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2018年07月04日
悲しみは孤独でブーストできる
今日はTwitterで流れてきた猫マンガについて、少し語ってみたいと思う。
電気こうたろうさんのお描きになったものである。
まずはお読みいただきたい。
以下の論述はネタバレになるので、幾らか行を空ける。
上記作品を読み終わった方は、スクロールして見ていただきたい
この作品は、題名が『猫に寿命をわける話』というものであって、あらすじもそのようなものである。
長年飼って年老いた猫が死にそうになったので、飼い主が自分の寿命を削って、その分を猫の寿命として分け与えるのであるが、そのおかげで猫の寿命はいくぶん伸びたものの、そのような奮闘虚しく、結局のところ猫は死んでしまうというようなものである。
さて、この作品を最初に読んだときは、率直に悲しくなり、落涙さえしたのであるが、読んでしばらく考えているうちに、この作品を読むと悲しくなるのは、単に猫が死んでしまったからというだけのことでもないなと考え至ったのであった。
この作品には幾らかのトリック、というと語弊があるが、読んだ人が悲しい気持ちになるように、設定とかもうまく作ってあると気づいたのである。
そうであれば、この作品の何が悲しいのかが分かれば、その作劇上のテクニックを、他のなろう小説とか書くときにも応用して使えるはずであるねということにもなるのであった。
そういうわけで少し書いておこうと思ふ。
この主人公のオバちゃんは、猫が弱ってきたときに、人間の寿命を猫に分ける方法があると言われて、それを施術してもらうのであるが、猫の寿命を1年延ばすために、人間は10年の寿命を失うというような設定になっている。
まあ人間より猫のほうが寿命が短いのであるし、猫に人間の寿命を強引に移植する無理を思えば、これくらいの交換比率でも妥当なところかなと思わなくもない。
が、人間の側からしてみたら、これってかなりな負担である。
なんたって寿命が10年縮むのであるからそりゃ大変なことだ。
家族が聞いたらたぶん止めるだろう。
しかしながら、この漫画には主人公のオバちゃんの家族らしき人は登場しない。
そうしてこのオバちゃんは、都合3回も寿命の交換をやってしまう。
最初に猫の寿命を延ばした日の夜に、猫と一緒の布団で寝ながら、オバちゃんは、チュッチュッ(猫の名前である)に、
と、語りかける。
服やジュースはまあいいし、しわは覚悟のうえとしても、この友達がいらないという言葉から浮かんでくるのは彼女の孤独でもある。
彼女が早くに死んでも悲しむ友達もいないのかもしれないし、もっと言えば、この言葉からは、彼女にとって大事なのは、この猫であって、それ以外の要素は重要でない残余のことであるというようにも聞こえる。
つまり彼女には、家族や友達がおらず、家庭や社会における義務や責任が重くなく、個人的な楽しみごとにはさほど意義を感じていないということになるかもしれない。
そしてそのぶんだけ相対的に、彼女にとっての猫の重要性が増してくるのである。
彼女にとっては価値というものは、この猫だけであると感じているようにすら、私には思える。
そしてそのような状況で、その唯一の価値である猫を奪い去られるならば、それは確かに悲劇以外のなにものでもないではないか!
というわけで、ここがミソとなる部分である。
つまり主人公が持っているものを少なく設定し、その唯一持っている貴重なものが奪い去られるという展開にすれば、単に貴重なものが奪われるというのに比べて悲劇性を増すことができるのである。
考えてみれば、というか考えなくても、父母、祖父ちゃん祖母ちゃん、おじさんおばさん、兄弟姉妹、親しい友達、など全部持っている人が例えば母を失うのに比べて、
お互い以外には親類もいない天涯孤独の母子家庭の母親がなくなったりするほうが、子供にとってはより一層の悲劇でもあろう。
さらに発展して考えてみれば、何で見たのか忘れたが、
家で飼っていた犬が死んで、子供が深く悲しんでいると、お父さんが勝手に子犬とかを新しく買ってきてしまって、子供にプレゼントするものの、子供は、亡くなった犬とこの子犬はぜんぜん別の犬だからかわりにならないやい! みたいなことを言って反発し、お父さんは無神経だと責められるというような展開はありがちであるような気がする。
考えてみればこのお父さんは確かに無神経であるかもしれないし、亡くなった犬と新しい子犬は、ぜんぜん別の犬であるというのも事実であろう。
しかしながら、孤独や、持っているものの少なさが悲しみを深めるというテーゼが真であるならば、お父さんのやったことは正しい対処であるということになる。
お父さんはデリカシーがなく無神経で小狡いかもしれないが、実際的な対処に秀でていたのであった。
ある対象への依存が大きければ喪失のダメージは大きく
愛情の対象がたくさんに分散していれば、そのうちひとつを失っても、そのせいで自分の人生ごと否定するような深い悲しみには襲われずにすむということなのであるね。
そういうことであるから、作者の皆様がたにおかれては、主人公などの設定を調節して、悲劇性の度合いも自由自在に調節し、読者の涙も自由自在にちょちょぎれさせられるようになっていただきたいというのが当ブログの願うところである。
電気こうたろうさんのお描きになったものである。
まずはお読みいただきたい。
猫に寿命をわける話(1/3) pic.twitter.com/NpxRYCoA1o
— 電気こうたろう (@gurigurisun) 2018年6月14日
以下の論述はネタバレになるので、幾らか行を空ける。
上記作品を読み終わった方は、スクロールして見ていただきたい
この作品は、題名が『猫に寿命をわける話』というものであって、あらすじもそのようなものである。
長年飼って年老いた猫が死にそうになったので、飼い主が自分の寿命を削って、その分を猫の寿命として分け与えるのであるが、そのおかげで猫の寿命はいくぶん伸びたものの、そのような奮闘虚しく、結局のところ猫は死んでしまうというようなものである。
さて、この作品を最初に読んだときは、率直に悲しくなり、落涙さえしたのであるが、読んでしばらく考えているうちに、この作品を読むと悲しくなるのは、単に猫が死んでしまったからというだけのことでもないなと考え至ったのであった。
この作品には幾らかのトリック、というと語弊があるが、読んだ人が悲しい気持ちになるように、設定とかもうまく作ってあると気づいたのである。
そうであれば、この作品の何が悲しいのかが分かれば、その作劇上のテクニックを、他のなろう小説とか書くときにも応用して使えるはずであるねということにもなるのであった。
そういうわけで少し書いておこうと思ふ。
この主人公のオバちゃんは、猫が弱ってきたときに、人間の寿命を猫に分ける方法があると言われて、それを施術してもらうのであるが、猫の寿命を1年延ばすために、人間は10年の寿命を失うというような設定になっている。
まあ人間より猫のほうが寿命が短いのであるし、猫に人間の寿命を強引に移植する無理を思えば、これくらいの交換比率でも妥当なところかなと思わなくもない。
が、人間の側からしてみたら、これってかなりな負担である。
なんたって寿命が10年縮むのであるからそりゃ大変なことだ。
家族が聞いたらたぶん止めるだろう。
しかしながら、この漫画には主人公のオバちゃんの家族らしき人は登場しない。
そうしてこのオバちゃんは、都合3回も寿命の交換をやってしまう。
最初に猫の寿命を延ばした日の夜に、猫と一緒の布団で寝ながら、オバちゃんは、チュッチュッ(猫の名前である)に、
チュッチュッがおれば何もいらんよ 服もいらんし友達もいらん ジュースも我慢できるし、しわだらけになっても平気よ だからチュッチュッ 長生きしてね・・・
と、語りかける。
服やジュースはまあいいし、しわは覚悟のうえとしても、この友達がいらないという言葉から浮かんでくるのは彼女の孤独でもある。
彼女が早くに死んでも悲しむ友達もいないのかもしれないし、もっと言えば、この言葉からは、彼女にとって大事なのは、この猫であって、それ以外の要素は重要でない残余のことであるというようにも聞こえる。
つまり彼女には、家族や友達がおらず、家庭や社会における義務や責任が重くなく、個人的な楽しみごとにはさほど意義を感じていないということになるかもしれない。
そしてそのぶんだけ相対的に、彼女にとっての猫の重要性が増してくるのである。
彼女にとっては価値というものは、この猫だけであると感じているようにすら、私には思える。
そしてそのような状況で、その唯一の価値である猫を奪い去られるならば、それは確かに悲劇以外のなにものでもないではないか!
というわけで、ここがミソとなる部分である。
つまり主人公が持っているものを少なく設定し、その唯一持っている貴重なものが奪い去られるという展開にすれば、単に貴重なものが奪われるというのに比べて悲劇性を増すことができるのである。
考えてみれば、というか考えなくても、父母、祖父ちゃん祖母ちゃん、おじさんおばさん、兄弟姉妹、親しい友達、など全部持っている人が例えば母を失うのに比べて、
お互い以外には親類もいない天涯孤独の母子家庭の母親がなくなったりするほうが、子供にとってはより一層の悲劇でもあろう。
さらに発展して考えてみれば、何で見たのか忘れたが、
家で飼っていた犬が死んで、子供が深く悲しんでいると、お父さんが勝手に子犬とかを新しく買ってきてしまって、子供にプレゼントするものの、子供は、亡くなった犬とこの子犬はぜんぜん別の犬だからかわりにならないやい! みたいなことを言って反発し、お父さんは無神経だと責められるというような展開はありがちであるような気がする。
考えてみればこのお父さんは確かに無神経であるかもしれないし、亡くなった犬と新しい子犬は、ぜんぜん別の犬であるというのも事実であろう。
しかしながら、孤独や、持っているものの少なさが悲しみを深めるというテーゼが真であるならば、お父さんのやったことは正しい対処であるということになる。
お父さんはデリカシーがなく無神経で小狡いかもしれないが、実際的な対処に秀でていたのであった。
ある対象への依存が大きければ喪失のダメージは大きく
愛情の対象がたくさんに分散していれば、そのうちひとつを失っても、そのせいで自分の人生ごと否定するような深い悲しみには襲われずにすむということなのであるね。
そういうことであるから、作者の皆様がたにおかれては、主人公などの設定を調節して、悲劇性の度合いも自由自在に調節し、読者の涙も自由自在にちょちょぎれさせられるようになっていただきたいというのが当ブログの願うところである。
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2014年01月20日
猫が主人公の小説A
今日は、昨日に続いて、猫が主人公の小説をもう一冊紹介しようと思う。
題名は 『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』 である。
著者は、『鴨川ホルモー』 などの小説で有名な 万城目 学 である。
主人公はマドレーヌ夫人という名の猫である。
彼女は外国語(犬語)がはなせる知的な猫なのである。
そして、玄三郎という犬と夫婦として暮らしている。
そして、マドレーヌ夫人の家には、かのこちゃんという小学生の女の子がいるのである。
この本はもちろんファンタジーである。フィクションである。
けれども、実際に猫を飼っている人からすれば、この本の中に出てくる、マドレーヌ夫人という猫を見て、
『そうそう、猫ってこんな生き物よね』 と思ってしまうかもしてない。
猫にも個体差があるとは思うが、
猫っていう生き物は、案外と上品であり、なんでも分かっているようで、案外と分かっていなかったりして、そうかと思えば人間に気をつかった、ような気がすると思えば、それは単なる偶然だったりするわけである。
この作品は荒唐無稽なファンタジーでありながらも、そういう猫の本質的なところをよく捉えているように思われる。
要するに”分かってる”感じがするのである。
ぬこ好きの方にはぜひご一読いただきたい作品である。
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2014年01月19日
猫が主人公の小説@
昨日は、動物が主人公の 『動物小説』 を紹介した。
この動物小説というのは、わりと自然派というか、動物の現実的なありようを題材にして書かれている、リアリズムよりの小説だったわけである。
けれども今日紹介するのは、フィクションたっぷりの 『動物小説』 なのである。
『ルドルフとイッパイアッテナ』 斉藤 洋 (著)
超有名な児童書であるから、ご存知の方も多いであろうけれども、あえて紹介する。
私の通っていた小学校の図書室の棚にも、この本と 『新ちゃんがないた! 』 という本とが何冊も大量に置かれていたのを覚えている。
つまりそれだけ本を借りる人が多かったということで、その人気のぶんだけの魅力がある作品なのである。
アマゾンの中古品なら安いのがあるので、手元に置いておいてもよいだろう。
ご存知ない方のために内容を紹介すると、
ルドルフという黒猫が主人公なのであるが、このルドルフが、うっかり長距離トラックの荷台に乗ってしまい、飼い主の家から遠く離れた見も知らぬ土地に連れてこられてしまうのである。
野良生活を余儀なくされて、途方にくれるルドルフであったが、つれてこられた先の土地には、イッパイアッテナという、とても大きくて賢い、親分肌の野良猫がいて、ルドルフは彼の助けを借りながら、いつか飼い主のもとに帰る日を夢見て強く生きていくのであった……
というようなお話である。
児童文学史に残る傑作である。
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