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2018年09月15日
三好十郎 天狗外伝 「斬られの仙太」
三好十郎の「斬られの仙太」(青空文庫)を紹介することにしました。
私がテレビで見たのが随分前のことなのですが、この本が書かれたのは1934(昭和9年)4月なんで今の時代からすると不適切と受けとられる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で引用・紹介いたします。
この作品には、被差別部落民に対する蔑称が用いられています。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を引用・紹介いたします。

さて、下妻街道追分土手上

右手遠くに見える筑波山。土手の向う側は小貝川の河原添いの低地になっていて、その左手寄りに仕置場が設けてあるらしく荒組みの青竹矢来の上部の一部がみられる。街道からその方へダラダラ下りの小道の角に、ギョッとする程大きい高札。

高札のすぐ傍の路上にペタリと土下座してしきりに額を砂利にすりつけてお辞儀をしている若い百姓真壁の仙太郎。その前の地面にはタトウ紙の上に白い奉書紙と筆硯がのせてある。側に同様土下座をして一緒に辞儀をしたりハラハラしつつ仙太郎の様子を見ている百姓段六。

高札、と二人を遠巻きにして黙って円陣を作って立っている五六人の百姓。他の通りがかりの行商人、馬方、鳥追の女など。中の二、三人の百姓は仙太郎の方を見ておれないで、うなだれ切っている。オドオドと仕置場の方を振り向いて見下す者、何か言おうとして言えず手足をブルブルふるわせている者。百姓の一人は仙太郎に向ってしゃがんでしまい、あやまるように辞儀をしている。行商人がよく読めぬ高札を読もうとして口の中で唸っている。

仙太 お願えでごぜます。皆様、どうぞ、お願えでごぜます。へい、お願えで……(辞儀をしつづける)
段六 皆さん、この俺からもおたの申すで。あんでもねえことで。所とお名前と爪判つめばんをいただきせえすれば、そいでこの男の兄きが助かりますので……(一同は顔を見合わせて答えぬ)
仙太 たんだそれだけでごぜます。へい。皆様にご迷惑をおかけするようなことは金輪際、きゅうり切ってありませんでええす。へい……。
段六 ……(群集と仙太を見較べて頭を振り)……仙太公、どうもはあ、しょうあんめ。もうこうなれば手遅れだべよ。あきらめな仙太公。よ、おい仙太公。
仙太 (段六の言葉は耳に入らぬ)お願え申します。

行商人 ……ええと、右之者共、上かみを恐れず、ええと、貢租こうその件につき……へえ、貢租てえと年貢のことじゃろが……強訴ごうそにおよばんといたし相謀り……強訴と言うのは何の事だえ?
百姓一 ごうそかね、はあて? とんかく、あんでもはあ差し越し願えばしようとなさったてえがな。
行商人 ははん、この平七とか徳兵衛とか仙右衛門やらがね?

仙太 (すがりつくように)さようでごぜます。仙右衛門と申すが、おらの兄きでごぜます。兄きと申せば若いようでがんすけど、九人の兄弟で一番上の兄の、おらが末っ子でえすで、もうはあ四十七になります。つい、かわいそうと思われて……。
段六 へい、それも、いよいよ差し越し願えばしたからと申すのではありましねえで、たんだこの飢饉でどうにもこうにもハア上納ば増されたんでは百姓一統死なにゃなんねで、せんめて、新田の竿入れだけでも今年は用捨して貰いてえと願い出て見ようでねえかと、村で寄り寄り相談ば打ぶったでがす。それだけのことでえすて。村は加々見でえす。

行商人 ……ふーん、でもさ、今日はお仕置きだちうのに、今日の連判では役に立つめえて。ええと、ええ兼ねて右之者共人柄よろしからず、ええ、その次の字がわからねえてや……。

仙太 いいえ、あんた様、人柄よろしからずなんど、それは私の兄きにそんなこと言いがかりをつけるのは、それは暴ぼうと言うもんでがんす。もう下の段に連れて来られていますによってどうぞご覧下せまし。人柄が悪いなんどと、そんな、あなた様! どうか、お願いでごぜます! 助けてやってくだせまし! へい! この通りでごぜます。決して決して大それたことばいたすのではごぜましねえで。兄きは叩き放し村方お構かまいの御仕置おしおきでえすけんど、叩きは二百が三百だろうと兄きも覚悟しております。お上かみに御手数かけたからには、それ位のことは当り前で、それのお取止めお願え申そうとは私等思っていましねえで。ただ村方お構いだけを、どうぞいたしましてご容赦いただけるように、皆様の御合力御願い申しまする。へい! 真壁の仙太郎兄弟一生涯恩に着まするでごぜます! 犬の真似をしろとおっしゃれば犬の真似いたしまするでごぜます! どうぞ皆様のお名前と爪判つめばんだけいただかして下せませ。足をなめろとおっしゃればなめますでごぜます!
段六 ……仙太よ、まあさ……。
百姓二 ……かわいそうになあ。しかし後が怖えからなあ。
百姓三 ……そうさ。後のタタリがなあ。
仙太 後のことは私一身に引受けてご迷惑は決して掛けねえ積りでえす。お願えで!
(百姓達、仙太の血相に気押されてジリジリ後に退る)。

2018年09月09日
その後の天狗党
天狗党が筑波山で挙兵し、諸生党や幕府軍と戦いながら尊王攘夷の意を徳川慶喜に伝えんと京を目指します。
そこで天狗党は,当時京都にいた一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ,斉昭の子,のちの15代将軍)の力を借り,朝廷に尊王攘夷を訴えることを決めた。元家老の武田耕雲斎(たけだこううんさい)を総大将とし,11月1日,1000名余りの大部隊で,西をめざして出発したのである。

一行の後を,幕府の追討軍がひたひたと追いかけていったが,あえて戦いをしかけることはなかった。また,経路となる各藩にも,天狗党を討つようにとの命令が出されていたが,多くの藩は衝突をさけてそのまま見過ごした。なにしろ天狗党は,戦いに慣れているうえ,10数門の大砲と,多くの鉄砲を備えていたのである。

結局,下仁田(しもにた,群馬県)で高崎藩の兵と,和田峠で松本・諏訪藩の兵と戦ったのみで,天狗党は大きな損害を受けることなく,京都への道を進んでいった。

天狗党が通過した各地の記録によれば,一行には,数人の女性も含まれていたという。さらに和田峠の戦いで,5人の女性が長刀(なぎなた)と鎖鎌(くさりがま)で戦ったという記述もある。彼女たちは,子や夫とともに一行に加わった者,あるいは炊事の仕事などにかり出された者たちであった。

ところで,天狗党は,筑波山で兵を挙げた当時,各地で無理やり軍資金を集めたり,乱暴を働いたりして,人々の反感をかうことがあった。そのため,一行は規律を厳しくし,泊まった宿にはきちんと金を払っていった。島崎藤村の名作『夜明け前』には,そうして整然と木曽路を通過していった天狗党の姿がえがかれている。

美濃(岐阜県)に入った天狗党の一行は,中山道を通ってまっすぐ京都をめざそうとしたが,その方面には追討の諸藩の軍勢が集結しており,やむなく,越前・若狭(いずれも福井県)を回っていくルートをとることになった。すでに暦は12月。荷をつけた馬や大砲をひいて,雪におおわれた難所の峠を越えていくのは不可能かと思われたが,一行は奇跡的に峠を越え,越前に入ることができた。

しかし,越前に入ってからも,雪の山道は続き,一行をさんざん苦しめた。一方,計1万数千人ともいわれる諸藩の勢力がせまり,一行が新保(しんぼ,現在敦賀市内)という小さな村落にたどり着いたころには,一行をすっかり取りかこんでしまった。しかも,たのみにしていた一橋慶喜が,その追討軍の指揮を取っているという。

天狗党の首脳は,ついに,先に進むことをあきらめ,新保のすぐ近くに陣をしいていた加賀藩に降伏した。京都へ向けて出発してから50日余り。一行の長い旅も終わりを告げた。

降伏した天狗党の一行は,まず敦賀の寺に収容され,その後,肥料用のにしんを入れておく蔵に移された。火の気もふとんもないうす暗い蔵の中では,厳しい寒さと粗末な食事が原因で,20数人が病死していったという。

間もなく,幕府の若年寄の田沼意尊(たぬまおきたか,老中田沼意次[おきつぐ]の子孫)による取り調べが行われ,天狗党一行に対する刑が決められた。それは,次のようにひじょうにきびしいものであった。

・死罪…………352人。武田・藤田ら。
・島流し………137人。
・水戸藩渡し…130人。

あの安政の大獄でも,死罪となったのはわずか8人だけである。この類を見ない大量処刑に驚いた薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち)は,その日記に「このむごい行為は,幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と記している。

天狗党が去った水戸藩では,諸生党が実権をにぎり,武田耕雲斎の一族をすべて死罪にするなど,天狗党側の人々を次々と処罰していった。

しかし,時代は大きく動いていた。薩摩藩・長州藩は討幕への動きを強め,ついに幕府は滅亡する。水戸藩でも,天狗党側が実権を取り返し,諸生党側に対する血生ぐさい復しゅうが行われた。逃げ出した諸生党は,水戸城をめぐる戦いで敗れ,全滅してしまうのである。

こうして水戸藩では,幕末の激しい争いの中で多くの人材が失われ,明治の新政府に,1人の高官も送り出すことができなかった。

さて、「斬られの仙太」は天狗党に、どうして関わるようになったのでしょう。
次回から三好十郎「斬られの仙太」を引用・紹介していきます。


2018年09月08日
天狗党外伝 「斬られの仙太」に決めました
次に何を書くかで、随分長い間、アレコレと考えてきましたが私がテレビで見た仲代達也主演の「斬られの仙太」の印象が強いので、これに決めました。

そこで天狗党と言ってもご存じない方もおられるでしょうから一応天狗党についてのあらましを書いておくことにしました。

「天狗党」は,水戸藩の尊王攘夷派の呼び名である。尊王攘夷とは,天皇を尊び,外国の勢力を打ち払おうという思想で,幕末にさかんに唱えられ,多くの志士たちをつき動かした。実は,水戸藩こそが,その尊王攘夷思想の発信地だったのである。

水戸藩の尊王攘夷思想は,2代藩主徳川光圀(とくがわみつくに,水戸黄門として有名)が始めた歴史書「大日本史」の編さんを通じて,次第に形成されていった。それが全国に影響をあたえるようになるのは,強硬な攘夷論者であった,9代藩主斉昭(なりあき)の時代である。

1829年に藩主となった斉昭は,学者の藤田東湖ら下級の武士を登用し,質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置・全領の検地を柱とした,積極的な藩政の改革を行った。やがて,ペリーの来航で対外危機が高まると,斉昭は幕府の政治にも関わるようになり,斉昭とその側近の東湖は,全国の尊王攘夷派のシンボル的存在となったのである。

しかし,結局幕府は開国を実施。斉昭は大老井伊直弼(いいなおすけ)と対立し,安政の大獄で処罰を受けた。これ以降,藩内では,「天狗党」とよばれる尊王攘夷派(斉昭の改革を支持してきた派)と,「諸生党」とよばれる保守派(改革反対派)との対立が激しくなっていく。

この一方で,尊王攘夷派の浪士たちによる過激な事件がくり返されるようになった。次の3つの事件は,いずれも水戸浪士が中心になって引き起こした事件である。

1860年:桜田門外の変(大老井伊直弼を襲撃した事件。井伊は死亡)
1861年:第1次東禅寺事件(イギリス公使館を襲撃した事件。館員が負傷)
1862年:坂下門外の変(老中安藤信正を襲撃した事件。安藤は負傷)

全国各地で尊王攘夷運動が活発になる中,藤田小四郎(東湖の子)を中心とする水戸藩の尊王攘夷派の急進グループが,ついに行動を起こした。1864年(元治元)年3月,攘夷の実行を幕府に迫るとして,筑波山(茨城県)で兵を挙げたのである。この挙兵に際し,藤田は,長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)から軍資金の提供を受けていた。

彼ら天狗党には,水戸藩士ばかりでなく,尊王攘夷運動に共感を覚える農民や他藩の武士なども加わって,たちまち数百人の勢力になった。7月以降,天狗党は,幕府の追討軍や諸生党の軍と筑波山や水戸の周辺でしばしば戦うが,次第に追いつめられ,10月末,水戸藩領北部の大子(だいご)に逃れた。

今回はこの辺にして、天狗党がどうなったのかを次回に続けます。


2018年09月01日
漸く更新することにしました
今まで、いろいろと考えて来ましたが、なかなかコレというものが思い浮かばない中で一旦は更新を止めようか、とも思いましたがアレコレ考えている内に二つに絞られてきました、一つはノモンハン事件という昭和14年に起こった満州国とモンゴルソ連の国境紛争が大規模な戦闘になってしまったことを書くか、水戸天狗党と百姓の関わり合いを書くか、今はどちらにするか決めかねています。


水戸天狗党については、以前に映画でやったものをだいぶ前ですがテレビで見たことがあり、面白そうなので原作を紹介・引用しながら書いてみよかなとも思ったりしています。

ただ、ノモンハン事件にしても水戸天狗党にしても長くなりますので、この辺りをどうするかが問題です。
何れにしても、今月には何とか書き出せるようにはするつもりです。


2018年07月16日
なかなか更新出来ません
広告が表示されるのは、あまり良い気分がしませんので継続的に更新していけるような内容のある記事を探していますが今のところは、なかなか更新出来ません。

その内にと思いながら実際に継続して更新していくとなると、読み応えのあるものが求められることからすると難しく思えてくるものです。

読み応えという点では、やはり物語風なものになって来るわけでブログとして書く以上は更新を楽しみにしてもらえるような記事に出来れば、と思えば思うほど更新する気はあっても焦るばかりで更新が遠のいている現状です。

来月ぐらいには何とかするつもりですが、と言って具体的なイメージが思い浮かんでいるのではないので延びるかもしれません。

2018年05月30日
仕方なく更新
また広告が掲載されています、1カ月ブログを更新しないと広告が掲載されるということで仕方なく更新することにしました。

何でもいいのなら、「あいうえお」という文字を並べてやろうかなと思いましたが、あまり挑発的なものにしても読者には失礼になるのでと思ってやめました。

しかし、相変わらず書く気にならないので、コレと言って書くべきものが見当たりません。
このブログを始めた当初はアフリエイトというものに少しは興味もありましたがプログラムの内容を見ていると気乗りがしないものばかりなので途中から本の読後感などを主に記事するようになっています。


このところ、更新が滞っているのはこういうものを書きたいというイメージが未だ膨らんでいないということでしょう。
まぁー、あてにならないブログですがよろしくお願いいたします。


2018年04月26日
他のブログを読んで
暫くブログを書く気がしないので更新しなかったら、私の知らない間に広告が掲載されていました。

何か、早くブログを書け、と催促されているみたいであまりいい気持ちはしませんが、このまま暫くは更新しないでおこうかな、とも思いましたがブログの内容は別にして更新さえしとけば、しょうもない広告は掲載されないようなのでとりあえず更新することにしました。

と言ってコレといった書くものを用意しているわけではありませんが、先日他のブログ(ファンブログではありません)を見ていてアクセス数について書いたブログがありチョット興味を感じたので読んでみました。
自分のブログのアクセス数を少し自慢しているようで、アクセス数を伸ばすには人の役に立つ内容のものではなければならない、というものでした。

営業・集客ブログなら当然何らかの役に立たなければ書いている意味がありませんので当たり前と言えば当たり前のことですね。

人の役に立つ内容と言っても書かれている文章からは、どうしたらブログを読んでもらえるかという手法のように感じましたが、人に読んでもらうためにブログは書くものなのか、それとも自分に向き合うために書くものなのかを考えてみました。

私は自分に向き合うためにブログを書いているタイプで自分に向き合う問題意識が他人の共感や興味を惹くことで読んでもらえればと思っています。
勿論、共感や興味を惹かなければ読んでもらえませんが、それは承知の上です。


ブログを書くと言っても営業・集客を目的としたブログとそうでないブログでは違っていて当たり前だと思いますし、営業・集客ブログは何とかして多くの人に読んでもらおうとしているのがよくわかりました。


2018年03月25日
どうもブログを書く気がしない
最近どうもブログを書く気になれなくて何か無理やり書いているような感じですが、これではブログを読む側もブログを読む気になれないのは当然かもしれません。

と言ってブログを読んでもらえるに越したことはありませんが、別に読んでもらわなくても私が興味を持ったことを思ったままに綴っているだけのブログであり、読んでもらって面白いと思われたなら左横のアフリエイトバナーをクリックしてもらえれば私にとっては十分です、ただ私が気乗りしないものを書いたところで以心伝心じゃないけれどもブログを読む方にも伝わってしまうものなのでしょうね。


私が、このブログで書きたい思っているのは人物であり激動期の人物に焦点を当てて書いていければと思っていますが肝腎の人物が、「この人」と言うところまで絞り込めていません。

「この人」を書きたいと思うまでは書く気がせず、このままブログを止めることは今のところは考えていませんが興味を持てる人物で私が今書ける対象と考えると、なかなか「この人」を書いてみたいとは思い浮かばないものです。

例えばゾルゲ事件のスパイ、ゾルゲなんかは私が興味をそそられる人物ですが、これを書こうとすると書く前にゾルゲに関する本を2〜3冊は読まないと書けません、こういった事情もあってブログ更新が滞ることもありますが、そこのところはよろしくお願いいたします。


2018年03月18日
ジャンケン
他人に自慢できること、ということで私の場合を考えてみると子どもの頃は割といろいろありました、今はもう出来ませんが昔は木登りは結構上手い方だったのとジャンケンは不思議と勝つことが多かったことです。

今は昔と違って子どもが木登りをして遊ぶような木がなくなってしまいましたがジャンケンは今でも昔ほどではありませんが結構自信を持っている方でグー・チョキ・パーの中でグーを出すことが多く7〜8割がたグーを出しています。

ジャンケンをすると無意識に自然とグーを出しています、ジャンケンというのはグー・チョキ・パーの三つの中から瞬時に何を出すかを判断しなければならないことをからすると、その人の特徴的な傾向を推し測れるようにも思いネットでジャンケンを検索してみると面白いことが分かりました。

ジャンケンで性格判断ができるというもので、私のようにグーを出す人は頑固でひねくれ者で周りに流されない強い意思の持ち主ということですが確かに頑固でひねくれ者ちいうのは当たっているように思います。

それではチョキを出す人を見てみると、切れ者または凡人。周囲に流されやすく保身を第一に考える小心者。ということですが都会的でクールなタイプと言えるのかもしれません。
最後にパーを出す人のタイプは無邪気。楽天家。考える前に行動する豪快な性格。ということですが私がパーを出す時はアイコが続いた時に相手の裏をかくのにパーを出すことがあります。

まぁージャンケンでの性格判断といっても、ある意味で一つの遊びですがが結構面白いものですね。

2018年03月11日
人に自慢出来ることについて
前々回と前回は「お金持ち」についてのことを書きましたが、私には縁遠いことなので書いていても実感が伴わないようで前回の乞食が銀行の大口預金者になった経緯はなるほどと感じたもののお金持ちの生活などには全く興味はありません。

こういうことで、お金持ちについての記事は前回で終わりにして今回は”人に自慢出来ることについて“ということを考えてみることにしました。
と言うのは私が小学校の低学年の頃のことですが近所に私より2つほど上でしたが魚取りや遊びにかけては何でも知っていて遊び方や魚が取れる場所を教えて貰ったことを今でも思い出します。

そのお兄さんとは一緒によく遊びましたが子供ながら、このお兄さんの遊びの知識の豊富さには一緒に遊んでいて感心したものです。

当時はまだ市内でも畑や田圃が残っていて今と違って、おもちゃやゲーム機器などがない時代で遊びは子どもらが自分で工夫したり遊び場を探して遊んでいた時代だっただけに、子ども心に尊敬していましたがその後引っ越しされてしまい遊び方をもっと教えて貰いたかったので残念と言うよりも寂しい思いをしたものです。

人には得手・不得手というものがありますが自分の子どもの頃を思い出してみることで新たな強みということに気付くキッカケにはなるのではないでしょうか。

次回も“人に自慢出来ること”や自分の強みなどについて書いていくつもりにしています。



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