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2016年07月20日

味噌もクソも一緒にして外向き志向を見習い、それを受け入れるのはやめよう




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世代交代もここまで

昭和期のテレビ関係者が手掛けた黎明期のテレビ番組は、アメリカの放送を手本にしたものが多かった。しかし一方で政治的に見ればリベラルで平和主義者であった。こうした偉人の世代交代が始まっている。
相次ぐ訃報で当時を振り返るたびに思うのだが、日本の文化界がなぜわが道を行くようになったのかというと、単純な話外国を見習わなくなったからである。今の地上波テレビはどうだろう?日本ローカルの現時点での流行現象や薄っぺらなできごとしか見えない。深みがない、世界的な広がりがない。
安倍政権の回りを見てみよう。プロレスラー出身の閣僚、女子アナ出身の閣僚。ヤンキー女優出身の与党議員。国営放送の経営委員に任命された売れっ子放送作家に、クールジャパン会議や東京五輪の民間議員になった国民的アイドルを率いる放送作家…日本らしさにあふれているではないか。
さらに言うと政界の中心に「ローカル的」な人が増えている。百田尚樹氏や橋下徹元大阪市長も関西ローカル出身で、世界単位で物を考えた時の日本と言う概念がなくなる一方、ローカルが中央に成り上がるようなことが当たり前になり、日本のローカル志向が進んでいる
偉人の訃報を伝える昼間のワイドショーも全国ネットではあるが、実際には関西ローカルや愛知ローカルを他地域で受信しているだけである。こうした「全国ローカル」の番組が、ナショナリズムをヨイショする放送をやっていて、そんなテレビはそれらを美化し続ける。
ネット好きが言うとおり「政治性と文化は不可分」なのは覆しようのない事実であるが、何歩譲って政治性を抜きに純粋に今の日本のメディアを見ても、ローカルの芸能人がいつの間にか世界に羽ばたき、読者モデルがマルチタレントになっていたりする。
百田尚樹氏とは違う意味での毒舌でタブーがないサブカルライクなマツコ・デラックスもいつの間にか日本各地を席巻していて、日本各地のローカル文化を冷笑する話題でゲラゲラ笑う放送をやっているのも、そういう風潮のなせる業だろう。
しかし、そうなったら、「ナショナリズム」「今ありき」「多数より少数」「質より量」みたいな風潮を嫌悪する勢力が出てくるだろう。戦前の日本も、あの戦時下の全体主義的政権の手前にはエログロナンセンスといったシニシズムの流行があった。
その戦時下を経験し、晩年まで右派に対する厳しい発言をしていたテレビの有名人たちが、ここ数年ばたばたと亡くなっている。「巨泉墜ちてテレビが終わった」ともいえるし、70年くらいの戦後時代そのものも風前の灯である。


江戸時代から現代までを振り返ってみよう


江戸幕府は幸か不幸か300年続いた。なぜかと言うと鎖国の上に奇跡的に外国からの侵略がなかったからだ。幕末に世界中が産業化し、近代化し、列強が台頭する段階にて、明治維新があった。外を見習って文明開化・近代化することで日本社会はますます進歩していった。
その大日本帝国は1945年に敗戦により消滅した。近隣国との問題がこじれ、全体主義の実験場になり、ハイカラな西洋を見習っていた日本人が「鬼畜米英」と罵って欧米式文化を排斥するようになった。その過程にて、いわゆるネトウヨの先祖ともいえるヘイト・クライムやレイシズムが横行した。
もちろんその実験が成功するはずもなく、敗戦し失敗に終わる。歴史好きの言う「カミカゼ」はよく考えれば戦略的には無駄な行為であり、こんな苦い失敗を経験した国が、今また思想実験に放り込まれつつあり、それを憂慮する人がいる。

日本と韓国を比較する

つい最近まで日本製品や日本文化は世界に影響力があったが、今はそうではない。韓国企業や韓流文化の方がアジア近隣だけ見ると各地で主流になっている。なぜか?当時と違い今の日本が世界から足を引き始めているから。外国をあまり見倣わなくなったのだ。そして韓国は逆に見習い始めた。
日本がバブルを謳歌した当時の韓国は、軍事独裁国家で、閉ざされた国だった。これは戦時中とはまったく違う意味であった。しかし、民主化革命が起き、国民が自ら勝ち取った民主主義を成長させた。それを担ったのはどうにか努力して海外から情報を得ていた人たちであった。
また韓国は過去にデフォルトを経験しており、その時に韓国人の若者は自国で生きていくこともできなくなり、移民に走った。欧米に韓国系住民コミュニティがあるのも、新大久保コリアタウンができたのもそのためだが、彼らが外の優れたものを母国に持ち帰ったりしたことも大きい要因だろう。
IMF危機前にはサムソンには自動車事業があったが、いまはサムソン自動車はルノーになっている。日本の某企業はいくら自動車事業部が不祥事だらけでネックになっていても、それを切って伸びしろのある分野に力を注ぐことはしない。今後の未来やいかに。
今や、日本企業から外向きな発想は減ってきている。やがてそれにより労働者が値を上げると、無謀な守りに入って自滅することを嫌い、無力さを認めて外への関心を向ける人が出てくる。しかし、その兆しはまだ見えない。

ネトウヨへのヘイトはある程度理解できる


ネトウヨや、表向きヘイトを自省できるほどの理性はあるが実質的に同レベルの心無いネット好きの存在が厄介になるのは、彼らが「A国の政治だけを許せない」ふりをしながら、その民族や文化を丸ごと否定し、結果的に全世界に牙をむくようなことがあったときだ。
天安門での件だけをとっても、世界の普遍的価値観は「政府はだめだが、それ以外は評価できる」である。しかしネトウヨや一部ユーザーの「中指」への過剰反応は、まるで体制批判・権力批判を「礼儀」をふりかざしてよしとしない発想はそのものだ。恐れ入った。
現在ネトウヨがここまでネット上で嫌悪されているのは、国外問題も、ネトウヨ活動のための論理的アリバイ作りに過ぎないからである。
アンジェリーナ・ジョリー監督の「アンブロークン」へのレッテル張りや、捕鯨問題の件とか、あと人気映画に中国ひいきな内容が増えていることから、ネトウヨ一部ネットユーザーに限るとは「ハリウッドは反日」と鬼畜米帝的発想を撒き散らしているかに思えるかもしれない。

無分別な外向き志向を止め、自分自身の良いところを誇れる風潮を作ろう。

日本のテレビは1990年代以降サブカルに強くなり、日本人や外国人双方から見ても日本というローカルな分野であのような経営陣によって愛される番組作りにとつめていることから評価されているが、外国を出ればそんなことはない。しかも世界的に見ればNHKはBBCよりも優勢になっている。
しかし、これらの発想が全て悪いとは思わない。今の日本の多数派が求めているのは、どんぐりの背比べのような国際化への順応ではなく、それの悪い部分は拒絶するという取捨選択である。
これは世間からは醜態にしか見えない。しかし、今はなんとか許されているのは、その風潮がローカルの範囲で完結しているからだ。そこを出れば、ローカルでの態度を自制して、ローカル的文化と、サブカル以外にも興味を示すだろうから、結局は余り害がない。
外国においても今の日本のような風潮がなんとかローカルに隔離できることによってナショナリズムの暴走は日本も外国もできている。ローカルのネット空間に限れば、少なくとも「韓国系日本人」の李忠成選手をヘイトするような発想は米国にもある
チンケなサブカル路線の何が悪い?日本人相手の番組だらけで何が悪い?ローカルでの問題なのにネトウヨの云々がどうした?日本の車社会の失敗は逆に市民から喜ばれる結果になったではないか!移民受け入れ反対といっただけがどんな理由でネトウヨ・ヘイトスピーチになるのか?
一部のリベラルなネットユーザーは、どうでも良い部分を抜き出して、やたら「国際化の邪魔」「ダサい」を叫ぶが、味噌もクソも一緒にする精神・論理は、今や「日本左派のガラパゴス」というブランドの象徴になっている。

2016年07月05日

評価できる日本の観光列車




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日本で評価できる観光列車とは何だろうか。それはやはり、現美新幹線であろう。
公共交通機関を美術館に見立てたこの列車は、他の観光列車とは異色の存在感を示している。デザイン美を思わせる車体は、見る者の心を捉えて離さないものである。
また同じ新幹線での観光列車でもこの新幹線は美術館に見立てた前衛的発想を感じるのに対し、とれいゆはこれまた別な意味で前衛的な発想であり、列車で温泉の足湯を楽しむという発想は今までの観光列車においてない。

2016年07月04日

日本マスコミにみる「虐め社会・日本国」

いじめはどの国や時代でも存在するが、特に現代の日本・韓国が陰湿なのは、ひとりを標的にすると徹底的にバッシングの嵐を浴びせることである。
最近ではやはり舛添である。お金の使い方などいい加減なのは日韓、どの権力者においても言えることなのに、なぜか舛添だけは執拗に叩かれた。
これは石原のように居直っている人間とは違い、謝罪したり、調査委員会などを作る人間は叩きやすいと判断したからに違いない。それでもこれがまだ舛添の公金の使い方が問われているうちはましだったが、やがてはマスコミを担ぎ出して舛添の人格攻撃を始めたりした。
2014年、STAP細胞の騒動で、小保方氏が叩かれた。
小保方氏の落ち度は明らかである。論文の捏造疑惑、盗用疑惑、さらには他資料の不正と思われる使用など、確かに批判されるべき点は多かった。
そしてそれが科学的手法に関する批判に関しての限りにおいては構わない。私も科学の領域において小保方氏を擁護するつもりはない。
ところが小保方バッシングはその後、とんでもない方向に走ることになる。まずは笹井芳樹氏の自殺である。
これを「小保方が殺したようなものだ」と吐くバカには開いた口が塞がらない。笹井氏はマスコミにより自殺に追い込まれたようなものである。しかも笹井氏の遺書までマスコミは暴露し、「男と女の関係にあった」とにおわせる報道までしている。
科学の不正の問題が、人格攻撃やセックススキャンダルにベクトルが変化してしまったのだ。
加えて小保方氏への人権侵害も目を覆うほどひどいものであった。
「小保方氏は演技性人格障害」などと断言する者まで現れた。
精神科医が診察をしたわけでもないのに、勝手に病名をつけてバッシングを加速させる。この醜さはなんとしたものだろう?
私は武田邦彦という科学者を全面的には支持できないが、武田氏がテレビで述べた、
「科学者に対する批判は、科学の分野に限るべきだ。人格批判などしてはならない」
という発言には同意する。
STAP細胞はいまだに再試験に合格していない。この論文が根拠のないものであった公算はきわめて大きい。そこに不正もあったろう。ならばそこだけを批判すべきだ。
科学者に限らず過去の偉人には、私生活にはてんでだらしなかった人物などいくらでもいる。一攫千金を狙った山師が大成功したケースもある。
つまりは「関係ないことまでバッシングに利用するな」ということだ。
このように、関係ないことまでも持ち出して執拗にバッシングする連中のいる社会は、いわば彼らが率先していじめをしているようなものだ。こんな連中が「いじめをなくそう」「ふざけるな」などと唱えても、「お前が言うか?」「言葉をそっくり返す」としか思えない。

日本のJRから国鉄の居場所がなくなっているという問題




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韓国のネット原住民が日本の鉄道を知りたいというので、日本の鉄道の状況を紹介。久しぶりに日本の鉄道をまともに調査してみたところ、余りの変貌っぷりに驚いた。
私の記憶が確かなら、関東は1980年代以降長らくJR王国だった。
都市交通の中心がJRから地下鉄・私鉄に移ろい、やがて私鉄の施設や不動産などの集まる「私鉄の街」になったのは2010年代のころだ。
本来の国有鉄道らしさは副業などに淘汰されてあまり残っていないという問題は2000年代の課題だった。
2010年代も半ばとなった現在では、さらなる課題がある。「国鉄」の完全なる衰退だ。以前はかすかにでも残っていた「国鉄」らしさが1ミリもなくなっていたのである。

「国鉄」と「JR」の違いを整理したい。
漢字の「国鉄」とは、1949年から1987年まで存在した日本の国有企業とされている。一方、JRというと、ネット上などでこの語句を検索すると出てくる意味は単なる法的に定められた特殊な私鉄を意味するものばかりだ。
おおむね、1980年代前半生まれの世代までは「JR」が存在しなかった時代の記憶がある。民間とかが流行りのオタクコンテンツに乗じたキャンペーンをしたり、都心で観光列車が走ったり、田舎が私鉄で地域活性するようになったのは、まさに1990年代のJR九州・東海ショック以降のことだ。
したがってこの世代では、早いうちに何かのきっかけでリア充向けの鉄道文化を知り、率先して愛好するようになった人たちは「私鉄オタク」である。しかし、2000年代以降の鉄道オタク文化はバブル時代に流行った車・バイクの代わりみたいなものになっている。
日本人が不景気で見栄を張らなくなったのか、リア充系の鉄道オタクに流れるか、硬派の鉄道おたくに流れるかと言う二択構造ができあがっていて、暇つぶしに3DSを遊ぶかソシャゲを遊ぶかみたいなノリで簡単にポケモンに染まったり、パズドラにハマったりするのが今の日本人で、このゆとり以下の世代であれば物心ついた頃には私鉄が街中にありふれているから、総じてカタカナの「鉄道オタク」に一本化されている傾向がある。

東京のJRに乗って目につくのはラッピング電車だ。中に入ると、統一された広告がある。今回見たのはアニメの広告だらけだが、それをむさぼっているのはアニオタと、単純に東京旅行や流行りの文化を体験しにきた一般人たちだ。
旧世代型の「鉄道おたく」には副業には興味がないという人が多い。だが、新世代型のオタクからすれば、私鉄の百貨店に行っただけで、2次元的感覚でオタクに没頭している。鉄道には全く詳しくないがかわいい女の子タレントに興味を持つような「一般人の若者」であっても品定めの仕方は全く同じ。
鉄道の「日本の象徴」と言う既成事実からか、地方ではやたらと「流行りの観光列車の映像」の光景を見かけた。かつて自動車店だった駅ビルの大型ビジョンでは観光特急の映像が上映され、動画サイトや電車のテレビからはバラエティ番組が流れ、そこはまるで広告というよりはテレビ放送のようだ。
というか、いまのテレビは全然活気がないので、テレビの「情報の発信地要素」を完全に広告やネットが奪い取ってしまったように見える。
しかも「アニオタタイプのオシャレ」で闊歩する大人が割とひんぱんにすれ違ったりするし、若者らしき旅行グループはプラプラ歩きながら、目に飛び込んだアニメに興奮したかと思いきや、鉄道フェアにも興奮し、さらには鉄道そのものにも絶叫していて、そのテンションの異様さこそいつの時代の日本人にもおなじみなのだが、彼女らの感性は一般大衆にしか見えないものだった。
「大衆化したオタク文化」が充実し、さらにその構造をベースに、「小さな会社から国民的大企業に成り上がったJRの拠点」となり、それがミーハーな流行を求める層をかき集める動員要素となり、観光地とか大都会のような「どこにでもある大都会的要素」に満たされているのだ。

2015年には、近畿・東海地方を闊歩したのだが、ハッキリ言ってここの方が「国鉄オタク」向きの土地柄があると思う。
電車こそ都市型の車両だが、基本的に古臭い駅舎で、小さな駅周辺を歩いていると、いたるところに水飲み場がある。人気の無いところを歩くと、いつの間にか古い看板に遭遇したり、案内板に韓国語や中国語がなかったり、なかなかである。
電車こそ都市型の車両だが、基本的に古臭い駅舎で、小さな駅周辺を歩いていると、いたるところに水飲み場がある。人気の無いところを歩くと、いつの間にか古い看板に遭遇したり、案内板に韓国語や中国語がなかったり、なかなかである。
JRだって夜行列車とか新幹線の0系があった頃は、ボロっちい設備だった。バブル期や2000年代前半に東京の私鉄があれほど栄えた一方で大きな変化はほとんどなかっただろう。だからこそ、そこで「おたく」を引き寄せることができ、ありとあらゆる「おたく文化」があったんじゃないか。
だが、JRが企業的には発展し、国鉄文化の質的に「衰退」した理由は、まさに改革が横行したことにあろう。新幹線が林立し、バスに中長距離交通は分散され、既存の中長距離普通・快速列車が大体ダメになったが、その跡地は便利な都市鉄道的要素や有料観光列車に生まれ変わり、裏の裏と言う場所まで「国鉄おたく磁場」は消失していってしまった。
近畿や東海の私鉄は、設備を更新する際にそれなりにダイヤなどの改造を実施しても、ダイヤの基本構造をひっくり返すようなことはしなかったということだ。都会の公共交通でありながら、メインの列車は無料列車だし、有料特急はJRに負けていてやっぱり地味だし、Rほど経営が黒字でないから、既存の秩序が破壊されることなかった。近代的な利便性を求める人はJRや道路に満足し、不満もなく、これ以上のものは求めず、一部の列車が生まれ変わろうがダイヤの仕組みが目まぐるしく変貌するようなことはなかったのだ。

ゲームセンターが衰退している関係から、関東の都市部には夜歩きする若者が減っているという。その代わりに、鉄道オタクや同人誌などの「オタク消費するコンテンツ」がとても溢れていたのが従来の関東のイメージだ。
さらにその上で熱心なオタクが発展し、やがてそれが葬式鉄やらキモヲタ的なものに広がっていき、「おいた」がすぎた過激なものは何度も摘発されるようになっていることはニュースでも報じられている通りだ。
しかし、従来型オタク面でも確実に「マイルド化」は進んでいる。ダイヤ改正時に列車を迎えていたはリア充世代の鉄道オタクで、最近のキモヲタのようにリア充にも過激派が一時期そこにもいた。当時、道路交通法違反などおいたの過ぎた者が摘発されるケースはいくらでもあった。
この手のオタクは、普段は何かの事情か鉄道でなく自動車を利用しているのが定番だが、関東の場合は鉄道通勤者たちがそこで列車をカメラなどで迎えていたから驚きだ。JRの本拠地と言う土地柄がうまく機能しているように見えた。
道路を見ると都市化が進んでいるほど頻繁に痛車が往来していて、時折臨海地区の駐車場がイベント会場になっている。痛車(痛単車)のオフ会などの行事が最も開催されている場所も、おそらく関東だろう。地域によっては、外国人がイベントに参加していたりもした。
車・バイクへのペイントは「おたく」だろうか。
機械の様子に欲情することは、大っぴらにこそできないが大人であれば誰もが持っている感覚である。変哲のない「機械」である車・バイクをオタク消費することはそれ自体が異端的なことは確かだが、ただの車・バイク好きはおたくでも何でもない。
そういうものが蔓延するようになったのも、オタク文化が大衆化して「萌え的立場としての車・バイク」オタクに被れるような層が厚みを増し、単に変わった機械と会いに行きたい目的で車・バイクや鉄道や二次元を堪能するようなのが広がりを見せた結果だとも思う。
唯一例外的なのは、国内外の萌えペイント・カスタムマシンだけを専門に集めたサーキットイベントが日本にだけあることだ。これだけの大型イベントは世界でもここにしかないだろう。このイベントに行くと、「遊園地にありそうなカスタムマシン」とか、「カスタムマシンを痛車にしたもの」とか、「コスプレしたドライバーやライダーがこれまたカスタムマシンを運転するシーン」が見られる。「新イベント」を見かける度に、こういう発想があるのだと感動してしまう。
公道を走れなさそうなマシンは1つも走っていないが、どれも内容柄が特殊すぎるためか自主規制で18歳未満の入場を禁じている。通常であれば全く価値を見出さない物に造形を持つ「おたく」をとことん突き詰めている場所がここにあるのだ。

2016年05月17日

日本人の間で「都市鉄道・格安バス」がやたらチヤホヤされるワケを考える

2000年代あたりから日本の交通文化の偏り方が尋常じゃなくなっている。
長距離輸送では格安系のバスが流行っている。ウィラー、さくら観光、OTB・・・あげればきりがないが、いずれも運営母体は観光バスで、公共交通としてのイメージが沸かない。前身がグレーゾーンの観光バスなのか、パックツアーも充実している。
一方、都市・地方の近距離輸送向けには鉄道が流行っている。 
JRだったり、私鉄や路面電車などが中心。派手な電車ばっかりで、長距離バスがやたら地味なのとは対照的だ。
これらは「商売」を追及する成り行きで発生した現象かもしれないが、日本の事情を連想するものでもある。
都会がまだ田舎だった時代には、都市には無条件で零細私鉄のある暗黙の了解があった。都市化が進むとそれがバスに転換されたり国鉄に移行したりしたという。都市政策と交通政策が地続きになっていたことに原因があると思われる。
「零細私鉄」は田舎だけに存在し、「私鉄代替バス」は中途半端な都市に存在した。現代に生きる日本人ならびっくりすることだが、一部の遅れた地方ではいまだにこれが続いているそうだ。
さて、われわれ国際人・在日世代は、こういう日本の交通事情を知らないことが普通だ。
都会であれ田舎であれ、バランスよく公共交通が当たり前にある。それに、鉄道だけの時代ではない。バスもあるし、マイカーもある。しかし、そんな豊かな時代を生まれ育った世代がああいう二極化を好む風潮がある。
おそらく、これは「本質的な考え方」がセクショナリズムをはらんでいることが原因ではないだろうか。
外国においても都心にはヘビーレール的公共交通が残り、田舎では代替それがマイカーやライトレールに置き換えられたのである。地下鉄も都会を中心に建設された。田舎では渋滞が少ないし、その地域では路面電車が残りやすいという絶対的な構造は克服しようもないものだ。
日本の大手私鉄文化なんてまさにセクショナリズムそのものだが、必然的な結果だろう。寝台列車がバスや飛行機に置き換えられているのも、無料高速道路が地方や都市郊外に集中しているのも、そうした延長線上のことだ。
今のような格安高速バスの源流ともいえる「ウィラー」や「OTB」などのツアーバスの作られた2000年代当時は、寝台特急が健在だった。当時は道路整備があまり進んでいなく、スピード競争的に鉄道が有利だったからだ。
そもそもこの交通体系が2000年代にこれほど発展するきっかけは新自由主義の発展にあった。今では世代交代が進んでいるが、2000年代に開通したツアーバスの業者はみな以前は地味な観光バス事業をやっていた。公共交通扱いなんてお墨付きに過ぎなかった。
お金や時間のゆとりがない当時の日本人にはできることは限られるものの、彼らなりに精一杯あか抜けて、夜行列車を利用した。そうした彼らと近い外国人の祖国でも似たような事をやっていたはずだ。
ところが、このバスの利用者には外国人は一切出てこない。利用する乗客がまだまだ日本人の日陰者が大半だったからだ。
車社会の徹底した時代にはよほどの例外しかしなかったような鉄道好きを、リア充すら当たり前にしていた時代に、彼らにまったく相手にされなかった人たちがオタクの限りを尽くして作ったのがツアーバス文化だったわけだ。
そして多数のツアーバスが作られ、その派生版が作られているうちに、単なる格安バスや、都市対地方路線のバスも増えていき、すそ野が広がった中に関越道事故が発生し、公共交通機関に移行され、そんなこんなで、いまに至っている。
つまり、当時のオタク向けの「ツアーバス」の本質は鉄道史上主義に対する敵がい意識をどことなくはらんでいるところがあるのだ。
さて、われわれ国際人・在日世代である。
コミュニティに1グループは「バスマニア」の集まりができたり、学生や作家がバスを使って貧乏旅行しているくらいにはカジュアルに大衆化しているのが、われわれの世代にとってのバス文化だ。
あえてバスネタから距離をとろうとしても避けることはできない。「リア充系の元学生の友だち」がバスマニアだったりもする。
2000年には考えられないことだろうが、いまの田舎では路面電車が復活している。
いかにも、鉄道の駅やバス停をデートの場所に使う人もいるが、路面電車の停留所でデートをするようなリア充もいる。
「オタク向けの施設をオタクっぽく利用する」趣味縁を通じてむすばれながらも、その消費は自己完結的で「リアルでの恋愛」のスタイルは「自己完結的なオタク趣味」とは根本的に割り切っている。
その場所でいっしょに鉄道やバス利用をして、「オタクの理想を尽くした萌えシチュエーション」を同じように楽しみながら、現実の学校や職場での付き合い方ではそんなものは実践しない。
車社会での不遇を鉄道にぶつけた旧世代の「鉄道おたく」と違い、現実は現実として現実的な様式に則って充実させつつ、ファンタジーの世界を楽しんでいるのである。かなり高度な技だと思う。
30代以上が大多数の努力して「車好き」を勝ち取った若者はそもそもそれに満足しているのでこの事情を知らず、一部の彼らになれなかった人たちが車社会では到底実現できなかった空想を思いっきり張り巡らせてそこに崇拝を作ったのに対し、
なぜ現代人は、車があろうが鉄道やバスをたしなむ「マイルド鉄道・バスオタク」だらけになったのか。
これは若者を中心に、行き過ぎた自由主義に疲れているということでもあると私は思う。
ほぼ鉄道社会をベースに育った世代は、日常生活も恋愛も、個人の努力次第でバラつきが出てしまっている。
仕事柄などに一切頼らなければ学歴の優劣問わずに技術職が当たり前で、カーストが低いためにブルーカラーにならざるを得なくなる。
一方で、1980年代以前に比べると学歴のインフレはかなり加速していて、大卒・院卒であっても就職競争が激しくなっている。学生時代に就職に関するスキルアップをすれば、それなりに良い就職先を勝ち取ることもできる。
交通だってそう。昭和時代のように鉄道が「軽蔑視」されているわけではない。選択肢が山ほどある。車を嫌い鉄道を好む人間も昔のように日陰者扱いされず、例えば営業職でありながら車の「くの字」もしらない人間より遥かに「まとも」なのだ。
そして鉄道を楽しむ人たちも、家に帰って部屋で一人ぼっちになると、スキルアップに励んでいる同世代とタダの暇つぶしをしているだけの自分を比べて虚しくなったりするものだ。
現代人のぜいたく好きは、自由であるからこそいつまでたっても満たされないことだ。
それは「自分の限界」を知ることさえすれば解消することでもある。たとえば地域で一番のお金持ちとは付き合うことは無理だし、貧乏人なら大卒後に高給取りの仕事につくことはあっても充実した青春時代はおくれない。
しかし国際化である。田舎の数が少なく、そしてみんながみんな都市環境が似通っているなどして均質的すぎるのだ。空気を読むかのように周りに合わせつつ、自分の「絶対的な個人差」と向き合うことは実はかなり難しいことである。
日本人の間でやたらめったら「路面電車やバス」がやたらチヤホヤされること。本来オタクではないあか抜けた人たちが、当たり前のように路面電車のグッズを買って写メして喜んだりしているようになったきっかけは、
現実世界の「自由すぎるがゆえの抑圧から逃れる」と言う課題が陰キャ以外にも広まってしまったことに原因があるのではないだろうかと思う。
鉄道文化にはそれなりに葛藤はあるが、そこには道路世界のような辛辣な描写はない。残酷な事故もなければ迷惑行為に起因する悩みもないし、地味の街の道路に頻繁に警察の世話になるような珍走団が出現しそれに道路がジャックされるようなことはない。
乗客がいかに萌えるかみたいなファンタジーな悩みが都会の鉄道や田舎のバスでも当たり前に横行している。道路世界の不純さや不条理が一切排除され、消費者の欲求に特化されまくっているのだ。
田舎の絶対数は減っているのに、日本人をとりまく交通世界がやたら高度化し、そして多層化し、複雑になり、経済の専門家でもすべてを感知できないようになると、延命のための単純な虚構のようなものが流行る。というこの構造は健全なものではないと思う。
鉄道景気は虚構だから吹き飛ばせというわけではなく、それを本来あるべき姿になるために、まずは持続可能で非虚構的景気の建設を政治家や専門家や民間人辺りは頑張ってもらいたいものだ。

2016年05月10日

トランプの小さな国家論はこのように迎え撃て

世界各地で様々な人物が小さな国家論をほのめかす言動を繰り返していますが、これに対して大きな国家主義者に成り下がった日本帝國社会全部の狼狽ぶりが内外の嘲笑を呼んでいます。
例えばトランプの増長という都合の悪い真実に慌てた日本帝國社会がこぞって「在日米軍の意義をアメリカに説得せよ」といった論調一辺倒で世論を惑わそうとしているのですが、そもそもアメリカ軍が日本に存在すること自体が日本の足枷そのものであるという考え方をできないのでしょうか?
もっとも、日本体制がアメリカ体制に対して無謀な戦争を仕掛けた結果がこの体たらくを招いているといえばそれまでですが、それならばトランプの増長を堂々と迎え撃つ気骨を持つムードが出てくればよいはずです。
同様に、善良な市民の爪の垢でも煎じて飲むべきなのが小さな国家論者ということです。
トランプの発言は「日本(と韓国)は在東アジア米軍による安全保障にただ乗りしているのだから駐留費負担を増やさねば撤退する」「在東アジア米軍撤退後は核武装してもよい」といった内容であり、アメリカ軍の無条件撤退を主張しているわけではありません。
これは、アメリカ体制社会で不満が高まる、日本体制及び南朝鮮体制による経済・安全保障ただ乗り論に乗ってのものですが、そもそも経済・安全保障ただ乗り論についてその中身を十分考える必要があるというものです。
もともと、1945年にアメリカ体制が日本体制を統治して以来、アメリカ体制が日本体制を自らの意のままに操縦することを本来目的とするだけでなく、日本地域への統治に対して日本人による反乱を抑え込むことが重要な意味を持っていました。
即ち、「日本による経済(TPP)・安全保障(米軍)ただ乗り」は現実に存在している一方でアメリカ体制にとって必要だったからこそ持ち込まれたものであり、その責任を日本体制に押し付けるのは筋違いとなるわけです。
また、日本体制がアメリカ体制の顔色を伺ってアメリカ体制側を説得するなどという態度を示してしまえば、アメリカ体制はますます日本体制を利用するに決まっています。
仮にアメリカ軍が撤退し、TPPを白紙撤回する姿勢を示すのであれば、日本国内から大歓迎の世論を高めるのが筋というもので、そんな事態になって最も困るのはアメリカ社会です。
何しろ、日本や南朝鮮にいるアメリカ軍基地は、世界各地のアメリカ軍の出撃基地として死活的な地位を占めており、ここが撤退に追い込まれると世界中に広がっていたはずのアメリカ軍人の雇用問題にも発展するからです。
アメリカ(TPPでは日本も)社会全体が混乱に陥りかねない事態を招いても平気なのか?という強気な態度で日本(アメリカ)体制から接すればよいわけで、わざわざカネを積んで引き留める必要などないし、
「カネより人と国民の命が大事」で相手が撤退・白紙撤回の意志を固める時代になってしまえばカネなど役に立たなくなってしまうのです。在日米軍駐留費・TPP対策負担を増額しなければ」の条件はそもそもありえないとなります。
ここで深刻な問題となるのは、アメリカ軍撤退という現実味が出た際に安全保障をどうするのか?という懸念です。ここが南朝鮮との大きな違いで、南朝鮮の場合は中国とある程度連携しているバランス外交がある関係で、いざとなれば中国との安全保障連携という手があるのも強みになります。
これは経済にもいえる問題で、中国主導のTPPを実行すれば、韓国もアメリカの顔色を伺う必要はなくなります。
一方で日本体制は中国と徹底的に敵対姿勢ばかりをとっていて、いざアメリカ軍が撤退した・日米関係が悪化した場合のリスク管理はまるでなっていません。
中国と政治・軍事・経済全てにおいて全面的徹底対決扇動を働いた結果、中国とのパワーバランスが逆転すれば日本体制の経済・安全保障にとって致命的な事態を招くという他ないわけです。
この情勢下では、中国や朝鮮半島左派といかに連携するかという「逆張り」的思想が求められるとなるわけで、そんな考え方を日本・アメリカ内部から育てていかねばならない、ということにもなるのです。
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