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戦国大名里見9代(1)


今、館山市では戦国大名里見家のNHK大河ドラマ放映を目指して各方面に運動しています。実現するといいですね。里見家は南房総で9代170年続きましたがどの辺をドラマにするのでしょうか。

滝沢馬琴の里見八犬伝は有名な長編小説ですが実際の戦国大名里見家を私的に説明します。少し堅苦しい内容かもしれませんが読んでいただければ話の種になると思います。(内容が間違っていたらごめんなさい)


●初代:里見義実(さとみよしざね)1430?−1488年
里見家は元々は新田系の武士で群馬県の館林方面を地盤にして鎌倉幕府に仕えていた。室町時代中期、関東地方でも内戦が各地で起きて下剋上の時代となっていた。里見義実は鎌倉公方足利成氏の重臣で安房国の上杉派掃討を命じられ多くの兵とともに渡ってきた。従えてきた家来は里見家に長く仕えた者たちが多かった。

白浜城を拠点に上杉派を服従させ、稲村城に進み安房国全体を指揮下においた。義実は房総里見氏の初代当主となった。義実の頃にはすでに上総方面に侵攻を始めていた。子には義通・実尭がいた。白浜杖珠院が菩提寺で供養塔がある。



●2代:里見成義(さとみしげよし)1448−1505年
房総里見氏の二代目とされるが不明確で実在しないともいわれる。しかし白浜青根原神社に墓があったと伝えられており近くの寺に成義の木像がある。



●3代:里見義通(さとみよしみち)1480?-1525年
義実の嫡男で安房国の戦国大名としての基礎を築いた。房州屋形と呼ばれ安房国の国主であった。稲村城に居城し、安房北部から上総南部に侵攻し、正木氏や三浦氏を服従させた。また久留里や関宿方面にも侵攻し久留里城にも重要拠点をおいた。鶴ヶ谷八幡宮の造営を行った。墓は犬掛の大雲院跡にある。 



●4代:里見義豊(さとみよしとよ)1518−1534年
義通の子。父義通と共に国主の権限を行使している。鎌倉の禅僧と友交があり文武兼備と言われた。義通が隠居すると家督を継ぎ、稲村城を居城にした。北条氏と対立し鎌倉へ侵攻した。里見氏の天文の内訌がおこり、義豊が叔父実尭と重臣正木氏を稲村城で殺害した。原因は実堯・義堯父子が敵である北条氏に通じたためといわれる。実堯の子義堯は北条氏の支援を受けて、上総金谷城において挙兵した。

やがて稲村城は落城し、犬懸の戦いに敗れて義豊は没した。稲村城の攻防と犬懸の戦いは激戦であった。義豊の墓は犬掛の大雲院跡にあり、墓は義通と並んでいる。この内乱で譜代の家臣たちが敵味方に分かれて戦い多くの犠牲をだした。三芳村増間には山本清六・安西・早川・御子神ら13人の武士を供養した十三塚があり他にも色々な言い伝えが残っている。里見の直系がここで終わったのでここまでを前期里見、5代目以降を後期里見と区別されている。





稲村城の北方の滝田城から見た犬懸の古戦場方面。遠方の山は伊予ヶ岳。ここは久留里に通じる要衝の地で滝田城にも悲話が伝わっている。

この記事は疲れますね。南房総のブログとなれば避けて通れない話です。久しぶりに歴史書その他を調べました。良い方に頭を使って焼酎を飲んでぐっすり寝ました。


戦国大名里見9代(2)


5代:里見義堯(さとみよしたか) 1507年−1574年
実堯の子。若い頃は権七郎といった。結果的に国主義豊を滅ぼし家督を奪ったことになる。その後北条氏と対立し50年近く争っていく。上総の久留里城を本拠とし三浦半島・下総へ進出し義堯は小弓公方を盟主として北条氏綱と第一次国府台合戦を戦った。この戦いで敗れて小弓公方が滅びたが義堯は動きやすくなり下総や上総に積極的に進出した。


その後第二次国府台合戦が起こり、初戦は大勝したものの北条氏康の奇襲を受け重臣が大勢討死するなどの大敗を喫した。この敗戦により義堯は上総から安房に退却した。さらに北条氏康の策略によって上総各地で離反が起き大部分を失った。義堯は越後の上杉謙信と同盟し太田氏・佐竹氏・宇都宮氏等とも組み、奪われた領地を奪還し北条氏康に対抗した。特に久留里城を里見の最前線の本城とし北方には支城として山本湯名城・西は佐貫城・東は大多喜城の線でを固めた。山本湯名城には重臣山本、佐貫城は息子義弘、大多喜城は一門の正木を置いた。


義堯が上総を回復し支配を固めていくとこれに対し北条氏康は佐貫の三船山に砦を築いた。里見軍は三船台に陣取る北条軍を包囲し三船山の合戦が起こった。義弘は重臣正木と共に佐貫城を出撃し三船山の北条氏政の本軍を攻めて討ち破った。同時に義堯は久留里城にこもり駆けつけた山本湯名城主らと北条軍2万の大軍と戦い撃退した。北条軍は退路を断たれる恐れから全軍が撤退した。この後も北条軍が攻めてきたが落城せず難攻不落の城と言われた。


義堯は上総の久留里城を本拠として里見氏の全盛期を築いた。久留里城は重臣山本清七を城代とし任せた。里見氏の勢力範囲は安房・上総・下総・三浦半島に及んだ。戦国大名として名をはせた義堯は久留里城にて68歳で没し三芳村の延命寺に墓がある。




久留里城二の丸から見る古戦場跡。ここに北条軍2万が陣を張った。城は義堯以下、湯名城山本・一宮城須田・鳴戸城忍足・大多喜城正木・周西城茂木たちが迎え撃ち撃退したと石碑が建っている。久留里城は本丸で標高120m程だが周囲が垂直に近く切り立っている。

戦国大名里見9代(3)


●6代:里見義弘(さとみよしひろ)1525年−1578年
義堯の子。主に佐貫城に居城した。父義堯とともに上総・下総・三浦半島で北条氏と戦い続け勢力拡大に大きな貢献した。大きな合戦にはほとんど参加している。三浦半島に攻め込んだ時、鎌倉の尼寺から小弓公方の娘(青岳尼)を強奪して妻にした。これに北条氏康は激怒したらしい。2人は幼馴染であったとか。

後に上杉謙信が北条氏と同盟すると義弘は武田信玄と組んで徹底して北条氏に対抗した。そして武田信玄が没した後、50年近く対立してきた北条氏と漸く和睦した。義弘は2人の子、義頼に安房を、梅王丸に上総を譲ろうとしたがこれが対立の元になった。義弘は後継問題を残したまま、上杉謙信の没年に久留里城にて中風にて没した。君津市の瑞龍院に葬られたが三芳村の延命寺にも墓がある。




富浦町青木の興禅寺にある青岳尼の供養塔。義弘は幼い頃にこの小弓公方の娘と過ごした時期があったらしい。戦乱の中、小弓公方の子供達をずっと守ったようだ。しかし敵方の禅寺から尼になった幼馴染を強奪して妻にするとは爽快であり、戦国ロマンそのものですね。



●7代:里見義頼(さとみよしより)1550年頃-1587年
義弘の子。岡本城に居城して安房の経営を任されていたが、後継問題で義弘と対立した。義弘の没後、上総後継の梅王丸を捕らえて岡本城に幽閉し上総の反対勢力も滅ぼして上総も領有した。久留里城には移らず城代家老を置いて安房国岡本城で領国経営をおこなった。そして館山城築城に着手した。

富浦町の岡本城は安房・上総を領有する里見の本城となった。岡本城は北側と南側に川があり西を海に面した海城だ。北側の入江には軍船を多数係留して里見水軍の本拠地だった。南から東は大房砦山本、堂山砦山本、船形城安西、白坂城忍足、当城?等々を岡本城を囲う様に家臣を配置した。北側の尾根筋を通って富山町・高崎に出る木の根道がある。

また北条氏との和平を継続、佐竹・武田・上杉などの各大名とも平和外交を展開した。さらに関白豊臣秀吉とも交渉するなど戦国の終焉を感じ取っていたかのようだ。岡本城で病死。南房総市富浦町青木の光厳寺に墓がある。





岡本城からの眺め;長く突き出た岬は大房岬、その左は堂山、手前は富浦湾(岡本浦)、遠方に霞んで見えるのは館山。

戦国大名里見9代(4)


●8代:里見義康(さとみよしやす)1573年―1603年
義頼の子。岡本城から館山城に本城を移した。義康は豊臣秀吉の小田原攻めに出陣が遅れ、また領地に禁制を出して怒りを買い上総国を没収されて安房一国となった。

久留里城代山本越前守清七は上総の多数の家臣を安房に移した。その後義康は上洛し秀吉に謁見した。秀吉から羽柴姓を許され羽柴安房侍従と称された。越前守清七は中将となった。

義康は秀吉の臣下として伏見に屋敷を置くが徳川家康に接近していった。朝鮮侵略では徳川家康について九州肥前名護屋城に出陣したが渡海はしなかった。朝鮮に渡った大名は大きな被害を出し、国内の大名は豊臣方の城の普請でどちらも大きな出費だったようだ。関が原合戦では徳川方で結城秀康に従って宇都宮へ出陣し上杉景勝に備えた。関が原合戦の後、恩賞として常陸国鹿島郡三万石を加増されて計十二万石となり、外様大名では関東最大となった。また家老山本清七も家康から三千石を加増された。

小田原の役・上総没収・朝鮮の役・関ヶ原・館山城築城など大きな流れの中で心労のためか館山城で31歳で病死。城下の真倉慈恩院に葬られた。



館山城天守閣。復元したものだが当時の形を残しているらしい。城内には義康や忠義・一門衆・家臣たちの屋敷があった。武士たちの日常生活はどんなものだったのか興味がわいてくる。



●9代:里見忠義(さとみただよし)1594年-1622年
義康の子。館山城を居城とした。父義康の死により十歳で家督を相続。安房侍従となった。一門の正木、重臣の岡本・山本・堀江・板倉が補佐をした。将軍秀忠の御前で元服し秀忠の一字をもらって忠義と名乗った。徳川家と縁戚を深めるため小田原城主の小笠原家から姫を娶った。山本・岡本の重臣たちが小田原に出向し周旋した。古い重臣たちは城主は替わったが、かって宿敵だった小田原城にどんな気持ちで出向しただろうか。

小田原の姫に用人印東が付いてきた。この印東が忠義に気に入られ異例の出世をした。やがて古い重臣正木派と新しい印東派が分裂し対立した。忠義は若年で納められず内政は困難を極めた。やがて印東派の横暴を抑えきれなくなった譜代の重臣たちには役職を返上して浪人するものまで出た。

印東は公家風で化粧をしていたらしい。目新しい知識をもっていたのだろう。数々の戦乱を乗り越えてきた里見家譜代の重臣たちには合わなかったようだ。

浪人した重臣たちは哀れだった。山本は領地没収し追放、岡本は殺害された。これを知った家康は反乱を疑った。山本清七は自分が目を掛けた者だ。藩主を補佐し徳川に忠誠を尽くすようそのために3000石を与えていた。家康は大阪城攻略の準備をしており東京湾入口は江戸にとって重要な拠点となる。

そんな中、重陽の賀詞を述べるため江戸に出仕した忠義は、登城を差し止められた上、突然に伯耆国倉吉へ国替えを宣告された。理由は小田原の大久保の失脚に連座しての改易といわれている。安房国は相当に混乱したようだ。館山城明け渡しには一戦有ったとか無いとか言われるが国主も重臣も居なくてはどうしようも無かったであろう。倉吉での忠義はさらに追い詰められて悲憤のなかに二十九歳で病死した。 

倉吉大岳院に墓がある。嗣子が無いとされ里見氏は滅亡した。実際は3人の男子があったらしく子たちは縁故を頼って他家に仕えた。忠義の正室は東丸といい、肥前唐津城主の弟を頼った。後に高野山に忠義の供養塔を立てた。忠義が死去した時、8人の側近が殉死し「八賢士」と讃えられた。後に遺骨を館山城に持ち帰り南麓に供養し現在もある。この8人が「南総里見八犬伝」のモデルになったという。

家臣たちは他家に入った者、元の領地に帰農した者、浪人した者と様々だったようだが大半は困窮を極めたらしい。里見改易後は館山藩は幕府の代官がきて管理した。幕末の頃は稲葉藩や長尾藩が治めた。




安房国の木の根峠の眺望。峠から浮島や三浦半島が見える。街並みは富山町。忠義が江戸に出仕する道中、この峠で突然、愛馬が暴れて収まらず忠義が落馬したという。愛馬は忠義の運命を悟って出仕を阻止したのかもしれない。

関東に武勇を響かせた房総里見氏の話は簡単ですが以上です。いかがでしたでしょうか。里見忠義の処世、トップの舵取りはたいへんですね。ちなみに奸臣印東は他家に鞍替えしたそうです。


   
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