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2020年02月07日
習一編−1章4
昏睡状態から習一が目覚めた日の夕食も翌朝の朝食も、メニューはペースト状の粥であった。こんな食事では食べた気がしない。だいたい、乳幼児か嚥下の不自由な老人が口にする食べものである。習一が食事の不満を看護師に言うと、このメニューは習一の体に適切だと説かれた。何日間も飲食をとらなかった胃に、いきなり固形物を入れると胃がびっくりしてしまうらしい。しばらくは素人がなにを言おうとムダだと習一は察した。
朝食がすんだあと、習一は暇つぶしがてらに病室の外を歩いた。移動の際には点滴を運ばねばならないので、本当はあまり運動に適した状況ではない。その難点を知りつつも、じっとしていられなかった。自分の体力は確実に落ちている。それは昨夜にトイレへ向かったときに痛感した。邪魔な点滴の存在を割り引いても、なかなか思うようにうごきまわれなかったのだ。体重はかるくなったはずなのに足取りが重く、歩行に安定感がない。この貧弱さは通常の生活を送るのにも不便が生じる。また、習一は常日頃から自分の外見が柔弱なのを気にしている。その外見通りに弱々しくなった肉体に嫌悪感をいだき、早くもとの力をつけたいと思った。
習一は手近な目的地の、待合室に行きつく。こういった場所には入院患者とその付き添いや見舞い客が読む用の本がよく用意されている。この病棟にも自由に閲覧してよい本や雑誌があった。習一は本棚から文庫本をひとつ選ぶ。別段その本がおもしろそうだとは思っていない。なにもしないでいると気が滅入るため、暗い思考から意識を逸らせられればなんでもよかった。これは昨夜の反省である。
昨日、習一は日中にぐっすりと寝てしまった。そのせいで消灯の時刻になっても就寝できず、寝つくまでのぼーっとする時間が長引いた。その間、頭の中では不仲な父親とのイヤな思い出がこびりつき、ひどく不快な気分になった。そんな自傷的な思考を脱するには、べつの事柄に集中するしかない。そこで懸命に露木の話を吟味してみたり、習一の入院のいきさつを話した看護師は自身の搬送に立ち会った者じゃないのではと振り返ったりした。こういった脳内にある情報の整理は、まことに暇つぶしの方法がないときの最終手段だ。外部からの情報をインプットするほうが気楽である。現在の習一は不良といえど、もとは勤勉な学生であったために、活字には一切抵抗がなかった。
習一は病室へもどり、寝台に横たわる。今朝がたの看護師の話では今日の午前中、習一の担当医が習一の病室をうかがうと言われた。これはすっぽかせない用事である。習一は読書をして待機することにした。
医者が病室へくるまえに、患者の健康状態を測る看護師がきた。昨日も習一の体温などを測った女性だ。この女性は電子カルテを見ながら習一に入院の経緯を話した人でもある。習一は計測結果が出るまでの待ち時間を利用し、
「アンタはオレを救急車に乗せた看護師じゃないよな?」
とたずねた。看護師は習一の見立てをみとめる。そのうえで、救急担当の者に会ってなにがしたいのかと聞き返してきた。習一は先日この看護師からもらった紙をつまむ。
「こいつがどういうやつだったかを知りたい」
これは本心である。みずから連絡をとるつもりはまだないが、どんな特徴のある者かは知っておきたい。その具体的な人物像を看護師らが共有しているとは思えず、直接会った者のみが知っていることだと習一は推測した。
「だったら、今日は休みの若い先生に──」
看護師は非番かつ習一の搬送にたずさわっていない医者に話を通す、と言い出した。その医者は習一の入院後、習一の発見者と話す機会があったそうだ。小山田という人はこの病院に知人が入院しており、面会ついでに若い医者と会ったらしい。ならばその医者からでも仔細が聞けそうかと習一は思い、看護師の提案を飲んだ。
看護師は退室した。ほどなくして荷物を抱えた習一の母がやってくる。荷物の中身は習一の下着の替えと、退院時用の私服と、新品の本である。通信機器と財布はなかった。習一は無一文の状態が心もとないので、母に小銭をせびっておいた。これで電話は使えるし、なにか物の不足があっても売店で買えるという心の余裕が生まれる。本心では「オレから言わなくてもお金くらい持たせないか」と母にツッコミたかったが、母は母なりに習一の監督をしたがった結果だと思い、強くは出れなかった。金があれば息子は母の知らぬ外部との接触ができ、おまけにバスや電車などを活用して遠方まで出かけられる。そういった非行の可能性の芽をつぶすために母がわざと気を利かせずにいる、と習一は感じた。つまるところ、この場に通信機器と財布がないのは習一の普段の行ないのせいである。
母が病室に滞在してしばらくすると、ようやく担当医があらわれた。どっしりとした雰囲気の、頑固そうな中高年だ。もともとの顔つきなのか、不機嫌そうな表情で習一に問診をしてきた。習一は自身の体力が落ちたこと以外はなんら不調がないことを伝える。強面《こわもて》の医者は得心がいかなさそうにうなずき、病室内を見回す。
「ここにいろんな機械があったはずだが、習一くんは見ていないんだな?」
習一はまったく知らない話だ。習一が母の顔を見ると、母はつらそうに頭を縦にふった。どうやら習一には知らされていない医療措置がいろいろほどこされていたらしい。それらが撤去されたのちに習一が目覚めたのだ。
熟年の医者は習一の復帰直前の話をつづけた。医療機器の撤去指示はほかでもない、露木が出したものだという。たまたま担当医がいないタイミングでそんな指示を受け、代理の若い医者が二つ返事でしたがったらしい。
「その警官は、きみがすぐにベッドから下りられる状態にしてほしいと言ってきたんだそうだ。そのあとで患者の意識を回復させると豪語してな。私がいたら『そんなことが警官にできるものか』と追い払っただろうが、まったく、運がいい」
運がいい、とはだれのことを指しているのか明かさぬまま、医者が退室した。
習一はふと点滴の針が刺さる自分の腕を見た。おそらくこの処置は唯一、入院当初から継続している。そのほかの処置は露木がやめさせたという。なんとも無茶な話だ。聞き分けのよい医者がいたおかげでスムーズに事が運んだものの、これはまぐれである。もし担当医が在籍していて、彼が習一に述べたとおりの言動をしたなら、露木の要求は強くつっぱねられていた。そんな面倒事を起こす危険を露木は予想しなかったのだろうか。そもそも、習一が目覚めれば医者たちはおのずと不要になった医療機器を取りはずしただろう。露木が差し出がましい指示をする必要性はどこにもなかった。
(なんのために……順序をひっくり返したんだ?)
暫定的な答えが思いつかないうちに、病室の戸を叩く音が聞こえた。習一はいよいよ露木の呼び寄せた教師がきたのかと神経を張りつめる。
入室してきた者は普通の私服を着ている。医療従事者ではなさそうな恰好だ。だがその頭髪は黒。珍奇な銀髪だという教師ではない。見たところ露木とちかしい年ごろの青年である。人当たりがよさそうな雰囲気も露木と似ている。ただ露木とちがうのは、すこし照れくさそうに習一とその母に挨拶をしてきたところだ。あまり挙動が堂々としていない、どこか頼りなさげな人だ。母が「まあ先生」と慣れた調子で声をかけたので、習一はこの男性が私服姿の医者なのだとわかった。
朝食がすんだあと、習一は暇つぶしがてらに病室の外を歩いた。移動の際には点滴を運ばねばならないので、本当はあまり運動に適した状況ではない。その難点を知りつつも、じっとしていられなかった。自分の体力は確実に落ちている。それは昨夜にトイレへ向かったときに痛感した。邪魔な点滴の存在を割り引いても、なかなか思うようにうごきまわれなかったのだ。体重はかるくなったはずなのに足取りが重く、歩行に安定感がない。この貧弱さは通常の生活を送るのにも不便が生じる。また、習一は常日頃から自分の外見が柔弱なのを気にしている。その外見通りに弱々しくなった肉体に嫌悪感をいだき、早くもとの力をつけたいと思った。
習一は手近な目的地の、待合室に行きつく。こういった場所には入院患者とその付き添いや見舞い客が読む用の本がよく用意されている。この病棟にも自由に閲覧してよい本や雑誌があった。習一は本棚から文庫本をひとつ選ぶ。別段その本がおもしろそうだとは思っていない。なにもしないでいると気が滅入るため、暗い思考から意識を逸らせられればなんでもよかった。これは昨夜の反省である。
昨日、習一は日中にぐっすりと寝てしまった。そのせいで消灯の時刻になっても就寝できず、寝つくまでのぼーっとする時間が長引いた。その間、頭の中では不仲な父親とのイヤな思い出がこびりつき、ひどく不快な気分になった。そんな自傷的な思考を脱するには、べつの事柄に集中するしかない。そこで懸命に露木の話を吟味してみたり、習一の入院のいきさつを話した看護師は自身の搬送に立ち会った者じゃないのではと振り返ったりした。こういった脳内にある情報の整理は、まことに暇つぶしの方法がないときの最終手段だ。外部からの情報をインプットするほうが気楽である。現在の習一は不良といえど、もとは勤勉な学生であったために、活字には一切抵抗がなかった。
習一は病室へもどり、寝台に横たわる。今朝がたの看護師の話では今日の午前中、習一の担当医が習一の病室をうかがうと言われた。これはすっぽかせない用事である。習一は読書をして待機することにした。
医者が病室へくるまえに、患者の健康状態を測る看護師がきた。昨日も習一の体温などを測った女性だ。この女性は電子カルテを見ながら習一に入院の経緯を話した人でもある。習一は計測結果が出るまでの待ち時間を利用し、
「アンタはオレを救急車に乗せた看護師じゃないよな?」
とたずねた。看護師は習一の見立てをみとめる。そのうえで、救急担当の者に会ってなにがしたいのかと聞き返してきた。習一は先日この看護師からもらった紙をつまむ。
「こいつがどういうやつだったかを知りたい」
これは本心である。みずから連絡をとるつもりはまだないが、どんな特徴のある者かは知っておきたい。その具体的な人物像を看護師らが共有しているとは思えず、直接会った者のみが知っていることだと習一は推測した。
「だったら、今日は休みの若い先生に──」
看護師は非番かつ習一の搬送にたずさわっていない医者に話を通す、と言い出した。その医者は習一の入院後、習一の発見者と話す機会があったそうだ。小山田という人はこの病院に知人が入院しており、面会ついでに若い医者と会ったらしい。ならばその医者からでも仔細が聞けそうかと習一は思い、看護師の提案を飲んだ。
看護師は退室した。ほどなくして荷物を抱えた習一の母がやってくる。荷物の中身は習一の下着の替えと、退院時用の私服と、新品の本である。通信機器と財布はなかった。習一は無一文の状態が心もとないので、母に小銭をせびっておいた。これで電話は使えるし、なにか物の不足があっても売店で買えるという心の余裕が生まれる。本心では「オレから言わなくてもお金くらい持たせないか」と母にツッコミたかったが、母は母なりに習一の監督をしたがった結果だと思い、強くは出れなかった。金があれば息子は母の知らぬ外部との接触ができ、おまけにバスや電車などを活用して遠方まで出かけられる。そういった非行の可能性の芽をつぶすために母がわざと気を利かせずにいる、と習一は感じた。つまるところ、この場に通信機器と財布がないのは習一の普段の行ないのせいである。
母が病室に滞在してしばらくすると、ようやく担当医があらわれた。どっしりとした雰囲気の、頑固そうな中高年だ。もともとの顔つきなのか、不機嫌そうな表情で習一に問診をしてきた。習一は自身の体力が落ちたこと以外はなんら不調がないことを伝える。強面《こわもて》の医者は得心がいかなさそうにうなずき、病室内を見回す。
「ここにいろんな機械があったはずだが、習一くんは見ていないんだな?」
習一はまったく知らない話だ。習一が母の顔を見ると、母はつらそうに頭を縦にふった。どうやら習一には知らされていない医療措置がいろいろほどこされていたらしい。それらが撤去されたのちに習一が目覚めたのだ。
熟年の医者は習一の復帰直前の話をつづけた。医療機器の撤去指示はほかでもない、露木が出したものだという。たまたま担当医がいないタイミングでそんな指示を受け、代理の若い医者が二つ返事でしたがったらしい。
「その警官は、きみがすぐにベッドから下りられる状態にしてほしいと言ってきたんだそうだ。そのあとで患者の意識を回復させると豪語してな。私がいたら『そんなことが警官にできるものか』と追い払っただろうが、まったく、運がいい」
運がいい、とはだれのことを指しているのか明かさぬまま、医者が退室した。
習一はふと点滴の針が刺さる自分の腕を見た。おそらくこの処置は唯一、入院当初から継続している。そのほかの処置は露木がやめさせたという。なんとも無茶な話だ。聞き分けのよい医者がいたおかげでスムーズに事が運んだものの、これはまぐれである。もし担当医が在籍していて、彼が習一に述べたとおりの言動をしたなら、露木の要求は強くつっぱねられていた。そんな面倒事を起こす危険を露木は予想しなかったのだろうか。そもそも、習一が目覚めれば医者たちはおのずと不要になった医療機器を取りはずしただろう。露木が差し出がましい指示をする必要性はどこにもなかった。
(なんのために……順序をひっくり返したんだ?)
暫定的な答えが思いつかないうちに、病室の戸を叩く音が聞こえた。習一はいよいよ露木の呼び寄せた教師がきたのかと神経を張りつめる。
入室してきた者は普通の私服を着ている。医療従事者ではなさそうな恰好だ。だがその頭髪は黒。珍奇な銀髪だという教師ではない。見たところ露木とちかしい年ごろの青年である。人当たりがよさそうな雰囲気も露木と似ている。ただ露木とちがうのは、すこし照れくさそうに習一とその母に挨拶をしてきたところだ。あまり挙動が堂々としていない、どこか頼りなさげな人だ。母が「まあ先生」と慣れた調子で声をかけたので、習一はこの男性が私服姿の医者なのだとわかった。
タグ:習一
2020年02月12日
習一篇−1章5
習一が予期せぬ男性が入室してきた。母の態度をかんがみるに、この頼りなさげな男性は母と病院で何度か顔を会わせている医者のようだ。母には持病がなく、個人的に通院する動機がないため、おそらく両者が知り合ったのは習一の入院以後。そこから習一は、この私服の男性が習一の担当医と同じ専門分野の医者だと推定した。さらにいえば、露木に対応した若い医者とはこの人かもしれない。
若い医者がこの場にあらわれた自己説明によると、彼は今日、仕事が休みの日だという。だが必要な記録の記入漏れがあったので病院へきたのだそうだ。その作業をおえて帰ろうとしたものの、看護師からの要請を受けて、習一と話をしにきた。つまり彼が、習一とは顔見知りだという謎の人物を知っているということだ。
習一は母がいては医者との会話がしづらいと思った。習一が興味本位で小山田という人を知っておこうとするのを、母は息子がまたよからぬくわだてを立てていると邪推するかもしれない。その認識のずれを正すのはめんどうである。
習一は母に帰宅をうながした。しかし母は息子をたずねてくる教師が気になると言って、帰りたがらない。習一の本音ではその教師との対談こそ母には離席してほしい状況だ。習一の今後の行動に、母が口を出す事態はこのましくない。習一はなおのこと母の帰宅を強制しようとした。
習一が強硬な姿勢をとろうと身構えたとき、私服の医者が母に早めの昼食をとるようすすめてくる。午後も滞在するつもりならいまのうちに食事をとったほうがいい、食事中は自分が息子さんと一緒にいるから、などと言いくるめて、母を退室させてくれた。
(オレに気を遣った?)
頼りなさげ、という第一印象は撤回したほうがいいか、と習一は考え直した。
医者は母が使っていた椅子に座った。習一と顔を合わせる様子には、入室時の照れや恥じらいは感じられない。もし彼が人見知りならば、はじめて話をする習一に対してまごつきそうなのだが。
習一は医者の変化が気になり、
「うちの母親は苦手か?」
と質問した。すると医者は母がいたときの何倍も恥ずかしがる。
「苦手、じゃなくて……その……」
医者は習一の推量を否定したが、すぐに、
「いや、苦手ということにしといてください」
と変に落ち着いた調子で肯定した。習一は母のどこがどう苦手なのか追究してみようかと思った。しかしとある可能性に気づき、不問にする。というのは、習一の母は中年ながらも美人である。女慣れしていない男性がうわつく程度には容貌を保っていた。母の顔立ちは息子にも受け継がれているのだが、医者は同性相手だとなんとも思わないらしい。それが当然な反応ではある。
習一は主たる目的を果たすまえに、露木の無茶な段取りについて医者側の見解をもとめた。医者は母に対する照れとは別種のはにかみを見せる。
「あなたのためを思ってしたことですよ、きっと」
「どういうことだ?」
「僕からはくわしいことを言えません。あの警察官さんの心意気をムダにしそうですから」
「寝てる間にやられていたことを、オレは知らないほうがいいってことか?」
「そうです。とくにまだ若い人は……」
年齢によって感じ方がちがってくること。習一は目の前にいる男性も若者であるのを考慮し、彼のさらなる見解をたずねる。
「もしアンタがオレと同じ治療を受けたら、どう感じる?」
「うーん、患者さんにやるのは仕事だからなんとも思わないけど、自分がやられるのは……極力避けたいですね」
医者もその身に受ければ恥じる治療行為を、昏睡中の習一は施されていた。となると、意識のもどらないうちに取りはらうのは適切な配慮だと思える。
習一は自分がどんな恥を感じる処置を受けたのかを想像しそうになったが、医者がとっとと本題に入ったために思考が中断された。
一か月前、倒れていた習一を発見した者は複数いた。ひとりは通行人の中年男性で、最初に習一を見つけた人である。この男性が最寄りの住宅をたずね、救急車の要請と習一の保護をたのんだ。男性はその後にいったんどこかへ行き、もどってきたときにひとりの女子を連れていた。この女子が小山田という、習一が看護師から教えてもらった連絡先の人物である。
この女子は普段から町中で制服姿の習一を見かけていた。習一が髪を派手な金色に染めている影響で女子は習一のことが記憶にのこり、それで習一が雒英《らくえい》高校の者だとわかった。二人がきちんと話をしたことはなく、彼女は習一の姓名を知る機会がなかったのだという。
習一は自身の染髪が話題にのぼったので、伸びた毛をつかんで観察してみた。病院で目覚めて以来気にかけていなかったが、髪が脱色してある。おまけに鏡なしでもしっかり目視できる長さだ。これは去年の自分ではありえなかった髪型だと、話の主題とは関係のないところで気づきを得た。
習一が興味を自分の髪に向ける中、医者は女子の特徴について話した。長い黒髪をポニーテールにまとめた高校生で、つり目がちだという。そう聞かされても習一はピンとこなかった。なにせ、そういった特徴をもつ者など大勢いる。きっと出会っていても目につく個性がなく、記憶にとどまらなかったのだろうと習一は思った。
「この説明で、だれだかわかる?」
医者は聞いてきた。習一は首を横にふる。小山田の姿がまだわからない習一のためを思って医者は「あんまり背は高くなくて……」と補足しはじめたが、習一は「もう充分」と断る。
「どうせ会えばそいつから話しかけてくる。オレに連絡先を教えていいと思うぐらいなんだから」
おおまかな人物像は把握できた。これでその女子が習一に接触してきた際におどろかずにすむ。習一の目標は達成したので、医者への聞きこみをやめようと思ったものの、ふとした興味が湧く。
「そいつは入院中の知り合いと会うために病院へきてる、と聞いたんだが」
「ああ、彼女のご近所の人が入院しているので、その見舞いに」
「どれくらいの頻度で見舞いにきてる?」
もし病院に頻繁にあらわれるのなら院内で出会える。習一はその予測のもと医者に質問をしたが、医者は首をかしげる。
「さあ、わかりません。僕の友人が入院してるときはちょくちょくきてたみたいだけど──」
「小山田はアンタの友だちとも知り合いなのか」
「院内でたまたま出会って、仲良くなったらしいです」
「ずいぶんと社交性があるやつなんだな」
「人懐っこいんでしょうね。もしかしたらあなたとも、いい友だちになれるかもしれない」
無謀なことを言う、と習一は思った。普段から他人に避けられる自分と仲良くなろうとする女子がいるものかと、内心で医者の考えを否定した。
習一がだまっていると、台車がうごく音が廊下で鳴った。その物音には重量感がある。これは数十人分の食事を一度に運ぶ配膳台の音だ。医者は「ご飯か」とつぶやくや、廊下を出て、一人分の食事を持ってきた。例によって粥食である。だがオレンジ色や緑色などの細切れなおかずもついている。副菜がやっと用意されたのだ。
「これを食えれば点滴が取れるか?」
習一は点滴針の刺さる腕を上げる。粥だけでは足りない栄養素を点滴で補っていたのだから、副菜が摂取できるようになれば点滴は不要、と考えた。
「これのせいでうごくのがめんどくさいんだ」
医者は「様子見させてください」と言う。習一の治療に対する決定権のある医師はべつにおり、そちらのほうが立場は上なようなので、習一はこの不明瞭な返事を受け入れた。
習一がベッドテーブルにのせた昼食を食べはじめてまもなく、母が病室へやってくる。非番の医者は母に不器用な別れのあいさつをして、帰っていった。
若い医者がこの場にあらわれた自己説明によると、彼は今日、仕事が休みの日だという。だが必要な記録の記入漏れがあったので病院へきたのだそうだ。その作業をおえて帰ろうとしたものの、看護師からの要請を受けて、習一と話をしにきた。つまり彼が、習一とは顔見知りだという謎の人物を知っているということだ。
習一は母がいては医者との会話がしづらいと思った。習一が興味本位で小山田という人を知っておこうとするのを、母は息子がまたよからぬくわだてを立てていると邪推するかもしれない。その認識のずれを正すのはめんどうである。
習一は母に帰宅をうながした。しかし母は息子をたずねてくる教師が気になると言って、帰りたがらない。習一の本音ではその教師との対談こそ母には離席してほしい状況だ。習一の今後の行動に、母が口を出す事態はこのましくない。習一はなおのこと母の帰宅を強制しようとした。
習一が強硬な姿勢をとろうと身構えたとき、私服の医者が母に早めの昼食をとるようすすめてくる。午後も滞在するつもりならいまのうちに食事をとったほうがいい、食事中は自分が息子さんと一緒にいるから、などと言いくるめて、母を退室させてくれた。
(オレに気を遣った?)
頼りなさげ、という第一印象は撤回したほうがいいか、と習一は考え直した。
医者は母が使っていた椅子に座った。習一と顔を合わせる様子には、入室時の照れや恥じらいは感じられない。もし彼が人見知りならば、はじめて話をする習一に対してまごつきそうなのだが。
習一は医者の変化が気になり、
「うちの母親は苦手か?」
と質問した。すると医者は母がいたときの何倍も恥ずかしがる。
「苦手、じゃなくて……その……」
医者は習一の推量を否定したが、すぐに、
「いや、苦手ということにしといてください」
と変に落ち着いた調子で肯定した。習一は母のどこがどう苦手なのか追究してみようかと思った。しかしとある可能性に気づき、不問にする。というのは、習一の母は中年ながらも美人である。女慣れしていない男性がうわつく程度には容貌を保っていた。母の顔立ちは息子にも受け継がれているのだが、医者は同性相手だとなんとも思わないらしい。それが当然な反応ではある。
習一は主たる目的を果たすまえに、露木の無茶な段取りについて医者側の見解をもとめた。医者は母に対する照れとは別種のはにかみを見せる。
「あなたのためを思ってしたことですよ、きっと」
「どういうことだ?」
「僕からはくわしいことを言えません。あの警察官さんの心意気をムダにしそうですから」
「寝てる間にやられていたことを、オレは知らないほうがいいってことか?」
「そうです。とくにまだ若い人は……」
年齢によって感じ方がちがってくること。習一は目の前にいる男性も若者であるのを考慮し、彼のさらなる見解をたずねる。
「もしアンタがオレと同じ治療を受けたら、どう感じる?」
「うーん、患者さんにやるのは仕事だからなんとも思わないけど、自分がやられるのは……極力避けたいですね」
医者もその身に受ければ恥じる治療行為を、昏睡中の習一は施されていた。となると、意識のもどらないうちに取りはらうのは適切な配慮だと思える。
習一は自分がどんな恥を感じる処置を受けたのかを想像しそうになったが、医者がとっとと本題に入ったために思考が中断された。
一か月前、倒れていた習一を発見した者は複数いた。ひとりは通行人の中年男性で、最初に習一を見つけた人である。この男性が最寄りの住宅をたずね、救急車の要請と習一の保護をたのんだ。男性はその後にいったんどこかへ行き、もどってきたときにひとりの女子を連れていた。この女子が小山田という、習一が看護師から教えてもらった連絡先の人物である。
この女子は普段から町中で制服姿の習一を見かけていた。習一が髪を派手な金色に染めている影響で女子は習一のことが記憶にのこり、それで習一が雒英《らくえい》高校の者だとわかった。二人がきちんと話をしたことはなく、彼女は習一の姓名を知る機会がなかったのだという。
習一は自身の染髪が話題にのぼったので、伸びた毛をつかんで観察してみた。病院で目覚めて以来気にかけていなかったが、髪が脱色してある。おまけに鏡なしでもしっかり目視できる長さだ。これは去年の自分ではありえなかった髪型だと、話の主題とは関係のないところで気づきを得た。
習一が興味を自分の髪に向ける中、医者は女子の特徴について話した。長い黒髪をポニーテールにまとめた高校生で、つり目がちだという。そう聞かされても習一はピンとこなかった。なにせ、そういった特徴をもつ者など大勢いる。きっと出会っていても目につく個性がなく、記憶にとどまらなかったのだろうと習一は思った。
「この説明で、だれだかわかる?」
医者は聞いてきた。習一は首を横にふる。小山田の姿がまだわからない習一のためを思って医者は「あんまり背は高くなくて……」と補足しはじめたが、習一は「もう充分」と断る。
「どうせ会えばそいつから話しかけてくる。オレに連絡先を教えていいと思うぐらいなんだから」
おおまかな人物像は把握できた。これでその女子が習一に接触してきた際におどろかずにすむ。習一の目標は達成したので、医者への聞きこみをやめようと思ったものの、ふとした興味が湧く。
「そいつは入院中の知り合いと会うために病院へきてる、と聞いたんだが」
「ああ、彼女のご近所の人が入院しているので、その見舞いに」
「どれくらいの頻度で見舞いにきてる?」
もし病院に頻繁にあらわれるのなら院内で出会える。習一はその予測のもと医者に質問をしたが、医者は首をかしげる。
「さあ、わかりません。僕の友人が入院してるときはちょくちょくきてたみたいだけど──」
「小山田はアンタの友だちとも知り合いなのか」
「院内でたまたま出会って、仲良くなったらしいです」
「ずいぶんと社交性があるやつなんだな」
「人懐っこいんでしょうね。もしかしたらあなたとも、いい友だちになれるかもしれない」
無謀なことを言う、と習一は思った。普段から他人に避けられる自分と仲良くなろうとする女子がいるものかと、内心で医者の考えを否定した。
習一がだまっていると、台車がうごく音が廊下で鳴った。その物音には重量感がある。これは数十人分の食事を一度に運ぶ配膳台の音だ。医者は「ご飯か」とつぶやくや、廊下を出て、一人分の食事を持ってきた。例によって粥食である。だがオレンジ色や緑色などの細切れなおかずもついている。副菜がやっと用意されたのだ。
「これを食えれば点滴が取れるか?」
習一は点滴針の刺さる腕を上げる。粥だけでは足りない栄養素を点滴で補っていたのだから、副菜が摂取できるようになれば点滴は不要、と考えた。
「これのせいでうごくのがめんどくさいんだ」
医者は「様子見させてください」と言う。習一の治療に対する決定権のある医師はべつにおり、そちらのほうが立場は上なようなので、習一はこの不明瞭な返事を受け入れた。
習一がベッドテーブルにのせた昼食を食べはじめてまもなく、母が病室へやってくる。非番の医者は母に不器用な別れのあいさつをして、帰っていった。
タグ:習一
2020年02月17日
習一篇−1章6
私服の医者が去ったあとの室内に、軸の太いペンが一本落ちていた。習一と母の私物ではない。落とし主は状況的に、若い医者の可能性が高い。習一は医者が忘れものを取りにくる未来を見越して、一時的にペンを病室に保管しておくことにした。だがあの医者は今日、休みであったのにもかかわらず職場へやってきたのを考えてみると、たかだかペンひとつのためにもどってくる可能性は低いようにも習一は思った。
(どうせまた出勤してくるだろ)
今日中に落とし主が現れなくとも、ものの数日のうちに会う機会がある。習一はそう楽観視し、食材の原型のない病院食を食べた。
習一が昼食をおえると、母が食器を下げた。もどってきた母は自身の手提げ鞄から刺繍道具を出す。これは病室に居座る姿勢である。さきほど母はどこかで昼食をとっていたことをふまえ、いまは帰宅をうながせるタイミングではないと習一は思い、母の好きにさせた。どのみち母には家事がある。干した洗濯物の整理や夕飯の用意などを考えれば、病院にいられるのはあと二、三時間くらいだ。不調和な言い合いをするよりは順当に時間をつぶすのが楽である。そう考えた習一は院内にあった本を読みすすめた。
習一が文庫本を開いたとき、母が習一のほうを見た。きっと母の用意した本がいつ読まれるのかと心配になっているのだ。習一は母が購入した本を袋から出しておらず、本のタイトルさえ知らない。この態度はなにも母への嫌がらせというわけではなかった。興味が湧かないのである。母のセンスでは空虚な売れ筋の本を選ぶだろうと予想できており、そういった有名無実なものは習一の好みではない。もし読むとしたら、この環境でしか手に取らない病院所蔵の書籍をあらかた読み終えてからにしようと思った。
母子が個々の世界に没頭し、一時間ほどが経つ。習一にだんだんと眠気がせまってきた。座位で読書していた習一は仰向けにねそべる。その態勢で読書を続けるか、かるく寝てしまうか。この時間帯での昼寝はまだ夜の就寝に影響はすくないはず、などとぼんやり考えたころ、ノックが鳴る。だれがきたのやら、と習一は出入り口に興味を示した。
「失礼します」
低い声が聞こえた。男らしい声色であり、ペンをうっかりわすれた医者では到底出せない声質だ。
(やっときたか?)
習一は警官の使いがきたと思い、すぐに上体を起こしにかかる。すぐに、といっても一か月間も運動していなかった体だ。思いとは裏腹にのろのろとした動作だった。どうにか座位になり、引き戸に注目する。そのときすでに男性は入室していて、戸を几帳面に閉めていた。
習一は入室者のうしろ姿を念入りに観察する。それは露木が事前に言っていた特徴と照合するためである。
男性は一八〇センチを越えた長身。頭髪は光沢のある灰色の短髪で、上半身には黒灰色のシャツを着ている。ひじから下は肌が露出し、その色は健康的な褐色だ。この男の着るシャツは袖がひじにかかる程度の長さで、袖口に厚みがある。どうやら長袖を腕まくりしているらしい。その片手には黒いビジネスバッグを提げている。
(この男が……警官の言ってた教師か)
入室者は事前情報の特徴とほとんど合致した。あとは彼が着用するというサングラスをおがめれば確定する──のだが、現時点でも充分に個性的な風貌の持ち主ではある。おもに頭髪が、一般的に見かける色とは異なった。
珍奇ないでたちの男が振りかえる。彼の目元は黄色のレンズで覆われていた。外見年齢は三十歳すぎ。見る人によっては青年と呼べる年ごろかもしれないが、この教師にはその呼称が似合わない落ちつきがあった。
男性はまず習一の母に一礼する。母もつられて頭を下げた。
「先日、ツユキという警官がこちらへうかがったと思いますが」
教師が穏やかな顔つきで、母に事情を話しだした。この男性は風貌が異質であっても、言動はいたって普通である。その態度にごまされた母は奇異な訪問者に怖気づくことなく、うんうんと話を合わせた。母が無警戒な一方で、習一は警戒体勢をとる。
(こいつとやり合えば、負けるな)
教師と争うつもりは習一にない。だが拳で悪友をしたがえた経験のせいか、戦えそうな人を見るとその力量を気にするようになった。教師は一見するとただ背が高いだけの体つきに思えたのだが、よく観察するとアスリートの風格がある。シャツに沿う胸筋の張りと露出する腕の筋肉が、一流スポーツ選手のそれと似ているのだ。この教師は普通の教職員には不必要な鍛錬をかさねているらしい。ただ、教職員であっても職務上、鍛錬する正当性をもつ人はいる。
(体育教師か?)
この教師がどの教科を指導していようと習一には関係ない。なんの益もない予想を立てながら、習一は大人二人の会話を傍観した。
(どうせまた出勤してくるだろ)
今日中に落とし主が現れなくとも、ものの数日のうちに会う機会がある。習一はそう楽観視し、食材の原型のない病院食を食べた。
習一が昼食をおえると、母が食器を下げた。もどってきた母は自身の手提げ鞄から刺繍道具を出す。これは病室に居座る姿勢である。さきほど母はどこかで昼食をとっていたことをふまえ、いまは帰宅をうながせるタイミングではないと習一は思い、母の好きにさせた。どのみち母には家事がある。干した洗濯物の整理や夕飯の用意などを考えれば、病院にいられるのはあと二、三時間くらいだ。不調和な言い合いをするよりは順当に時間をつぶすのが楽である。そう考えた習一は院内にあった本を読みすすめた。
習一が文庫本を開いたとき、母が習一のほうを見た。きっと母の用意した本がいつ読まれるのかと心配になっているのだ。習一は母が購入した本を袋から出しておらず、本のタイトルさえ知らない。この態度はなにも母への嫌がらせというわけではなかった。興味が湧かないのである。母のセンスでは空虚な売れ筋の本を選ぶだろうと予想できており、そういった有名無実なものは習一の好みではない。もし読むとしたら、この環境でしか手に取らない病院所蔵の書籍をあらかた読み終えてからにしようと思った。
母子が個々の世界に没頭し、一時間ほどが経つ。習一にだんだんと眠気がせまってきた。座位で読書していた習一は仰向けにねそべる。その態勢で読書を続けるか、かるく寝てしまうか。この時間帯での昼寝はまだ夜の就寝に影響はすくないはず、などとぼんやり考えたころ、ノックが鳴る。だれがきたのやら、と習一は出入り口に興味を示した。
「失礼します」
低い声が聞こえた。男らしい声色であり、ペンをうっかりわすれた医者では到底出せない声質だ。
(やっときたか?)
習一は警官の使いがきたと思い、すぐに上体を起こしにかかる。すぐに、といっても一か月間も運動していなかった体だ。思いとは裏腹にのろのろとした動作だった。どうにか座位になり、引き戸に注目する。そのときすでに男性は入室していて、戸を几帳面に閉めていた。
習一は入室者のうしろ姿を念入りに観察する。それは露木が事前に言っていた特徴と照合するためである。
男性は一八〇センチを越えた長身。頭髪は光沢のある灰色の短髪で、上半身には黒灰色のシャツを着ている。ひじから下は肌が露出し、その色は健康的な褐色だ。この男の着るシャツは袖がひじにかかる程度の長さで、袖口に厚みがある。どうやら長袖を腕まくりしているらしい。その片手には黒いビジネスバッグを提げている。
(この男が……警官の言ってた教師か)
入室者は事前情報の特徴とほとんど合致した。あとは彼が着用するというサングラスをおがめれば確定する──のだが、現時点でも充分に個性的な風貌の持ち主ではある。おもに頭髪が、一般的に見かける色とは異なった。
珍奇ないでたちの男が振りかえる。彼の目元は黄色のレンズで覆われていた。外見年齢は三十歳すぎ。見る人によっては青年と呼べる年ごろかもしれないが、この教師にはその呼称が似合わない落ちつきがあった。
男性はまず習一の母に一礼する。母もつられて頭を下げた。
「先日、ツユキという警官がこちらへうかがったと思いますが」
教師が穏やかな顔つきで、母に事情を話しだした。この男性は風貌が異質であっても、言動はいたって普通である。その態度にごまされた母は奇異な訪問者に怖気づくことなく、うんうんと話を合わせた。母が無警戒な一方で、習一は警戒体勢をとる。
(こいつとやり合えば、負けるな)
教師と争うつもりは習一にない。だが拳で悪友をしたがえた経験のせいか、戦えそうな人を見るとその力量を気にするようになった。教師は一見するとただ背が高いだけの体つきに思えたのだが、よく観察するとアスリートの風格がある。シャツに沿う胸筋の張りと露出する腕の筋肉が、一流スポーツ選手のそれと似ているのだ。この教師は普通の教職員には不必要な鍛錬をかさねているらしい。ただ、教職員であっても職務上、鍛錬する正当性をもつ人はいる。
(体育教師か?)
この教師がどの教科を指導していようと習一には関係ない。なんの益もない予想を立てながら、習一は大人二人の会話を傍観した。
タグ:習一
2020年02月22日
習一篇−2章1
銀髪の教師はひととおりの自己紹介を習一の母に行なった。西洋人らしきフルネームと、才穎高校の教職員という身分と、露木という警官と知り合いであることを述べる。名前以外は習一が事前に知りえていた内容である。
(そういや、名前は聞かなかったな)
別段必要ではない情報だ。習一は彼と親睦を深める意思はない。このへだたりをたもつには相手の名前を呼んではいけないと考えている。ただあの警官は一般的に最優先で伝える事柄を言っていなかったと、いまさらながらに気づいた。
紹介がおわった直後、色黒な教師は自身の黄色のサングラスを習一に向ける。
「私はツユキさんから貴方と今後の話をするよう指示されました。ですが貴方のお母さんにも話してほしいとは依頼されていません」
母に席をはずしてもらうか否か、その判断を教師はあおいでくる。
「私は親御さんがいらっしゃってもかまわないのですが……貴方の意思を尊重します」
教師は習一の決定を優先するという意思表示をした。この発言のおかげで、母が異論をとなえる隙が減る。教師が遠回しに母に釘を差した影響か、母はすこし居心地がわるそうな表情になった。
習一は最初から母に同席させるつもりがない。なので「アンタと二人で話がしたい」と言い張った。教師は「わかりました」と答えると、母の顔を見て、
「ではお母さん、この部屋から離れてもらえますか」
と丁重に退室をもとめた。母はちいさくうなずき、手ぶらで出ていこうとする。母が外出時に持ちあるく鞄は室内に置いていくようだ。つまり子が教師との対談をおえたあとでふたたび病室にくるつもりである。あるいは退室したと見せかけて、立ち聞きをする魂胆かもしれない。
習一は母の行動を見逃さず、「家に帰れ」と要求する。
「今日はもうこなくていい」
教師も母に「そのようにお願いできますか」と習一に加勢した。母は教師にも帰宅をうながされたために、自身の鞄をもって廊下へ出ていった。
習一は母がまことに病室のまえから立ち去ったのかが気になり、出入り口の戸に注目する。引き戸越しに、廊下から聞こえる物音に集中した。すると教師が引き戸を開け、左右を確認する。
「親御さんはちゃんとお帰りになるようですよ」
教師がそう言った直後、開いた戸の奥から足音が聞こえた。その音は遠ざかっていく。きっと母がまだいたのだ。それを教師はやさしい言葉遣いで圧力をかけ、母に帰宅を強制したらしい。その対応は意図したものかそうでないのかを習一は確認しにかかる。
「うちの母親を帰らせてくれたのか」
教師に言動の意図を質問した。長身の教師は引き戸を閉めたのち、「いえ」と否定する。
「親御さんは買い出しのメモを見ているようでした。私が顔を出さなくとも帰るご意思はあったと思います」
教師は母の行動に疑いをもっていない。つまり母への言葉かけには裏の意味がなかったようだ。それでも習一は母への疑心がぬけない。
「メモを見るふりをしながら盗み聞きすることもあるだろ」
「盗み聞き、ですか」
教師はなぜか寝台横の床頭台に注目した。そこには若い医者の遺失物であるペンが置いてある。
「このペン……が気になるか?」
「はい、そういった文具に録音機能をつけたものも出回っていますから」
「録音……」
習一はペンを乱暴につかむ。分解できる部品は分解し、中に機械が入っているかをたしかめた。ペンは筆記機能を果たす部品のみで構成されており、習一は安堵する。
「なんだ、普通のペンか」
習一は無害だとわかったペンの復元をはじめる。そのそばで教師は「それはどなたのものです?」と話をつづけた。
「この病院の医者だろうが……今日はもう家に帰っちまったはずだ」
「どういったいきさつで、ここにお医者さんの私物があるのですか?」
「アンタがくるまえにオレと話してたんだ。そんときにわすれていきやがった」
習一はペンをもとの形にもどした。よく考えてみればあの医者が習一の身辺に興味をもつとは思えず、妙な仕掛けを残していくわけがないと納得する。
「ただのわすれもんに決まってるか……」
「従業員の方に、持ち主へ返してもらうようにたのんでおきましょうか?」
教師が手のひらを上に向け、習一に差し出した。習一は言われるがまま教師にペンを預けようかとした。だが彼の手を見ると、途端に反抗したくなる。理由はよくわからない。なんとなく、彼にしたがいたくないという気持ちが強まったのだ。こういう反骨心は不良少年たる習一にとって、なんらめずらしくないものだ。ただその反抗の裏側に、底の知れない恐怖の存在も感じた。
「……やめとく」
「なぜです?」
「なんていう名前の医者だか知らないし、もしほかのやつに渡して、ペンがだれのもんだかわかんなくなっちまったらまずいだろ」
「では貴方が直接返す、ということでよろしいですね」
「ああ、そうする」
習一はそれらしい理屈をならべて、やりすごした。上半身をかたむけてペンを床頭台へ置き、そこから姿勢をもどす。その間中、どうして自分がこの男におそれをいだくのかを考えてみた。その結果、長身の男がずっとそばで立っているせいだという仮説に落ち着く。
「いいかげんに座れよ。そこに椅子あるだろ」
習一が粗暴に着席をすすめたところ、教師は「お言葉に甘えます」とまるで厚意に感謝するような返事をした。
訪問者は備えつけの椅子に静かに座る。黒い鞄を膝のうえにのせ、そこから板状のなにかを取り出す。
「先に渡しておきましょう」
教師はB5サイズほどのタブレット端末を見せる。手帳のようなカバーをつけてあり、大切にされているものらしかった。
「これは貴方に貸します。電子書籍やオフラインで遊べるゲームのデータが入っていますから、退屈しのぎになるかと」
「いいのか?」
「はい。貴方がいらなくなったときに返してください」
教師は端末をベッドテーブルに置いた。習一にはねがってもない物品の支給である。これで消灯時間になって寝つけなくても時間をつぶせる。病院でめざめた初日に、不仲な父の幻影に悩まされた習一にとって、多大な安心感を与えてくれる製品だ。しかし決して安物ではない機器を不良少年に貸与するとは不用心である。
「パクられるとは思わないのか?」
「あまりに返却がおそいときは私が催促します」
教師の目つきが若干きつくなる。
「あげるわけではないので、破損させた場合もそれなりの覚悟をしてくださいね」
脅しめいた忠告をしつつ、端末の充電器も寝台上のテーブルにのせた。習一は教師の前腕の鍛えぶりを見て、この端末は丁寧にあつかったほうがよさそうだと気圧された。
(そういや、名前は聞かなかったな)
別段必要ではない情報だ。習一は彼と親睦を深める意思はない。このへだたりをたもつには相手の名前を呼んではいけないと考えている。ただあの警官は一般的に最優先で伝える事柄を言っていなかったと、いまさらながらに気づいた。
紹介がおわった直後、色黒な教師は自身の黄色のサングラスを習一に向ける。
「私はツユキさんから貴方と今後の話をするよう指示されました。ですが貴方のお母さんにも話してほしいとは依頼されていません」
母に席をはずしてもらうか否か、その判断を教師はあおいでくる。
「私は親御さんがいらっしゃってもかまわないのですが……貴方の意思を尊重します」
教師は習一の決定を優先するという意思表示をした。この発言のおかげで、母が異論をとなえる隙が減る。教師が遠回しに母に釘を差した影響か、母はすこし居心地がわるそうな表情になった。
習一は最初から母に同席させるつもりがない。なので「アンタと二人で話がしたい」と言い張った。教師は「わかりました」と答えると、母の顔を見て、
「ではお母さん、この部屋から離れてもらえますか」
と丁重に退室をもとめた。母はちいさくうなずき、手ぶらで出ていこうとする。母が外出時に持ちあるく鞄は室内に置いていくようだ。つまり子が教師との対談をおえたあとでふたたび病室にくるつもりである。あるいは退室したと見せかけて、立ち聞きをする魂胆かもしれない。
習一は母の行動を見逃さず、「家に帰れ」と要求する。
「今日はもうこなくていい」
教師も母に「そのようにお願いできますか」と習一に加勢した。母は教師にも帰宅をうながされたために、自身の鞄をもって廊下へ出ていった。
習一は母がまことに病室のまえから立ち去ったのかが気になり、出入り口の戸に注目する。引き戸越しに、廊下から聞こえる物音に集中した。すると教師が引き戸を開け、左右を確認する。
「親御さんはちゃんとお帰りになるようですよ」
教師がそう言った直後、開いた戸の奥から足音が聞こえた。その音は遠ざかっていく。きっと母がまだいたのだ。それを教師はやさしい言葉遣いで圧力をかけ、母に帰宅を強制したらしい。その対応は意図したものかそうでないのかを習一は確認しにかかる。
「うちの母親を帰らせてくれたのか」
教師に言動の意図を質問した。長身の教師は引き戸を閉めたのち、「いえ」と否定する。
「親御さんは買い出しのメモを見ているようでした。私が顔を出さなくとも帰るご意思はあったと思います」
教師は母の行動に疑いをもっていない。つまり母への言葉かけには裏の意味がなかったようだ。それでも習一は母への疑心がぬけない。
「メモを見るふりをしながら盗み聞きすることもあるだろ」
「盗み聞き、ですか」
教師はなぜか寝台横の床頭台に注目した。そこには若い医者の遺失物であるペンが置いてある。
「このペン……が気になるか?」
「はい、そういった文具に録音機能をつけたものも出回っていますから」
「録音……」
習一はペンを乱暴につかむ。分解できる部品は分解し、中に機械が入っているかをたしかめた。ペンは筆記機能を果たす部品のみで構成されており、習一は安堵する。
「なんだ、普通のペンか」
習一は無害だとわかったペンの復元をはじめる。そのそばで教師は「それはどなたのものです?」と話をつづけた。
「この病院の医者だろうが……今日はもう家に帰っちまったはずだ」
「どういったいきさつで、ここにお医者さんの私物があるのですか?」
「アンタがくるまえにオレと話してたんだ。そんときにわすれていきやがった」
習一はペンをもとの形にもどした。よく考えてみればあの医者が習一の身辺に興味をもつとは思えず、妙な仕掛けを残していくわけがないと納得する。
「ただのわすれもんに決まってるか……」
「従業員の方に、持ち主へ返してもらうようにたのんでおきましょうか?」
教師が手のひらを上に向け、習一に差し出した。習一は言われるがまま教師にペンを預けようかとした。だが彼の手を見ると、途端に反抗したくなる。理由はよくわからない。なんとなく、彼にしたがいたくないという気持ちが強まったのだ。こういう反骨心は不良少年たる習一にとって、なんらめずらしくないものだ。ただその反抗の裏側に、底の知れない恐怖の存在も感じた。
「……やめとく」
「なぜです?」
「なんていう名前の医者だか知らないし、もしほかのやつに渡して、ペンがだれのもんだかわかんなくなっちまったらまずいだろ」
「では貴方が直接返す、ということでよろしいですね」
「ああ、そうする」
習一はそれらしい理屈をならべて、やりすごした。上半身をかたむけてペンを床頭台へ置き、そこから姿勢をもどす。その間中、どうして自分がこの男におそれをいだくのかを考えてみた。その結果、長身の男がずっとそばで立っているせいだという仮説に落ち着く。
「いいかげんに座れよ。そこに椅子あるだろ」
習一が粗暴に着席をすすめたところ、教師は「お言葉に甘えます」とまるで厚意に感謝するような返事をした。
訪問者は備えつけの椅子に静かに座る。黒い鞄を膝のうえにのせ、そこから板状のなにかを取り出す。
「先に渡しておきましょう」
教師はB5サイズほどのタブレット端末を見せる。手帳のようなカバーをつけてあり、大切にされているものらしかった。
「これは貴方に貸します。電子書籍やオフラインで遊べるゲームのデータが入っていますから、退屈しのぎになるかと」
「いいのか?」
「はい。貴方がいらなくなったときに返してください」
教師は端末をベッドテーブルに置いた。習一にはねがってもない物品の支給である。これで消灯時間になって寝つけなくても時間をつぶせる。病院でめざめた初日に、不仲な父の幻影に悩まされた習一にとって、多大な安心感を与えてくれる製品だ。しかし決して安物ではない機器を不良少年に貸与するとは不用心である。
「パクられるとは思わないのか?」
「あまりに返却がおそいときは私が催促します」
教師の目つきが若干きつくなる。
「あげるわけではないので、破損させた場合もそれなりの覚悟をしてくださいね」
脅しめいた忠告をしつつ、端末の充電器も寝台上のテーブルにのせた。習一は教師の前腕の鍛えぶりを見て、この端末は丁寧にあつかったほうがよさそうだと気圧された。
タグ:習一
2020年02月29日
習一篇−2章2
習一は教師がもってきた端末をさっそく操作してみようと手をのばした。だが物でいいように操れる男児だと見做されるのが不服だ。教師が去ったあとで操作しようと思い、まずは教師との話をおわらせようと思った。
教師は黄色のサングラスをかけた双眼で、点滴を見上げる。
「まだ点滴が取れないのですね」
習一も自分の腕から管でつながる容器を見る。
「これは栄養剤なんだとよ」
「食事では充分な栄養が摂れませんか」
「そうらしい」
「元気になるのには時間がかかりそうですね」
黒シャツを着た教師は習一の体調を気遣ってきた。習一は趣旨を話さない訪問者にいらだちを感じてくる。
「なあ、世間話はどうでもいいんだよ」
教師は習一の顔を見て「ではすこし確認しますが」と言う。
「私の名前は申し上げましたね」
「ああ、なんか言ってたな」
習一は彼が母親に自己紹介をしたのを見聞きしていたが、真剣には聞いていない。
「アンタの名前がなんだろうとオレは『アンタ』としかよばねえぞ」
「私の名前を呼ばないのは貴方の自由ですが、私の呼び名は知っておいてください。今後のやり取りに支障が出ます」
「オレはアンタと一緒に行動するとは決めてないんだぞ」
習一は意地悪く言い返した。教師が閉口するかと思いきや、彼は顔色を変えずに「そうでしたね」と簡単に折れる。
「ではこたびの面会に関わらない説明は不十分なままにしておきましょう。それが貴方の希望のようですし」
開き直りともとれるセリフであったが、教師の声色に変化はない。嫌味でもなんでもなく、それが心のままに出た言葉らしい。
「貴方が部分的に失くした記憶の復元をするために、私と行動する件の詳細ですが──」
教師がやっと主題に入る。習一は「具体的になにをやる?」と返答の範囲をせばめた。
「私は貴方が期末試験を受けていないことが気がかりでして、その補填となる追試か補習を受けてもらいたいと思います」
習一は困惑した。この男は習一の学校の教師ではない。その提案内容は本来、習一の担任がうながすことだ。よその教師がよその生徒の学校生活を案じるべき道理はない。
「貴方は不可抗力で試験を受けられなかった生徒です。きっと雒英《らくえい》の先生方の温情に期待できます」
「待ってくれ、アンタはオレの復学を手伝いにきたんじゃないだろ?」
「ええ、主たる目的ではありません。私たちが一緒にいれば貴方の記憶がもどるそうですから、そのついでです」
「だからって、なんでそんなめんどくせーことを……」
「それとも、こんな気心の知れない男と二人きりで夏のバカンスを楽しみたいですか?」
夏のバカンスを楽しむ──習一はこの教師が水着を着て、浜辺でくつろぐ様子がパっと頭にうかんだ。色黒かつサングラスを常用する彼なら夏の海が似合いそうではある。だがそんな光景を習一が見たいかと言えば、断固としてノーである。
「それはイヤだ……」
「そう思ってもらえて安心しました」
行楽は教師にとっても避けたい行動計画だという。習一はその根拠を、問題児の監督がむずかしくなるせいか、と思った。まだ学校という範囲のせまい領域に習一をしばりつけておけばこの教師が楽をできる、と。
「私は遊び方をよく知らないので遊楽の期待にはそえかねます」
「なんだよ、アンタは仕事人間なのか?」
「ええ、そういったところです」
教師は遊びの経験不足ゆえに渋っているらしい。アウトローじみた見た目とはちがってかなり真面目な大人のようだ。習一は外見との差異のせいで素直に信じられない。
「そんな黒シャツを着てて、サングラスをかけてるやつがか?」
「ほう、このファッションをする人には遊び人が多いと」
「遊び人つうか……」
女性に金を貢がせる職業の人がよくやりそうな恰好だ、と習一はテレビや創作の世界で知ったイメージをもとに思った。だが実態は知らない。そのため無難に「フツーの社会人はしない格好だろうな」と答えた。また、この教師の名乗った名前が西洋風だったのを考えると、自身の抱えるステレオタイプは日本独自のものかもしれないと考え直す。
「外国じゃどうだか知らないが……格好の話はいい。アンタなんかに復学の手伝いができるのか?」
「交渉してみます」
習一の学校は保守的な体制である。前例のない申し出を受け入れるとは考えにくかった。
「あそこの教師は変なプライドを持ってるやつがごろごろいるんだ。才穎高校なんて色物ぞろいの学校、まともに相手にするかよ」
「ではこうしましょう」
教師は習一に所属をおとしめられたというのに、その批判を物ともしない宣言をしだす。
「雒英高校の方々が私の申し出をこばめば、貴方は再試験を受けなくてよろしい。もし了承されたら、貴方は私の指示にしたがって、復学の準備をする。これでいかがです?」
成否の二パターンの結果を提示してきた。これはつまり──
「賭ける気か?」
「はい」
提案者は真顔で即答した。自信があるのかないのか、習一には読めない。学校の内情を知る習一も結果がどう転ぶかはなんとも言えなかった。あの学校にはすくなからず心ある教師は在席する。運よくその教師が事をすすめてくれれば達成できる可能性はあった。だが達成できたとしても、この異国風の男がほかの教師陣に白い目で見られるのは明白だ。
「いいぜ、やってみればいい」
習一は教師の挑戦を鼻で笑う。
「どのみち、あんたは恥をかくぞ」
「はい、これから掛けあってみます」
教師は習一の警告を日常会話のごとく流した。習一は肩すかしを食らう。習一が知る大勢の大人は虚栄心あふれ、外聞を一番に優先する連中だ。なのにこの男は自己のプライドは気に留めないらしい。
「私から伝えたいことは以上です。ほかに聞きたいことはあるでしょうか」
習一は予想外の反応に呆気にとられ、返答できずにいた。それを質問の意図なし、と教師は判断する。
「ないようでしたらこれで退室します」
昨日の警官といい、せっかちな男たちだと習一は思った。とっさに思いついた質問をする。
「あんたはオレのことを知ってるのか?」
「はい、何度か貴方と会っています」
「いつ会った?」
「その詳細は後日、貴方の記憶が復活したときに話しましょう」
習一がうっかり「そうか」と引き下がりかけたくらいに、教師は自然体で返答を濁した。教師がみずから質問を受け付けると言ったそばからこれである。習一は彼の二枚舌ぶりに不快感を吐露する。
「オレに質問をさせたくせに、答えられてねえな」
「はい。いまの私から言う意義はないかと思います」
「あんたのことを聞いてんのに、あんたが答えるべきじゃないってのか?」
「おっしゃるとおりです」
人を食ったような応答だ。習一はだんだん、この男が外面がよいだけの軽薄野郎の疑いが湧いてくる。
「オレをおちょくってんのか?」
「いえ、答えられる質問には答えるつもりでした。貴方を不快にさせたいとは思っていません」
教師は習一から視線を外して、眉を落とす。
「回答をこばむかわりと言ってはなんですが、貴方は快適な環境づくりに努めてください。それがいま、貴方にもっとも必要なことです」
この教師は無理難題な努力をすすめてきた。それができていれば不良に身をやつしていないのに、と習一は彼の無理解をさとる。
「とっとと帰れ」
習一はそっぽを向いた。これが拒絶の意思表示だ。この場で暴れる体力も、口論を発展させる気力も、現在の習一にはなかった。
銀髪の男は「私も最善を尽くします」と言い、退室した。習一はすぐに臥床する。寒くもないのに、掛け布団を頭から足先まですっぽりかぶった。
教師は黄色のサングラスをかけた双眼で、点滴を見上げる。
「まだ点滴が取れないのですね」
習一も自分の腕から管でつながる容器を見る。
「これは栄養剤なんだとよ」
「食事では充分な栄養が摂れませんか」
「そうらしい」
「元気になるのには時間がかかりそうですね」
黒シャツを着た教師は習一の体調を気遣ってきた。習一は趣旨を話さない訪問者にいらだちを感じてくる。
「なあ、世間話はどうでもいいんだよ」
教師は習一の顔を見て「ではすこし確認しますが」と言う。
「私の名前は申し上げましたね」
「ああ、なんか言ってたな」
習一は彼が母親に自己紹介をしたのを見聞きしていたが、真剣には聞いていない。
「アンタの名前がなんだろうとオレは『アンタ』としかよばねえぞ」
「私の名前を呼ばないのは貴方の自由ですが、私の呼び名は知っておいてください。今後のやり取りに支障が出ます」
「オレはアンタと一緒に行動するとは決めてないんだぞ」
習一は意地悪く言い返した。教師が閉口するかと思いきや、彼は顔色を変えずに「そうでしたね」と簡単に折れる。
「ではこたびの面会に関わらない説明は不十分なままにしておきましょう。それが貴方の希望のようですし」
開き直りともとれるセリフであったが、教師の声色に変化はない。嫌味でもなんでもなく、それが心のままに出た言葉らしい。
「貴方が部分的に失くした記憶の復元をするために、私と行動する件の詳細ですが──」
教師がやっと主題に入る。習一は「具体的になにをやる?」と返答の範囲をせばめた。
「私は貴方が期末試験を受けていないことが気がかりでして、その補填となる追試か補習を受けてもらいたいと思います」
習一は困惑した。この男は習一の学校の教師ではない。その提案内容は本来、習一の担任がうながすことだ。よその教師がよその生徒の学校生活を案じるべき道理はない。
「貴方は不可抗力で試験を受けられなかった生徒です。きっと雒英《らくえい》の先生方の温情に期待できます」
「待ってくれ、アンタはオレの復学を手伝いにきたんじゃないだろ?」
「ええ、主たる目的ではありません。私たちが一緒にいれば貴方の記憶がもどるそうですから、そのついでです」
「だからって、なんでそんなめんどくせーことを……」
「それとも、こんな気心の知れない男と二人きりで夏のバカンスを楽しみたいですか?」
夏のバカンスを楽しむ──習一はこの教師が水着を着て、浜辺でくつろぐ様子がパっと頭にうかんだ。色黒かつサングラスを常用する彼なら夏の海が似合いそうではある。だがそんな光景を習一が見たいかと言えば、断固としてノーである。
「それはイヤだ……」
「そう思ってもらえて安心しました」
行楽は教師にとっても避けたい行動計画だという。習一はその根拠を、問題児の監督がむずかしくなるせいか、と思った。まだ学校という範囲のせまい領域に習一をしばりつけておけばこの教師が楽をできる、と。
「私は遊び方をよく知らないので遊楽の期待にはそえかねます」
「なんだよ、アンタは仕事人間なのか?」
「ええ、そういったところです」
教師は遊びの経験不足ゆえに渋っているらしい。アウトローじみた見た目とはちがってかなり真面目な大人のようだ。習一は外見との差異のせいで素直に信じられない。
「そんな黒シャツを着てて、サングラスをかけてるやつがか?」
「ほう、このファッションをする人には遊び人が多いと」
「遊び人つうか……」
女性に金を貢がせる職業の人がよくやりそうな恰好だ、と習一はテレビや創作の世界で知ったイメージをもとに思った。だが実態は知らない。そのため無難に「フツーの社会人はしない格好だろうな」と答えた。また、この教師の名乗った名前が西洋風だったのを考えると、自身の抱えるステレオタイプは日本独自のものかもしれないと考え直す。
「外国じゃどうだか知らないが……格好の話はいい。アンタなんかに復学の手伝いができるのか?」
「交渉してみます」
習一の学校は保守的な体制である。前例のない申し出を受け入れるとは考えにくかった。
「あそこの教師は変なプライドを持ってるやつがごろごろいるんだ。才穎高校なんて色物ぞろいの学校、まともに相手にするかよ」
「ではこうしましょう」
教師は習一に所属をおとしめられたというのに、その批判を物ともしない宣言をしだす。
「雒英高校の方々が私の申し出をこばめば、貴方は再試験を受けなくてよろしい。もし了承されたら、貴方は私の指示にしたがって、復学の準備をする。これでいかがです?」
成否の二パターンの結果を提示してきた。これはつまり──
「賭ける気か?」
「はい」
提案者は真顔で即答した。自信があるのかないのか、習一には読めない。学校の内情を知る習一も結果がどう転ぶかはなんとも言えなかった。あの学校にはすくなからず心ある教師は在席する。運よくその教師が事をすすめてくれれば達成できる可能性はあった。だが達成できたとしても、この異国風の男がほかの教師陣に白い目で見られるのは明白だ。
「いいぜ、やってみればいい」
習一は教師の挑戦を鼻で笑う。
「どのみち、あんたは恥をかくぞ」
「はい、これから掛けあってみます」
教師は習一の警告を日常会話のごとく流した。習一は肩すかしを食らう。習一が知る大勢の大人は虚栄心あふれ、外聞を一番に優先する連中だ。なのにこの男は自己のプライドは気に留めないらしい。
「私から伝えたいことは以上です。ほかに聞きたいことはあるでしょうか」
習一は予想外の反応に呆気にとられ、返答できずにいた。それを質問の意図なし、と教師は判断する。
「ないようでしたらこれで退室します」
昨日の警官といい、せっかちな男たちだと習一は思った。とっさに思いついた質問をする。
「あんたはオレのことを知ってるのか?」
「はい、何度か貴方と会っています」
「いつ会った?」
「その詳細は後日、貴方の記憶が復活したときに話しましょう」
習一がうっかり「そうか」と引き下がりかけたくらいに、教師は自然体で返答を濁した。教師がみずから質問を受け付けると言ったそばからこれである。習一は彼の二枚舌ぶりに不快感を吐露する。
「オレに質問をさせたくせに、答えられてねえな」
「はい。いまの私から言う意義はないかと思います」
「あんたのことを聞いてんのに、あんたが答えるべきじゃないってのか?」
「おっしゃるとおりです」
人を食ったような応答だ。習一はだんだん、この男が外面がよいだけの軽薄野郎の疑いが湧いてくる。
「オレをおちょくってんのか?」
「いえ、答えられる質問には答えるつもりでした。貴方を不快にさせたいとは思っていません」
教師は習一から視線を外して、眉を落とす。
「回答をこばむかわりと言ってはなんですが、貴方は快適な環境づくりに努めてください。それがいま、貴方にもっとも必要なことです」
この教師は無理難題な努力をすすめてきた。それができていれば不良に身をやつしていないのに、と習一は彼の無理解をさとる。
「とっとと帰れ」
習一はそっぽを向いた。これが拒絶の意思表示だ。この場で暴れる体力も、口論を発展させる気力も、現在の習一にはなかった。
銀髪の男は「私も最善を尽くします」と言い、退室した。習一はすぐに臥床する。寒くもないのに、掛け布団を頭から足先まですっぽりかぶった。
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