ともおもった。

こうして気随気儘にくらしておれば脛(すね)二本で天下に立ちはだかっている明石屋万吉だが、武士になれば階級社会のなかに入る。
上には上がいて、わずかな禄のために地に頭を擦りつけて暮らさねばならない。
(ここは考えものやな)とおもった。

「殿様になるならべつやが」とつぶやいたから頼み入りにきた建部小藤冶のほうがおどろいた。
「いやさ、殿様でも将軍様(くぼうさま)には頭があがらぬというそうや。
男いっぴき、そういう社会に入るからには将軍様になりたいものや」

建部小藤冶にいっているのではない。
横っ面をむけて物干し台を見ながらひとりごとをいっているのである。
「なれぬとあれば」と万吉はおもった。
「この境涯がええ」つまり男なら、階級社会に踏み入れるとすれば天下をとるべきであり、そうでないとすれば空っ脛で天地の空気をぞんぶんに呼吸している遠慮会釈のないいまの境涯がいい。
「人間、そういうものだっせ」と万吉は笑いもせずにいった。

「しかし、あれや」万吉はいう。
「知己の恩というものがある」むずかしい漢語をつかった。
なにしろ遊侠の徒ながらへたな漢詩もつくれるという能力がある。
一柳藩も、万吉の市井の勢力にあわせてそういう教養を勘考したればこそ、こうして頼みにきたのだろう。

「士はおのれを知る者のために死す、ということがごわります。この言葉一つでわたいは生きてきたし、このさきもいきてゆく。お請けしたい」
「ご承知くださるか」
「四日、待ってくだはりまするか。四日目にお蔵屋敷に出むいて確(しか)としたご返事をつかまつります。お請けする以上、明石屋万吉の命は一柳様の御自由におなしくだはれ」
そう返事して、その日の夕方の船で、天満八軒家の川港から、京へのぼった。

大坂で新選組を興す以上、京の新選組の内情、やり方を知りたい、というのが、この存外に緻密な男の思惑である。


以上は「俄」文中の一節でした。
新選組と万吉の初顔合わせ如何なりますでしょうか、次回をお待ち下さい。



Posted by ゼットキ at 11:14 | この記事のURL
2011年09月13日
「俄」 読ませどころ 一柳藩の警備担当地域
前回は一柳藩大坂留守居役、建部小藤冶の大坂の治安維持のための非常警察の話を聞いている万吉でしたが、さて今回はどうなりますやら。

以下、司馬遼太郎「俄」より

この非常処置の先例は京都だけではない。
江戸もそうである。
江戸は庄内の酒井家が担当し、その預かり浪士団である新徴組に市中警備をさせている。

「大坂は?」「左様、大坂は」建部小藤冶はふところから「摂津大坂図」と銘うった地図をとりだしてひろげた。
地図は、赤、黄、青、鼠に塗りわけられている。四藩というわけだろう。

四藩とは、
紀州和歌山五十五万五千石徳川家
越前福井三十二万石松平家
肥前平戸六万一千石松浦家
播州小野一万石一柳家
「えらい段落がおますなあ、五十五万石とたった一万石の貴藩(おたく)とは」
「まことに」建部はぼう然とした面持ちでいる。

「さあごらんくだされ」建部小藤冶は色分けされた地図を示し、「この赤の部分がわが一柳藩でござる。なんと広いことか」と、万吉の同情をひくようにいった。

なるほど、見れば哀れなことだ。
船場の横堀が南北の境界線になっていて、紀州藩は大藩だけにその横堀以東の繁華な市街地を一手にうけもつ。つまり現今(いま)の東区、天王寺区の一部である。
現今の北区は越前福井の松平。
道頓堀から南地区、つまり現今の南区、浪速区の一部は肥前平戸の松浦の殿様。

一柳藩のうけもちはひどい。
横堀から以西ぜんぶである。つまり、いまの西区、大正区、港区という広大な地域をたった一万石の大名が担当するのだ。

おまけにこの西大坂は川筋が多く、いわゆる天誅浪士や御用盗と称するにせ志士、さらに本格的な討幕志士は、みな海から大坂に入りこの川筋をのぼって潜入するのだ。
そのために、川口の要所要所に、従来船番所が置かれている。その船番所も警備力不足で、あってなきような存在なのだ。
その船番所も一柳藩の担当になる。

「とてもとても一万石の小所帯ではなんともなりませぬ」と、建部小藤冶は無気力に笑った。

一万石の大名といえば士分の侍は三十人も居ればいいほうで、足軽をふくめてせいぜい百人そこそこである。
国許では城も持たない。陣屋があるだけである。
そのくせこんな小藩でも幕府の慣例によって江戸に大半の侍が詰めねばならない(この江戸定府についてはこの年、幕令がゆるんで強制的ではなくなったが)
さらに京都屋敷にも藩士を置いている。

大坂は蔵屋敷でこれは藩の経済上必要だから藩士が詰めている。
むろん国許が藩の本拠である以上、殿様もおり、国許の諸役人もおり、これにともなう多くの人員を置いておらねばならない。

要するに、小人数の藩士が各地に分散しているのである。
「大坂のお屋敷詰めは何人だす」「士分が五人でござる」
「へっへへへ」万吉は失敬と思ったが思わず笑い出してしまった。
この五人で、広大な西大坂をまもり、川口から潜入してくる不逞浪士を取締まろうというのは気違い沙汰である。

「足軽衆は?」「左様、七人おります。あわせて十ニ人でござる」
「なるほど」万吉は笑いを噛み殺すのにこまっている。

「しかし幕府(こうぎ)の御命令をことわるわけにも参りませず、ついにお受けせざるをえぬはめになりました。
そこで一藩の重役が額をあつめて凝議つかまりましたところ、京には新選組という例もあり、ここで明石屋万吉殿に武士になって頂き、この危難をお救いねがおうということになったわけでござる」


以上は「俄」文中の一節でした。
万吉はこの頼みを引き受けるのでしょうか、次回をご期待下さい。



Posted by ゼットキ at 19:31 | この記事のURL
2011年09月09日
「俄」 読ませどころ 一柳藩、大坂湾警備
前回は一柳藩大坂留守居役建部小藤冶に武士になってくれるようにに頼まれるが事情が分からないので断ったところの件でしたが今回はその続きです。

以下、司馬遼太郎「俄」より

「されば事情を申しあげると致します。京に京都守護職が置かれたことはご存知でござりまするか」「へい」聞いている。

去年つまり文久二年閏(うるう)八月、幕府は奥州の雄藩会津松平家をもって京都の守護たらしめようとし、藩主松平容保(かたもり)に「京都守護職」を命じた。

それまで京都を警衛する幕府機関としては京都所司代と京都町奉行があったが、その程度の警備力ではとうてい攘夷・討幕を呼号して暗殺をくりかえしている浮浪浪士を鎮圧することはできなくなったのである。

このため三百年来の慣例を破り、京都守護職を設け、会津藩兵千人に京の治安を担当させることにした。
いわば軍事警察軍といっていい。
この警察軍の一環を受けもつものが、大坂までうわさが聞えてきている会津藩御預(おあずかり)の新選組である。
「それと同様のものが、大坂にもできますので」と、建部はいった。

「それで?」万吉はあとを続けさせた。なにしろ風雲動乱の時代である。
大坂で町人暮らしをしているぶんには一向に鈍感だが、それでもこういうぐあいに身近に時勢の話をきくと、血の湧くようなおもしろさである。

「土州様の住吉陣営のことはご存知でありましょうな」と、建部小藤冶は、
話を一転させてわきのほうに持って行った。
なかなかの話術家といっていい。

万吉は知っている。
土佐藩は大坂警備のために幕府から命ぜられて、住吉の漁村である中在家・今在家村の付近に一万七千坪を敷地として壮大な兵営を作ったのである。
その工事のために万吉の息のかかっている連中もずいぶん土運びに行った。
だから知らぬというわけでない。

「存じておりますが」「あれは摂海警備でござる」
摂海とは大坂湾のことだ。
要するに住吉陣営とは外国の艦船が侵略の意図をもって大坂湾に侵入してきたとき、この住吉陣営の土佐藩兵をもって海岸で迎え討つための軍事施設である。

この種の軍事施設は土佐藩のこの住吉陣営だけでない。
大坂湾だけでも大和川尻は柳川藩に、尻無川の川口一帯は備前岡山藩と因州鳥取藩に、兵庫は長州藩に、といったぐあいに海岸地方に点在している。
いずれも、純然たる対外国用の軍事施設である。

「ああいったものでなく」と、建部小藤冶は話をひきもどした。
ああいう軍事機関ではないというのだ、建部が持ってきた話の輪郭というのは。
つまり警察機関だというのだ。
それも非常警察軍というべきものだから、奉行所とは関係なしに怪しい者を捕殺することができる。
「捕殺、なあ」万吉は、あごをなでて無感動な表情できいている。
要するに幕府は大坂の市中の治安が平時用の奉行所ではとてもやってゆけないために、市中を分割して担当諸藩に任せようというのだ。


以上は「俄」文中の一節です。
ここから万吉は一柳藩の武士になるのでしょうか、次回をお待ち下さい。




Posted by ゼットキ at 15:34 | この記事のURL
2011年09月06日
「俄」 読ませどころ 一柳藩、建部小藤冶
引き続き「俄」読ませどころを紹介していきます。
前回までは砂糖密輸事件を取り上げてきましたが、今回からは万吉が播州一柳藩
から西大坂の警備を頼まれる件です。

以下、司馬遼太郎「俄」より

上品な初老の人物である。
なるほどしわだらけの顔だが、両眼が大きく、それがおだやかに澄んでいた。
武士らしい気概はなさそうだが、酒の席の取り持ちでもさせればなかなか
うまそうである。

播州のなまりがあった。
「はじめてお目もじを得ます。
それがし、播州小野(兵庫県小野市)の一柳(ひとつやなぎ)家の
大坂留守居役建部小藤冶と申す者でござる」
(きいたこともない大名だな)
と思ったが、おとで大武鑑(だいぶかん)をしらべると、なるほど
播州小野でわずか一万石、江戸城では柳ノ間詰めで定紋は丸に釘抜きである。

「して、御用件は?」「武士になっていただけますまいか」
(武士に?)万吉はうまれてこのかた、このときほど驚いたことはない。
が表情をけちけちする男で、わずかに瞼をぱちぱち上下させた程度が驚きの表現
だった。

「いかがでござろうな」と、一柳藩留守居役建部小藤冶は、もう哀願するような
口調になっていた。
「武士といっても決して軽格軽輩の待遇はいたしませぬ。馬一頭を曳かせ、槍一筋
を立たせてゆく歴(れっき)とした身分にお取り立てするつもりでござる」
「藪から棒だんな」と、万吉は小さな声でいった。

「こんなやくざ者をお武家にしようというような驚き入ったお話は、三百年来、
あったというためしをきいたことがごわりまへん。なんぞ御事情がおありで」

「その藩情をまずお明かししてお願いするのが順序でござるが、なにぶん、藩の
名誉でもないことであり、まず、お請けいただけるかどうかをお確めしたあとで
ゆるりと事情を申しあげるつもりでござる」
「すると」万吉は、ちょっと馬鹿らしくなった。

「わたいが、武士になるかならぬかをまず返答せねばなりまへんので」
「左様」「やめときまっさ」
こんな人を愚弄した話はないだろうというのが万吉の肚の中である。
事情もあかさずに他人の運命を変えさせようなどとは、思いあがりも甚だしいでは
ないか。
(武士にしてやる、といえばこっち側は闇雲にとびつくと思ってやがるのか)

「おそれながらいまのままで結構だす。
士農工商の差別があるのは江戸や諸国のお城下でのこと。
大坂は町人だけが気楽に暮らしている町だっさかい、別に武士にしてやると
いわれても雀踊(こおど)りするようなあほうは居まへん」
「ごもっとも、ごもっとも」建部小藤冶は汗をかいている。


以上は「俄」文中の一節でした。



Posted by ゼットキ at 18:16 | この記事のURL
2011年09月02日
「俄」 読ませどころ 砂糖事件の解決 
前回は砂糖事件の元凶、加賀屋丹斎をひねりあげて人質として危機を脱したところでしたが今日は事件の終幕です。

以下、司馬遼太郎の「俄」より

事件は、片付いた。
唐物取締定役の与力田坂百助、松井与市兵衛、牧野猪野右衛門と五人の同心が罪を問われ、それぞれ改易(かいえき)になった。
加賀屋は、追放のうえ闕所(けっしょ)である。
地所、財物を公儀に没収される刑だ。

「江戸なら加賀屋は死罪、三人の与力は切腹、五人の同心は打首ということになるが」と野々山讃岐守が、事件後、大川の船のなかで万吉に語った。
「大坂は刑がゆるい」とくに経済犯については、おかみの手心がゆるやかなようである。万吉はくびをひねった。
「妙な土地でござりますな」わが住処(ところ)ながらもそう思った。

野々山讃岐守は犯人の三人の与力の罪目を、単に「取締不行届(とりしまりふゆきとどき)」というだけにした。野々山がしたのではない。

部下の与力衆がこぞってそう主張し、野々山もそれに従わざるを得なかったのだ。
奉行は大坂の長官とはいえ、江戸から単身赴任してくる。
部下はみな地役人である。
かれらが結束して主張すればそれに従わざるをえない空気になる。
(阿呆かいな)と、まったく万吉はこの野々山讃岐守に同情した。

野々山はこれ以前、隠密として江戸からやってきて大坂で仕事中、かれらに捕らえられた。
隠密だから身分も名も明かさぬのを幸い、三人の与力は死罪人の牢にほうりこみ、コミ(素性不明の者)にしようとしたのである。
これほどたちのわるい犯罪はないだろう。

その当の被害者の野々山がこんどは奉行の座について糾明処断をするとなれば、どのような復讐をしても感情的にはゆるされていいことになるだろう。
それを、こんな寛典でのぞんだ。
「それが公儀の政治(しおき)というものだ」と、野々山はむしろ昂然といった。
「職権を利用して復讐してはならぬ、ということは当然なことだ」野々山はおだやかにいった。

万吉はむしろ驚嘆する思いだった。
こういう人物を、半生のあいだで見たことがない。
杯をふくみながら、だまりこくってしまった。「どうした、明石屋」
「いや、ちょっと考えごとをしておりますのでお言葉はご容赦ねがいます」
これが儒教というものだろうと思った。

徳川幕府は民冶にあたってはこすっ辛いこともずいぶんやるが、その統治精神の表看板はあくまでも儒教主義である。
江戸の旗本は数百年来、この儒教をもって教養の根本としてきた。
自然、儒教的人間という者が出てくる。
幕府が地方長官をえらぶばあい、とくにそういう人物のなかから厳選するようである。

野々山讃岐守がそうらしい。(恐れ入ったな)と万吉は、しんそこ思った。
この人物が幕府を守ろうという気持ちを多少でももったのは、この野々山の人柄に触れたからである。


以上は「俄」文中の一節です。
漸く砂糖事件が終わりましたが、もう少し「俄」の面白いところを見ていきたいと思いますので次回をご期待下さい。



Posted by ゼットキ at 13:40 | この記事のURL