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房総の古城(5)館山城@


館山城は館山市館山にある周囲から独立した標高65mの山です。

「里見代々記」に「正木大膳の乱が鎮まって家老も替わり、山本・堀江・板倉・長谷川である。義頼公は家臣安西、角田、岡本、山本を召され是より南に城なし、館山の古城跡は何様能き景山なり、殊に要害の地なれば彼処に城を築くべしと被仰出ける・・・ 」とあります。

7代目里見義頼が計画し天正18年(1590)に8代義康が完成した。城の東は御霊山―大膳山―慈恩院まで囲む総堀(鹿島堀)、西側は広い沼地、南に重臣の屋敷、北はすぐ下に港があり東京湾の入り口を押さえる重要な場所であった。北から東に城下町を造り戦国時代とは違う発展した城となった。

8代義康は安房・上総を領有し約50万石だったが秀吉の小田原征伐で遅参し上総を没収され9万石になった。久留里城代の山本越前守は多くの家臣を安房国に収容した。天下人秀吉の命で大名は伏見に屋敷を持ったり朝鮮の役では家康に従い肥前名護屋城に出陣した。

また関ヶ原の役では上杉景勝に対抗するため宇都宮に出陣しこの功績で徳川家康から里見義康は鹿島3万石を、家老山本清七は3千石を加増された。天下の形勢が大きく変動し心労が多かったのか義康は31歳で急逝した。

9代忠義は「里見代々記・稲田篤信著」で:「御年9歳で義康公にお別れになり家臣の岡本、山本、堀江、板倉の4人が後見しお守りしてお育てした。慶長16年(1611)には18歳になられた。ある日、母君は4人の家老をお召しになって「忠義君もはや婚礼の時期となった。・・・中略(小田原城の大久保家の娘を迎えることになり家老たちが周旋した)・・・すぐにお迎え取られて奥様にお定めになった。お付きの人には印東采女正、同じ姓の河内介の両人が奥様の近習である。」

忠義は印東采女正が気に入り地位を上げていった。印東采女正の横暴が増えていき忠義の奇行が多くなる。古くからの家老たちは抑えることができなかった。家老の中には恥じて職を返上して浪人するものまで出ました。代々里見家の為に命を惜しまず働いてきた重臣が見切りをつけたのだった。



天主閣の内部は里見八犬伝に関連したものが展示されている。当時の天主閣の再現したとも犬山城を模したとも言われる。3階からの眺望は最高。


館山市内の眺望。三芳村・丸山まで見える。山本清七の居城と言われる山本城の山(館野)もみえる。


館山湾の眺望。沖ノ島・鷹の島・自衛隊基地・大房岬・堂山・那古山が見える。


南向きで日当たりが良い最高の場所。城主8代里見義康の館があったところで今は梅林になっている。正面の森に義康の墓所慈恩院がある。右遠方に出野尾の山も見える。

房総の古城(5)館山城A


館山城の続きです。

その後、館山城では数々の怪しげな出来事がおこりました。元和元年(1615)9月9日、忠義は突然幕府から国替えを言い渡され伯耆(ほうき)の国に配流となった。事実上戦国大名里見家は廃絶となる。まもなく岩槻の内藤氏・大多喜の本田氏が城の受け取りに来て館山城を破却した

里見家の廃絶後、安房国は天領・旗本領・小藩の領地に細分化さればらばらになります。自分の領地に帰農した者もいたが大半の家来は禄を失って相当に貧窮したらしい。


聞いた話:
@印東は公家風で顔に白粉をぬり紅を付け化粧をしていた。殿様の機嫌を取るのがうまくて気に入られた。殿様を笠に着てやりたい放題だった。上には調子が良いが下にはひどいことをした。(こういう人は今の時代でもいますね。)

A忠義は重臣たちを並べて箒(ほうき)で頭を叩いた。重臣たちは情けなく思った。伯耆(ほうき)に流されたのはその因縁なのか。

B家老山本清七は最後は浪人してかわいそうだった。先祖代々仕えて合戦のときはいつも先頭で働いてきた。別の名をちゅうじょう(中将)と言った。

館山城は戦時中に高射砲部隊が置かれ本丸を崩して二の丸千畳敷に盛られたため9m低くなりました。また総堀(鹿島堀)もほとんど埋められました。

本館(博物館)・分館(天主閣)・茶室・千畳敷・梅園(義康の御殿跡)・八遺臣の墓・孔雀園(新御殿跡)・重臣山本清七、印東采女正の屋敷跡・わずかな総堀(鹿島堀)跡・慈恩院の里見義康の墓所が見られます。天主閣の眺めは素晴らしいです




当時に近い風景。出野尾の山中から見る館山城。一説には城の受け渡しに戦いがあり落ちのびた十三人の武士がここで没したという。十三塚と供養塔が建っている。武士たちはどんな思いで城を見ていたのだろうか。



当時に近い風景。総堀跡から館山城を見る。周囲から独立した形のいい山。城のために出来たような山。



当時に近い風景。南東の広大な沼地から城を見る。現在は隆起して田園になっている。沼地は自然の総堀となっていた。



当時に近い風景。館山港から見る天主閣。天然の良港を持つ素晴らしい城。没落しなければ大いに栄えたであろう。トップは舵取りを間違えれば取り返しがつかなくなる。


古城・三橋美智也


房総の古城(4)滝田城

滝田城は、三芳村の上滝田にあり、標高140mの山城です。上滝田の根古屋(郵便局の近く)から登ると標高100mの馬場、土塁、虎口、二の丸台地、大門跡、本丸になります。虎口を行くとすぐに北側の展望が開け平久里街道が見渡せます。私的には展望台よりもこの眺望が良い。

本丸は平地になっておりすぐ上に櫓台(八幡台)があり八幡様、東電の鉄塔がある。本丸よりも少し下がると展望台があって270°のパノラマが見られます。北側は伊予ヶ岳―里見番所―犬掛古戦場、東は川又―真名板、南は稲村城―府中―本織が見えます。

滝田城は安房国の中央を通る平久里街道を抑える要衝だと分かった気がします。また別の登り口はガラリーSKF近くと(搦手口らしい)と駐車場側があります。

築城は初代義実とも5代義豊ともいわれ稲村城の後に造られたようです。城主は義豊の妹を妻にした一色九郎。一色氏は里見氏と共に安房に渡ってきた足利の家来です。

天文二(1533)年「天文の内訌」で里見義堯軍に攻められ滝田城は落城し一色九郎は没した。5代義豊は上総に逃れた。翌年に義豊は援軍を得て安房国に攻め込み富山町の犬掛で義堯軍と戦った。この犬掛合戦は激戦となったが義豊軍は多数の戦死者を出し敗れた。

このとき義豊の重臣、鎌田・勝山・宮本・大野らは義堯軍を阻止し主君義豊を稲村城へ逃がした。稲村城に落ちた義豊は義堯軍と激しく戦ったが深手を負い追い詰められて没した。滝田城・犬掛・稲村城では家臣が敵味方に分かれて戦い多くの犠牲を出した。言い伝えや悲話が多く残されている。

義豊の側室「倉女」は子を宿していて山中に落ち延びた。生まれた子を倉女の兄小倉氏が実子として育てて後に里見の家臣となった。

義豊を稲村城へ逃がすために岡本四郎兵衛頼重は踏み止まって正木大膳と戦い戦死した。後日その場所に供養塔が建てられた。滝田の青墓と言われ今でも子孫が供養している。

滝田城の近くの真名板(まないた)に十三塚がある。義豊方の家臣、安西左京・山本清六ら十三人の墓だと言われている。犬掛の激戦の地には今でも「勝負田」という場所がある。滝田城はその後まもなく使われなくなった。

聞いた話・ある家の言い伝え:
昔、里見の殿様が跡目を争って戦いになった。家では旦那様と14歳の息子が戦いに行って死んだ。生まれたばかりの男の子がいて危なかったので母親と一緒に親戚に隠して育ててもらった。その子が大きくなってからお城に呼び出された。殿様に仕えて偉い武士になった。・・・これは天文の内訌と関係があるかどうか詳細は分からない。


北側の眺望。伊予ヶ岳―里見番所―犬掛古戦場―水汲戸ー龍喜寺(高月城)―馬場などが見える。里見義堯はここで犬掛合戦の指揮を執ったかもしれない。


東の眺望。三芳乳業―川又―真名板―大畑が見える。「南総里見八犬伝」の伏姫と八房の像が置いてある。


南の眺望。稲村城―広瀬―府中―本織―延命寺山―千代が見える。右下の田園は西の谷。遠くに霞んでいるのは出野尾、山萩、山本あたり。館山城も見えそうだ。


犬掛の田園。「犬掛古戦場」の碑が建っている。このあたりが「勝負田」と呼ばれる激戦の場所。向こうに滝田城が見える。


滝田城の下、真名板(まないた)の高台に十三塚がある。館の跡のような台地になっている。義豊の家臣、安西左京・山本清六・宇間藤内・早川権之丞・御子神内蔵介・角田忠蔵・福原信濃守ら十三人の墓だと言われている。今でも土地の方が供養している。

房総の古城(3)宮本城


宮本城は南房総市富浦町の花倶楽部の南東にある標高188mの山です。

里見2代目当主の成義は、稲村城を造った後、1491年に支城として宮本城を築城しました。成義が稲村城に居住し嫡子義豊を宮本城に置いた。天文の内訌で義豊は実堯を討ち稲村城に入り、宮本城には家臣の宮本宮内・鎌田孫六らを置いたという。

4代義豊は義堯と犬掛の合戦で戦うが敗れて義豊はじめ宮本・鎌田らは討ち死にし、それ以後は稲村城と宮本城は廃城にされたようです。5代目義堯の時、小田原北条との第二次国府台合戦に敗れると、勝利した北条軍は上総国に侵入し里見の本城久留里城や佐貫城もたびたび脅かします。

宮本城は北側の防御が強固でありこの頃に北条軍に備えて改修したのかもしれません。本丸に続く尾根に土橋・堀切・曲輪の跡が残っています。宮本城から尾根伝いに東へ2Km行くと滝田城、西側3Kmには岡本城がある。この線を安房国の防衛線としたのでしょうか。


宮本城本丸の南側にホルトノキがあります。たいへん珍しい樹で樹齢300年、根周り5.1mの巨木で千葉県最大だそうです。森の中に悠然と根を張るホルトノキには霊気を感じるほどです。ホルトはポルトガルのことで戦国時代に日本に入ったらしい。市の指定文化財になっています。




宮本城。城山ともいう。北のふもとには谷底の様な川が流れており昔はもっと深かったという。



土橋。人が1人通れる尾根道で両側は切り立っている。土橋を落とせば渡れない。右の道は後から出来た農業用の車道。



本丸跡。わりに広く、少し盛ったような所がある。湿った草が茂っていて歩きにくい。マムシがいるので注意。



本丸跡から遠方に大房岬が見える。左から西浜・堂坂・浅間山・大久保・静山・吹上げ・巻上げ・松原・藤四郎台が見える。大房の手前の大きな山が床城、その手前の山が手城。右端に岡本城が少し見える。



ホルトノキ。迫力がある。根周り5.1m・樹高19m・枝張り20mと書いてある。クネクネ曲がった枝にシダが生えて森の主のようです。

房総の古城(2)岡本城


稲村城とセットで国史跡になった岡本城です。

岡本城は南房総市富浦町豊岡字用害にあります。内房線富浦駅の北側にある山で里見公園とも呼ばれています。二の丸辺りをトンネルが通っています。

岡本城ははじめ岡本氏の居城でしたが6代義弘が召し上げて改修し7代義頼の城にしました。そして8代義康が館山に移るまで2代で20数年間里見の本城として安房・上総の経営を行いました。最前線の久留里城は重臣山本弾正を城代として守らせています。

当時は海にせり出したような海城で本丸は高さ50mで二の丸・三の丸・腰曲輪などが見られます。本丸は広場になっており二の丸・三の丸・腰曲輪は琵琶の畑になっています。

各施設や尾根道は周囲が切り下げられて絶壁状になっています。また本丸登り口や二の丸には大きな掘切りがあって縁が切られています。

尾根道北側には岩盤を四角形に掘った井戸の枡ケ池があります。山頂の井戸でも水が枯れないそうです。いくつかの伝説もあり独特な雰囲気があります。標高70mの聖山は7代義頼の弟梅王丸が後継争いに敗れ幽閉されていました。

岡本城主の普段の住居は今の学芸大学の施設がある所と言われています。確かに南向きで眺望の良いところです。

岡本城の北側は汐入川、南側は新田川があり汐入川の上流は広い入江になっていて軍船を多数係留し里見水軍の拠点になっていました。大地震のたびに隆起したので現在とは地形が大分違うようです。また豊岡海岸には船着き場の様な形の岩場が見られます。

岡本城は大名の城としては小さく見えますが、周囲を大房・堂山・当城などの砦で囲むように家臣を配置しました。海上から北条軍が攻めてきたとき、大房砦からのろしをあげ一斉に軍船を出して撃退しました。

義頼・義康は岡本城下を整備し経済の発展を行いましたが手狭になって館山に移転したそうです。岡本城のふもとには戦死した武士の供養をしたお寺や奥方様が建てたお寺があります。里見の本拠地だった岡本城周辺には元家臣の末裔が多いと思います。


豊岡の海岸から岡本城をみる。

本丸の掘切り

本丸の広場

二の丸から堂山を見る。堂山には砦があった

富浦湾を囲むような大房岬。大房の藤四郎台にも砦があった。

房総の古城(1)稲村城


館山市の稲村城跡と南房総の岡本城跡が共に国史跡に指定されました。これは「里見氏稲村城を保存する会」(愛澤代表)の功績によるものです。以前、稲村城跡を通る道路の建設が計画されていたが根強い保存運動で破壊を回避しました。これが国史跡の指定につながったのです。

いつもお世話になっていますので少しでも応援できるよう房総の城跡をブログアップします。稲村城から始めます。(内容が間違っていたらごめんなさい)

館山市稲の国道128号線の南側の山が稲村城の本丸になります。1400年代後半から1534年まで安房国主里見義通・義豊の居城でした。本丸は標高64mで北側からは館野・北条・三芳の広い田園が見渡せます。遠くに堂山や大房岬も見えます。

本丸周辺には遺構が多く残っています。高く積まれた土塁、斜面を垂直に切り落とした切岸、尾根筋を切り開いた堀切、カギ形の虎口、本丸と中郭部(二の丸)をつなぐ細い尾根道、防御用の腰曲輪、敵の侵入を防ぐ空堀の水往来などが今でも見られます。

中郭部(二の丸)にも切り立った斜面や曲輪があります。稲村城は本丸・二の丸を見ると小さいですがこれらを東−南−西側からグルリと外郭部の山が囲んでいます。城の北側はすぐに国道ですが当時は滝川が堀になっており全体ではかなり大きかったようです。

普段の城主の住居は本丸南東のふもとで「西の柵」辺りだったといわれます。ここは風が当たらず日当たりの良い最高の場所です。

稲村城の落城(天文の内訌)に関するいい伝えがあります。
@二の丸南の田んぼに水神の森がありここは天文の内訌で敗れた国主里見義豊が没した所。
A本丸尾根道の脇に正木様と呼ばれる社があるが重臣正木氏を祀った。現在でも子孫が供養している。
B本丸北西にある滝川の深みは鎌田淵と呼ばれている。義豊の家臣鎌田氏が敵兵2人を抱きかかえて飛び込んだ所。まだ他にもあると思います。



中央の山が稲村城の本丸。後方の左右に伸びた山は城の外郭部になる。

本丸から北側の眺望。府中・延命山・江田・園・広瀬・腰越と見渡せる。左遠方には三芳の滝田城が見える。また富浦の堂山や大房も見える。

曲輪からの眺望。下は西の柵、遠方は大井・加茂坂方面。

水往来(みずおれ)と呼ばれる空堀。今は城に登る道になっている。

本丸南側の中郭部(二の丸)。周囲が切り立っている。

   
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