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2016年05月17日

日本人の間で「都市鉄道・格安バス」がやたらチヤホヤされるワケを考える

2000年代あたりから日本の交通文化の偏り方が尋常じゃなくなっている。
長距離輸送では格安系のバスが流行っている。ウィラー、さくら観光、OTB・・・あげればきりがないが、いずれも運営母体は観光バスで、公共交通としてのイメージが沸かない。前身がグレーゾーンの観光バスなのか、パックツアーも充実している。
一方、都市・地方の近距離輸送向けには鉄道が流行っている。 
JRだったり、私鉄や路面電車などが中心。派手な電車ばっかりで、長距離バスがやたら地味なのとは対照的だ。
これらは「商売」を追及する成り行きで発生した現象かもしれないが、日本の事情を連想するものでもある。
都会がまだ田舎だった時代には、都市には無条件で零細私鉄のある暗黙の了解があった。都市化が進むとそれがバスに転換されたり国鉄に移行したりしたという。都市政策と交通政策が地続きになっていたことに原因があると思われる。
「零細私鉄」は田舎だけに存在し、「私鉄代替バス」は中途半端な都市に存在した。現代に生きる日本人ならびっくりすることだが、一部の遅れた地方ではいまだにこれが続いているそうだ。
さて、われわれ国際人・在日世代は、こういう日本の交通事情を知らないことが普通だ。
都会であれ田舎であれ、バランスよく公共交通が当たり前にある。それに、鉄道だけの時代ではない。バスもあるし、マイカーもある。しかし、そんな豊かな時代を生まれ育った世代がああいう二極化を好む風潮がある。
おそらく、これは「本質的な考え方」がセクショナリズムをはらんでいることが原因ではないだろうか。
外国においても都心にはヘビーレール的公共交通が残り、田舎では代替それがマイカーやライトレールに置き換えられたのである。地下鉄も都会を中心に建設された。田舎では渋滞が少ないし、その地域では路面電車が残りやすいという絶対的な構造は克服しようもないものだ。
日本の大手私鉄文化なんてまさにセクショナリズムそのものだが、必然的な結果だろう。寝台列車がバスや飛行機に置き換えられているのも、無料高速道路が地方や都市郊外に集中しているのも、そうした延長線上のことだ。
今のような格安高速バスの源流ともいえる「ウィラー」や「OTB」などのツアーバスの作られた2000年代当時は、寝台特急が健在だった。当時は道路整備があまり進んでいなく、スピード競争的に鉄道が有利だったからだ。
そもそもこの交通体系が2000年代にこれほど発展するきっかけは新自由主義の発展にあった。今では世代交代が進んでいるが、2000年代に開通したツアーバスの業者はみな以前は地味な観光バス事業をやっていた。公共交通扱いなんてお墨付きに過ぎなかった。
お金や時間のゆとりがない当時の日本人にはできることは限られるものの、彼らなりに精一杯あか抜けて、夜行列車を利用した。そうした彼らと近い外国人の祖国でも似たような事をやっていたはずだ。
ところが、このバスの利用者には外国人は一切出てこない。利用する乗客がまだまだ日本人の日陰者が大半だったからだ。
車社会の徹底した時代にはよほどの例外しかしなかったような鉄道好きを、リア充すら当たり前にしていた時代に、彼らにまったく相手にされなかった人たちがオタクの限りを尽くして作ったのがツアーバス文化だったわけだ。
そして多数のツアーバスが作られ、その派生版が作られているうちに、単なる格安バスや、都市対地方路線のバスも増えていき、すそ野が広がった中に関越道事故が発生し、公共交通機関に移行され、そんなこんなで、いまに至っている。
つまり、当時のオタク向けの「ツアーバス」の本質は鉄道史上主義に対する敵がい意識をどことなくはらんでいるところがあるのだ。
さて、われわれ国際人・在日世代である。
コミュニティに1グループは「バスマニア」の集まりができたり、学生や作家がバスを使って貧乏旅行しているくらいにはカジュアルに大衆化しているのが、われわれの世代にとってのバス文化だ。
あえてバスネタから距離をとろうとしても避けることはできない。「リア充系の元学生の友だち」がバスマニアだったりもする。
2000年には考えられないことだろうが、いまの田舎では路面電車が復活している。
いかにも、鉄道の駅やバス停をデートの場所に使う人もいるが、路面電車の停留所でデートをするようなリア充もいる。
「オタク向けの施設をオタクっぽく利用する」趣味縁を通じてむすばれながらも、その消費は自己完結的で「リアルでの恋愛」のスタイルは「自己完結的なオタク趣味」とは根本的に割り切っている。
その場所でいっしょに鉄道やバス利用をして、「オタクの理想を尽くした萌えシチュエーション」を同じように楽しみながら、現実の学校や職場での付き合い方ではそんなものは実践しない。
車社会での不遇を鉄道にぶつけた旧世代の「鉄道おたく」と違い、現実は現実として現実的な様式に則って充実させつつ、ファンタジーの世界を楽しんでいるのである。かなり高度な技だと思う。
30代以上が大多数の努力して「車好き」を勝ち取った若者はそもそもそれに満足しているのでこの事情を知らず、一部の彼らになれなかった人たちが車社会では到底実現できなかった空想を思いっきり張り巡らせてそこに崇拝を作ったのに対し、
なぜ現代人は、車があろうが鉄道やバスをたしなむ「マイルド鉄道・バスオタク」だらけになったのか。
これは若者を中心に、行き過ぎた自由主義に疲れているということでもあると私は思う。
ほぼ鉄道社会をベースに育った世代は、日常生活も恋愛も、個人の努力次第でバラつきが出てしまっている。
仕事柄などに一切頼らなければ学歴の優劣問わずに技術職が当たり前で、カーストが低いためにブルーカラーにならざるを得なくなる。
一方で、1980年代以前に比べると学歴のインフレはかなり加速していて、大卒・院卒であっても就職競争が激しくなっている。学生時代に就職に関するスキルアップをすれば、それなりに良い就職先を勝ち取ることもできる。
交通だってそう。昭和時代のように鉄道が「軽蔑視」されているわけではない。選択肢が山ほどある。車を嫌い鉄道を好む人間も昔のように日陰者扱いされず、例えば営業職でありながら車の「くの字」もしらない人間より遥かに「まとも」なのだ。
そして鉄道を楽しむ人たちも、家に帰って部屋で一人ぼっちになると、スキルアップに励んでいる同世代とタダの暇つぶしをしているだけの自分を比べて虚しくなったりするものだ。
現代人のぜいたく好きは、自由であるからこそいつまでたっても満たされないことだ。
それは「自分の限界」を知ることさえすれば解消することでもある。たとえば地域で一番のお金持ちとは付き合うことは無理だし、貧乏人なら大卒後に高給取りの仕事につくことはあっても充実した青春時代はおくれない。
しかし国際化である。田舎の数が少なく、そしてみんながみんな都市環境が似通っているなどして均質的すぎるのだ。空気を読むかのように周りに合わせつつ、自分の「絶対的な個人差」と向き合うことは実はかなり難しいことである。
日本人の間でやたらめったら「路面電車やバス」がやたらチヤホヤされること。本来オタクではないあか抜けた人たちが、当たり前のように路面電車のグッズを買って写メして喜んだりしているようになったきっかけは、
現実世界の「自由すぎるがゆえの抑圧から逃れる」と言う課題が陰キャ以外にも広まってしまったことに原因があるのではないだろうかと思う。
鉄道文化にはそれなりに葛藤はあるが、そこには道路世界のような辛辣な描写はない。残酷な事故もなければ迷惑行為に起因する悩みもないし、地味の街の道路に頻繁に警察の世話になるような珍走団が出現しそれに道路がジャックされるようなことはない。
乗客がいかに萌えるかみたいなファンタジーな悩みが都会の鉄道や田舎のバスでも当たり前に横行している。道路世界の不純さや不条理が一切排除され、消費者の欲求に特化されまくっているのだ。
田舎の絶対数は減っているのに、日本人をとりまく交通世界がやたら高度化し、そして多層化し、複雑になり、経済の専門家でもすべてを感知できないようになると、延命のための単純な虚構のようなものが流行る。というこの構造は健全なものではないと思う。
鉄道景気は虚構だから吹き飛ばせというわけではなく、それを本来あるべき姿になるために、まずは持続可能で非虚構的景気の建設を政治家や専門家や民間人辺りは頑張ってもらいたいものだ。

2016年05月10日

トランプの小さな国家論はこのように迎え撃て

世界各地で様々な人物が小さな国家論をほのめかす言動を繰り返していますが、これに対して大きな国家主義者に成り下がった日本帝國社会全部の狼狽ぶりが内外の嘲笑を呼んでいます。
例えばトランプの増長という都合の悪い真実に慌てた日本帝國社会がこぞって「在日米軍の意義をアメリカに説得せよ」といった論調一辺倒で世論を惑わそうとしているのですが、そもそもアメリカ軍が日本に存在すること自体が日本の足枷そのものであるという考え方をできないのでしょうか?
もっとも、日本体制がアメリカ体制に対して無謀な戦争を仕掛けた結果がこの体たらくを招いているといえばそれまでですが、それならばトランプの増長を堂々と迎え撃つ気骨を持つムードが出てくればよいはずです。
同様に、善良な市民の爪の垢でも煎じて飲むべきなのが小さな国家論者ということです。
トランプの発言は「日本(と韓国)は在東アジア米軍による安全保障にただ乗りしているのだから駐留費負担を増やさねば撤退する」「在東アジア米軍撤退後は核武装してもよい」といった内容であり、アメリカ軍の無条件撤退を主張しているわけではありません。
これは、アメリカ体制社会で不満が高まる、日本体制及び南朝鮮体制による経済・安全保障ただ乗り論に乗ってのものですが、そもそも経済・安全保障ただ乗り論についてその中身を十分考える必要があるというものです。
もともと、1945年にアメリカ体制が日本体制を統治して以来、アメリカ体制が日本体制を自らの意のままに操縦することを本来目的とするだけでなく、日本地域への統治に対して日本人による反乱を抑え込むことが重要な意味を持っていました。
即ち、「日本による経済(TPP)・安全保障(米軍)ただ乗り」は現実に存在している一方でアメリカ体制にとって必要だったからこそ持ち込まれたものであり、その責任を日本体制に押し付けるのは筋違いとなるわけです。
また、日本体制がアメリカ体制の顔色を伺ってアメリカ体制側を説得するなどという態度を示してしまえば、アメリカ体制はますます日本体制を利用するに決まっています。
仮にアメリカ軍が撤退し、TPPを白紙撤回する姿勢を示すのであれば、日本国内から大歓迎の世論を高めるのが筋というもので、そんな事態になって最も困るのはアメリカ社会です。
何しろ、日本や南朝鮮にいるアメリカ軍基地は、世界各地のアメリカ軍の出撃基地として死活的な地位を占めており、ここが撤退に追い込まれると世界中に広がっていたはずのアメリカ軍人の雇用問題にも発展するからです。
アメリカ(TPPでは日本も)社会全体が混乱に陥りかねない事態を招いても平気なのか?という強気な態度で日本(アメリカ)体制から接すればよいわけで、わざわざカネを積んで引き留める必要などないし、
「カネより人と国民の命が大事」で相手が撤退・白紙撤回の意志を固める時代になってしまえばカネなど役に立たなくなってしまうのです。在日米軍駐留費・TPP対策負担を増額しなければ」の条件はそもそもありえないとなります。
ここで深刻な問題となるのは、アメリカ軍撤退という現実味が出た際に安全保障をどうするのか?という懸念です。ここが南朝鮮との大きな違いで、南朝鮮の場合は中国とある程度連携しているバランス外交がある関係で、いざとなれば中国との安全保障連携という手があるのも強みになります。
これは経済にもいえる問題で、中国主導のTPPを実行すれば、韓国もアメリカの顔色を伺う必要はなくなります。
一方で日本体制は中国と徹底的に敵対姿勢ばかりをとっていて、いざアメリカ軍が撤退した・日米関係が悪化した場合のリスク管理はまるでなっていません。
中国と政治・軍事・経済全てにおいて全面的徹底対決扇動を働いた結果、中国とのパワーバランスが逆転すれば日本体制の経済・安全保障にとって致命的な事態を招くという他ないわけです。
この情勢下では、中国や朝鮮半島左派といかに連携するかという「逆張り」的思想が求められるとなるわけで、そんな考え方を日本・アメリカ内部から育てていかねばならない、ということにもなるのです。
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