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2017年03月06日
宰相たるの条件
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から幕賓の人間学ということで前回に続き魏の文候の幕賓である李克が五つの宰相たるの条件を挙げていますが今回はその四つについてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

第一の「居てはその親しむところをみる」というのは、官をひいて家にいる時、つまり浪人している時に、いかなる連中とつき合っていたかを観察する。

浪人というのは、地位、肩書、名誉といった虚飾を全部はずした裸の人間である。
だから浪人中の交友は「裸のつきあい」であり、アリストテレスの「友だちは第二の自己である」という箴言(しんげん)が最も的確に適用できるのである。

つまり、浪人中に低俗でくだらない連中とつきあっていたら、その人間自体がお粗末だと判断して間違いないし、すばらしい人物、一流の人物ばかりがそのまわりをとりまいていたら、まさしくそれはほんものである。

第二の「富みてはその与うるところをみる」というのは、財を成した時に、その金を何に使ったかをみるのである。金の使いかたくらい難しいものはない。
それは人格がそっくりそのまま反映するからだ。
金ができたら、まっさきに女を囲ってみたり、書画骨董にうきみをやつすようでは、とても宰相たるの資格はない。

天皇の師傅(しふ)で、『倫理御進講草案』を遺した杉浦重剛は「一年の計は田を耕すにあり。十年の計は樹を植うるにあり。百年の計は人を養うにあり」<管子>を引用して「人材養成のために巧みに時と金とを使うことが、経済の極意である」と喝破している。
「経済」とはもちろん「経世済民」<世を治め、人を救う>の意味であるが、最高の金のつかい方は人を養うことである。

第三の「達してはその挙ぐるところをみる」というのは、高位高官にのぼった時、いかなる人物を登用し、いかなる本を推せんしたかを観察する。
前に述べた「奔競の者」などを抜擢していたら、それだけで、もう落第である。

第四の「窮してはその為さざるところをみる」というのは、困窮した時にいかなる態度をとったかを観察するのである。

いかなる人も、単調だがやすらかで牧場の牝牛のようにのんびりした人生を命の終りまで続けられるなどということはあり得ない。
どんな人生も、晴れる日もあれば、曇る日もある。雨もあれば風もある。
しかし、大きくわけてみると「焔の時」と「灰の時」との二つである。

「焔の時」というのは、燃えさかる焔の如く、勢いがさかんで、この時は少々無理をしても、大体のことが上手く運ぶ。ところが、いったん「灰の時」に入ると、何をやってもうまくいかない。やることなすこと、裏目、裏目とでる。
そんな時は、静かに「灰の時」に没入し、自己に沈潜して、実力を養成する時期なのである。

事実、何をやってもうまくいかぬ時には何もやらぬのが一番いい。
ところが小心者に限って、そういう時にやたらに何事かをやらかして失敗する。
何事かをやっていないと不安でしょうがないからだ。

全盛時代、かなりの風格をもった人物が落魄した途端にダボハゼみたいに何にでもとびつき、<あの人が‥‥>と思うような醜態を演ずる。
「灰の時」の心構えができていないからである。


今回は以上です

宰相たるの条件、如何でしたでしょうか。

第一から第四まで、それぞれに「なるほど」と納得するところがあった、と思いますが宰相云々は別としても、人生晴れる日もあれば曇る日、雨もあれば風もある、からこそ喜怒哀楽の人間学なんでしょうね。

それにしても、「金の使いかたくらい難しいものはない」というのはナルホド言われてみればそうかも知れませんが、金がないので使い方まで気がつきませんでした。


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