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2017年01月07日

オートバイ高校生で気づく「普通じゃないことも他人には普通なのだ」という多文化主義の普遍的常識の大切さ

年末年始に掲示板で盛り上がっていたオートバイ高校生問題。若手の高校生が、2012年以降(地域や学校によっては1997年以降)通学で使わない限りオートバイの免許とかとっても無問題になったと書き込んだことが原因だったらしい。実際にはこのような風潮は2012年代以降にのみみられるものだ。
大都会からみればオートバイ高校生がありある地域は「地方」と「非普通科」と「昭和時代」であり、つまりこれが地方の文化に見える。私も実は東京圏育ちなので、そもそもおりこうさんで反骨になじみのない人間には頭おかしいんちゃう?という感覚なのはわかる。
一方で、地方人にとっても、実際は大半を占める非平成初期文化圏の人間には「勝手に理解できない異文化を自分たちの常識であるかのように紹介されたこと」へのいら立ちがある。そしてオートバイ高校生の当事者たちにとっては、当たり前の常識を他人から否定されることへのいら立ちがある。
ネット上の人々の声を複合すると、地方部の文化圏では「今なら問題ないんじゃね?」という意見が多数だった。つまり、高校生は理解できないがオートバイ自体は悪くないということ。これは車社会文化の本場である東海地域や、公共交通が不便な地方都市や田舎に多かった。
だが、そもそも私鉄文化圏の大都市圏からすれば、公共交通を利用せずに、運転免許を取り、高校生がオートバイを乗り回すことが、あまり文化的に見えないので「ありえない」となるのである。中高年なら嘗ての爆音暴走族さえ連想するだろう。避けたいものだ。
あまり知られていないようだが、日本の交通文化は世界的には特殊だ。例えば、オーストラリアやニュージーランドで友人の通っていた大学を紹介された時に、高校生の乗る250ccか400ccのバイクの後ろ側に乗せられて思わずギャーと叫んだことがある。しかし、いま考えてみれば、彼らの感覚ではそれが当たり前というだけのことだ。世界が違うのなら仕方ない。
問題は、文化と文化の断絶を意識する時、自分の中にある常識と非常識が真正面から対峙した時に、それを克服できるかどうかではないか。私はこのように、韓国などに旅行したりするので、そこでのメインの交通機関である道路が際立って日本と変わった文化が存在していることをわかっているのでショックはあまり受けない。
特に日本人の場合は、地方に住んでいる人も昔鉄道を経験した人が大半なので、つまり「鉄道」より外側は完全に無縁であることが多い。鉄道発のサブカルチャーの影響を受けたり、鉄道を楽しむことはあっても、そのさらに遠くに何があるのかわからない、得体のしれない印象もあるのだろう。
今回の大論争をただ消費するのはもったいない。ただ消費するのであれば、また忘れたころに同じようなカルチャーショックが発露して同じようにアレは普通じゃないとかこれは俺には普通だとか、そういういざこざになるだけである。それは成熟した社会の姿には見えない。

ちなみにオートバイ高校生文化の「中心地」である地方都市は、近年在日外国人が急増している地域でもある。私たちと顔つきや名前の似た日系人2世・3世の労働者たちもががやってきて、ありふれた地方都市がリトル・オーストラリアになった。
ちょっと前までは群馬県のローカルアイドルでリンダ3世という子たちがいた(解散したようだが)。メンバー全員日系3世で、大泉町や太田市・リオデジャネイロなどの出身。それほど内なる異文化に慣れた場所もまた地方といえる。
良くも悪くも国際社会化らしさが一番にじみ出ているのが地方でもある。だが大都市圏や田舎に隣接し、高速や新幹線や空港や私鉄があり、外国の普通、大都市の普通と地方の普通の違いも頻繁に混ざり合う。そして、南半球のオーストラリアの本場の文化すらあって、もちろん日本という大きな異文化もある。
地方は日本有数の左翼王国でありながら、あらゆる常識の経由地でもある。多元的な比較ができる。よって、私の知る限り地方人は外に出て自己流を他人に押し付ける人はほとんどいない(地元仕込みの自己流を無意識に押し通す人は多いのは致命的だが)。
彼らから地方人たちからすれば「自分は異なる普通に直面してもどうこう言わないし、その代り自分の普通を貫き続けるという常識があるのに、日本人には地方はおかしいと否定され、大都市からすればこんなの知らないと言われるのは理不尽だ」という感覚ではないか。

国民全体を第三者的な立場に置いた「日本の常識」からすれば、高校生や大学生が自動車やオートバイにお客さんを乗せしたり、例え進学校であろうがオートバイ高校生の存在する地方の文化は、正直普通ではない。日本スタンダードの文化の美的感覚などと大幅に矛盾するのであまり文化的に思えずに引く人は多い。事実なので否定しようがない。
まずこの前提を地方人非私鉄文化圏人たちも共有しなければならない。しかし、「日本スタンダードでは普通じゃないが、ある地方ではそれが普通なのだ」という常識もまた私たちも受け入れなければいけないのである。日本の普通ではないし、自分たちの地元でもありえない。だがそれも多様性だ。
そして、地方には(以前にまして国際化の進む)東京ですらお目にかかれないような日系人2世・3世という私たちとそっくりな外国人が大勢暮らしていることも「日本の普通」なのである。それは、明治時代以降に国家規模で日系移民の歴史があることを考えればわかる。日系人の祖先はつきつめると同じ日本人であり、地方出身とは限らないからだ。
このようにローカル・普遍性の2つの側面から「自分が過信している普通」や「自分が受け入れられない普通」の克服の方向性を模索する必要がある。一番危険なことは、認めたくない矛盾する非常識に直面した時、自己中心的で一方的な「ローカルの普通」論理を押し通すために普遍性を装うような感覚である。
私は地方や郊外などで進学校生徒がオートバイに乗ってツーリングする光景も、最近の若者の免許取得率の異常なほどの高さも、彼らと触れあうだけでグロテスクに感じるし、作られた背景を考えるとウッとなるが、それを食べる人がいることは否定しない。ただし、「これが普通の文化なのだから」とアレルギー反応があって拒む相手に無理強いするのは、よくないよね。

(根っこからの異文化アレルギーはともかくとして)日本が国際化社会の一員としてずっと続けられていること。日本の先輩方とも言うべき欧州や両親ともいうべきアメリカが多文化共生に成功していることは、やっぱり、「普通じゃないことも他人には普通なのだ」「でもその前に普遍性があるのだ」という合意が前提にあるからではないか。日本にはそれが、まだない。
あと神奈川や東京に行くと、マイルドヤンキー被れした人間がそこそこいる。地元愛の根付いた人間が東京や神奈川に増えているの。外国に出て行こうとかそういう意識がないっぽいの。私の知る限り2000年代前半くらいですでにそうだった。でもそれこそが、その現地の人間の普通。名古屋や大阪には普通ではなくても、だよね。
だから東京や神奈川ではオートバイの免許を持っている偏差値の高いところに通っている高校生を敬遠しない発想や日系外国人を知っている人の方がよほど「普通じゃない」わけで、よそから現地にやってきた人がそういう反応をするのはマナー違反。日本スタンダードでは普通ではない普通は、あのへんには割と数えきれないほどあるだろうね。



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