2011年10月19日
戦国大名里見9代(1)
今、館山市では戦国大名里見家のNHK大河ドラマ放映を目指して各方面に運動しています。実現するといいですね。里見家は南房総で9代170年続きましたがどの辺をドラマにするのでしょうか。
滝沢馬琴の里見八犬伝は有名な長編小説ですが実際の戦国大名里見家を私的に説明します。少し堅苦しい内容かもしれませんが読んでいただければ話の種になると思います。(内容が間違っていたらごめんなさい)
●初代:里見義実(さとみよしざね)1430?−1488年
里見家は元々は新田系の武士で群馬県の館林方面を地盤にして鎌倉幕府に仕えていた。室町時代中期、関東地方でも内戦が各地で起きて下剋上の時代となっていた。里見義実は鎌倉公方足利成氏の重臣で安房国の上杉派掃討を命じられ多くの兵とともに渡ってきた。従えてきた家来は里見家に長く仕えた者たちが多かった。
白浜城を拠点に上杉派を服従させ、稲村城に進み安房国全体を指揮下においた。義実は房総里見氏の初代当主となった。義実の頃にはすでに上総方面に侵攻を始めていた。子には義通・実尭がいた。白浜杖珠院が菩提寺で供養塔がある。
●2代:里見成義(さとみしげよし)1448−1505年
房総里見氏の二代目とされるが不明確で実在しないともいわれる。しかし白浜青根原神社に墓があったと伝えられており近くの寺に成義の木像がある。
●3代:里見義通(さとみよしみち)1480?-1525年
義実の嫡男で安房国の戦国大名としての基礎を築いた。房州屋形と呼ばれ安房国の国主であった。稲村城に居城し、安房北部から上総南部に侵攻し、正木氏や三浦氏を服従させた。また久留里や関宿方面にも侵攻し久留里城にも重要拠点をおいた。鶴ヶ谷八幡宮の造営を行った。墓は犬掛の大雲院跡にある。
●4代:里見義豊(さとみよしとよ)1518−1534年
義通の子。父義通と共に国主の権限を行使している。鎌倉の禅僧と友交があり文武兼備と言われた。義通が隠居すると家督を継ぎ、稲村城を居城にした。北条氏と対立し鎌倉へ侵攻した。里見氏の天文の内訌がおこり、義豊が叔父実尭と重臣正木氏を稲村城で殺害した。原因は実堯・義堯父子が敵である北条氏に通じたためといわれる。実堯の子義堯は北条氏の支援を受けて、上総金谷城において挙兵した。
やがて稲村城は落城し、犬懸の戦いに敗れて義豊は没した。稲村城の攻防と犬懸の戦いは激戦であった。義豊の墓は犬掛の大雲院跡にあり、墓は義通と並んでいる。この内乱で譜代の家臣たちが敵味方に分かれて戦い多くの犠牲をだした。三芳村増間には山本清六・安西・早川・御子神ら13人の武士を供養した十三塚があり他にも色々な言い伝えが残っている。里見の直系がここで終わったのでここまでを前期里見、5代目以降を後期里見と区別されている。
稲村城の北方の滝田城から見た犬懸の古戦場方面。遠方の山は伊予ヶ岳。ここは久留里に通じる要衝の地で滝田城にも悲話が伝わっている。
この記事は疲れますね。南房総のブログとなれば避けて通れない話です。久しぶりに歴史書その他を調べました。良い方に頭を使って焼酎を飲んでぐっすり寝ました。
投稿者:クロポチ|14:52
|房総の戦国大名・里見9代記