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2017年01月16日
「名医」がなぜ心友として必要か
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より池田勇人は三人の心友を持て、ということで「すぐれたジャーナリスト」「立派な宗教家」に続いて今回は「名医」がなぜ心友として必要か、についてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「名医」がなぜ心友として必要か。
強靭な肉体は強靭な精神を生む。その理非曲直にかかわらず、その状態の多種多様なるにかかわらずである。
では「健康」とはいかなる状態をいうのか。
世界保健機構(WHO)では「七つの条件」を挙げている。

一、何を食べてもうまい。
二、よく眠ることができる。
三、すぐに疲れを覚えない。
四、快い便通がある。
五、風邪ぎみでない。
六、体重がかわらない。
七、毎日が楽しく、明るい。

このうち一つでも欠けたら、「不健康」ということになるが、トップたる者、「肉体的には健康で、精神的には幸福で、社会的には世のため、人のために役立つことができる状態」を維持しなければならない。
それには、どうしても「名医の心友」が必要となってくる。

「心友」でなくてはならないのは、科学は自然を対象とするが、医学は人間を対象とし、ビッセンシャフト<科学>とともにクニスト<芸術、人扱いのコツをも含めた技術>やフィロソフィー<哲学>が要求されるからである。

近鉄会長の佐伯勇は「故種田社長は病気がちの人だったが『元気な時でも、ほどほどの能力しかないのに、病気で寝ていながら、何かと会社の仕事に指図するのが、私は絶対にそれをやらない。病気中は、他の重役たちにまかせて、療養に専念する』といわれた。たしかにその通りで、人間は元気な時でも往々、誤まった判断を下すことがあるのに、ましてや、病気にかかって、肉体的にはもちろん、精神的にも正常でありにくい時に重要な判断を下すことはきわめて危険である」

と述懐しているが、いかなる実力者、名社長といえども、亡くなった日から逆算して、三年間にやったことはすべて失敗である。それは肉体の衰え、頭の呆けが、どうしても判断を誤らせるからだ。

ある高名な法律家が長寿を全うして亡くなった。
葬儀の席で故人をみとり、死後解剖のメスをとった心友の老教授が会葬者に述べた挨拶を龍角散本舗の藤井康男が、その著『病気と仲よくする法』<日経>の中で紹介している。

「故人は生前、高名な弁護士でありながら、思想問題などで弾圧された無名の若い学究の弁護を進んでひき受けられた。そして、多くの人々が故人の高い学識と有能な法廷技術によって救われたのです。
こういう際にも、故人は相手の事情によっては弁護料なども請求されず、調査費用すらも自弁で活動されました。
しかし、晩年になって故人はかわりました。
時として、高額な弁護料を請求されて驚かれた方や、かつて、あれほど無欲無私だった故人が金銭に異常な執着を示されるのに気づかれた方もあられると思います。
死後、故人を解剖してみましたところ、脳の部分に著しい老年性の退行変化がみられました。そのため、人格が一変したかのような印象を与えたものと思います。
申してみれば、故人の脳は人格的には、その持前の立派な能力を生理的な死を迎える何年か前にすでに失っていたものと考えられます。
ご来席の皆様は、その辺の事情をお汲みとりの上、改めて、生前の故人を偲んでご会葬をお願いいたします」

人に迷惑をかける前に一線を退くことを教えてもらうためにも「名医の心友」がどうしても必要なのである。

今回は以上です

「名医」がなぜ心友として必要か、この項の法律家の話に尽きるのではないでしょうか。
心友なればこそ、故人を思い遣る会葬挨拶は、ただただ感じ入るばかりで言葉が出てきません。


2017年01月10日
「立派な宗教家」が何故心友として必要か
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から三人の心友ということで「すぐれたジャーナリスト」「立派な宗教家」「名医」のうち前回は「すぐれたジャーナリスト」を紹介しましたので、今回は「立派な宗教家」についてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「立派な宗教家」が、何故、心友として必要か。
フランスの心理学者、エミール・クーエは「人間というものは、自分の心の中にはかりがたい力をもっている。
これを無意識にとり扱う時には、しばしば有害になるが、反対に意識的にかつ賢明な態度で取り扱えば、自分を支配することができ、しかも、生理的、精神的障害から自分を避けることができる」といっている。

これを意訳すると、こういうことになる。
たとえば、三十センチ幅の板を地上に置いたとする。
誰でも、片目片足で、その上を歩くことができるが、同じ板を百メートルの空中に吊ったとすると、恐ろしくて這って渡ることもできはしない。

何故だろうか? 理由は簡単である。
地上では足をすべらせても絶対にケガをすることはない、という確信が精神を闊達にし、これが肉体に作用して、のびのびと行動させることになるのだ。
その反対に、板が空中にある時には、もし、足を踏みはずしたら、脳天を打ち砕いて即死である。
その思いが頭にこびりついて離れないために肉体が委縮してしまって、地上なら平然とやれることが空中では手も足もでない状態に陥ってしまうのである。

本来、信仰とか、宗教心とかは、そういうものであるが、一人の作家と一人の学者とが、その核心を衝いた発言をしている。一人はスエーデンの作家、ストリンドベリである。

「君が経験か、直感かで、宗教とは何であるかをすでに知っていなければ、宗教についての説明はできない。また、説明してきかせたところで、君たちには馬鹿げたこととしか思わないだろう。だが、君がもし、宗教とは何かを知っているなら、いろいろと説明することがある。そして君にもわかるだろう」

もう一人は『善の研究』で有名な哲学者、西田幾多郎である。

「世の中には、往々、何故(なにゆえ)に宗教が必要であるか、などと尋ねる人があるが、かくの如き問いは、何故に生きる必要があるのか、と問うのと同一である。したがって、かかる問いを発するのは、自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え、真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感せずにはいられないのである」

昔から、北条時宗における無学祖元(むがくそげん)、足利尊氏における夢窓疎石(むそうそせき)。徳川家康における天海。住遠財閥の名総理事といわれた伊庭貞剛(いばさだたけ)における峨山。協和発酵会長の加藤弁三郎における松原致遠。日本信販会長、山田光成における梶浦逸外(かじうらいつがい)。資生堂相談役、岡内英夫における苧坂(おざか)光龍。宮崎交通相談役、岩切章太郎における木津無庵といったように一廉(ひとかど)の人物には必ず偉大な宗教家がついている。

しかし、この宗教家にもホンモノとニセモノとがある。いや、ニセモノのほうが幅をきかせている世の中である。
たとえば、本当の禅坊主は、あっけらかんとしているものである。毎日、きちんと座禅をやっているくせに座禅などやっているようなことは一言もいわずに飄(ひょう)々としている。それがホンモノである。

ところが、自分が禅僧であることを意識して、いかにも豪放磊落にふるまうのは大体、インチキと思って間違いない、そんなのは、一見、豪放にみえて、裏のほうでは小心翼々として俗世間のことばかり気にしているつまらぬ坊主である。

事実、峨山老漢を師として、禅の深淵を高めた伊庭貞剛などは、生涯を通じて、在家の人々の前では禅を談じたことは一度もなかったし、居士などと称して、わがもの顔に偈(げ)などをひねくったり、ことさららしく禅語を喋(ちょう)々する奴は大嫌いだった。

そういえば、ヒトラーに対するレジスタンス運動で倒れた牧師にして神学者のディートリッヒ・ボンヘッファーは「神の前に、神と共に、神なしに生きる」という名言を残している。
信仰者の真の生きかたは無神論者のような生きかたである、というのである。

神について、もっともらしいことや、わかったようなことをいう人間は最も神から離れた存在である。
あたかも、人生や恋愛について得々と語るのは、本人の体験の浅薄さを物語っているようなものである。
しかも、それらは自分のことを喋っているにすぎないのだ。
同様に、神について饒舌すぎる連中は、神にことよせて、自分のことを語っているのだ。

今回は以上です

「立派な宗教家」が何故、心友として必要か、ということで長くなりましたが分けて紹介すると分かり難いような気がしましたので長くなりましたが、著者の宗教観ということからも「立派な宗教家」が必要という部分は一挙に紹介いたしました。

人それぞれに宗教観はあるでしょうが、西田幾多郎博士の「真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈な宗教的要求を感せずにはいられないのである」という件は納得させられるものがありました。
また、三十センチ幅の板の話は以前に紹介した「百尺竿頭にのぼりて、手足を放って一歩を進めよ」という言葉を思い出しました。


2017年01月01日
玉葱
新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


今年も伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」で新しい年の始まりとなりますが、残すところ後僅かとなりました、というところで去年の続きと言うか昨日の続きを紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「すぐれたジャーナリスト」が、何故、心友として必要か。

リコー前社長の館林三喜男が「玉葱(たまねぎ)というものは、八百屋の店先で見ると、外側が赤茶けて、泥がついている。
ところが、その玉葱を部下が課長に上げる時は、泥のついた赤茶けた皮をむいて『これが玉葱です』といってみせる。
また、課長が、この玉葱を部長に見せる時には、二皮くらいむいてもっていく。
それと同じように部長もむいてくるから、社長の私のところへくる玉葱は、中の芯だけの小さなものになってくる。
それを『玉葱でございます』といわれて、まるまる信じていたら、とんでもないことになる」と書き遺している。

それほど、フォーマルな情報はあてにならぬとみていい。
これを補うにはどうしたらいいのか。社長が独自でインフォーマルな情報網をつくる以外に手はない。

その点、ジャーナリストは「時代と社会」とに密着しているから、彼らと接触することによって、世間の実態がよく把握できるのと、「ジャーナリストは常に大衆の中に在らねばならぬ。だが、このことはジャーナリストが大衆の中に埋没してよいということでは決してない」と定義されているように、いかなる場合にも客観性を失わぬ基礎的訓練を経てきているから、たとい心の底から敬愛している総理といえども、つき放した目で眺めて直言してくれる。

さらにもう一つの特技は断片的に集めてきた情報を分析整理した上で、目にみえるハッキリしたデータの隙間隙間にはめ込み、表も裏もぴたりと合ったニュースの真相を再現してみせる能力である。

今回は以上です

今回は、「三人の心友」のうち「すぐれたジャーナリスト」についてですが、玉葱の話は身近な話だけにナルホドと考えさせられるところがありますね。
また池田勇人は「三人の心友」の他に優秀なブレーンがいました、池田勇人の経済政策「所得倍増論」のバックボーンになる成長理論を唱えたエコノミストのことは機会があれば紹介したいと思っています。

伊藤肇もジャーナリストの一人であることからすれば、上記の内容は頷けるものがありますが池田勇人と言えば何と言っても所得倍増論ですので、つい話がそちらの方に向いてしまいました。


2016年12月30日
「喜怒哀楽の人間学」 最終章に
今年も早いもので明日の大晦日を残すだけとなりかした、早いと言えば「喜怒哀楽の人間学」も最終章となりました。
今回から幕賓(ばくひん)の人間学という章で伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

二・二六事件の時の総理、岡田啓介が「総理になると、三つのものがみえなくなる」といっている。

一つは「金」。職権で思う存分に金が使えるから、金の価値がわからなくなる。
二つは「人」。しらずしらずのうちにとりまきがふえ、耳に逆う情報は入ってこなくなる。
その結果は「真実の人」が陰に身をかくしてしまう。
三つは「国民の顔」。これがどちらを向いているのかわからなくなる。
そして「そうなった時には総理は野垂れ死する」と断言している。

池田勇人は「そうならぬために『三人の心友』をもて」と口ぐせのようにいっていた。
「三人の心友」とは「一人はすぐれたジャーナリスト。一人は立派な宗教家。一人は名医」である。


今回は以上です。

今回は年内の挨拶だけのつもりが、書いているうちに最終章ということもあって、少しですが紹介することにしました。


幕賓とは、については後のところで紹介するところがありますので、そこで取り上げます。
岡田啓介という人は、時の総理として二・二六事件で襲撃され奇跡的に難を逃れていますが清貧で通した人物で総理退任後は戦争終結に貢献しています。

また池田勇人については所得倍増論でご存じの方も多いと思いますが、「三人の心友」の続きは元旦のご挨拶のあとで、この続きを紹介することにいたします。


今年も、ありがとうございました。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

どうぞ、皆様よいお年をお迎えください。


2016年12月24日
三度は諌めよ
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介しています、前回に続いて側近の人間学から今回は「三度は諌めよ」を紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

ついでにもう一つの実例を紹介しよう。
三菱商事船舶部長の諸橋晋六が、まだ若きころロンドンに勤務し、ことごとに上役と意見がくい違って、苦労をしたことがある。結局、自分では、どうにも解決がつかなくて、その懊悩(おうのう)を手紙に書きつらねて親父の諸橋轍次<漢学者、『大漢和辞典』を編纂した>に送った。
自分とは全く畑違いの道へ進んだ伜が苦労していると思ったのだろう。すぐ返事がきた。

先輩と意見を異にするのはよくあることだ。
そのこと自体、思いわずらうことはなく、会社のためにいうべきことはどんどんいうがよい。
ただし、お前が意見を述べるにあたって、三つのことを気をつけなければならない。

一、毛筋一本ほどでも私利私欲を考えてはならぬ。
二、相手の立場を尊重し、あくまでも礼儀を守ること。
三、不幸にして言が入れられぬことがあっても、平心を失わず、その場は退いて自分も再考する。そして、何日か考え、やはり自分が正しいと思ったら、また、その話をもち出してみろ。

これだけの用意があれば、相手もきっと私心のないことがわかってくれて、後日、お前のいうことに耳を傾けてくれるだろう。

上に対する直言、諫言は口でいうほど簡単なことではない。

孟子も「君主の親戚である大臣は、君主に重大な過失があれば、身を挺して諌める。だが、親戚でない大臣は黙って去る」といっている。

もし、君主の失敗が重なって革命でも勃発しようものなら、君主はもちろん、それにつながる一族郎党まで誅殺されてしまうのが中国史の常道だから、親戚の大臣としては、いかなることがあっても、君主に失敗はさせられない。
面(おもて)を犯しても諫言せざるを得ないのである。

一方、親戚でない大臣は、船が沈没する前に逃げる鼠みたいに、火の粉をかぶる前に一刻を争って安全地帯へと亡命しなければ虻蜂(あぶはち)とらずになる。
何も、君主に殉ずる義理はないのだ。

しかし、この心理は必ずしも漢民族特有のものではないようである。
司馬遼太郎も『播磨灘物語』のなかで、ハッキリと指摘している。

武士の悲しみとは、合戦のつど、妻子と死別を覚悟しなければならぬことではなくて、常に旗幟(きし)をあきらかにせねばならぬというところにある。
旗幟をあきらかにするというのに、得体のしれぬ未来に向かって、自己と主家の運命を賭博に投ずることなのである。

もともと「良禽は木を択ぶ」といい、「賢臣は主を選びて之を扶(たす)く」とあるように賢臣は主君をよく見きわめた上で宮仕えするものである。
そして、そういう賢臣は、主君に間違った点があれば、一身の利害を顧(かえり)みず、直言してはばからぬものである。
だが、その直言がきき入れられればよし。万が一、主君の逆鱗に触れた時には、どう処置すべきか。

『礼記(らいき)』には「三度、諌めて聴かざれば、即ち、これを逃る」とあるし、『史記』でも「人臣、三度諌めて聴かざれば、即ち、身を以て去るべし」とある。

これは、主従の縁を切る場合には、たとい、無駄とはわかっていても、とにかく、臣下のほうから主君に対して三回は諫言すべきである。
一度も諌めずに見限るのはもちろん、一度や二度、諌めて、きかれないというので投げ出してはいけない、という戒めである。
ただし、三度目の直諫は辞表を懐に入れてやらねばならない。

中国では三度目がきかれぬ場合には、消されてしまう可能性があるから「即ち、これを逃る」である。


今回は以上です

直言、諫言というと、それなりの立場にある人だけに限ったことなのかもしれませんが「三度は諌めよ」「三度、諌めて聴かざれば、即ち、これを逃る」とは、ある意味で直言、諫言の本質というものを言い表していると言えるのではないでしょうか。

現代の会社などでは「これを逃る」ようなことにはならないでしょうが、やはり主君をよく見きわめるということになるのでしょうね、それにしても『播磨灘物語』は黒田官兵衛の生涯を描いたものですが、先日最終回の放送があった真田丸を見ているだけに旗幟をあきらかにせねばならぬ武士の悲しみというところは感じるものがありました。


2016年12月16日
太祖と趙普(ちょうふ)のやりとり
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介していますが前回の反復連打の効用で今道直言の下敷きとなったやりとりを今回は紹介いたします。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

この今道の直言にしかたには、ちゃんとした下敷きがあった。
朱子が編纂した『宋名臣言行録』にでてくる宋の太祖と「社稷の臣」といわれた趙普(ちょうふ)とのやりとりである。

宋ノ趙普、沈毅果断ニシテ、天下ヲ以テ己ガ任トス。
嘗(かつ)テ、某人ヲ除シテ某官トナサント欲ス。上(しょう)用イズ。
明日(めいじつ)、マタ之ヲ奏ス。マタ用イラレズ。明日、マタ之ヲ奏ス。
上(しょう)、怒リテ、其ノ奏ヲ壊裂シテ地ニ投ズ。
普、顔色自若(がんしょくじじゃく)トシテ、オモムロニ奏ヲ拾イテ帰リ、補綴(ほてつ)シテ明日、マタ之ヲ進ム。
上、スナワチ寤(さと)リテ之ヲ用ウ。ソノ後、果シテ職ニ称(かな)イ、ソノ力ヲ得タリ。

趙普は沈着で意志が強く、決断力も抜群で常に天下のことをもって自分の責任としていた。
もちろん、皇帝太祖とは有無相通ずる仲だったが、時として意見がくい違うこともあった。
例えば、こんなこともあった。

趙普がある人物を抜擢して重要なポストにつけようとしたが、どういうわけか太祖が首を縦にふらなかった。
皇帝が人事を否決した以上、宰相としてはそれに逆らわぬのが常識である。
ところが、趙普は何くわぬ顔で、同じ人物を奏上した。もちろん、一言の下に却下(きゃっか)である。
だが、趙普はその翌日もまた同じことを奏上したため、とうとう太祖が怒りだし、「仏の顔も三度までじゃ」と喚いて、上奏書を破って、床へ投げつけた。

すると、趙普は、顔色一つかえずにそれを拾って帰り、もと通りにつづりあわせたのを平然とさし出した。
さすがにここで太祖も反省し、その人事を裁可するにいたったが、果たして趙普の推した人物は仕事の処理もテキパキとしていて、大いに実績をあげた。

このエピソードには、「直言」に関する三つの教訓が含まれている。
第一は、皇帝太祖と宰相の趙普とが相許した仲で、いかなることをいっても誤解がないこと。
第二は、趙普に全く私心がなかったこと。
第三は、信念にもとづいて反復連打したこと。もっとも、信念がなくては、反復連打などやれるものではないが‥‥。


今回は以上です

太祖と趙普が有無相通ずる仲とは言え、三度ならず四度も同じ奏上するというのは信念はもちろん、命がけの直言であったのでしょうね、命がけにして私心のないことに太祖がハッとして気付いたと言うことではないでしょうか。
前回の足立正に対する今道潤三の反復連打の直言は、『宋名臣言行録』の太祖と趙普のやりとりが下敷きになっていたということがよく分かりますね。

こういうことが現代において出来るものかどうかは分かりませんが、「肝胆相照らす」という言葉をふと思い出しました。


2016年12月09日
反復連打の効用
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介しています。
前回の更新から、何かと多用で間が空いてしまいましたが遅ればせながら、反復連打の効用についてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「功成り名を遂げて身を退くは天の道なり」と老子にあるが、なかなか、そうはいかぬのが凡人の哀しさである。

<何もかも、すべて自分を中心に動いている。俺は決して独裁者ではない。だが、自分のつくった世界のまん中にはやはり坐っていたい。それくらいのわがままは許してくれてもいいではないか。でなければ、何のためにここまで事業をのばし、財界活動をしたのかわからなくなる>

そんな自問自答をくり返すのが、権力の座にある者の晩年のパターンである。

もう既に亡いが、王子製紙から出ていた日本商工会議所会頭の足立正が、その会頭の椅子に固執して、顰蹙(ひんしゅく)を買ったことがある。
しかし、相手があまりのも大長老で、「辞任勧告」という鈴を猫の首につけにいく人間がいなかった。
といって、放っておけば、弊害がでてくることは明らかだった。いや現実に出つつあった。

ところが、この因果な首きり役を、すすんでひき受けたのがTBS相談役の今道潤三だった。
どういう方法でやったかというと、小手先の細工は一切ぬいて、ストレートに足立をたずねて、ズバリときりだした。

「君のためにも、財界のためにも、今が一番のひき時だと思うが、引退の決意をしたらどうかネ」
いかに親友とはいえ、決して愉快な言葉ではない。足立はぷいと横をむいたまま、とりつくしまとてなかった。

今道はそのままひきさがった。ところが翌日、また押しかけていって同じ言葉をくり返した。
全く脈はない。次の日、また訪れた。
こんなことを十日間もくり返しているうちに、「わかった、やめるよ」と足立がいった。

足立の辞任が新聞発表された直後、今道にあったら、しみじみした調子でこんなことをいった。

「もし、あの場合、足立がうまくやめてくれればボクの男が売れるとか、永野重雄を会頭に昇格させることによって、永野に恩が売れるとかの打算や私心が、ほんのちょっぴりでも自分にあったら、この交渉はとてもうまくいかなかっただろう。ボクは心底から、辞任するのが足立のためであり、日本財界のためである、と信じきって動いたからこそ足立も感じてくれたのだと思う」

今回は以上です

足立正という人は、藤原銀次郎氏をたすけ王子製紙発展の推進役となった人で、当時は財界世話役の巨頭という立場だっただけに冒頭の「功成り名を遂げて身を退くは天の道なり」とは、いかないのが権力者晩年のパターンと言えるのかもしれませんが、気持ちが通ずる間柄でもあり小細工なしの直言に反復連打の効用がというものがあったのでしょうね。

次回は、この直言の下敷きについてのお話です。


2016年11月28日
人間の本分の大事
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」から側近の人間学ということで、前回はジンギスカンと耶律楚材の関係について紹介しましたが、今回は耶律楚材のもう一つの名言と人間の本分の大事についてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

また、「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生やすは一事をへらすにしかず」とも喝破した。

大宰相の言にしては、一見、消極的に思えるかもしれない。
だが、実際の政治に多少ともかかわりあい、苦労した人間なら、これが軍国非常の際の経験から滲みでた叡智であることに気がつくだろう。

二人の間は年齢のへだたりこそあったが、どんなことをいっても誤解されない間柄であり、第三者にはうかがいしることのできない深い内面的な関係に結ばれていたのだ。

イタリアの独立運動の志士、マッチーニは「l境遇のために家庭の和楽を味わうことのできない者の胸の中には、何物にも充たし難い空虚がある。こう書いている私には、それがよくわかる」と『ロンドン日記』に記しているが、まして、故郷はるかに遠征し、凄じい戦争と破壊のうちに日々を送る武人の心はいうまでもあるまい。

英雄ジンギスカンといえども、この空虚な悩みに堪えがたかったであろう。

殊に耶律楚材は、昨日まで、静かな山の容(すがた)、渓の声に親しみながら「只管打坐(しかんたざ)」につとめた身が、今日は幾万の鉄騎を擁して、住みなれた中原を後に遥かに胡沙(こさ)に向う。

「恨むらくは師を離るること太(はなは)だ早く、淘汰未だ精(くわ)しからざりしことを。乳慕(にゅうぼ)の念起る」と万松老師のことをしきりに偲んでいるのも、荒涼たる寂莫感にさいなまれたからであろう。

こういう時、人は非常に感じやすくなる。
はじめて、人間の本分の大事に触れるからである。
つまり、ジンギスカンと耶律楚材とは、その「人間の本分の大事」においてつながっていたのである。

今回は以上です

「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生やすは一事をへらすにしかず」

これは、ひとつの利益のある事を始めるよりも一つの害あることを取り除くがよい。
また一つの事を新しく始めるよりも無駄な一つの事を減らす方がよい。
という意味であり、補佐役の心構えを述べてもので自ら新しい事業を興そうとか華々しい勝利を得ようとするのではなく、どこに問題があり、何を除けばよいかを常に考えなければならないとするものです。

確かに消極的に思わないでもありませんが、組織が円滑に動くよう、自らは黒子に徹することが必要になってくるものだけに、伊藤肇も組織の中で苦労した人間の叡智としているのも頷けます。

それにしても、ジンギスカンと耶律楚材の関係に「人間の本分の大事」においてつながっていた、というところは伊藤肇本人が感得するものがあったのではないでしょうか。
文章の書き方に気持ちが込められているのを感じるのは私だけではないと思いますが、皆さんは、どのような感じをもたれたでしょうか。


2016年11月24日
ジンギスカンと耶律楚材(やりつそざい)
このところ、いろいろと振り回されることがあって更新が後回しになってしまいました。

とにかく伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」は、このブログの芯になっているだけに大切にしていきたいと思っています。
ということで今回はジンギスカンと耶律楚材(やりつそざい)についてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

「君主の頭脳の程度は、その宰相を見ればわかる」とマキャヴェリがいっているが、蒙古の英雄、ジンギスカンの宰相であると同時に、懐刀(ふところがたな)、側近として、よく、これを輔(たす)け、三十余年の長きにわたって複雑多難な蒙古の国政を運用したのは耶律楚材、その人であった。

耶律楚材は祖父の時代から金朝に仕えていたが、もともとは遼(りょう)の王族で、遼の滅亡後、金に仕官した。
幼少のころから儒学を修め、その天稟(びん)の偉大さは周囲から羨ましがられるほどだったが、すでに金の社稷は傾き、頽廃的でなげやりな亡国の風潮が一世を風靡していた。

そんな中にあった耶律楚材は若くして、三界に住するところもなき魂の不安に襲われ、儒学から禅へと転じていった。
そして、万松(ばんしょう)老師の鉗鎚󠄀(けんつい)の下で修業している最中にジンギスカンが金の首都、燕京を占領し、二人の邂逅となった。

性急一徹なところはあったが、同時に道理に明るく、竹を割ったような気性で殊に人材を愛したジンギスカンは一見してのめり込んだ。

耶律楚材、二十七歳の秋、内心鬱勃(うつぼつ)たるものがあった。これに対してジンギスカンは五十四歳。
ようやく円熟の境地に達していた。
以来、影の形に添うごとく、ジンギスカンのあるところ、必ず、耶律楚材の姿があった。

二人の問答は、常に「蒙古がいかにしたら強大になってゆくか」の一点にしぼられていたが、そのやりとりは内容の深い語録を形成し、読み返す度に深くうなずくことばかりである。
その一節を紹介しよう。

ジンギスカンが、ともすると武力万能を主張するのに対して、耶律楚材は

「高度の文化に対する関心を激しくもちつづけることこそ肝要であります。蒙古が蒙古自身の高い文化をもたぬ限り、せっかく武力で征服したとはいうものの、この金国を完全に支配することはできません。いや、それどころか、いつかは蒙古が金国に吸収され、逆に金国に支配される破目となりましょう」

と歯に衣きせぬ厳しい直言をし、「馬上、天下を取るべし。されど馬上、天下を治むべからず」の名言を残した。
武力で天下を取ることはできる。だが、武断政治では天下は治まらぬの意である。

今回は以上です。

ジンギスカンは知っていても耶律楚材という懐刀、側近については、この本を読むまで知りませんでしたが「馬上、天下を取るべし。されど馬上、天下を治むべからず」とは、今の時代においても当てはまる言葉ではないうでしょうか。
耶律楚材の名言は、その名を知らなくても聞いたことがある方も多い有名な言葉がありますが、それは次回に触れることにいたします。

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2016年11月14日
一国、争臣なければ殆(あや)うし
伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」を紹介していますが、残り頁数も僅かになって来ましたので更新も慌てなくてもと思っているうちに、ついつい遅くなってしまいました。
前回に続き側近の人間学ということで今回は、一国、争臣なければ殆(あや)うしについてです。

以下、伊藤肇の「喜怒哀楽の人間学」より

明治時代というのは、若き明治天皇を擁して、西郷隆盛の実直さあり、山岡鉄舟の剛直さありで、時に陛下に面とむかって直諫し奉り、陛下が過ちを改められない限り、一歩も退かぬという気風が強かった。

これもその一つの実例だが、明治天皇が酒の上で、侍従の山岡鉄舟に相撲を挑まれたことがある。
ところが、<天皇と臣下とは相撲など争うべきでない>という信念をもっていた鉄舟は平身低頭したまま応じなかった。

<むっ>とされた天皇は「それなら、坐り相撲じゃ」と仰せられて鉄舟にとびかかられたが、剣禅一如で鍛えた体は微動だもしない。
ますます、逆鱗された天皇は、やにわに拳を固めて、鉄舟の眼を突こうとされた。

眼をつぶされてはたまらないので、鉄舟が、ひょいとかわしたために天皇は空(くう)をついて鉄舟のうしろへどうと倒れ、顔をすりむかれて、そのまま、酔い潰れた格好で御寝(ぎょしん)になった。
さあ、あとが大騒動である。
侍従たちは、よってたかってお詫び申しあげるようすすめたが、鉄舟は頑として応じない。

ただ、頭をかわしたことについては、「一身はもとより、陛下にお捧げしたものだから、負傷などいささかもいとうところではないうが、もし、陛下が酔狂で臣下の眼を砕かれたとあっては、陛下は後世『暴君』の汚名を冠せられることになる。それでも陛下が拙者の措置が間違っていると仰せられるなら、腹かき切ってお詫び致す所存でござる」といいきった。

結局、明治天皇が「朕が悪かった、もう相撲も挑まぬし、深酒もしない」と仰せられて一件落着となったが、体を張って直言した鉄舟も偉かったし、それを素直に受け容れられて反省された天皇も偉かったということになる。

「一国、争臣なければ殆(あや)うし」という。
「争臣」とは『主君に直言して主君と争う臣」のことである。

今回は以上です

「争臣」というと逆臣というか現代では組織にとって有害な存在のような意味合いが強いようにも思いますが、有益にするか、有害にするかは上に立つ者の器量によるのではないでしょうか。

えてして組織というものは「沈香も焚かず屁もひらず」という人間を集めたがるものだけに「一国、争臣なければ殆(あや)うし」は現代においても意味を持っていると思います。

江戸城無血開城と言えば、勝海舟が有名ですが勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府に辿り着き、単身で西郷と面会しています、このとき官軍が警護する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄舟まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったため官軍もこれに気圧されたとのことです。

また維新後、侍従になったのも西郷隆盛のたっての願いでありました。
山岡鉄舟を含めて「幕末の三舟」と言えば、いろいろなエピソードがありますが、機会があれば書いてみようと思っています。


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