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2024年02月29日

教えることに適していない2種類の人

まず、何か体系的な物事を理解したり覚えたりするには、まずおおまかなストーリー(順番など)を頭に入れたり、大まかな構造(階層構造、立体構造などの図解的な感じ)を予め理解しておくと、個々のことも理解したり考えたり覚えたりしやすいと思う。これらはモノとモノをつなげてリンク的に考えられる力とも言えるだろう。

それを踏まえると、教えることに適していない人は、以下のような人たちだと思う。
これは口頭伝達の際だけではなく、手順書や伝達書類の作成能力に関しても言える。


a. 頭が良すぎて、そうでない人の気持ちが分からない人

 自分の頭の中で、理解や記憶すべき物事を瞬時にストーリー(順番など)化したり構造化(階層構造、立体構造などの図解的な感じ)したりできるため、それがその人の中ではあたりまえすぎて、他の人もみんなそれが簡単にできると思い込んでいる人。

b. 単純な記憶力がよすぎて、そうでない人の気持ちがわからない人

 単純な記憶力(丸暗記力)が良すぎて、ストーリー(順番など)化や構造化(階層構造、立体構造などの図解的な感じ)することなく、個々の物事を次々と単純に記憶できてしまう人。


a. が学ぶべきことは以下の2つだろう。

・誰もがa. の人のように瞬時に理解できるわけではないということ
・上記の人の気持ち

これらができるようになれば、あとは持ち前のイメージ力や理解力を駆使してとても分かりやすい説明ができるのではないだろうか。
それに加え、単純な記憶力の良さも訓練によりもし身につけることができたとしたら、鬼に金棒状態にもなれそうだ。

b. が学ぶべきことは以下の3つだろう。

・誰もがb. の人のような単純な記憶力(丸暗記力)があるわけではないということ
・上記の人の気持ち
・前述のリンク的に考えられる力があるほうが、理解や思考のみならず記憶の助けにもなるということ。

b. の場合、単純な記憶力が良すぎる分、理解力や思考力をあまり使ってこなかった可能性があるかもしれない。
そして持ち前の単純な記憶力が衰えたとき、代替策がなくなってしまうだろう。それでは教える側としてのみならず、自らも困ることになる。単純な記憶力はあるにこしたことはないが、それだけに頼らずに、いわゆるリンク力的に考える力を養っておいた方がよいと思われる。
だが、単純な記憶力に加え、優れた理解力や思考力、さらには記憶力に悩む人の気持ちがわかるようになれば、逆に鬼に金棒状態にもなれそうだ。

2024年01月21日

子供らへの指導について思うこと

子どものサッカーの試合を見て思ったこと。

無駄に高圧的なコーチは21世紀にはほぼ絶滅してるだろうと勝手に思ってたが、別にそんなことはなかった。うちの子のとこは大丈夫だけど、対戦相手のチームにしばしば見かける。

無駄な威圧はまじで無駄、どころか超害。それは今や科学的にも分かり切っているだろうし、自分自身やまわりの経験からも明らかだ。優れた指導者に指導されて自分や仲間が成果や自信を得られた経験も複数回あるから、それは断言できる。まして、有償ならばなおさらだ。
もしそのような高圧のおかげで自分が成長できたのだから子供にもそうしている、という人がいれば、それは勘違いか、実はそれによって害を受けていたことに気づいていないか、もしくは単に人の話を聞かない人か、のどれかである可能性が非常に高いと思われる。それは別に褒められたことじゃない。
それでももし威圧された方が成長するという生徒がいるなら、それはその生徒にだけカスタマイズされた指導であるべきだ。しかもそれは負の感情まかせではなく、あくまで合理的に冷静に行うべきだ。そして、そういったことを最小公倍数として全体に適用するのはだめだ。

誰でも、一定以上の目標に向かえば試練は自ずとやってくる。だから、あえて威圧される必要はない。その威圧がもし指導者のストレス解消や指導者自身の低い自尊心への穴埋めなどの役割を兼ねられていたのなら、それはなおさら避けなければならない。
どんなジャンルだって、それに合わない人はそのうち辞める可能性が高いが、威圧されればもっと早く辞めることになる。といっても、そんな環境で無理に我慢して続けられたとしても、それはそれで自分のリソースを無駄に削ることになるだけだ。
そうなれば、不幸になるのは被指導者たちだけではないだろう。指導者側のビジネスをも苦しめることになる。もう昔の時代ではないのだから。
タグ:指導

2022年08月30日

本来なら負比例と言うとことを反比例と言う

話の中で、本来なら負比例と言うべきところを反比例と言う人がけっこういると思う。自分も昔はそうだった。

何か一方を高めるともう一方が下がるという場合によく使うと思われる。おそらくこの場合、多くは負比例のことを言いたいんだと思う。
言葉だけで考えると、その時はあるものに相反するものの事を言いたいわけだから、「反」という言葉を使いたくなり、その結果として反比例と言ってしまうんだろう。

でもこんなことも思う。正の反比例は決してマイナスにはならない。下がっていくものの決してマイナスにはならないことに対して使うのであれば、あながち間違いではないのかもな。
あとは減り具合が直線的なのかそうでないのかにもよるか。

2022年07月27日

子供の勝負について

勝負というのは、感情的なボラティリティが高い事象だと思う。

だからこそ、大人が子供にそれを強いるべきではないと思う。それを強いることは、子どもにとっては普通の家庭食事が最適なのに、そこに栄養剤、もっと言えば酒やタバコまでも加えるようなものだ。言い過ぎだろうか? 確かに、「勝負」には人体に影響を及ぼすような化学物質は含まれていない。でも行き過ぎた勝敗へのこだわりは、時にもの凄い量の脳内物質を分泌させているとは言えないだろうか。

もともと勝負そのものに感情的に高いボラティリティが備わっているので、他人がそれをさらに強化させる必要など、本来はないのだ。ましてや子供に対しては。

サッカーが楽しいからやる、鬼ごっこが楽しいからやる、相撲が楽しいからとる、ドッジボールが楽しい、ゲームが楽しい。その結果、面白みの一要素として勝負が決まる。そこから自然と沸き上がる天然の喜びや悔しさだけで十分だ。
負けたからと言って、大人がそこに罵声を浴びせたり理不尽な言動をとったりすること、逆に勝ったからと言って、過剰な褒美を与えたり次への過剰な期待をかけたり敗者を見下すような発言を見せることは、それこそ酒やタバコを与えるようなものだ。
酒やタバコは、良い面と悪い面が両極端だ。自己責任でうまくコントロールできる場合にのみ摂取することが許される、完全に大人の嗜好品だ。

どうせ大人になれば、様々なジャンルで多くの競争にさらされる。明示的な勝負もあるが、ほとんどは見えにくく計りにくい勝負だ。故に、変にもやもやすることも増えるだろう。
ならばせめて子供の時くらいは、純粋に楽しむことや学ぶことに集中させてあげたらいい。それが結果的に、大人になってから善玉な勝負をとる能力につながるのではないか。勝負を自然と楽しめるようになり、勝っても負けても互いに敬意を払えるようになるのではないか。

ちなみに大人の勝負でさえ、社会の向上にとって必要だったり、人間の善玉の夢や善玉の欲望から自然発生的に生成されるものであるべきだ。良性なメリットがない無駄な争いなど、多くの人は好まない。
だったらなおさら、子どもは勝負の楽しさを遊びの中から自分たちで見つけ、それをなるべく自然体で受け入れられるようになっていた方がよい。そのためには、大人が子供に勝負に関して口出しする必要はない。というより、ほとんどの場合、しないほうがよい。ましてや暴言や暴力などもってのほか。大人は子供が夢中になる姿を優しく見守っていればよい。
そしてそれらをセルフコントロールできるようになる年齢、例えば高校生くらい?になってはじめて、勝ち負けにこだわるという上級で粋なやり方を覚えればよい。

2022年07月26日

コーチングについて考えてみた

我が子がサッカースクールに通っている。小1である。私はたまに練習試合を見に行く。

そこで気になったのは、とある対戦相手チームのコーチが彼自身のチームの子どもたちに対してよく威圧的な発言をしていたことだ。それらはほとんど罵声と言っていい。
2回に渡りそのようなことがあった。その2回はおそらく同じチームだと思う。そのチームの子どもたちの学年もせいぜい小1,2くらいである。

発言は、だいたい以下のようなものだった。
「おい!もっと○○せよ〜!」
「おいだから○○えよ!」
「どうせまた泣くだけだろ!」(言われた子はその後実際に泣いていた)
「おいおいおい止まってるぞ!!」
「行けよ!!!行けよ!!!行ぃぃけよ!!!」
(ルールを憶えきれていない子に対して)「ちげえよそっちから蹴るんだよ!そこ!お”〜い!ちげえよ!!!」
etc.

これらを、かなり威圧的な発声と表情を持って、そこそこの頻度で言っているのである。そんなに年老いているようには見えない。むしろ比較的若そうなコーチである。

これが我が子のチームのコーチではなかったことに若干安堵するものの、相手チームとはいえ、やはり見ていて聞いていて気分の良いものではない。
それに、上記のような発言をしているからといって、別にそのチームが特別強いわけではないのだ。むしろそのせいで硬直している子が出たりして、本来の力を発揮できていないように見える。

そのチームにもそこそこの数の保護者が応援に来ていたようだが、彼等は何も苦情を言わないのだろうか? いやむしろ、そのように「厳しく指導してほしい」とか言っている親がいたりするのだろうか。
もちろん、必要な適切な「厳しさ」であれば何ら問題はないだろうが、あれは明らかにそうではないと、私は思う。

私はそういう場面を見ると、どうしても自分の小学生時代を思い出してしまう。どうしても忘れられない嫌なコーチや教師の、フラッシュバックのような記憶だ。

1つはスイミングスクールにて。小4から選手育成クラス的なものに所属した私は、通常のクラスよりも高負荷な練習を行っていた。そのこと自体はもちろん、何ら問題はない。
問題は、そこにいた男のコーチだ。かなり高圧的だったのをいまだに憶えている。ドスのきいた「オラオラァァ!」だの「コルァ〜!」だのを随時連発。表情も常時、無表情に眉間しわ寄せを加えたものである。そいつに何かを質問するときも、一定以上の大きな声で言わないと、その表情のまま目線を合わせずに完全無視してくる。

極めつけはケツバットだ。所定のタイムを切れなかった生徒に対して、壁に両手をつかせた上にへっぴり腰のような体勢にさせた上で、プールサイドにてケツバットを食らわせる。2Fにしかない客席からはちょうど見えない位置でだ。
プラスチック製のバットとはいえ、ある程度は痛いし、何よりも精神的な苦痛がこの上ない。
そんなことだからか、そのスクールの成績は大したことはなかった。大会でたいして勝てない。もともと強い選手が途中で他の良いスクールに移籍してしまったこともあった。
100歩譲って、その上の人間の方針でやむを得ずそのような指導になっていたとしよう。だとしても、今度はその上の人間が糞ということになり、それをまともに実行できてしまうそのコーチ自身もやはりほぼ同様に糞ということになるだけだ。

私自身は、その選手育成クラスにスカウトされる直前くらいまでが成長のピークで、そのクラスに入ってからいくつか銅メダルや入賞こそとったものの、たいした成長はできなかった。もちろん、個人の才能や能力のせいもあろう。でも、そんな環境ではそもそもやる気は出るはずがない。
むしろ私は委縮しており、練習には本当に行きたくなかった。いつもスイミングスクールの時間が近づいてくると、胸のあたりがざわざわとしたり、空洞になったような、くすぐったいような、どす黒い何かが中にあるような、とにかくとても変で嫌な感覚が胸元でして、本当に気分が悪くなったものだ。毎回、気が気ではなかった。

辞めたくても親に辞めさせてもらえなかったが、なんとか途中で回数は減らしてもらえた。それでも行きたくない日は、弁慶の泣き所をわざと階段の角に何度もぶつけて血を出すことで、やっと休ませてもらえたこともあった。
嫌々ながらも、なんとか小学校在籍中は続けた。続けさせられた。だから、辞めた時の解放感といったらなかった。でもその反動か、中学生の頃の私は、ストレッサーやチャレンジを徹底的に避けるような情けない性格になっていた。

もう一つ、思い出す教師がいる。
小2〜3のときの担任の女だ。こいつもたいてい無表情であり、たいてい生徒を見下すような態度を示していた。忘れ物をした生徒のランドセルを無理やり机から床にすり落とすとか、生徒を馬鹿呼ばわりするなどは朝飯前。他にも、生徒をお前/お前ら呼ばわりしたり、とにかく馬鹿にする発言が多かった。
挙句の果てに、どんなつながりだか知らないが自らが出演した産後母が集まって出演するテレビ番組の録画を教室で見させられたり、とにかくいらぬことばかりする奴だった。

こいつら、今同じことをすれば大問題になるだろう。もうちょっと時代が遅ければと思うと悔しい。
こうした小学生時代の経験が、指導者や目上の人に対してデフォルトとしては不信感を持つ、という心理が私の中に育まれてしまったのだと思う。それ以外にも、与えられた悪影響は大きいと思っている。

しかし一方、素晴らしい指導者の方にも出会えたこともある。
わんぱく相撲教室のときの先生は、元教師かつ当時相撲部屋の親方であり、毎年夏休み中だけ特別にその小学校まで指導しに来てくださった。練習の時は自らまわしの姿になり稽古もつけてくれた。
常に落ち着き温和な感じで、決して無駄に怒るようなことはなく、親身にかつ丁寧で分かりやすく指導してくださった。1度くらいは誰かを𠮟りつけているのを見た気がするが、その叱り方というのも納得できるものであり、それが済んだ後は元の温和な雰囲気で通常通り稽古が続行されたというような記憶がある。きっと心のこもった叱り方というものがあるのだろう。
基本を大事にしつつも練習の負荷は決して楽ではなかったと思うが、みな自然と楽しみながら個々にやる気を出して取り組めていたように思う。実際、その後の区の大会では、同じ教室の同級生が1人ずつ優勝と準優勝になり、当時ガリガリでまったく相撲っぽくなかった私でさえ、予選を勝ち抜きベスト8の決勝トーナメントに進むことができた。その一つ前の先輩も同じように指導され、優勝していたそうだ。

また中学のときには、鬼のように見えるが実は良い人という体育の先生もいた。
そういう先生というのは、たいてい風紀的に下層に位置する生徒に対する指導態度をデフォルト状態としているためか、誤解されやすいのだろう。真面目というかごく普通の生徒に対しては、実は優しかったり対等に接してくれたりするものだ。

他にも素晴らしいコーチや先生はいた。そんな人たちのおかげで、前述した嫌な指導者たちの記憶が中和され、私は超ギリギリなんとか病まずに済んだのかもしれない。

まあこのような感じで、問題のある指導者と優れた指導者の方々を双方思い出すことで、その歴然とした差はよりくっきりと浮き出てくる。

2020年代というこの時代、以前よりもはるかに多くの情報を得ることができ、教育や社会も以前よりは発達しているはずで、またハラスメントとかコンプライアンスとかSDGsとかいう言葉を多く耳にするこのご時世、悪い意味での前時代的な指導者というのはもうほとんど絶滅したものだと思い込んでいた。しかし実際は、今でもいるようだ。ネット情報や口コミ情報からも、やはりそこらにいるようだ。

やはり、「適切な厳しさ」と「威圧的な態度」とは、似て非なるものだ。いや、むしろ似ているとすら思ってはいけないのかもしれない。誰もがちゃんと違いを分からなくてはいけないのかもしれない。

無益な威圧的な態度を続ける指導者は、いったいどのような考えに基づき、そのようにするのだろうか。
おそらく、自分がそのようにされてきたから、という単純な理由も多いのだろう。
また、罵声を浴びせられるくらいの刺激がやる気を出すにはちょうどよい、という人もいるだろう。でもそれは全員ではない。むしろ昨今では、マイノリティではないのか。
というか、高圧的にされないとやる気でないって、お前どんだけ我のエネルギー低いんだよ、もともとどんだけやる気ねえ体質なんだよダメだろ、もしくはどんだけひねくれてんだよ、と逆に突っ込みたくなる。
また、自分が威圧的に指導されてきてそれを乗り越えられたからといって、そのおかげで上達したと本当に言えるのだろうか? もしも、「威圧的な態度」によってではなく適切な厳しささや適切な指導によって育てられていたなら、もっと上に行けたのではないか? と自分で思わないのだろうか。
もっと言うと、悪気のない小学生に対して高圧的になるとかいって、指導云々以前にそもそも大人の人間として恥ずかしくないのかよ・・・と言いたくなる。

スポーツにおけるコーチング技術そのものは発達しているのかもしれないが、それが現場に浸透しているかどうかは、スポーツの種類や地域などによってけっこう大きく異なるのではないだろうか。もちろん究極的には、指導者個々人の違いが一番大きいだろうが。

より良くなりたいと思う人からその辺をちゃんとしていって周囲にも良い影響を与えていこうっていうのが、今後も必要なんだろうね。マイルドな言い方で言えば。

2022年06月10日

星空のBelieve まじで好き

TVシリーズ『機動戦士Zガンダム』のED曲だった、鮎川麻弥さんの「星空のBelieve」のこと、まじで好きだって改めて思った。

人類の文明がより高度化し続ければ、いつか太陽系や銀河系の外側にも進出すると思う。それに際して、それまでもそこからも幾多の困難はあると思う。でもこの曲を聞くと、とても前向きなイメージを持つことができるんだ。

私が初めて聞いたのは、小学校1年生くらいだったと思う。その時から好きだった。
ファが走っている姿と宇宙の背景のおかげで、そのイメージはさらに広がりを持てたんだと思う。

あと、ガンダムZZの曲「一千万年銀河」も同じようにとても素晴らしいんだよな。

2021年12月31日

スキルのポートフォリオ

資産運用をしていると、ポートフォリオの話が頻繁に出てくる。ポートフォリオとは、自分が持っている金融資産の組み合わせのことだ。
これをイメージ化したものとして、自分が持っている金融資産の割合を種類ごとにそれぞれの表面積で示した図形が思い浮かぶ。

その図形の内訳が大まかに分けられている場合、たいてい以下のようになっていることだろう。
安定しているものと、リスクは大きいがその分大きな利益を得られうるもの、そしてその中間層。
このような図形の全体の形は、その時々で四角だったり丸だったり三角だったりする。
個人的には三角形で示すのが好みだ。「安定」的なものを面積が大きい下の辺りに、とがったリスキーなものを面積が小さな上の辺りに、という風に、個々の要素とそれぞれの位置を対応させることで、位置に意味を持たせた書き方ができるからだ。

図形の種類はともかく、このポートフォリオの考え方は、資産運用や投資のこと以外にも活用できそうだ。
例えば、スキルにあてはめられそう。自分が持っている職業スキルや取得済みの資格を考えるときだ。
これを三角形のポートフォリオ図にあてはめる場合、初級だがカバー範囲が広いものや上級を目指すのに必須なものを下方にもっていき、上に行くにつれて上級やピンポイント的なスキル・資格を書き込んでいく。

このとき、まずは現状のポートフォリオを図示する必要があろう。次に、未来に目指すべきポートフォリオとなるように、現状の図に書き込んでいく。こうすることで、現状からどのようなものを目指したいか、もしくは目指すべきかが、はっきりと見えてくるのではないだろうか。

他にも、人間関係だとかにも使えそうだ。
それ以外にも、様々なジャンルに使えそうだな。

2021年08月29日

ドラゴンや龍の伝説の出処

伝説にあるドラゴンや龍って、昔の人が偶然に恐竜の化石を見つけたときに出てきた発想なんじゃないかな。そんな気がするわ。

2021年07月30日

「幸せはお金じゃない」ではなく「幸せはお金だけじゃない」

しばしば出会う台詞「幸せはお金じゃない」系は、すべて「幸せはお金だけじゃない」とかにするべきだと思う。
台詞だけではなく、お金の概要に関する伝え方全般において、お金は幸せを構成する一部であることを含ませるべきだと思う。
時代劇とかならいいんだけど、現代劇においてはそうしないといけないんじゃないかと思う。

純粋で真面目な子供ほど、「幸せはお金じゃない」を真に受けたり、金持ち=嫌なキャラや悪役という設定により、お金に関して考えることや労働意欲などが無意識のうちに抑制されてしまっている気がする。
言葉通りに真に受けるほうが悪いとも言えるかもしれない。フィクションを真に受けるほうが悪いとも言えるかもしれない。
しかし、子供の頃にテレビに映る物語などや大人から何度も見たり聞かされたりしていれば、影響を受ける人がいてもおかしくはない。たぶん私もその一人だったかも。
それらの台詞や設定は、様々なことがお金を介して行われているにも関わらず、あたかもお金無しで心意気だけでそれらが達成できるかのような錯覚を与えかねないのではないか。
今のテレビや人たちはどうなんだろうか。そのような点で、昔よりはマシになっているのかな。

狩猟採集社会や100%物々交換な社会に生きていない限り、生きるために何らかの形でサービス提供者に対してお金が支払われている。
また、お金はより良くなるためにも有効だ。やる気や生きがいにもつながるものの一つだ。

社会にお金がないとすべては物々交換やサービス交換となり、生活は超煩雑になる。お金は人類による最高の発明の一つであることは確かだろう。

ただしお金に執着しすぎたりリスクヘッジがなかったりすると、お金によって失敗することもあるかもしれない。しかしそれは正しい知識や計画性や冷静な判断力によってある程度回避できる。

このようなことから、お金は幸せを構成する一部であることは紛れもない事実と言えるだろう。

にもかかわらず、「幸せはお金じゃない」というような、勘違いを引き起こしかねない言葉や伝え方がしばしば横行する。
この「幸せはお金じゃない」を言っている側としては、以下のタイプが考えられる。
  • お金に困ったことがほとんどなく、それが無かったり中長期に渡って不足しているときの気持ちがほぼ分からない
  • お金でひどく痛い目にあった人が、教訓のためと思い強調するために逆張り的に言ってしまう
  • やや偽善的な人や物語が、正確ではないと分かっていてながらも感動やインパクトのために言ってしまう
  • 相手が大げさやジョークをいつもすべて正確に判断できるという前提で、強調するためにあえて言ってしまう
  • ある人や団体や物語などが、何らかの政策や操作のためにあえてそのような言い方をする

「幸せはお金じゃない」ではなく「幸せはお金だけじゃない」がよい。
特に子どもたちには、なるべく正しいことを伝えて行く必要があると思う。

2021年07月26日

議論

議論することは、基本的にとても大事だと思う。

ただし、以下のような議論はほとんどいらない。あると逆効果。


・SNS上の議論
 ※ここでは、ウォール、コメント、BBSの類のこと。一方、チャット類による比較的迅速なコミュニケーションについては、ここには該当しない。

 主な理由:
 展開速度が遅い。その間、参加者の記憶や思考や参加意欲が終盤までもたない。
 非言語的なコミュニケーションの欠落による各種不都合。

・感情的な議論

 主な理由:
 感情により合理性がかき消されることが多い。
 議論がぐるぐる回って進展しないことが多い。
 その議論を観察する周囲までもが合理的な思考を失いやすい。
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