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2016年04月22日

賢治と斉藤宗次郎と倉本父(山谷太郎)

倉本聰は先日のNHK-BSのインタビュー番組でも
幼少時、父親(山谷太郎1899〜)に宮沢賢治作品を毎日音読させられた話を披露していたが
倉本父は、なぜ賢治作品を読ませたのだろう? 
太郎は俳人でもあったから、文筆家として賢治の文学センスを尊敬していたのだろうが
それだけではないような気もする 
何か思想的なものがあるのではないだろうか? 

賢治(1896〜)の代表作に「雨ニモマケズ」というのがある 
〜そういうものにわたしはなりたい、で結ぶあの有名な詩だ 

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

この「そういうもの」にはモデルがいるという話がある
賢治の知人で同郷でもある斉藤宗次郎(1877〜)という人だ
宗次郎はクリスチャンであったために迫害され、教師の職を失い(反戦思想のためかもしれない)
長女を「ヤソの娘」と、蹴り殺されたりしたらしい
それでも信仰に則り、地域への奉仕活動を続けたという

(ここからは自分の想像です…)

そして太郎もまた、この時代を生きたクリスチャンであった
差別・迫害される事もあったかもしれない
宗次郎は内村鑑三の弟子で、後に上京して鑑三の死を看取るほど近くにいたらしいから
太郎は宗次郎を知っていたのではないだろうか?
そして宗次郎を讃えるような詩を残した賢治に、思想的に共鳴したのではないだろうか?
息子に毎日音読させるほど…

ちなみに賢治は仏教徒であったが、いろいろな宗教に精通し理解もあったらしい
「銀河鉄道の夜」で乗客たちが別々の駅で降りるのは、それぞれに信じる宗教が違うからで
ジョパンニがどこまでも行けるのは、まだ生きているからと解釈できるそうだ







2016年01月07日

演出家の多様性

富永卓二 1/2/3-----7-9-------12/13-----16/17/18-------------24-合計11
杉田成道 ------4/5------10/11------14-------------19/20-22------合計8  
山田良明 ----------6-8------------------15----------------21-23----合計5

北の国から連続シリーズ全24話は三人の演出家が手掛けている
杉田は演出テクニックを駆使するドラマチック技巧派で
他二名は役者の素の魅力を引き出すドキュメンタリー自然派といった印象だ

自分は杉田の演出回が好きなので、後のSP版を全て杉田が担当したのは納得しているが
SP版が連続シリーズより優れているとは思わない
連続シリーズは東京から北海道へ逃げてきた倉本が自己を投影した作品なので
脚本が特別に優れているのかもしれないが、それだけではないような気もする

11話の辰巳が草太につかみかかるシーンで、黒板家のガラスが割れ蛍の顔が覗く
自分は思わず「ガラス割れるだろ!」と、叫んでいた
ドラマを観て叫んだり泣いたりするようなことはめったにないのだが…
きっと純や蛍がボロ家にビニールを張ったりして修繕するのを見ていたからだと思う

それほどのリアリティが生まれたのは、タイプの違う複数の演出家がいることで
作品の奥行や世界観が広がったからだと思うのだ
あれほど長期ロケができるような、製作費の予算が認められたのも不思議だが
いろんな奇跡が重なって、この名作は生まれたんだと思う





2015年12月29日

つららとキツネ

つららとキツネはシンクロしているようだ
5話でつららは、草太と雪子が並んで座る黒板家に入れず純の前から走って逃げるが
このあと、純に石を投げられたキツネも走って逃げる
11話でつららは失恋の痛手から家出をして、罠にかかり片足を失ったキツネも姿を消す

このときキツネがトラバサミを引きずり激しくのたうちまわりながら雪の上に残した
ジグザグの足跡は、傷ついたつららの心情のメタファーでもある
キツネが痛くて何度も鳴いているとき、つららもどこかで泣いているのだ

18話で川岸につららが現れる直前にキツネのカットが挿まれるが
これは演出家の遊び心だろう、足があったので蛍のキツネではないし

その後つららは21話に、キツネは最終回24話に再登場するのだが登場回が違う
なぜシンクロは解けたのだろう?
そして、なぜキツネは麓郷に戻れたのにつららは戻れないのだろう?

もしかしたらシンクロとは、つららの負の感情がキツネに投影していただけなのかもしれない
21話のつららはどこか吹っ切れているようで
雪子への恨みや草太への執着心のようなものを感じさせないからだ

かわりに農家の暮らしは素敵だと語り、故郷を失くした喪失感のようなものを感じさせる
ここで11話でキツネが失った片足とは、つららにとっての故郷だったと仮定してみる
すると、シンクロが解けようがキツネが戻ろうが失った片足は取り戻せないのだから
つららは麓郷に戻れないのだと上手く説明できる気がする

人間ドラマとしてはソープランドに勤めた経歴から帰郷できないのだとも解釈できるが
それとは別に、キツネの片足がつららにとっての故郷のメタファーだから戻れないのだという
文学的な理由もあるのかもしれない







2015年12月28日

UFO事件考察 風の又三郎編

今度は賢治のもうひとつの代表作、風の又三郎へのオマージュとしてUFO事件を考察してみる

14話でUFOと共に森の中に現れた凉子を見て、子供達は宇宙人では?と疑い恐れる
これは三郎が強い風と共に現れ、風の精霊又三郎では?と疑い恐れられたのと似た構図だ
ただ凉子は三郎のような初対面の転校生ではなく、よく知っている担任の先生だ
子供達は動物的な本能で、このときの凉子の異質を感じたのだろうか?

風の又三郎には三郎はただの転校生だとする説、又三郎が三郎に化けていたいう説、
さらに又三郎がよそ者の三郎に憑依していたという説があるそうだ
このとき麓郷によそ者は凉子しかいない
もうひとりのよそ者の雪子は東京におり、純と蛍は五郎の子なのでよそ者ではない
ここでは憑依説を採用するが、いったい何者が凉子に憑依したのだろう?

自分は蛍のキツネを疑っている
昔からキツネやタヌキは人を化かす森の精霊的な存在だし
キツネが不在の12話〜23話の中にUFO期間はスッポリ収まるからだ

また、凉子があのシーンで幸せそうに歌っていたのが三百六十五歩のマーチという
行進曲だったのは、トラバサミで左前足を失ったキツネが久しぶりに両足で歩けるのが
嬉しかったからだと思うのだ
あのUFOはキツネの霊体のようなもので、一部が凉子に憑依して飛び去ったのではないだろうか

もう、キツネだと決めつけて考察をすすめていく

キツネは大好きな蛍と遊びたかったので迷子事件を起こしてしまう
あの夜のUFO見物は凉子狐のほうから誘ったのだ
大人達の捜索で発見できなければ、霊になった蛍と永遠に森で遊んだかもしれない

風の又三郎でも、子供達は三郎と遊ぶことで死の危機に直面する
キツネや三郎は自然の象徴であり、自然は人間に恵みをあたえるだけではなくとても危険なもので
子供達は遊びを通して、それを学ぶのだというメッセージかもしれない

純は旧の七夕の夜に寒気があったのだが無理をして祭りにでかける
(寒気がしたのは不思議な雨に追いかけられたからだがそれはまた別の機会に考察する)
無理をしたのは凉子に会えるかもしれないと思ったからかもしれない
外灯の下にポツンと座る凉子は寂しげというか、いつにも増して様子が変だ
以前は青や紺の自然色の衣装が多かったと思うが
この夜は真っ赤なTシャツ姿だ(お稲荷様かよ!)

「純君は蛍ちゃんを信じてあげたの?信じてもらえないって…」
凉子狐の巧妙な誘いだろうか?
純は「僕にもUFOを見せてください…」と、応じる

凉子が消えるシーンは、嘉助が嵐の山中でガラスのマントを着た三郎を幻視した場面に似ている
インタビューで演出の杉田成道が語っていた
「ここは風の又三郎で…」は、このシーンのことかもしれない

台風の日に三郎は転校して去り、UFOと共に凉子も転勤して去る
嘉助たちが幼さを卒業することで永遠に三郎と遊ぶ機会を失ったように
少しだけ大人になった純と蛍はもう、あの夏のようにUFOを見ることはないのだろう





 

2015年12月27日

UFO事件考察 銀河鉄道の夜編

北の国から連続シリーズには、登場人物のクマが宮沢賢治の詩を読むシーンがあり
作者の倉本聰が幼少時に毎日、賢治作品を音読していたという話もあるので
本作に賢治作品の世界観が影響していることは疑うまでもない
まずは銀河鉄道の夜へのオマージュとして、UFO事件を考察してみる

UFO初登場の14話から、凉子とUFOが去る20話までをUFO期間としてみよう
UFOも銀河鉄道も星を旅する乗り物だ
また、ラストで夢と現実のどちらにも解釈できるところも同じ

銀河鉄道は主人公ジョパンニにとっての、親友カムパネルラの死と別れを描いた作品だ
本作でも、この期間に杵次の死、売られる杵次の馬、凉子の元教え子の自殺話、
親友正吉との別れ、母との今生の別れ、UFOと消える凉子など
たくさんの死と別れが描かれている
また、杵次はカムパネルラと同じく川に落ちて死に
純と凉子が最後に会う約束した旧の七夕の夜は
ジョパンニとカムパネルラが、銀河鉄道の旅をしたのと同じ星祭りの夜だ
凉子が消えるシーンでは、純にジョパンニと同じような幻視体験をさせたいのだなと感じた

銀河鉄道の夜は難解だが、ジョパンニはあの旅を通して大きく成長したと解釈できるそうだ
本作での純と蛍も、迷子事件とそのおしゃべり事件やワイドショー事件を通して
傷ついたり悩んだりしながら、大きく成長したと解釈できるのだろう






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