新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2019年01月27日
クロア篇−2章5
クロアは昼食をレジィと一緒にとった。こたびは女子二人の食事だ。ダムトに気兼ねしない、自由な雑談を交わす。
「わたしに事務方の側近ができたら、レジィも助かるんじゃないかしら?」
「あたしは、いまのままでも平気ですけど……」
レジィは日々、前任者の女性が達していた域に自分を高めようとしている。それゆえ、外部からの助力を得ようとは思わないらしい。
健気な少女は「あ」と声をあげる。
「政務を補佐してくれる男性をお婿さんにしたらどうです?」
クロアは今朝、父に告げた縁談話を思い出した。あのときは老爺が凡夫ばかりすすめてくるのをクロアが不服とする話だけで終わった。レジィが切り出す話題はもっと前向きなものだ。クロアはいまいちど冷静になり、自身の婿について考える。
「家督を継がなくてよくて、政治に理解のある人……」
「政治に関わるお家で育った人なら、そういう教育も受けておいでなのでしょう?」
「為政者の一族のこと?」
「はい。うちの国にはコリオル第二公子がいらっしゃいますよね」
コリオルは同国の中で東に位置する領地。西を守るアンペレとは反対の場所だ。その公子の噂はクロアも聞いており、次男は秀才らしい。だが長男の評判はよくない。
「あそこは長男がボンクラだもの。次男が家督を継ぐわね」
領主の後継者は第一子がなるものと相場が決まっている。ただしその下の兄弟が優秀ならばそちらに家督がいく事例はある。コリオルはその前轍を踏むだろうとクロアは予想している。
「あまった長男をもらう気はさらさら無いわ」
「そうですか……家督を考えなかったら、ロレンツ公がピッタリだとは思うんですけど」
それはクロアも一度は頭に浮かんだ候補だ。ロレンツ公は博覧強記な青年。彼にはかつて兄がおり、その兄は「弟に領主の座を譲りたい」と評していた。
ロレンツ公の兄も兄で、「聖王の長女の婿にどうか」という話題があがる英才だったという。聖王には子息がおらず、長女が跡目を継ぐことが内定している。つまり女王の夫たりうる器だったのだ。兄弟そろって聡明という、クロアにはうらやましいかぎりの血筋である。
「レウィナスさんね。たしかにケチのつけどころのない方だわ」
「でも結婚するとしたらクロアさまが嫁ぐことになりますよね」
レウィナスは兄を失くした。そのほかの兄弟はおらず、両親も他界した。だが天涯孤独ではない。直近の親戚には父の妹がおり、叔母とその家族はこの国のどこかで生きているという。レウィナスに万一のことがあればそちらに継承権が移るだろう。が、それはロレンツ家が断絶の一歩手前に追い込まれたときに起こりうる緊急事態だ。レウィナスが生きている間、彼はロレンツ公であり続けなければならない。
「アンペレにはクロアさま以外にも公女と公子がいますもんね」
「わたしがアンペレを離れるのなら、だれが結婚相手でもよくなるわね」
それもいいのかもしれない、とクロアはひそかに思った。妹たちに家督を任せ、自分はよそで暮らす。理想の住居は、有事の際はこの町にすぐ飛んでいける近場。そういう観点ではロレンツは格好の嫁ぎ先だ。そこはアンペレの南東に位置する場所であり、直線状は山々にはばまれているのだが、ベニトラに騎乗すれば難なく行き来できるだろう。
(でも、あの方の補佐がわたしに務まるとは……)
レウィナスは優秀な政治家である。そんな彼の妻は才徳兼備の女人がふさわしいはず。クロアが伴侶にするにはもったいない男性だ。クロアは気が引けた。
レジィがおずおずと「だれでもいいんでしたら……」と伏し目がちにしゃべる。
「ダムトさんも……クロアさまに合ってるかな、と……」
クロアは耳をうたがった。そんなことは露にも思ったためしがない。
「あいつのどこがわたしと合っていると言うの?」
「え、だって……ダムトさんはクロアさまのことをよく考えているし……」
「それが仕事だからよ。それでお給金をもらってるだけよ」
「でも、今日のダムトさんはクロアさまの指示にないことをやってるんですよ。そうすればクロアさまがよろこぶし、もしだれかに責められてもクロアさまの責任にはならないからと──」
責任の所在まで考えての独断だったとは、クロアは思いもしなかった。彼の意図を汲みとれず、老爺にはクロアの意思でダムトを外出させたものだと言ってしまった。実際クロアの希望に沿う行動なので、そこを否定する気はない。しかしダムトのほうはそれで満足しないだろう。せっかく批難の矛先をクロア以外へ向かわせる準備をしておいたのに、クロアがダメにしたのだから。
「……ダムトが帰ってきたら、またつつかれそうね」
「あ、『自分がダムトに行かせた』ってクノードさまに言ってしまったんですか?」
「お父さまもご存知ね。わたしが直接言ってやったのは偏屈爺のほうよ」
「あ〜、カスバ……」
レジィは老爺の名を言いかけて、自身の口を手でおさえた。「偏屈爺」がカスバンであると言い当てる行為にはカスバン本人に対して無礼がある、と自省したがゆえの反応だ。
「そこで止めてもムダよ。あなたもカスバンを『偏屈なジジイ』だと思ってるって証拠なんだから」
「え〜、ぜったい告げ口しないでくださいよ」
レジィが半笑いでクロアの指摘を受け止めた。彼女とてクロアがそのような陰険な行為をするとは思っていない。この会話はただの冗談だった。
とりとめのない雑談に区切りをつけ、クロアは町へ出ることにした。目的は二種類。ベニトラの装身具の購入、それと強力な戦士の発見だ。クロアたちは食器を片づけたのち、屋外へ出た。
「わたしに事務方の側近ができたら、レジィも助かるんじゃないかしら?」
「あたしは、いまのままでも平気ですけど……」
レジィは日々、前任者の女性が達していた域に自分を高めようとしている。それゆえ、外部からの助力を得ようとは思わないらしい。
健気な少女は「あ」と声をあげる。
「政務を補佐してくれる男性をお婿さんにしたらどうです?」
クロアは今朝、父に告げた縁談話を思い出した。あのときは老爺が凡夫ばかりすすめてくるのをクロアが不服とする話だけで終わった。レジィが切り出す話題はもっと前向きなものだ。クロアはいまいちど冷静になり、自身の婿について考える。
「家督を継がなくてよくて、政治に理解のある人……」
「政治に関わるお家で育った人なら、そういう教育も受けておいでなのでしょう?」
「為政者の一族のこと?」
「はい。うちの国にはコリオル第二公子がいらっしゃいますよね」
コリオルは同国の中で東に位置する領地。西を守るアンペレとは反対の場所だ。その公子の噂はクロアも聞いており、次男は秀才らしい。だが長男の評判はよくない。
「あそこは長男がボンクラだもの。次男が家督を継ぐわね」
領主の後継者は第一子がなるものと相場が決まっている。ただしその下の兄弟が優秀ならばそちらに家督がいく事例はある。コリオルはその前轍を踏むだろうとクロアは予想している。
「あまった長男をもらう気はさらさら無いわ」
「そうですか……家督を考えなかったら、ロレンツ公がピッタリだとは思うんですけど」
それはクロアも一度は頭に浮かんだ候補だ。ロレンツ公は博覧強記な青年。彼にはかつて兄がおり、その兄は「弟に領主の座を譲りたい」と評していた。
ロレンツ公の兄も兄で、「聖王の長女の婿にどうか」という話題があがる英才だったという。聖王には子息がおらず、長女が跡目を継ぐことが内定している。つまり女王の夫たりうる器だったのだ。兄弟そろって聡明という、クロアにはうらやましいかぎりの血筋である。
「レウィナスさんね。たしかにケチのつけどころのない方だわ」
「でも結婚するとしたらクロアさまが嫁ぐことになりますよね」
レウィナスは兄を失くした。そのほかの兄弟はおらず、両親も他界した。だが天涯孤独ではない。直近の親戚には父の妹がおり、叔母とその家族はこの国のどこかで生きているという。レウィナスに万一のことがあればそちらに継承権が移るだろう。が、それはロレンツ家が断絶の一歩手前に追い込まれたときに起こりうる緊急事態だ。レウィナスが生きている間、彼はロレンツ公であり続けなければならない。
「アンペレにはクロアさま以外にも公女と公子がいますもんね」
「わたしがアンペレを離れるのなら、だれが結婚相手でもよくなるわね」
それもいいのかもしれない、とクロアはひそかに思った。妹たちに家督を任せ、自分はよそで暮らす。理想の住居は、有事の際はこの町にすぐ飛んでいける近場。そういう観点ではロレンツは格好の嫁ぎ先だ。そこはアンペレの南東に位置する場所であり、直線状は山々にはばまれているのだが、ベニトラに騎乗すれば難なく行き来できるだろう。
(でも、あの方の補佐がわたしに務まるとは……)
レウィナスは優秀な政治家である。そんな彼の妻は才徳兼備の女人がふさわしいはず。クロアが伴侶にするにはもったいない男性だ。クロアは気が引けた。
レジィがおずおずと「だれでもいいんでしたら……」と伏し目がちにしゃべる。
「ダムトさんも……クロアさまに合ってるかな、と……」
クロアは耳をうたがった。そんなことは露にも思ったためしがない。
「あいつのどこがわたしと合っていると言うの?」
「え、だって……ダムトさんはクロアさまのことをよく考えているし……」
「それが仕事だからよ。それでお給金をもらってるだけよ」
「でも、今日のダムトさんはクロアさまの指示にないことをやってるんですよ。そうすればクロアさまがよろこぶし、もしだれかに責められてもクロアさまの責任にはならないからと──」
責任の所在まで考えての独断だったとは、クロアは思いもしなかった。彼の意図を汲みとれず、老爺にはクロアの意思でダムトを外出させたものだと言ってしまった。実際クロアの希望に沿う行動なので、そこを否定する気はない。しかしダムトのほうはそれで満足しないだろう。せっかく批難の矛先をクロア以外へ向かわせる準備をしておいたのに、クロアがダメにしたのだから。
「……ダムトが帰ってきたら、またつつかれそうね」
「あ、『自分がダムトに行かせた』ってクノードさまに言ってしまったんですか?」
「お父さまもご存知ね。わたしが直接言ってやったのは偏屈爺のほうよ」
「あ〜、カスバ……」
レジィは老爺の名を言いかけて、自身の口を手でおさえた。「偏屈爺」がカスバンであると言い当てる行為にはカスバン本人に対して無礼がある、と自省したがゆえの反応だ。
「そこで止めてもムダよ。あなたもカスバンを『偏屈なジジイ』だと思ってるって証拠なんだから」
「え〜、ぜったい告げ口しないでくださいよ」
レジィが半笑いでクロアの指摘を受け止めた。彼女とてクロアがそのような陰険な行為をするとは思っていない。この会話はただの冗談だった。
とりとめのない雑談に区切りをつけ、クロアは町へ出ることにした。目的は二種類。ベニトラの装身具の購入、それと強力な戦士の発見だ。クロアたちは食器を片づけたのち、屋外へ出た。
タグ:クロア
2019年01月28日
クロア篇−2章6
アンペレの町は広大である。この町を徒歩で移動していてはたいへん骨が折れる。それゆえクロアは私用の馬車を使うことにした。馬車を牽引する馬は厩舎で飼育している。厩舎には普通の馬のほかにも飛行能力のある魔獣──通称を飛獣──が区分けして管理してあった。
今回使うのは普通の馬だ。利便性では飛獣のほうが移動速度が速いが、町中では飛獣の乱用を禁止している。領主一族も例外ではない。緊急時以外は馬か馬車での移動をする。その際は厩舎にいる者に声をかけ、馬か馬車の用意を頼む。馬車に乗るときは同時に御者の任にも就かせた。
「今日はだれがいるのかしら……あら?」
舎内の掃き掃除をする女性がいた。厩舎では見慣れぬ新人であろうが、その体格としぐさが大切な知人とかさなって見えた。姉のような庇護者であった女性に。
「あなた、エメリではなくて?」
掃除婦は顔をあげた。やはり長年クロアの従者を務めた女性だ。彼女は外面が優しい淑女でいながら、内面は剛毅な女傑である。内なる頑強さをうまく隠した女性がはにかむ。
「はい、そのとおりです」
「子どもをみていなくて平気なの? まだ乳飲み子でしょう」
エメリは既婚者だ。妊娠と出産を機に従者の務めをしりぞいた。お相手の男性は名うての工房の跡取り息子。資産のある嫁ぎ先なので、彼女自身が勤めにいかなくとも生活は成り立つ。それゆえ、エメリは復職しないものだとクロアは思っていた。
「母が面倒を看てくれていますよ。孫ができたおかげで、張り合いが出たみたいです」
「そうなの……元気そうでよかった」
クロアは旧知の女性との再会を心からよろこんだ。ただ気になることがあった。彼女がなぜ厩舎に配属されたかということだ。
「それで、どうしてエメリが馬丁(ばてい)をしているの?」
「勤務時間の融通が利いて、お嬢さまとも関われそうな職務が、ここでした」
「わたしと?」
「はい。お嬢さまは飛馬がお好きでしょう? 乗って出かける機会がなくても、飛馬を触りに厩舎へ出向くことがあったので──」
「ここにいればわたしに会えると、思ってくれたの?」
エメリは笑ってうなずいた。彼女が従者の任を解かれてなお公女を気遣っている。その事実にクロアは歓喜し、照れくさくなった。
「お嬢さまはなんの御用でこちらに?」
「じつはね、昨日お父さまが町中へ出かけてもいいとおっしゃったの」
新人の馬丁は笑顔のまま「それはよかったですね」と言う。彼女はこの外出がたまの遊興だと思っていそうだ。
「行く場所はもうお決めになったのですか?」
「最初に招獣のお店に行きたいの」
「『最初』とおっしゃいますと、ほかにも目当ての行き先があるのですね?」
「そうなの。強い人が集まりそうなところ、どこか知っていて?」
「……移動の間によく考えてみます。これからお出かけになりますか?」
「ええ、御者をお願いするわ」
「お任せください。準備しますので、しばしお待ちを」
エメリは床に集まった塵や藁くずを回収し、掃除道具を片付けた。ほかの馬丁にも声をかけて、支度を手伝ってもらっている。その光景をクロアは懐かしい気持ちでながめた。
レジィも転身した前任者をまじまじと見ている。だがその視線には懐疑が入り混じっている。
「エメリさん……今度は厩舎でずっとはたらくんでしょうか?」
「そうみたいね」
「もったいないんじゃないですか? あの方は戦えるし、療術も上手で……」
「そう、なんでもできる器用な人よ。だけど母親になったの」
クロアはレジィの横顔を見る。いつかはこの少女もエメリのようになる、という歓迎と不安の気持ちがじわじわと湧いてくる。
「危険も体の負担もすくない仕事をえらぶのは……いいことだと思うわ」
レジィは急にしょぼくれる。
「やっぱり、従者って危ない仕事ですか?」
「わたしに付き添っていると危険は多くなるでしょうね」
クロアは十歳にならぬころから武力行使する公務に参加した。どこそこの村に魔物が出てくる、山賊が住みついた、気性の荒い旅人が揉めごとを起こしている──そういった平和的解決がむずかしい問題に関わってきた。クロアは小さいときから尋常でない怪力をそなえていたので、その力を役立てたかったのだ。
「それがどうかして?」
留意事項は従者に取り立てる際に説明があったはず、とクロアは不思議がった。
レジィが袖をまくって腕を見せる。筋肉の隆起が目立たない、弱々しい腕だ。
「あたし、クロアさまを守れますか?」
少女は従者の任を引き受けたのちに、護身用の戦い方を教わったという。それまでの彼女は医官の見習いという、戦いに縁のない分野で奉仕していた。そんな非戦闘員がいきなり戦闘訓練を受けるのだから、よくレジィは従者教育についてこれたものだとクロアは感心している。
「その細腕じゃあ期待できないわね」
クロアはほほえみ、冗談めかして本音をのべた。か細い少女は「すいません」と真面目に謝る。
「がんばって鍛えてるつもりなんですけど……」
「あなたは自分の身を守れたらいいの」
クロアはもとよりその考えでいた。少女に武芸を習わせる目的は本人の自衛のため。彼女の本業は別にある。レジィならではの役目こそをクロアは求めている。
「わたしがケガをしたらすぐに治す、それがあなたの仕事よ」
「はい……それはわかってるんですけど……」
「敵を倒すのはわたしの専門なんだもの。あなたはいまのままでいいわ」
「でも、エメリさんは武芸が達者なんでしょう?」
「そうよ。だからってレジィがエメリを目標にしなくていいの」
エメリはアンペレにおいて高名な武官の家の出身だ。生まれ落ちたときから武官になるのを約束された人物と、普通な家庭で育った少女とを、同じ尺度で測ることはできない。なにより、クロアが成長するごとに求める従者の資質も変容していた。
「彼女は幼いわたしの護衛役だったの。そのときはお父さまがわたしに『戦える侍女が必要だ』とお考えになったのよ。いまとなってはわたしがアンペレ最強なのだから、もうそんなふうに考えていらっしゃらないわ」
レジィはくすっと笑い、袖をもとにもどす。
「それじゃ、あたしが危ない目に遭ったら……クロアさまが守ってくださいます?」
「もちろんよ。レジィを一生守れる殿方が現れるまでは、わたしがぜんぶ守ってあげる」
「ダンナさんが見つからなかったら?」
「ずっとわたしに仕えたらいいわ」
それが叶わない未来だとクロアはわかっていた。母親となったエメリは十年とすこしで従者生活を終えた。前例にならえばレジィもあと十年前後で退任する。このような心根のよい可憐な少女に、男性が言い寄らないとは考えにくいのだ。
(わたしのそばを離れても……また、わたしに会いにきてくれる?)
その問いはいつかくる日までにとっておくことにした。クロアたちはこれから町中へ出かける。めったにない楽しみを目の前にして、そんなさびしい話題を持ちかけなくてもいいと思った。
クロアはふとベニトラの行方が気になりだす。エメリに気を取られ、朱色の獣のことはすっかり放置していた。クロアのあとをついてきたはずの猫はクロアの周囲にいない。
「ベニトラったら、どこに行って──」
「あ、馬車が出てきましたよ」
エメリが二頭の馬を引き連れてきた。その後方には人間が乗る、屋根付きの四輪馬車がついてくる。御者の席には朱色の毛玉がいた。
「あら、あんなところにいたの」
クロアは安堵をおぼえた。招獣は術で呼びよせられるとはいえ、そのやり方を熟知していないクロアには敷居の高い技だ。ベニトラが見つからなかったときはその場でレジィに招術を習わねばならぬところだった。
エメリがベニトラを両手で抱きかかえた。それをクロアに差し出す。
「町中ではこの獣を抱えていてもらえますか?」
「いまみたいにはぐれて、捜すはめになるから?」
「それもありますが、住民は魔獣に敏感になっていますので──」
クロアは猫を受け取りながら「この子が魔獣だと知っているの?」とたずねた。その事実は家族と一部の官吏だけが認知していると思っていた。
「はい、クロアさまが朱の毛皮の魔獣を招獣にしたのだと聞きましたから」
「昨日の今日で、もう話が広まってるのね」
「町中はそうともかぎりません。住民とおしゃべりする機会があれば、その獣を紹介なさるとよいかもしれませんね。まだ恐怖を抱いている人たちがいると思います」
「では車内へ」とエメリにうながされ、クロアたちは馬車へ乗りこんだ。クロアは童心に返ったかのようにウキウキして、車窓越しに見える景色を堪能した。
今回使うのは普通の馬だ。利便性では飛獣のほうが移動速度が速いが、町中では飛獣の乱用を禁止している。領主一族も例外ではない。緊急時以外は馬か馬車での移動をする。その際は厩舎にいる者に声をかけ、馬か馬車の用意を頼む。馬車に乗るときは同時に御者の任にも就かせた。
「今日はだれがいるのかしら……あら?」
舎内の掃き掃除をする女性がいた。厩舎では見慣れぬ新人であろうが、その体格としぐさが大切な知人とかさなって見えた。姉のような庇護者であった女性に。
「あなた、エメリではなくて?」
掃除婦は顔をあげた。やはり長年クロアの従者を務めた女性だ。彼女は外面が優しい淑女でいながら、内面は剛毅な女傑である。内なる頑強さをうまく隠した女性がはにかむ。
「はい、そのとおりです」
「子どもをみていなくて平気なの? まだ乳飲み子でしょう」
エメリは既婚者だ。妊娠と出産を機に従者の務めをしりぞいた。お相手の男性は名うての工房の跡取り息子。資産のある嫁ぎ先なので、彼女自身が勤めにいかなくとも生活は成り立つ。それゆえ、エメリは復職しないものだとクロアは思っていた。
「母が面倒を看てくれていますよ。孫ができたおかげで、張り合いが出たみたいです」
「そうなの……元気そうでよかった」
クロアは旧知の女性との再会を心からよろこんだ。ただ気になることがあった。彼女がなぜ厩舎に配属されたかということだ。
「それで、どうしてエメリが馬丁(ばてい)をしているの?」
「勤務時間の融通が利いて、お嬢さまとも関われそうな職務が、ここでした」
「わたしと?」
「はい。お嬢さまは飛馬がお好きでしょう? 乗って出かける機会がなくても、飛馬を触りに厩舎へ出向くことがあったので──」
「ここにいればわたしに会えると、思ってくれたの?」
エメリは笑ってうなずいた。彼女が従者の任を解かれてなお公女を気遣っている。その事実にクロアは歓喜し、照れくさくなった。
「お嬢さまはなんの御用でこちらに?」
「じつはね、昨日お父さまが町中へ出かけてもいいとおっしゃったの」
新人の馬丁は笑顔のまま「それはよかったですね」と言う。彼女はこの外出がたまの遊興だと思っていそうだ。
「行く場所はもうお決めになったのですか?」
「最初に招獣のお店に行きたいの」
「『最初』とおっしゃいますと、ほかにも目当ての行き先があるのですね?」
「そうなの。強い人が集まりそうなところ、どこか知っていて?」
「……移動の間によく考えてみます。これからお出かけになりますか?」
「ええ、御者をお願いするわ」
「お任せください。準備しますので、しばしお待ちを」
エメリは床に集まった塵や藁くずを回収し、掃除道具を片付けた。ほかの馬丁にも声をかけて、支度を手伝ってもらっている。その光景をクロアは懐かしい気持ちでながめた。
レジィも転身した前任者をまじまじと見ている。だがその視線には懐疑が入り混じっている。
「エメリさん……今度は厩舎でずっとはたらくんでしょうか?」
「そうみたいね」
「もったいないんじゃないですか? あの方は戦えるし、療術も上手で……」
「そう、なんでもできる器用な人よ。だけど母親になったの」
クロアはレジィの横顔を見る。いつかはこの少女もエメリのようになる、という歓迎と不安の気持ちがじわじわと湧いてくる。
「危険も体の負担もすくない仕事をえらぶのは……いいことだと思うわ」
レジィは急にしょぼくれる。
「やっぱり、従者って危ない仕事ですか?」
「わたしに付き添っていると危険は多くなるでしょうね」
クロアは十歳にならぬころから武力行使する公務に参加した。どこそこの村に魔物が出てくる、山賊が住みついた、気性の荒い旅人が揉めごとを起こしている──そういった平和的解決がむずかしい問題に関わってきた。クロアは小さいときから尋常でない怪力をそなえていたので、その力を役立てたかったのだ。
「それがどうかして?」
留意事項は従者に取り立てる際に説明があったはず、とクロアは不思議がった。
レジィが袖をまくって腕を見せる。筋肉の隆起が目立たない、弱々しい腕だ。
「あたし、クロアさまを守れますか?」
少女は従者の任を引き受けたのちに、護身用の戦い方を教わったという。それまでの彼女は医官の見習いという、戦いに縁のない分野で奉仕していた。そんな非戦闘員がいきなり戦闘訓練を受けるのだから、よくレジィは従者教育についてこれたものだとクロアは感心している。
「その細腕じゃあ期待できないわね」
クロアはほほえみ、冗談めかして本音をのべた。か細い少女は「すいません」と真面目に謝る。
「がんばって鍛えてるつもりなんですけど……」
「あなたは自分の身を守れたらいいの」
クロアはもとよりその考えでいた。少女に武芸を習わせる目的は本人の自衛のため。彼女の本業は別にある。レジィならではの役目こそをクロアは求めている。
「わたしがケガをしたらすぐに治す、それがあなたの仕事よ」
「はい……それはわかってるんですけど……」
「敵を倒すのはわたしの専門なんだもの。あなたはいまのままでいいわ」
「でも、エメリさんは武芸が達者なんでしょう?」
「そうよ。だからってレジィがエメリを目標にしなくていいの」
エメリはアンペレにおいて高名な武官の家の出身だ。生まれ落ちたときから武官になるのを約束された人物と、普通な家庭で育った少女とを、同じ尺度で測ることはできない。なにより、クロアが成長するごとに求める従者の資質も変容していた。
「彼女は幼いわたしの護衛役だったの。そのときはお父さまがわたしに『戦える侍女が必要だ』とお考えになったのよ。いまとなってはわたしがアンペレ最強なのだから、もうそんなふうに考えていらっしゃらないわ」
レジィはくすっと笑い、袖をもとにもどす。
「それじゃ、あたしが危ない目に遭ったら……クロアさまが守ってくださいます?」
「もちろんよ。レジィを一生守れる殿方が現れるまでは、わたしがぜんぶ守ってあげる」
「ダンナさんが見つからなかったら?」
「ずっとわたしに仕えたらいいわ」
それが叶わない未来だとクロアはわかっていた。母親となったエメリは十年とすこしで従者生活を終えた。前例にならえばレジィもあと十年前後で退任する。このような心根のよい可憐な少女に、男性が言い寄らないとは考えにくいのだ。
(わたしのそばを離れても……また、わたしに会いにきてくれる?)
その問いはいつかくる日までにとっておくことにした。クロアたちはこれから町中へ出かける。めったにない楽しみを目の前にして、そんなさびしい話題を持ちかけなくてもいいと思った。
クロアはふとベニトラの行方が気になりだす。エメリに気を取られ、朱色の獣のことはすっかり放置していた。クロアのあとをついてきたはずの猫はクロアの周囲にいない。
「ベニトラったら、どこに行って──」
「あ、馬車が出てきましたよ」
エメリが二頭の馬を引き連れてきた。その後方には人間が乗る、屋根付きの四輪馬車がついてくる。御者の席には朱色の毛玉がいた。
「あら、あんなところにいたの」
クロアは安堵をおぼえた。招獣は術で呼びよせられるとはいえ、そのやり方を熟知していないクロアには敷居の高い技だ。ベニトラが見つからなかったときはその場でレジィに招術を習わねばならぬところだった。
エメリがベニトラを両手で抱きかかえた。それをクロアに差し出す。
「町中ではこの獣を抱えていてもらえますか?」
「いまみたいにはぐれて、捜すはめになるから?」
「それもありますが、住民は魔獣に敏感になっていますので──」
クロアは猫を受け取りながら「この子が魔獣だと知っているの?」とたずねた。その事実は家族と一部の官吏だけが認知していると思っていた。
「はい、クロアさまが朱の毛皮の魔獣を招獣にしたのだと聞きましたから」
「昨日の今日で、もう話が広まってるのね」
「町中はそうともかぎりません。住民とおしゃべりする機会があれば、その獣を紹介なさるとよいかもしれませんね。まだ恐怖を抱いている人たちがいると思います」
「では車内へ」とエメリにうながされ、クロアたちは馬車へ乗りこんだ。クロアは童心に返ったかのようにウキウキして、車窓越しに見える景色を堪能した。
タグ:クロア
2019年01月29日
クロア篇−2章7
エメリが操縦する馬車は招獣専門店を目指した。馬車内でクロアとレジィは対面して座る。クロアはレジィとの雑談は後回しにし、窓の外を眺めた。
大通りに面した建物は商いをする店舗が多い。いろんな人が店へ出入りしている。その中に戦えそうな者はいないか、とクロアは捜した。クロアの膝にのったベニトラも窓のふちに前足を置いて、同じ景色を見ていた。
「あのう、クロアさまはロレンツ公と仲がいいんですか?」
レジィが突拍子なく聞いてくる。クロアは視線を変えずに「知り合いではあるわ」と答えた。
「ロレンツ公にお声をかけて、討伐に協力してもらうのはどうです?」
「人が集まらなかったらそうするわ。でも最初からよその戦力をあてにしてはダメね」
「どうしてですか?」
「いつも援軍を頼んでいたら、そのうちほかの領主や国の者にあなどられてしまう。自衛力のない町だとか、兵をまともに統率できない無力な領主と……そんなの言われたら、わたしがくやしくってたまらないわ」
現段階でもアンペレを低く見る風評は存在する。アンペレから見て西隣りの国では、その土地の戦士がアンペレの兵士になるのを恥とする噂があるのだ。この町は財政に余裕があり、兵士の給与が相場より良いらしい。その金目当てにアンペレに仕える戦士は卑しいやつ、などと思う人がいるのだとか。やたらと誇り高い戦士の多い国ではクロアに理解しがたい常識がまかり通っている。ただ実際問題、アンペレで武官になっても箔が付かないのはたしかだ。この国で名誉ある兵士といえば聖王のおわす聖都の武官である。そちらに有能な人材は流れていく。
クロアは視線をやや下に落とした。クロアが頼りとする朱色の仲間が、無邪気に景色を眺めている。
「せっかく飛獣を見つけたんだもの。わたしはひとりででも戦う気よ」
「クノードさまがイヤがっていらしても?」
「お父さまに心配をかけるのは、気が引けるけど……」
父に従順であること以上にクロアが大切にしたいものがあった。
「憧れなのよ、悪党を倒す英雄って」
「きっかけはエミディオ王の英雄譚ですね?」
エミディオ王とは聖王国の東隣りに位置する国の先王だ。その国は武道第一の国風こそないが、彼は武断の王だった。数々の反乱をみずからの手腕で鎮圧したという。その雄々しい活躍の影には失ったものも多く、先王の生き様はしばしば演芸の場で再現がなされる。クロアは脚本家の脚色が混じった人物像に親しんでおり、この王のことはいたく気に入っている。
「ええ、そう。『あの方のような立派な人になるんだ』って小さいときはよく思ったもの」
レジィは笑って「変わっていますね」と不躾な感想を述べる。
「エミディオ王はかっこいい人ですけど、女の子は普通『ああなりたい』とは思いませんよ。『ああいう男性のお嫁さんになりたい』と思うんです」
「いいじゃない、わたしは普通じゃないんだもの」
クロアは自分の腕を見た。衣服で覆うと筋肉が発達していることなぞわからなくなる程度の太さだ。しかしこの腕は常人の臂力の何倍もの力を出せる。
「この腕力を活かさない手はないわ」
「はい、きっと……神さまはアンペレのためにクロアさまを遣わしたんだと思います」
戦士が集まらない土地に、武勇にすぐれた公女が誕生する──その天の采配は的確だ。
「どうせなら男に生まれさせてくれたらよかったのだけどね」
「クロアさまが男だったらたぶん、バリバリに戦いすぎて早死しちゃいますよ。剣王国の第一王子がそんな危険のある人らしいですよ」
聖王国の西隣りは尚武の国。それゆえ王族も勇猛果敢な戦士に育つ。特に現王の長男は無鉄砲なきらいがある。住民を脅かす存在を討伐する際にはまっさきに名乗り出て、大怪我をして帰還する──と、いうふうに聖王国内では話題にのぼる。その向こう見ずな性格はクロアと性情が通じるのではないか、とも言われる。
「あの王子はわたしと似たような方らしいけれど、一番のちがいは腕の良い療術士がそばにいるかどうかよね」
クロアが同意を求めてレジィを見る。彼女は照れて「そ〜ですかね」と否定はしなかった。クロアはふふっと笑う。そしてふとした謎が頭をよぎる。
「あちらの国では療術を扱える人が極端にすくないんでしょう? この国だと騎士でも当たり前のように使うのに、ちょっと信じがたいわ」
「剣王国はお国柄、気性の荒い人が多いらしいですから……療術は思いやりのある人でないと習得がむずかしいそうです。もちろん、生まれつきの素質も重要なんですけど」
「血筋の影響が強いのかしらね。カスバンなんか心優しさのカケラもなさそうだけど、療術はちゃんと使えるんでしょ」
「えっと、どうなんでしょう……あ、そうそう」
レジィは答えづらい話題を転換し、自身の招獣を呼び出した。首輪を巻いた獣が現れる。薄黄色の鼬(いたち)だ。胴が細長く、一本の襟巻きのようでもある。
「これから招獣の首輪を買うんでしたよね」
鼬はレジィに胴体を持たれる。その状態でクロアのそばにいる猫を見つめた。
「マルくんは変身しないですけど、いちおうは伸縮自在の首輪をつけてるんです。いつかは変身できるくらいに強くなるかも、と思って」
「ふーん、見た目は普通の首輪なのね」
鼬の首元には一粒の宝石が光っていた。クロアは飛馬の馬装を思い出す。
「うちの飛馬も宝石のついた飾りを着けた気がするわ。同じ種類なの?」
「ええと、用途がちがうんです。お屋敷の飛馬はみんなが使える招獣ですよね。それは盟約を交わさずに道具で縛りつけているんです。道具でしたがわせられる個体には条件があって、人の言葉を話せるような魔力の高い魔獣には効きませんけど……」
レジィがクロアの顔色を見ながら説明する。言葉を選んでいるようだ。クロアはレジィの反応の意味がわからない。
「どうしたの? 知ってることは全部教えてちょうだい」
「はい、でも……あたしは仕官したときに『基礎知識だから』と学官に教えてもらったんです。クロアさまもたぶん……」
レジィは言葉尻をにごす。百官が知り得ることを主君が知らない、無知だとはっきり言う度胸がないのだ。クロアは自信満々に「わすれたわ!」と断言する。
「道具で服従させるのはわたしの好みじゃないの。だいたい呼び出せないんじゃ不便よ」
「それが……呼べるんですよ。飛馬の装身具と対になる道具を持っていれば、だれでも招術が使えるんです」
「対になる道具って?」
「一般的には指輪ですね。飛馬に騎乗するまえに厩舎の人がくれませんか?」
「いつもダムトが飛馬を操るから、よくわからないわ」
「いつも相乗りしてるんですか?」
レジィが顔を赤くした。クロアはまたも少女の意図がわからない。
「むかしからそうしてたわ。これは変?」
「いえ、変じゃないです。だって、ひとりで乗ってて落馬したら危ないですもんね」
「そうでしょう。みんな過保護なのよ、わたしひとりになにかをさせたら事件が起きると思っているんだもの。だから二人も専属の付き人をはべらすことになってるの。妹たちにはいないのにね」
クロアたちの体が前後に揺らぐ。車窓から見える景色は止まっている。馬車が目的地に到着したらしい。クロアはベニトラを抱えた。みずから戸を開ける。すると御者台から降りたエメリが笑っている。
「相変わらず気がお早いですね。貴人は御者が戸を開けるのを待つものですよ」
「あら、よその貴族は非力すぎて馬車の戸も開けられないのね」
クロアの冗談を受け、またもエメリは笑う。クロアはエメリに馬車の見張りを任せ、目当ての店へ入った。
大通りに面した建物は商いをする店舗が多い。いろんな人が店へ出入りしている。その中に戦えそうな者はいないか、とクロアは捜した。クロアの膝にのったベニトラも窓のふちに前足を置いて、同じ景色を見ていた。
「あのう、クロアさまはロレンツ公と仲がいいんですか?」
レジィが突拍子なく聞いてくる。クロアは視線を変えずに「知り合いではあるわ」と答えた。
「ロレンツ公にお声をかけて、討伐に協力してもらうのはどうです?」
「人が集まらなかったらそうするわ。でも最初からよその戦力をあてにしてはダメね」
「どうしてですか?」
「いつも援軍を頼んでいたら、そのうちほかの領主や国の者にあなどられてしまう。自衛力のない町だとか、兵をまともに統率できない無力な領主と……そんなの言われたら、わたしがくやしくってたまらないわ」
現段階でもアンペレを低く見る風評は存在する。アンペレから見て西隣りの国では、その土地の戦士がアンペレの兵士になるのを恥とする噂があるのだ。この町は財政に余裕があり、兵士の給与が相場より良いらしい。その金目当てにアンペレに仕える戦士は卑しいやつ、などと思う人がいるのだとか。やたらと誇り高い戦士の多い国ではクロアに理解しがたい常識がまかり通っている。ただ実際問題、アンペレで武官になっても箔が付かないのはたしかだ。この国で名誉ある兵士といえば聖王のおわす聖都の武官である。そちらに有能な人材は流れていく。
クロアは視線をやや下に落とした。クロアが頼りとする朱色の仲間が、無邪気に景色を眺めている。
「せっかく飛獣を見つけたんだもの。わたしはひとりででも戦う気よ」
「クノードさまがイヤがっていらしても?」
「お父さまに心配をかけるのは、気が引けるけど……」
父に従順であること以上にクロアが大切にしたいものがあった。
「憧れなのよ、悪党を倒す英雄って」
「きっかけはエミディオ王の英雄譚ですね?」
エミディオ王とは聖王国の東隣りに位置する国の先王だ。その国は武道第一の国風こそないが、彼は武断の王だった。数々の反乱をみずからの手腕で鎮圧したという。その雄々しい活躍の影には失ったものも多く、先王の生き様はしばしば演芸の場で再現がなされる。クロアは脚本家の脚色が混じった人物像に親しんでおり、この王のことはいたく気に入っている。
「ええ、そう。『あの方のような立派な人になるんだ』って小さいときはよく思ったもの」
レジィは笑って「変わっていますね」と不躾な感想を述べる。
「エミディオ王はかっこいい人ですけど、女の子は普通『ああなりたい』とは思いませんよ。『ああいう男性のお嫁さんになりたい』と思うんです」
「いいじゃない、わたしは普通じゃないんだもの」
クロアは自分の腕を見た。衣服で覆うと筋肉が発達していることなぞわからなくなる程度の太さだ。しかしこの腕は常人の臂力の何倍もの力を出せる。
「この腕力を活かさない手はないわ」
「はい、きっと……神さまはアンペレのためにクロアさまを遣わしたんだと思います」
戦士が集まらない土地に、武勇にすぐれた公女が誕生する──その天の采配は的確だ。
「どうせなら男に生まれさせてくれたらよかったのだけどね」
「クロアさまが男だったらたぶん、バリバリに戦いすぎて早死しちゃいますよ。剣王国の第一王子がそんな危険のある人らしいですよ」
聖王国の西隣りは尚武の国。それゆえ王族も勇猛果敢な戦士に育つ。特に現王の長男は無鉄砲なきらいがある。住民を脅かす存在を討伐する際にはまっさきに名乗り出て、大怪我をして帰還する──と、いうふうに聖王国内では話題にのぼる。その向こう見ずな性格はクロアと性情が通じるのではないか、とも言われる。
「あの王子はわたしと似たような方らしいけれど、一番のちがいは腕の良い療術士がそばにいるかどうかよね」
クロアが同意を求めてレジィを見る。彼女は照れて「そ〜ですかね」と否定はしなかった。クロアはふふっと笑う。そしてふとした謎が頭をよぎる。
「あちらの国では療術を扱える人が極端にすくないんでしょう? この国だと騎士でも当たり前のように使うのに、ちょっと信じがたいわ」
「剣王国はお国柄、気性の荒い人が多いらしいですから……療術は思いやりのある人でないと習得がむずかしいそうです。もちろん、生まれつきの素質も重要なんですけど」
「血筋の影響が強いのかしらね。カスバンなんか心優しさのカケラもなさそうだけど、療術はちゃんと使えるんでしょ」
「えっと、どうなんでしょう……あ、そうそう」
レジィは答えづらい話題を転換し、自身の招獣を呼び出した。首輪を巻いた獣が現れる。薄黄色の鼬(いたち)だ。胴が細長く、一本の襟巻きのようでもある。
「これから招獣の首輪を買うんでしたよね」
鼬はレジィに胴体を持たれる。その状態でクロアのそばにいる猫を見つめた。
「マルくんは変身しないですけど、いちおうは伸縮自在の首輪をつけてるんです。いつかは変身できるくらいに強くなるかも、と思って」
「ふーん、見た目は普通の首輪なのね」
鼬の首元には一粒の宝石が光っていた。クロアは飛馬の馬装を思い出す。
「うちの飛馬も宝石のついた飾りを着けた気がするわ。同じ種類なの?」
「ええと、用途がちがうんです。お屋敷の飛馬はみんなが使える招獣ですよね。それは盟約を交わさずに道具で縛りつけているんです。道具でしたがわせられる個体には条件があって、人の言葉を話せるような魔力の高い魔獣には効きませんけど……」
レジィがクロアの顔色を見ながら説明する。言葉を選んでいるようだ。クロアはレジィの反応の意味がわからない。
「どうしたの? 知ってることは全部教えてちょうだい」
「はい、でも……あたしは仕官したときに『基礎知識だから』と学官に教えてもらったんです。クロアさまもたぶん……」
レジィは言葉尻をにごす。百官が知り得ることを主君が知らない、無知だとはっきり言う度胸がないのだ。クロアは自信満々に「わすれたわ!」と断言する。
「道具で服従させるのはわたしの好みじゃないの。だいたい呼び出せないんじゃ不便よ」
「それが……呼べるんですよ。飛馬の装身具と対になる道具を持っていれば、だれでも招術が使えるんです」
「対になる道具って?」
「一般的には指輪ですね。飛馬に騎乗するまえに厩舎の人がくれませんか?」
「いつもダムトが飛馬を操るから、よくわからないわ」
「いつも相乗りしてるんですか?」
レジィが顔を赤くした。クロアはまたも少女の意図がわからない。
「むかしからそうしてたわ。これは変?」
「いえ、変じゃないです。だって、ひとりで乗ってて落馬したら危ないですもんね」
「そうでしょう。みんな過保護なのよ、わたしひとりになにかをさせたら事件が起きると思っているんだもの。だから二人も専属の付き人をはべらすことになってるの。妹たちにはいないのにね」
クロアたちの体が前後に揺らぐ。車窓から見える景色は止まっている。馬車が目的地に到着したらしい。クロアはベニトラを抱えた。みずから戸を開ける。すると御者台から降りたエメリが笑っている。
「相変わらず気がお早いですね。貴人は御者が戸を開けるのを待つものですよ」
「あら、よその貴族は非力すぎて馬車の戸も開けられないのね」
クロアの冗談を受け、またもエメリは笑う。クロアはエメリに馬車の見張りを任せ、目当ての店へ入った。
タグ:クロア
2019年01月30日
クロア篇−3章1
クロアはベニトラをぬいぐるみのように抱きかかえ、招獣の専門店へ入った。店内の戸棚に装飾品や薬などの商品が陳列してある。だが生物の姿は見えない。クロアは招獣の店には招獣もいるものだと想像していた。
「招獣は取りあつかっていないのね」
「あ、売り子さんの後ろにいますよ」
鼬を肩に乗せたレジィが勘定台の奥を指差した。勘定台では帳面になにかを書き付けるヒゲの中年男性がいる。その背後には檻に入った猫や鳥などが並んでいた。
「飛馬はいないのかしら。そういう飛獣は人気があるはずでしょ」
中年の男性が手を止めた。無愛想に「飛獣が御入り用で?」と聞いてくる。クロアは見ず知らずの他人用の、丁寧な対応に切り替える。
「いえ、いるかどうか気になるのですわ」
「店の後ろにいますよ。買ってくれる客には見せますがね」
「そうでしたの。では遠慮しますわ」
疑問を解決したクロアは商品の見物をはじめる。ここはこれまで訪れる機会のなかった店だ。好奇心を大いに刺激された。購入予定になかった物品にも注目し、手にとる。
「術を使用する招獣向けの精気回復薬……こんなものもあるのね」
瓶詰の丸薬から普通の焼き菓子にしか見えぬものまで、種類はさまざまだ。
「ベニーくんに要りますかね?」
ベニーとはベニトラの愛称だ。ベニトラの名はこの地域では馴染みの薄い音ゆえに、呼びやすい名前をレジィが付けた。ベニトラ自身に了解をとっていないが、別段不服はないようだ。本名と愛称のどちらで呼んでも、ベニトラは尻尾を揺らした。クロアがベニトラに「どう?」と聞くと、垂れていた尻尾が上がる。
「余財はあるのか?」
「ちゃんとあるわ」
「ならばひととおり食してみたい」
「ええ、よくてよ」
突然、店内で騒がしい音が鳴った。勘定台の店員が椅子を倒したらしい。椅子から立ち上がった店員はベニトラを凝視する。
「そ、の赤毛の猫……話せるんですかい?」
「そうですけど、そんなに驚くことですの?」
「いや、その……町を荒らしてた魔獣も、同じ毛色でしたね?」
「同じ子ですわ」
店員はおびえ、勘定台の後方へ倒れた。クロアたちはすぐさま勘定台に寄りかかり、店員の容態を確かめる。痛がる店員のそばに椅子が転がっていた。倒した椅子に足が引っ掛かったようだ。
「あのう、おケガはありませんか?」
レジィの声は店員に届いていなかった。彼は勘定台に座る朱色の猫に一点集中する。ベニトラは悠長に自身の胸をなめていた。
「ひ、人喰いの魔獣!」
「人喰い? 死者は出なかったと聞きましたけれど」
クロアはレジィと顔を見合わせた。二人とも、魔獣の被害に遭った現場には立ちあっていない。そのため実際の状況は把握していなかった。レジィは「治療にあたった医官によると……」と伝聞を思い出す。
「お腹を噛まれたまま振り回された人がいたらしいです。そのことを『人喰い』と言ってるんでしょうか?」
「それだけじゃない!」
男性店員が怯えたまま凄む。
「首を噛まれたり土手っ腹に爪が刺さったり、悲惨だった! そんなむごいことをしでかした魔獣を、よく連れて歩けるな!」
店員が剣突くをくらわせてくるが、クロアは冷静に首を横にふる。
「あれはこの子の意思でやったことじゃありませんわ」
「信じられんな。そいつは『人間が憎い』と言っていたそうじゃないか」
クロアの予期しない情報だ。「本当?」と不幸な加害者に問う。問われた獣は毛づくろいを止めた。こっくりうなずく。肯定の態度だと見たクロアは考えうる理由を挙げる。
「赤い石のせいで混乱して、そうしゃべったのでしょう?」
「いかにも。あの男への憤怒が転換されたとおぼしい」
店員は恐怖心が残る顔のまま、居住まいを正した。椅子に腰を下ろすが、その位置は勘定台から人一人分の距離がある。その距離が双方の心の遠さを意味した。
クロアはベニトラが脅威のない獣だと知らしめるため、その頭をぐりぐりなでる。
「わたくし、昨晩はこの子と一緒に寝ましたのよ」
就寝中のクロアは寝相でベニトラを苦しめた。それでもこの獣は寝台のすみで大人しくしていた。その我慢強さはベニトラに他者への思いやりがあることの証になる。
「一夜明かしてみて、無事に起きられましたもの。この子は自分から人を傷つけるような魔獣じゃありませんわ」
店員がしげしげとクロアの風貌に注目する。
「……あなたは公女様なのか? お付きの護衛と二人で魔獣を討ったっていう……」
「あら、いまお気づきになったの」
クロアは多くの住民が公女の姿を目にしたことがないとは知っていた。だが風貌の伝聞自体は広まっているものだと思っていた。
「わたくしの特徴をご存知なかったのね」
「いや、ま、特徴といえばいろいろ聞いていましたけど……想像とはちがったな、と」
「どんな特徴をお聞きになっていらしたの?」
クロアは自分の容姿が珍しいほうだと考えている。男性並みに身長があり、赤銅色の長い髪と、色香は母に劣れども肉感的な身体を持つ。加えるなら貴人らしい品格もあるだろう。これらを合わせもつ女性はありふれていないはずだ。
店員はクロアから目線を逸らした。あごのヒゲをいじって、なにかを考えている。
「その……髪の色が濃い赤だったり……」
「そういう人はわたくし以外にもいらっしゃるでしょうね。ほかには?」
「体が……」
「大きいでしょう?」
「熊みたいに大きくて粗暴だとか……」
熊を人にたとえる場合は通常、男性を指す。それも乱暴で荒々しい人に、だ。クロアは自己認識との乖離に憤慨する。
「なんてこと、わたしが粗雑な乱暴者ですって?」
店員は首を横にふるって「噂です、うわさ」と自分の発言に非がないことを強調した。無論クロアも目の前の男性を害するつもりはない。ただ自分が上品な立ち居振る舞いを心がけているのに、そうではない人と同じ見方をされたことに腹が立った。
ふぎゃっ、という鳴き声がクロアの手元から聞こえた。なでていたベニトラをうっかり手で押しつぶしたのだ。猫は腹ばいになっている。自由が利く尻尾でクロアの腕を叩いた。その尻尾攻撃に痛みは感じない。ただの抗議の態度だ。
「ごめんなさいね、つい力が入ってしまいましたわ」
クロアは猫の後頭部から尻までの毛先に手をすべらせた。その動作を何度かすると、ふさふさな尻尾の角度が下がる。尻尾は台の上を掃除するかのごとくうごいた。
店員がずずっと椅子を引きずり、接近する。
「……こうして見ると、大人しい猫みたいだな」
ベニトラの温柔さを店員が認める。彼は後方の売り物らしき黒猫や白猫を指して「あいつらのほうがよっぽど気性が荒かった」とつぶやく。
「で、公女様がうちになんのご用で?」
店員の顔にいくらか笑みが浮かんだ。クロアはさっそく本題に入る。
「この子に合う首輪をひとつ売っていただきたいのです。体型に合わせて伸縮する種類があると聞きましたわ」
「ああ、それなら……」
店員が勘定台の横に設置した自在扉を開けた。売り場へ出てくる。ベニトラに背を向けながら商品を紹介している。その姿には警戒心がなかった。
「招獣は取りあつかっていないのね」
「あ、売り子さんの後ろにいますよ」
鼬を肩に乗せたレジィが勘定台の奥を指差した。勘定台では帳面になにかを書き付けるヒゲの中年男性がいる。その背後には檻に入った猫や鳥などが並んでいた。
「飛馬はいないのかしら。そういう飛獣は人気があるはずでしょ」
中年の男性が手を止めた。無愛想に「飛獣が御入り用で?」と聞いてくる。クロアは見ず知らずの他人用の、丁寧な対応に切り替える。
「いえ、いるかどうか気になるのですわ」
「店の後ろにいますよ。買ってくれる客には見せますがね」
「そうでしたの。では遠慮しますわ」
疑問を解決したクロアは商品の見物をはじめる。ここはこれまで訪れる機会のなかった店だ。好奇心を大いに刺激された。購入予定になかった物品にも注目し、手にとる。
「術を使用する招獣向けの精気回復薬……こんなものもあるのね」
瓶詰の丸薬から普通の焼き菓子にしか見えぬものまで、種類はさまざまだ。
「ベニーくんに要りますかね?」
ベニーとはベニトラの愛称だ。ベニトラの名はこの地域では馴染みの薄い音ゆえに、呼びやすい名前をレジィが付けた。ベニトラ自身に了解をとっていないが、別段不服はないようだ。本名と愛称のどちらで呼んでも、ベニトラは尻尾を揺らした。クロアがベニトラに「どう?」と聞くと、垂れていた尻尾が上がる。
「余財はあるのか?」
「ちゃんとあるわ」
「ならばひととおり食してみたい」
「ええ、よくてよ」
突然、店内で騒がしい音が鳴った。勘定台の店員が椅子を倒したらしい。椅子から立ち上がった店員はベニトラを凝視する。
「そ、の赤毛の猫……話せるんですかい?」
「そうですけど、そんなに驚くことですの?」
「いや、その……町を荒らしてた魔獣も、同じ毛色でしたね?」
「同じ子ですわ」
店員はおびえ、勘定台の後方へ倒れた。クロアたちはすぐさま勘定台に寄りかかり、店員の容態を確かめる。痛がる店員のそばに椅子が転がっていた。倒した椅子に足が引っ掛かったようだ。
「あのう、おケガはありませんか?」
レジィの声は店員に届いていなかった。彼は勘定台に座る朱色の猫に一点集中する。ベニトラは悠長に自身の胸をなめていた。
「ひ、人喰いの魔獣!」
「人喰い? 死者は出なかったと聞きましたけれど」
クロアはレジィと顔を見合わせた。二人とも、魔獣の被害に遭った現場には立ちあっていない。そのため実際の状況は把握していなかった。レジィは「治療にあたった医官によると……」と伝聞を思い出す。
「お腹を噛まれたまま振り回された人がいたらしいです。そのことを『人喰い』と言ってるんでしょうか?」
「それだけじゃない!」
男性店員が怯えたまま凄む。
「首を噛まれたり土手っ腹に爪が刺さったり、悲惨だった! そんなむごいことをしでかした魔獣を、よく連れて歩けるな!」
店員が剣突くをくらわせてくるが、クロアは冷静に首を横にふる。
「あれはこの子の意思でやったことじゃありませんわ」
「信じられんな。そいつは『人間が憎い』と言っていたそうじゃないか」
クロアの予期しない情報だ。「本当?」と不幸な加害者に問う。問われた獣は毛づくろいを止めた。こっくりうなずく。肯定の態度だと見たクロアは考えうる理由を挙げる。
「赤い石のせいで混乱して、そうしゃべったのでしょう?」
「いかにも。あの男への憤怒が転換されたとおぼしい」
店員は恐怖心が残る顔のまま、居住まいを正した。椅子に腰を下ろすが、その位置は勘定台から人一人分の距離がある。その距離が双方の心の遠さを意味した。
クロアはベニトラが脅威のない獣だと知らしめるため、その頭をぐりぐりなでる。
「わたくし、昨晩はこの子と一緒に寝ましたのよ」
就寝中のクロアは寝相でベニトラを苦しめた。それでもこの獣は寝台のすみで大人しくしていた。その我慢強さはベニトラに他者への思いやりがあることの証になる。
「一夜明かしてみて、無事に起きられましたもの。この子は自分から人を傷つけるような魔獣じゃありませんわ」
店員がしげしげとクロアの風貌に注目する。
「……あなたは公女様なのか? お付きの護衛と二人で魔獣を討ったっていう……」
「あら、いまお気づきになったの」
クロアは多くの住民が公女の姿を目にしたことがないとは知っていた。だが風貌の伝聞自体は広まっているものだと思っていた。
「わたくしの特徴をご存知なかったのね」
「いや、ま、特徴といえばいろいろ聞いていましたけど……想像とはちがったな、と」
「どんな特徴をお聞きになっていらしたの?」
クロアは自分の容姿が珍しいほうだと考えている。男性並みに身長があり、赤銅色の長い髪と、色香は母に劣れども肉感的な身体を持つ。加えるなら貴人らしい品格もあるだろう。これらを合わせもつ女性はありふれていないはずだ。
店員はクロアから目線を逸らした。あごのヒゲをいじって、なにかを考えている。
「その……髪の色が濃い赤だったり……」
「そういう人はわたくし以外にもいらっしゃるでしょうね。ほかには?」
「体が……」
「大きいでしょう?」
「熊みたいに大きくて粗暴だとか……」
熊を人にたとえる場合は通常、男性を指す。それも乱暴で荒々しい人に、だ。クロアは自己認識との乖離に憤慨する。
「なんてこと、わたしが粗雑な乱暴者ですって?」
店員は首を横にふるって「噂です、うわさ」と自分の発言に非がないことを強調した。無論クロアも目の前の男性を害するつもりはない。ただ自分が上品な立ち居振る舞いを心がけているのに、そうではない人と同じ見方をされたことに腹が立った。
ふぎゃっ、という鳴き声がクロアの手元から聞こえた。なでていたベニトラをうっかり手で押しつぶしたのだ。猫は腹ばいになっている。自由が利く尻尾でクロアの腕を叩いた。その尻尾攻撃に痛みは感じない。ただの抗議の態度だ。
「ごめんなさいね、つい力が入ってしまいましたわ」
クロアは猫の後頭部から尻までの毛先に手をすべらせた。その動作を何度かすると、ふさふさな尻尾の角度が下がる。尻尾は台の上を掃除するかのごとくうごいた。
店員がずずっと椅子を引きずり、接近する。
「……こうして見ると、大人しい猫みたいだな」
ベニトラの温柔さを店員が認める。彼は後方の売り物らしき黒猫や白猫を指して「あいつらのほうがよっぽど気性が荒かった」とつぶやく。
「で、公女様がうちになんのご用で?」
店員の顔にいくらか笑みが浮かんだ。クロアはさっそく本題に入る。
「この子に合う首輪をひとつ売っていただきたいのです。体型に合わせて伸縮する種類があると聞きましたわ」
「ああ、それなら……」
店員が勘定台の横に設置した自在扉を開けた。売り場へ出てくる。ベニトラに背を向けながら商品を紹介している。その姿には警戒心がなかった。
タグ:クロア