アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

ミャンマーを知って日本を知る!

ミャンマー国旗

 「アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育発達のみを求めて闘ったのではない。インド・ビルマ・チャイナ・フィリピン・スマトラ等で、政治的・経済的に足枷をはめられて抑圧されていた人々のために闘ったのだ。」
(ビルマ独立義勇軍)

“♪守るも攻むるも鋼鉄の 浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の 皇国の四方を守るべし
まがねのその艦日の本に 仇なす国を攻めよかし♪”

 この歌を知っている方はいますか?歌詞は知らなくってもメロディーを聴けば誰でも分かる歌。実はこれ、軍艦マーチなんです。パチンコ屋で威勢良くかかっている曲と言えば分かって貰えるかもしれません。

 残念なことに、このような説明をしなくてはならなくなってしまったこの曲は、日本が戦争に負けるまでは、海軍の誇りであった名曲でした。しかし、今ではパチンコのイメージとなってしまい、なんだか情けない役割にされています。ところが驚くなかれ、この曲が今でも誇りと共に演奏される名誉ある存在でいられるのは、遠くミャンマー(旧ビルマ)※の“国軍記念日”という晴れ舞台なのです笑い拍手
※旧ビルマは、1989年に国名をミャンマーに変更。それ以前を記す場合はビルマと表記しています。

 ミャンマーでは、3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が、首都ヤンゴンに集まり、盛大なパレードを繰り広げるのですが、なんとびっくりこのパレードは、いきなり日本のこの“軍艦マーチ”から演奏し始めるのです。続いてミャンマー軍楽隊は“歩兵の本領”“愛馬進軍歌”等、昔の日本の歌を次々と演奏して、パレードを続けていきます。これは一体、どういうことでしょう?

 実は、ミャンマーは「日本人より日本を愛する国」と言われる程の親日国家です。何故かというと、ミャンマーでは政府高官からジャーナリストに至るまで、皆こう言います。「ミャンマーが今日あるのは、日本のおかげです。日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、独立する事が出来た。我々は、深く日本に感謝しているのです。」

 ビルマは19世紀、3度に渡ってイギリスの攻撃を受け、ついに1886年イギリスの植民地になりました。その時、既にイギリス領であったインドの1州に組み込まれ、ビルマの国王夫妻はイギリス領スリランカに流刑され、その地で死亡。王子は処刑され、王女はイギリス軍の士官の従卒に与えられてしまいます。

 その後の悲劇を、バー・モウ元首相はこう書いています。「外国人による搾取は上層から下層まで、あらゆる方面で暴虐さを加えていた。巨大イギリス企業は上等の部分を全て独占し、インド人と中国人の商人達がそれに続いて中級の部分を殆ど手に入れてしまっていた」
(バー・モウ『ビルマの夜明け』より)

 そしてビルマ人は、チーク材の切り出し等の重労働にこき使われました。現在もミャンマーでは先端の尖っていない鎌や包丁が売られていますが、これは植民地時代、イギリス人に抵抗する武器にならないようにした名残だといいます。こんな悲惨な状況を一転させたのが、日本軍の進攻と、日本によるビルマ独立志士達の育成でした。

 話は今から約100年前の明治時代。膨張を続けて南下を推し進めるロシアを相手に、日本は国を挙げて戦いました。これが、日露戦争(1904〜05)です。

 当時は、アジアの国々の殆どが、ヨーロッパの白人諸国の支配下に置かれ、植民地とされていました。先に紹介したように、ビルマも例外ではありません。誰もが、アジアの小国、日本の敗戦を予想していましたが、それを裏切って世界最強の軍事大国ロシアに陸と海で勝利を収めました。有色人種であるアジアの国が、白人をやっつけたという知らせを聞いた、他の有色人種達は歓喜し、こぞって日本に学び始めます。

 その中の1人に、ビルマの僧オッタマがいました。オッタマ僧正は抗英独立運動を行って投獄されたこともある人物で、日本にやってきたのは1907年でした。彼は3年間日本に滞在して、取材した内容を『日本』という本にまとめ、ビルマで発刊しています。その中で「日本の興隆と戦勝の原因は、明治天皇を中心にして、青年が団結して起ったからである。我々も仏陀の教えを中心に、青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることが出来る。」「長年のイギリスの桎梏から逃れるには、日本に頼る以外に道はない。」と主張したのです。その後もオッタマは、ビルマの完全自治を要求する運動を起こし、イギリス政府によって投獄される等、何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死してしまいます。残念ながら日本と協力して立ち上がった、ビルマ青年の活躍を彼は見ることが出来ませんでしたが、その反イギリス精神は独立の志士たちに受け継がれていきました。

 この若き志士達こそ、後に「ビルマ建国の父」と呼ばれる、オン・サン達、タキン党の青年達でした。オン・サンとは当時の表記ですが、現在ミャンマーで活躍している、アウン・サン・ス−・チー女史のお父さんです。

 そして1930年代後半に、彼らタキン党を中心に、反イギリス運動は国民的盛り上がりを見せますが、イギリスは独立運動の大弾圧を始め、志士たちの多くが逮捕、投獄されてしまいます。これを逃れたオン・サンは独立蜂起の為、日本への亡命を決意するのです。

 一方、同じ頃イギリス・アメリカは日本への敵視政策を取り、日本と敵対関係にあった蒋介石(しょうかいせき)軍に、莫大な軍用物資の援助を行っていました。それを運ぶ道程が、イギリス領ビルマを通って中国に入る「ビルマルート」、いわゆる「援蒋(えんしょう)ルート」でした。早く蒋介石との戦争状態を終わらせたい日本にとっては、このビルマルートを遮断することが不可欠の問題となってきたのです。

 そこで日本は、ビルマ青年達を支援し、イギリス勢力を追放する為、ビルマ独立を達成しようとしたのです。

 1940年、日本陸軍は鈴木敬司大佐をビルマに派遣、オン・サンらを救出し、大佐の故郷である浜松に亡命させます。そして、鈴木敬司大佐を機関長としたビルマ独立の為の「南機関※」が誕生するのです。
※南機関(みなみきかん)は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。
 「南機関」の活動計画は、独立運動の中核となるビルマ人志士30人を、ひそかに日本に脱出させ、彼らに武装蜂起に必要な軍事教育をすること。その教育訓練の終わったビルマ人志士を、再びビルマに潜入させ、反イギリス運動を起こし、ビルマ独立政府の樹立を宣言する事と、蒋介石を支援するビルマルートを遮断する事にありました。

 この時の彼らこそ、後にビルマの独立と建国の英雄として仰がれる「ビルマ30人志士」です。

 1941(昭和16)年、大東亜戦争の開戦と同時に、タイのバンコクで30人の志士を中心に「ビルマ独立義勇軍」が結成されました。日本軍による厳しい訓練を受けた青年達は、独立ビルマを象徴する孔雀の旗を掲げて、ビルマ独立を誓い合ったのです。

 義勇軍の司令官には青年達が心から慕う、鈴木敬司大佐が就任し、オン・サンの提案で鈴木大佐は純白のビルマの民族服=ロンジー姿で白馬にまたがり、ビルマ民衆の前に登場します。これはビルマの伝説で「イギリスに滅ぼされたアラウンパヤー王朝最後の王子が、いつか必ずボモージョ(雷帝のこと)となって、白馬にまたがり、東の方角からやってくる。そしてイギリスの支配からビルマを解放してくれる」という、ボモージョ伝説を演出したものでした。
 ビルマ民衆は歓喜して彼ら義勇軍を迎え、その協力もあって3ヶ月で首都ラングーンを陥落させ、イギリス軍を追い払いました。そして日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマはついに独立を宣言したのです笑いv

 その時、外相に就任した、ウー・ヌーは次のように演説しました。
 
 「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉の為にのみ、生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える。」

 しかし日本と同盟を結んで米・英に宣戦布告したビルマにも、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、「日本と離れてイギリスと結ぶべきだ」との声が高まってきます。日本と一緒に敗戦国になって、再びイギリスに占領されるのを怖れたのです。それまで日本と共に闘ってきた30人の志士達も動揺します。バー・モウやボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、ミン・オンという青年にいたっては日本を裏切ることは恩義に欠けるとして自決してしまいました。

 しかし、オン・サンは「反日に立つのは、ビルマを生き残らせる為の、唯一の方法」であると、バー・モウに手紙を書き、1945年(昭和20年)3月、ついに日本に反旗を翻すのです。この決断によって、日本軍はビルマから撤退し、代わりにイギリス軍が戻ってきました。

 再び植民地支配を目指すイギリスに対し、オン・サンは日本軍に育てられた10万人の義勇軍を率いて、イギリスと独立交渉をします。

 そしてついに1948年1月4日、イギリスのアトリー内閣が独立を承認し、ビルマはようやく独立を達成したのです。しかしこの席にオン・サンはいませんでした。この5ヶ月前に政敵の銃弾に倒れていたからです。

 その20年の後、バー・モウは『ビルマの夜明け』と言う著書を発表し、この本がイギリスでも出版される事になりました。この時「ロンドンタイムズ図書週報」1968年5月23日号では、この本について次のように紹介しています。

 「ビルマを長い植民地支配から解放した者は誰か。それは、イギリスでは1948年の、アトリー首相の労働党内閣ということになっている。しかし、バー・モウ博士はこの本の中で、全く別の、真の歴史事実として、日本が第2次世界大戦で果たした役割を公平に評価している」とし、序文の一部を引用しています。

 それは「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった。」というバー・モウの歴史観を現した一文でした。

 日本では決して語られる事のない歴史が、ここミャンマーではしっかりと語り継がれています。彼らが植民地支配を脱する契機となった国軍記念日のパレードが、日本の“軍艦マーチ”で始まるなんて、感動ですね笑いv

ミャンマー(旧ビルマ)

 では!のちほど祝日

 星もっと詳しく知りたい人への推薦図書
・『最新東洋事情(1995年版)』深田祐介/文芸春秋
・『アジア独立への道』田中正明/展転社



・・・国旗日本の食料自給率をみんなでUPしようびっくり

「めざましテレビ」「ガイアの夜明け」「AneCan」「anan」「読売新聞」「産経新聞」「日経新聞」などなど、多くの有名メディアに特集を組まれ、最も注目されているoisix太陽
今なら、おためしセット2700円相当(税込)が、内容変わらず1980円(税込)で美味しい食材盛り沢山笑いv まずは1度お試しを^^ 


    >>次へ
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。