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2018年12月12日
習一篇草稿−4章
1
正午を過ぎたころ、習一たちは動物を見終えた。近くの公園に行くと手ごろな木陰に銀髪の少女が待機していた。二メートル四方の敷物の上にバスケットと水筒、そして彼女が常用するリュックサックがある。習一たちは膝を抱えて座る少女に合流した。
「今日のお昼ごはん、手作りのサンドイッチだよ」
バスケットの蓋を開けると、中はラップにくるんだサンドイッチがすし詰め状態になっていた。エリーは水筒のコップに飲み物を注ぎ、習一に渡す。
「これ、ふつうのお茶。ぜんぶシューイチのものだから、好きなだけのんでね」
習一はぐいっと茶を飲み干した。冷たい液体がさらさらと胃へ落ちるのを感じる。習一は入園以降、水を口にしておらず喉はカラカラになっていた。だがのどをうるおす機会は何度もあった。教師が自動販売機の前を通過する際に「なにか飲みますか」と尋ねたが、習一はかたくなに拒否した。熱気で汗を流す習一とは違って、教師は常に涼しげな顔をする。相手が飲料を欲さぬうちに習一が彼の厚意に屈するのは、なんだか悔しい気がした。
習一が二杯目の冷茶をコップに入れる。水筒を動かすたびに氷の粒同士がぶつかった。
「そんなに喉が渇いていましたか」
その声には渇きを自己申告しなかった者への非難はない。他者へのいたわりが欠けていたという自責の念が微量に含んでいた。習一はコップ越しの冷気を手に感じながら「あんたが気にすることじゃない」とぶっきらぼうに告げた。教師は頭を横にふる。
「脱水症状や熱中症で倒れてからでは遅いのです。私とエリーは暑さ寒さに鈍いので、私どもに合わせていては貴方の体がもちませんよ」
「寒いのも平気だと? おまえら、どういう土地で育ったんだ」
色黒な者が多い熱帯地方出身ならば日本の猛暑に耐えうるかもしれない。だが彼らは概して寒冷な気候に不慣れだ。寒暑両方を苦手とする人間はいても、逆は通常いない。
「出身地……涼しい土地だったと思います。長袖で過ごす人が多かったようですから」
「他人基準でしか判断できねえのか?」
「そうですね。おおまかに温度は感じられるのですけど、それが人体にどれほどの影響を与えるかを知るには、他者の様子を参考にしています」
「変なの……機械が自動判別する時にやりそうな方法だな」
習一は空けたコップを敷物の上に置き、手つかずのサンドイッチを手にした。前回食べたサンドイッチは白いパンだったが、今回は茶色の焦げ目がついている。
「今日は時間によゆうがあったからトーストしたの。前よりおいしくなってる、のかな」
エリーはリュックサックの中を探ってタンブラーを二つ出した。
「これはわたしたちのごはんね」
一つを教師に手渡した。タンブラーの容量は目測五百ミリリットル。それだけで大の男の腹が満たせるとは思えない。
「サンドイッチも食うんだろ?」
習一が教師に尋ね、「いくつかはもらいます」と返答があった。しかし銀髪の彼らがバスケットに手を伸ばすことはなく、飲料を飲むだけだ。
「この少食ぶりで、よくそんな図体になれたな」
「体型と食事にも少々事情がありまして。後日お教えします」
今は話せないというお決まりの文句だ。習一は軽く流した。話題変えなのかエリーが動物園を見物した感想を習一に聞くので「真夏に動物園に来るもんじゃない」と答えた。
「シューイチ、暑くてつらかったの?」
「オレはまだ平気だ。動物がどいつもこいつも、だらけていやがった」
暑さにやられ、猛獣の長たるライオンや虎までもが地べたをごろついた。その様子には威厳が欠片もない。想像にたがわぬ生活を保ったのは元々の動きが緩慢なゾウやプールがあるペンギンなどに限定され、それ以外の動物は気だるそうだった。本日は曇天であり、比較的気温が低いため過ごしやすいのだが、毛皮をまとった動物には些細な差のようだ。
「元気な動物を見るには適さない時期だったのかもしれませんね」
教師は習一に同調した。
「私はのんびりした彼らを見るのも楽しめましたが、貴方は物足りませんでしたか」
「さあ……動物園はあんまり来ないところだからな。退屈はしてない」
習一は次々に用済みのラップを丸めて自身の足元に並べた。サンドイッチの具材は前より種類が豊富になり、あぶった鶏肉を小さく切ったタイプが一番美味だった。その評価をぽろっと口に出すとエリーが「やっぱりミスミは料理上手なんだ」と言う。
「ミスミ、てのはだれだ?」
「シドがシューイチのごはんのたよりにしてる人。もう一人、てつだってくれてる人がいるんだけどね。そうそう、明日から三日間の夕飯もミスミがつくってくれるって」
少女の説明を教師が引きつぎ、学校の補習を終えた夕方はオヤマダという家へ訪問して夕食をとると言った。朝昼の食事もオヤマダ家の者が用意するのだと教師は述べる。
「オダギリさんの口に合った家庭料理のようですし、問題はないと思います」
「その家の連中はあんたの教え子の父兄……なんだろ。教師が個人的に自宅訪問していいのか?」
「校長の許可が下りていますから公認です」
「オレのことを、才穎の校長に?」
「はい。校長もオヤマダさんたちも、貴方への支援には協力的です」
「物好きがいるもんだな。補習が終わった後は……オレとそいつらの縁は切れるのか?」
「どうでしょうね。状況に合わせて、また食事の用意を頼むかもしれません。補習を終えて片が付くことは学校の事情だけです。家庭のほうは手つかずですから」
言いにくいことをぽんぽん言うやつだ、という思いを習一は胸の内にとどめた。一番の問題は満足に食事もできない家庭環境にある。
「私は一度に複数のことをこなせません。家のことは補習を終えたあとで考えましょう」
「考えたって無駄だ。あの頑固オヤジをどうこうできるわけがない」
「その件は後日に取り組むとして、今日の午後の予定ですが──」
風呂屋に行こう、と教師は言い出した。その計画自体は昨日提案されていたものだが。
「こんな真っ昼間にか?」
「食事処や休憩所があるリラクゼーション施設です。そこで夜までゆったりしようかと思います。着替えは服屋でそろえましょう」
またも習一と縁遠い場所へ行くことになった。冷房のある室内で長時間過ごす分には体の負担は少ない。習一は教師の計画に乗った。
2
習一が残した昼食は銀髪の二人がたいらげた。水筒やバスケットはエリーが回収して去る。彼女は風呂屋には同行しないという。しかし、教師の着替えを後で届けるそうだ。
「あいつを使いっぱにしてていいのか? オレだったらいい加減、うんざりするぞ」
「エリーは嫌なことを嫌だと言える子ですよ。それと貴方が思う以上に彼女は身軽です」
軽業師的な運動能力は習一も認めるところだ。だがその言い方は物を運ぶための行き来が苦にならないことを指す。教師の扱うバイク以上に機敏に動ける乗り物を少女が使うようには見えないのだが。習一はこの疑問をぶつけてみたがはぐらかされた。
習一たちは服を買いに量販店へ行った。適当に安くて無難なデザインの衣類を一ひろいと、タオルを数枚選ぶ。習一は購入時に率直な疑問をぶつけた。
「あんたの着替えも買えば手っ取りばやくすむんじゃないか」
「それも考えましたが、服決めに手間取るおそれがあったのでやめました」
「なんだぁ? 買う服をすぐに決められないのか。案外、女みたいなやつだな」
「女性の迷いは『どの服が自分に似合うか』を選りすぐっての結果でしょう。私は服の良し悪しがわからないのです。ファッションセンスはありませんから」
教師は服に興味がなさすぎて選べない性質らしい。スーツ姿を見るかぎりは持ち前の容姿もあいまって、野暮ったい男性には見えない。習一はこの告白を半信半疑で聞き流した。
購入した衣類は店名のロゴを印刷した袋に店員が入れる。その袋は一時、リアボックスにしまう。そして目的の風呂屋へ向かった。この時の習一は自分が汗臭いと感じたが、前方の教師は洗剤の匂いを放っていた。
(気温がわからなくて服のよしあしもわからん、か……)
飲食も発汗も満足におこなえぬ男。彼はロボットなのではないか、とそんな仮想を思いつく。物語の世界では描かれることだ。人とそっくりな機械が人間社会にまぎれて一騒動を起こす。その行動が人にとって善であったり悪であったり、傾向はまばらだ。善人に扮した悪役のケースもある。この男は真実、どういう人物なのだろうか。
疑おうと思えばいくらでも嫌疑はかけられる。善人を装う悪人は吐き捨てるほどいるだろう。そう仮定すると、教師は習一を懐柔したあとで我欲を満たすなにかを得る。よくある目当ては金銭だろうが、習一の父が息子のために身銭を切るはずはない。そう、教師はなにも得しないのだ。習一を更生させるにせよ謀るにせよ、見返りは皆無。
(バカバカしい……大体、こいつの妹も知り合いの警官もお人好しだろ)
不満一つ言わずに教師に従う少女と、話し相手の毒気をぬく温和な警官。この二人が教師の仲間だ。人物の内面はその交友相手によって見抜けるという。全員が詐欺師ならば例外だが、習一と同年の少女に高度な腹芸はできないだろう。習一は疑心暗鬼を頓挫した。
到着した風呂屋はあまり大きいという印象のない建物だ。和風の建築物の中は小奇麗な宿泊所のようでもあった。二人は脱いだ靴を下足箱に入れる。教師が受付の店員に話しかけ、財布から紙切れを出した。それは紙幣ではなくこの店の回数券だ。
「ここによく来るのか?」
「いえ、初めてです。回数券は譲ってもらいました」
教師は提供者には言及しなかった。習一はその人物をなんとなく、自分に食事を用意してくれる人たちだと思った。二人は空気の冷えた店内を進む。手ぶらの教師は「エリーを待ちます」と別行動をし、習一は一人で男湯ののれんをくぐった。脱衣場のロッカーに荷物を置く。新品の衣類の包装を外し、風呂あがりにすぐ着れる準備をした。脱いだ服は服屋でもらった袋に詰める。教師が「着ていた服は袋に入れて、あとで私にください」と言ってきたのだ。衣類を洗濯して返すという申し出を受けて、習一は口答えせずに従った。
必要かどうかわからないタオルを一枚持って浴場に入る。しかし大多数の利用客が局部を隠さずに奔放にしていた。風呂屋側のルールでは「タオルを湯船につけないでください」とあったので、タオルを持ち込まないほうが望ましいのかもしれない。
習一はまず全身にシャワーを浴びた。備え付けの液体石けんで体を洗い、汚れが落ちたあとで湯船を選ぶ。内湯には人が多くいたので露天へ行き、無人の壺湯に入った。巨大な壺の中に入る経験はついぞない。人体が沈むごとにあふれ出る湯をじっと見ながら、肩までつかった。湯に入れられないタオルは頭に乗せる。規則を破っても今さら習一は気にしないが、現在は生真面目な保護者がいる。穏便に過ごせるよう心掛けた。今の己の格好がよくある入浴者のスタイルと同じになったことに、しばらく経ったあとで気付いた。
絶え間なく湯を注ぐ竹筒を眺めた。時間の流れが遅くなったかのような現実離れした空間にいる。のぼせてきた気がすると浴槽をあがった。次に底の浅い風呂へ入り、高所より落ちる湯を肩に当てる。まだ明るい空を見つつ、体の熱がゆるく下がるのを待った。
近くの露天風呂からじゃぶんと音が鳴る。誰か入浴したと思った習一が見てみると例の教師だった。彼も頭にタオルを置いていた。外国人風の者には稀有な姿である。サングラスはかけておらず、青い目が露出する。西洋人の特色らしき瞳の色だ。習一はなぜか体がすくんだ。
「風呂を利用されているようでなによりです」
異人が視線を逸らした。習一への関心はとぼしい。浴場では習一と行動を共にしないようだ。習一もこの状況下で他人が付きっきりにいられては気色が悪い。教師の心中を推し量り、習一は屋内の風呂へ向かった。内湯は茶色の湯が張られ、薬湯のおもむきがある。客入りの良さからうかがうに、体によい成分があるのだろう。習一は健康をおもんばかって人々の隙間にもぐりこんだ。湯から微妙な鉄の匂いを感じる。あまりいい香りではないな、と思い、長居をせずに上がった。シャワーを浴びて風呂の湯を流し、脱衣場に行く。新品の乾いたタオルで体を拭いた。下半身だけ服を着て扇風機の風に当たる。湯上りに出る汗がおさまった頃にシャツを着た。そのまま脱衣場を出ようとした時、呼び止められる。
「オダギリさん、髪がぬれていますよ」
習一が振りむくとそこに半裸の教師がいた。首にタオルをかけた状態だった。
「ほっときゃ乾くだろ」
「衛生的に良くありません。ドライヤーを使いましょう」
習一が教師の提言を無視してのれんに手をかけた。その手首を浅黒い手がつかむ。
「ものの数分で終わります。ついてきてください」
教師の連行を食らい、習一は洗面台の前に座った。壁に設置した大きな鏡が後方の教師の所作を映す。彼はドライヤーの機械音を鳴らし、生ぬるい風を習一の髪に当てる。風に煽られて動くのは脱色した髪の部分。黒い根元は染髪した部分と明確に色が分かれていた。
「髪が伸びていますね。風呂屋を早めに出て、散髪しに行きますか?」
「今日はもういい。疲れた」
「わかりました。せっかくですし、今日はここでゆっくりしていきましょう」
鏡ごしに見える教師の顔は穏やかだ。彼はどんな思いで縁もゆかりもない子どもの世話をするのだろう。習一は黙って人工的な風を頭部に受け続けた。
3
学校の補習を受ける日になった。今日も銀髪の教師は習一に同行する。制服に着替えた習一が玄関を出てすぐに銀色の頭髪を発見した。今日の彼は薄黄色のネクタイを首に巻き、銀色のタイピンでシャツに留めている。そのタイピンには三粒のカラーストーンがはめてあった。一般的に見ないデザインだ。オーダーメイド製の品だろうか。
「オダギリさん、おはようございます。これから三日間の補習、私が同伴します」
決定事項を復唱された。習一はうなずく。昨日一昨日と教師と共に過ごした経験上、特筆すべき彼への不満は抱かなかった。この後の数日も似たようなものだと楽観視した。
補習の開始時刻より早く教室へ入る。無人の一室で、習一は教師に手渡された朝食を口にした。朝食は昼食の弁当と一緒にトートバッグに入っていた。昨日の朝食と同じメニューだが、それで充分である。おにぎりは毎日食べても飽きないし、なにより味付けがうまかった。料理下手な習一の母親ではこの品質を毎日保てまい、と胸の内で比較した。
習一に同行する教師は来客用の玄関を通って補習の会場へ来た。学校の備品のスリッパをペタペタ言わせて歩く様子は少し不恰好だ。しかし彼がスリッパの音や形状に不満を募らせる素振りはない。ただ一言「歩きづらいですね」とスリッパを履いた足を上げてみせる。底の長さが足りず、かかとがはみ出ていた。
廊下がガヤガヤと人の話し声や靴音でにぎやかになる。生徒が登校しているのだ。この高校は進学校なだけあって夏休みも一定の期間、授業を行なう。単位や成績には関係しない、気楽な内容だ。しかし休みを返上しての学習には意欲が削がれる者がおり、名門への進学を考えない者は途中で抜けることもあるようだった。
習一のいる教室に生徒が二人入室する。親しげな男女は習一と他校の教師を一目見て表情を凍らせた。当然の反応だ。校内一の不良と見知らぬ男性が同室者なのだ。習一はそっぽを向き、男女に対して無関心でいた。銀髪の教師は男女に軽く挨拶をする。
「私はオダギリさんのお目付け役です。私たちのことはお気になさらず、補習を受けてくださいね」
教師は親切極まりない声色で、おびえ気味の生徒をなだめた。彼らはとなり合った席に着く。女子のほうはちらちらと習一のいる席に視線をやったが、習一は無視を決めこんだ。
室外の喧騒が落ちつき、補習を行なう教師がやって来る。習一とは気の合う社会科担当の掛尾だ。色黒の教師が中年に一礼する。
「カケオ先生、今日から三日間の補習をよろしくお願いします」
「それじゃまるでシド先生が補習を受ける生徒みたいじゃないか。まあ、先生のことは他の教師にも言ってある。フツーにしててくれればいい」
掛尾は続いて補習と課題の説明をした。補習は掛尾以外の教師も担当する。課題は今週中に掛尾に提出する。赤点のない科目の補習は受けなくてよい──三つめの説明は習一以外の生徒に向けた言葉だ。期末試験を受けなかった習一は全日補習を受けねばならない。
補習がはじまると掛尾はプリントの問題文に補足したり、空欄の答えを生徒に質問したりする。習一は事もなげに答えるが、男女はしどろもどろに誤答を発していた。
二時限分の授業を終えると掛尾は退室した。次に来た教師は習一の担任だ。年かさは四十近い三十歳代だというが精神的な年齢は銀髪の教師より低い。相手は無表情を繕いつつも、棘のある視線を習一と銀髪の教師に投げる。習一は極力担任の顔を見ないようにした。
担任は一時間だけ教鞭をとり、昼までの残り一時間は別の教師がおこなった。科目内容は同じである。掛尾のように二時間続きでやればいいものを半分を他人に任せた。好意的に見れば他の授業の都合で抜けたのだろうが、落ちこぼれの面倒を看たくないというのが習一の見立てだった。
昼休憩の時間になり、習一は弁当を机の上に出した。さりげなく銀髪の男を見ると彼はノートに何か書き付けている。その文字列は黒板に書かれた文言と解説者の余談だった。
「あんたが、なんで生徒の真似事をする?」
「せっかくですから復習させてもらいました。生徒の立場になるのは希少な体験です」
ひとたび教員免許を取ってしまえば高校レベルの学習は不要ではないか、と習一は思った。この勤勉な教師に「変人だな」と感想をもらす。
「こんなもん、あんたにゃいらねえ知識だろ」
「なにごとも学んで無駄になるものはありませんよ」
もっともらしいことを教師は言う。習一は聞き流して昼食に手をかけた。その時、がらがらと教室の戸を開く。開けた者は同じクラスの男子生徒だ。白壁という、成績優良児ではないが赤点を取るほど学が無いわけでもない男だ。
「おお、ちゃんといるんだな!」
そこそこに体格の良い男子が鞄を提げて入室する。彼は習一の隣席に鞄を置き、サングラスをかけた男に握手を求める。
「おれは白壁といいます。あなたがシド先生ですね。お噂はかねがね聞いています」
教師は戸惑いながらも白壁の手を握った。白壁はさらにもう片方の手で教師の手を固く握る。熱のこもった歓迎だ。男子の両手に解放された教師は不思議そうに相手の顔を見た。
「どなたから私のことを聞きましたか?」
「先生が補習に来ることは掛尾先生に聞きました。先生自体は以前から知っています」
白壁は得意気な笑顔で着席する。教師が「才穎の生徒とお知り合いですか」と尋ねるとうなずき、「センタニさんのご友人でしょうか」と言われると目を見開く。
「どうしてあいつとおれが友だちだとわかるんです?」
「お二人に通じるものを感じました。センタニさんも礼儀正しく武芸に長じた生徒です」
「おれが武芸家だとわかるんですか?」
「立ち居振るまいを見ると、ある程度はわかります」
白壁がなにやら感動した様子で「先生は評判通りの人みたいですね!」と嬉々として言った。彼は教師目当てで来たのだと習一は判断し、黙々と弁当を食べる。自然と耳に入ってきた会話をまとめると、白壁には才穎高校に通う古馴染みが最低二人いる。教師が言うセンタニとは別に女子の友人もいて、彼女がシド先生なる英語教師について情報提供していたという。シドという若手教師がいかに強く、優しく、かっこよく、そして底知れぬ怖さを持つかを聞かされたそうだ。「怖い」の部分は習一の興味を惹いた。
「『怖い』っつうのは、どういうところを指してるんだ?」
白壁が意外そうに口ごもる。
「え……それは、小田切さんが一番よく知ってるんじゃないか?」
習一は田淵が知らせた事件のことだと理解した。だが習一自身が女子相手に喧嘩をする事態はめずらしい。白壁の知人女子は別件を述べているのではないかと思った。
「そういや、記憶がところどころ抜けてるんだっけか。忘れてるほうがいいのかもな」
白壁は具体的な教師の怖さを述べない。本人がいる手前、軽々しく言えないのだろう。習一は自身の不良仲間も銀髪の教師に畏怖したことを思い出して、質問は重ねなかった。
4
午後の補習が終わる。習一は用済みの課題プリントを掛尾に提出して校舎を離れた。多くの生徒は午前中に授業を終えて帰宅したが、校舎には部活動に励む生徒がまだ残る。目立つ銀髪の教師への注目を集める前に立ち去りたかった。習一は正門で教師と合流する。
「夕飯にはまだ時間があります。少し時間をつぶしましょうか」
教師は習一に行きたい場所の有無を尋ね、習一はつっけんどんに「ない」と答える。すると教師は予想外な行き先を提案した。
「ゲームセンターに行きましょう。欲しい景品があります」
「あんたが? 本当に?」
「正確には他の方がほしがっている物です。以前に挑戦してみて、全く取れなかったと言っていました。オダギリさんはクレーンゲームが得意ですか?」
「いや……あんまりやらない。ほしいと思うもんがなくってな。観戦ばっかりだ」
「そうですか。得意でしたら貴方に代行してもらおうかと思っていましたが」
「あんなもん、店側がゲットしにくくしてるに決まってる。絶対取ろうなんて思うなよ」
「はい、引き際をわきまえます」
真面目くさった受け答えをする輩がゲームにヒートアップする光景は想像できない。習一は不要な助言を与えたと思った。二人は習一が通い慣れた遊興所にたどり着く。二階建ての施設からもれる音が街路にも伝わっていた。教師は一階にあるプライズコーナーにまっすぐ向かう。その的確な歩行は、ここは彼が初めて訪れた場所ではないことを意味した。
「プレイしたこと、あるのか?」
「こちらの店では一度もありません」
「そのわりには迷いがないな」
「下見は行ないました。景品の形状と取り方の種類を知ると事前の対策が楽になります」
「たかがゲームにも予習かよ」
「女子供に景品を渡さないゲーム相手です。生半可な気持ちで挑めば玉砕必至でしょう」
つまり教師に泣きついた人物は女性か子どもだ。その無念を晴らすことに彼は静かに躍起になっている。つくづく他人のために生きたがる男なのだと習一は呆れた。
景品を押しこめたゲーム機には種々様々なグッズが並ぶ。人気のある漫画およびゲームのキャラクターを模した人形やぬいぐるみのほか、市販の菓子を景品仕様にした大型の菓子などが取得対象だ。教師はクレーンを操作する台に手を置いた。そのゲーム機の景品は長方形の箱だ。箱の中身は忍者らしきデザインの人形。手に鉤爪を装備した覆面男である。
「忍者……? なんの作品のやつだ」
「幕末を舞台にしたアクションゲームだそうです。家庭用ゲームなので、ゲームセンターでは遊べないようですね」
教師は丹念に景品と景品の落下口をいろんな角度から見た。この機種は左手前に大きな穴があり、右側には幅の細くなった穴が設けられ、景品が橋のように穴の上に横倒しで置いてある。プレイヤ―の正面に見える箱の底の幅は右側の穴より大きく、細い穴からは落とせない仕組みだ。二本脚のアームの出入り用に空けた穴らしい。穴と景品の間には小さく切った段ボールが敷かれ、赤字で線と「初期位置」の文字が書いてあった。店が提示する初期位置と現在の景品の位置はずれており、二センチほど左の大穴に近い。
「ここまで運んで、諦めた人がいるのですね。普通にやっても動かせないのでしょう」
教師は小銭を出して投入する。正攻法ではかなわないと宣言した通り、真っ正直にアームで景品をつかむ方法はとらない。箱の端に落下するアームの先端を押し当てたり、アームをわざと景品の上を通りこして左右に開くアームの動きで押し出したりした。だが目に見えての進展はなく、箱が傾いても元通りの位置に戻るか、アームが箱の重量に負けて逆に押し返されていた。雲行きが怪しくなってきたものの、プレイヤーの表情に変化はない。
初期投入から景品獲得のチャンスが残り一回になり、彼は深い息を吐いた。
「……今から見たことは、他の人には黙っていてください」
小声で発した言葉はゲーム機が鳴らす音に半分かき消された。かろうじて聞こえた要求を習一が理解した時、漫然とした意識を正す。教師の最後のプレイは景品を正直につかみに行った。倒れた箱の側面をアームの両端が引っ掛ける。箱が斜めに持ちあがったが力の弱い腕は箱を置いて定位置に戻ろうとする。その時、アームと箱の接触面に黒い影が伸びた。
「え……?」
習一は初め、猫が忍びこんだのかと思った。黒猫が景品の出入口に侵入してゲーム機の中にいると。しかし違った。機体をどの方向から見ても棒状の黒い物体が穴の下から伸びるのみ。生き物の胴体や頭は発見できない。謎の黒いものは役立たずのアームの代わりに箱を支え、落下口まで動かす。カコン、という落下音が響き、教師は目的物を手にした。
「なんとか取れましたね。汚れないうちに届けに行きましょう」
異常などなにもなかったかのように教師は場を離れる。習一は本当の景品の取得者について問い詰めたが、教師は決まり文句の「記憶が戻ったあとで話します」でお茶を濁した。
怪奇現象を目の当たりにして習一は心中穏やかにいられず、教師に詰問を続けるも効果はなかった。ゲームセンターを発ったあと、教師は先ほどの現象をはぐらかすようにゲームに興じた経緯を説明した。教師は忍者の人形を求める人物に会ったことがなく、その人物がほしがるからあげたいと言った依頼主が彼の教え子だという。この教え子こそが習一に食事を用意する一家の娘であり、習一が夕飯に相伴させてもらう家の者だ。
「私は彼女から多大な恩を受けています。少しずつ、恩に報いたいのです」
教師は作り物の忍者の顔を見つめる。習一は意地悪い指摘を一つ思いついた。
「どんな不正をやってでもか?」
教師は顔を上げた。その顔は習一を見ないで、前方を見据える。
「たしかに先程、ズルをしました。褒められた行為ではないと思います」
「あんたを責めはしない。店が根性の悪い設定にしなきゃ、やらずに済んだだろうしな」
教師がいくらか話を聞く姿勢になった、と踏んだ習一は棄却された質問を繰り返した。
「あの時に出てきた黒いやつは何者だ? あとで話すんなら今教えてくれたっていいだろ」
「失くした記憶がもどればわかりますよ。貴方は以前に同じものを見たのですから」
「じゃあ、さっきのやつをもう一度見せてくれ。それで思い出すかもしれん」
「今はできません。別の場所へ移ってしまいました」
「そいつは生き物なのか?」
「ええ、そうです。いずれきちんと教えます。焦らないでください。貴方は他に解決すべき問題を抱えているのですから」
答える気がないなら思わせぶりなものを見せなければいいのにと習一は心の中でこぼした。教師は遊興に慣れた習一の助力を期待したのだろうが結果的に居なくとも同じだった。
5
教師の案内により、習一は小山田と書かれた表札のある一軒家を訪問した。玄関の靴箱の上に花が飾ってある。オレンジやピンク色などの明るい色調の花びらが印象的だ。
「この花、もしかして……病院でもらった……」
「貴方がエリーにあげた花です。少し数と花弁が減りましたが、まだ咲いています」
「オレがもらってから一週間くらい経ってるぞ。この暑さでよく傷まないな」
「こまめに手入れをすると夏場でも長持ちするそうですよ。切り花を延命する道具もあるといいます」
二人が話していると家の者が一人、廊下に現れた。長い黒髪をポニーテールにまとめた、目つきの鋭い少女だ。習一はその顔立ちに既視感を覚えた。教師が少女に会釈する。
「オヤマダさん、お邪魔します」
「はーい、先生もオダさんも遠慮なく入ってね」
眼孔に似合わず、声音は柔らかい感じがした。年齢的に彼女が教師の教え子なのだろう。女子生徒は教師の手中にあるパッケージを見て笑顔になる。
「先生はなんでもできるんだね」
「実力では取れませんでした。最後にあの子に助太刀をしてもらって得たものです」
「そういうのもできるの? 景品が取れ放題になっちゃうね」
吊り目の女子は教師の異能力を容認する。習一は知らない事情を把握しているのだ。
(こいつから聞き出すのもアリ、か?)
口の堅い教師に代わって情報源となりうる相手だ。習一が彼女の長い黒髪をじっと見つめると不意に黒い粒がにゅるっと出現した。目をこらすと粒はすぐに無くなる。
(なんだ? あの教師が呼んだのと同じやつか?)
聞いても教えてくれそうにない異常について、習一は胸に秘めておいた。
銀髪の男は景品の話を続け、ズルはしたくない、と告げて女子の同意を得る。
「お店が立ちいかなくなったらまずいもんね。こういう頼みごとはもうしない」
この生徒も我欲がとぼしい性分らしい。習一の不良仲間の田淵なら、元手が少なく済むほど転売でぼろ儲けできると言って飛びつきそうな話題なのだが。
(育った環境の差かね)
玄関先に活けた切り花への丁重な扱いといい、この家の人々は習一の身近な人間とは異なる気がした。同時に、彼女らと親しい教師は詐欺師とは程遠い人物だと認めた。
三人はふすまを開けた先の和室に入る。冷房の利いた畳の部屋には長方形の木製のちゃぶ台が据えてあった。ちゃぶ台の周りに並べた座布団に習一と教師は座る。案内主は立ったまま、習一から弁当の入ったトートバッグを受け取った。
「冷たいジュースを飲む? それともお茶?」
「冷えた茶がいい」
了解した女子生徒は教師に飲料の希望を聞かなかった。習一は、彼女が教師の好みの飲み物を事前に承知しているから聞く必要がないのだと見做した。
束ね髪の女子は戸を開けっ放しにした隣りの台所へ行った。ほどなくして氷と茶を注いだガラスのコップを持ってくる。茶は一杯のみ。習一はこの対応がしっくりこない。二人の客のうち、片方のみをもてなす行為は非常識だ。
「この教師の分は?」
習一が他者の処遇を気にかけると女子の目に丸みが帯びた。予想外の言葉だったらしい。
「私の分はいりません。オダギリさん、お気遣いありがとうございます」
「……礼を言うことかよ」
顔に熱を感じた習一は冷茶をがぶがぶ飲んだ。昨日の昼食時のような渇きは感じていない。身体を冷やす目的で摂取した。空のコップをちゃぶ台に置くと女子が回収する。
「体にいいジュースがあるよ。飲んでみてね」
二杯めに赤紫色の液体の入ったコップが現れた。習一が一口飲むと少し酸味がある甘いジュースだった。なにかの果物から抽出した飲料水らしいが、習一は特定できなかった。
客をもてなし終えた女子が座り、机上に置いた忍者の箱を検分する。
「これがフィギュアかぁ。忍者好きな外国人でなくってもいいなーと思うね」
「オヤマダさんの分も必要でしたか」
「そんなことないよ。スペースをムダにとっちゃうし、掃除がめんどくさくなるし」
そう言いつつも小山田は忍者に熱い視線を送った。欲しいことは欲しいのだと見てわかる顔だ。その面構えを最近目にしたような、という習一の思いが口に出た。
「どこかで見た顔なんだよな……」
「テレビで見たんじゃないかな。アイドルの樺島融子と似てるってよく言われる」
「いや……近頃、直接見た覚えがある。あんたの顔そのまんま、じゃない気はする」
習一の疑惑に対して教師が「ノブさんのことですね」と答える。
「三日前にお好み焼屋へ行ったでしょう。あの時の中年の店員がオヤマダさんの父です」
言われて習一は和風の飲食店での出来事を思い出した。教師と親しげだった恰幅のよい中年男性。あの男も鋭い眼孔を有したが、人となりは明朗かつ善人の雰囲気があった。
「ああ、そうか。オレの弁当はあの人の娘が作ってるんだったな」
両者の目鼻立ちは共通する。輪郭には男女の差があり、娘はほっそりしたキツネ顔だ。「顎のあたりは似なくてよかったな」といつもなら腹の中に留める感想がついて出た。父似の女子は不満たらたらに「全部お母さん似がよかった」とむくれる。母似な習一は自分の遺伝が微妙に肯定されたような心持ちになった。
「そうそう、このゲームを一緒にやってみる?」
小山田は人形の箱をつつく。その景品の原典は家庭用ゲームだと教師が紹介していた。
「時間制限は晩ごはんができるまで」
「お前と対戦するのか?」
「いんや、コンピュータ相手。オフラインならボコボコに負けることはないからさ」
家の中で遊ぶテレビゲームは久しぶりだ。父親と隔絶する前は自宅にもあった。素行の良好な友人と共だって熱狂したことも、むなしく脳裏に浮かんだ。テレビとその台に収納した現行機の電源が入る。習一は小山田が手渡すコントローラーを物珍しそうに触った。
「物語を追っていこう。まだ進めてない話が残ってる」
「このゲームを買って、日が浅いのか?」
「けっこう前に貰ったものなんだけど、お店の手伝いがあると時間がね……」
「手伝い? 父親と同じ店か?」
「ううん、オカマオーナーのお店。オダさんはシド先生と食べに行ったんでしょう」
通算、教師とは二箇所の喫茶店を利用した。一つはチェーン店、一つは独自の店構えと経営スタイルの店だった。どちらもオカマという個性的な店員が勤労していた覚えはない。
「食パンやらサラダやらが食べ放題の店か? あそこにオカマなんていたのか」
「背が高くて、胸がバイーンと出たウェイトレスは見なかった?」
「いたけど……あいつが、男?」
妖艶な給仕だった。あの柔弱な身体は男性特有の骨ばった体躯とかけ離れているのだが。
「そう、あの外見でタマ付き」
小山田は習一の混乱をよそに、コントローラーを操作してゲーム画面を切り替えていく。彼女があれやこれやとプレイ上のアドバイスをするものの、助言は習一の耳を通り抜けた。
6
習一は二十分近く、人形と同じ忍者を操った。忍者の背中を見続ける三人称視点にて、ゲームの操作感に少しずつ慣れてくる。画面を上下二分割にしての二人同時プレイはアーケードゲームでは見ない遊び方であり、新鮮味があった。
小山田は母親らしき人物に呼ばれた。ゲームを中断し、コントローラーを教師に渡す。教師は経験がないからと拒んだ。だが「食わず嫌いはよくないよ。これも勉強!」と押し切られ、教師は彼女のプレイを引き継いだ。彼の担当の画面は弓使いの手と武器が画面に映る一人称視点。任意に視点を切り替えられる仕組みだが、彼はそのまま弓使いを動かす。左右に歩く、その場で跳ねる、矢をつがえて撃つ動作を一通り試した。弓矢の攻撃は高い命中率で敵に当たる。その精度はゲームの持ち主である小山田と同格かそれ以上だ。
「未経験ってウソだろ?」
「いえ……オヤマダさんのお手本を見たおかげで少しできるようです」
「じゃああれだ、シューティングはやったことあるんだな」
「いえ……関連する経験というと、弓術を習ったことでしょうか」
本物の弓の腕前がゲームにも反映されるという発想を、習一はにわかに信じられなかった。かと言って教師が隠れゲーマーなようにも見えず、とりあえず射撃の話題は不問にしてゲームを進行した。一戦が終わると教師は「続けますか?」と習一に尋ねる。
「んー、やめとくか。あんたはこういうの、嫌いなんだろ」
「嫌い、ではありませんが……オダギリさんの楽しみが減ってしまうのではないかと」
「あんたの腕なら足でまといにならねえよ」
習一は教師にプレイ続行をもとめた。ここでゲームを終了させると夕飯までの過ごし方がわからない。かと言って一人でゲームをやれば自分のスキルの荒さをつぶさに観察される。ならばこのまま時間がくるまで二人プレイをしたら精神的によいように思えた。
戦場を踏破すると、カチャカチャと陶器がこすれ合う音が鳴った。小山田が取り皿と料理を手にしてやってくる。もうじき夕飯だと知った習一たちは遊戯をやめた。機器を元あった状態に片付ける。食事のジャマになる人形はテレビの脇に移動させた。食卓に現れた夕飯の菜は大皿にのった煮物、唐揚げ、サラダ。豆腐がのった小皿は四つあった。この家の住民は最低三人いる。台所で料理を作る女性と、それを手伝う娘と、娘の父。晩餐に加わる習一の分を合わせて四つ。教師の食べる分は除外してあるらしい。
「ばーちゃん、ご飯よそってくれてありがと」
小山田は新たな人物の存在を示唆した。彼女は横長の楕円の盆を持って居間に入る。その後ろに腰のくだけた老婆がついてきた。足首の布地がきゅっとしまったもんぺを履いた老人だ。まぶたが垂れた老婆は銀髪の教師の隣にためらいなく座る。家族ぐるみの親交があるのか──と習一が思いかけた時、「ノブさん」と老婆は教師に話しかける。
「今日のノブさんはお仕事が早くおわったんだねえ」
老婆が呼ぶ人名は教師の固有名詞ではない。教師の言によれば、老婆の息子にあたる人物の呼称だ。背丈だけは共通する両者を混同しているというのか。
「今日は仕事が休みでした。ところでノブさんは家で夕食をとらないのでしょうか?」
「ノブは遅番だよ。日がかわる前に帰ってくるかねえ」
老婆は奇妙なことに質問された息子の状況について普通に答える。教師をノブ自身だと思いこむ痴呆状態ではないらしい。老婆は習一を一目みて「おやまあ」と柔らかく驚いた。
「かわいらしいマサさんだこと。キリちゃんのお友だちかい?」
「マサ」の名が己を指すことを習一は理解できたが、どう返答してよいやら困惑する。すかさず教師が会話に入った。
「この男の子の名前はオダギリシュウイチさんです。お孫さんの学友ではありませんが、夕食にご相伴させてください」
「そうかい。じゃあシュウくんだね」
老婆は習一の略称を名付けた。習一はあだ名で呼ばれることに抵抗はないので、訂正はやめた。少なくとも他人の呼称よりは確実に良い。
「たーんと食べておいき。今はノブがいないから食べそびれることはないよ」
横幅のあった中年は見た目にたがわず大食漢のようだ。彼が同席する食事の際は出方をうかがって食を抑えべきか、と習一は注意事項を思いついた。
老婆が喋る間、小山田は白米の入った茶碗を食卓に並べおえて台所に行った。次に湯気のたつ黒塗りの茶碗を運び、同様に並べる。茶碗は五つあった。
「お吸い物は先生も飲んでね。具はわたしが切ったよ」
汁物の中には刻んだネギと油揚げが浮かぶ。小山田は再び台所に行き、彼女と入れ替わりで母親らしき中年の女性が来る。おそらく四十代なのだろうが、少々幼い感じの丸い目と皺のないふっくらした頬が実年齢以上に若く見えた。教師が女性に一礼する。
「ミスミさん、お食事の用意をしていただいてありがとうございます」
「いえいえ、だいぶお待たせしちゃったわね。さ、ご飯を食べましょう!」
ミスミは食卓に重ねた取り皿を配布し、皿に箸をのせる。箸が行きわたるとカラフルなプラスチックのお椀にサラダを盛って配る。そのどれもが教師の分を省いていた。
「シド先生のご飯は娘が用意してるの。もう少し待っててくださいね」
「はい。皆さん、どうぞお先に召し上がっていてください」
教師と小山田を除く夕飯が始まる。習一はじっとミスミを見た。キツネ顔の娘とは全く方向性の違う造形だ。どう見ても娘は父似だとわかる。父親と娘を並べれば尚そう感じるだろう。それが子を宿せぬ父親にとってどれほど喜ばしいことか、娘にはわかるまい。
(ブサイクでもねえのに顔に文句言うなんざ、ぜいたくだ)
小山田が「母親に似たかった」と言うのも一理あり、ミスミは美人の部類だ。より多くの人が好むであろう優しげな顔である。とはいえアイドルと似るという小山田も、間接的だが世間一般が認める顔立ちのはずだ。彼女が父似の顔を嫌悪する理由には美醜以外の要因がある。それがなんであれ、父の実の子という証を持つ者を習一はうらやましく感じた。
「習一くん、で合ってる? ガーベラをくれてありがとう」
物思いにふけっていた習一は急に話しかけられて驚いた。そして耳慣れぬ単語に戸惑う。
「え……ガーベラ?」
「玄関に飾ってある花のこと。エリーちゃんが持ってきてくれたの。あなたが『花好きの人に渡して』と言ったから、うちに届けてくれたんですって」
確かにそんなことを言った気がする、と習一はおぼろげに思い出した。適当に発した依頼を、エリーは完璧に遂行したのだ。普通の人では夏場の一週間、切り花を咲かせ続けられなかっただろう。花の知識がない習一はその長生きの秘訣が気になった。
「あの花……どう世話したらあんなに長く咲けるんだ?」
「えっと、花束を受け取った時は少ししおれていたから、水をたくさん吸わせて元気にさせたの。一本ずつ新聞紙でくるんで、水を張ったバケツにいれて半日置いて……」
ミスミは切り花の生け方を語る。おおよそ習一の理解が及ぶ分野ではないが、手間暇をかけて花を生き永らえさせていることは伝わった。生け花講義の最中に小山田が現れる。手に箸とおにぎりをのせた皿と、輪切りにした野菜を盛った皿がある。
「はいこれ、先生のご飯。足りなかったら言ってね。漬物はまだまだあるから」
「充分です。ありがたくいただきます」
教師は箸を親指と人差し指の間にはさみ、両手のひらを合わせた。外国人のくせに日本の風習に律儀だ、と習一は内心つっこんだ。彼専用の漬物は点々とぬかが付いている。それを見ていると小山田が「食べたい?」と聞く。
「うちの糠漬け、わたしとお母さんとお婆ちゃん制作の三種類あるよ。味見する?」
「いや、いい。お前の夕飯が冷めちまう」
「あ、けっこう気をつかってくれてるんだね」
小山田は空いた座布団に座る。彼女が教師や母親との会話を弾ませるおかげで習一は会話に加わらずに済んだ。居心地の悪さはなかったものの、不和を匂わせない人物交流のありようは習一の目には奇異に映った。
正午を過ぎたころ、習一たちは動物を見終えた。近くの公園に行くと手ごろな木陰に銀髪の少女が待機していた。二メートル四方の敷物の上にバスケットと水筒、そして彼女が常用するリュックサックがある。習一たちは膝を抱えて座る少女に合流した。
「今日のお昼ごはん、手作りのサンドイッチだよ」
バスケットの蓋を開けると、中はラップにくるんだサンドイッチがすし詰め状態になっていた。エリーは水筒のコップに飲み物を注ぎ、習一に渡す。
「これ、ふつうのお茶。ぜんぶシューイチのものだから、好きなだけのんでね」
習一はぐいっと茶を飲み干した。冷たい液体がさらさらと胃へ落ちるのを感じる。習一は入園以降、水を口にしておらず喉はカラカラになっていた。だがのどをうるおす機会は何度もあった。教師が自動販売機の前を通過する際に「なにか飲みますか」と尋ねたが、習一はかたくなに拒否した。熱気で汗を流す習一とは違って、教師は常に涼しげな顔をする。相手が飲料を欲さぬうちに習一が彼の厚意に屈するのは、なんだか悔しい気がした。
習一が二杯目の冷茶をコップに入れる。水筒を動かすたびに氷の粒同士がぶつかった。
「そんなに喉が渇いていましたか」
その声には渇きを自己申告しなかった者への非難はない。他者へのいたわりが欠けていたという自責の念が微量に含んでいた。習一はコップ越しの冷気を手に感じながら「あんたが気にすることじゃない」とぶっきらぼうに告げた。教師は頭を横にふる。
「脱水症状や熱中症で倒れてからでは遅いのです。私とエリーは暑さ寒さに鈍いので、私どもに合わせていては貴方の体がもちませんよ」
「寒いのも平気だと? おまえら、どういう土地で育ったんだ」
色黒な者が多い熱帯地方出身ならば日本の猛暑に耐えうるかもしれない。だが彼らは概して寒冷な気候に不慣れだ。寒暑両方を苦手とする人間はいても、逆は通常いない。
「出身地……涼しい土地だったと思います。長袖で過ごす人が多かったようですから」
「他人基準でしか判断できねえのか?」
「そうですね。おおまかに温度は感じられるのですけど、それが人体にどれほどの影響を与えるかを知るには、他者の様子を参考にしています」
「変なの……機械が自動判別する時にやりそうな方法だな」
習一は空けたコップを敷物の上に置き、手つかずのサンドイッチを手にした。前回食べたサンドイッチは白いパンだったが、今回は茶色の焦げ目がついている。
「今日は時間によゆうがあったからトーストしたの。前よりおいしくなってる、のかな」
エリーはリュックサックの中を探ってタンブラーを二つ出した。
「これはわたしたちのごはんね」
一つを教師に手渡した。タンブラーの容量は目測五百ミリリットル。それだけで大の男の腹が満たせるとは思えない。
「サンドイッチも食うんだろ?」
習一が教師に尋ね、「いくつかはもらいます」と返答があった。しかし銀髪の彼らがバスケットに手を伸ばすことはなく、飲料を飲むだけだ。
「この少食ぶりで、よくそんな図体になれたな」
「体型と食事にも少々事情がありまして。後日お教えします」
今は話せないというお決まりの文句だ。習一は軽く流した。話題変えなのかエリーが動物園を見物した感想を習一に聞くので「真夏に動物園に来るもんじゃない」と答えた。
「シューイチ、暑くてつらかったの?」
「オレはまだ平気だ。動物がどいつもこいつも、だらけていやがった」
暑さにやられ、猛獣の長たるライオンや虎までもが地べたをごろついた。その様子には威厳が欠片もない。想像にたがわぬ生活を保ったのは元々の動きが緩慢なゾウやプールがあるペンギンなどに限定され、それ以外の動物は気だるそうだった。本日は曇天であり、比較的気温が低いため過ごしやすいのだが、毛皮をまとった動物には些細な差のようだ。
「元気な動物を見るには適さない時期だったのかもしれませんね」
教師は習一に同調した。
「私はのんびりした彼らを見るのも楽しめましたが、貴方は物足りませんでしたか」
「さあ……動物園はあんまり来ないところだからな。退屈はしてない」
習一は次々に用済みのラップを丸めて自身の足元に並べた。サンドイッチの具材は前より種類が豊富になり、あぶった鶏肉を小さく切ったタイプが一番美味だった。その評価をぽろっと口に出すとエリーが「やっぱりミスミは料理上手なんだ」と言う。
「ミスミ、てのはだれだ?」
「シドがシューイチのごはんのたよりにしてる人。もう一人、てつだってくれてる人がいるんだけどね。そうそう、明日から三日間の夕飯もミスミがつくってくれるって」
少女の説明を教師が引きつぎ、学校の補習を終えた夕方はオヤマダという家へ訪問して夕食をとると言った。朝昼の食事もオヤマダ家の者が用意するのだと教師は述べる。
「オダギリさんの口に合った家庭料理のようですし、問題はないと思います」
「その家の連中はあんたの教え子の父兄……なんだろ。教師が個人的に自宅訪問していいのか?」
「校長の許可が下りていますから公認です」
「オレのことを、才穎の校長に?」
「はい。校長もオヤマダさんたちも、貴方への支援には協力的です」
「物好きがいるもんだな。補習が終わった後は……オレとそいつらの縁は切れるのか?」
「どうでしょうね。状況に合わせて、また食事の用意を頼むかもしれません。補習を終えて片が付くことは学校の事情だけです。家庭のほうは手つかずですから」
言いにくいことをぽんぽん言うやつだ、という思いを習一は胸の内にとどめた。一番の問題は満足に食事もできない家庭環境にある。
「私は一度に複数のことをこなせません。家のことは補習を終えたあとで考えましょう」
「考えたって無駄だ。あの頑固オヤジをどうこうできるわけがない」
「その件は後日に取り組むとして、今日の午後の予定ですが──」
風呂屋に行こう、と教師は言い出した。その計画自体は昨日提案されていたものだが。
「こんな真っ昼間にか?」
「食事処や休憩所があるリラクゼーション施設です。そこで夜までゆったりしようかと思います。着替えは服屋でそろえましょう」
またも習一と縁遠い場所へ行くことになった。冷房のある室内で長時間過ごす分には体の負担は少ない。習一は教師の計画に乗った。
2
習一が残した昼食は銀髪の二人がたいらげた。水筒やバスケットはエリーが回収して去る。彼女は風呂屋には同行しないという。しかし、教師の着替えを後で届けるそうだ。
「あいつを使いっぱにしてていいのか? オレだったらいい加減、うんざりするぞ」
「エリーは嫌なことを嫌だと言える子ですよ。それと貴方が思う以上に彼女は身軽です」
軽業師的な運動能力は習一も認めるところだ。だがその言い方は物を運ぶための行き来が苦にならないことを指す。教師の扱うバイク以上に機敏に動ける乗り物を少女が使うようには見えないのだが。習一はこの疑問をぶつけてみたがはぐらかされた。
習一たちは服を買いに量販店へ行った。適当に安くて無難なデザインの衣類を一ひろいと、タオルを数枚選ぶ。習一は購入時に率直な疑問をぶつけた。
「あんたの着替えも買えば手っ取りばやくすむんじゃないか」
「それも考えましたが、服決めに手間取るおそれがあったのでやめました」
「なんだぁ? 買う服をすぐに決められないのか。案外、女みたいなやつだな」
「女性の迷いは『どの服が自分に似合うか』を選りすぐっての結果でしょう。私は服の良し悪しがわからないのです。ファッションセンスはありませんから」
教師は服に興味がなさすぎて選べない性質らしい。スーツ姿を見るかぎりは持ち前の容姿もあいまって、野暮ったい男性には見えない。習一はこの告白を半信半疑で聞き流した。
購入した衣類は店名のロゴを印刷した袋に店員が入れる。その袋は一時、リアボックスにしまう。そして目的の風呂屋へ向かった。この時の習一は自分が汗臭いと感じたが、前方の教師は洗剤の匂いを放っていた。
(気温がわからなくて服のよしあしもわからん、か……)
飲食も発汗も満足におこなえぬ男。彼はロボットなのではないか、とそんな仮想を思いつく。物語の世界では描かれることだ。人とそっくりな機械が人間社会にまぎれて一騒動を起こす。その行動が人にとって善であったり悪であったり、傾向はまばらだ。善人に扮した悪役のケースもある。この男は真実、どういう人物なのだろうか。
疑おうと思えばいくらでも嫌疑はかけられる。善人を装う悪人は吐き捨てるほどいるだろう。そう仮定すると、教師は習一を懐柔したあとで我欲を満たすなにかを得る。よくある目当ては金銭だろうが、習一の父が息子のために身銭を切るはずはない。そう、教師はなにも得しないのだ。習一を更生させるにせよ謀るにせよ、見返りは皆無。
(バカバカしい……大体、こいつの妹も知り合いの警官もお人好しだろ)
不満一つ言わずに教師に従う少女と、話し相手の毒気をぬく温和な警官。この二人が教師の仲間だ。人物の内面はその交友相手によって見抜けるという。全員が詐欺師ならば例外だが、習一と同年の少女に高度な腹芸はできないだろう。習一は疑心暗鬼を頓挫した。
到着した風呂屋はあまり大きいという印象のない建物だ。和風の建築物の中は小奇麗な宿泊所のようでもあった。二人は脱いだ靴を下足箱に入れる。教師が受付の店員に話しかけ、財布から紙切れを出した。それは紙幣ではなくこの店の回数券だ。
「ここによく来るのか?」
「いえ、初めてです。回数券は譲ってもらいました」
教師は提供者には言及しなかった。習一はその人物をなんとなく、自分に食事を用意してくれる人たちだと思った。二人は空気の冷えた店内を進む。手ぶらの教師は「エリーを待ちます」と別行動をし、習一は一人で男湯ののれんをくぐった。脱衣場のロッカーに荷物を置く。新品の衣類の包装を外し、風呂あがりにすぐ着れる準備をした。脱いだ服は服屋でもらった袋に詰める。教師が「着ていた服は袋に入れて、あとで私にください」と言ってきたのだ。衣類を洗濯して返すという申し出を受けて、習一は口答えせずに従った。
必要かどうかわからないタオルを一枚持って浴場に入る。しかし大多数の利用客が局部を隠さずに奔放にしていた。風呂屋側のルールでは「タオルを湯船につけないでください」とあったので、タオルを持ち込まないほうが望ましいのかもしれない。
習一はまず全身にシャワーを浴びた。備え付けの液体石けんで体を洗い、汚れが落ちたあとで湯船を選ぶ。内湯には人が多くいたので露天へ行き、無人の壺湯に入った。巨大な壺の中に入る経験はついぞない。人体が沈むごとにあふれ出る湯をじっと見ながら、肩までつかった。湯に入れられないタオルは頭に乗せる。規則を破っても今さら習一は気にしないが、現在は生真面目な保護者がいる。穏便に過ごせるよう心掛けた。今の己の格好がよくある入浴者のスタイルと同じになったことに、しばらく経ったあとで気付いた。
絶え間なく湯を注ぐ竹筒を眺めた。時間の流れが遅くなったかのような現実離れした空間にいる。のぼせてきた気がすると浴槽をあがった。次に底の浅い風呂へ入り、高所より落ちる湯を肩に当てる。まだ明るい空を見つつ、体の熱がゆるく下がるのを待った。
近くの露天風呂からじゃぶんと音が鳴る。誰か入浴したと思った習一が見てみると例の教師だった。彼も頭にタオルを置いていた。外国人風の者には稀有な姿である。サングラスはかけておらず、青い目が露出する。西洋人の特色らしき瞳の色だ。習一はなぜか体がすくんだ。
「風呂を利用されているようでなによりです」
異人が視線を逸らした。習一への関心はとぼしい。浴場では習一と行動を共にしないようだ。習一もこの状況下で他人が付きっきりにいられては気色が悪い。教師の心中を推し量り、習一は屋内の風呂へ向かった。内湯は茶色の湯が張られ、薬湯のおもむきがある。客入りの良さからうかがうに、体によい成分があるのだろう。習一は健康をおもんばかって人々の隙間にもぐりこんだ。湯から微妙な鉄の匂いを感じる。あまりいい香りではないな、と思い、長居をせずに上がった。シャワーを浴びて風呂の湯を流し、脱衣場に行く。新品の乾いたタオルで体を拭いた。下半身だけ服を着て扇風機の風に当たる。湯上りに出る汗がおさまった頃にシャツを着た。そのまま脱衣場を出ようとした時、呼び止められる。
「オダギリさん、髪がぬれていますよ」
習一が振りむくとそこに半裸の教師がいた。首にタオルをかけた状態だった。
「ほっときゃ乾くだろ」
「衛生的に良くありません。ドライヤーを使いましょう」
習一が教師の提言を無視してのれんに手をかけた。その手首を浅黒い手がつかむ。
「ものの数分で終わります。ついてきてください」
教師の連行を食らい、習一は洗面台の前に座った。壁に設置した大きな鏡が後方の教師の所作を映す。彼はドライヤーの機械音を鳴らし、生ぬるい風を習一の髪に当てる。風に煽られて動くのは脱色した髪の部分。黒い根元は染髪した部分と明確に色が分かれていた。
「髪が伸びていますね。風呂屋を早めに出て、散髪しに行きますか?」
「今日はもういい。疲れた」
「わかりました。せっかくですし、今日はここでゆっくりしていきましょう」
鏡ごしに見える教師の顔は穏やかだ。彼はどんな思いで縁もゆかりもない子どもの世話をするのだろう。習一は黙って人工的な風を頭部に受け続けた。
3
学校の補習を受ける日になった。今日も銀髪の教師は習一に同行する。制服に着替えた習一が玄関を出てすぐに銀色の頭髪を発見した。今日の彼は薄黄色のネクタイを首に巻き、銀色のタイピンでシャツに留めている。そのタイピンには三粒のカラーストーンがはめてあった。一般的に見ないデザインだ。オーダーメイド製の品だろうか。
「オダギリさん、おはようございます。これから三日間の補習、私が同伴します」
決定事項を復唱された。習一はうなずく。昨日一昨日と教師と共に過ごした経験上、特筆すべき彼への不満は抱かなかった。この後の数日も似たようなものだと楽観視した。
補習の開始時刻より早く教室へ入る。無人の一室で、習一は教師に手渡された朝食を口にした。朝食は昼食の弁当と一緒にトートバッグに入っていた。昨日の朝食と同じメニューだが、それで充分である。おにぎりは毎日食べても飽きないし、なにより味付けがうまかった。料理下手な習一の母親ではこの品質を毎日保てまい、と胸の内で比較した。
習一に同行する教師は来客用の玄関を通って補習の会場へ来た。学校の備品のスリッパをペタペタ言わせて歩く様子は少し不恰好だ。しかし彼がスリッパの音や形状に不満を募らせる素振りはない。ただ一言「歩きづらいですね」とスリッパを履いた足を上げてみせる。底の長さが足りず、かかとがはみ出ていた。
廊下がガヤガヤと人の話し声や靴音でにぎやかになる。生徒が登校しているのだ。この高校は進学校なだけあって夏休みも一定の期間、授業を行なう。単位や成績には関係しない、気楽な内容だ。しかし休みを返上しての学習には意欲が削がれる者がおり、名門への進学を考えない者は途中で抜けることもあるようだった。
習一のいる教室に生徒が二人入室する。親しげな男女は習一と他校の教師を一目見て表情を凍らせた。当然の反応だ。校内一の不良と見知らぬ男性が同室者なのだ。習一はそっぽを向き、男女に対して無関心でいた。銀髪の教師は男女に軽く挨拶をする。
「私はオダギリさんのお目付け役です。私たちのことはお気になさらず、補習を受けてくださいね」
教師は親切極まりない声色で、おびえ気味の生徒をなだめた。彼らはとなり合った席に着く。女子のほうはちらちらと習一のいる席に視線をやったが、習一は無視を決めこんだ。
室外の喧騒が落ちつき、補習を行なう教師がやって来る。習一とは気の合う社会科担当の掛尾だ。色黒の教師が中年に一礼する。
「カケオ先生、今日から三日間の補習をよろしくお願いします」
「それじゃまるでシド先生が補習を受ける生徒みたいじゃないか。まあ、先生のことは他の教師にも言ってある。フツーにしててくれればいい」
掛尾は続いて補習と課題の説明をした。補習は掛尾以外の教師も担当する。課題は今週中に掛尾に提出する。赤点のない科目の補習は受けなくてよい──三つめの説明は習一以外の生徒に向けた言葉だ。期末試験を受けなかった習一は全日補習を受けねばならない。
補習がはじまると掛尾はプリントの問題文に補足したり、空欄の答えを生徒に質問したりする。習一は事もなげに答えるが、男女はしどろもどろに誤答を発していた。
二時限分の授業を終えると掛尾は退室した。次に来た教師は習一の担任だ。年かさは四十近い三十歳代だというが精神的な年齢は銀髪の教師より低い。相手は無表情を繕いつつも、棘のある視線を習一と銀髪の教師に投げる。習一は極力担任の顔を見ないようにした。
担任は一時間だけ教鞭をとり、昼までの残り一時間は別の教師がおこなった。科目内容は同じである。掛尾のように二時間続きでやればいいものを半分を他人に任せた。好意的に見れば他の授業の都合で抜けたのだろうが、落ちこぼれの面倒を看たくないというのが習一の見立てだった。
昼休憩の時間になり、習一は弁当を机の上に出した。さりげなく銀髪の男を見ると彼はノートに何か書き付けている。その文字列は黒板に書かれた文言と解説者の余談だった。
「あんたが、なんで生徒の真似事をする?」
「せっかくですから復習させてもらいました。生徒の立場になるのは希少な体験です」
ひとたび教員免許を取ってしまえば高校レベルの学習は不要ではないか、と習一は思った。この勤勉な教師に「変人だな」と感想をもらす。
「こんなもん、あんたにゃいらねえ知識だろ」
「なにごとも学んで無駄になるものはありませんよ」
もっともらしいことを教師は言う。習一は聞き流して昼食に手をかけた。その時、がらがらと教室の戸を開く。開けた者は同じクラスの男子生徒だ。白壁という、成績優良児ではないが赤点を取るほど学が無いわけでもない男だ。
「おお、ちゃんといるんだな!」
そこそこに体格の良い男子が鞄を提げて入室する。彼は習一の隣席に鞄を置き、サングラスをかけた男に握手を求める。
「おれは白壁といいます。あなたがシド先生ですね。お噂はかねがね聞いています」
教師は戸惑いながらも白壁の手を握った。白壁はさらにもう片方の手で教師の手を固く握る。熱のこもった歓迎だ。男子の両手に解放された教師は不思議そうに相手の顔を見た。
「どなたから私のことを聞きましたか?」
「先生が補習に来ることは掛尾先生に聞きました。先生自体は以前から知っています」
白壁は得意気な笑顔で着席する。教師が「才穎の生徒とお知り合いですか」と尋ねるとうなずき、「センタニさんのご友人でしょうか」と言われると目を見開く。
「どうしてあいつとおれが友だちだとわかるんです?」
「お二人に通じるものを感じました。センタニさんも礼儀正しく武芸に長じた生徒です」
「おれが武芸家だとわかるんですか?」
「立ち居振るまいを見ると、ある程度はわかります」
白壁がなにやら感動した様子で「先生は評判通りの人みたいですね!」と嬉々として言った。彼は教師目当てで来たのだと習一は判断し、黙々と弁当を食べる。自然と耳に入ってきた会話をまとめると、白壁には才穎高校に通う古馴染みが最低二人いる。教師が言うセンタニとは別に女子の友人もいて、彼女がシド先生なる英語教師について情報提供していたという。シドという若手教師がいかに強く、優しく、かっこよく、そして底知れぬ怖さを持つかを聞かされたそうだ。「怖い」の部分は習一の興味を惹いた。
「『怖い』っつうのは、どういうところを指してるんだ?」
白壁が意外そうに口ごもる。
「え……それは、小田切さんが一番よく知ってるんじゃないか?」
習一は田淵が知らせた事件のことだと理解した。だが習一自身が女子相手に喧嘩をする事態はめずらしい。白壁の知人女子は別件を述べているのではないかと思った。
「そういや、記憶がところどころ抜けてるんだっけか。忘れてるほうがいいのかもな」
白壁は具体的な教師の怖さを述べない。本人がいる手前、軽々しく言えないのだろう。習一は自身の不良仲間も銀髪の教師に畏怖したことを思い出して、質問は重ねなかった。
4
午後の補習が終わる。習一は用済みの課題プリントを掛尾に提出して校舎を離れた。多くの生徒は午前中に授業を終えて帰宅したが、校舎には部活動に励む生徒がまだ残る。目立つ銀髪の教師への注目を集める前に立ち去りたかった。習一は正門で教師と合流する。
「夕飯にはまだ時間があります。少し時間をつぶしましょうか」
教師は習一に行きたい場所の有無を尋ね、習一はつっけんどんに「ない」と答える。すると教師は予想外な行き先を提案した。
「ゲームセンターに行きましょう。欲しい景品があります」
「あんたが? 本当に?」
「正確には他の方がほしがっている物です。以前に挑戦してみて、全く取れなかったと言っていました。オダギリさんはクレーンゲームが得意ですか?」
「いや……あんまりやらない。ほしいと思うもんがなくってな。観戦ばっかりだ」
「そうですか。得意でしたら貴方に代行してもらおうかと思っていましたが」
「あんなもん、店側がゲットしにくくしてるに決まってる。絶対取ろうなんて思うなよ」
「はい、引き際をわきまえます」
真面目くさった受け答えをする輩がゲームにヒートアップする光景は想像できない。習一は不要な助言を与えたと思った。二人は習一が通い慣れた遊興所にたどり着く。二階建ての施設からもれる音が街路にも伝わっていた。教師は一階にあるプライズコーナーにまっすぐ向かう。その的確な歩行は、ここは彼が初めて訪れた場所ではないことを意味した。
「プレイしたこと、あるのか?」
「こちらの店では一度もありません」
「そのわりには迷いがないな」
「下見は行ないました。景品の形状と取り方の種類を知ると事前の対策が楽になります」
「たかがゲームにも予習かよ」
「女子供に景品を渡さないゲーム相手です。生半可な気持ちで挑めば玉砕必至でしょう」
つまり教師に泣きついた人物は女性か子どもだ。その無念を晴らすことに彼は静かに躍起になっている。つくづく他人のために生きたがる男なのだと習一は呆れた。
景品を押しこめたゲーム機には種々様々なグッズが並ぶ。人気のある漫画およびゲームのキャラクターを模した人形やぬいぐるみのほか、市販の菓子を景品仕様にした大型の菓子などが取得対象だ。教師はクレーンを操作する台に手を置いた。そのゲーム機の景品は長方形の箱だ。箱の中身は忍者らしきデザインの人形。手に鉤爪を装備した覆面男である。
「忍者……? なんの作品のやつだ」
「幕末を舞台にしたアクションゲームだそうです。家庭用ゲームなので、ゲームセンターでは遊べないようですね」
教師は丹念に景品と景品の落下口をいろんな角度から見た。この機種は左手前に大きな穴があり、右側には幅の細くなった穴が設けられ、景品が橋のように穴の上に横倒しで置いてある。プレイヤ―の正面に見える箱の底の幅は右側の穴より大きく、細い穴からは落とせない仕組みだ。二本脚のアームの出入り用に空けた穴らしい。穴と景品の間には小さく切った段ボールが敷かれ、赤字で線と「初期位置」の文字が書いてあった。店が提示する初期位置と現在の景品の位置はずれており、二センチほど左の大穴に近い。
「ここまで運んで、諦めた人がいるのですね。普通にやっても動かせないのでしょう」
教師は小銭を出して投入する。正攻法ではかなわないと宣言した通り、真っ正直にアームで景品をつかむ方法はとらない。箱の端に落下するアームの先端を押し当てたり、アームをわざと景品の上を通りこして左右に開くアームの動きで押し出したりした。だが目に見えての進展はなく、箱が傾いても元通りの位置に戻るか、アームが箱の重量に負けて逆に押し返されていた。雲行きが怪しくなってきたものの、プレイヤーの表情に変化はない。
初期投入から景品獲得のチャンスが残り一回になり、彼は深い息を吐いた。
「……今から見たことは、他の人には黙っていてください」
小声で発した言葉はゲーム機が鳴らす音に半分かき消された。かろうじて聞こえた要求を習一が理解した時、漫然とした意識を正す。教師の最後のプレイは景品を正直につかみに行った。倒れた箱の側面をアームの両端が引っ掛ける。箱が斜めに持ちあがったが力の弱い腕は箱を置いて定位置に戻ろうとする。その時、アームと箱の接触面に黒い影が伸びた。
「え……?」
習一は初め、猫が忍びこんだのかと思った。黒猫が景品の出入口に侵入してゲーム機の中にいると。しかし違った。機体をどの方向から見ても棒状の黒い物体が穴の下から伸びるのみ。生き物の胴体や頭は発見できない。謎の黒いものは役立たずのアームの代わりに箱を支え、落下口まで動かす。カコン、という落下音が響き、教師は目的物を手にした。
「なんとか取れましたね。汚れないうちに届けに行きましょう」
異常などなにもなかったかのように教師は場を離れる。習一は本当の景品の取得者について問い詰めたが、教師は決まり文句の「記憶が戻ったあとで話します」でお茶を濁した。
怪奇現象を目の当たりにして習一は心中穏やかにいられず、教師に詰問を続けるも効果はなかった。ゲームセンターを発ったあと、教師は先ほどの現象をはぐらかすようにゲームに興じた経緯を説明した。教師は忍者の人形を求める人物に会ったことがなく、その人物がほしがるからあげたいと言った依頼主が彼の教え子だという。この教え子こそが習一に食事を用意する一家の娘であり、習一が夕飯に相伴させてもらう家の者だ。
「私は彼女から多大な恩を受けています。少しずつ、恩に報いたいのです」
教師は作り物の忍者の顔を見つめる。習一は意地悪い指摘を一つ思いついた。
「どんな不正をやってでもか?」
教師は顔を上げた。その顔は習一を見ないで、前方を見据える。
「たしかに先程、ズルをしました。褒められた行為ではないと思います」
「あんたを責めはしない。店が根性の悪い設定にしなきゃ、やらずに済んだだろうしな」
教師がいくらか話を聞く姿勢になった、と踏んだ習一は棄却された質問を繰り返した。
「あの時に出てきた黒いやつは何者だ? あとで話すんなら今教えてくれたっていいだろ」
「失くした記憶がもどればわかりますよ。貴方は以前に同じものを見たのですから」
「じゃあ、さっきのやつをもう一度見せてくれ。それで思い出すかもしれん」
「今はできません。別の場所へ移ってしまいました」
「そいつは生き物なのか?」
「ええ、そうです。いずれきちんと教えます。焦らないでください。貴方は他に解決すべき問題を抱えているのですから」
答える気がないなら思わせぶりなものを見せなければいいのにと習一は心の中でこぼした。教師は遊興に慣れた習一の助力を期待したのだろうが結果的に居なくとも同じだった。
5
教師の案内により、習一は小山田と書かれた表札のある一軒家を訪問した。玄関の靴箱の上に花が飾ってある。オレンジやピンク色などの明るい色調の花びらが印象的だ。
「この花、もしかして……病院でもらった……」
「貴方がエリーにあげた花です。少し数と花弁が減りましたが、まだ咲いています」
「オレがもらってから一週間くらい経ってるぞ。この暑さでよく傷まないな」
「こまめに手入れをすると夏場でも長持ちするそうですよ。切り花を延命する道具もあるといいます」
二人が話していると家の者が一人、廊下に現れた。長い黒髪をポニーテールにまとめた、目つきの鋭い少女だ。習一はその顔立ちに既視感を覚えた。教師が少女に会釈する。
「オヤマダさん、お邪魔します」
「はーい、先生もオダさんも遠慮なく入ってね」
眼孔に似合わず、声音は柔らかい感じがした。年齢的に彼女が教師の教え子なのだろう。女子生徒は教師の手中にあるパッケージを見て笑顔になる。
「先生はなんでもできるんだね」
「実力では取れませんでした。最後にあの子に助太刀をしてもらって得たものです」
「そういうのもできるの? 景品が取れ放題になっちゃうね」
吊り目の女子は教師の異能力を容認する。習一は知らない事情を把握しているのだ。
(こいつから聞き出すのもアリ、か?)
口の堅い教師に代わって情報源となりうる相手だ。習一が彼女の長い黒髪をじっと見つめると不意に黒い粒がにゅるっと出現した。目をこらすと粒はすぐに無くなる。
(なんだ? あの教師が呼んだのと同じやつか?)
聞いても教えてくれそうにない異常について、習一は胸に秘めておいた。
銀髪の男は景品の話を続け、ズルはしたくない、と告げて女子の同意を得る。
「お店が立ちいかなくなったらまずいもんね。こういう頼みごとはもうしない」
この生徒も我欲がとぼしい性分らしい。習一の不良仲間の田淵なら、元手が少なく済むほど転売でぼろ儲けできると言って飛びつきそうな話題なのだが。
(育った環境の差かね)
玄関先に活けた切り花への丁重な扱いといい、この家の人々は習一の身近な人間とは異なる気がした。同時に、彼女らと親しい教師は詐欺師とは程遠い人物だと認めた。
三人はふすまを開けた先の和室に入る。冷房の利いた畳の部屋には長方形の木製のちゃぶ台が据えてあった。ちゃぶ台の周りに並べた座布団に習一と教師は座る。案内主は立ったまま、習一から弁当の入ったトートバッグを受け取った。
「冷たいジュースを飲む? それともお茶?」
「冷えた茶がいい」
了解した女子生徒は教師に飲料の希望を聞かなかった。習一は、彼女が教師の好みの飲み物を事前に承知しているから聞く必要がないのだと見做した。
束ね髪の女子は戸を開けっ放しにした隣りの台所へ行った。ほどなくして氷と茶を注いだガラスのコップを持ってくる。茶は一杯のみ。習一はこの対応がしっくりこない。二人の客のうち、片方のみをもてなす行為は非常識だ。
「この教師の分は?」
習一が他者の処遇を気にかけると女子の目に丸みが帯びた。予想外の言葉だったらしい。
「私の分はいりません。オダギリさん、お気遣いありがとうございます」
「……礼を言うことかよ」
顔に熱を感じた習一は冷茶をがぶがぶ飲んだ。昨日の昼食時のような渇きは感じていない。身体を冷やす目的で摂取した。空のコップをちゃぶ台に置くと女子が回収する。
「体にいいジュースがあるよ。飲んでみてね」
二杯めに赤紫色の液体の入ったコップが現れた。習一が一口飲むと少し酸味がある甘いジュースだった。なにかの果物から抽出した飲料水らしいが、習一は特定できなかった。
客をもてなし終えた女子が座り、机上に置いた忍者の箱を検分する。
「これがフィギュアかぁ。忍者好きな外国人でなくってもいいなーと思うね」
「オヤマダさんの分も必要でしたか」
「そんなことないよ。スペースをムダにとっちゃうし、掃除がめんどくさくなるし」
そう言いつつも小山田は忍者に熱い視線を送った。欲しいことは欲しいのだと見てわかる顔だ。その面構えを最近目にしたような、という習一の思いが口に出た。
「どこかで見た顔なんだよな……」
「テレビで見たんじゃないかな。アイドルの樺島融子と似てるってよく言われる」
「いや……近頃、直接見た覚えがある。あんたの顔そのまんま、じゃない気はする」
習一の疑惑に対して教師が「ノブさんのことですね」と答える。
「三日前にお好み焼屋へ行ったでしょう。あの時の中年の店員がオヤマダさんの父です」
言われて習一は和風の飲食店での出来事を思い出した。教師と親しげだった恰幅のよい中年男性。あの男も鋭い眼孔を有したが、人となりは明朗かつ善人の雰囲気があった。
「ああ、そうか。オレの弁当はあの人の娘が作ってるんだったな」
両者の目鼻立ちは共通する。輪郭には男女の差があり、娘はほっそりしたキツネ顔だ。「顎のあたりは似なくてよかったな」といつもなら腹の中に留める感想がついて出た。父似の女子は不満たらたらに「全部お母さん似がよかった」とむくれる。母似な習一は自分の遺伝が微妙に肯定されたような心持ちになった。
「そうそう、このゲームを一緒にやってみる?」
小山田は人形の箱をつつく。その景品の原典は家庭用ゲームだと教師が紹介していた。
「時間制限は晩ごはんができるまで」
「お前と対戦するのか?」
「いんや、コンピュータ相手。オフラインならボコボコに負けることはないからさ」
家の中で遊ぶテレビゲームは久しぶりだ。父親と隔絶する前は自宅にもあった。素行の良好な友人と共だって熱狂したことも、むなしく脳裏に浮かんだ。テレビとその台に収納した現行機の電源が入る。習一は小山田が手渡すコントローラーを物珍しそうに触った。
「物語を追っていこう。まだ進めてない話が残ってる」
「このゲームを買って、日が浅いのか?」
「けっこう前に貰ったものなんだけど、お店の手伝いがあると時間がね……」
「手伝い? 父親と同じ店か?」
「ううん、オカマオーナーのお店。オダさんはシド先生と食べに行ったんでしょう」
通算、教師とは二箇所の喫茶店を利用した。一つはチェーン店、一つは独自の店構えと経営スタイルの店だった。どちらもオカマという個性的な店員が勤労していた覚えはない。
「食パンやらサラダやらが食べ放題の店か? あそこにオカマなんていたのか」
「背が高くて、胸がバイーンと出たウェイトレスは見なかった?」
「いたけど……あいつが、男?」
妖艶な給仕だった。あの柔弱な身体は男性特有の骨ばった体躯とかけ離れているのだが。
「そう、あの外見でタマ付き」
小山田は習一の混乱をよそに、コントローラーを操作してゲーム画面を切り替えていく。彼女があれやこれやとプレイ上のアドバイスをするものの、助言は習一の耳を通り抜けた。
6
習一は二十分近く、人形と同じ忍者を操った。忍者の背中を見続ける三人称視点にて、ゲームの操作感に少しずつ慣れてくる。画面を上下二分割にしての二人同時プレイはアーケードゲームでは見ない遊び方であり、新鮮味があった。
小山田は母親らしき人物に呼ばれた。ゲームを中断し、コントローラーを教師に渡す。教師は経験がないからと拒んだ。だが「食わず嫌いはよくないよ。これも勉強!」と押し切られ、教師は彼女のプレイを引き継いだ。彼の担当の画面は弓使いの手と武器が画面に映る一人称視点。任意に視点を切り替えられる仕組みだが、彼はそのまま弓使いを動かす。左右に歩く、その場で跳ねる、矢をつがえて撃つ動作を一通り試した。弓矢の攻撃は高い命中率で敵に当たる。その精度はゲームの持ち主である小山田と同格かそれ以上だ。
「未経験ってウソだろ?」
「いえ……オヤマダさんのお手本を見たおかげで少しできるようです」
「じゃああれだ、シューティングはやったことあるんだな」
「いえ……関連する経験というと、弓術を習ったことでしょうか」
本物の弓の腕前がゲームにも反映されるという発想を、習一はにわかに信じられなかった。かと言って教師が隠れゲーマーなようにも見えず、とりあえず射撃の話題は不問にしてゲームを進行した。一戦が終わると教師は「続けますか?」と習一に尋ねる。
「んー、やめとくか。あんたはこういうの、嫌いなんだろ」
「嫌い、ではありませんが……オダギリさんの楽しみが減ってしまうのではないかと」
「あんたの腕なら足でまといにならねえよ」
習一は教師にプレイ続行をもとめた。ここでゲームを終了させると夕飯までの過ごし方がわからない。かと言って一人でゲームをやれば自分のスキルの荒さをつぶさに観察される。ならばこのまま時間がくるまで二人プレイをしたら精神的によいように思えた。
戦場を踏破すると、カチャカチャと陶器がこすれ合う音が鳴った。小山田が取り皿と料理を手にしてやってくる。もうじき夕飯だと知った習一たちは遊戯をやめた。機器を元あった状態に片付ける。食事のジャマになる人形はテレビの脇に移動させた。食卓に現れた夕飯の菜は大皿にのった煮物、唐揚げ、サラダ。豆腐がのった小皿は四つあった。この家の住民は最低三人いる。台所で料理を作る女性と、それを手伝う娘と、娘の父。晩餐に加わる習一の分を合わせて四つ。教師の食べる分は除外してあるらしい。
「ばーちゃん、ご飯よそってくれてありがと」
小山田は新たな人物の存在を示唆した。彼女は横長の楕円の盆を持って居間に入る。その後ろに腰のくだけた老婆がついてきた。足首の布地がきゅっとしまったもんぺを履いた老人だ。まぶたが垂れた老婆は銀髪の教師の隣にためらいなく座る。家族ぐるみの親交があるのか──と習一が思いかけた時、「ノブさん」と老婆は教師に話しかける。
「今日のノブさんはお仕事が早くおわったんだねえ」
老婆が呼ぶ人名は教師の固有名詞ではない。教師の言によれば、老婆の息子にあたる人物の呼称だ。背丈だけは共通する両者を混同しているというのか。
「今日は仕事が休みでした。ところでノブさんは家で夕食をとらないのでしょうか?」
「ノブは遅番だよ。日がかわる前に帰ってくるかねえ」
老婆は奇妙なことに質問された息子の状況について普通に答える。教師をノブ自身だと思いこむ痴呆状態ではないらしい。老婆は習一を一目みて「おやまあ」と柔らかく驚いた。
「かわいらしいマサさんだこと。キリちゃんのお友だちかい?」
「マサ」の名が己を指すことを習一は理解できたが、どう返答してよいやら困惑する。すかさず教師が会話に入った。
「この男の子の名前はオダギリシュウイチさんです。お孫さんの学友ではありませんが、夕食にご相伴させてください」
「そうかい。じゃあシュウくんだね」
老婆は習一の略称を名付けた。習一はあだ名で呼ばれることに抵抗はないので、訂正はやめた。少なくとも他人の呼称よりは確実に良い。
「たーんと食べておいき。今はノブがいないから食べそびれることはないよ」
横幅のあった中年は見た目にたがわず大食漢のようだ。彼が同席する食事の際は出方をうかがって食を抑えべきか、と習一は注意事項を思いついた。
老婆が喋る間、小山田は白米の入った茶碗を食卓に並べおえて台所に行った。次に湯気のたつ黒塗りの茶碗を運び、同様に並べる。茶碗は五つあった。
「お吸い物は先生も飲んでね。具はわたしが切ったよ」
汁物の中には刻んだネギと油揚げが浮かぶ。小山田は再び台所に行き、彼女と入れ替わりで母親らしき中年の女性が来る。おそらく四十代なのだろうが、少々幼い感じの丸い目と皺のないふっくらした頬が実年齢以上に若く見えた。教師が女性に一礼する。
「ミスミさん、お食事の用意をしていただいてありがとうございます」
「いえいえ、だいぶお待たせしちゃったわね。さ、ご飯を食べましょう!」
ミスミは食卓に重ねた取り皿を配布し、皿に箸をのせる。箸が行きわたるとカラフルなプラスチックのお椀にサラダを盛って配る。そのどれもが教師の分を省いていた。
「シド先生のご飯は娘が用意してるの。もう少し待っててくださいね」
「はい。皆さん、どうぞお先に召し上がっていてください」
教師と小山田を除く夕飯が始まる。習一はじっとミスミを見た。キツネ顔の娘とは全く方向性の違う造形だ。どう見ても娘は父似だとわかる。父親と娘を並べれば尚そう感じるだろう。それが子を宿せぬ父親にとってどれほど喜ばしいことか、娘にはわかるまい。
(ブサイクでもねえのに顔に文句言うなんざ、ぜいたくだ)
小山田が「母親に似たかった」と言うのも一理あり、ミスミは美人の部類だ。より多くの人が好むであろう優しげな顔である。とはいえアイドルと似るという小山田も、間接的だが世間一般が認める顔立ちのはずだ。彼女が父似の顔を嫌悪する理由には美醜以外の要因がある。それがなんであれ、父の実の子という証を持つ者を習一はうらやましく感じた。
「習一くん、で合ってる? ガーベラをくれてありがとう」
物思いにふけっていた習一は急に話しかけられて驚いた。そして耳慣れぬ単語に戸惑う。
「え……ガーベラ?」
「玄関に飾ってある花のこと。エリーちゃんが持ってきてくれたの。あなたが『花好きの人に渡して』と言ったから、うちに届けてくれたんですって」
確かにそんなことを言った気がする、と習一はおぼろげに思い出した。適当に発した依頼を、エリーは完璧に遂行したのだ。普通の人では夏場の一週間、切り花を咲かせ続けられなかっただろう。花の知識がない習一はその長生きの秘訣が気になった。
「あの花……どう世話したらあんなに長く咲けるんだ?」
「えっと、花束を受け取った時は少ししおれていたから、水をたくさん吸わせて元気にさせたの。一本ずつ新聞紙でくるんで、水を張ったバケツにいれて半日置いて……」
ミスミは切り花の生け方を語る。おおよそ習一の理解が及ぶ分野ではないが、手間暇をかけて花を生き永らえさせていることは伝わった。生け花講義の最中に小山田が現れる。手に箸とおにぎりをのせた皿と、輪切りにした野菜を盛った皿がある。
「はいこれ、先生のご飯。足りなかったら言ってね。漬物はまだまだあるから」
「充分です。ありがたくいただきます」
教師は箸を親指と人差し指の間にはさみ、両手のひらを合わせた。外国人のくせに日本の風習に律儀だ、と習一は内心つっこんだ。彼専用の漬物は点々とぬかが付いている。それを見ていると小山田が「食べたい?」と聞く。
「うちの糠漬け、わたしとお母さんとお婆ちゃん制作の三種類あるよ。味見する?」
「いや、いい。お前の夕飯が冷めちまう」
「あ、けっこう気をつかってくれてるんだね」
小山田は空いた座布団に座る。彼女が教師や母親との会話を弾ませるおかげで習一は会話に加わらずに済んだ。居心地の悪さはなかったものの、不和を匂わせない人物交流のありようは習一の目には奇異に映った。
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2018年12月13日
習一篇草稿−5章
1
夕飯後は小山田手製のクッキーを食べ、習一は満腹になった。この菓子は教師も「おいしいです」と言ってよく手をつけた。彼の夕飯の握り飯と糠漬けは二つとも小山田の手作りであり、そのことを習一が指摘すると小山田が笑う。
「先生はね、わたしの手で作ったものがおいしいんだって。味付けが失敗してても『おいしい』って言うんだから、味オンチなのかな」
聞きようによるとのろけ話だ。習一は教師に疑いの眼差しをそそぐ。教師は苦笑いした。
「オヤマダさんの手料理は私の舌に合っています。他意はありませんよ」
「べっつに、教師と教え子が好き合ったってオレはなんとも思わねえよ」
「そうでは、ありません」
教師は否定する。それきり二人の関係への言及はなくなった。
夜九時まで長居をし、習一と教師は小山田家を離れた。別れ際、小山田が余ったクッキーを小袋につめて手土産にした。明日は三時のおやつ用に焼いて用意しておく、と彼女は告げる。そのころは補習中だと教えると「焼き上げの時間を調整するよ」と了解した。
習一が帰路につく間も教師はついてくる。晩餐に加わった家庭について、当人を目前にしての質問がはばかられた疑問を習一はぶつけてみた。
「あそこの婆さん、あんたの名前を間違えてたな。なんで間違いを受け入れたんだ?」
「カエデさんは固有名詞が覚えづらいのだそうです。ですが、ちゃんと人の区別はついておいでです。私を『ノブさん』と呼ぶのは壮年以上の男性を指していました」
「オレのことを『マサ』と呼んだのは?」
「ハタチ前後の若い男性の呼び名、だと思います」
「めんどくさい呼び方だな……普通に『おっさん』や『兄ちゃん』じゃダメなのか」
「呼び名の元になる人物がいるのですよ」
「ノブってのは婆さんの息子なんだろう。マサは誰だ?」
「ノブさんが勤めるお店に、細身の男性店員がいたでしょう。あの方です」
習一の注文品を届けた店員だ。上背はあるが体格が良いとは言えない男だった。
「あのヒョロイ男か。そいつと小山田家はどういう関係なんだ?」
「ノブさんが店じまいをする時に……マサさんが残飯を探す現場を発見したそうです」
「へ? 残飯?」
習一が端的に想像したマサという男は元浮浪者だ。教師は説明を続ける。
「ノブさんはマサさんを保護しました。しばらくオヤマダさんの家に住み、お店で働いて、ある程度の貯金ができてからはアパート暮らしをしていると聞きました」
「その人、住む場所がなくて放浪してたのか?」
「はい、マサさんは帰る家がなかったそうです。原因は親との不仲です。子の意思を無視して自分勝手な人生設計を歩ませようとする父親に反抗し、勘当同然で家を離れたと」
習一は冷水を被ったかのように、はっとした。ひ弱そうな男性が果断な行動に出、自由を得た。その自由は周囲の助けによって得たものだ。一人ですべてやろうと考え、無理だと諦め続けた者とは違う。取るに足らなかった青年像が燦々たる輝きを持ち始めた。
「マサさんと今度、話してみますか?」
「藪から棒に、なにを言い出すんだ」
「興味をお持ちになったのでしょう。親の呪縛から逃れた人物の生き様を」
「アホ抜かせ。そんな行き当たりばったりな野郎の話が参考になるもんか。ノブと会わなかったらとっくに野垂れ死んでただろ」
習一は自分が思う率直な意見をぶつけた。この主張も本心の一つだ。
「オダギリさんの考えはもっともです。ですが貴方も、ノブさんと会っているのですよ」
つまり、ノブに助けを求めたなら習一も一人立ちができると暗示している。その言葉は習一に希望を掲げる反面、半身を失くすような虚無感も与えた。
「最初から赤の他人頼りで、うまくいくってのか? そんな甘い見通しで……」
この批判は自己の虚無を突くものではないと、習一は発したあとで自覚した。
「うまくいかないとも、今より良い未来を迎えるとも決まっていません。可能性は未知数です。オダギリさんが思い描く理想には、どういった行動を選ぶと近づくでしょうか?」
習一は答えない。答えの候補は自分の中にあるが、口に出そうとすると二の足を踏んだ。
2
二日めの補習は初っ端に教師が「急用が入りました」と途中退室する。だが三十分足らずでもどってきた。昼休憩には白壁が同席し、銀髪の教師と雑談を行なう。白壁は他校の教師に憧憬を抱くようで「おれも才穎高校に行けばよかったな」とこぼした。
補習が終わると二人はすぐに小山田家へ向かった。玄関先の花はお辞儀をするように茎が曲がり、数枚の花弁が辺りに落ちている。散る寸前の容態だ。
「オダギリさんと再会するまで、持ちこたえてくれたのですね」
「こんなに丁寧に扱わなくてよかったんだ。ヤクザもどきがくれた花なんだから」
「誰が持っていた物であっても、美しい花には変わりないでしょう?」
「しおれた花が『美しい』のかよ」
「美しさを知るために必要な姿です。『散るゆえによりて咲くころあれば珍しきなり』」
突然放たれる古典めいた文言に、習一は眉をひそめた。
「室町の能役者、世阿弥の言葉です。『風姿花伝』をご存知ありませんか?」
「名前ぐらいは知ってる。内容は知らねえ」
「この言葉は、花が散るからこそ咲く花の美しさを感じられる、といった意味です。花の命は短いので咲く間は人々がもてはやします。花見がそうですね、期間限定のイベントに人がこぞって集まります。これが一年中咲く植物でしたら、いつでも見れると思って珍重しなくなるでしょう。花が咲くことと散ることは一セットで、美しいのだと思います」
習一は説明を理解できたが、やはり素直な感心は示せずにひねくれた言葉が出る。
「服のセンスがわからないと言ってるやつが、美しいのどうのがわかるのか?」
「美醜の観念は私になくとも、生命の息吹や尊さを感じる感性はあります。いいものをお見せしましょう」
教師は小山田家の断りなく居間のふすまを開ける。和室のすみに昨日はなかったダンボールの箱があった。その箱は小刻みに動く。「なんだ、あれ」と習一はずかずか歩み寄り、箱を見下ろす。敷き詰めたタオルの上に獣が複数いた。体の大きな猫が一匹、手のひらサイズの猫が三匹。全員がそれぞれ違う模様の毛皮だ。大人の猫は頭から尻尾までの上半分が焦げ茶色の縞模様で、口元から足先までの下半分が白い。習一は大きい猫を指さす。
「……この家の猫か?」
「いいえ、野良猫です。鳴き声がしたので縁側の下を見ると、この親子がいたそうです。母親は胸に傷を負い、弱っていたので保護しました。キュートな猫たちですが、今日は可愛がらないでおきましょう。彼女らの負担になりますから」
母猫の白い胸元は黒ずみ、毛が固まっている。包帯や絆創膏などの治療の痕跡はない。
「傷口はもうふさがってたのか?」
「ええ、まあ……オヤマダさんたちが病院に診せに行ったはずですし、手当てが必要なかったのでしょう。ただ、体力の消耗が激しいようで動きまわれないそうです」
ダンボールが独りでに動く原因は子どもの猫にあった。子らは寝そべる母の周りでせわしなく動いている。三匹とも毛皮の種類は違うのに目の色は同じ青。灰色がかったような、あるいは紫色が少し混じったような不思議な青色だ。
「子猫の目、みんな青色なんだな」
「キトンブルーと言います。生後間もない子猫はみな、青い目なのだそうです」
宝石にありそうな深みのある青色だ。これが教師の言う美しさだろうか。
「……で、いいものってのは猫のことか?」
「はい」
「花の美しい云々の話と関係あるか?」
「ありますよ。この子猫たちが母猫を助けたのですから」
なんのことだ、と習一が不審がった時に小山田が入室する。彼女はクッキーを山盛りにした皿と冷茶の入ったコップをちゃぶ台に置いた。同時におしぼりを二つ並べる。
「おまたせー。食べる前に手を拭いてね」
習一は菓子よりも猫に興味があったため食卓にもどらなかった。小山田がにんまり笑う。
「シュウちゃんも動物好きなの?」
「なんだ、シュウちゃんって。お前は昨日、オレを『オダさん』と言ってなかったか」
「ばーちゃんが『シュウくん』と呼んだから、それにならってる。周りが名前を呼んでないと、ばーちゃんは覚えられないの」
習一がカエデという老婆に「マサさん」と呼ばれないようにする彼女なりの配慮らしい。習一は犬猫の愛称のような彼女の呼び方に引っ掛かりを感じつつ、抗議はやめた。
教師も焼き菓子は放置して猫たちを眺める。視線を感じた母猫は目を開けた。しかしすぐにまぶたを閉じ、浅眠の姿勢にもどる。小山田は「性格変わったのかな」と一人ごちた。
「たまーに外で見かけたときは警戒心が強かったんだけど、いまはのんびり屋だね」
猫らは外敵が不在かつ空調の効いた屋内に居を得ている。この家の者たちが敵でないとわかったなら、母猫の態度はいたく合理的だ。子猫が独り立ちできる月齢になるまではその愛嬌を武器にして、人間に養ってもらうのが賢いやり方だろう。
習一は母猫にいらぬ心労を与えないように、長方形の座卓の周りに座った。教師たちも同様に囲む。小山田が猫を主題にして話しはじめた。
「縁側の下に籠城するキジシロママ、わたしらには威嚇するのに先生には全然しなかったよね。なにが違うんだろ?」
「ん? この教師が猫どもを捕まえたのか?」
「そう。エリーから連絡してもらってシド先生を呼んだんだよ。補習中なのにごめんね」
「もともと、こいつは補習に出なくていいんだ。好きなだけ呼び出せ」
習一は補習授業中のことを思い返した。教師に連絡を受け取る素振りがあっただろうか。電話での会話はしておらず、連絡を通知する電子機器を操作した様子もなかったような気がした。なにより「急用ができた」と離席した教師は二十分から三十分の間で帰還した。雒英高校から小山田家までの往復だけで、それぐらいの時間は潰れるのではないか。人間を警戒する猫の捕獲時間はない。猫が威嚇する相手を選ぶこと以上に、教師には不可解な点が多い。習一はそれらの謎を解消したかったが、また返答を先延ばしにされそうだったのでやめた。
「そういや、子猫が母猫を救ったってのはどういう意味だ?」
クッキーが運ばれたことで中断した会話を習一は再開させた。これには小山田が答える。
「猫たちが家の下にいるってこと、教えてくれたのは子猫の鳴き声だった。母猫は鳴く元気がなかったみたい。威嚇も牙を見せるだけでね」
子猫が居所を知らせていなかったら、母猫は衰弱死していた可能性があった。教師はほほえんで猫のいるダンボールを見つめる。
「母猫は、命が尽きかけていたようです。それでも生きたいと願う一心で回復しました。幼い子を守りたかったのでしょうね」
教師の主張は、母猫が子のために気力をふり絞って生き永らえたことを意味するようだ。習一はいい話に流れを持っていく雰囲気に水を差した。
「本当にこの母猫の子なのか? 一匹は父方の遺伝だろうが、残り二匹は全然違うぞ」
子猫の柄は全身が薄いオレンジ色の縞模様と、黒色と茶色が混じるまだらと、全身が真っ黒の三匹。いずれも母猫の毛皮とは異なる。教師は「たしかに奇妙ですね」と同調する。
「猫の遺伝形態はよく知りませんが……ヘテロ同士の交配により、両親には発現しなかった遺伝が現れる劣性ホモが複数いるのでしょうか」
「先生が言ってることは、たとえば親が白猫同士なのに黒猫が生まれるって話?」
小山田は急な生物学講座をむりなく受け入れている。彼女も劣等生ではないようだ。
「人間だとA型とB型の親からO型の子が生まれるのも同じ理屈なんでしょう」
「そうです。ただし、生物の基礎知識では劣性ホモの発現の在り方は一種類しか学びません。これだけでは理解が追いつきませんね」
「あんまり難しく考えなくていいんだよ。メス猫は複数のオス猫の子を宿せるんだもの」
習一は胸をえぐられる。親に似ない者は外部の種によって生まれた者。全くその通りだ。
「キジシロママは美人だね。きっといっぱい男が言い寄ってきたんだよ」
のほほんと言い放つ仮説が習一に影を落とした。小山田は習一の顔をのぞきこみ、「クッキーが冷める前に食べよう」と勧める。三人はやっとおやつに手を付け始めた。
3
二日めの晩餐は野良猫を同室者にしたままとった。母猫は変わらずダンボールの中で休み、餌用に茹でた鶏肉やイモを少しずつかじっては眠る。猫が食べてよいものは教師が図書館におもむいて調べあげた。調査には一時間強かかっており、普通の所要時間だった。
今日の夕飯には家主のノブが同席する。彼は習一への歓迎の言葉をかけた際、猫のそばで大声をあげるなと娘に警告された。以降のノブはワントーン下がった声調で喋る。
「弱ってた野良猫、いっぺん家にあげちまったら飼わなきゃならんかな?」
彼はとなりの妻の顔色をうかがう。妻の表情はくもった。
「猫ちゃんは早く亡くなってしまうじゃない。その時、とってもつらい思いをするわ」
わたしはイヤよ、と柔和な女性が拒絶する。習一はその態度が腑に落ちなかった。この場にいる誰よりも動物を憐れみ、かわいがる姿が似合うというのに。
ノブは妻に「そうか」と一言答えた。小山田はしょげた顔をする。カエデはゆっくり箸を運び、話を聞いているのかさえわからない。家族間の話し合いに教師が介入する。
「炎天下の中、母猫が幼子を外で育てることは大変でしょう。この子たちが一人立ちできるお手伝いを、一緒にやりませんか?」
「この家で飼うってこと?」
「引き取る方を探すのもいいですね。この子たちをこのまま放り出すのはしのびない」
「……そうね、子猫が蒸し焼けになったらかわいそうだわ」
同じく子を持つ母の同情を買い、猫一家は小山田家に一時在籍することに決まった。教師は猫にあげてよい食べもの以外の知識も吸収してきたらしく、母猫の体力が回復したら体を洗うこと、動物病院で詳しい検査をしてもらうことなど提案する。それらにかかる経費はすべて教師が負担すると言い、ノブは断る。
「うちの敷地内に入ってきた猫のことなんだ。先生ばかりに押し付けられんよ」
「猫たちの保護は私が無理強いさせてしまったのでは……」
「んなことぁない。この家の下から引っ張りだそうとした時にはもう、おれらが責任持たなきゃいけねえと思ったからな」
「……お優しいのですね」
ノブが照れくさそうに頭をかく。
「庭に死骸が転がってちゃ、寝覚めわるいだろ? おれが気分よーく過ごしたいからするんだ。優しいのとはちがう」
教師はノブの主張を受け入れ、野良猫の処遇の話題がおさまった。習一は好奇の念がおさえられず、ノブに問う。
「マサって人の時も、そうだったのか?」
ノブは吊り目を丸くした。習一は質問内容の補足をする。
「浮浪者が食うもんと住むところに困ってたのをあんたが助けたと聞いた。それも猫と同じで、放っておいたら罪悪感が湧くから?」
「……ま、そうだな。だけど、そんなことを考えるのはいつも行動したあとだ。その場に立った時は全然考えちゃいねえ」
「じゃあ、どうして?」
「『助けてくれ』ってツラをしてたから、かな」
ノブは神妙な面持ちの上にむりやり笑顔をかぶせた。
「猫たちは表情が読めねえけど、鳴き声がな、痛々しかった。『だれかお母さんを助けて』と必死に喋ってたんだろうな。茶トラのやつなんか、母猫の傷口をなめて治そうとしてたんだ。あんなにチビなのによ」
幼くても獣であっても家族の身を案じる感情がある。その思いに応えた母の気丈さ。相互関係にある思いやりの心を、教師は美しいと評価したのだと習一は納得した。
「生きようとするやつらを応援したい。それはおれの道楽だ。やりたいからやるだけ! こんなオッサンが『他人の役に立ちたい』とかいう大義名分を持っちゃいないんだよ」
「……オレは、どんなふうに見える?」
我ながらくだらないことを尋ねた、と習一は自己嫌悪に陥る。だが、どうしても聞きたかった。藁にもすがる溺死しかかった弱者に映るかどうか。
「さぁ……やんちゃ盛りの男の子ってとこだな。もっと飯食って肉を付けるといいぞ」
一介の少年との評を下された。習一は内心、普通の男子が無関係な人間の家に来るものか、と指摘する。ノブはふざけて「この肉を分けてやりたいくらいだ」と腹の肉をつかむ。娘が「オヤジの夕飯を抜きにして、その分をあげたらいい」手厳しい助言をした。親子のたわいない言い合いを傍観すればよいものを、習一は我慢ならずに再度問う。
「本当に、それだけか?」
習一は真剣な顔をしたつもりだが、ノブは破顔する。
「ああ、そうだとも。おれが特別なにかしなくたって、やっていけるさ」
「そんなやつが赤の他人に食事を用意してもらうと思うか?」
「だってなぁ、習一くんにはもうシド先生がついてるもんな」
習一は腹の奥が温かくなるのを感じた。すきっ腹に熱い汁物を入れた時の感触に似ているが、夕食の汁物はとうに飲み干していた。
ノブの笑みが教師に向いた。教師は昨日と同じく小山田の握り飯と糠漬けを食す。
「先生が料理のできる人だったら、うちに頼らなかっただろ?」
「いえ……オダギリさんは腹を満たす以外に、大事なものを受け取っていると思います」
「ふーん? まあなんでもいいさ。飯食いたい時でもゲームやりたい時でも、遊びにきたらいい。おれは賑やかなほうが好きだからな!」
ノブの大声のせいで母猫が鳴き声をあげる。ノブは本日二度目の娘の叱りを受けた。
4
補習の最終日は赤点保有者の男女が昼休憩の時に去った。それまでに片方が不在の時間もあった。補習最後は習一一人が必要とする科目が集まるよう調整してあるらしい。
休憩時にまたも白壁は来た。彼は今日が教師に会える最後の日だと言って名残惜しがる。
「シド先生にお会いして早三日。武芸の指導を受けずに別れてしまうのが残念です」
「こちらの空手部は強豪なのでしょう。私の教えは必要ありません」
「いいえ! おれは去年の試合で、才穎の生徒に負けました。今年はあいつが出場しなかったけれど、いまのおれがあいつに勝てる自信はないんです。確信を持てるまで、先生のようなツワモノに鍛えてほしいと思ってます!」
「学ぶ意欲のある方への指導を惜しみたくないのですが、いかんせん、私が取り組むことが残っていますので……」
「補習は今日で終わると聞きました。……進級以外の問題も切りこんでいくんですか?」
白壁はおずおずと教師の顔色をうかがって尋ねた。教師は「そうです」と簡単に答える。
「オダギリさんの生活環境を整えないままでは、同じことが繰り返されると思います。もっとも、彼自身に改善の意思がなかった場合は私の空回りになりますが」
教師は弁当箱をつつく習一をちらりと見る。習一は鼻を鳴らし、二人の会話を静聴した。
「それはありがたい! なにせ、担任がことなかれ主義な人で……頼れないんです。親御さんからの電話を受け取った時も愚痴ってたらしいですよ」
「どんな内容の電話だったか、お聞きになりましたか?」
「『なぜ休日にも銀髪のスーツ姿の男が息子を外へ連れていくんだ』という質問だったと。掛尾先生が代わりに答えて、その場はしのげたそうです。その時に『なんで問題児ばっかり』ともらしてたとか」
「『ばっかり』? 他にどの生徒を指しているんでしょうか」
「同じ補習を受けてたカップルです。色恋にふけって勉強しなかったせいで、赤点とりまくったみたいで……」
「その二人は通う高校をまちがえましたね。才穎なら校長がとりなしてくれたでしょう」
教師は真面目な顔をして不可解な言葉を口走った。白壁はなぜか「やっぱり」と言う。
「話にはよく聞いていますけど、カップルには甘い学校なんですか?」
「恋人の疑いがかかっている人も対象です。かく言う私も、任された職務を放置したのを校長は咎めませんでした」
「先生が仕事をすっぽかすなんて、どんな大事があったんです?」
「野暮用です。私の知人の警官が学校に来ていたので……その方に用事がありました」
露木のことだ、と習一は思い立ち、会話に加わる。
「坊主の警官か? そいつがなにをしに才穎に来たんだ」
白壁が「ボウズ?」と坊主頭を想像したのを誰も触れず、教師は目を伏せて神妙にする。
「とても大切な用事でした。私がこうして過ごすのもあの方のおかげです。そうでなかったら、私はこの国を去っていました。その話はのちのちお教えします」
白壁は「七月末で退職の予定だったんですよね」と訳知り顔で言う。教師は間を置いて「そうです」と肯定した。だが退職理由などは述べなかった。
雑談のすえ、午後の補習が始まった。白壁は退室し、習一と銀髪の教師の二人が居残る。午後の補習担当者は習一の印象が薄い、どうでもよい女性教師だった。奇異な風体の習一たちに尻込みする気色があったものの、彼女は滞りなく職務を全うした。習一らが優等生と変わらぬ受講態度をつらぬいたおかげだ。
「プリントをすべて提出してしまいましょう」
教師は習一が職員室へ立ち寄るのを同行する。最後の最後で習一が責務を投げ出さぬよう見張るのだ。これまでの苦行をおじゃんにするバカは普通いないが、突発的な行動を起こす可能性は否定できない。習一自身、出会う人物によっては理にそぐわぬ決断をとるだろうと思っていた。案の定、職員室には提出物を受理する掛尾はおらず、担任が在席する。習一は後方の教師の顔色をうかがった。
「カケオ先生がいらっしゃいませんね。先生の机の上に置いておきますか?」
「なんか締まらねえな」
「では担任のほうに提出しましょう。最終的にはあの方が確認をとって成績を出します。カケオ先生は中継ぎ役ですから、カケオ先生にこだわらなくともよいのです」
「お互いに顔合わせるの、イヤなんだがな」
「わかりました。私が代わりに行きます」
「いいのか? こんな甘ったれたわがままを聞いて」
「なにかの拍子に取っ組みあいになってはいけませんので」
習一の性情をかえりみての代行だ。習一は教師のリアリストぶりに感心しつつ、プリントをおさめたクリアファイルを手放した。異邦人が「失礼します」の挨拶とともに職員室へ入る。習一は廊下で待った。すぐに終わるだろう、と予測したが思いのほか待たされた。
5
教師は五分以上の時間を職員室で過ごした。彼が廊下にあらわれた時、空になったクリアファイルを手にして「これで終わりましたよ」と習一に報告する。
「だいぶ時間を食ったな。なんか言われたのか?」
「貴方への非難は言われていませんので、安心してください」
「あんたは、どうなんだ?」
「中傷だと受け取るべき言葉はありませんでした」
教師はゆっくり歩きだす。彼なりに足音を立てないスリッパ歩行を編み出し、初日のパタパタという音は軽減している。習一は後を追い「世間話してたのか?」と食い下がった。
「質問されました。『受け持ちの生徒に関わらない教員をどう思っているか』と」
「なんだあいつ、自分がやってることに罪悪感でもあんのか」
「そうなのでしょうかね。私はいま一つ、あの人の感情が読み取れませんでした」
「なんて答えた? あんたと正反対なやつだろう。『理解できない』とでも言ったか」
「どのような人相手でも、その行動に至る理由を知ればそれなりに理解はできます。共感できるかどうか、は別ですがね」
「あんたはあいつをどう理解したと言うんだ?」
「あの人は家庭のある身です。日々の職務に追われていては、オダギリさんのような生徒に手が回らないのも致し方ないと答えました」
この教師自身の信条とは異なる言葉だ。習一は不快感をあらわにする。
「おべっかかよ。周りと当たり障りなくやろうって魂胆か?」
「ウソはついていません。たとえば妻子のある男性が、休日返上で落ちこぼれの生徒を激励したとします。それは教師としてはすばらしい行動です。けれども、家族はどう思うでしょう。父と遊べない子は寂しがります。妻も夫の愛情を感じられなくては不満を抱くでしょう」
「だから、はみ出し者の生徒なんぞ放っておけ、てか?」
「それも数ある方法の一つです。他人が強いるべき事柄ではありません。ですから、私は言葉を添えました」
階段を下りていた教師が習一を見上げた。
「『家族に誇れる仕事をできていると思うなら、そのままでいい』と」
質問者の良心に問う返答だ。習一は皮肉めいて笑う。
「あんたも性格悪いな。自分を正しいと思ってる野郎が、自分のことをどう思うか、なんて聞くわきゃねえだろ」
「そうですか。私の考えが至りませんでした」
本気とも冗談にも見える微笑で教師が言う。その人を食った態度に習一は安心感を覚えた。他人の耳を心地よくさせることばかり言う軽薄な輩ではないと信用できたのだ。二人は一度別れ、正門で合流して学校を離れた。
教師は小山田家へ行く前にケーキ屋に寄り道した。日々世話になっている一家への返礼用にケーキを購入しようと言う。
「サイズにはホールとピースがありますね。オダギリさんの食べたいものはどれですか」
「オレはなんでもいい。ピースをいろいろ買って、好きなのを選んでもらえよ」
「なるほど。では何個頼みましょうか。ノブさんはあればあるほど食べそうですが……」
「あそこは四人家族だろ。このケーキは小さいし、十個はあるといいんじゃねえか」
習一は悠長に構えた教師に口出しして購入を急がせた。女性客の多い店内に長居する気は毛頭ない。男性かつ変な髪の色の二人組は非常に目立ち、店員と客の注目を一身に集めている。習一一人への関心なら耐えるものの、教師こみの好奇は居心地が悪い。
(野郎のカップルってのが世の中にあるらしいしな……)
親子でも友人でもない二人に掛かる嫌疑はそれではないか、と習一は不安がった。習一に趣味がないとはいえ、周囲の女子は他人の思いを知らずに想像を膨らませることがある。
(こいつは……大丈夫だよな。たぶん……)
銀髪の教師は女子生徒との熱愛疑惑が浮上する程度に健全な男。教育者の観点では恥知らずと難癖をつけられかねないが、習一にはむしろ安心材料である。
女性の視線に無頓着な教師はショーケースの商品をじっくり見る。「どれを複数買いましょうか」とまだ購入に踏み切らない。
「ピースを全種類二つずつ、それでいいだろ?」
声を荒げないよう心掛けつつ、習一は大ざっぱな提案をする。教師は承諾し、女性店員に同じ注文を述べた。店には七種類のピースのケーキがあり、習一が提示した数を超える。薄黄色の紙箱に店員が商品を詰めていき、頼まなかったシュークリームが同梱された。
「オーダーにない品物が入ったようですが」
「あの、十点以上お買い上げの方に無料でサービスしているんです」
そう告げた店員がはにかむ。習一は店内の大小さまざまな張り紙をぱっと見て、店員が言う制度がどこにも記載されないのを確かめた。教師は素直に店員の言葉を受け入れ、代金を支払う。お釣りを渡す際に店員は客の手にそっと自分の手を支えた。教師は礼を言って店をあとにする。習一はその背に話しかけた。
「あの店員、あんたに気があったのかもな」
「なぜ、そう思うのですか?」
「たくさん買った客にオマケがつく売り方をしてるなら、客の目につきやすい場所に書いておくだろ。そんなの全然なかったぞ」
「それはそうですね。お得なサービス目当てに多数品物を買う客がいると店は儲かります。たまたま多く買った人を対象としたやり方では利益になりにくい」
「オレに言われるまで、本当に変だと思わなかったのか?」
「はい。ケーキ屋にはあまり訪れませんし、細事にこだわらないもので」
「お気楽な性格してんな……」
習一は教師の鈍感さを羨ましく思った。彼は他者の視線も隠された本音も意に介さない。あくまで表面化した表情と言動で物事を判断する。腹の探り合いには無縁な大人だ。担任に言ったという「家族に誇れる仕事をしているか」の文言は裏表のない本心かもしれない。
(ゴチャゴチャ考えないですむなら、そっちが楽なのか?)
だが周囲に害をなす者がいればたちまち食い物にされる。その危険は見過ごせなかった。
6
小山田家に到着したなり、成猫が玄関へ突進してきた。教師がすねで猫の行く手をさえぎり、ひるんだ隙にその首根っこを押さえる。脱走をはかった猫は尻が濡れていた。
廊下の奥からゴム手袋を両手にはめた小山田があらわれる。
「キジシロママったらお風呂を嫌がっちゃって。びっくりさせてごめん」
「私がやりましょう。オダギリさん、このケーキの箱を台所へ運んでおいてください」
習一は紙箱の底を両手で持った。教師が猫のうなじをつかみ上げ、濡れた尻をもう片方の手で支える。抱かれた猫は逃走の威勢がどこへ行ったのか、彼の胸にすっぽり収まった。
二人が猫の体を洗う間、習一は台所へ入る。そこにミスミがいた。彼女は野菜を細切れに刻む手を止め、習一に笑顔で出迎えた。習一はどきまぎしつつも箱を見せて「ケーキを買ってきた」と最低限の報告をする。
「まあ、ケーキ? いいわねえ、最近食べてなかったわ。それは今、おやつで食べる? それとも晩ごはんのデザート?」
「みんな忙しいから、あとがいいと思う」
「じゃあ冷蔵庫に入れておきましょうか」
ミスミは手をさっと蛇口の水で洗い、タオルで拭いたのちに冷蔵庫を開けた。中の整理をして広い空きスペースをつくり、ケーキの入った紙箱を収納する。戸を閉める際に茶のポットを取り、コップに注いで習一に渡した。
「お茶がいいのよね?」
昨日までの注文を覚えていることに習一は驚いた。同時に彼女の手際の良さに感心する。習一の母親は素早い行動が苦手である。おっとりした雰囲気のミスミも同類だろうと推し測っていたが、失礼な思いこみだと認識を改めた。習一はうなずいただけでコップをもらい、台所の隣室へ入る。台所と居間を隔てるダンボールの柵をまたいだ先に、動く毛玉があった。昨日保護された子猫だ。習一は幼い獣たちを踏まないようにして、空いた座布団に座る。固まってひしめく猫らを観察した。彼らも座布団を軸にして、その周りにいる。近くの座布団にはひざ掛け用の毛布がくちゃくちゃな状態で置いてあった。
(親猫が風呂に行ってるってことは……こいつらも体を洗ったのか?)
入浴を拒否する力のない子どもなら、動物に不慣れな者でもやり遂げられるだろう。習一は興味本位で一匹手にのせ、その体を嗅いでみる。微かに石けんの良い匂いがした。洗浄済みだとわかると子猫が群がる座布団の上に返却した。すると手放した猫は鳴きはじめる。つられて他二匹もわめき出した。合唱する毛玉は続々と習一の足をよじ登ってくる。あぐらをかいたくるぶしに乗り、ふくらはぎをつたって太ももに到達する。三匹は温もりを恋しがり、熱源のある物体に近寄ってきたらしい。空調は適温を保っていて肌寒くはないのだが。
「親がくるまで、だからな」
習一は猫の座布団になるのを了承した。まだら模様の猫に目を惹かれ、その毛色をためつすがめつする。よく見ると茶色の部分は縞模様。全身明るい茶色の兄弟猫に黒色を所々足したような柄だ。この二匹は色が違えど母から縞模様の毛皮を受け継いでいる。一方、全く似ていないのは黒猫だ。ヒゲも爪も黒い猫は習一のももの上で丸くなった。
(白猫同士から黒猫が生まれる、とか言ったか)
昨日の小山田が述べた雑学を思い出し、これらの子猫たちは共通した父親を持つ可能性がありそうだと思えてきた。黒猫の行方不明になった目を探していると、ごお、という風の音が聞こえた。外で突風が吹いたにしては音量が一定している。人工的に発生する音だ。台所の換気扇が回ったのか、と思ったが音が不鮮明。発生元は戸を開けっ放しにした隣室ではない。他に風が起きることといえば。現在の状況に関連した風についてひらめき、習一自身が体験した風呂屋の出来事も連動して思い出した。
風が鳴り止み、廊下からトタトタと軽い足音が響く。続いて人間の足音も発生し、ふすまが開いた。尻尾が乾ききらない母猫がまっしぐらに子猫に駆け寄る。母猫は習一のひざに前足をつき、子どもらの体をなめる。母猫の胸元にあった汚れはきれいに落ちて、ふさふさとした純白の被毛になった。猫の美しい毛並みを復活させた人々が座布団に座る。
「匂いが変わっても自分の子だってわかってるね、よかった」
子猫二匹はおぼつかない足取りで人体から離れ、母猫の腹に顔をあてる。母猫は四角い座卓の下で授乳を始めた。すぴすぴ眠る黒猫は依然として習一の太ももを下敷きにする。
「こいつ、起こしたほうがいいか?」
習一は食事にありつけない子猫を案じた。小山田は「今日はずっとママと一緒だから平気」と言って睡眠を優先させた。彼女は座卓の下をのぞき、親子の様子を見る。
「ママに赤毛の部分……ある? この微妙に赤っぽいところが、そうなのかな」
母猫の毛皮に着目している。小山田は急にママの語頭に「キジシロ」を付けなくなった。
「キジシロっていう種類じゃなかったのか?」
習一の問いに教師が「その可能性があります」と答える。
「キジシロとはキジ猫、またの名をキジトラ猫に白い体毛が混ざった子の総称です。キジ猫というのは、毛を黒くする遺伝子と縞模様をつくる遺伝子が優性に出た猫のことです。その体毛がメスの雉と似ているのでこの呼び名が定着したと言われています」
「それがどうしたんだ?」
「この母体から茶トラの子猫……オレンジ色の毛の子は、基本的に生まれないのです」
「こいつら、よその猫の子だって言うのか? でも母猫が乳あげてるぞ」
「この猫たちに血のつながりはあると思います。理論上、母猫が茶色の遺伝子Oを持っていると茶トラが生まれます。ところで、男女にXとYの染色体があるのはご存知ですね?」
またしても生物の授業が開講する。知識のある習一は「知ってる」と臆面なく答えた。
「そのXに茶色遺伝子が付属します。伴性遺伝というやつですね。オスはO一つで茶トラになりますが、メスはOが二つあって初めて茶トラになります。メスの場合、片方がOだと茶色に黒色が混じったり、白色を加えた三毛になったりするそうです」
「オスはかならず父親のYを貰うから、父側の茶色遺伝子は関係ねえわけだ」
「はい、そうです。ただし、猫は細胞分裂の過程で遺伝子の不活性が起きるそうで、理論通りにいかない時もあるらしいです」
「へー、じゃあこの真っ黒はどうなんだ?」
「黒猫は縞模様をつくるA遺伝子と部分的に毛を白くするS遺伝子が共に劣性、かつ黒色を発現するB遺伝子が優性だった時に生まれると言います。母猫は黒色遺伝子を持っているようですから、あとは父猫が劣性の遺伝子を持つ個体であればよいと」
「親父が黒猫じゃなくてもいいんだな」
「そういうことです。ちなみに全身を白色の体毛にするW遺伝子が最も優位です。遺伝子型によっては白いメス猫がいろんな体毛の子を産むそうですよ」
「だから白猫の両親から黒猫が生まれることがある、と」
「そうです。ですから……親に似ない子は存在するんです」
教師の結論部分が習一にはひどく優しい声色に聞こえた。それは動物好きな者が猫への愛情をこめた台詞だ。習一は妙な気分を払拭する目的で、あらたな疑問をとりあげる。
「そういや、いつそんな専門的なことを知ったんだ? 猫が食えるもんを調べた時か」
「ええ、まあ、そうです。猫の遺伝研究が載った本を見たのはエリーですけどね。私が行った最寄りの図書館には置いてありませんでした」
「あいつが調べて、あんたに教えた?」
「あの子は読解力が足りていません。それらしいページを……私に見せてくれました」
「本を借りたかコピーしたのか。子猫の親がどんなのでもいいだろうに御苦労なこった」
教師はさびしげな目を小山田に向けた。小山田は一瞬困ったような顔をしたが、ぱっと表情を明るくする。
「ママ用のおやつを買ってきたよ。シュウちゃん、あげてみない?」
小山田は収納棚から縦長の袋を出した。ジャーキーを一本、習一に持たせる。習一は不自然な話題変えだと思ったが、ひとまずおやつを母猫へ近づけた。本当は三毛だった猫が棒状のエサにおののいて顔を引き、鼻をぴくつかせる。匂いでそれが食料だとわかると先端を噛んだ。かじかじ噛んで味わったあと、両前足でジャーキーを奪い、大事そうに抱えて食べる。そのかぶり付き具合はおやつを気に入った証拠だろう。三者の顔がゆるんだ。
「なんだ、かわいいとこあるじゃねえか」
人間に媚びを売らず、他者の善意を拒みがちだった猫が手渡しのエサに食い付いた。少しずつ打ち解けている実感が湧いて、習一は久しぶりに嫌味のない笑みがもれた。
夕飯後は小山田手製のクッキーを食べ、習一は満腹になった。この菓子は教師も「おいしいです」と言ってよく手をつけた。彼の夕飯の握り飯と糠漬けは二つとも小山田の手作りであり、そのことを習一が指摘すると小山田が笑う。
「先生はね、わたしの手で作ったものがおいしいんだって。味付けが失敗してても『おいしい』って言うんだから、味オンチなのかな」
聞きようによるとのろけ話だ。習一は教師に疑いの眼差しをそそぐ。教師は苦笑いした。
「オヤマダさんの手料理は私の舌に合っています。他意はありませんよ」
「べっつに、教師と教え子が好き合ったってオレはなんとも思わねえよ」
「そうでは、ありません」
教師は否定する。それきり二人の関係への言及はなくなった。
夜九時まで長居をし、習一と教師は小山田家を離れた。別れ際、小山田が余ったクッキーを小袋につめて手土産にした。明日は三時のおやつ用に焼いて用意しておく、と彼女は告げる。そのころは補習中だと教えると「焼き上げの時間を調整するよ」と了解した。
習一が帰路につく間も教師はついてくる。晩餐に加わった家庭について、当人を目前にしての質問がはばかられた疑問を習一はぶつけてみた。
「あそこの婆さん、あんたの名前を間違えてたな。なんで間違いを受け入れたんだ?」
「カエデさんは固有名詞が覚えづらいのだそうです。ですが、ちゃんと人の区別はついておいでです。私を『ノブさん』と呼ぶのは壮年以上の男性を指していました」
「オレのことを『マサ』と呼んだのは?」
「ハタチ前後の若い男性の呼び名、だと思います」
「めんどくさい呼び方だな……普通に『おっさん』や『兄ちゃん』じゃダメなのか」
「呼び名の元になる人物がいるのですよ」
「ノブってのは婆さんの息子なんだろう。マサは誰だ?」
「ノブさんが勤めるお店に、細身の男性店員がいたでしょう。あの方です」
習一の注文品を届けた店員だ。上背はあるが体格が良いとは言えない男だった。
「あのヒョロイ男か。そいつと小山田家はどういう関係なんだ?」
「ノブさんが店じまいをする時に……マサさんが残飯を探す現場を発見したそうです」
「へ? 残飯?」
習一が端的に想像したマサという男は元浮浪者だ。教師は説明を続ける。
「ノブさんはマサさんを保護しました。しばらくオヤマダさんの家に住み、お店で働いて、ある程度の貯金ができてからはアパート暮らしをしていると聞きました」
「その人、住む場所がなくて放浪してたのか?」
「はい、マサさんは帰る家がなかったそうです。原因は親との不仲です。子の意思を無視して自分勝手な人生設計を歩ませようとする父親に反抗し、勘当同然で家を離れたと」
習一は冷水を被ったかのように、はっとした。ひ弱そうな男性が果断な行動に出、自由を得た。その自由は周囲の助けによって得たものだ。一人ですべてやろうと考え、無理だと諦め続けた者とは違う。取るに足らなかった青年像が燦々たる輝きを持ち始めた。
「マサさんと今度、話してみますか?」
「藪から棒に、なにを言い出すんだ」
「興味をお持ちになったのでしょう。親の呪縛から逃れた人物の生き様を」
「アホ抜かせ。そんな行き当たりばったりな野郎の話が参考になるもんか。ノブと会わなかったらとっくに野垂れ死んでただろ」
習一は自分が思う率直な意見をぶつけた。この主張も本心の一つだ。
「オダギリさんの考えはもっともです。ですが貴方も、ノブさんと会っているのですよ」
つまり、ノブに助けを求めたなら習一も一人立ちができると暗示している。その言葉は習一に希望を掲げる反面、半身を失くすような虚無感も与えた。
「最初から赤の他人頼りで、うまくいくってのか? そんな甘い見通しで……」
この批判は自己の虚無を突くものではないと、習一は発したあとで自覚した。
「うまくいかないとも、今より良い未来を迎えるとも決まっていません。可能性は未知数です。オダギリさんが思い描く理想には、どういった行動を選ぶと近づくでしょうか?」
習一は答えない。答えの候補は自分の中にあるが、口に出そうとすると二の足を踏んだ。
2
二日めの補習は初っ端に教師が「急用が入りました」と途中退室する。だが三十分足らずでもどってきた。昼休憩には白壁が同席し、銀髪の教師と雑談を行なう。白壁は他校の教師に憧憬を抱くようで「おれも才穎高校に行けばよかったな」とこぼした。
補習が終わると二人はすぐに小山田家へ向かった。玄関先の花はお辞儀をするように茎が曲がり、数枚の花弁が辺りに落ちている。散る寸前の容態だ。
「オダギリさんと再会するまで、持ちこたえてくれたのですね」
「こんなに丁寧に扱わなくてよかったんだ。ヤクザもどきがくれた花なんだから」
「誰が持っていた物であっても、美しい花には変わりないでしょう?」
「しおれた花が『美しい』のかよ」
「美しさを知るために必要な姿です。『散るゆえによりて咲くころあれば珍しきなり』」
突然放たれる古典めいた文言に、習一は眉をひそめた。
「室町の能役者、世阿弥の言葉です。『風姿花伝』をご存知ありませんか?」
「名前ぐらいは知ってる。内容は知らねえ」
「この言葉は、花が散るからこそ咲く花の美しさを感じられる、といった意味です。花の命は短いので咲く間は人々がもてはやします。花見がそうですね、期間限定のイベントに人がこぞって集まります。これが一年中咲く植物でしたら、いつでも見れると思って珍重しなくなるでしょう。花が咲くことと散ることは一セットで、美しいのだと思います」
習一は説明を理解できたが、やはり素直な感心は示せずにひねくれた言葉が出る。
「服のセンスがわからないと言ってるやつが、美しいのどうのがわかるのか?」
「美醜の観念は私になくとも、生命の息吹や尊さを感じる感性はあります。いいものをお見せしましょう」
教師は小山田家の断りなく居間のふすまを開ける。和室のすみに昨日はなかったダンボールの箱があった。その箱は小刻みに動く。「なんだ、あれ」と習一はずかずか歩み寄り、箱を見下ろす。敷き詰めたタオルの上に獣が複数いた。体の大きな猫が一匹、手のひらサイズの猫が三匹。全員がそれぞれ違う模様の毛皮だ。大人の猫は頭から尻尾までの上半分が焦げ茶色の縞模様で、口元から足先までの下半分が白い。習一は大きい猫を指さす。
「……この家の猫か?」
「いいえ、野良猫です。鳴き声がしたので縁側の下を見ると、この親子がいたそうです。母親は胸に傷を負い、弱っていたので保護しました。キュートな猫たちですが、今日は可愛がらないでおきましょう。彼女らの負担になりますから」
母猫の白い胸元は黒ずみ、毛が固まっている。包帯や絆創膏などの治療の痕跡はない。
「傷口はもうふさがってたのか?」
「ええ、まあ……オヤマダさんたちが病院に診せに行ったはずですし、手当てが必要なかったのでしょう。ただ、体力の消耗が激しいようで動きまわれないそうです」
ダンボールが独りでに動く原因は子どもの猫にあった。子らは寝そべる母の周りでせわしなく動いている。三匹とも毛皮の種類は違うのに目の色は同じ青。灰色がかったような、あるいは紫色が少し混じったような不思議な青色だ。
「子猫の目、みんな青色なんだな」
「キトンブルーと言います。生後間もない子猫はみな、青い目なのだそうです」
宝石にありそうな深みのある青色だ。これが教師の言う美しさだろうか。
「……で、いいものってのは猫のことか?」
「はい」
「花の美しい云々の話と関係あるか?」
「ありますよ。この子猫たちが母猫を助けたのですから」
なんのことだ、と習一が不審がった時に小山田が入室する。彼女はクッキーを山盛りにした皿と冷茶の入ったコップをちゃぶ台に置いた。同時におしぼりを二つ並べる。
「おまたせー。食べる前に手を拭いてね」
習一は菓子よりも猫に興味があったため食卓にもどらなかった。小山田がにんまり笑う。
「シュウちゃんも動物好きなの?」
「なんだ、シュウちゃんって。お前は昨日、オレを『オダさん』と言ってなかったか」
「ばーちゃんが『シュウくん』と呼んだから、それにならってる。周りが名前を呼んでないと、ばーちゃんは覚えられないの」
習一がカエデという老婆に「マサさん」と呼ばれないようにする彼女なりの配慮らしい。習一は犬猫の愛称のような彼女の呼び方に引っ掛かりを感じつつ、抗議はやめた。
教師も焼き菓子は放置して猫たちを眺める。視線を感じた母猫は目を開けた。しかしすぐにまぶたを閉じ、浅眠の姿勢にもどる。小山田は「性格変わったのかな」と一人ごちた。
「たまーに外で見かけたときは警戒心が強かったんだけど、いまはのんびり屋だね」
猫らは外敵が不在かつ空調の効いた屋内に居を得ている。この家の者たちが敵でないとわかったなら、母猫の態度はいたく合理的だ。子猫が独り立ちできる月齢になるまではその愛嬌を武器にして、人間に養ってもらうのが賢いやり方だろう。
習一は母猫にいらぬ心労を与えないように、長方形の座卓の周りに座った。教師たちも同様に囲む。小山田が猫を主題にして話しはじめた。
「縁側の下に籠城するキジシロママ、わたしらには威嚇するのに先生には全然しなかったよね。なにが違うんだろ?」
「ん? この教師が猫どもを捕まえたのか?」
「そう。エリーから連絡してもらってシド先生を呼んだんだよ。補習中なのにごめんね」
「もともと、こいつは補習に出なくていいんだ。好きなだけ呼び出せ」
習一は補習授業中のことを思い返した。教師に連絡を受け取る素振りがあっただろうか。電話での会話はしておらず、連絡を通知する電子機器を操作した様子もなかったような気がした。なにより「急用ができた」と離席した教師は二十分から三十分の間で帰還した。雒英高校から小山田家までの往復だけで、それぐらいの時間は潰れるのではないか。人間を警戒する猫の捕獲時間はない。猫が威嚇する相手を選ぶこと以上に、教師には不可解な点が多い。習一はそれらの謎を解消したかったが、また返答を先延ばしにされそうだったのでやめた。
「そういや、子猫が母猫を救ったってのはどういう意味だ?」
クッキーが運ばれたことで中断した会話を習一は再開させた。これには小山田が答える。
「猫たちが家の下にいるってこと、教えてくれたのは子猫の鳴き声だった。母猫は鳴く元気がなかったみたい。威嚇も牙を見せるだけでね」
子猫が居所を知らせていなかったら、母猫は衰弱死していた可能性があった。教師はほほえんで猫のいるダンボールを見つめる。
「母猫は、命が尽きかけていたようです。それでも生きたいと願う一心で回復しました。幼い子を守りたかったのでしょうね」
教師の主張は、母猫が子のために気力をふり絞って生き永らえたことを意味するようだ。習一はいい話に流れを持っていく雰囲気に水を差した。
「本当にこの母猫の子なのか? 一匹は父方の遺伝だろうが、残り二匹は全然違うぞ」
子猫の柄は全身が薄いオレンジ色の縞模様と、黒色と茶色が混じるまだらと、全身が真っ黒の三匹。いずれも母猫の毛皮とは異なる。教師は「たしかに奇妙ですね」と同調する。
「猫の遺伝形態はよく知りませんが……ヘテロ同士の交配により、両親には発現しなかった遺伝が現れる劣性ホモが複数いるのでしょうか」
「先生が言ってることは、たとえば親が白猫同士なのに黒猫が生まれるって話?」
小山田は急な生物学講座をむりなく受け入れている。彼女も劣等生ではないようだ。
「人間だとA型とB型の親からO型の子が生まれるのも同じ理屈なんでしょう」
「そうです。ただし、生物の基礎知識では劣性ホモの発現の在り方は一種類しか学びません。これだけでは理解が追いつきませんね」
「あんまり難しく考えなくていいんだよ。メス猫は複数のオス猫の子を宿せるんだもの」
習一は胸をえぐられる。親に似ない者は外部の種によって生まれた者。全くその通りだ。
「キジシロママは美人だね。きっといっぱい男が言い寄ってきたんだよ」
のほほんと言い放つ仮説が習一に影を落とした。小山田は習一の顔をのぞきこみ、「クッキーが冷める前に食べよう」と勧める。三人はやっとおやつに手を付け始めた。
3
二日めの晩餐は野良猫を同室者にしたままとった。母猫は変わらずダンボールの中で休み、餌用に茹でた鶏肉やイモを少しずつかじっては眠る。猫が食べてよいものは教師が図書館におもむいて調べあげた。調査には一時間強かかっており、普通の所要時間だった。
今日の夕飯には家主のノブが同席する。彼は習一への歓迎の言葉をかけた際、猫のそばで大声をあげるなと娘に警告された。以降のノブはワントーン下がった声調で喋る。
「弱ってた野良猫、いっぺん家にあげちまったら飼わなきゃならんかな?」
彼はとなりの妻の顔色をうかがう。妻の表情はくもった。
「猫ちゃんは早く亡くなってしまうじゃない。その時、とってもつらい思いをするわ」
わたしはイヤよ、と柔和な女性が拒絶する。習一はその態度が腑に落ちなかった。この場にいる誰よりも動物を憐れみ、かわいがる姿が似合うというのに。
ノブは妻に「そうか」と一言答えた。小山田はしょげた顔をする。カエデはゆっくり箸を運び、話を聞いているのかさえわからない。家族間の話し合いに教師が介入する。
「炎天下の中、母猫が幼子を外で育てることは大変でしょう。この子たちが一人立ちできるお手伝いを、一緒にやりませんか?」
「この家で飼うってこと?」
「引き取る方を探すのもいいですね。この子たちをこのまま放り出すのはしのびない」
「……そうね、子猫が蒸し焼けになったらかわいそうだわ」
同じく子を持つ母の同情を買い、猫一家は小山田家に一時在籍することに決まった。教師は猫にあげてよい食べもの以外の知識も吸収してきたらしく、母猫の体力が回復したら体を洗うこと、動物病院で詳しい検査をしてもらうことなど提案する。それらにかかる経費はすべて教師が負担すると言い、ノブは断る。
「うちの敷地内に入ってきた猫のことなんだ。先生ばかりに押し付けられんよ」
「猫たちの保護は私が無理強いさせてしまったのでは……」
「んなことぁない。この家の下から引っ張りだそうとした時にはもう、おれらが責任持たなきゃいけねえと思ったからな」
「……お優しいのですね」
ノブが照れくさそうに頭をかく。
「庭に死骸が転がってちゃ、寝覚めわるいだろ? おれが気分よーく過ごしたいからするんだ。優しいのとはちがう」
教師はノブの主張を受け入れ、野良猫の処遇の話題がおさまった。習一は好奇の念がおさえられず、ノブに問う。
「マサって人の時も、そうだったのか?」
ノブは吊り目を丸くした。習一は質問内容の補足をする。
「浮浪者が食うもんと住むところに困ってたのをあんたが助けたと聞いた。それも猫と同じで、放っておいたら罪悪感が湧くから?」
「……ま、そうだな。だけど、そんなことを考えるのはいつも行動したあとだ。その場に立った時は全然考えちゃいねえ」
「じゃあ、どうして?」
「『助けてくれ』ってツラをしてたから、かな」
ノブは神妙な面持ちの上にむりやり笑顔をかぶせた。
「猫たちは表情が読めねえけど、鳴き声がな、痛々しかった。『だれかお母さんを助けて』と必死に喋ってたんだろうな。茶トラのやつなんか、母猫の傷口をなめて治そうとしてたんだ。あんなにチビなのによ」
幼くても獣であっても家族の身を案じる感情がある。その思いに応えた母の気丈さ。相互関係にある思いやりの心を、教師は美しいと評価したのだと習一は納得した。
「生きようとするやつらを応援したい。それはおれの道楽だ。やりたいからやるだけ! こんなオッサンが『他人の役に立ちたい』とかいう大義名分を持っちゃいないんだよ」
「……オレは、どんなふうに見える?」
我ながらくだらないことを尋ねた、と習一は自己嫌悪に陥る。だが、どうしても聞きたかった。藁にもすがる溺死しかかった弱者に映るかどうか。
「さぁ……やんちゃ盛りの男の子ってとこだな。もっと飯食って肉を付けるといいぞ」
一介の少年との評を下された。習一は内心、普通の男子が無関係な人間の家に来るものか、と指摘する。ノブはふざけて「この肉を分けてやりたいくらいだ」と腹の肉をつかむ。娘が「オヤジの夕飯を抜きにして、その分をあげたらいい」手厳しい助言をした。親子のたわいない言い合いを傍観すればよいものを、習一は我慢ならずに再度問う。
「本当に、それだけか?」
習一は真剣な顔をしたつもりだが、ノブは破顔する。
「ああ、そうだとも。おれが特別なにかしなくたって、やっていけるさ」
「そんなやつが赤の他人に食事を用意してもらうと思うか?」
「だってなぁ、習一くんにはもうシド先生がついてるもんな」
習一は腹の奥が温かくなるのを感じた。すきっ腹に熱い汁物を入れた時の感触に似ているが、夕食の汁物はとうに飲み干していた。
ノブの笑みが教師に向いた。教師は昨日と同じく小山田の握り飯と糠漬けを食す。
「先生が料理のできる人だったら、うちに頼らなかっただろ?」
「いえ……オダギリさんは腹を満たす以外に、大事なものを受け取っていると思います」
「ふーん? まあなんでもいいさ。飯食いたい時でもゲームやりたい時でも、遊びにきたらいい。おれは賑やかなほうが好きだからな!」
ノブの大声のせいで母猫が鳴き声をあげる。ノブは本日二度目の娘の叱りを受けた。
4
補習の最終日は赤点保有者の男女が昼休憩の時に去った。それまでに片方が不在の時間もあった。補習最後は習一一人が必要とする科目が集まるよう調整してあるらしい。
休憩時にまたも白壁は来た。彼は今日が教師に会える最後の日だと言って名残惜しがる。
「シド先生にお会いして早三日。武芸の指導を受けずに別れてしまうのが残念です」
「こちらの空手部は強豪なのでしょう。私の教えは必要ありません」
「いいえ! おれは去年の試合で、才穎の生徒に負けました。今年はあいつが出場しなかったけれど、いまのおれがあいつに勝てる自信はないんです。確信を持てるまで、先生のようなツワモノに鍛えてほしいと思ってます!」
「学ぶ意欲のある方への指導を惜しみたくないのですが、いかんせん、私が取り組むことが残っていますので……」
「補習は今日で終わると聞きました。……進級以外の問題も切りこんでいくんですか?」
白壁はおずおずと教師の顔色をうかがって尋ねた。教師は「そうです」と簡単に答える。
「オダギリさんの生活環境を整えないままでは、同じことが繰り返されると思います。もっとも、彼自身に改善の意思がなかった場合は私の空回りになりますが」
教師は弁当箱をつつく習一をちらりと見る。習一は鼻を鳴らし、二人の会話を静聴した。
「それはありがたい! なにせ、担任がことなかれ主義な人で……頼れないんです。親御さんからの電話を受け取った時も愚痴ってたらしいですよ」
「どんな内容の電話だったか、お聞きになりましたか?」
「『なぜ休日にも銀髪のスーツ姿の男が息子を外へ連れていくんだ』という質問だったと。掛尾先生が代わりに答えて、その場はしのげたそうです。その時に『なんで問題児ばっかり』ともらしてたとか」
「『ばっかり』? 他にどの生徒を指しているんでしょうか」
「同じ補習を受けてたカップルです。色恋にふけって勉強しなかったせいで、赤点とりまくったみたいで……」
「その二人は通う高校をまちがえましたね。才穎なら校長がとりなしてくれたでしょう」
教師は真面目な顔をして不可解な言葉を口走った。白壁はなぜか「やっぱり」と言う。
「話にはよく聞いていますけど、カップルには甘い学校なんですか?」
「恋人の疑いがかかっている人も対象です。かく言う私も、任された職務を放置したのを校長は咎めませんでした」
「先生が仕事をすっぽかすなんて、どんな大事があったんです?」
「野暮用です。私の知人の警官が学校に来ていたので……その方に用事がありました」
露木のことだ、と習一は思い立ち、会話に加わる。
「坊主の警官か? そいつがなにをしに才穎に来たんだ」
白壁が「ボウズ?」と坊主頭を想像したのを誰も触れず、教師は目を伏せて神妙にする。
「とても大切な用事でした。私がこうして過ごすのもあの方のおかげです。そうでなかったら、私はこの国を去っていました。その話はのちのちお教えします」
白壁は「七月末で退職の予定だったんですよね」と訳知り顔で言う。教師は間を置いて「そうです」と肯定した。だが退職理由などは述べなかった。
雑談のすえ、午後の補習が始まった。白壁は退室し、習一と銀髪の教師の二人が居残る。午後の補習担当者は習一の印象が薄い、どうでもよい女性教師だった。奇異な風体の習一たちに尻込みする気色があったものの、彼女は滞りなく職務を全うした。習一らが優等生と変わらぬ受講態度をつらぬいたおかげだ。
「プリントをすべて提出してしまいましょう」
教師は習一が職員室へ立ち寄るのを同行する。最後の最後で習一が責務を投げ出さぬよう見張るのだ。これまでの苦行をおじゃんにするバカは普通いないが、突発的な行動を起こす可能性は否定できない。習一自身、出会う人物によっては理にそぐわぬ決断をとるだろうと思っていた。案の定、職員室には提出物を受理する掛尾はおらず、担任が在席する。習一は後方の教師の顔色をうかがった。
「カケオ先生がいらっしゃいませんね。先生の机の上に置いておきますか?」
「なんか締まらねえな」
「では担任のほうに提出しましょう。最終的にはあの方が確認をとって成績を出します。カケオ先生は中継ぎ役ですから、カケオ先生にこだわらなくともよいのです」
「お互いに顔合わせるの、イヤなんだがな」
「わかりました。私が代わりに行きます」
「いいのか? こんな甘ったれたわがままを聞いて」
「なにかの拍子に取っ組みあいになってはいけませんので」
習一の性情をかえりみての代行だ。習一は教師のリアリストぶりに感心しつつ、プリントをおさめたクリアファイルを手放した。異邦人が「失礼します」の挨拶とともに職員室へ入る。習一は廊下で待った。すぐに終わるだろう、と予測したが思いのほか待たされた。
5
教師は五分以上の時間を職員室で過ごした。彼が廊下にあらわれた時、空になったクリアファイルを手にして「これで終わりましたよ」と習一に報告する。
「だいぶ時間を食ったな。なんか言われたのか?」
「貴方への非難は言われていませんので、安心してください」
「あんたは、どうなんだ?」
「中傷だと受け取るべき言葉はありませんでした」
教師はゆっくり歩きだす。彼なりに足音を立てないスリッパ歩行を編み出し、初日のパタパタという音は軽減している。習一は後を追い「世間話してたのか?」と食い下がった。
「質問されました。『受け持ちの生徒に関わらない教員をどう思っているか』と」
「なんだあいつ、自分がやってることに罪悪感でもあんのか」
「そうなのでしょうかね。私はいま一つ、あの人の感情が読み取れませんでした」
「なんて答えた? あんたと正反対なやつだろう。『理解できない』とでも言ったか」
「どのような人相手でも、その行動に至る理由を知ればそれなりに理解はできます。共感できるかどうか、は別ですがね」
「あんたはあいつをどう理解したと言うんだ?」
「あの人は家庭のある身です。日々の職務に追われていては、オダギリさんのような生徒に手が回らないのも致し方ないと答えました」
この教師自身の信条とは異なる言葉だ。習一は不快感をあらわにする。
「おべっかかよ。周りと当たり障りなくやろうって魂胆か?」
「ウソはついていません。たとえば妻子のある男性が、休日返上で落ちこぼれの生徒を激励したとします。それは教師としてはすばらしい行動です。けれども、家族はどう思うでしょう。父と遊べない子は寂しがります。妻も夫の愛情を感じられなくては不満を抱くでしょう」
「だから、はみ出し者の生徒なんぞ放っておけ、てか?」
「それも数ある方法の一つです。他人が強いるべき事柄ではありません。ですから、私は言葉を添えました」
階段を下りていた教師が習一を見上げた。
「『家族に誇れる仕事をできていると思うなら、そのままでいい』と」
質問者の良心に問う返答だ。習一は皮肉めいて笑う。
「あんたも性格悪いな。自分を正しいと思ってる野郎が、自分のことをどう思うか、なんて聞くわきゃねえだろ」
「そうですか。私の考えが至りませんでした」
本気とも冗談にも見える微笑で教師が言う。その人を食った態度に習一は安心感を覚えた。他人の耳を心地よくさせることばかり言う軽薄な輩ではないと信用できたのだ。二人は一度別れ、正門で合流して学校を離れた。
教師は小山田家へ行く前にケーキ屋に寄り道した。日々世話になっている一家への返礼用にケーキを購入しようと言う。
「サイズにはホールとピースがありますね。オダギリさんの食べたいものはどれですか」
「オレはなんでもいい。ピースをいろいろ買って、好きなのを選んでもらえよ」
「なるほど。では何個頼みましょうか。ノブさんはあればあるほど食べそうですが……」
「あそこは四人家族だろ。このケーキは小さいし、十個はあるといいんじゃねえか」
習一は悠長に構えた教師に口出しして購入を急がせた。女性客の多い店内に長居する気は毛頭ない。男性かつ変な髪の色の二人組は非常に目立ち、店員と客の注目を一身に集めている。習一一人への関心なら耐えるものの、教師こみの好奇は居心地が悪い。
(野郎のカップルってのが世の中にあるらしいしな……)
親子でも友人でもない二人に掛かる嫌疑はそれではないか、と習一は不安がった。習一に趣味がないとはいえ、周囲の女子は他人の思いを知らずに想像を膨らませることがある。
(こいつは……大丈夫だよな。たぶん……)
銀髪の教師は女子生徒との熱愛疑惑が浮上する程度に健全な男。教育者の観点では恥知らずと難癖をつけられかねないが、習一にはむしろ安心材料である。
女性の視線に無頓着な教師はショーケースの商品をじっくり見る。「どれを複数買いましょうか」とまだ購入に踏み切らない。
「ピースを全種類二つずつ、それでいいだろ?」
声を荒げないよう心掛けつつ、習一は大ざっぱな提案をする。教師は承諾し、女性店員に同じ注文を述べた。店には七種類のピースのケーキがあり、習一が提示した数を超える。薄黄色の紙箱に店員が商品を詰めていき、頼まなかったシュークリームが同梱された。
「オーダーにない品物が入ったようですが」
「あの、十点以上お買い上げの方に無料でサービスしているんです」
そう告げた店員がはにかむ。習一は店内の大小さまざまな張り紙をぱっと見て、店員が言う制度がどこにも記載されないのを確かめた。教師は素直に店員の言葉を受け入れ、代金を支払う。お釣りを渡す際に店員は客の手にそっと自分の手を支えた。教師は礼を言って店をあとにする。習一はその背に話しかけた。
「あの店員、あんたに気があったのかもな」
「なぜ、そう思うのですか?」
「たくさん買った客にオマケがつく売り方をしてるなら、客の目につきやすい場所に書いておくだろ。そんなの全然なかったぞ」
「それはそうですね。お得なサービス目当てに多数品物を買う客がいると店は儲かります。たまたま多く買った人を対象としたやり方では利益になりにくい」
「オレに言われるまで、本当に変だと思わなかったのか?」
「はい。ケーキ屋にはあまり訪れませんし、細事にこだわらないもので」
「お気楽な性格してんな……」
習一は教師の鈍感さを羨ましく思った。彼は他者の視線も隠された本音も意に介さない。あくまで表面化した表情と言動で物事を判断する。腹の探り合いには無縁な大人だ。担任に言ったという「家族に誇れる仕事をしているか」の文言は裏表のない本心かもしれない。
(ゴチャゴチャ考えないですむなら、そっちが楽なのか?)
だが周囲に害をなす者がいればたちまち食い物にされる。その危険は見過ごせなかった。
6
小山田家に到着したなり、成猫が玄関へ突進してきた。教師がすねで猫の行く手をさえぎり、ひるんだ隙にその首根っこを押さえる。脱走をはかった猫は尻が濡れていた。
廊下の奥からゴム手袋を両手にはめた小山田があらわれる。
「キジシロママったらお風呂を嫌がっちゃって。びっくりさせてごめん」
「私がやりましょう。オダギリさん、このケーキの箱を台所へ運んでおいてください」
習一は紙箱の底を両手で持った。教師が猫のうなじをつかみ上げ、濡れた尻をもう片方の手で支える。抱かれた猫は逃走の威勢がどこへ行ったのか、彼の胸にすっぽり収まった。
二人が猫の体を洗う間、習一は台所へ入る。そこにミスミがいた。彼女は野菜を細切れに刻む手を止め、習一に笑顔で出迎えた。習一はどきまぎしつつも箱を見せて「ケーキを買ってきた」と最低限の報告をする。
「まあ、ケーキ? いいわねえ、最近食べてなかったわ。それは今、おやつで食べる? それとも晩ごはんのデザート?」
「みんな忙しいから、あとがいいと思う」
「じゃあ冷蔵庫に入れておきましょうか」
ミスミは手をさっと蛇口の水で洗い、タオルで拭いたのちに冷蔵庫を開けた。中の整理をして広い空きスペースをつくり、ケーキの入った紙箱を収納する。戸を閉める際に茶のポットを取り、コップに注いで習一に渡した。
「お茶がいいのよね?」
昨日までの注文を覚えていることに習一は驚いた。同時に彼女の手際の良さに感心する。習一の母親は素早い行動が苦手である。おっとりした雰囲気のミスミも同類だろうと推し測っていたが、失礼な思いこみだと認識を改めた。習一はうなずいただけでコップをもらい、台所の隣室へ入る。台所と居間を隔てるダンボールの柵をまたいだ先に、動く毛玉があった。昨日保護された子猫だ。習一は幼い獣たちを踏まないようにして、空いた座布団に座る。固まってひしめく猫らを観察した。彼らも座布団を軸にして、その周りにいる。近くの座布団にはひざ掛け用の毛布がくちゃくちゃな状態で置いてあった。
(親猫が風呂に行ってるってことは……こいつらも体を洗ったのか?)
入浴を拒否する力のない子どもなら、動物に不慣れな者でもやり遂げられるだろう。習一は興味本位で一匹手にのせ、その体を嗅いでみる。微かに石けんの良い匂いがした。洗浄済みだとわかると子猫が群がる座布団の上に返却した。すると手放した猫は鳴きはじめる。つられて他二匹もわめき出した。合唱する毛玉は続々と習一の足をよじ登ってくる。あぐらをかいたくるぶしに乗り、ふくらはぎをつたって太ももに到達する。三匹は温もりを恋しがり、熱源のある物体に近寄ってきたらしい。空調は適温を保っていて肌寒くはないのだが。
「親がくるまで、だからな」
習一は猫の座布団になるのを了承した。まだら模様の猫に目を惹かれ、その毛色をためつすがめつする。よく見ると茶色の部分は縞模様。全身明るい茶色の兄弟猫に黒色を所々足したような柄だ。この二匹は色が違えど母から縞模様の毛皮を受け継いでいる。一方、全く似ていないのは黒猫だ。ヒゲも爪も黒い猫は習一のももの上で丸くなった。
(白猫同士から黒猫が生まれる、とか言ったか)
昨日の小山田が述べた雑学を思い出し、これらの子猫たちは共通した父親を持つ可能性がありそうだと思えてきた。黒猫の行方不明になった目を探していると、ごお、という風の音が聞こえた。外で突風が吹いたにしては音量が一定している。人工的に発生する音だ。台所の換気扇が回ったのか、と思ったが音が不鮮明。発生元は戸を開けっ放しにした隣室ではない。他に風が起きることといえば。現在の状況に関連した風についてひらめき、習一自身が体験した風呂屋の出来事も連動して思い出した。
風が鳴り止み、廊下からトタトタと軽い足音が響く。続いて人間の足音も発生し、ふすまが開いた。尻尾が乾ききらない母猫がまっしぐらに子猫に駆け寄る。母猫は習一のひざに前足をつき、子どもらの体をなめる。母猫の胸元にあった汚れはきれいに落ちて、ふさふさとした純白の被毛になった。猫の美しい毛並みを復活させた人々が座布団に座る。
「匂いが変わっても自分の子だってわかってるね、よかった」
子猫二匹はおぼつかない足取りで人体から離れ、母猫の腹に顔をあてる。母猫は四角い座卓の下で授乳を始めた。すぴすぴ眠る黒猫は依然として習一の太ももを下敷きにする。
「こいつ、起こしたほうがいいか?」
習一は食事にありつけない子猫を案じた。小山田は「今日はずっとママと一緒だから平気」と言って睡眠を優先させた。彼女は座卓の下をのぞき、親子の様子を見る。
「ママに赤毛の部分……ある? この微妙に赤っぽいところが、そうなのかな」
母猫の毛皮に着目している。小山田は急にママの語頭に「キジシロ」を付けなくなった。
「キジシロっていう種類じゃなかったのか?」
習一の問いに教師が「その可能性があります」と答える。
「キジシロとはキジ猫、またの名をキジトラ猫に白い体毛が混ざった子の総称です。キジ猫というのは、毛を黒くする遺伝子と縞模様をつくる遺伝子が優性に出た猫のことです。その体毛がメスの雉と似ているのでこの呼び名が定着したと言われています」
「それがどうしたんだ?」
「この母体から茶トラの子猫……オレンジ色の毛の子は、基本的に生まれないのです」
「こいつら、よその猫の子だって言うのか? でも母猫が乳あげてるぞ」
「この猫たちに血のつながりはあると思います。理論上、母猫が茶色の遺伝子Oを持っていると茶トラが生まれます。ところで、男女にXとYの染色体があるのはご存知ですね?」
またしても生物の授業が開講する。知識のある習一は「知ってる」と臆面なく答えた。
「そのXに茶色遺伝子が付属します。伴性遺伝というやつですね。オスはO一つで茶トラになりますが、メスはOが二つあって初めて茶トラになります。メスの場合、片方がOだと茶色に黒色が混じったり、白色を加えた三毛になったりするそうです」
「オスはかならず父親のYを貰うから、父側の茶色遺伝子は関係ねえわけだ」
「はい、そうです。ただし、猫は細胞分裂の過程で遺伝子の不活性が起きるそうで、理論通りにいかない時もあるらしいです」
「へー、じゃあこの真っ黒はどうなんだ?」
「黒猫は縞模様をつくるA遺伝子と部分的に毛を白くするS遺伝子が共に劣性、かつ黒色を発現するB遺伝子が優性だった時に生まれると言います。母猫は黒色遺伝子を持っているようですから、あとは父猫が劣性の遺伝子を持つ個体であればよいと」
「親父が黒猫じゃなくてもいいんだな」
「そういうことです。ちなみに全身を白色の体毛にするW遺伝子が最も優位です。遺伝子型によっては白いメス猫がいろんな体毛の子を産むそうですよ」
「だから白猫の両親から黒猫が生まれることがある、と」
「そうです。ですから……親に似ない子は存在するんです」
教師の結論部分が習一にはひどく優しい声色に聞こえた。それは動物好きな者が猫への愛情をこめた台詞だ。習一は妙な気分を払拭する目的で、あらたな疑問をとりあげる。
「そういや、いつそんな専門的なことを知ったんだ? 猫が食えるもんを調べた時か」
「ええ、まあ、そうです。猫の遺伝研究が載った本を見たのはエリーですけどね。私が行った最寄りの図書館には置いてありませんでした」
「あいつが調べて、あんたに教えた?」
「あの子は読解力が足りていません。それらしいページを……私に見せてくれました」
「本を借りたかコピーしたのか。子猫の親がどんなのでもいいだろうに御苦労なこった」
教師はさびしげな目を小山田に向けた。小山田は一瞬困ったような顔をしたが、ぱっと表情を明るくする。
「ママ用のおやつを買ってきたよ。シュウちゃん、あげてみない?」
小山田は収納棚から縦長の袋を出した。ジャーキーを一本、習一に持たせる。習一は不自然な話題変えだと思ったが、ひとまずおやつを母猫へ近づけた。本当は三毛だった猫が棒状のエサにおののいて顔を引き、鼻をぴくつかせる。匂いでそれが食料だとわかると先端を噛んだ。かじかじ噛んで味わったあと、両前足でジャーキーを奪い、大事そうに抱えて食べる。そのかぶり付き具合はおやつを気に入った証拠だろう。三者の顔がゆるんだ。
「なんだ、かわいいとこあるじゃねえか」
人間に媚びを売らず、他者の善意を拒みがちだった猫が手渡しのエサに食い付いた。少しずつ打ち解けている実感が湧いて、習一は久しぶりに嫌味のない笑みがもれた。
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2018年12月14日
習一篇草稿−6章
1
夕飯時になると習一たちは猫らを別室へ移動させた。手作りの居住地と、購入したという猫用のトイレも一緒に運びおえ、小山田家の食卓が始まる。仕事のあったノブは途中から加わり、食後のデザートがあると知って喜んだ。彼は精神的な年齢でいうと小山田家の中で一番幼いかもしれない、と習一は裏表のない中年を評した。だが担任とは異なる幼さだ。向こうは身勝手な幼稚さがあるのに対して、ノブは周囲の者を尊重した上で少年の心を発揮する。目下な娘と対等な接し方をするあたりが顕著だ。
(こういう親がいりゃ、いい子ちゃんに育つわな)
父と顔立ちの似た娘を見て思う。母と祖母もまた温和な性格ゆえに、性根の曲がる機会はなかったのだろう。絵に描いたような幸福な家庭だ。不公平、の単語が頭をかすめた。
計十五個あったケーキ類は六人に均等に分配した。教師は一つだけでいいと言って四個余り、それらは小山田家の明朝のデザートに取っておく。残りを見た小山田が「チーズは茶トラでチョコは黒猫っぽいね」としょうもない置き換えをした。この女子は視界に猫がいない時も頭には猫が住みついている。こいつも動物好きか、と習一は内心呆れた。
人間の飲食が済み、教師らが猫の様子を確認しにいった。居間にもどると元気があり余る子猫二匹を引き入れる。ダンボールの中で眠る母猫と茶トラの安眠目的で連れ出したという。猫用トイレ等を買うついでに得たおもちゃで、一家と教師が代わる代わる子猫をあやした。当初、野良猫の飼育に難色を示したミスミは笑顔で子猫を見守る。その喜色は猫や動物嫌いの人間には浮かべられないものだ。彼女もペットの愛育にはやぶさかではないのだろう。あの時の拒絶は純粋に、愛情をかけた対象が先立つもろさを嫌うようだった。
教師が猫とのたわむれに満足がいったあと、習一たち客分は小山田家を出た。夜道をいく習一の足運びは鈍重だ。教師が「もう少し外をぶらつきますか」と聞いてきた。
「いや、いい。あんたに行きたいところがあるなら別だけど」
「特にありません。では、行きましょうか」
実直な教師は無為な寄り道を提案しなかった。帰宅したくない気持ちを察したのなら本屋にでも連れていってくれればいいのに、と習一は自分で断っておきながら不服に思った。
「……明日は、あんたはどうするんだ」
「予定を決めていません。また、オヤマダさんの家で猫と遊ぼうかと」
「本当に好きなんだな」
「貴方も嫌いではないのでしょう。猫も、あの家族も」
習一はひねた返答が思いつけない。かわりに正鵠を得てはいない正直な言葉を選ぶ。
「そう……だな。あそこは猫にもいい環境だろうよ」
「オヤマダ家の子になってみますか?」
「なにを、トチ狂ったことを抜かしやがるんだ」
教師は足を止めた。半身を習一に向ける。
「冗談は言っていません。あの家庭は貴方が過ごしやすい場所だと思います」
「数回限りの客だったから良くしてくれただけだ。他人を養う余裕なんかないだろ」
「無関係な人を何年も世話することは難しいでしょう。ですが、自力で生活できるまでの期間でしたら前例があります」
一昨日の話題にあがったマサという人物のことだ。そうわかった習一は口を閉じた。
「もちろん、貴方が父親と腹を割って話して、仲直りできればそれが一番よいです」
「……言うだけなら簡単だな」
「それほどに血筋の問題は根深いですか」
習一は全身が粟立った。なぜ、この男の口からその言葉が出るのか。喉の奥が詰まり、問いただすことができない。習一は黄色のレンズを凝視した。まっしろになった頭の活動はすぐに復活せず、教師と目が合った状態で立ち尽くす。
「図星、と見てよろしいでしょうか」
澄みきった声が習一の平常心を喚起する。習一はうつむいて「なにが」と虚勢を張った。
「貴方が、裁判官である父親の血を引いていないということです」
「なんで、そう思った?」
「確証はありません。オヤマダさんが『もしかしたら』と勘で教えてくれました」
習一と女子生徒が会ったのは三日間だけ。この短期間にそんなサインは送っていない。
「どういう発想だ?」
「女性特有の洞察力といいましょうか……メス猫が複数のオスの子を産めると言った時に貴方が急に不機嫌になった、と彼女が言っていました」
それが嫡出でないこととどう繋がる、と習一が指摘する間なく教師は説明を続ける。
「どうして貴方が猫の特性に嫌悪するのかとオヤマダさんが考えた結果、多数の異性と関係を持つ女性が嫌いなのではないか、と思ったそうです。ではなぜ多情な女性を嫌うのか。女性に強い関心やこだわりはなさそうな貴方が、異性に貞潔を厳しく求めるようには見えない。ならば、不貞な女性のせいで不利益をこうむっているのではないか、と」
「ぶっ飛んだ推理だな。倫理もへったくれもねえ動物と人間が同じなわけないだろうに」
「根拠は猫の件一つではありません。貴方が初めてミスミさんに会い、夕食を食べた時にも少し機嫌が悪くなったそうですね。これはミスミさんがおっしゃったことだそうです」
「そんなこと……」
ない、と言うのを思い留まった。娘が「似たかった」という対象が現れた時、習一はなんと感じたか。父に似た子をうらやみ、その幸運を不運だと見做す相手をさげすんだ。
「オヤマダ家の料理が貴方の味覚に合うことは私が知っています。料理以外で貴方が不満に思ったこと……それは、なんですか?」
習一は下くちびるを噛んだ。だがこのまま黙っているのが癪で、質問し返すことにした。
「小山田はどう解釈した?」
「貴方が母親という存在に苦手意識を持っている、と。正確にはミスミさんがそのように受け止めたのを、オヤマダさんが信じました」
「ふん、そりゃあ外れだ。オレがムカついたのは小山田のほう。自分が恵まれてることを知らねえで、わがまま言ってやがったからな」
習一はずかずかと歩き、教師の前を行く。自宅に到着するまで二人の会話はなかった。
2
習一は自宅の玄関を開ける前に後ろを見た。敷地内を守る塀と塀の間に設けた鉄格子の奥に、銀髪の男性が立つ。彼は習一が帰宅する現場を確認できるまで、ああして見守る気だ。まるで幼い子どもが寝付くまでかたわらにいる親のよう。その視線を断ち切るため、習一は玄関に入る。一目散に風呂場へ行って制服を脱ぎたいと思った。
「ずっと無視するつもりか?」
恨みがましい声が習一の耳に絡みついた。習一は早歩きで居間の付近を離れようとする。
「暗くなるまで遊びほうけて、まだ懲りないか。そんなだから入院したんだろうが!」
中年の怒声とフローリングを踏み鳴らす足音が接近する。乱暴な手が肩をつかんだ。
(殴る気か……今日は我慢してやる)
この数日間を平穏に過ごした代償だ。習一は奥歯を噛みしめ、目を閉じた。しかし打撃は受けなかった。中年の戸惑う声が聞こえる。
「なんだ、お前は! 不法侵入だぞ!」
習一がまぶたを開くと、銀色に光る頭髪が目についた。途端に体の硬直が解ける。教師が父の暴行を未然に防いだのだ。浅黒い手は中年が振り上げた右手首をかたく握る。中年は彼の束縛を逃れようとして右腕を動かすが、筋肉質な手腕は微動だにしない。
「どんな理由があるにせよ、親が子に暴力をふるって良しとするルールはありません。まずは言葉を交わしましょう」
緊迫した状況にあっても教師は理性的だ。その態度が余計に中年を苛立たせた。
「若造が知ったふうな口をきくな! 父親に断りもなく、息子を連れまわしおって!」
「貴方の許可をとらなかった非礼は詫びます。ですがこの数日、彼が非行に走るような真似はいたしておりません。そこは誤解しないでいただきたい」
中年は習一への関心が薄れ、若き教師をにらみつける。敵視する対象が変わったと知った教師は拘束を解いた。中年は自由になった腕を大仰に振り、身なりを整える。
「役所や警察の者じゃないくせに、なぜ息子にかまう?」
「お子さんが健やかに生活できるよう、とり計らっています」
「報酬なしでか? 信用ならんな」
「ツユキという警官が御夫人に事情を伝えたはずです。お聞きになっていませんか?」
「そんなこと、どう信じろというんだ! 他校の教師が見ず知らずの子どもを指導してなんの得がある。目的を言え!」
習一は忌々しげに笑った。父は習一と同じ疑い方をしている。似なくていい部分を似てしまったのだ。鼻で笑う習一を中年がねめつける。
「お前もお前だ。こんな怪しい男と一緒にいて、また悪さをする気なんだろう。こんな髪を染めたチンピラまがいの──」
「その銀髪は地毛だ」
訂正を受けた父は教師へ視線を移す。教師は眉を上げ、習一の弁護を意外そうに聞いた。父は非難のあてが外れた挽回に「髪はどうでもいい!」と叫び、握りこぶしをつくる。
「雒英の教師とは話がついている。息子の落第はもう免れたわけだな? きみの役目は終わった。早く帰るんだ! 二度とうちの敷居をまたぐな」
「いいえ、私の責務は残っています。貴方の暴力行為は見過ごせません。それこそ市役所か警察に相談して、貴方の指導監督なり息子さんの保護なりを依頼する必要があります」
「証拠もないのに役人が動くと思うのか。浅知恵だな」
「裁判所に勤める裁判官に家庭内暴力の疑いがある、と知れ渡ってもよろしいのですか」
父は口をゆがめ、眉間にしわを寄せる。外聞を気にかける中年には耳に痛い指摘だ。しかし父は屈さない。
「司法に携わる者としがない高校教師、世間はどちらを信用すると思っている?」
「それはわかりません。ですが一つだけ、確証があります」
父が「なんだ?」と吐き捨てる。侮蔑の情をぶつけられた教師は不敵な微笑を見せた。
「貴方も私も、間違いを犯さずに生きられる聖人ではないということです」
笑みを嘲笑だと捉えた父はわなわなと震える。「出ていけ」とくぐもった声が命じた。
「聞こえなかったか。今すぐにこの家を出ていけ! 警察を呼ぶぞ!」
罵声をあびた教師は逆上した中年ではなく、習一に目を合わせた。
「私はこれでお暇します。オダギリさんはどうしますか?」
いつもの調子で習一に尋ねてくる。どこへ行く、なにをする、なにを食べる。それらの質問に習一が答えを出さない時、教師が代わりに決定した。それらは全て、習一には良い、または悪くないと考慮したすえに提示された選択だった。そう理解できたがゆえに習一は承諾した。
だが今の問いは違う。習一の自己決断ができないなら、彼は父の命令に応じて一人で去るだろう。それが習一にとって最悪の行動だとわかっていても。
「……出ていくよ」
ぽつんと習一は自分の意思を口にした。いずれそうしなければならないと考えていたことだ。ひとたび宣言してしまうと、ずいぶん体が軽くなった気がした。二度と足を付けないかもしれぬ廊下を踏みしめ、脇目もふらずに外を目指す。靴を履き直し、玄関の戸を開けて振り返った。父はあんぐりと口を開けている。
「これで邪魔者は消える。今晩はぞんぶんに祝杯をあげるこった」
戸を強く押し、習一は玄関を出た。早歩きで光ある場所から離れる。いつもは時間経過で閉まる戸の音が鳴らなかった。教師の「失礼します」という律儀な挨拶が聞こえたので、彼が戸を静かに閉めたようだった。
3
習一はあてもなく歩いた。どこかへ行こうという明確な目標は出ない。無心に、何も考えないようにと、無意味に急ぐ。やみくもに移動するうち、自分以外の足音が常について回ることに気付いた。習一が立ち止まると追跡者の物音もやんだ。後ろを見れば体格の良い男性のシルエットがそこにある。
「どこまでついてくる気だ?」
「オダギリさんが一晩過ごす場所を決めるまで、同行します」
「駅の待ち合い所やコインランドリーで寝るかもしれんぜ」
「そこではぐっすり眠れますか?」
「そんなわけあるか。硬い椅子の上で熟睡できやしねえよ」
父に弁論で勝ったくせにトンチンカンなやつだ、と習一はむしゃくしゃした。
「では布団のある寝床を望まれるのですね」
言うまでもない理想条件を教師は問う。習一は馬鹿げているとは思いつつ返答する。
「布団はそのへんに落ちてないだろ。あっても虫が湧いていそうだ」
「清潔な寝床は私が提供しましょう。どうです、私についてきませんか?」
「どこへ行くんだ?」
「私の下宿先です。今日のところはそこで手を打ってください」
教師の部屋で寝泊まりする。そこに彼の妹分も住むのだろうか。
「エリーもいるのか?」
「彼女はほかに厄介になるお宅があります。いたりいなかったりしますね。オダギリさんはエリーと一緒にいたいのですか?」
「いや、あの子とあんたは家族みたいだから聞いただけだ。そんな色ボケた発想はない」
教師の頭部が揺れる。首をかしげたように見えた。
「色ボケ……? 私は貴方がエリーに気を許していることを言ったのですけど」
「オレが?」
教師の目には習一が銀髪の少女に心を開くものだと映っている。習一にその実感はないが、教師よりは警戒していない自覚があった。
「外で立ち話もなんですから、私の部屋へ行きましょう。蚊に刺される前に」
「ああ……わかった。あんたの世話になる」
「一つ、よろしいでしょうか」
話がまとまったのになにを言い出すのやら、と習一は耳を傾ける。
「私のことはシドと呼んでください。私はこの呼び名を気に入っています」
「なんだ、そんなことか。気がむいたら呼んでやる」
習一は一宿の恩人に不遜な了承をした。その物言いが礼儀知らずだとわかりつつも「わかった、そう呼ぶ」とは明言できなかった。相手は周囲から先生の尊称付きで呼ばれている。習一が出会った人物では、彼を名前だけで呼ぶ者はエリーのみ。習一も呼び捨てにしてよいのだろうが、近親者が使う呼び方を乱用する気になれない。白壁のように他校の教師にもかまわず「先生」と慕う純朴さもない。「あんた」という人代名詞がもっとも習一の気質に合致する。シドに投げた台詞は習一にとって最大限の前向きな表明だった。
シドが習一の言い方を不快に感じた様子はなく、淡々と下宿先に案内する。その仮住まいは才穎高校の経営者が建てたアパートだと語った。該当者は少ないが同学校に通う生徒も住むという。一人暮らしをする高校生は存在するのだ。
(オレも……早く住む所を見つけないとな)
居候を頼める身内はいない。住居費を払う資金も持ち合わせていない。どうやって一人暮らしを成立させるか、と考えると途方に暮れた。過去にも空想した一連の流れだ。そのたびに自分には無理だと思い、実家に縛られるのを父への反抗の機会とした。息の詰まる生活との別離を決心した今、すぐにでも金策と住居の手配を考えるべきだ。
生活の目途が立つまでは教師に頼らざるをえない。おそらく彼もそのつもりだ。浮浪児を放置すれば、窃盗恐喝といった犯罪行為に走る事態は想像がつく。警官を友とする人物が犯罪者予備軍をみすみす見逃しはしないだろう。
(こいつがオレを守るワケはきっと、他の連中のためなんだ)
習一を憐れんでの善行ではない。他者への被害を防ぐ自衛策だ。そう考えると厚意に甘んじる引け目は薄れた。同時にその推察が真実を捉えていないのではないかと訴える異物が胸の奥に住みつく。異物に対峙する気力は持てなかった。
シドはアパートの自室の扉を開け、暗い部屋の照明を点ける。玄関の奥には部屋を仕切る戸があった。その戸も開いて電灯をともす。習一が一番に目にしたものは仕事机とその上にある寝台──ロフトベッドだ。高さのあるベッドに合わせて部屋の天井も高くなっている。
「少し部屋の整理をします。その間、体を流してください。着替えは出しておきます」
着の身着のまま家を出た習一には寝泊まりする用意がない。しかし、かろうじて習一の衣服一式はこの部屋主に預けてあった。
「あんた、こうなるとわかってたな」
シドはリモコンを操作して冷房を入れる。彼は黙って習一を見た。
「だから風呂屋に行かせて、着替えを確保したのか。オレをいつでも迎えられるように」
思えば律儀な彼が洗濯物を一向に返さないのは不自然だった。現在は一年でもっとも洗濯物が乾きやすい季節。一日経てば返却できたはずである。彼はこの三日間をわざわざ習一の家先に出向いたのだから、もののついでに衣類を持ってこれた。あるいは便利屋なエリーに届けさせることだってできただろう。
「……貴方は父親と距離を置くべきだと考えていました。宿泊所が私の部屋か、オヤマダさんの家が良いかわかりませんが、衣食住に関しては不自由させません」
「なんのために、オレなんかの世話を焼く?」
「今はお答えしかねます。かわりにこれだけは言っておきましょう。貴方が安定した生活を過ごせるようになるまで、私は貴方とともにいます。貴方が私を信用しなかったとしても、自分の行動は変えません」
「わかった、理由は聞かない。けどこれは教えろ。オレを助けて、見返りはあるのか?」
「罪滅ぼし……一種の自己満足です。私の道楽だと考えてもらってかまいません」
「罪、ねえ」
習一は意味深な台詞を放置し、部屋主に従って脱衣場に足を踏み入れる。そこは洗面台があり、その隣りのくぼんだ壁に埋まるようにして洗濯機が設置してあった。シドはプラスチック製の洗濯かごを指して「ここに脱いだ服を入れてください」と言い、居間へもどった。習一は制服のポケットの中身を出す。手近な棚に私物を置いて服を脱ぎ、かごに放って浴室へ入った。シャワーから出る水がお湯になるのを待ちつつ、一室の状態を確認する。男性の一人部屋ともなると掃除が行き届かないだろうと覚悟していたが、予想外に綺麗だ。鏡に水垢はついていない。水場によくある赤カビもない。目地につきものな黒い汚れも見当たらない。風呂屋やホテルと同等に清潔な風呂場だと習一は感じた。
(オレが来ると思って、掃除したのか?」
一般的に教員は休暇が少ないと聞く。一人暮らしの教師が日常的に家事をぬかりなくこなす様子は想像しにくい。浮浪少年を保護する目的で、労を割いたのだろうか。
(クソ真面目そうだからな。普段からこうなんだろ、きっと)
習一はそう思いこんだ。ひとえに、他人が自分に尽くしている、という発想から逃れるためだ。お湯を体にかけ、シャンプー類を使って汚れを落とした。
浴室を出てすぐの棚に、先ほどはなかった衣類があった。衣類の上にあるタオルで水気をふき取り、畳まれていた服を着る。リビングに出ると涼しい空気がたちこめていた。居住者の姿はない。上のほうから物音がして、習一は天井をあおいだ。
(二階がある……?)
部屋の上部には間口の広い押入れのような場所がある。そこからシドの顔が現れた。
「今晩はこちらに寝てもらいます。布団を敷いたので眠る準備ができたら上がってください」
シドは前屈みになって立ち、壁に設置したスロープに手をかけながら階段を降りる。その階段は収納棚だ。大小様々な四角の空洞があり、その中に本やテレビが置いてある。ロフトベッドといい、とにかく空間を最大限に活用しようという造りの部屋だ。賃貸の部屋で、個人がこれほど無駄のない内装に設計できるだろうか。
「このアパートはぜんぶ、こういう部屋なのか?」
「ええ、家具家電とロフトつきです」
「へえ、その階段にできる棚は経営者のセンスか」
「そうです。体重が重いと上り下りの最中に壊れないか心配になりますけどね」
「あんたが乗っててなんともないんなら、安心だ」
習一はロフト部屋に上がろうとした。しかし習一の濡れた髪と歯みがきの未完了をシドが指摘し、洗面所へ習一を連行する。用意してあった新品の歯ブラシと歯磨き粉を使い、習一がしぶしぶ歯磨きをはじめた。その間、シドが湿った頭髪にドライヤーの風を当てる。
(こいつ、子どもを育てたことあんのか?)
この甲斐甲斐しさはズブの素人にできない芸当だ。彼には年齢の離れた妹分がいるため、その面倒をみるうちにつちかった手際かもしれない。
(オレはぜんぜん、妹に手をかけなかったな)
妹の身支度を整えたり子守りを頼まれたりした思い出はない。妹の身の回りの雑事は両親がすべてやった。特に父は妹を溺愛し、習一に妹を託す指示は出さなかった。子どもがやる世話はつたなくて目に余ったのかもしれないが、本当は信用ならなかったのだろう。
(他人に自分の子を預けるようなもんだ。それも憎んでた男の……)
これ以上の思考は中止した。鏡に映る自分の顔が情けなくなったと感じたせいだ。世話人に気取られなかったと信じて、口腔内をすすいだ。
4
習一は掃除機の音で目覚めた。現在いる空間の壁には床のすぐ上に小窓があり、そこから光が差しこむ。その明るさは日の出から数時間が経過したことを予想させた。
ロフト部屋は人がまっすぐ立てないほどに天井が低い。この場での移動は腰を曲げて歩くか、四つん這いになる。習一は四肢をついて動いた。ロフト部屋と居室との境目には蛇腹折りの硬いカーテンがあり、昨晩は空調の冷風を遮断せぬよう半分開けていた。習一はカーテンを全開にする。初めに黒灰色のシャツが見え、次に掃除機のノズルがすべる光景が見える。ほこりを吸い取る音が止み、清掃人が顔を上げた。連日、目にするサングラスがある。
「おはようございます。昨夜は眠れましたか」
習一は素っ気なく返事をしておいた。部屋主は掃除機を持ち上げて玄関へと姿を消す。階段を降りた習一は開放されたベランダに注目する。物干し竿に制服のズボンがハンガーにかかった状態で干されていた。他の洗濯物はなく、単品で洗われたらしい。
(クリーニングに出した……ら、こんな早くもどってこないし、干さなくていいよな)
他の服とまとめて洗濯機で洗えばいいのに、と効率の悪さを胸中でなじった。一点干しを行なった者は脱衣場に行き、脱水した衣類を入れた洗濯かごを抱えてくる。シドはベランダに出て衣類を干す。その背中に、習一はつい先ほど感じた疑念をぶつけた。
「なんでズボンだけ先に洗ったんだ?」
「手洗いが機械の洗濯より早く終わりました」
シドは物干し竿と洗濯かごの二方向にのみ顔を向けつつ答えた。
「オレの制服だけ? あんたのズボンは?」
「洗濯機で洗えるタイプですので、いつも自動洗濯しています。学校の制服ズボンは替えがききませんから安全な方法で洗いました」
「そんな手間のかかることを……」
「私は掃除と洗濯が好きです。これくらいの作業は負担になりません」
シドは洗濯ネットに入れた衣類を取り出す。それは制服のシャツだ。多少ねじれた箇所はあるが、畳まれていたあとが残る。
「洗う前にも畳むのか?」
「こうするとシワになりにくいのだそうです」
「デカイ体しといて、マメなことやるんだな」
「大事な制服ですから。それはそうと顔を洗ってはどうです。朝食をとりに行きますよ」
「どこで食う気だ?」
「最初に私と一緒に行った喫茶店です」
「オカマがいるっていう店か」
「そういう覚え方が適切なのかわかりませんが、そこで合っています」
目下の行動計画を聞いた習一は洗面所に行き、顔に水をぱしゃぱしゃかける。朝の洗顔はしなくとも気にならない性分だが、そのことで保護者にそむく意義はないので指示を聞いた。
ぞんぶんに水を浴びたあとは洗面台に掛けたタオルで顔を拭く。水気を取った顔を鏡に映すと、少しこけていた頬が幾分ぷっくりしている。この一週間、シドの手引きで栄養を摂取しつづけた成果だ。退院したての頃は心身ともに萎えた状態だったのが、目に見えて回復した。唯一、もどらないものは不特定多数に向かう敵愾心(てきがいしん)だ。
(飼い馴らされた犬になっちまったか?)
別人かと思うほどに習一は他者への反抗が減った。憑き物が落ちたかのごとくあらゆるものを受け入れる心構えができた気がする。その原因は推理するまでもなくあの男にある。
(変だな……あんな真面目くさった、獣贔屓野郎に……)
改心させられている、と考えるのを頭をぶるぶるふって打ち消した。
ノーネクタイの同室者と共に外出し、徒歩で個人経営の喫茶店に行く。照りつく太陽は熱く、習一が洗った顔に汗が流れた。夏場は朝洗顔の意味がないと思った。
数日ぶりの喫茶店内は客数が少なかった。レジの店員はボーイッシュな女性のままだが、客を案内する給仕は小山田だ。習一は噂のオカマ従業員の姿がないのを不審に思う。
「やたら胸のデカイ男女は、いないのか?」
「オーナーはモデルのお仕事中だよ。ちょっと日取りがわるかったね」
その表現は習一がオカマ目当てに来たかのようだ。習一は「べつに会いたかねえよ」と毒づいた。
習一はドリンクの注文を終え、取り放題のサラダや卵を皿に盛って食べる。同席者は店内の雑誌コーナーにあった新聞紙を広げる。黄色のサングラスや変わった髪色がなければ普通のビジネスマンだ。様になるくつろぎぶりを前にして習一は声をかけるのをためらい、顔見知りの給仕が飲み物と食べ物を届けるまで無言でいた。
深緑色のエプロンをかけた小山田が厨房へ去る。シドは自分の食事を習一の皿に分けた。彼の意識が習一に向いたのを見計らい、習一は一番に気兼ねする事柄をぶつける。
「オレをとっとと部屋から出したいだろ。そんなにのんびりしてていいのか」
「貴方が納得のいく身の振り方を決めるまで待ちます。その間の生活費はご心配なく」
「いつまで待つ気だ? 何年も居候されて、平気だっていうのか」
「貴方はきっと一年経たないうちに決断します。それだけの知恵が備わっていますから」
「ずいぶん買い被ってくれるな。オレは親と喧嘩してウダウダ一年無駄にした野郎だぞ」
「以前はそうすることが父への反抗になると思ったのでしょう? その行為が優柔不断だとか、愚かだということにはなりません。貴方の価値観がそうさせたのだと思います」
シドは皿を置いた。食材の量が増した皿を習一の前に移動させる。
「貴方は以前の貴方がしなかった行動を選んでいます。価値観が揺れ動く最中なのです。今後悔いが残らない決定ができるよう、それだけを考えてください。私にかかる労苦は全く考えなくてよろしいのです」
シドは再び新聞の記事をながめた。習一は譲渡された食べ物をばりばり食う。どうにか相手の涼しい顔を崩せないものかと思案し、下手をすれば自分が窮する話題を思いついた。
「あんたは自分の父親を覚えているか?」
習一の記憶が確かならば、シドにとっての親は彼が主と呼ぶ相手。性別は知らないが、ひとまず父親として話を振った。シドはわずかに眉を上げて習一の顔をじっと見た。唐突な質問に不快を示す様子はない。彼は彼自身の父に対する嫌悪感を持たないようだ。
「親にあたる方は一人いますが……父親ではない気がします」
「なんだ、その言い方。あんたのご主人様はオカマか?」
「見た目で性別がわかる方ではなかったもので」
「ますますわからねえ。男か女かも知らない相手を、本当に親だと思えるのか」
「そう、ですね……普通は親とは呼べないのでしょう」
彼の視線は左手の指に落ちた。白い宝石がついた指輪を見ている。
「この指輪を私に与えたことくらいですね。あの方にとって……私が特別だという証は」
習一の家庭以上に複雑な背景があるらしい。習一は深く踏み入ってよい事情かどうかと悩み、黙った。生まれついての従者とは、昔の奴隷制度を匂わせる出自だ。習一の家庭事情を鼻で笑い飛ばせるほどの過酷な環境で育ったのではないか。
「……あんたは、オレをとんだ甘ったれだと思うんだろうな」
「そんなことはありません。人が感じる幸不幸は性格嗜好と同じく、優劣をつけられません。他者への隷属は貴方には耐えがたい苦行でしょうが、私は抵抗がなかったのです」
「人の子どもになるのも適材適所、てか」
「親は自分の意思では選べませんからね。育ての親と折り合いがつかない人は必ずいます。その場合は一人立ちするか、馬の合う保護者を見つけられたらよいのですが──」
ああそうだ、とシドは何かをひらめいた。
「局地的な状況ではありますが、私が父のように感じた男性はいます。武術の師匠です」
「あんたに弓を教えたやつか?」
「はい、弓以外にも様々な武器の扱いを教わりました。一対一で打ち合う時はなんとも思わなかったのですけど、初めて弓を習う際……言いようのない感覚を覚えました」
シドは両手をすっと動かし、弓をつがえる姿勢をとる。
「彼が背後から私の手を握り、弦の引き方を教えました。その時に私は安心したのです」
空想の弓を置いた彼は手のひらを見つめる。ほんの少し、嬉しそうだった。
「彼のそばにいる間は、私に降りかかる危険を彼が取り払ってくれる。いま考えてみると、そんなふうに感じたのだと思います」
この発言に習一は違和感を覚えた。かように強く、自立した男に、守護者を得て安心する感覚が本当にあるのか。
「師匠に守られてて嬉しいと思えるか? あんたにとっちゃわずらわしいんじゃないか」
「当時の私は右も左もわからない赤子同然でした。戦う術も、他者と接する方法も知らない。無知な私に最善の方法を指導する師匠は太陽にも等しい存在です」
「ふーん、ずいぶん懐いてるんだな、その師匠って男に」
シドは申し訳なさそうに伏し目がちになる。
「いえ……武術の師匠にはあまり敬慕の情を抱きませんでした。彼は武芸の腕は一流ですが、人格者には程遠い方です。私がいつも慕っていたのは……ケイという女性です」
「恋人か?」
シドは微笑みながら頭を横にふった。
「いいえ、彼女も私の師匠です。彼女からは体術と一般常識を習いました。私が間違いを犯せば叱り、正しい行ないをすれば褒める。善悪の判断を教えてくれた……大事な親です。母親と呼べる年齢差はありませんでしたがね」
「じゃ、姉貴ってとこか」
「はい。私は手のかかる弟でした」
習一は昔話の背景を大まかに想像した。シドが武術の指導を受けた時はまだ弱々しい少年だった。親と呼んで差し支えない中高年の男に師事して体を鍛え、姉に相当する若い女性に品行を正してもらい、それらの過程を経て現在のシドを形作った。彼は元から強靭かつ理性的な男性だったのではない。周囲の人間がそうなるように育てたのだ。
「彼女たちとの修業は大変でしたが……とても充実していましたよ」
回顧者は目を細める。その言葉は一点の曇りもない本音だと習一に認めさせた。実の親がおらずとも満ち足りた人生は送れる。だがその実現は個人の力だけでは成就困難。出会う人々に恵まれたがゆえに、足ることを知る彼がうまれた。
(こいつが才穎じゃなくて、うちの高校に来ていたら……)
ありもしない世界を思考するのがバカらしい。習一は席を立ち、無言でトイレへ入った。
5
シドは習一の私服をどうするか尋ねてきた。新たに買うか、エリーに自室から取って来てもらうか。習一は後者を選び、二人は朝食を終えるとまっすぐ下宿先へもどった。シドは来客があると習一に伝えており、部屋へ到着すると鍵が開いていた。室内は冷気がたちこめる。玄関を入ってすぐ横の部屋で物音がした。「アニキ〜」という間延びした声が聞こえる。習一はまだ探険していない一室から、茶色のフワフワしたウニ頭がにゅっと出た。
「お客さん用のお箸が足りないっす! 買い足しに……」
茶髪の少年が習一を視認し、笑顔で一礼する。その表情には初対面の者に対する警戒や気後れが一切なかった。
「おいら、イチカと言います! アニキとはファミリーなんです!」
習一はシドの顔を見上げて「家族?」と聞く。シドは「ものの例えです」と受け流した。
イチカがいた場所は天井の低い台所だった。シドが食器棚にある新品の箸を出すことでイチカの要求に応える。イチカを台所においたまま、二人は居間へ入った。絨毯の上に今朝は見なかった、正方形の座卓がある。四人囲んでぎりぎり食事ができるサイズだ。その周りにシドが座るので習一も倣う。部屋の片隅には大きな横鞄が置かれていた。イチカの所有物だろう。習一はイチカが自分をすんなり客と認識したことが引っ掛かる。
「あいつ、オレがあんたんとこに転がりこんだことを知ってんのか?」
「はい。外食とオヤマダ家頼りの飲食はどうかと思い、数日の食事の用意を頼みました」
「どういう関係だ? だいぶ仲良いみたいだな」
「イチカさんは私の知人の娘さんです」
「え、娘? 女?」
聞きたい答え以外の部分に習一は困惑した。シドは笑って「女性ですよ」と言い直す。
「幼いころから周りは男性ばかりだったそうで、言葉遣いと服装は男性寄りですけど」
「なんだか性別のわからんやつがよく出てくるな……」
「今日不在だった喫茶店の店員のことですか」
「あとレジの店員もな。女なんだろうけど初めは男かと思った」
「店長さんですか。彼女も中性的な方ですね」
「店長? オカマがオーナーなんじゃ」
「オーナーは店舗を所有する出資者です。店を管理する責任者を別に置くこともできます」
「それはわかるが……オーナーが店で働いていたら普通、そいつが店長にならねえか?」
「ご夫婦で経営していますから、負担を分けたんじゃないでしょうか」
「あのオカマが、女と結婚してる?」
習一はまたもや混乱した。女にしか見えぬほどに肉体を女へ改造した男はよく男に興味を持つ。男に異性として見てほしいから外見をいじるのだろう。女と恋愛をするのなら女に化けなくてよいのだ。浅い見識とはいえ習一はそのように認識していた。
シドは習一の心中がわからないと言いたげに眉を少々ひそめる。
「男性と女性ですから、それほど変わった事情だとは思いませんが」
「額面通りに見りゃそうだけどさ……ニセモンの胸を作った野郎が、女に走るか?」
「私は特殊な性別に属する方々への知識が欠けていますので、わかりません」
「オレだってよく知らねえよ。性別不詳のやつらはオレと無関係だ」
別室より「ヒトのこと言えるんすか〜」と揶揄する声が飛ぶ。イチカが茶の入ったプラスチックのコップを卓上に置き、彼女も座卓を囲んだ。
「オダのアニキも女の子みたいっす。言われません?」
「オレが? 中学にあがるまでは間違われたけど、今はねえな」
「そんなに髪長いのに?」
「骨格でわかるだろ」
「骨太の女子だと言われたら信じちゃうっす。顔きれいだし。いっぺん女装してみる?」
イチカが満面の笑みで習一の顔を凝視する。いきなり「あ!」と驚いた。
「ほっぺにおデキができてるっす! お肌のケア、やってます?」
「女々しいことはやらねえ」
「今は男も美肌を追求する時代っす! アニキ、おいらの化粧水と乳液はあるよね?」
シドは「たしか洗面台の棚に」と脱衣場を指さした。イチカがくちびるをタコの口のように尖らせる。
「『たしか』って、昨日今日の洗顔のあとに勧めてあげなかったんすか?」
「はい。男性ですし、いらぬ世話かと思いまして」
「かー、もう! アニキも昭和の男みたいに古臭いんだから!」
「面目ありません」
大の男が少女に堅苦しく謝罪する様子がおかしくて、習一は吹き出した。機嫌を損ねていたイチカが一転して笑い顔になる。
「いい顔してるっす。アニキ、この笑顔を見たことある?」
「ええ、一度は」
「不器用なアニキにしたら上出来っす! どうやって笑かしたんすか」
「オヤマダさんの家にいる猫です。オダギリさんがエサをあげた、その時に」
「な〜んだ、アニキ一人の力じゃなかったんすね」
「猫は人を和ませる天性のプロフェッショナルです。私では逆立ちしてもかないません」
「わんちゃんも癒し系っすよね?」
「犬もですね。人と慣れ親しんでいる動物全般がそうです。オヤマダ家に猫が現れなかったら、犬を飼っているお宅へオダギリさんをお連れしようかとも考えていました」
「どんなわんちゃん?」
「白黒の中型犬です。人懐っこくて優しい子ですよ」
二人はたわいもないお喋りを続ける。明日はどこへ出かけるか相談しあい、仕事机にあるノートパソコンを使ってめぼしい場所を探した。習一は暇つぶしにテレビをつけ、今後の外出予定を二人に丸投げした。習一自身は遊んでいる場合ではないと思うのだが、この二人に言っても通じそうにないのでやめた。
(今ごろ、学校の連中は夏季講習やってんのかな)
習一が補習を受ける期間にも成績良好な生徒は授業に参加した。彼らの登校は三日間では済まない。赤点保持者の補習がたった三日で終わる理由は、夏休みの授業に教師陣が専念するためだ。落ちこぼれに目をかけても利益はない。その切り捨て方がいっそ清々しい。
(ま、見捨ててくれりゃ楽でありがたい)
その考えは習一に利にならない者への正直な思いだ。利害が一致した者同士、関わらないのが得策だ。二学期以降もこじれた関係を続けるかすっぱり身を引くかと考える。
(いまは学校なんかよりも住む場所だよな)
いつまでも他人の居室にあがり込んではいられない。親との仲直りなどという夢想をする前に、自立する手段を模索すべきだ。習一の胸中を知ってか知らずか、遊興先を決める二人はひたすら習一に背を向けつつ案を出した。遊園地や美術館といった定番の遊覧場所が出て、最終的にイチカがプール行きを決定した。水着が実家にもない習一は反対したが、新規購入しに外出するはめになった。シドも遊泳には消極的だったものの、遊行の主導権はイチカにあったので抗議らしい抗議をしなかった。
昼食はイチカ手製の薬味入りそうめんだった。ご飯を食べたあと、三人は近くのデパートへ向かう。外は吸う息で鼻孔が温まるほどに気温が高い。店内の冷房を浴びた時は息を吹き返す心地がした。習一は衣服売り場の商品を見て、自身の着替えの件を思い出した。エリーが自宅から取ってくるという話が今朝あったが、彼女は昼になっても現れなかった。
「なぁ、オレの服って……」
「つい今しがた、エリーが私の部屋に届けてくれました。オヤマダさんの家にも寄っていたので、時間がかかったようです。ご心配おかけしましたね」
「いつそんな連絡してたんだ? 補習を抜けた時も、電話を使ってなかったろ」
「専用の無線機のようなものがあります。お見せすることはできません」
「ふーん。……ところで、あいつは遊びに誘わないのか?」
「はい。あの子は遊びに関心がないですし、ほかに頼みたいことがありますから」
「なにを頼んでるんだ?」
「人捜しです。捜すと言っても会いたくはない相手ですけど」
シドは矛盾をはらんだ物言いをする。その真意が習一にはつかめず、イチカの顔色をうかがった。イチカも事情を知らないとばかりに首を横にふる。
「でも、アニキがやることにはちゃーんと意味があるっすよ」
ね、とイチカがシドに念を押す。絶大の信頼を寄せられたシドは黙して笑った。
6
三人は遊泳に必要なものを買いそろえた。帰る前にイチカがアイスを食べたいと言って、ソフトクリームを二つ購入する。一つは習一に、一つはイチカ自身が口にする。冷菓を摂取することで帰路の炎天下は紛らわせた。道中、イチカが自分のソフトクリームをシドに食べさせる。シドは遠慮したが「アニキの体のためっす!」とイチカが強く勧めるのに屈した。暑さにやられる男じゃないが、と汗一つかかないシドを見て習一は不思議がった。
もどった部屋には習一の服の入った布袋と扇風機が置いてあった。エリーが届けた物だろうが、扇風機は習一の希望にない品だ。習一は「こいつはどこから?」とシドに聞く。
「オヤマダさんに貰ったものです。ロフト部屋にオダギリさんが寝泊まりする状況をエリーが伝えたら、きっと熱がこもるから必要だと言ってくれました」
「いいのか? あいつの家だって使うだろ」
「押入れにあった扇風機だそうです。現在は別の性能のよいものを使うようですよ」
扇風機は表面の色落ち具合から年数の経ったものだとわかる。廃棄寸前であろう道具を譲り受けるのは気負いしない。シドは扇風機の首を上下左右に動かし、可動域を確認する。
「問題は設置箇所ですね。ロフトに運んで使うか、下から空気を循環させるか」
「下に置いときゃいいんじゃねえか。風呂あがりに涼みたい時なんかも使える」
「それだとイチカさんも使えますね」
暫定的に扇風機を階段兼用棚の前に置いた。イチカがさっそく扇風機の風にあたって体を冷やす。習一はエリーが選択した自分の服を点検した。どれも夏用の薄着だ。春秋用の長袖はない。習一の長期にわたる出奔は想定していないらしい。
(前に、夏休みが終わるまでにどうにかしたいと言ってたか)
購入品を使用者三種に仕分けするシドの横顔を見つつ、習一は彼の発言を思い出した。シドの計画はどこまで達成できたのだろう。初めから習一の保護を視野に入れていたようだが、現状維持で終わらせるとは思えない。
(そういや、なんでこいつと一緒にいるようになったんだっけ?)
昨日まではシドが習一の復学を支援する名目で、休日を問わず外出し続けた。当初の目的は学校とも家族とのいざこざとも違う。習一がなくしたという記憶の復元が先立っていた。かれこれ一週間、シドと過ごす日々を送ってきたものの、成果はまだない。
「いつになったらオレの記憶はもどる?」
シドは脈絡のない質問を受けたにも関わらず、微笑んだ。
「そうですね……もう少しアクティプに動いてよい頃合いかもしれません」
「アクティブぅ?」
「貴方を入院に追いやった張本人に会います」
習一の背すじがしゃきっと伸びる。いきなりの問いにふさわしいと言えばふさわしい、突拍子ない案には少々肝を冷やした。犯罪者への面会は体験する機会がない。配慮に長けたシドの手配ならば習一に危険はないとはいえ、悪人と正面切って会うことは度胸がいる。
「会うって……刑務所で?」
「場所は違いますが、警官の管理下に置かれた相手ですから怖がらなくていいですよ」
「警官の……んじゃ、留置場か」
「準備ができたら改めて話します。面会の際はシズカさんに同席してもらいましょう」
「あんたは?」
シドは悲しそうに眉をひそめた。今まで空気のごとき自然体で習一に付き添ってきた者が、罪人との対面においては同行を渋っているようだ。
「私も……同席します。そうです、犯人とは顔を合わせるだけにしましょう」
言ってシドは習一の分のサンダルや水着入れを差し出した。そして明日使うタオルを取りに脱衣場へ行く。習一は彼の反応の理由が気になり、またしてもイチカに疑念の視線を向けた。イチカは困った顔をして「おいらの口から言えないっす」とだけ答える。
「とにかく、明日は泳いで楽しむっす! 今日の夕飯は元気のつくもんを作るっすよ〜」
イチカは扇風機の風を止め、室内の戸を開けて台所へ行った。習一はタグが外された遊泳の道具はそのままにし、エリーが届けた衣服を一時的な自室へ運んだ。
夕飯時になると習一たちは猫らを別室へ移動させた。手作りの居住地と、購入したという猫用のトイレも一緒に運びおえ、小山田家の食卓が始まる。仕事のあったノブは途中から加わり、食後のデザートがあると知って喜んだ。彼は精神的な年齢でいうと小山田家の中で一番幼いかもしれない、と習一は裏表のない中年を評した。だが担任とは異なる幼さだ。向こうは身勝手な幼稚さがあるのに対して、ノブは周囲の者を尊重した上で少年の心を発揮する。目下な娘と対等な接し方をするあたりが顕著だ。
(こういう親がいりゃ、いい子ちゃんに育つわな)
父と顔立ちの似た娘を見て思う。母と祖母もまた温和な性格ゆえに、性根の曲がる機会はなかったのだろう。絵に描いたような幸福な家庭だ。不公平、の単語が頭をかすめた。
計十五個あったケーキ類は六人に均等に分配した。教師は一つだけでいいと言って四個余り、それらは小山田家の明朝のデザートに取っておく。残りを見た小山田が「チーズは茶トラでチョコは黒猫っぽいね」としょうもない置き換えをした。この女子は視界に猫がいない時も頭には猫が住みついている。こいつも動物好きか、と習一は内心呆れた。
人間の飲食が済み、教師らが猫の様子を確認しにいった。居間にもどると元気があり余る子猫二匹を引き入れる。ダンボールの中で眠る母猫と茶トラの安眠目的で連れ出したという。猫用トイレ等を買うついでに得たおもちゃで、一家と教師が代わる代わる子猫をあやした。当初、野良猫の飼育に難色を示したミスミは笑顔で子猫を見守る。その喜色は猫や動物嫌いの人間には浮かべられないものだ。彼女もペットの愛育にはやぶさかではないのだろう。あの時の拒絶は純粋に、愛情をかけた対象が先立つもろさを嫌うようだった。
教師が猫とのたわむれに満足がいったあと、習一たち客分は小山田家を出た。夜道をいく習一の足運びは鈍重だ。教師が「もう少し外をぶらつきますか」と聞いてきた。
「いや、いい。あんたに行きたいところがあるなら別だけど」
「特にありません。では、行きましょうか」
実直な教師は無為な寄り道を提案しなかった。帰宅したくない気持ちを察したのなら本屋にでも連れていってくれればいいのに、と習一は自分で断っておきながら不服に思った。
「……明日は、あんたはどうするんだ」
「予定を決めていません。また、オヤマダさんの家で猫と遊ぼうかと」
「本当に好きなんだな」
「貴方も嫌いではないのでしょう。猫も、あの家族も」
習一はひねた返答が思いつけない。かわりに正鵠を得てはいない正直な言葉を選ぶ。
「そう……だな。あそこは猫にもいい環境だろうよ」
「オヤマダ家の子になってみますか?」
「なにを、トチ狂ったことを抜かしやがるんだ」
教師は足を止めた。半身を習一に向ける。
「冗談は言っていません。あの家庭は貴方が過ごしやすい場所だと思います」
「数回限りの客だったから良くしてくれただけだ。他人を養う余裕なんかないだろ」
「無関係な人を何年も世話することは難しいでしょう。ですが、自力で生活できるまでの期間でしたら前例があります」
一昨日の話題にあがったマサという人物のことだ。そうわかった習一は口を閉じた。
「もちろん、貴方が父親と腹を割って話して、仲直りできればそれが一番よいです」
「……言うだけなら簡単だな」
「それほどに血筋の問題は根深いですか」
習一は全身が粟立った。なぜ、この男の口からその言葉が出るのか。喉の奥が詰まり、問いただすことができない。習一は黄色のレンズを凝視した。まっしろになった頭の活動はすぐに復活せず、教師と目が合った状態で立ち尽くす。
「図星、と見てよろしいでしょうか」
澄みきった声が習一の平常心を喚起する。習一はうつむいて「なにが」と虚勢を張った。
「貴方が、裁判官である父親の血を引いていないということです」
「なんで、そう思った?」
「確証はありません。オヤマダさんが『もしかしたら』と勘で教えてくれました」
習一と女子生徒が会ったのは三日間だけ。この短期間にそんなサインは送っていない。
「どういう発想だ?」
「女性特有の洞察力といいましょうか……メス猫が複数のオスの子を産めると言った時に貴方が急に不機嫌になった、と彼女が言っていました」
それが嫡出でないこととどう繋がる、と習一が指摘する間なく教師は説明を続ける。
「どうして貴方が猫の特性に嫌悪するのかとオヤマダさんが考えた結果、多数の異性と関係を持つ女性が嫌いなのではないか、と思ったそうです。ではなぜ多情な女性を嫌うのか。女性に強い関心やこだわりはなさそうな貴方が、異性に貞潔を厳しく求めるようには見えない。ならば、不貞な女性のせいで不利益をこうむっているのではないか、と」
「ぶっ飛んだ推理だな。倫理もへったくれもねえ動物と人間が同じなわけないだろうに」
「根拠は猫の件一つではありません。貴方が初めてミスミさんに会い、夕食を食べた時にも少し機嫌が悪くなったそうですね。これはミスミさんがおっしゃったことだそうです」
「そんなこと……」
ない、と言うのを思い留まった。娘が「似たかった」という対象が現れた時、習一はなんと感じたか。父に似た子をうらやみ、その幸運を不運だと見做す相手をさげすんだ。
「オヤマダ家の料理が貴方の味覚に合うことは私が知っています。料理以外で貴方が不満に思ったこと……それは、なんですか?」
習一は下くちびるを噛んだ。だがこのまま黙っているのが癪で、質問し返すことにした。
「小山田はどう解釈した?」
「貴方が母親という存在に苦手意識を持っている、と。正確にはミスミさんがそのように受け止めたのを、オヤマダさんが信じました」
「ふん、そりゃあ外れだ。オレがムカついたのは小山田のほう。自分が恵まれてることを知らねえで、わがまま言ってやがったからな」
習一はずかずかと歩き、教師の前を行く。自宅に到着するまで二人の会話はなかった。
2
習一は自宅の玄関を開ける前に後ろを見た。敷地内を守る塀と塀の間に設けた鉄格子の奥に、銀髪の男性が立つ。彼は習一が帰宅する現場を確認できるまで、ああして見守る気だ。まるで幼い子どもが寝付くまでかたわらにいる親のよう。その視線を断ち切るため、習一は玄関に入る。一目散に風呂場へ行って制服を脱ぎたいと思った。
「ずっと無視するつもりか?」
恨みがましい声が習一の耳に絡みついた。習一は早歩きで居間の付近を離れようとする。
「暗くなるまで遊びほうけて、まだ懲りないか。そんなだから入院したんだろうが!」
中年の怒声とフローリングを踏み鳴らす足音が接近する。乱暴な手が肩をつかんだ。
(殴る気か……今日は我慢してやる)
この数日間を平穏に過ごした代償だ。習一は奥歯を噛みしめ、目を閉じた。しかし打撃は受けなかった。中年の戸惑う声が聞こえる。
「なんだ、お前は! 不法侵入だぞ!」
習一がまぶたを開くと、銀色に光る頭髪が目についた。途端に体の硬直が解ける。教師が父の暴行を未然に防いだのだ。浅黒い手は中年が振り上げた右手首をかたく握る。中年は彼の束縛を逃れようとして右腕を動かすが、筋肉質な手腕は微動だにしない。
「どんな理由があるにせよ、親が子に暴力をふるって良しとするルールはありません。まずは言葉を交わしましょう」
緊迫した状況にあっても教師は理性的だ。その態度が余計に中年を苛立たせた。
「若造が知ったふうな口をきくな! 父親に断りもなく、息子を連れまわしおって!」
「貴方の許可をとらなかった非礼は詫びます。ですがこの数日、彼が非行に走るような真似はいたしておりません。そこは誤解しないでいただきたい」
中年は習一への関心が薄れ、若き教師をにらみつける。敵視する対象が変わったと知った教師は拘束を解いた。中年は自由になった腕を大仰に振り、身なりを整える。
「役所や警察の者じゃないくせに、なぜ息子にかまう?」
「お子さんが健やかに生活できるよう、とり計らっています」
「報酬なしでか? 信用ならんな」
「ツユキという警官が御夫人に事情を伝えたはずです。お聞きになっていませんか?」
「そんなこと、どう信じろというんだ! 他校の教師が見ず知らずの子どもを指導してなんの得がある。目的を言え!」
習一は忌々しげに笑った。父は習一と同じ疑い方をしている。似なくていい部分を似てしまったのだ。鼻で笑う習一を中年がねめつける。
「お前もお前だ。こんな怪しい男と一緒にいて、また悪さをする気なんだろう。こんな髪を染めたチンピラまがいの──」
「その銀髪は地毛だ」
訂正を受けた父は教師へ視線を移す。教師は眉を上げ、習一の弁護を意外そうに聞いた。父は非難のあてが外れた挽回に「髪はどうでもいい!」と叫び、握りこぶしをつくる。
「雒英の教師とは話がついている。息子の落第はもう免れたわけだな? きみの役目は終わった。早く帰るんだ! 二度とうちの敷居をまたぐな」
「いいえ、私の責務は残っています。貴方の暴力行為は見過ごせません。それこそ市役所か警察に相談して、貴方の指導監督なり息子さんの保護なりを依頼する必要があります」
「証拠もないのに役人が動くと思うのか。浅知恵だな」
「裁判所に勤める裁判官に家庭内暴力の疑いがある、と知れ渡ってもよろしいのですか」
父は口をゆがめ、眉間にしわを寄せる。外聞を気にかける中年には耳に痛い指摘だ。しかし父は屈さない。
「司法に携わる者としがない高校教師、世間はどちらを信用すると思っている?」
「それはわかりません。ですが一つだけ、確証があります」
父が「なんだ?」と吐き捨てる。侮蔑の情をぶつけられた教師は不敵な微笑を見せた。
「貴方も私も、間違いを犯さずに生きられる聖人ではないということです」
笑みを嘲笑だと捉えた父はわなわなと震える。「出ていけ」とくぐもった声が命じた。
「聞こえなかったか。今すぐにこの家を出ていけ! 警察を呼ぶぞ!」
罵声をあびた教師は逆上した中年ではなく、習一に目を合わせた。
「私はこれでお暇します。オダギリさんはどうしますか?」
いつもの調子で習一に尋ねてくる。どこへ行く、なにをする、なにを食べる。それらの質問に習一が答えを出さない時、教師が代わりに決定した。それらは全て、習一には良い、または悪くないと考慮したすえに提示された選択だった。そう理解できたがゆえに習一は承諾した。
だが今の問いは違う。習一の自己決断ができないなら、彼は父の命令に応じて一人で去るだろう。それが習一にとって最悪の行動だとわかっていても。
「……出ていくよ」
ぽつんと習一は自分の意思を口にした。いずれそうしなければならないと考えていたことだ。ひとたび宣言してしまうと、ずいぶん体が軽くなった気がした。二度と足を付けないかもしれぬ廊下を踏みしめ、脇目もふらずに外を目指す。靴を履き直し、玄関の戸を開けて振り返った。父はあんぐりと口を開けている。
「これで邪魔者は消える。今晩はぞんぶんに祝杯をあげるこった」
戸を強く押し、習一は玄関を出た。早歩きで光ある場所から離れる。いつもは時間経過で閉まる戸の音が鳴らなかった。教師の「失礼します」という律儀な挨拶が聞こえたので、彼が戸を静かに閉めたようだった。
3
習一はあてもなく歩いた。どこかへ行こうという明確な目標は出ない。無心に、何も考えないようにと、無意味に急ぐ。やみくもに移動するうち、自分以外の足音が常について回ることに気付いた。習一が立ち止まると追跡者の物音もやんだ。後ろを見れば体格の良い男性のシルエットがそこにある。
「どこまでついてくる気だ?」
「オダギリさんが一晩過ごす場所を決めるまで、同行します」
「駅の待ち合い所やコインランドリーで寝るかもしれんぜ」
「そこではぐっすり眠れますか?」
「そんなわけあるか。硬い椅子の上で熟睡できやしねえよ」
父に弁論で勝ったくせにトンチンカンなやつだ、と習一はむしゃくしゃした。
「では布団のある寝床を望まれるのですね」
言うまでもない理想条件を教師は問う。習一は馬鹿げているとは思いつつ返答する。
「布団はそのへんに落ちてないだろ。あっても虫が湧いていそうだ」
「清潔な寝床は私が提供しましょう。どうです、私についてきませんか?」
「どこへ行くんだ?」
「私の下宿先です。今日のところはそこで手を打ってください」
教師の部屋で寝泊まりする。そこに彼の妹分も住むのだろうか。
「エリーもいるのか?」
「彼女はほかに厄介になるお宅があります。いたりいなかったりしますね。オダギリさんはエリーと一緒にいたいのですか?」
「いや、あの子とあんたは家族みたいだから聞いただけだ。そんな色ボケた発想はない」
教師の頭部が揺れる。首をかしげたように見えた。
「色ボケ……? 私は貴方がエリーに気を許していることを言ったのですけど」
「オレが?」
教師の目には習一が銀髪の少女に心を開くものだと映っている。習一にその実感はないが、教師よりは警戒していない自覚があった。
「外で立ち話もなんですから、私の部屋へ行きましょう。蚊に刺される前に」
「ああ……わかった。あんたの世話になる」
「一つ、よろしいでしょうか」
話がまとまったのになにを言い出すのやら、と習一は耳を傾ける。
「私のことはシドと呼んでください。私はこの呼び名を気に入っています」
「なんだ、そんなことか。気がむいたら呼んでやる」
習一は一宿の恩人に不遜な了承をした。その物言いが礼儀知らずだとわかりつつも「わかった、そう呼ぶ」とは明言できなかった。相手は周囲から先生の尊称付きで呼ばれている。習一が出会った人物では、彼を名前だけで呼ぶ者はエリーのみ。習一も呼び捨てにしてよいのだろうが、近親者が使う呼び方を乱用する気になれない。白壁のように他校の教師にもかまわず「先生」と慕う純朴さもない。「あんた」という人代名詞がもっとも習一の気質に合致する。シドに投げた台詞は習一にとって最大限の前向きな表明だった。
シドが習一の言い方を不快に感じた様子はなく、淡々と下宿先に案内する。その仮住まいは才穎高校の経営者が建てたアパートだと語った。該当者は少ないが同学校に通う生徒も住むという。一人暮らしをする高校生は存在するのだ。
(オレも……早く住む所を見つけないとな)
居候を頼める身内はいない。住居費を払う資金も持ち合わせていない。どうやって一人暮らしを成立させるか、と考えると途方に暮れた。過去にも空想した一連の流れだ。そのたびに自分には無理だと思い、実家に縛られるのを父への反抗の機会とした。息の詰まる生活との別離を決心した今、すぐにでも金策と住居の手配を考えるべきだ。
生活の目途が立つまでは教師に頼らざるをえない。おそらく彼もそのつもりだ。浮浪児を放置すれば、窃盗恐喝といった犯罪行為に走る事態は想像がつく。警官を友とする人物が犯罪者予備軍をみすみす見逃しはしないだろう。
(こいつがオレを守るワケはきっと、他の連中のためなんだ)
習一を憐れんでの善行ではない。他者への被害を防ぐ自衛策だ。そう考えると厚意に甘んじる引け目は薄れた。同時にその推察が真実を捉えていないのではないかと訴える異物が胸の奥に住みつく。異物に対峙する気力は持てなかった。
シドはアパートの自室の扉を開け、暗い部屋の照明を点ける。玄関の奥には部屋を仕切る戸があった。その戸も開いて電灯をともす。習一が一番に目にしたものは仕事机とその上にある寝台──ロフトベッドだ。高さのあるベッドに合わせて部屋の天井も高くなっている。
「少し部屋の整理をします。その間、体を流してください。着替えは出しておきます」
着の身着のまま家を出た習一には寝泊まりする用意がない。しかし、かろうじて習一の衣服一式はこの部屋主に預けてあった。
「あんた、こうなるとわかってたな」
シドはリモコンを操作して冷房を入れる。彼は黙って習一を見た。
「だから風呂屋に行かせて、着替えを確保したのか。オレをいつでも迎えられるように」
思えば律儀な彼が洗濯物を一向に返さないのは不自然だった。現在は一年でもっとも洗濯物が乾きやすい季節。一日経てば返却できたはずである。彼はこの三日間をわざわざ習一の家先に出向いたのだから、もののついでに衣類を持ってこれた。あるいは便利屋なエリーに届けさせることだってできただろう。
「……貴方は父親と距離を置くべきだと考えていました。宿泊所が私の部屋か、オヤマダさんの家が良いかわかりませんが、衣食住に関しては不自由させません」
「なんのために、オレなんかの世話を焼く?」
「今はお答えしかねます。かわりにこれだけは言っておきましょう。貴方が安定した生活を過ごせるようになるまで、私は貴方とともにいます。貴方が私を信用しなかったとしても、自分の行動は変えません」
「わかった、理由は聞かない。けどこれは教えろ。オレを助けて、見返りはあるのか?」
「罪滅ぼし……一種の自己満足です。私の道楽だと考えてもらってかまいません」
「罪、ねえ」
習一は意味深な台詞を放置し、部屋主に従って脱衣場に足を踏み入れる。そこは洗面台があり、その隣りのくぼんだ壁に埋まるようにして洗濯機が設置してあった。シドはプラスチック製の洗濯かごを指して「ここに脱いだ服を入れてください」と言い、居間へもどった。習一は制服のポケットの中身を出す。手近な棚に私物を置いて服を脱ぎ、かごに放って浴室へ入った。シャワーから出る水がお湯になるのを待ちつつ、一室の状態を確認する。男性の一人部屋ともなると掃除が行き届かないだろうと覚悟していたが、予想外に綺麗だ。鏡に水垢はついていない。水場によくある赤カビもない。目地につきものな黒い汚れも見当たらない。風呂屋やホテルと同等に清潔な風呂場だと習一は感じた。
(オレが来ると思って、掃除したのか?」
一般的に教員は休暇が少ないと聞く。一人暮らしの教師が日常的に家事をぬかりなくこなす様子は想像しにくい。浮浪少年を保護する目的で、労を割いたのだろうか。
(クソ真面目そうだからな。普段からこうなんだろ、きっと)
習一はそう思いこんだ。ひとえに、他人が自分に尽くしている、という発想から逃れるためだ。お湯を体にかけ、シャンプー類を使って汚れを落とした。
浴室を出てすぐの棚に、先ほどはなかった衣類があった。衣類の上にあるタオルで水気をふき取り、畳まれていた服を着る。リビングに出ると涼しい空気がたちこめていた。居住者の姿はない。上のほうから物音がして、習一は天井をあおいだ。
(二階がある……?)
部屋の上部には間口の広い押入れのような場所がある。そこからシドの顔が現れた。
「今晩はこちらに寝てもらいます。布団を敷いたので眠る準備ができたら上がってください」
シドは前屈みになって立ち、壁に設置したスロープに手をかけながら階段を降りる。その階段は収納棚だ。大小様々な四角の空洞があり、その中に本やテレビが置いてある。ロフトベッドといい、とにかく空間を最大限に活用しようという造りの部屋だ。賃貸の部屋で、個人がこれほど無駄のない内装に設計できるだろうか。
「このアパートはぜんぶ、こういう部屋なのか?」
「ええ、家具家電とロフトつきです」
「へえ、その階段にできる棚は経営者のセンスか」
「そうです。体重が重いと上り下りの最中に壊れないか心配になりますけどね」
「あんたが乗っててなんともないんなら、安心だ」
習一はロフト部屋に上がろうとした。しかし習一の濡れた髪と歯みがきの未完了をシドが指摘し、洗面所へ習一を連行する。用意してあった新品の歯ブラシと歯磨き粉を使い、習一がしぶしぶ歯磨きをはじめた。その間、シドが湿った頭髪にドライヤーの風を当てる。
(こいつ、子どもを育てたことあんのか?)
この甲斐甲斐しさはズブの素人にできない芸当だ。彼には年齢の離れた妹分がいるため、その面倒をみるうちにつちかった手際かもしれない。
(オレはぜんぜん、妹に手をかけなかったな)
妹の身支度を整えたり子守りを頼まれたりした思い出はない。妹の身の回りの雑事は両親がすべてやった。特に父は妹を溺愛し、習一に妹を託す指示は出さなかった。子どもがやる世話はつたなくて目に余ったのかもしれないが、本当は信用ならなかったのだろう。
(他人に自分の子を預けるようなもんだ。それも憎んでた男の……)
これ以上の思考は中止した。鏡に映る自分の顔が情けなくなったと感じたせいだ。世話人に気取られなかったと信じて、口腔内をすすいだ。
4
習一は掃除機の音で目覚めた。現在いる空間の壁には床のすぐ上に小窓があり、そこから光が差しこむ。その明るさは日の出から数時間が経過したことを予想させた。
ロフト部屋は人がまっすぐ立てないほどに天井が低い。この場での移動は腰を曲げて歩くか、四つん這いになる。習一は四肢をついて動いた。ロフト部屋と居室との境目には蛇腹折りの硬いカーテンがあり、昨晩は空調の冷風を遮断せぬよう半分開けていた。習一はカーテンを全開にする。初めに黒灰色のシャツが見え、次に掃除機のノズルがすべる光景が見える。ほこりを吸い取る音が止み、清掃人が顔を上げた。連日、目にするサングラスがある。
「おはようございます。昨夜は眠れましたか」
習一は素っ気なく返事をしておいた。部屋主は掃除機を持ち上げて玄関へと姿を消す。階段を降りた習一は開放されたベランダに注目する。物干し竿に制服のズボンがハンガーにかかった状態で干されていた。他の洗濯物はなく、単品で洗われたらしい。
(クリーニングに出した……ら、こんな早くもどってこないし、干さなくていいよな)
他の服とまとめて洗濯機で洗えばいいのに、と効率の悪さを胸中でなじった。一点干しを行なった者は脱衣場に行き、脱水した衣類を入れた洗濯かごを抱えてくる。シドはベランダに出て衣類を干す。その背中に、習一はつい先ほど感じた疑念をぶつけた。
「なんでズボンだけ先に洗ったんだ?」
「手洗いが機械の洗濯より早く終わりました」
シドは物干し竿と洗濯かごの二方向にのみ顔を向けつつ答えた。
「オレの制服だけ? あんたのズボンは?」
「洗濯機で洗えるタイプですので、いつも自動洗濯しています。学校の制服ズボンは替えがききませんから安全な方法で洗いました」
「そんな手間のかかることを……」
「私は掃除と洗濯が好きです。これくらいの作業は負担になりません」
シドは洗濯ネットに入れた衣類を取り出す。それは制服のシャツだ。多少ねじれた箇所はあるが、畳まれていたあとが残る。
「洗う前にも畳むのか?」
「こうするとシワになりにくいのだそうです」
「デカイ体しといて、マメなことやるんだな」
「大事な制服ですから。それはそうと顔を洗ってはどうです。朝食をとりに行きますよ」
「どこで食う気だ?」
「最初に私と一緒に行った喫茶店です」
「オカマがいるっていう店か」
「そういう覚え方が適切なのかわかりませんが、そこで合っています」
目下の行動計画を聞いた習一は洗面所に行き、顔に水をぱしゃぱしゃかける。朝の洗顔はしなくとも気にならない性分だが、そのことで保護者にそむく意義はないので指示を聞いた。
ぞんぶんに水を浴びたあとは洗面台に掛けたタオルで顔を拭く。水気を取った顔を鏡に映すと、少しこけていた頬が幾分ぷっくりしている。この一週間、シドの手引きで栄養を摂取しつづけた成果だ。退院したての頃は心身ともに萎えた状態だったのが、目に見えて回復した。唯一、もどらないものは不特定多数に向かう敵愾心(てきがいしん)だ。
(飼い馴らされた犬になっちまったか?)
別人かと思うほどに習一は他者への反抗が減った。憑き物が落ちたかのごとくあらゆるものを受け入れる心構えができた気がする。その原因は推理するまでもなくあの男にある。
(変だな……あんな真面目くさった、獣贔屓野郎に……)
改心させられている、と考えるのを頭をぶるぶるふって打ち消した。
ノーネクタイの同室者と共に外出し、徒歩で個人経営の喫茶店に行く。照りつく太陽は熱く、習一が洗った顔に汗が流れた。夏場は朝洗顔の意味がないと思った。
数日ぶりの喫茶店内は客数が少なかった。レジの店員はボーイッシュな女性のままだが、客を案内する給仕は小山田だ。習一は噂のオカマ従業員の姿がないのを不審に思う。
「やたら胸のデカイ男女は、いないのか?」
「オーナーはモデルのお仕事中だよ。ちょっと日取りがわるかったね」
その表現は習一がオカマ目当てに来たかのようだ。習一は「べつに会いたかねえよ」と毒づいた。
習一はドリンクの注文を終え、取り放題のサラダや卵を皿に盛って食べる。同席者は店内の雑誌コーナーにあった新聞紙を広げる。黄色のサングラスや変わった髪色がなければ普通のビジネスマンだ。様になるくつろぎぶりを前にして習一は声をかけるのをためらい、顔見知りの給仕が飲み物と食べ物を届けるまで無言でいた。
深緑色のエプロンをかけた小山田が厨房へ去る。シドは自分の食事を習一の皿に分けた。彼の意識が習一に向いたのを見計らい、習一は一番に気兼ねする事柄をぶつける。
「オレをとっとと部屋から出したいだろ。そんなにのんびりしてていいのか」
「貴方が納得のいく身の振り方を決めるまで待ちます。その間の生活費はご心配なく」
「いつまで待つ気だ? 何年も居候されて、平気だっていうのか」
「貴方はきっと一年経たないうちに決断します。それだけの知恵が備わっていますから」
「ずいぶん買い被ってくれるな。オレは親と喧嘩してウダウダ一年無駄にした野郎だぞ」
「以前はそうすることが父への反抗になると思ったのでしょう? その行為が優柔不断だとか、愚かだということにはなりません。貴方の価値観がそうさせたのだと思います」
シドは皿を置いた。食材の量が増した皿を習一の前に移動させる。
「貴方は以前の貴方がしなかった行動を選んでいます。価値観が揺れ動く最中なのです。今後悔いが残らない決定ができるよう、それだけを考えてください。私にかかる労苦は全く考えなくてよろしいのです」
シドは再び新聞の記事をながめた。習一は譲渡された食べ物をばりばり食う。どうにか相手の涼しい顔を崩せないものかと思案し、下手をすれば自分が窮する話題を思いついた。
「あんたは自分の父親を覚えているか?」
習一の記憶が確かならば、シドにとっての親は彼が主と呼ぶ相手。性別は知らないが、ひとまず父親として話を振った。シドはわずかに眉を上げて習一の顔をじっと見た。唐突な質問に不快を示す様子はない。彼は彼自身の父に対する嫌悪感を持たないようだ。
「親にあたる方は一人いますが……父親ではない気がします」
「なんだ、その言い方。あんたのご主人様はオカマか?」
「見た目で性別がわかる方ではなかったもので」
「ますますわからねえ。男か女かも知らない相手を、本当に親だと思えるのか」
「そう、ですね……普通は親とは呼べないのでしょう」
彼の視線は左手の指に落ちた。白い宝石がついた指輪を見ている。
「この指輪を私に与えたことくらいですね。あの方にとって……私が特別だという証は」
習一の家庭以上に複雑な背景があるらしい。習一は深く踏み入ってよい事情かどうかと悩み、黙った。生まれついての従者とは、昔の奴隷制度を匂わせる出自だ。習一の家庭事情を鼻で笑い飛ばせるほどの過酷な環境で育ったのではないか。
「……あんたは、オレをとんだ甘ったれだと思うんだろうな」
「そんなことはありません。人が感じる幸不幸は性格嗜好と同じく、優劣をつけられません。他者への隷属は貴方には耐えがたい苦行でしょうが、私は抵抗がなかったのです」
「人の子どもになるのも適材適所、てか」
「親は自分の意思では選べませんからね。育ての親と折り合いがつかない人は必ずいます。その場合は一人立ちするか、馬の合う保護者を見つけられたらよいのですが──」
ああそうだ、とシドは何かをひらめいた。
「局地的な状況ではありますが、私が父のように感じた男性はいます。武術の師匠です」
「あんたに弓を教えたやつか?」
「はい、弓以外にも様々な武器の扱いを教わりました。一対一で打ち合う時はなんとも思わなかったのですけど、初めて弓を習う際……言いようのない感覚を覚えました」
シドは両手をすっと動かし、弓をつがえる姿勢をとる。
「彼が背後から私の手を握り、弦の引き方を教えました。その時に私は安心したのです」
空想の弓を置いた彼は手のひらを見つめる。ほんの少し、嬉しそうだった。
「彼のそばにいる間は、私に降りかかる危険を彼が取り払ってくれる。いま考えてみると、そんなふうに感じたのだと思います」
この発言に習一は違和感を覚えた。かように強く、自立した男に、守護者を得て安心する感覚が本当にあるのか。
「師匠に守られてて嬉しいと思えるか? あんたにとっちゃわずらわしいんじゃないか」
「当時の私は右も左もわからない赤子同然でした。戦う術も、他者と接する方法も知らない。無知な私に最善の方法を指導する師匠は太陽にも等しい存在です」
「ふーん、ずいぶん懐いてるんだな、その師匠って男に」
シドは申し訳なさそうに伏し目がちになる。
「いえ……武術の師匠にはあまり敬慕の情を抱きませんでした。彼は武芸の腕は一流ですが、人格者には程遠い方です。私がいつも慕っていたのは……ケイという女性です」
「恋人か?」
シドは微笑みながら頭を横にふった。
「いいえ、彼女も私の師匠です。彼女からは体術と一般常識を習いました。私が間違いを犯せば叱り、正しい行ないをすれば褒める。善悪の判断を教えてくれた……大事な親です。母親と呼べる年齢差はありませんでしたがね」
「じゃ、姉貴ってとこか」
「はい。私は手のかかる弟でした」
習一は昔話の背景を大まかに想像した。シドが武術の指導を受けた時はまだ弱々しい少年だった。親と呼んで差し支えない中高年の男に師事して体を鍛え、姉に相当する若い女性に品行を正してもらい、それらの過程を経て現在のシドを形作った。彼は元から強靭かつ理性的な男性だったのではない。周囲の人間がそうなるように育てたのだ。
「彼女たちとの修業は大変でしたが……とても充実していましたよ」
回顧者は目を細める。その言葉は一点の曇りもない本音だと習一に認めさせた。実の親がおらずとも満ち足りた人生は送れる。だがその実現は個人の力だけでは成就困難。出会う人々に恵まれたがゆえに、足ることを知る彼がうまれた。
(こいつが才穎じゃなくて、うちの高校に来ていたら……)
ありもしない世界を思考するのがバカらしい。習一は席を立ち、無言でトイレへ入った。
5
シドは習一の私服をどうするか尋ねてきた。新たに買うか、エリーに自室から取って来てもらうか。習一は後者を選び、二人は朝食を終えるとまっすぐ下宿先へもどった。シドは来客があると習一に伝えており、部屋へ到着すると鍵が開いていた。室内は冷気がたちこめる。玄関を入ってすぐ横の部屋で物音がした。「アニキ〜」という間延びした声が聞こえる。習一はまだ探険していない一室から、茶色のフワフワしたウニ頭がにゅっと出た。
「お客さん用のお箸が足りないっす! 買い足しに……」
茶髪の少年が習一を視認し、笑顔で一礼する。その表情には初対面の者に対する警戒や気後れが一切なかった。
「おいら、イチカと言います! アニキとはファミリーなんです!」
習一はシドの顔を見上げて「家族?」と聞く。シドは「ものの例えです」と受け流した。
イチカがいた場所は天井の低い台所だった。シドが食器棚にある新品の箸を出すことでイチカの要求に応える。イチカを台所においたまま、二人は居間へ入った。絨毯の上に今朝は見なかった、正方形の座卓がある。四人囲んでぎりぎり食事ができるサイズだ。その周りにシドが座るので習一も倣う。部屋の片隅には大きな横鞄が置かれていた。イチカの所有物だろう。習一はイチカが自分をすんなり客と認識したことが引っ掛かる。
「あいつ、オレがあんたんとこに転がりこんだことを知ってんのか?」
「はい。外食とオヤマダ家頼りの飲食はどうかと思い、数日の食事の用意を頼みました」
「どういう関係だ? だいぶ仲良いみたいだな」
「イチカさんは私の知人の娘さんです」
「え、娘? 女?」
聞きたい答え以外の部分に習一は困惑した。シドは笑って「女性ですよ」と言い直す。
「幼いころから周りは男性ばかりだったそうで、言葉遣いと服装は男性寄りですけど」
「なんだか性別のわからんやつがよく出てくるな……」
「今日不在だった喫茶店の店員のことですか」
「あとレジの店員もな。女なんだろうけど初めは男かと思った」
「店長さんですか。彼女も中性的な方ですね」
「店長? オカマがオーナーなんじゃ」
「オーナーは店舗を所有する出資者です。店を管理する責任者を別に置くこともできます」
「それはわかるが……オーナーが店で働いていたら普通、そいつが店長にならねえか?」
「ご夫婦で経営していますから、負担を分けたんじゃないでしょうか」
「あのオカマが、女と結婚してる?」
習一はまたもや混乱した。女にしか見えぬほどに肉体を女へ改造した男はよく男に興味を持つ。男に異性として見てほしいから外見をいじるのだろう。女と恋愛をするのなら女に化けなくてよいのだ。浅い見識とはいえ習一はそのように認識していた。
シドは習一の心中がわからないと言いたげに眉を少々ひそめる。
「男性と女性ですから、それほど変わった事情だとは思いませんが」
「額面通りに見りゃそうだけどさ……ニセモンの胸を作った野郎が、女に走るか?」
「私は特殊な性別に属する方々への知識が欠けていますので、わかりません」
「オレだってよく知らねえよ。性別不詳のやつらはオレと無関係だ」
別室より「ヒトのこと言えるんすか〜」と揶揄する声が飛ぶ。イチカが茶の入ったプラスチックのコップを卓上に置き、彼女も座卓を囲んだ。
「オダのアニキも女の子みたいっす。言われません?」
「オレが? 中学にあがるまでは間違われたけど、今はねえな」
「そんなに髪長いのに?」
「骨格でわかるだろ」
「骨太の女子だと言われたら信じちゃうっす。顔きれいだし。いっぺん女装してみる?」
イチカが満面の笑みで習一の顔を凝視する。いきなり「あ!」と驚いた。
「ほっぺにおデキができてるっす! お肌のケア、やってます?」
「女々しいことはやらねえ」
「今は男も美肌を追求する時代っす! アニキ、おいらの化粧水と乳液はあるよね?」
シドは「たしか洗面台の棚に」と脱衣場を指さした。イチカがくちびるをタコの口のように尖らせる。
「『たしか』って、昨日今日の洗顔のあとに勧めてあげなかったんすか?」
「はい。男性ですし、いらぬ世話かと思いまして」
「かー、もう! アニキも昭和の男みたいに古臭いんだから!」
「面目ありません」
大の男が少女に堅苦しく謝罪する様子がおかしくて、習一は吹き出した。機嫌を損ねていたイチカが一転して笑い顔になる。
「いい顔してるっす。アニキ、この笑顔を見たことある?」
「ええ、一度は」
「不器用なアニキにしたら上出来っす! どうやって笑かしたんすか」
「オヤマダさんの家にいる猫です。オダギリさんがエサをあげた、その時に」
「な〜んだ、アニキ一人の力じゃなかったんすね」
「猫は人を和ませる天性のプロフェッショナルです。私では逆立ちしてもかないません」
「わんちゃんも癒し系っすよね?」
「犬もですね。人と慣れ親しんでいる動物全般がそうです。オヤマダ家に猫が現れなかったら、犬を飼っているお宅へオダギリさんをお連れしようかとも考えていました」
「どんなわんちゃん?」
「白黒の中型犬です。人懐っこくて優しい子ですよ」
二人はたわいもないお喋りを続ける。明日はどこへ出かけるか相談しあい、仕事机にあるノートパソコンを使ってめぼしい場所を探した。習一は暇つぶしにテレビをつけ、今後の外出予定を二人に丸投げした。習一自身は遊んでいる場合ではないと思うのだが、この二人に言っても通じそうにないのでやめた。
(今ごろ、学校の連中は夏季講習やってんのかな)
習一が補習を受ける期間にも成績良好な生徒は授業に参加した。彼らの登校は三日間では済まない。赤点保持者の補習がたった三日で終わる理由は、夏休みの授業に教師陣が専念するためだ。落ちこぼれに目をかけても利益はない。その切り捨て方がいっそ清々しい。
(ま、見捨ててくれりゃ楽でありがたい)
その考えは習一に利にならない者への正直な思いだ。利害が一致した者同士、関わらないのが得策だ。二学期以降もこじれた関係を続けるかすっぱり身を引くかと考える。
(いまは学校なんかよりも住む場所だよな)
いつまでも他人の居室にあがり込んではいられない。親との仲直りなどという夢想をする前に、自立する手段を模索すべきだ。習一の胸中を知ってか知らずか、遊興先を決める二人はひたすら習一に背を向けつつ案を出した。遊園地や美術館といった定番の遊覧場所が出て、最終的にイチカがプール行きを決定した。水着が実家にもない習一は反対したが、新規購入しに外出するはめになった。シドも遊泳には消極的だったものの、遊行の主導権はイチカにあったので抗議らしい抗議をしなかった。
昼食はイチカ手製の薬味入りそうめんだった。ご飯を食べたあと、三人は近くのデパートへ向かう。外は吸う息で鼻孔が温まるほどに気温が高い。店内の冷房を浴びた時は息を吹き返す心地がした。習一は衣服売り場の商品を見て、自身の着替えの件を思い出した。エリーが自宅から取ってくるという話が今朝あったが、彼女は昼になっても現れなかった。
「なぁ、オレの服って……」
「つい今しがた、エリーが私の部屋に届けてくれました。オヤマダさんの家にも寄っていたので、時間がかかったようです。ご心配おかけしましたね」
「いつそんな連絡してたんだ? 補習を抜けた時も、電話を使ってなかったろ」
「専用の無線機のようなものがあります。お見せすることはできません」
「ふーん。……ところで、あいつは遊びに誘わないのか?」
「はい。あの子は遊びに関心がないですし、ほかに頼みたいことがありますから」
「なにを頼んでるんだ?」
「人捜しです。捜すと言っても会いたくはない相手ですけど」
シドは矛盾をはらんだ物言いをする。その真意が習一にはつかめず、イチカの顔色をうかがった。イチカも事情を知らないとばかりに首を横にふる。
「でも、アニキがやることにはちゃーんと意味があるっすよ」
ね、とイチカがシドに念を押す。絶大の信頼を寄せられたシドは黙して笑った。
6
三人は遊泳に必要なものを買いそろえた。帰る前にイチカがアイスを食べたいと言って、ソフトクリームを二つ購入する。一つは習一に、一つはイチカ自身が口にする。冷菓を摂取することで帰路の炎天下は紛らわせた。道中、イチカが自分のソフトクリームをシドに食べさせる。シドは遠慮したが「アニキの体のためっす!」とイチカが強く勧めるのに屈した。暑さにやられる男じゃないが、と汗一つかかないシドを見て習一は不思議がった。
もどった部屋には習一の服の入った布袋と扇風機が置いてあった。エリーが届けた物だろうが、扇風機は習一の希望にない品だ。習一は「こいつはどこから?」とシドに聞く。
「オヤマダさんに貰ったものです。ロフト部屋にオダギリさんが寝泊まりする状況をエリーが伝えたら、きっと熱がこもるから必要だと言ってくれました」
「いいのか? あいつの家だって使うだろ」
「押入れにあった扇風機だそうです。現在は別の性能のよいものを使うようですよ」
扇風機は表面の色落ち具合から年数の経ったものだとわかる。廃棄寸前であろう道具を譲り受けるのは気負いしない。シドは扇風機の首を上下左右に動かし、可動域を確認する。
「問題は設置箇所ですね。ロフトに運んで使うか、下から空気を循環させるか」
「下に置いときゃいいんじゃねえか。風呂あがりに涼みたい時なんかも使える」
「それだとイチカさんも使えますね」
暫定的に扇風機を階段兼用棚の前に置いた。イチカがさっそく扇風機の風にあたって体を冷やす。習一はエリーが選択した自分の服を点検した。どれも夏用の薄着だ。春秋用の長袖はない。習一の長期にわたる出奔は想定していないらしい。
(前に、夏休みが終わるまでにどうにかしたいと言ってたか)
購入品を使用者三種に仕分けするシドの横顔を見つつ、習一は彼の発言を思い出した。シドの計画はどこまで達成できたのだろう。初めから習一の保護を視野に入れていたようだが、現状維持で終わらせるとは思えない。
(そういや、なんでこいつと一緒にいるようになったんだっけ?)
昨日まではシドが習一の復学を支援する名目で、休日を問わず外出し続けた。当初の目的は学校とも家族とのいざこざとも違う。習一がなくしたという記憶の復元が先立っていた。かれこれ一週間、シドと過ごす日々を送ってきたものの、成果はまだない。
「いつになったらオレの記憶はもどる?」
シドは脈絡のない質問を受けたにも関わらず、微笑んだ。
「そうですね……もう少しアクティプに動いてよい頃合いかもしれません」
「アクティブぅ?」
「貴方を入院に追いやった張本人に会います」
習一の背すじがしゃきっと伸びる。いきなりの問いにふさわしいと言えばふさわしい、突拍子ない案には少々肝を冷やした。犯罪者への面会は体験する機会がない。配慮に長けたシドの手配ならば習一に危険はないとはいえ、悪人と正面切って会うことは度胸がいる。
「会うって……刑務所で?」
「場所は違いますが、警官の管理下に置かれた相手ですから怖がらなくていいですよ」
「警官の……んじゃ、留置場か」
「準備ができたら改めて話します。面会の際はシズカさんに同席してもらいましょう」
「あんたは?」
シドは悲しそうに眉をひそめた。今まで空気のごとき自然体で習一に付き添ってきた者が、罪人との対面においては同行を渋っているようだ。
「私も……同席します。そうです、犯人とは顔を合わせるだけにしましょう」
言ってシドは習一の分のサンダルや水着入れを差し出した。そして明日使うタオルを取りに脱衣場へ行く。習一は彼の反応の理由が気になり、またしてもイチカに疑念の視線を向けた。イチカは困った顔をして「おいらの口から言えないっす」とだけ答える。
「とにかく、明日は泳いで楽しむっす! 今日の夕飯は元気のつくもんを作るっすよ〜」
イチカは扇風機の風を止め、室内の戸を開けて台所へ行った。習一はタグが外された遊泳の道具はそのままにし、エリーが届けた衣服を一時的な自室へ運んだ。
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2018年12月15日
習一篇草稿−7章
1
朝方は昨日の肉詰めピーマンの残りとイチカ手製のフレンチトーストを食べ、習一たちは外出した。新品のサンダルは足が蒸れないので快適であり、習一は良い買い物をしたと満足がいった。三人は公共交通機関を利用してプールを目指す。駅までの道のりの中、シドがしきりに電車の時刻表を確認した。乗車すべき電車の種類、降りる駅名はメモを取ってある。他になにを気にするのだろう、と習一は彼の周到さをあやしんだ。
駅のホームにて電車の到来を待つ。駅構内に目当ての電車が来るアナウンスが起きた。
「私は一本あとの電車に乗ります」
きびすを返す彼をイチカが呼びとめる。
「アニキ! どこ行くんすか?」
「大した用ではありません。イチカさんたちは先に行ってください」
シドは理由を説明せずに姿をくらました。事前に遊興費はイチカに渡っており、出資者が不在でも目的は果たせる。降車場所やプールの場所を記したメモもイチカが持つ。最初から習一とイチカの二人での遊行を想定したかのような事前準備だ。まさか泳ぐことを嫌がって逃亡する気では、と習一は疑ったが、いざ電車に乗るとその予想は吹き飛んだ。
「よおニーチャン! えらい久しぶりやんな!」
熊を思わせる図体の男が太い脚を開いて座っていた。自信に満ちあふれた笑顔は習一の記憶に新しい。イチカが「お友だちなんすか?」と習一に尋ね、習一は首をぶんぶんと横にふった。白いスーツの大男はわざとらしく落ちこむ。
「薄情やな、退院祝いに花束やった仲やっちゅうんに」
光葉は両手で手招きして、習一とイチカを自身の左右に座らせた。車内の乗客はみな、習一たちと離れた座席に固まる。彼らは光葉に目を合わせない。いかめしい男と関わりたくないのだ。だが無鉄砲にもイチカが「電車の中じゃ大きい声を出しちゃダメなんすよ」とたしなめる。光葉は目を丸くした。怒り出すか、と習一がひやひやした。彼は笑って「うっかりはしゃいでもうたわ」と言い、諫言にのっとって声を小さくした。
(ヤクザっぽいのは見た目だけか?)
筋骨秀でる体躯に加え、オールバックの金髪は無法者スタイルだ。その外見とは裏腹に人懐こい性格でもある。落差が激しい男のどこを本性と見るべきか習一は考えあぐねた。
意外にも光葉はイチカと気が合うようで、会話を弾ませる。内面を抽出すると陽気な者同士、なんらおかしくない状況だ。シドもアウトローな外観でいて内実紳士なのをかんがみ、習一は光葉の中身を信じることにした。話中、イチカが正直に今日の予定を光葉に話した。光葉が銀髪の教師について質問すると彼女はごまかさずに喋る。イチカが光葉の捜す人物の縁者だと知り、光葉はにんまりと笑う。
「そのアニキもプールに行くんか?」
「わかんないっす。あとで来るかもしんないし、おいら達だけで行かせたかったのかも」
「けったいなやっちゃな。ワシがどう動いてええかわからんやないか」
「アニキとお話しするぐらいなら、おいらが頼んでもいいっすよ」
「そんな生易しい用事やない。手合せしてもらうんや。初めに探しとった男とちゃうねんけど、そいつもごっつう強いっちゅう噂やから」
「アニキと? それはムリっす。むやみに人を傷つけるの、嫌がってるんす」
「ほんならどないしたら戦ってくれるんや?」
「どうしても……と言うなら、弟子になったらどうっすかね」
光葉は「弟子ぃ?」と聞き慣れぬ言葉を耳にしたかのように首をひねる。
「アニキのお師匠さんは稽古で手合せをよくやったらしいんで、きっとアニキの指導もそんな感じっす。最初は基本的な動きを教わって、慣れてきたら師匠と戦うんす」
「地道な修行は性に合わんなぁ」
「じゃああきらめてほしいっす。アニキはもう教師だからケンカは卒業したんすよ」
シドが教師業をする以前は武術の腕を頼りに生きていたかのような物言いだ。習一がシドの経歴を気になりだした時、スピーカーは習一たちが降車する駅への接近を知らせる。
「次でおりるっす。ミっちゃん、さいなら」
イチカは出入り口の前で待機する。習一も即降車できる準備をした。光葉は腕組みをしたまま閉口している。車窓の景色がなだらかな速度で変化していき、停止すると扉が左右に開いた。乗車しようとする客は先客がホームへ流れるのを待つ。イチカがその脇を通った時は平然としていた客が、習一が降りるとなぜか慌てて別の昇降口へ入った。
(そんなにオレは怖い面をしてるか?)
習一がとまどいつつイチカの後ろを追った。が、右肩を強くつかまれたせいで足が止まる。肩を見ると日焼けした大きな手があった。その手はシドより大きい。
「ニーチャン、一つ忠告しといたる」
習一は肩を押さえられて身じろぎできず、光葉の顔を見れなかった。
「あのセンセイを信じすぎんこっちゃ」
光葉は己が会った事もない相手を信用ならない男だという。シドも光葉もよく知らぬ頃の習一なら参考にしただろう。習一が光葉の助言を一笑に付すのと同時に電車が発車する。その轟音で声をかき消さないためにか、光葉の顔が習一の右肩の上に乗る。
「カタギの世界に戻れんようになるで」
一瞬、なんのことを言っているのか習一は混乱する。電車が遠ざかると習一を拘束する手も離れた。習一は振りむきざま光葉を見上げる。
「なーに言ってんだ。教師やってるやつをあんたみてえなチンピラと一緒にすんな」
「ニーチャンはセンセイが教師する前にやってた稼業、知っとるんか?」
「知らねえけど、それがなんだってんだ」
「ヤクザしとった男の会社に勤めとったんやで。ニーチャンと一緒の女はその男の娘や」
呆然とする習一を尻目に光葉は「じゃーの」と手を振りながら去った。イチカが習一に駆け寄り、プールへ行こうと催促する。習一は彼女に手を握られるままにした。
「いまの話、聞いてたか?」
「ミっちゃんの話? 聞こえてたっすよ」
「あいつの言ってたこと……本当か?」
イチカは「そうっす!」と明朗に断言した。彼女がむくつけき男にマナーを説ける理由がわかった。イチカの周りには光葉のような人物がごろごろ居たのだ。彼らと過ごすうちに相手の逆鱗に触れぬ技能か、強面に隠れた本性を見抜く人物眼を身に着けたらしい。
「でも昔のことっす。オヤジはちゃんと足洗って自立してるんすよ。アニキが働いたのだって足抜けしたあとの仕事なんすから、ぜんぜん、恥ずかしいことはやってないっす!」
習一は手を引かれながら物思いにふける。光葉は事実を言ったとはいえ、それとシドを信頼すべきでないとする主張は繋がらない。ただ一点、胸に落ちる指摘があった。
(普通の……世界にいられなくなる)
光葉がどこまでの情報収集を経た上で述べたことかは不明だ。単純に、口外しにくい経緯の持ち主だと伝えたかったのかもしれない。
(普通じゃないもんな、あいつ……)
シドは時に超常的な力を発揮する。現在彼が習一たちのそばにいないのも、光葉の乗車を看破し、遭遇を避けたからにちがいない。その他、クレーンゲームのプレイ中に得体の知れない黒い物体を呼び出していた。あの黒い何者かが手助けをしている。その正体は教えてくれなかった。いずれ説明すると言われたものの、真実を知った時に習一はどうなるだろう。尋常ならざる秘密を知り、秘密を共有して生活を続ける。それは畢竟、自身も尋常でない者の仲間入りを果たすのではないか。
(このまま一緒にいて、平気なのか?)
なにも知らされず、なにも思い出さない。この状況はすべてを知る以上に幸福なのかもしれない。だが一度記憶を取り戻したいと言った手前、いまさらやめるのも釈然としない。そんな逡巡をしつつ、習一は駅を離れた。
2
プール場にてシドと合流する。別行動の理由を尋ねると、彼は光葉の乗車を黒い仲間に教えてもらったと答えた。習一は追究したがイチカが遊泳を急かすせいでうやむやになった。
泳ぐ最中もプール場を発ったあとも光葉に出会わなかった。無事に電車に乗り、習一とイチカはシドの隣りの席に座る。イチカは隣人の肩に寄りかかってすぐに寝息を立てた。威勢よく泳いだせいで疲れたようだ。習一もプール上がりのシャワーを浴びたあとは眠さを感じていて、座席で一息つくと眠気がぶり返した。
「オダギリさんも寝ていいですよ。私が起きていますから」
疲れ知らずの引率者が不寝番を申しでる。習一は真面目がとりえの男に起床を託した。
今朝の出発駅に到着し、一行は帰宅する。夕飯は外食にしようとシドが言い、荷物を置いてまた出かけた。食事の支度目的にイチカを呼んだとはいえ、疲れた彼女に調理させるのは気が引けたようだ。もしくは料理を作りに来た、というのはただの口実かもしれない。
イチカのシドへの懐き具合は甚だしく、家事と入浴以外は片時も離れようとしない。昨晩ロフトベッドで就寝したイチカは当初、シドに共寝を求めた。それは父親を慕う幼い娘のような要求だ。いかがわしい行為目的ではないだろうが、シドは固く断った。寝床のない彼は一晩中ベッド下の机で過ごしており、シドの眠る姿を習一は見ていない。習一の知らぬところで休息するのか底なしの体力を持つのか、とかく謎の多い男だと改めて感じた。
三人は和風の飲食店に訪れた。習一が一度来店した場所だ。店員の活気ある挨拶に歓迎され、四人掛けのテーブル席に着く。応対した店員は細身の若者、マサだ。彼は案内係の務めを終えて厨房へ入る。シドがメニューを習一とイチカに渡しながら「お話を聞けそうにないですね」とつぶやいた。イチカがきょとんとして「なんのことっすか?」と尋ねる。
「さきほどの店員さんにお聞きしたいことがあるのです。いつもお忙しく働いているので、勤務中は難しそうです」
「仕事のない時間か日を聞いて、会う約束をしたらいいっす!」
「私個人の頼みではどうにも……オヤマダさんから頼んでもらうのが適切でしょうか」
シドはマサとの話し合いの場を設けようと考えている。それは習一のためだ。父との意思疎通ができずに出奔した者の過去を知ることで、習一の生き方の指標が生まれる。そのような考えからシドは段取りを練るのだ。善意が引き起こす計画を習一はつっぱねた。
「やめとけよ。他人相手に自慢にならねえ昔話は言いたくないもんだろ」
「おっしゃる通りです。ですから、マサさんと親しい方に口利きをしてもらいます」
「親に見放された可哀そうな野郎を憐れんでくれ、とでも言わせるのか」
「貴方が乗り気でないのならやめます。マサさんたちに無駄な迷惑をかけられません」
シドは刺々しく言い返した。習一はむすっとする。相手の主張がもっともなだけに、口答えの隙がなくて押し黙った。険悪な空気を感じたイチカはメニュー表を立てて顔を隠した。ふっとシドは表情を和らげ「気分を悪くしましたか」と尋ねた。習一はうなずく。
「あんたにしちゃ、露骨に嫌味な言い方だったからな」
「貴方には日常茶飯事な言い方だと思いますが、自分にされるのは嫌なようですね」
「べつに、言いたきゃ言ってりゃいい。間違ったことは言ってねえんだから」
マサとは別の店員が水の入ったコップを運んでくる。一人だけメニューを見ていたイチカは自分の分の注文をする。習一も前回頼んだ品を男性店員に告げた。この店員はノブを少し小さくしたような体型だ。店員が伝票ホルダーを片手に「先生は?」とシドに尋ねる。
「私は遠慮します。注文は以上です」
「了解! 早いとこ用意するからのー」
店員は朗らかに答え、厨房に入った。イチカが「知り合いなんすか?」とシドに聞く。
「ええ、彼は私の教え子です。オヤマダさんとも仲が良いので、そこからオダギリさんの近況が伝わっているようです」
「? なんでオダのアニキのことを知ってるってわかるんすか」
「彼が何も知らなければ大騒ぎしたと思います。私とオダギリさんは……敵でしたから」
シドと敵対していたことは習一も記憶がないなりに察している。イチカが習一を見て「そうだったんすか」と淡泊に納得した。習一がシドに害する人物だった過去には興味がないらしい。現在遊泳にまで同行する仲間だという事実を優先し、信頼したようだ。
「んで、あのほそーい店員さんに聞きたい昔話はどんなのっすか?」
「どうでもいいだろ。オレは聞く気ねえんだ」
「んじゃ、聞きやすいことを聞いてみたらどうっすかね。はじめは世間話をして、仲良くなるんす。そして本当の目的は最後に言う! これが交渉術っすよ〜」
イチカはシドに「ね?」と同意を求めた。シドは微笑んで「いいですね」と肯定する。
「もしマサさんが注文の品を届けてくれたら、その時になにか尋ねてみてはどうです」
「なんでオレが……」
「知りたいことがあるのでしょう? 無理に、とは言いませんが」
他の店員が来た時は無効になる条件だ。習一は博打に乗った。するとマサが二つの丼を盆に載せてやって来た。テーブルの鉄板の横に丼を並べていく。その作業中に習一は対面する同行者二人の顔を見た。みな、楽しげな笑顔だ。習一の動向を伺っている。ここで習一が怖気づいて無言を突き通せば、あとでいじられるだろう。それは別段悪意のないからかいで済む。そうとわかっているものの、習一はその事態が自身の負けを認める気がした。
マサが伝票を置いて去ろうとしたところを、習一は声をかける。
「えっと……ノブ、さんのこと……どう思う?」
「ノブさん?」
マサは注文の品に無関係な質問を受けて唖然とする。だが嬉しそうな返答があった。
「あの人はいい人だよ。明るいし働き者で……」
青年は「それに」と口元をほころばせる。
「いろんな考えを大切にするんだ。外国の友人が多いって話だけど、いろんな友だちができるのも人柄のおかげなんじゃないかと思う。でも、どうしてノブさんのことを?」
「オレ、ちょっと世話になったことがあって、気になったんだ。そんだけ」
習一はこれ以上の会話を求めるつもりがなく、下を向いた。だがマサの足は遠のかない。
「ノブさんと知り合い? ああ、キリちゃんの友だちなのかな。あの人は娘の同級生も自分の子どもみたく扱うから……」
ちがう、と習一は言いたくて顔を上げた。そこに悲喜入りまじった男性の顔がある。
「ああいう人が父親だったら……仲良くなれたのにな」
マサは「洗い物がたまってるんだった」と言って業務にもどった。ジューっと物を熱する音が聞こえる。習一が卓上を見ると、シドがお好み焼きのもとを焼いていた。
「よい受け答えでした。その口調を続けましょう。余計な争いが起きなくなりますよ」
彼の視線は液状の小麦粉に注がれている。気泡がぷつぷつと出てきた円盤を器用にヘラでひっくり返した。片手間に発した助言は世間話のノリだったが、その内容は習一と大きく相容れない処世術だ。継続的な実践は簡単ではない。それを軽く言う相手を習一はにらんでみた。シドは笑い返すだけで抗議の態度を見せなかった。
3
夕飯の会話中、習一たちは明日の行動を決めた。外出をしたがるイチカに対し、習一が普通に休みたいと主張する。結果、部屋で映画鑑賞をすることになった。食事後に三人は映像物を借りに行く。イチカは流行りものが陳列する棚を見物し、シドは動物のパッケージを手に取る。彼は氷の大地に立つ白熊やペンギンの表紙に注目していた。
見たいジャンルのない習一は退屈を感じ、正直な感想をシドに告げる。すると彼は「先に帰っていいですよ」と部屋の鍵を渡してきた。
「このあと、私たちは明日の食材を買おうと思います。時間がかかりますから部屋で休んでいてください。帰り道はわかりますね?」
「ああ、地元だからな」
最悪来た道をたどればいい、と習一は通い慣れないアパートへの道筋を思案した。日が落ちた外の景色と日中見た外観とを照らし合わせていく中、ふと気づいた。
(ひさしぶりに一人になった……な)
このところ外を出歩く時は誰かしらの供がいた。一人もそばにいないのは脇の風通しが良すぎるような、身軽と言えばそうだが物足りない感覚を覚える。
(帰るまで時間がかかるって言ってたし……すぐに行かなくてもいいか)
仮にシドらが先に帰宅してもイチカが合い鍵を持つので問題はない。習一の帰りが遅いことを指摘された時は、慣れないアパートの発見に手こずったと言えば通用する。習一はどこへ行くという信念なく、思いつきで進路を適宜決めた。
直観のままに行き着いた場所はゲームセンターだ。そこで起きた怪奇な現象を髣髴し、真っ先にシドが挑戦していたゲーム機を確認する。また忍者の人形が入った箱が設置してあった。横倒しになった箱の下に注目する。
(黒い手がここから伸びてた)
アームを通す穴の幅は人の腕を通せるほど。だがゲーム機内への侵入経路は景品の受け取り口一つ。小動物や幼子ならいざ知らず、普通の人間が狭い侵入口を通ることは不可能だ。
(なんだったんだ、あの生き物……)
初めて見た時は不気味な存在だと感じた。だが畏怖すべき対象だとは言えない。あの物体はシドの要請によって動く。役割は雑事をこなすエリーと同じだ。姿は異形といえど、いまは味方してくれる。邪険にすべきいわれはないと、不安を軽減した習一は夜道に出た。
(黒いやつが光葉の居場所を知らせたと言ってたか?)
プールで再会したシドがそう言った。ゲームセンターにおいて習一が見た化け物だと。
(エリーにも人捜しをさせてるんだったな。『会いたくはない相手』はきっと光葉だ)
エリーとは動物園以来、会っていない。彼女も黒い異形と同じ任務中だ。光葉の口ぶりでは銀髪の女も捕縛対象だという。彼と鉢合わせになったらエリーに危険が及ぶだろう。
(オレはちゃんと伝えたよな……銀髪で色黒な女も、あいつは捜してるって)
光葉の条件には男と見まごう高身長とあったが、あれだけシドと似た容姿の娘だ。誤差の範囲とみて標的にしかねない。その危機感がシドに伝わっていないのだ。よもや我が身かわいさのあまり、妹分の処遇はどうあってもかまわぬとする鬼畜ではあるまい。
(言ってやめさせるか。偵察は黒いやつだけに任せとけって)
俄然アパートへ帰る意欲が出てきて、習一は現在位置を確認した。でたらめに徘徊したせいで周囲は目印の乏しい住宅街に変わっている。基点となる建物を探しに歩いた。
背の高い木々が街灯に照らされる一画が見えた。それが公園だとわかると習一は近づく。
「いまはそっちにいっちゃダメ」
習一の全身がびくっと跳ねた。振り返ると先ほどまで習一が身を案じた少女がいる。
「公園のむこうに、シューイチをさがしてる人がいる。見つかるとめんどう」
「オレを……? 一体だれが」
習一は瞬時に父を想起したが、そんな労力をかけて自分を捜索するとは思えず棄却した。せいぜい捜索願を受理した警官がパトロールついでに捜す程度だろう。
「よくしらない人。とにかくこっちに来て。シドの部屋にもどろう」
エリーは手招きする。習一は彼女の誘導に従った。揺れる銀色の髪をじっと見ながら帰路につく。アパートの付近に差しかかり、エリーが足を止める。彼女はブロック塀に隠れ、習一の目の前をあきらかにする。数メートル先、金髪で白スーツの男が仁王立ちしている。自分も身を潜めるべきかと習一が思った矢先、黒い部分の多い頭部がこちらを向いた。
「走って!」
エリーの促しに応じて習一は駆けだした。あの男に関わるのは極力避けたい。どたん、と重たい物が倒れた。習一は走る速度をおさえ、後ろに視線をやる。地べたに白服が倒れている。その横には家屋の塀に手足をかけるエリーの姿があった。彼女が光葉の足止めをしたのだ。エリーは猫のように軽々と塀にあがり、習一を一瞥する。そうして民家の庭へ下りた。あの身体能力と障害物の豊富な場において、巨体の男を翻弄するのに不足はない。あとは習一が一時避難するのみ。習一は野太い声が後方から響くのを無視して走った。
4
習一は日中の疲労がたまった足を懸命に上げた。適当に光葉を撹乱できたらアパートに帰ろうと考え、身を隠す場所を探す。周囲には塀つきの家が点在するのだが、利用するのはリスクが高い。盗人に間違われて騒ぎになればあっさり追跡者に見つかるだろう。
もっと安全に、誰がいても怪しまれず、人目にもつかない場所。
(公園……)
エリーに入るなと言われた場所だ。あの時は習一を捜す者が付近にいたという。何分か経過した今なら捜索者は不在やもしれず、その期待に賭けて走った。
公園内はトイレの出入口を示す明かりや外灯によって部分的に照らされていた。その光を避けつつ、習一は荒れた息を整えて歩く。ベンチに腰かけ、体を休めた。
(いつごろ帰る……いや、帰れるのか? あいつ、またアパートの前で待つんじゃ)
光葉は本来の目的であるシドの出待ちを再開する可能性がある。シドの下宿先をどこで知ったのかわからないが、その情報は誤りだったと思わせておきたい。でなければ今日、からくも煙に巻けたとしても、明日明後日は逃げ切る保障がない。
(あいつが諦めるまでは部屋に行けない。それをあの教師に伝える手段が……)
エリーの顔が思い浮かんだ。彼女とシドは連絡を随時取りあう仲だ。おそらくエリーがシドに光葉の待ち伏せの件を伝えるだろう。アパートに行くに行けなかった状況を知れば、彼が打開策を講じるはずだ。なればこそ習一は自身の安全確保に専念するのがよい。
(漫画喫茶に隠れるか?)
一晩やり過ごす資金はある。だが習一が行方をくらますと同居人たちはどう思うか。習一は彼らの連絡先を知らない。音信不通のまま忽然といなくなれば心配するのは目に見えている。その心境は習一が光葉に身柄を拘束された場合と大きな差がなく、良策とは思えない。もっとも良い方法はシドと合流することだ。シドたちと別れた店へ向かおうかと考えたが、一人行動の経過時間を考慮すると無駄足になる。他の候補は食材の買い出しができるスーパー。しかし彼らは会計を終えたあとかもしれず、習一は目的地を決めかねる。
ここまで考えてみて、習一は自身をあげつらった。
(一人でやりたい放題してきたってのに、今になってあいつらにすり寄るのか)
家族への迷惑をかえりみず、自分をもてなす他人の厚意に乗りかかる。なんとも虫のよい話だ。家族の心労を気にしないくせに、他人が抱える気苦労には配慮の念がある。身勝手な気遣いだ。その違いは自分に利をもたらすか否かという利己的な判断による。
(オレは汚いやつだ。使える人間にだけいいツラをしようとして)
自己嫌悪に浸るのを防ぐため、習一は移動しようと思った。外れでもよいから開店中の食品売り場へ。顔を上げ、どちらの方向へ進むか模索する。ぼんやりと動く影が視界に入った。上下に動くその形は一般的な成人男性に近い。通行人だろうか。習一は園内のオブジェの一部のように息を殺した。通行人の陰影は次第に大きくなり、外灯が部分的に明らかにする地面を踏む。その足は二人分あった。一人が灯りのもと、電子機器を操作する。機器は強い光を発した。
「お、ここにいんじゃん」
いかにも軽そうな口調の男が言う。その言葉は習一に向けられたものだが、声に聞き覚えはない。「いい稼ぎになったなぁ」と愉快そうにするのが不快で、習一は立った。
「おっと、勝手に行かれちゃ困るのよ。ダンナに来てもらわないと」
「ダンナってのは光葉のことか? 図体の大きい白スーツ野郎の」
「話が早くて助かる。このまま待っててくれりゃいいからさ」
軟派な男が電話を耳にあてた。光葉と連絡を取る気だ。せっかく逃げられたのに告げ口されてはかなわない。習一は男の股ぐらめがけて蹴りあげた。男は電話を落とす。内股に立ち、痛みをこらえている。その隣りにいた連れは悶絶する男の体を支えた。彼らがもたつく間に習一は公園を脱出する。目についた曲がり角へまっしぐらに走った。
「!」
一面に壁が現れ、急ブレーキをかける。止まりきれずに衝突し、したたかに鼻を打つ。
「よおニーチャン、夜の鬼ごっこはこれで仕舞いや」
不運にも現在もっとも会いたくない人物にめぐりあった。大きな手が習一の肩にぽんと乗る。習一はその手を振り払おうとしたが、強く握られてうめき声をあげた。
5
「なんでワシを見てすぐ逃げたんや?」
光葉は手にこめた力とは真逆に、子どもに諭すような声で尋ねる。その声色はいっそう危険な状況を物語る気がして、習一は正直に話すことに決めた。
「あの時、『走れ』って言われたから」
「そんな声、ワシは聞いておらんで」
おかしな主張だ。間違いなくエリーは声を張りあげて習一に逃走を命じた。そしてどうやったか見ていないが、追いかけてくる光葉を転倒させていた。
「あんたを転ばせた女の子がいただろ。あいつが、そう言った」
「女ぁ? そんなやつ見てへんな。すっ転んだのはまあ、足がもつれたからやと思うが」
光葉はエリーとかなりの近距離にいたにも関わらず、彼女の存在に気付いていない。エリーの声を聞かなかったという証言といい、まるで彼女は習一にしか感知できぬ幽霊になったかのようだ。そんなはずはない。シドも小山田も、エリーとは自然なやり取りをしている。
「まあええわ。ニーチャンのセンセイの家、あそこで合っとるか聞きたかったんや」
「それを聞くために、金を使って人を雇ったのか?」
二人組の男の言動により、かいま見える光葉の行動。その原動力は習一が簡単な質問に答える程度のことを最終目標には設定しない。
「よう口が回るやっちゃな。もうちっとおバカなほうがかわいげあるで」
「それで、あんたは何がしたいんだ。あんな頭の軽そうな連中に小金をちかつかせておいて、慈善家気取りしたいわけじゃないだろ」
「その通り、施しただけじゃワシは満足せえへん。ワシの望み、もう知っとるやろ?」
光葉は習一の背後に回り、後ろ手を組んで本格的に拘束する。体格差のある相手への抵抗はできなかった。習一は彼の目的が自分にはないことを頼みに平静を保つ。
「あの教師と果たし合いするのか。だったらオレは関係ない」
「ニーチャンの身柄と引き換えに戦ってもらう。そうでもせんと全然会われんくてなぁ」
無理もない提案だ。シドは不可思議な協力者のおかげで光葉との邂逅を未然に回避している。それゆえ光葉が強硬手段に出た。それは理解できるのだが。
「どうやって呼びつける? オレはあいつの連絡先を知らねえぞ」
「なんやと、連絡網っちゅうんはないんか?」
「あいつはオレの学校の教師じゃない。前にもあんたにそう言ったつもりだが」
光葉は「なんやとぉ?」とキテレツな声を出した。
「とぼけとったんやないんか。じゃ、センセイはなんでニーチャンにかまけとるんや」
「オレは覚えちゃいないが、オレになにかやらかしたんだとよ。その詫びだって」
この解説で光葉が納得できたか確認できないが、話が進展しないまま光葉は歩き始めた。
「ほんならどないしよか。直接センセイのおる部屋にお邪魔するか」
アパートへ連行される道中、部屋はどこかと聞かれても習一は知らぬ存ぜぬを突き通した。さいわい習一がシドの下宿先に寝泊まりする現況は知らないようだった。習一から情報を引き出せない光葉は一部屋ずつ訪問すると言い出す。習一を捕縛した状態で住民と会ったなら、異変を感じた住民が通報するだろう。警察沙汰はまずい。それは光葉も同じはずだ。
「オレを捕まえたまんま、部屋を総当たりする気か?」
「そらそうやな」
「『自分は不審者です』と紹介して回るようなもんだぞ」
「それは気ぃつかんかったわ。まあええ、用が済んだら寄りつかんからな」
警官が来るという発想は光葉にない。もしくは警官があらわれたところで支障がないと考えたのだろう。この大男は卓越した身体を有する。何者にも負けぬ自信があるのだ。
「いでっ」
突然光葉が痛みを訴えた。コロコロと軽い物が地面に転がる。途端に習一の手首がぐいっと下に押しやられた。拘束がすべり落ちる。習一が咄嗟に後ろを見れば、少女が走ってきている。
「こっち!」
エリーが腕をのばした。だが光葉が習一を抱えこんでしまい、少女の手は空を切った。
「なんや、誰かがワシの邪魔をしよる!」
光葉は頭をぶんぶんと動かす。あたりは無人。光葉は「おっかしいな」と一人ごちた。
(あれは見間違いだったのか?)
大男はまたも少女に気付かなかった。習一の耳には真新しいエリーの声が残るのだが。
「その少年を放してください」
もはや親の声より聞き慣れた声だ。後ろに向きなおると目の据わった銀髪の教師が立つ。
「やぁっと出てきてくれたな。アンタを捜してあちこち回っておったんや」
「貴方の事情は知りません。その子から離れてください」
「まずは不意打ちの謝罪、と言いたいとこやけどええわ。ワシの頼みを聞くこっちゃ」
「一つだけですよ」
「アンタの仲間にアンタと似たような銀髪の男がおるやろ? そいつを紹介してくれや」
今朝の光葉はシドと戦うのでもよい、と言っていたのだが、本音はやはり違うらしい。
「私がお相手します。私に勝てないようでは彼には到底かないません」
「アンタを倒してもな……ちょいと気乗りせんのや」
「わかりました。貴方が私の膝を地につけられたら、彼を呼びましょう。いかがです?」
温厚な男による好戦的な条件がつらつらと流れる。習一は普段の彼との大きな隔たりを感じた。しかしよく考えると、決闘になれば光葉は嫌でも習一を放さねばならない。シドは戦いを引き受けることで習一を逃がそうとしているのだ。彼の根底にある行動理念は変わらなかった。
光葉はこの要請に快諾し、目の前の公園に入る。そこに習一が急所を蹴った男の姿はなかった。園内の広場で戦うかと思いきや、光葉は広場を通り越す。
「おい、どこ行く気だよ」
「ニーチャンをどこも行かれへんようにしとくだけや」
光葉は広場の端にある高さの違う鉄棒をぽんぽんと触った。内ポケットからじゃらりと音のする金属を出す。外灯の光を反射するそれは警察が所有する手錠に酷似していた。
「カギはもっとるさかい、安心して捕まっとってくれや」
二つの輪っかのうち片方を習一の手首にはめ、もう片方は鉄棒に繋ぐ。習一は完全に繋がれた犬状態になった。シドは腕組みをしながら光葉の所行を見ている。
「疑り深いのですね。私は人質がいなくとも試合をしますよ」
「まぁまぁ、気ぃ悪くせんでくれや。証人はおって困らんやろ?」
「どちらが勝った、という証言者が欲しいのですか」
「そういうこっちゃ。ほんじゃ、準備はええか」
「その前に一つ、お尋ねします。銀髪の男を倒す理由はなんですか」
光葉は白のジャケットを脱ぎ捨てた。首の骨をこきっと鳴らす。
「ワシはこれでも末っ子でなぁ、アンタの年下なんやわ。若いとなっかなか周りに認めてもらえん。せやけど無敗のバケモンを倒したあかつきにゃ、ワシの箔がつくってもんよ」
「つまり、名声が目当てですか」
「そうや。男らしい理由やろ?」
それはプライドや外聞の概念に疎い者には理解しがたい動機だ。シドがうつむく。
「……くだらない」
非難を凝縮したつぶやきが開戦の合図になった。
6
光葉が先に仕掛けた。単純だが破壊力のある右ストレート。その拳にはこの場に立つ意義を貶された憤激がこもる。怒りのあまり大振りになった動作は見切られ、シドが半身をずらす。光葉の太い腕は黒シャツの胸元をかすめた。光葉は外れた拳を自身の胸へ抱きこむように薙ぐ。これもシドが光葉の背後へ移動してかわす。全力で振りかぶる光葉に対し、シドはその場を動くだけに留まる。彼は最小限の自衛に専念してばかりで攻勢に出ない。
「挑発しといて、ビビっとるんか!」
光葉はかかと落としを繰り出す。ぶん、と大きく空を切った蹴りはシドの肩を狙う。その足首をシドの手が受け止めた。光葉の足を発泡スチロールのように軽々と持つ。
「なんやと……?」
シドは光葉の太い足をポイっと捨てた。光葉は多少よろめきつつ体勢を整える。
「わかりませんか。私と貴方との力の差はかけ離れていることを」
光葉は力量を低く評価されたことへの報復を起こさない。闘争心にかげりが見え始めた。
「元気に帰れるうちに引いてください。貴方が実力を高めた上での再戦は受け付けます」
「……アンタは優しいな。やけど、その優しさが他人を傷つけるっちゅうのは覚えとき」
挑戦者は無謀なタックルを試みる。シドが寸前で回避しようとしたところ、彼のサングラスが宙を舞った。光葉の手足は触れていない。だがシドは顔面に攻撃を食らった。
「剣道三倍段、てな。リーチの長いもんが有利や!」
光葉は黒い警棒を振り上げた。伸縮する携帯武器を隠し持っていたのだ。予想外の打撃を受けたシドは顔をそむけたまま、迫りくる敵に注意を払わない。
「もらったぁ!」
勝利を確信した激声が響き渡った。警棒は戦意を見せない男の頭めがけて振り下ろされる。無防備な銀髪が揺れるのを最後に、習一は思わず目をつむる。だが打擲する音は発生しなかった。かわりに誰かの苦しげな声が聞こえる。習一は慎重にまぶたを開けた。
二人の男が向かい合う姿があり、どちらが優勢か判断がつかない。光葉が警棒を落とし、空いた手を自身の首元へ運ぶ。彼は己の首を掴む手をはがそうと必死にもがいた。光葉を締め上げる手は一つ。しかし光葉の両手はその握力に負け、拘束を解けない。
「『考えなしに打ち合うな。己の弱点を相手に教えることになる』」
感情をともなわない、朗読のような語りが始まった。
「『決して驕るな。子どもが振るう短剣とて己が命を落とす凶器になりうる』……」
この朗読の一文に、習一はなぜか寒気を感じた。
「私の武術の師匠が述べた戒めです。貴方の師匠は教えてくれなかったようですね」
言ってシドは光葉を解放した。光葉は膝を屈し、喉に手を当てて咳こむ。
「手錠の鍵をください」
シドが差しのべた手を光葉は憎たらしいもののように払いのける。
「……渡せるか! ワシはまだやれる」
「強情ですね。どうしたら納得してもらえるのですか」
「もちろん、アンタの仲間に会わんと帰れん!」
「──わかりました。一目だけでもお見せしましょう」
シドは習一を見た。習一は自分の後ろになにかあると思った。彼の視線の先を見ると木の幹から一人の男があらわれる。光葉に匹敵する大男だ。彼はつばの広い帽子を被る。男の全容がはっきりするや否や、習一の肌が粟立つ。手錠がガチャガチャと鳴って習一の逃走を阻んだ。
(こいつは……!)
習一は理屈抜きにその男が危険だと感じた。泣きたいほどの恐れが全身に押し寄せる。その原因は理論では推し量れない。ひたすらに本能がこの男への強い拒否反応を示した。
習一とは正反対に光葉が歓喜した。意気揚々と立ち上がり、帽子の男に一歩近寄る。
「アンタか……! ちっとばかし頭を見せてくれんか?」
男は帽子の天井を手のひらで覆い、無言でどけた。その頭髪はシドと同じ輝きがある。照明の不十分な野外といえど、シドという標本と比較すると銀色に違いないと思えた。
「ホンマもん、みたいやな。よーし、アンタと勝負や!」
意気込む光葉に対し、シドは頭をふって拒否する。
「ダメです。事前の約束と違うでしょう」
「ええやん。カタいこと言うなや〜」
光葉は合掌してシドを拝みたおす。たった一人が信仰する神仏は深いため息をついた。シドは帽子を被りなおす男に「手加減なしで」と忠告し、後方へ下がる。光葉のねばり勝ちだ。使い捨ての崇拝者の皮を脱いだ男は嬉々として構えた。
「今度こそ、勝──」
言い終わらぬうちに男の掌底が光葉のみぞおちに入る。光葉は相手の戦法がシドと同じ、最初は防戦に徹するものだと高をくくっていたのだろう。まるきり警戒していなかった腹に攻撃を受け、やすやすと吹っ飛んでしまった。地面に倒れた光葉は腹をおさえる。
「っく〜! ヒトが喋っとる間に手ぇ出すんは卑怯やぞ!」
「徒手試合の途中から武器を使う行為は卑怯ではないのですか」
シドはすたすたと光葉に接近し、その顎をがしっとつかんだ。
「な、なにする気や?」
「これ以上は時間の無駄です。貴方には眠ってもらいます」
光葉はシドの手を離そうとして暴れる。その抵抗は数秒減るごとに目に見えて衰え、動かなくなった。シドは光葉を地べたに放置し、帽子の男に歩み寄る。
「お疲れさまです。もう変化を解いていいですよ、エリー」
「うん」
屈強な大男の口から少女の細い返事が発せられた。直後に男の姿が絵の具でぼかしたかのように潤み、人の体を失くす。全体的に丸みを帯びた、黒い、人間ができそこなった怪物が出現する。首のない頭部には大きな緑色の双眸があった。
「ほんとうに、そいつが……エリー?」
共通点は目の色と声の二点のみ。それ以外は見る影もない。黒の怪物がずるずると棒状の足をひきずり、習一のもとに来た。習一は恐怖で固まってしまう。見た目は異形であろうと二たび習一を光葉の手から救おうとした相手だ。自分を襲うはずがない──そう頭で理解はできても、体は猛烈に生命の危機を感知した。
異形の腕が習一の拘束されていない手を包む。ひんやりしたクッションのように柔らかな感触があった。その冷たさが習一の臆病風を強める。習一は助けを求めてシドを捜す。しかし教師の姿はない。ただ一人、習一に視線を射る男がいた。光葉を吹き飛ばした帽子の男。だがそれは黒の怪物と化したエリーが形作る偽の姿だった。ではあれは誰なのか。
(まさか、あいつが本物の……?)
習一は誰のどの姿が本物なのかわからず、混乱した。唯一の真実は、習一に良くしてくれた者たちの姿がどこにもないということだ。習一はひとまず人の原型を保つ男に助けを請おうと考えた。男の顔を凝視すると、その瞳が冷たい青色だと気付く。
『悔いても遅い。お前には助かる機会を与えた。むげにしたのはお前自身』
男は口を堅く閉ざしているが、習一にはそんな言葉が聞こえた。それらは過去に、この男に言われたのだ。今と同じ、黒の化物に束縛された状態で。
習一の視野に黒い異形の頭が入りこむ。緑の目の下に丸い空洞を一つつくり、習一の眼前を覆い尽くす。喰われる──その空洞は人の骨と肉を食いちぎる口だと、習一は身をもって知っていた。
「うわああああ!」
『ああぁぁぁ……』
──現実の絶叫と記憶の中の断末魔が共鳴した。
朝方は昨日の肉詰めピーマンの残りとイチカ手製のフレンチトーストを食べ、習一たちは外出した。新品のサンダルは足が蒸れないので快適であり、習一は良い買い物をしたと満足がいった。三人は公共交通機関を利用してプールを目指す。駅までの道のりの中、シドがしきりに電車の時刻表を確認した。乗車すべき電車の種類、降りる駅名はメモを取ってある。他になにを気にするのだろう、と習一は彼の周到さをあやしんだ。
駅のホームにて電車の到来を待つ。駅構内に目当ての電車が来るアナウンスが起きた。
「私は一本あとの電車に乗ります」
きびすを返す彼をイチカが呼びとめる。
「アニキ! どこ行くんすか?」
「大した用ではありません。イチカさんたちは先に行ってください」
シドは理由を説明せずに姿をくらました。事前に遊興費はイチカに渡っており、出資者が不在でも目的は果たせる。降車場所やプールの場所を記したメモもイチカが持つ。最初から習一とイチカの二人での遊行を想定したかのような事前準備だ。まさか泳ぐことを嫌がって逃亡する気では、と習一は疑ったが、いざ電車に乗るとその予想は吹き飛んだ。
「よおニーチャン! えらい久しぶりやんな!」
熊を思わせる図体の男が太い脚を開いて座っていた。自信に満ちあふれた笑顔は習一の記憶に新しい。イチカが「お友だちなんすか?」と習一に尋ね、習一は首をぶんぶんと横にふった。白いスーツの大男はわざとらしく落ちこむ。
「薄情やな、退院祝いに花束やった仲やっちゅうんに」
光葉は両手で手招きして、習一とイチカを自身の左右に座らせた。車内の乗客はみな、習一たちと離れた座席に固まる。彼らは光葉に目を合わせない。いかめしい男と関わりたくないのだ。だが無鉄砲にもイチカが「電車の中じゃ大きい声を出しちゃダメなんすよ」とたしなめる。光葉は目を丸くした。怒り出すか、と習一がひやひやした。彼は笑って「うっかりはしゃいでもうたわ」と言い、諫言にのっとって声を小さくした。
(ヤクザっぽいのは見た目だけか?)
筋骨秀でる体躯に加え、オールバックの金髪は無法者スタイルだ。その外見とは裏腹に人懐こい性格でもある。落差が激しい男のどこを本性と見るべきか習一は考えあぐねた。
意外にも光葉はイチカと気が合うようで、会話を弾ませる。内面を抽出すると陽気な者同士、なんらおかしくない状況だ。シドもアウトローな外観でいて内実紳士なのをかんがみ、習一は光葉の中身を信じることにした。話中、イチカが正直に今日の予定を光葉に話した。光葉が銀髪の教師について質問すると彼女はごまかさずに喋る。イチカが光葉の捜す人物の縁者だと知り、光葉はにんまりと笑う。
「そのアニキもプールに行くんか?」
「わかんないっす。あとで来るかもしんないし、おいら達だけで行かせたかったのかも」
「けったいなやっちゃな。ワシがどう動いてええかわからんやないか」
「アニキとお話しするぐらいなら、おいらが頼んでもいいっすよ」
「そんな生易しい用事やない。手合せしてもらうんや。初めに探しとった男とちゃうねんけど、そいつもごっつう強いっちゅう噂やから」
「アニキと? それはムリっす。むやみに人を傷つけるの、嫌がってるんす」
「ほんならどないしたら戦ってくれるんや?」
「どうしても……と言うなら、弟子になったらどうっすかね」
光葉は「弟子ぃ?」と聞き慣れぬ言葉を耳にしたかのように首をひねる。
「アニキのお師匠さんは稽古で手合せをよくやったらしいんで、きっとアニキの指導もそんな感じっす。最初は基本的な動きを教わって、慣れてきたら師匠と戦うんす」
「地道な修行は性に合わんなぁ」
「じゃああきらめてほしいっす。アニキはもう教師だからケンカは卒業したんすよ」
シドが教師業をする以前は武術の腕を頼りに生きていたかのような物言いだ。習一がシドの経歴を気になりだした時、スピーカーは習一たちが降車する駅への接近を知らせる。
「次でおりるっす。ミっちゃん、さいなら」
イチカは出入り口の前で待機する。習一も即降車できる準備をした。光葉は腕組みをしたまま閉口している。車窓の景色がなだらかな速度で変化していき、停止すると扉が左右に開いた。乗車しようとする客は先客がホームへ流れるのを待つ。イチカがその脇を通った時は平然としていた客が、習一が降りるとなぜか慌てて別の昇降口へ入った。
(そんなにオレは怖い面をしてるか?)
習一がとまどいつつイチカの後ろを追った。が、右肩を強くつかまれたせいで足が止まる。肩を見ると日焼けした大きな手があった。その手はシドより大きい。
「ニーチャン、一つ忠告しといたる」
習一は肩を押さえられて身じろぎできず、光葉の顔を見れなかった。
「あのセンセイを信じすぎんこっちゃ」
光葉は己が会った事もない相手を信用ならない男だという。シドも光葉もよく知らぬ頃の習一なら参考にしただろう。習一が光葉の助言を一笑に付すのと同時に電車が発車する。その轟音で声をかき消さないためにか、光葉の顔が習一の右肩の上に乗る。
「カタギの世界に戻れんようになるで」
一瞬、なんのことを言っているのか習一は混乱する。電車が遠ざかると習一を拘束する手も離れた。習一は振りむきざま光葉を見上げる。
「なーに言ってんだ。教師やってるやつをあんたみてえなチンピラと一緒にすんな」
「ニーチャンはセンセイが教師する前にやってた稼業、知っとるんか?」
「知らねえけど、それがなんだってんだ」
「ヤクザしとった男の会社に勤めとったんやで。ニーチャンと一緒の女はその男の娘や」
呆然とする習一を尻目に光葉は「じゃーの」と手を振りながら去った。イチカが習一に駆け寄り、プールへ行こうと催促する。習一は彼女に手を握られるままにした。
「いまの話、聞いてたか?」
「ミっちゃんの話? 聞こえてたっすよ」
「あいつの言ってたこと……本当か?」
イチカは「そうっす!」と明朗に断言した。彼女がむくつけき男にマナーを説ける理由がわかった。イチカの周りには光葉のような人物がごろごろ居たのだ。彼らと過ごすうちに相手の逆鱗に触れぬ技能か、強面に隠れた本性を見抜く人物眼を身に着けたらしい。
「でも昔のことっす。オヤジはちゃんと足洗って自立してるんすよ。アニキが働いたのだって足抜けしたあとの仕事なんすから、ぜんぜん、恥ずかしいことはやってないっす!」
習一は手を引かれながら物思いにふける。光葉は事実を言ったとはいえ、それとシドを信頼すべきでないとする主張は繋がらない。ただ一点、胸に落ちる指摘があった。
(普通の……世界にいられなくなる)
光葉がどこまでの情報収集を経た上で述べたことかは不明だ。単純に、口外しにくい経緯の持ち主だと伝えたかったのかもしれない。
(普通じゃないもんな、あいつ……)
シドは時に超常的な力を発揮する。現在彼が習一たちのそばにいないのも、光葉の乗車を看破し、遭遇を避けたからにちがいない。その他、クレーンゲームのプレイ中に得体の知れない黒い物体を呼び出していた。あの黒い何者かが手助けをしている。その正体は教えてくれなかった。いずれ説明すると言われたものの、真実を知った時に習一はどうなるだろう。尋常ならざる秘密を知り、秘密を共有して生活を続ける。それは畢竟、自身も尋常でない者の仲間入りを果たすのではないか。
(このまま一緒にいて、平気なのか?)
なにも知らされず、なにも思い出さない。この状況はすべてを知る以上に幸福なのかもしれない。だが一度記憶を取り戻したいと言った手前、いまさらやめるのも釈然としない。そんな逡巡をしつつ、習一は駅を離れた。
2
プール場にてシドと合流する。別行動の理由を尋ねると、彼は光葉の乗車を黒い仲間に教えてもらったと答えた。習一は追究したがイチカが遊泳を急かすせいでうやむやになった。
泳ぐ最中もプール場を発ったあとも光葉に出会わなかった。無事に電車に乗り、習一とイチカはシドの隣りの席に座る。イチカは隣人の肩に寄りかかってすぐに寝息を立てた。威勢よく泳いだせいで疲れたようだ。習一もプール上がりのシャワーを浴びたあとは眠さを感じていて、座席で一息つくと眠気がぶり返した。
「オダギリさんも寝ていいですよ。私が起きていますから」
疲れ知らずの引率者が不寝番を申しでる。習一は真面目がとりえの男に起床を託した。
今朝の出発駅に到着し、一行は帰宅する。夕飯は外食にしようとシドが言い、荷物を置いてまた出かけた。食事の支度目的にイチカを呼んだとはいえ、疲れた彼女に調理させるのは気が引けたようだ。もしくは料理を作りに来た、というのはただの口実かもしれない。
イチカのシドへの懐き具合は甚だしく、家事と入浴以外は片時も離れようとしない。昨晩ロフトベッドで就寝したイチカは当初、シドに共寝を求めた。それは父親を慕う幼い娘のような要求だ。いかがわしい行為目的ではないだろうが、シドは固く断った。寝床のない彼は一晩中ベッド下の机で過ごしており、シドの眠る姿を習一は見ていない。習一の知らぬところで休息するのか底なしの体力を持つのか、とかく謎の多い男だと改めて感じた。
三人は和風の飲食店に訪れた。習一が一度来店した場所だ。店員の活気ある挨拶に歓迎され、四人掛けのテーブル席に着く。応対した店員は細身の若者、マサだ。彼は案内係の務めを終えて厨房へ入る。シドがメニューを習一とイチカに渡しながら「お話を聞けそうにないですね」とつぶやいた。イチカがきょとんとして「なんのことっすか?」と尋ねる。
「さきほどの店員さんにお聞きしたいことがあるのです。いつもお忙しく働いているので、勤務中は難しそうです」
「仕事のない時間か日を聞いて、会う約束をしたらいいっす!」
「私個人の頼みではどうにも……オヤマダさんから頼んでもらうのが適切でしょうか」
シドはマサとの話し合いの場を設けようと考えている。それは習一のためだ。父との意思疎通ができずに出奔した者の過去を知ることで、習一の生き方の指標が生まれる。そのような考えからシドは段取りを練るのだ。善意が引き起こす計画を習一はつっぱねた。
「やめとけよ。他人相手に自慢にならねえ昔話は言いたくないもんだろ」
「おっしゃる通りです。ですから、マサさんと親しい方に口利きをしてもらいます」
「親に見放された可哀そうな野郎を憐れんでくれ、とでも言わせるのか」
「貴方が乗り気でないのならやめます。マサさんたちに無駄な迷惑をかけられません」
シドは刺々しく言い返した。習一はむすっとする。相手の主張がもっともなだけに、口答えの隙がなくて押し黙った。険悪な空気を感じたイチカはメニュー表を立てて顔を隠した。ふっとシドは表情を和らげ「気分を悪くしましたか」と尋ねた。習一はうなずく。
「あんたにしちゃ、露骨に嫌味な言い方だったからな」
「貴方には日常茶飯事な言い方だと思いますが、自分にされるのは嫌なようですね」
「べつに、言いたきゃ言ってりゃいい。間違ったことは言ってねえんだから」
マサとは別の店員が水の入ったコップを運んでくる。一人だけメニューを見ていたイチカは自分の分の注文をする。習一も前回頼んだ品を男性店員に告げた。この店員はノブを少し小さくしたような体型だ。店員が伝票ホルダーを片手に「先生は?」とシドに尋ねる。
「私は遠慮します。注文は以上です」
「了解! 早いとこ用意するからのー」
店員は朗らかに答え、厨房に入った。イチカが「知り合いなんすか?」とシドに聞く。
「ええ、彼は私の教え子です。オヤマダさんとも仲が良いので、そこからオダギリさんの近況が伝わっているようです」
「? なんでオダのアニキのことを知ってるってわかるんすか」
「彼が何も知らなければ大騒ぎしたと思います。私とオダギリさんは……敵でしたから」
シドと敵対していたことは習一も記憶がないなりに察している。イチカが習一を見て「そうだったんすか」と淡泊に納得した。習一がシドに害する人物だった過去には興味がないらしい。現在遊泳にまで同行する仲間だという事実を優先し、信頼したようだ。
「んで、あのほそーい店員さんに聞きたい昔話はどんなのっすか?」
「どうでもいいだろ。オレは聞く気ねえんだ」
「んじゃ、聞きやすいことを聞いてみたらどうっすかね。はじめは世間話をして、仲良くなるんす。そして本当の目的は最後に言う! これが交渉術っすよ〜」
イチカはシドに「ね?」と同意を求めた。シドは微笑んで「いいですね」と肯定する。
「もしマサさんが注文の品を届けてくれたら、その時になにか尋ねてみてはどうです」
「なんでオレが……」
「知りたいことがあるのでしょう? 無理に、とは言いませんが」
他の店員が来た時は無効になる条件だ。習一は博打に乗った。するとマサが二つの丼を盆に載せてやって来た。テーブルの鉄板の横に丼を並べていく。その作業中に習一は対面する同行者二人の顔を見た。みな、楽しげな笑顔だ。習一の動向を伺っている。ここで習一が怖気づいて無言を突き通せば、あとでいじられるだろう。それは別段悪意のないからかいで済む。そうとわかっているものの、習一はその事態が自身の負けを認める気がした。
マサが伝票を置いて去ろうとしたところを、習一は声をかける。
「えっと……ノブ、さんのこと……どう思う?」
「ノブさん?」
マサは注文の品に無関係な質問を受けて唖然とする。だが嬉しそうな返答があった。
「あの人はいい人だよ。明るいし働き者で……」
青年は「それに」と口元をほころばせる。
「いろんな考えを大切にするんだ。外国の友人が多いって話だけど、いろんな友だちができるのも人柄のおかげなんじゃないかと思う。でも、どうしてノブさんのことを?」
「オレ、ちょっと世話になったことがあって、気になったんだ。そんだけ」
習一はこれ以上の会話を求めるつもりがなく、下を向いた。だがマサの足は遠のかない。
「ノブさんと知り合い? ああ、キリちゃんの友だちなのかな。あの人は娘の同級生も自分の子どもみたく扱うから……」
ちがう、と習一は言いたくて顔を上げた。そこに悲喜入りまじった男性の顔がある。
「ああいう人が父親だったら……仲良くなれたのにな」
マサは「洗い物がたまってるんだった」と言って業務にもどった。ジューっと物を熱する音が聞こえる。習一が卓上を見ると、シドがお好み焼きのもとを焼いていた。
「よい受け答えでした。その口調を続けましょう。余計な争いが起きなくなりますよ」
彼の視線は液状の小麦粉に注がれている。気泡がぷつぷつと出てきた円盤を器用にヘラでひっくり返した。片手間に発した助言は世間話のノリだったが、その内容は習一と大きく相容れない処世術だ。継続的な実践は簡単ではない。それを軽く言う相手を習一はにらんでみた。シドは笑い返すだけで抗議の態度を見せなかった。
3
夕飯の会話中、習一たちは明日の行動を決めた。外出をしたがるイチカに対し、習一が普通に休みたいと主張する。結果、部屋で映画鑑賞をすることになった。食事後に三人は映像物を借りに行く。イチカは流行りものが陳列する棚を見物し、シドは動物のパッケージを手に取る。彼は氷の大地に立つ白熊やペンギンの表紙に注目していた。
見たいジャンルのない習一は退屈を感じ、正直な感想をシドに告げる。すると彼は「先に帰っていいですよ」と部屋の鍵を渡してきた。
「このあと、私たちは明日の食材を買おうと思います。時間がかかりますから部屋で休んでいてください。帰り道はわかりますね?」
「ああ、地元だからな」
最悪来た道をたどればいい、と習一は通い慣れないアパートへの道筋を思案した。日が落ちた外の景色と日中見た外観とを照らし合わせていく中、ふと気づいた。
(ひさしぶりに一人になった……な)
このところ外を出歩く時は誰かしらの供がいた。一人もそばにいないのは脇の風通しが良すぎるような、身軽と言えばそうだが物足りない感覚を覚える。
(帰るまで時間がかかるって言ってたし……すぐに行かなくてもいいか)
仮にシドらが先に帰宅してもイチカが合い鍵を持つので問題はない。習一の帰りが遅いことを指摘された時は、慣れないアパートの発見に手こずったと言えば通用する。習一はどこへ行くという信念なく、思いつきで進路を適宜決めた。
直観のままに行き着いた場所はゲームセンターだ。そこで起きた怪奇な現象を髣髴し、真っ先にシドが挑戦していたゲーム機を確認する。また忍者の人形が入った箱が設置してあった。横倒しになった箱の下に注目する。
(黒い手がここから伸びてた)
アームを通す穴の幅は人の腕を通せるほど。だがゲーム機内への侵入経路は景品の受け取り口一つ。小動物や幼子ならいざ知らず、普通の人間が狭い侵入口を通ることは不可能だ。
(なんだったんだ、あの生き物……)
初めて見た時は不気味な存在だと感じた。だが畏怖すべき対象だとは言えない。あの物体はシドの要請によって動く。役割は雑事をこなすエリーと同じだ。姿は異形といえど、いまは味方してくれる。邪険にすべきいわれはないと、不安を軽減した習一は夜道に出た。
(黒いやつが光葉の居場所を知らせたと言ってたか?)
プールで再会したシドがそう言った。ゲームセンターにおいて習一が見た化け物だと。
(エリーにも人捜しをさせてるんだったな。『会いたくはない相手』はきっと光葉だ)
エリーとは動物園以来、会っていない。彼女も黒い異形と同じ任務中だ。光葉の口ぶりでは銀髪の女も捕縛対象だという。彼と鉢合わせになったらエリーに危険が及ぶだろう。
(オレはちゃんと伝えたよな……銀髪で色黒な女も、あいつは捜してるって)
光葉の条件には男と見まごう高身長とあったが、あれだけシドと似た容姿の娘だ。誤差の範囲とみて標的にしかねない。その危機感がシドに伝わっていないのだ。よもや我が身かわいさのあまり、妹分の処遇はどうあってもかまわぬとする鬼畜ではあるまい。
(言ってやめさせるか。偵察は黒いやつだけに任せとけって)
俄然アパートへ帰る意欲が出てきて、習一は現在位置を確認した。でたらめに徘徊したせいで周囲は目印の乏しい住宅街に変わっている。基点となる建物を探しに歩いた。
背の高い木々が街灯に照らされる一画が見えた。それが公園だとわかると習一は近づく。
「いまはそっちにいっちゃダメ」
習一の全身がびくっと跳ねた。振り返ると先ほどまで習一が身を案じた少女がいる。
「公園のむこうに、シューイチをさがしてる人がいる。見つかるとめんどう」
「オレを……? 一体だれが」
習一は瞬時に父を想起したが、そんな労力をかけて自分を捜索するとは思えず棄却した。せいぜい捜索願を受理した警官がパトロールついでに捜す程度だろう。
「よくしらない人。とにかくこっちに来て。シドの部屋にもどろう」
エリーは手招きする。習一は彼女の誘導に従った。揺れる銀色の髪をじっと見ながら帰路につく。アパートの付近に差しかかり、エリーが足を止める。彼女はブロック塀に隠れ、習一の目の前をあきらかにする。数メートル先、金髪で白スーツの男が仁王立ちしている。自分も身を潜めるべきかと習一が思った矢先、黒い部分の多い頭部がこちらを向いた。
「走って!」
エリーの促しに応じて習一は駆けだした。あの男に関わるのは極力避けたい。どたん、と重たい物が倒れた。習一は走る速度をおさえ、後ろに視線をやる。地べたに白服が倒れている。その横には家屋の塀に手足をかけるエリーの姿があった。彼女が光葉の足止めをしたのだ。エリーは猫のように軽々と塀にあがり、習一を一瞥する。そうして民家の庭へ下りた。あの身体能力と障害物の豊富な場において、巨体の男を翻弄するのに不足はない。あとは習一が一時避難するのみ。習一は野太い声が後方から響くのを無視して走った。
4
習一は日中の疲労がたまった足を懸命に上げた。適当に光葉を撹乱できたらアパートに帰ろうと考え、身を隠す場所を探す。周囲には塀つきの家が点在するのだが、利用するのはリスクが高い。盗人に間違われて騒ぎになればあっさり追跡者に見つかるだろう。
もっと安全に、誰がいても怪しまれず、人目にもつかない場所。
(公園……)
エリーに入るなと言われた場所だ。あの時は習一を捜す者が付近にいたという。何分か経過した今なら捜索者は不在やもしれず、その期待に賭けて走った。
公園内はトイレの出入口を示す明かりや外灯によって部分的に照らされていた。その光を避けつつ、習一は荒れた息を整えて歩く。ベンチに腰かけ、体を休めた。
(いつごろ帰る……いや、帰れるのか? あいつ、またアパートの前で待つんじゃ)
光葉は本来の目的であるシドの出待ちを再開する可能性がある。シドの下宿先をどこで知ったのかわからないが、その情報は誤りだったと思わせておきたい。でなければ今日、からくも煙に巻けたとしても、明日明後日は逃げ切る保障がない。
(あいつが諦めるまでは部屋に行けない。それをあの教師に伝える手段が……)
エリーの顔が思い浮かんだ。彼女とシドは連絡を随時取りあう仲だ。おそらくエリーがシドに光葉の待ち伏せの件を伝えるだろう。アパートに行くに行けなかった状況を知れば、彼が打開策を講じるはずだ。なればこそ習一は自身の安全確保に専念するのがよい。
(漫画喫茶に隠れるか?)
一晩やり過ごす資金はある。だが習一が行方をくらますと同居人たちはどう思うか。習一は彼らの連絡先を知らない。音信不通のまま忽然といなくなれば心配するのは目に見えている。その心境は習一が光葉に身柄を拘束された場合と大きな差がなく、良策とは思えない。もっとも良い方法はシドと合流することだ。シドたちと別れた店へ向かおうかと考えたが、一人行動の経過時間を考慮すると無駄足になる。他の候補は食材の買い出しができるスーパー。しかし彼らは会計を終えたあとかもしれず、習一は目的地を決めかねる。
ここまで考えてみて、習一は自身をあげつらった。
(一人でやりたい放題してきたってのに、今になってあいつらにすり寄るのか)
家族への迷惑をかえりみず、自分をもてなす他人の厚意に乗りかかる。なんとも虫のよい話だ。家族の心労を気にしないくせに、他人が抱える気苦労には配慮の念がある。身勝手な気遣いだ。その違いは自分に利をもたらすか否かという利己的な判断による。
(オレは汚いやつだ。使える人間にだけいいツラをしようとして)
自己嫌悪に浸るのを防ぐため、習一は移動しようと思った。外れでもよいから開店中の食品売り場へ。顔を上げ、どちらの方向へ進むか模索する。ぼんやりと動く影が視界に入った。上下に動くその形は一般的な成人男性に近い。通行人だろうか。習一は園内のオブジェの一部のように息を殺した。通行人の陰影は次第に大きくなり、外灯が部分的に明らかにする地面を踏む。その足は二人分あった。一人が灯りのもと、電子機器を操作する。機器は強い光を発した。
「お、ここにいんじゃん」
いかにも軽そうな口調の男が言う。その言葉は習一に向けられたものだが、声に聞き覚えはない。「いい稼ぎになったなぁ」と愉快そうにするのが不快で、習一は立った。
「おっと、勝手に行かれちゃ困るのよ。ダンナに来てもらわないと」
「ダンナってのは光葉のことか? 図体の大きい白スーツ野郎の」
「話が早くて助かる。このまま待っててくれりゃいいからさ」
軟派な男が電話を耳にあてた。光葉と連絡を取る気だ。せっかく逃げられたのに告げ口されてはかなわない。習一は男の股ぐらめがけて蹴りあげた。男は電話を落とす。内股に立ち、痛みをこらえている。その隣りにいた連れは悶絶する男の体を支えた。彼らがもたつく間に習一は公園を脱出する。目についた曲がり角へまっしぐらに走った。
「!」
一面に壁が現れ、急ブレーキをかける。止まりきれずに衝突し、したたかに鼻を打つ。
「よおニーチャン、夜の鬼ごっこはこれで仕舞いや」
不運にも現在もっとも会いたくない人物にめぐりあった。大きな手が習一の肩にぽんと乗る。習一はその手を振り払おうとしたが、強く握られてうめき声をあげた。
5
「なんでワシを見てすぐ逃げたんや?」
光葉は手にこめた力とは真逆に、子どもに諭すような声で尋ねる。その声色はいっそう危険な状況を物語る気がして、習一は正直に話すことに決めた。
「あの時、『走れ』って言われたから」
「そんな声、ワシは聞いておらんで」
おかしな主張だ。間違いなくエリーは声を張りあげて習一に逃走を命じた。そしてどうやったか見ていないが、追いかけてくる光葉を転倒させていた。
「あんたを転ばせた女の子がいただろ。あいつが、そう言った」
「女ぁ? そんなやつ見てへんな。すっ転んだのはまあ、足がもつれたからやと思うが」
光葉はエリーとかなりの近距離にいたにも関わらず、彼女の存在に気付いていない。エリーの声を聞かなかったという証言といい、まるで彼女は習一にしか感知できぬ幽霊になったかのようだ。そんなはずはない。シドも小山田も、エリーとは自然なやり取りをしている。
「まあええわ。ニーチャンのセンセイの家、あそこで合っとるか聞きたかったんや」
「それを聞くために、金を使って人を雇ったのか?」
二人組の男の言動により、かいま見える光葉の行動。その原動力は習一が簡単な質問に答える程度のことを最終目標には設定しない。
「よう口が回るやっちゃな。もうちっとおバカなほうがかわいげあるで」
「それで、あんたは何がしたいんだ。あんな頭の軽そうな連中に小金をちかつかせておいて、慈善家気取りしたいわけじゃないだろ」
「その通り、施しただけじゃワシは満足せえへん。ワシの望み、もう知っとるやろ?」
光葉は習一の背後に回り、後ろ手を組んで本格的に拘束する。体格差のある相手への抵抗はできなかった。習一は彼の目的が自分にはないことを頼みに平静を保つ。
「あの教師と果たし合いするのか。だったらオレは関係ない」
「ニーチャンの身柄と引き換えに戦ってもらう。そうでもせんと全然会われんくてなぁ」
無理もない提案だ。シドは不可思議な協力者のおかげで光葉との邂逅を未然に回避している。それゆえ光葉が強硬手段に出た。それは理解できるのだが。
「どうやって呼びつける? オレはあいつの連絡先を知らねえぞ」
「なんやと、連絡網っちゅうんはないんか?」
「あいつはオレの学校の教師じゃない。前にもあんたにそう言ったつもりだが」
光葉は「なんやとぉ?」とキテレツな声を出した。
「とぼけとったんやないんか。じゃ、センセイはなんでニーチャンにかまけとるんや」
「オレは覚えちゃいないが、オレになにかやらかしたんだとよ。その詫びだって」
この解説で光葉が納得できたか確認できないが、話が進展しないまま光葉は歩き始めた。
「ほんならどないしよか。直接センセイのおる部屋にお邪魔するか」
アパートへ連行される道中、部屋はどこかと聞かれても習一は知らぬ存ぜぬを突き通した。さいわい習一がシドの下宿先に寝泊まりする現況は知らないようだった。習一から情報を引き出せない光葉は一部屋ずつ訪問すると言い出す。習一を捕縛した状態で住民と会ったなら、異変を感じた住民が通報するだろう。警察沙汰はまずい。それは光葉も同じはずだ。
「オレを捕まえたまんま、部屋を総当たりする気か?」
「そらそうやな」
「『自分は不審者です』と紹介して回るようなもんだぞ」
「それは気ぃつかんかったわ。まあええ、用が済んだら寄りつかんからな」
警官が来るという発想は光葉にない。もしくは警官があらわれたところで支障がないと考えたのだろう。この大男は卓越した身体を有する。何者にも負けぬ自信があるのだ。
「いでっ」
突然光葉が痛みを訴えた。コロコロと軽い物が地面に転がる。途端に習一の手首がぐいっと下に押しやられた。拘束がすべり落ちる。習一が咄嗟に後ろを見れば、少女が走ってきている。
「こっち!」
エリーが腕をのばした。だが光葉が習一を抱えこんでしまい、少女の手は空を切った。
「なんや、誰かがワシの邪魔をしよる!」
光葉は頭をぶんぶんと動かす。あたりは無人。光葉は「おっかしいな」と一人ごちた。
(あれは見間違いだったのか?)
大男はまたも少女に気付かなかった。習一の耳には真新しいエリーの声が残るのだが。
「その少年を放してください」
もはや親の声より聞き慣れた声だ。後ろに向きなおると目の据わった銀髪の教師が立つ。
「やぁっと出てきてくれたな。アンタを捜してあちこち回っておったんや」
「貴方の事情は知りません。その子から離れてください」
「まずは不意打ちの謝罪、と言いたいとこやけどええわ。ワシの頼みを聞くこっちゃ」
「一つだけですよ」
「アンタの仲間にアンタと似たような銀髪の男がおるやろ? そいつを紹介してくれや」
今朝の光葉はシドと戦うのでもよい、と言っていたのだが、本音はやはり違うらしい。
「私がお相手します。私に勝てないようでは彼には到底かないません」
「アンタを倒してもな……ちょいと気乗りせんのや」
「わかりました。貴方が私の膝を地につけられたら、彼を呼びましょう。いかがです?」
温厚な男による好戦的な条件がつらつらと流れる。習一は普段の彼との大きな隔たりを感じた。しかしよく考えると、決闘になれば光葉は嫌でも習一を放さねばならない。シドは戦いを引き受けることで習一を逃がそうとしているのだ。彼の根底にある行動理念は変わらなかった。
光葉はこの要請に快諾し、目の前の公園に入る。そこに習一が急所を蹴った男の姿はなかった。園内の広場で戦うかと思いきや、光葉は広場を通り越す。
「おい、どこ行く気だよ」
「ニーチャンをどこも行かれへんようにしとくだけや」
光葉は広場の端にある高さの違う鉄棒をぽんぽんと触った。内ポケットからじゃらりと音のする金属を出す。外灯の光を反射するそれは警察が所有する手錠に酷似していた。
「カギはもっとるさかい、安心して捕まっとってくれや」
二つの輪っかのうち片方を習一の手首にはめ、もう片方は鉄棒に繋ぐ。習一は完全に繋がれた犬状態になった。シドは腕組みをしながら光葉の所行を見ている。
「疑り深いのですね。私は人質がいなくとも試合をしますよ」
「まぁまぁ、気ぃ悪くせんでくれや。証人はおって困らんやろ?」
「どちらが勝った、という証言者が欲しいのですか」
「そういうこっちゃ。ほんじゃ、準備はええか」
「その前に一つ、お尋ねします。銀髪の男を倒す理由はなんですか」
光葉は白のジャケットを脱ぎ捨てた。首の骨をこきっと鳴らす。
「ワシはこれでも末っ子でなぁ、アンタの年下なんやわ。若いとなっかなか周りに認めてもらえん。せやけど無敗のバケモンを倒したあかつきにゃ、ワシの箔がつくってもんよ」
「つまり、名声が目当てですか」
「そうや。男らしい理由やろ?」
それはプライドや外聞の概念に疎い者には理解しがたい動機だ。シドがうつむく。
「……くだらない」
非難を凝縮したつぶやきが開戦の合図になった。
6
光葉が先に仕掛けた。単純だが破壊力のある右ストレート。その拳にはこの場に立つ意義を貶された憤激がこもる。怒りのあまり大振りになった動作は見切られ、シドが半身をずらす。光葉の太い腕は黒シャツの胸元をかすめた。光葉は外れた拳を自身の胸へ抱きこむように薙ぐ。これもシドが光葉の背後へ移動してかわす。全力で振りかぶる光葉に対し、シドはその場を動くだけに留まる。彼は最小限の自衛に専念してばかりで攻勢に出ない。
「挑発しといて、ビビっとるんか!」
光葉はかかと落としを繰り出す。ぶん、と大きく空を切った蹴りはシドの肩を狙う。その足首をシドの手が受け止めた。光葉の足を発泡スチロールのように軽々と持つ。
「なんやと……?」
シドは光葉の太い足をポイっと捨てた。光葉は多少よろめきつつ体勢を整える。
「わかりませんか。私と貴方との力の差はかけ離れていることを」
光葉は力量を低く評価されたことへの報復を起こさない。闘争心にかげりが見え始めた。
「元気に帰れるうちに引いてください。貴方が実力を高めた上での再戦は受け付けます」
「……アンタは優しいな。やけど、その優しさが他人を傷つけるっちゅうのは覚えとき」
挑戦者は無謀なタックルを試みる。シドが寸前で回避しようとしたところ、彼のサングラスが宙を舞った。光葉の手足は触れていない。だがシドは顔面に攻撃を食らった。
「剣道三倍段、てな。リーチの長いもんが有利や!」
光葉は黒い警棒を振り上げた。伸縮する携帯武器を隠し持っていたのだ。予想外の打撃を受けたシドは顔をそむけたまま、迫りくる敵に注意を払わない。
「もらったぁ!」
勝利を確信した激声が響き渡った。警棒は戦意を見せない男の頭めがけて振り下ろされる。無防備な銀髪が揺れるのを最後に、習一は思わず目をつむる。だが打擲する音は発生しなかった。かわりに誰かの苦しげな声が聞こえる。習一は慎重にまぶたを開けた。
二人の男が向かい合う姿があり、どちらが優勢か判断がつかない。光葉が警棒を落とし、空いた手を自身の首元へ運ぶ。彼は己の首を掴む手をはがそうと必死にもがいた。光葉を締め上げる手は一つ。しかし光葉の両手はその握力に負け、拘束を解けない。
「『考えなしに打ち合うな。己の弱点を相手に教えることになる』」
感情をともなわない、朗読のような語りが始まった。
「『決して驕るな。子どもが振るう短剣とて己が命を落とす凶器になりうる』……」
この朗読の一文に、習一はなぜか寒気を感じた。
「私の武術の師匠が述べた戒めです。貴方の師匠は教えてくれなかったようですね」
言ってシドは光葉を解放した。光葉は膝を屈し、喉に手を当てて咳こむ。
「手錠の鍵をください」
シドが差しのべた手を光葉は憎たらしいもののように払いのける。
「……渡せるか! ワシはまだやれる」
「強情ですね。どうしたら納得してもらえるのですか」
「もちろん、アンタの仲間に会わんと帰れん!」
「──わかりました。一目だけでもお見せしましょう」
シドは習一を見た。習一は自分の後ろになにかあると思った。彼の視線の先を見ると木の幹から一人の男があらわれる。光葉に匹敵する大男だ。彼はつばの広い帽子を被る。男の全容がはっきりするや否や、習一の肌が粟立つ。手錠がガチャガチャと鳴って習一の逃走を阻んだ。
(こいつは……!)
習一は理屈抜きにその男が危険だと感じた。泣きたいほどの恐れが全身に押し寄せる。その原因は理論では推し量れない。ひたすらに本能がこの男への強い拒否反応を示した。
習一とは正反対に光葉が歓喜した。意気揚々と立ち上がり、帽子の男に一歩近寄る。
「アンタか……! ちっとばかし頭を見せてくれんか?」
男は帽子の天井を手のひらで覆い、無言でどけた。その頭髪はシドと同じ輝きがある。照明の不十分な野外といえど、シドという標本と比較すると銀色に違いないと思えた。
「ホンマもん、みたいやな。よーし、アンタと勝負や!」
意気込む光葉に対し、シドは頭をふって拒否する。
「ダメです。事前の約束と違うでしょう」
「ええやん。カタいこと言うなや〜」
光葉は合掌してシドを拝みたおす。たった一人が信仰する神仏は深いため息をついた。シドは帽子を被りなおす男に「手加減なしで」と忠告し、後方へ下がる。光葉のねばり勝ちだ。使い捨ての崇拝者の皮を脱いだ男は嬉々として構えた。
「今度こそ、勝──」
言い終わらぬうちに男の掌底が光葉のみぞおちに入る。光葉は相手の戦法がシドと同じ、最初は防戦に徹するものだと高をくくっていたのだろう。まるきり警戒していなかった腹に攻撃を受け、やすやすと吹っ飛んでしまった。地面に倒れた光葉は腹をおさえる。
「っく〜! ヒトが喋っとる間に手ぇ出すんは卑怯やぞ!」
「徒手試合の途中から武器を使う行為は卑怯ではないのですか」
シドはすたすたと光葉に接近し、その顎をがしっとつかんだ。
「な、なにする気や?」
「これ以上は時間の無駄です。貴方には眠ってもらいます」
光葉はシドの手を離そうとして暴れる。その抵抗は数秒減るごとに目に見えて衰え、動かなくなった。シドは光葉を地べたに放置し、帽子の男に歩み寄る。
「お疲れさまです。もう変化を解いていいですよ、エリー」
「うん」
屈強な大男の口から少女の細い返事が発せられた。直後に男の姿が絵の具でぼかしたかのように潤み、人の体を失くす。全体的に丸みを帯びた、黒い、人間ができそこなった怪物が出現する。首のない頭部には大きな緑色の双眸があった。
「ほんとうに、そいつが……エリー?」
共通点は目の色と声の二点のみ。それ以外は見る影もない。黒の怪物がずるずると棒状の足をひきずり、習一のもとに来た。習一は恐怖で固まってしまう。見た目は異形であろうと二たび習一を光葉の手から救おうとした相手だ。自分を襲うはずがない──そう頭で理解はできても、体は猛烈に生命の危機を感知した。
異形の腕が習一の拘束されていない手を包む。ひんやりしたクッションのように柔らかな感触があった。その冷たさが習一の臆病風を強める。習一は助けを求めてシドを捜す。しかし教師の姿はない。ただ一人、習一に視線を射る男がいた。光葉を吹き飛ばした帽子の男。だがそれは黒の怪物と化したエリーが形作る偽の姿だった。ではあれは誰なのか。
(まさか、あいつが本物の……?)
習一は誰のどの姿が本物なのかわからず、混乱した。唯一の真実は、習一に良くしてくれた者たちの姿がどこにもないということだ。習一はひとまず人の原型を保つ男に助けを請おうと考えた。男の顔を凝視すると、その瞳が冷たい青色だと気付く。
『悔いても遅い。お前には助かる機会を与えた。むげにしたのはお前自身』
男は口を堅く閉ざしているが、習一にはそんな言葉が聞こえた。それらは過去に、この男に言われたのだ。今と同じ、黒の化物に束縛された状態で。
習一の視野に黒い異形の頭が入りこむ。緑の目の下に丸い空洞を一つつくり、習一の眼前を覆い尽くす。喰われる──その空洞は人の骨と肉を食いちぎる口だと、習一は身をもって知っていた。
「うわああああ!」
『ああぁぁぁ……』
──現実の絶叫と記憶の中の断末魔が共鳴した。
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2018年12月16日
習一篇草稿−終章上
1
「ごめんね、すごくこわかったでしょ」
異形は銀髪の少女に変貌し、涙を流す習一を抱きしめた。彼女は習一の背中をやさしくさする。その接触が、過去に奪われた体の実在を証明した。
「記憶、もどった?」
習一は自信なくうなずく。自分が怪物に襲われた瞬間は思い出した。そこに至るまでの経緯はまだはっきりしない。
「バケモノに……手や、足を……でも、どうしてオレは生きている?」
薄暗い灯りの下に黒い異形が無数にうごめいていた。それらが帽子の男の「喧嘩をせずに分け合え」という号令のもと、習一の肉体を咀嚼した。その惨劇は吐き気をもよおすほどにまざまざと思い出せる。習一はエリーの両肩を押して離れさせ、喋らない男を正視した。
「あんたがオレをバケモノたちの住処に運んだんだろう」
言ってすぐ、習一は手錠のかかった片手が自由に動かせることに気付いた。
「あれ、手錠は……」
拘束具は鉄棒に繋がっていた。習一の手首にあった輪は閉じたまま、ゆらゆら揺れる。錠が開いた形跡はない。手錠などなかったかのように、習一の手がすり抜けたのだ。
「なんで……?」
「いまのシューイチはね、ニンゲンじゃなくなってるの」
エリーは習一の背に回した手を外し、習一の片手を握る。
「オレも、お前みたいなバケモノになっちまったのか?」
「うーんと……姿を消したわたしがくっついてると、シューイチも消える」
「『姿を消した』……?」
エリーの存在は他人に気付かれない。それは彼女が常人に見えない姿で活動する影響か。
「わたしとシドはね、ほんとうは体がないの。こっちの世界の生きものじゃないから」
「シドも、お前と同じ? じゃあ、あの男は……」
エリーが帽子の男に変化できたのだ。同類であるシドがくだんの男に化けられぬ道理はない。であれば教師がこの場におらず、帽子の男がいるわけは。
「……あんたが、シドか」
男は頭を縦にふる。習一の警戒心がだいぶ薄れた。人外だという告白は衝撃的ではあるが、時折そういった疑念を抱いた習一にとっては仰天するほどの事実でない。なにより、シドは習一に危害を加えない。人を異形たちの食糧にする悪行は、気立ての優しい彼にできるはずがない。習一にトラウマを植えつけた犯人とは異なるのだ。習一は安堵のため息を吐き、目元に残るしずくをぬぐった。
「趣味の悪いことをしやがる。でもまぁ、おかげで少しは思い出せた。もうそのニセモンの姿はやめていいぞ」
「違う……」
シドはいつもと異なった声質で答えた。その声はその姿の持ち主のもの。
「声もあの野郎のをコピーできるのか。エリーみたいな見た目だけじゃないんだな」
これもシドは否定の素振りをした。彼が言わんとする主張はなにか。それを習一が明確に理解した瞬間、悪寒が脳天から足先まで走りぬけた。
「私が貴方を同胞に喰わせた」
習一が本物だと思っていた教師の姿こそが、彼にとっては偽物だった。そうとわかると習一は握りこぶしをつくり、打ち震えた。
「とんだ……とんだお笑いぐさだ! 誰にでもいいツラして、善人ぶってたくせに! 裏じゃあんな酷いことをやってたのかよ!」
今までの人物像が見せかけだったと知ると気が昂ぶり、エリーの手を乱暴に振りほどいた。
「シューイチ、さけぶなら手をつないで。ミツバがおきる」
「知ったことか! あんた、オレ以外にもバケモンに喰わせた人がいるんだってな。なにが目当てだ? 他人を信用させた隙に喰おうとしてんのか!」
エリーが背後から習一に抱きついた。習一は暴れる。
「くっそ、放せ!」
習一は上半身を左右に大きく揺さぶった。エリーは離れない。そもそも巨漢の光葉を突き飛ばす腕力のある相手だ。常人が力でかなう見込みはなかった。その拘束自体は怒りの対象ではない。習一はかまわず憤怒の根源に立ち向かう。
「バケモンのくせに、オレを真っ当な人間にするとぬかしたのか!」
彼らが人間と偽った怪物だった──それは怒りの核心を突いてはいない。
「オレを殺したくせに、オレの前で笑っていやがったのか!」
自分を傷つけた張本人だと隠していた──これも怒髪天を衝く要因には不足があると感じた。唐突に涙が垂れる。これは恐怖が生む涙ではない。だが純粋な怒りが生むものとも違う気がした。
(オレは……なんで泣いてる?)
複数の感情がせめぎ合い、言葉を失う。混乱する習一に罪人姿の異形が詰め寄る。習一は怖気づいた。だが身の安全は取るに足らぬと思い、恐怖をねじ伏せた。
大きな手が習一の顔を覆う。指の隙間から見える目は、彼の冷血さを伝える青色だ。
「私への不満はすべて吐き出せ。それらを私が余すことなく飲み込もう」
シドは暴言を受け入れるという。天邪鬼な習一はかえって文句が言いにくくなる。彼にぶつけたいわだかまりは残っているのだが、それはどういううらみ言で表現すべきなのか習一自身がわからなかった。
「……場所を移すか」
習一が黙りこくったのを見かねたのか、習一の顔からシドの手が離れた。圧迫感が遠ざかり、ほっとしたのは束の間だった。太い腕が習一の体を捕え、肩に担がれてしまった。
「急になんだ! どこ行くんだよ!」
視界一面に広がる背中に問うたが返答はない。ごつごつした背に手をついて離れようとするものの、両腿をがっちり捕縛されて動けない。動ける範囲で胴に蹴りを入れたが、巌のごとき強固な体に跳ね返される。シドの背か地面の二つしか見れぬ習一はせめてもの抵抗として上体を反らす。新たに見える周囲の景色は離れ、小さく、低くなっていく。
(飛んでる……?)
公園全体が俯瞰できるまでに高度が上がった。そこが最頂点であり、徐々に降下する。落下には二人の体重が合わさって加速が始まる。民家の屋根が拡大し、習一は慌てだした。
「わ、バカ! お前みたいな野郎が屋根に落ちたら……!」
重くて家を破壊してしまう、と危惧したがもう遅い。彼の足は屋根瓦を踏んだ。組み合わさった瓦がこすれる音は鳴らなかった。巨体を支える屋根は無事でいる。
(あ、そっか……)
エリーの説明によると彼らは姿を消すことができる。人間である習一も彼らに接触する間は同様に消える。いわば幽霊になったも同じだ。その状態での物理的な質量はないのだろう。そう理解した習一は虚脱した状態で夜の空中遊泳を体験した。
2
シドは桁外れの跳躍力で移動した。オフィス街のビルの屋上で足を止める。終業の時刻は過ぎていて、階下の明かりがビルの中腹以下に集中する。そういう建物をシドが選んだのだ。習一が騒いでも他人に勘付かれにくい場所を。
習一はコンクリートの上に立たされた。習一の体にはシドもエリーも触れていない。常人に感知される体にもどっているようだ。
「オレをこんなところに連れてきて、なにがしたい?」
「質問を受け付ける。それと私への罵声も」
「罵ってくれだなんて、どんな変態だよ」
「軽口を叩けるくらいに落ち着いたか。部屋で話してもよかったな」
言われてみれば習一の興奮がおさまっている。場所移動の時間がクールダウンになったらしい。冷静に考えると、あそこまで感情が動く原因は不明瞭だ。眼前の男は習一を病院送りにした犯人なのだから、怒り自体は正当だ。習一が疑問に思うのは己の涙だ。
「オレ……オレは、なんで泣いたんだと思う?」
「それが私への質問か」
シドが求める問いは彼が習一を襲った理由や彼らの素性だ。カウンセリングの相談ではないことを習一はわかっている。だが現在、一番不可解な問題は自分の感情だった。
「バケモンに人間の気持ちなんか、わかるわけねえよな」
「難しいが推察はできる。涙は感情が高まった時に出る……良い意味でも悪い意味でも」
律儀にもシドは習一の疑問に応え、回答を模索する。外見と口調がいささか粗暴に変わっても本質的な性格はそのままらしい。
「傷を負わされた怒り、謀略に気付けなかった悔しさ、愛する者を目の前で失う悲しみ、死を間際にした恐れ……私が見た涙は強い負の感情のかたまりが多かった」
「オレのはどう見えた?」
「最初は死の恐怖……最後は、信用していた者に裏切られた絶望……」
惨劇の再演のせいで流れた涙は習一もそう感じた。だが二回目の涙が裏切りによるという表現は抵抗がある。それほどの信頼を、猜疑心の強い自分が抱けたのだろうか。
「裏切りに遭った人の顔、あんたは見たことあるのか?」
「最近、あった」
「だれの?」
「オヤマダ……貴方がそう呼ぶ女性だ」
習一が完全に失念していた、才穎高校の女子生徒。彼女は彼の特殊能力の一端を知る態度を見せていた。その時に口の堅いシドのことを尋ねようかと思ったのだが、ゲームだ飯だ猫だといろいろあって機会を逃していた。
「あいつを、あんたが騙した?」
「そうだ。彼女を主のもとへ連れていく……そのつもりで才穎高校に勤めた」
「待てよ、おかしいだろ? あんたは普通の人に見えない姿になれるんだ。そんな回りくどいことをしなくたって、いつでもかっさらえただろうが」
「では逆に聞く。なぜ貴方は姿を消した我々が見える?」
この返しは習一の想定外だ。常人代表の光葉がエリーに邪魔をされた時、習一はしっかり目と耳で彼女の存在をとらえた。少女は普通の人間だとばかり、習一には映っていた。
「……小山田はオレみたいに、あんたたちが見えるやつなんだな?」
「いや、彼女は見えていない。だが彼女の友人と、友人が親しくする警官は見えている」
「その警官は……露木か?」
「そう……彼の存在がもっとも厄介だった」
「あののほほんとした野郎が? 体つきだって大したことなさそうなのに」
どんな役職であれ、警官は一定の武術の心得がある。だが素人に毛が生えた程度の強さしか感じられぬ青年だ。屈強な光葉に圧勝したシドを凌ぐとは到底考えられない。
「率直に言うと彼単体は弱い。強いのは彼が従える仲間だ。白いカラスを見ただろう?」
「ああ、露木のペットか」
「あれはこちらで言うところの、妖怪や式神に相当する。彼の最強の仲間は私では歯が立たなかった」
「露木が呼び出すペットが怖いんだな。それはわかった。で、オレが見たとこ、あんたは露木と仲良くやってる。あんたが騙した小山田もだ。あんたの企みはどうなったんだ?」
「失敗した……というよりは、成功させる意志がなくなった。計画を遂行すると十中八九、彼女はこちらに帰れなくなる。二度と目覚めない姿を……彼女の親にさらせなかった」
この言い分には習一の不服がせりあがる。
「昏睡するオレをオレの親も見てるんだが、それはかまやしねえってか?」
「その眠りは一時的なもの。魂が健康な肉体に宿るかぎり、いずれは目が覚める。同胞は魂までも喰い尽くすわけではないから──」
「精神的にはかなりキツイぞ、あれ。痛みを感じたし、人を一回殺してるのと同じだからな。そこんとこわかってんのか?」
「わかってはいる。だからこそ私が貴方の保護をする。これが私のあがない方だ」
決然とした声明だ。習一は疑問を一点はさむ。
「オレ以外にも被害者を出してたんだろ? そいつらはどうするんだ」
「彼らとは接触できない。関われば消えた記憶がもどると警告を受けた」
「オレはあんたと一緒にいてもなっかなか思い出せなかったぞ」
「今の貴方は忘却の効果が色濃く残っているが効き目はいずれ風化する。ほかの子たちはすでに治療を受けて数ヶ月経った。貴方と同じ忘却力のままではいられない」
得体の知れぬ魔法に関しては議論のしようがない。習一は一応、説明を鵜呑みにする。
「じゃ、オレは事件のことを思い出したいと言ったから、堂々と会ってるわけだ?」
「そうだ。彼らの分まで、貴方には尽くすつもりだ」
連日の厚遇は以後も継続していくと見えて、習一は胸をなで下ろした。
(信じさせておいて後ろからザックリ、てのはしなさそうだな)
よくよく考えればその危険があるのなら露木が野放しにしないはずだ。まがりなりにも彼は警官なのだから。警戒を解いた習一は次なる質問をする。
「オレをあんな目に遭わせた動機は? あんたの計画にオレが割りこむ隙はないだろ」
「いや、割りこんできた」
「え?」
習一の視界にいなかったエリーが現れ、習一の手を取った。手のひらに冷たい金属片をのせる。薄雲に遮られた月明かりを頼りに手の角度を変えると、それはナイフに見えた。だが持ち手と刃は分断している。
「このゴミがどうした?」
「貴方が私と私の生徒に向けた凶器だ」
「オレの……?」
習一は折れた刃を片手に移し、ナイフの柄を握った。手に馴染む感触はそれなりにある。
「あんたたちにこれを向けたって、どういう……」
視線を話者にもどすと、見慣れた教師の姿があった。習一の体がこわばる。帽子の男と同じ人物だという認識が瞬時にできなかった。
彼の目元にサングラスはなく、なぜか切れ込みのあるネクタイを胸に垂らしている。
「そのネクタイはなんだ?」
大剣部分の生地が半分切れたネクタイだ。使い物にならないナイフに引き続き、シドの所有物も損傷のある形で現れた。これらが示唆する事実は──
「オレがあんたを切りつけた?」
「そうです。私の被害はこの程度でしたが、貴方の攻撃を受けた結果、二人の生徒がケガをしました。その時の記憶はもどりませんか」
変身とともに丁重な言葉遣いが復活する。習一は異形の演じ分けを奇妙に感じながらも「知らねえな」と答える。ただし、そのような喧嘩があったことは人づてに聞いていた。
「オレを痛めつけすぎたのを苦にして……とかなんとか掛尾先生に言ったんだったか」
「そうです。これらを見ても効果がないようですね」
「ああ、もうちょっとインパクトがないとな」
「では再現しましょう」
習一が了承しない間に荒々しい手が喉に食らいつく。気管支を圧迫し、首や顎の骨に多大な負荷をかけて習一の体を持ち上げた。地に足がつかぬ浮遊感、強調される脈動、浅くなる呼吸。着実に窒息の順序を経る中、習一は懸命に捕捉者の手を引きはがそうとあらがった。捨てたナイフの残骸がからん、と乾いた音を立てる。
(いくら、思い出させるためだからって……!)
まかり間違えば死に至る。習一は暴挙に対抗して足を前後に動かした。空を蹴る足先がシドの体に当たったが、全くの無反応だった。
『先生、やりすぎだ!』
習一と完全に意見が一致する台詞が脳裏を走る。それは習一と同年代の少年の声だ。少年はあの時、こめかみから血を流していた。その傷は──習一が負わせたものだ。少年が放つ蹴りで倒されたことに習一が逆上し、仲間内にもらった武器を振るった。頭を狙った覚えはないが、相手が体勢を崩したせいで結果的に頭部の負傷をつくった。少年が転んだ時に彼の下敷きになった者がいる。小山田だ。彼女は鈍い音を鳴らして倒れた。習一が生みだした負傷者のうち、一人は習一の意図しない巻き添えを食ったのだ。
足は宙を掻く力が萎え、手は肩より上へあげていられなくなる。あがく気力が根こそぎ奪われた時、足裏が硬いコンクリートに触れた。習一はその場にへたれこみ、潰れかかった首を手でさする。喉にからんだ痰が新鮮な空気の吸入をさまたげた。
「思い出しましたか」
シドは平素と変わらぬ調子で尋ねる。その態度に習一はむかっ腹が立った。
「あんたなぁ! 昔話をする程度のことで、人を殺す気か!」
「死にはしません。加減をわきまえています」
「死ななかったら何をしてもいいってわけじゃねえんだぞ!」
「その忠告、胸に留めておきましょう」
詫び言を聞けなかったせいで、習一の苛立ちは加速する。
「オレが不良だから手荒くしても平気だと思ってんだろ」
「いいえ。記憶を取りもどしたいという貴方の希望に沿いました」
「これが小山田だったら、同じことをしたか?」
「彼女の望みにかなうのなら喜んでやります」
ブレない返答は習一に諦観を生じさせた。第一、相手はこの世の者ではないという異形だ。人間の常識や痛覚を理解するのにも限度があるのだろう。
「あー、わかったよ。あんたは悪気がないんだな。余計タチわりぃが気にしてられ……」
ふいに鼻がむずがゆくなり、習一はくしゃみをした。
「冷えてきましたか。続きは部屋に帰ってからにしましょう」
「……そうだな。部屋ん中ならあんたも暴れねえだろうし」
「必要ならまたやりますが。『思い出せた』という言葉を私は聞けていません」
「あんたに負けた前後の記憶はもどったよ! とっとと行くぞ」
再犯をほのめかした男は習一に背を向けてしゃがむ。
「私におぶさってください」
「え……おんぶ?」
「嫌ですか。ではここへ来た時と同じ、肩に担ぐ方法がよいのでしょうか」
「いや……あの体勢は腹が苦しくなる」
なにより頭が地面をむく姿勢は不安定で怖い。だが、赤の他人の男性に背負われることへの戸惑いもあった。シドは向きなおる。
「おすすめはしませんが、横抱きで行きましょうか?」
「げ……男同士でやるもんじゃねえだろ。緊急時は、しゃーないにしても」
「私もそう思います。……そうですね、では私が女に化けます」
「あんたが女に……? ああ、光葉が言ってた長身の女って」
「私のもう一つの形態です。あの姿は、武術の師匠に稽古をつけてもらう時によく変化していました」
「なんで大男の格好じゃダメなんだ?」
「彼は男が苦手で女好きな方でした。それで私は彼の……従者兼娘にあたる女性の姿を模倣して、指導を受けたのです──この詳細を話すのも帰宅してからにしましょう」
習一は無難におぶさる運送方法を選び、意を決して黒シャツに覆いかぶさった。自身のひざ裏を持つ手と、広い背中に体を預ける。
(父親にもされた覚えがねえのに……)
全身を他者に託す感覚が不慣れで、妙にうわついた気分になった。
シドは助走をつけ、屋上の塀を跳びこえる。彼は風と一体化したかのように疾走した。
3
二人はアパートのベランダに到着した。室内の座卓に洗濯物の山ができている。その奥にイチカが扇風機の風で涼む。ベランダのガラス戸を開けるとイチカは「おかえりー」と笑顔で出迎えた。知人がベランダから出現したことを日常茶飯事のごとく受け流している。
「おさきにお風呂入ったんすけど、オダのアニキはどうする?」
湯船に浸かる気分ではないがシドが「お先にどうぞ」と言うので、なんとはなしに入浴の流れになった。嫌な汗はべったりかいている。さっさと洗い流すことにした。
風呂を出た習一と入れ替わりでシドが脱衣場に入る。彼は自身よりも風呂場を綺麗にする目的で入浴するのだと昨晩知った。清掃にはそれなりに時間がかかる。話を再開する時機がずれてしまい、習一はじれったく感じた。
帰宅時は未整理だった洗濯物が片付けられ、卓上にはイチカが用意した冷茶が置かれる。
「オダのアニキは、なくした思い出を元にもどしたいんすよね?」
習一はうなずいた。イチカが得意気に破顔する。
「アニキの日記を読んだら思い出せるかも!」
彼女はロフトベッド下の机に行き、棚にしまったノートを取った。
「勝手に読んでいいのか?」
「じゃ、了解をとってくるっす!」
イチカは座卓にノートを置いてから風呂場に向かう。行動の順番が逆だと習一は思いながら茶を飲んだ。ものの十秒ほどで「読んでいいっすよー!」という声が飛ぶ。思えば以前、日記を読んでもいいと本人の了解を得ていた。だがその時はあまり習一の役に立つ記録はないだろうとも言われた。
(このまんま待ってるのもなんだしな……)
適当にページをめくる。開いたページには三月、シドが才穎高校へ赴任するくだりが載っていた。このあたりは習一と出会う前のことだ。とばして他の日付を見る。イチカが習一のとなりに座り、一緒に見始める。
「オダのアニキの話は四月の下旬くらいから出てきたはずっす!」
「お前、いつも日記を読んでるのか?」
「アニキんちに遊びに来た時は読ませてもらってるんすよ。今日は買い物中にアニキが一人でどっか行っちゃってヒマだったんで……」
「だから無断でオレに読ませようと?」
「最初はあるじさんの報告用にまとめてたもんすから、アニキの事情を知っていい人は読めるんす」
「ご主人様に、ねえ。あいつはなにが目当てでここに来たか、聞いたか?」
「人を捜してるっす。何人か連れてったけど違ってて、ヤマダさんがドンピシャなんす」
「ふーん……?」
習一は説明不足な箇所を複数思いついた。捜す対象はどんな人物か。連れ去った人とは露木の言う習一と同じ被害者か。どうやって目当ての人物だと見極めるのか。小山田はどういった理由で当たりの人物なのか。
しかし今は自分の情報を得ようとして日記を漁る。文中にはアルファベット一字で表記される仮名が登場し、なかでもHという名が頻出した。イチカが閲覧をすすめた四月下旬の記録を探すも、習一とは無関係な内容に目がとまる。
『校長の講義中、Hが事務員に変装してきた。目的は私と校長の密会の理由を探るためだという。行動力と胆力のある娘だ。校長が言うには、彼女は私に気があるという。校長の注目を集めると今後の行動に支障が出そうだ』
Hなる人物がシドと直接関わった形跡だ。彼と関連の強い女子生徒──習一は小山田かと思い、イチカに尋ねた。イチカは悔しそうに「そうなんすよ!」と答える。
「もーアニキったらヤマさんに甘々なんすよ! アニキはおいらと何年いたってレディに見てくれないのに、ヤマさんには女性あつかいするんすから!」
「だってお前ガキだろ。自立してたらあいつにベタベタしねえよ」
イチカは熱烈に反論するが習一の興味の対象外だ。Hが小山田だという変換が正しいとわかれば他の情報はいらない。習一は日記を読み進めた。
四月の終わり際、シドは町中の見回りを行なっていたことが書かれる。そして雒英(らくえい)高校の制服を着た金髪の男子生徒について言及があった。習一のことだ。この時期は習一の身辺調査をしていたと書きつづられる。その目的は教え子たちと二度目の衝突を起こす前に、不良のリーダー格を無力化するというもの。
(二回目……? あいつに負ける前に、才穎の連中とやり合ったことがある?)
無関係だと切り捨てた四月以前の過去にさかのぼってみる。シドは四月から赴任したというので、彼が人づてに聞いた騒動だろうか。日記に事跡が書かれていない可能性はあるものの、とりあえず確認する。ぱらぱらと数ページめくった先の二月、そこに少年たちの喧嘩が記載される。
『新たな土地へ訪れる。強く惹かれる力を感じた。同胞に似た感覚だ。力に接近すると少年らの乱闘を目撃した。そこにいた編み帽子を被った一番小柄な子が力を発していた。後日、試験をしよう。もう一つ気になったことがある。あの中で体術に優れる子の一人が私を見ていた。あの視線は偶然ではなさそうだ。帽子の子とは友人のようだった。接近には注意が必要』
喧嘩に関わる少年の身分は不明だが、この時に目当ての人物を見つけたとわかる。姿を消したシドが見える少年とは誰か。習一は自分かと思ったが、編み帽子を着用する知り合いはいない。これはビルの屋上でシドが言った、小山田の友人のことだろう。
(じゃあ帽子の子ってのは小山田か?)
その予想を胸に秘め、脱衣場より鳴る機械音を耳にした。じきに日記の作成者は現れる。習一に衛生を説いた模範として、髪をきちんと乾かした状態で。
(しっかし、体がないっていうバケモンが体を洗う意味はあんのか?)
姿を消した時に体に付着した汚れが落ちそうなものだ。だが衣類が体と同化して消える仕組みを考えると、汚れもずっと付いたままなのかもしれない。
(いや、問題はそこじゃない。あいつがオレを襲った理由……それを知らなきゃな)
枝葉末節にこだわっていては夜が明けても疑問が解消されない。習一は現在一番に知るべき真相を突きとめようと、退院の一か月前にあたる六月の記録を漁った。
才穎の体育祭の記録を読み飛ばしたところで部屋主がやってきた。相変わらずの黒シャツと灰色のスラックス姿だ。彼は寝間着を持たないようだ。
(バケモンだから寝なくても平気なのかな)
またも思考が逸れた、と習一は己に注意する。だがイチカが騒ぐせいで集中が途切れた。
「アニキー! チューするっす!」
「オダギリさんと大事な話をしますから、そういうことは明日以降に」
「イヤっす! いま、愛が欲しいんす!」
イチカがシドに抱きつく。彼の胸に押しつけた顔は嬉しそうだ。シドの腕はイチカの背を包み、うなじと二の腕に手を置く。手から黒いもやが発生した。
「あー……アニキ、おいらを眠らせるんすね?」
黒い気体はイチカの上半身から出て、シドの体へ吸収されていく。
「今日のところはこれで休んでください」
シドの背中をつかんでいたイチカの手が落ちる。あんなにはしゃいでいた彼女がすぐに眠りに落ちた。ぐったりした少女をシドが横抱きにし、ロフトベッドに横たわらせた。
「お見苦しいところ見せましたね。この子はいつまで経ってもお兄ちゃん子なんですよ」
「あんたはそいつの兄貴じゃないだろ?」
「イチカさんには本当の兄がいました。残念なことに、私がこの世界へ来る前に亡くなったそうです。その兄の代わりが、私です」
シドはベッド横の階段をおり、机のライトを点けた。
「私が早くこちらに着いていれば助けられたかもしれません」
「そんなの考えるとキリないぞ。イチカはあんたに会えて喜んでる。それでいいじゃねえか」
シドが悲しそうに笑った。次に部屋の照明のスイッチがある壁へ向かう。
「部屋の明かりは消しましょう」
「ああ……イチカが起きないようにだな。わかった、オレも話の腰を折られたくねえ」
習一はシドがイチカを眠らせた力について触れなかった。それは必要な知識ではない。そう己に言い聞かせていると天井の明かりが消えた。机のライトは習一とその周辺に光を届ける。ただし光源から距離をへだてるごとに明るさは弱くなった。
「日記を読みたかったら私の机でどうぞ」
「あんたに直接聞く。そのほうが早い」
習一は日記を座卓に放り、壁際で立て膝に座る人型の異形を見た。
「ごめんね、すごくこわかったでしょ」
異形は銀髪の少女に変貌し、涙を流す習一を抱きしめた。彼女は習一の背中をやさしくさする。その接触が、過去に奪われた体の実在を証明した。
「記憶、もどった?」
習一は自信なくうなずく。自分が怪物に襲われた瞬間は思い出した。そこに至るまでの経緯はまだはっきりしない。
「バケモノに……手や、足を……でも、どうしてオレは生きている?」
薄暗い灯りの下に黒い異形が無数にうごめいていた。それらが帽子の男の「喧嘩をせずに分け合え」という号令のもと、習一の肉体を咀嚼した。その惨劇は吐き気をもよおすほどにまざまざと思い出せる。習一はエリーの両肩を押して離れさせ、喋らない男を正視した。
「あんたがオレをバケモノたちの住処に運んだんだろう」
言ってすぐ、習一は手錠のかかった片手が自由に動かせることに気付いた。
「あれ、手錠は……」
拘束具は鉄棒に繋がっていた。習一の手首にあった輪は閉じたまま、ゆらゆら揺れる。錠が開いた形跡はない。手錠などなかったかのように、習一の手がすり抜けたのだ。
「なんで……?」
「いまのシューイチはね、ニンゲンじゃなくなってるの」
エリーは習一の背に回した手を外し、習一の片手を握る。
「オレも、お前みたいなバケモノになっちまったのか?」
「うーんと……姿を消したわたしがくっついてると、シューイチも消える」
「『姿を消した』……?」
エリーの存在は他人に気付かれない。それは彼女が常人に見えない姿で活動する影響か。
「わたしとシドはね、ほんとうは体がないの。こっちの世界の生きものじゃないから」
「シドも、お前と同じ? じゃあ、あの男は……」
エリーが帽子の男に変化できたのだ。同類であるシドがくだんの男に化けられぬ道理はない。であれば教師がこの場におらず、帽子の男がいるわけは。
「……あんたが、シドか」
男は頭を縦にふる。習一の警戒心がだいぶ薄れた。人外だという告白は衝撃的ではあるが、時折そういった疑念を抱いた習一にとっては仰天するほどの事実でない。なにより、シドは習一に危害を加えない。人を異形たちの食糧にする悪行は、気立ての優しい彼にできるはずがない。習一にトラウマを植えつけた犯人とは異なるのだ。習一は安堵のため息を吐き、目元に残るしずくをぬぐった。
「趣味の悪いことをしやがる。でもまぁ、おかげで少しは思い出せた。もうそのニセモンの姿はやめていいぞ」
「違う……」
シドはいつもと異なった声質で答えた。その声はその姿の持ち主のもの。
「声もあの野郎のをコピーできるのか。エリーみたいな見た目だけじゃないんだな」
これもシドは否定の素振りをした。彼が言わんとする主張はなにか。それを習一が明確に理解した瞬間、悪寒が脳天から足先まで走りぬけた。
「私が貴方を同胞に喰わせた」
習一が本物だと思っていた教師の姿こそが、彼にとっては偽物だった。そうとわかると習一は握りこぶしをつくり、打ち震えた。
「とんだ……とんだお笑いぐさだ! 誰にでもいいツラして、善人ぶってたくせに! 裏じゃあんな酷いことをやってたのかよ!」
今までの人物像が見せかけだったと知ると気が昂ぶり、エリーの手を乱暴に振りほどいた。
「シューイチ、さけぶなら手をつないで。ミツバがおきる」
「知ったことか! あんた、オレ以外にもバケモンに喰わせた人がいるんだってな。なにが目当てだ? 他人を信用させた隙に喰おうとしてんのか!」
エリーが背後から習一に抱きついた。習一は暴れる。
「くっそ、放せ!」
習一は上半身を左右に大きく揺さぶった。エリーは離れない。そもそも巨漢の光葉を突き飛ばす腕力のある相手だ。常人が力でかなう見込みはなかった。その拘束自体は怒りの対象ではない。習一はかまわず憤怒の根源に立ち向かう。
「バケモンのくせに、オレを真っ当な人間にするとぬかしたのか!」
彼らが人間と偽った怪物だった──それは怒りの核心を突いてはいない。
「オレを殺したくせに、オレの前で笑っていやがったのか!」
自分を傷つけた張本人だと隠していた──これも怒髪天を衝く要因には不足があると感じた。唐突に涙が垂れる。これは恐怖が生む涙ではない。だが純粋な怒りが生むものとも違う気がした。
(オレは……なんで泣いてる?)
複数の感情がせめぎ合い、言葉を失う。混乱する習一に罪人姿の異形が詰め寄る。習一は怖気づいた。だが身の安全は取るに足らぬと思い、恐怖をねじ伏せた。
大きな手が習一の顔を覆う。指の隙間から見える目は、彼の冷血さを伝える青色だ。
「私への不満はすべて吐き出せ。それらを私が余すことなく飲み込もう」
シドは暴言を受け入れるという。天邪鬼な習一はかえって文句が言いにくくなる。彼にぶつけたいわだかまりは残っているのだが、それはどういううらみ言で表現すべきなのか習一自身がわからなかった。
「……場所を移すか」
習一が黙りこくったのを見かねたのか、習一の顔からシドの手が離れた。圧迫感が遠ざかり、ほっとしたのは束の間だった。太い腕が習一の体を捕え、肩に担がれてしまった。
「急になんだ! どこ行くんだよ!」
視界一面に広がる背中に問うたが返答はない。ごつごつした背に手をついて離れようとするものの、両腿をがっちり捕縛されて動けない。動ける範囲で胴に蹴りを入れたが、巌のごとき強固な体に跳ね返される。シドの背か地面の二つしか見れぬ習一はせめてもの抵抗として上体を反らす。新たに見える周囲の景色は離れ、小さく、低くなっていく。
(飛んでる……?)
公園全体が俯瞰できるまでに高度が上がった。そこが最頂点であり、徐々に降下する。落下には二人の体重が合わさって加速が始まる。民家の屋根が拡大し、習一は慌てだした。
「わ、バカ! お前みたいな野郎が屋根に落ちたら……!」
重くて家を破壊してしまう、と危惧したがもう遅い。彼の足は屋根瓦を踏んだ。組み合わさった瓦がこすれる音は鳴らなかった。巨体を支える屋根は無事でいる。
(あ、そっか……)
エリーの説明によると彼らは姿を消すことができる。人間である習一も彼らに接触する間は同様に消える。いわば幽霊になったも同じだ。その状態での物理的な質量はないのだろう。そう理解した習一は虚脱した状態で夜の空中遊泳を体験した。
2
シドは桁外れの跳躍力で移動した。オフィス街のビルの屋上で足を止める。終業の時刻は過ぎていて、階下の明かりがビルの中腹以下に集中する。そういう建物をシドが選んだのだ。習一が騒いでも他人に勘付かれにくい場所を。
習一はコンクリートの上に立たされた。習一の体にはシドもエリーも触れていない。常人に感知される体にもどっているようだ。
「オレをこんなところに連れてきて、なにがしたい?」
「質問を受け付ける。それと私への罵声も」
「罵ってくれだなんて、どんな変態だよ」
「軽口を叩けるくらいに落ち着いたか。部屋で話してもよかったな」
言われてみれば習一の興奮がおさまっている。場所移動の時間がクールダウンになったらしい。冷静に考えると、あそこまで感情が動く原因は不明瞭だ。眼前の男は習一を病院送りにした犯人なのだから、怒り自体は正当だ。習一が疑問に思うのは己の涙だ。
「オレ……オレは、なんで泣いたんだと思う?」
「それが私への質問か」
シドが求める問いは彼が習一を襲った理由や彼らの素性だ。カウンセリングの相談ではないことを習一はわかっている。だが現在、一番不可解な問題は自分の感情だった。
「バケモンに人間の気持ちなんか、わかるわけねえよな」
「難しいが推察はできる。涙は感情が高まった時に出る……良い意味でも悪い意味でも」
律儀にもシドは習一の疑問に応え、回答を模索する。外見と口調がいささか粗暴に変わっても本質的な性格はそのままらしい。
「傷を負わされた怒り、謀略に気付けなかった悔しさ、愛する者を目の前で失う悲しみ、死を間際にした恐れ……私が見た涙は強い負の感情のかたまりが多かった」
「オレのはどう見えた?」
「最初は死の恐怖……最後は、信用していた者に裏切られた絶望……」
惨劇の再演のせいで流れた涙は習一もそう感じた。だが二回目の涙が裏切りによるという表現は抵抗がある。それほどの信頼を、猜疑心の強い自分が抱けたのだろうか。
「裏切りに遭った人の顔、あんたは見たことあるのか?」
「最近、あった」
「だれの?」
「オヤマダ……貴方がそう呼ぶ女性だ」
習一が完全に失念していた、才穎高校の女子生徒。彼女は彼の特殊能力の一端を知る態度を見せていた。その時に口の堅いシドのことを尋ねようかと思ったのだが、ゲームだ飯だ猫だといろいろあって機会を逃していた。
「あいつを、あんたが騙した?」
「そうだ。彼女を主のもとへ連れていく……そのつもりで才穎高校に勤めた」
「待てよ、おかしいだろ? あんたは普通の人に見えない姿になれるんだ。そんな回りくどいことをしなくたって、いつでもかっさらえただろうが」
「では逆に聞く。なぜ貴方は姿を消した我々が見える?」
この返しは習一の想定外だ。常人代表の光葉がエリーに邪魔をされた時、習一はしっかり目と耳で彼女の存在をとらえた。少女は普通の人間だとばかり、習一には映っていた。
「……小山田はオレみたいに、あんたたちが見えるやつなんだな?」
「いや、彼女は見えていない。だが彼女の友人と、友人が親しくする警官は見えている」
「その警官は……露木か?」
「そう……彼の存在がもっとも厄介だった」
「あののほほんとした野郎が? 体つきだって大したことなさそうなのに」
どんな役職であれ、警官は一定の武術の心得がある。だが素人に毛が生えた程度の強さしか感じられぬ青年だ。屈強な光葉に圧勝したシドを凌ぐとは到底考えられない。
「率直に言うと彼単体は弱い。強いのは彼が従える仲間だ。白いカラスを見ただろう?」
「ああ、露木のペットか」
「あれはこちらで言うところの、妖怪や式神に相当する。彼の最強の仲間は私では歯が立たなかった」
「露木が呼び出すペットが怖いんだな。それはわかった。で、オレが見たとこ、あんたは露木と仲良くやってる。あんたが騙した小山田もだ。あんたの企みはどうなったんだ?」
「失敗した……というよりは、成功させる意志がなくなった。計画を遂行すると十中八九、彼女はこちらに帰れなくなる。二度と目覚めない姿を……彼女の親にさらせなかった」
この言い分には習一の不服がせりあがる。
「昏睡するオレをオレの親も見てるんだが、それはかまやしねえってか?」
「その眠りは一時的なもの。魂が健康な肉体に宿るかぎり、いずれは目が覚める。同胞は魂までも喰い尽くすわけではないから──」
「精神的にはかなりキツイぞ、あれ。痛みを感じたし、人を一回殺してるのと同じだからな。そこんとこわかってんのか?」
「わかってはいる。だからこそ私が貴方の保護をする。これが私のあがない方だ」
決然とした声明だ。習一は疑問を一点はさむ。
「オレ以外にも被害者を出してたんだろ? そいつらはどうするんだ」
「彼らとは接触できない。関われば消えた記憶がもどると警告を受けた」
「オレはあんたと一緒にいてもなっかなか思い出せなかったぞ」
「今の貴方は忘却の効果が色濃く残っているが効き目はいずれ風化する。ほかの子たちはすでに治療を受けて数ヶ月経った。貴方と同じ忘却力のままではいられない」
得体の知れぬ魔法に関しては議論のしようがない。習一は一応、説明を鵜呑みにする。
「じゃ、オレは事件のことを思い出したいと言ったから、堂々と会ってるわけだ?」
「そうだ。彼らの分まで、貴方には尽くすつもりだ」
連日の厚遇は以後も継続していくと見えて、習一は胸をなで下ろした。
(信じさせておいて後ろからザックリ、てのはしなさそうだな)
よくよく考えればその危険があるのなら露木が野放しにしないはずだ。まがりなりにも彼は警官なのだから。警戒を解いた習一は次なる質問をする。
「オレをあんな目に遭わせた動機は? あんたの計画にオレが割りこむ隙はないだろ」
「いや、割りこんできた」
「え?」
習一の視界にいなかったエリーが現れ、習一の手を取った。手のひらに冷たい金属片をのせる。薄雲に遮られた月明かりを頼りに手の角度を変えると、それはナイフに見えた。だが持ち手と刃は分断している。
「このゴミがどうした?」
「貴方が私と私の生徒に向けた凶器だ」
「オレの……?」
習一は折れた刃を片手に移し、ナイフの柄を握った。手に馴染む感触はそれなりにある。
「あんたたちにこれを向けたって、どういう……」
視線を話者にもどすと、見慣れた教師の姿があった。習一の体がこわばる。帽子の男と同じ人物だという認識が瞬時にできなかった。
彼の目元にサングラスはなく、なぜか切れ込みのあるネクタイを胸に垂らしている。
「そのネクタイはなんだ?」
大剣部分の生地が半分切れたネクタイだ。使い物にならないナイフに引き続き、シドの所有物も損傷のある形で現れた。これらが示唆する事実は──
「オレがあんたを切りつけた?」
「そうです。私の被害はこの程度でしたが、貴方の攻撃を受けた結果、二人の生徒がケガをしました。その時の記憶はもどりませんか」
変身とともに丁重な言葉遣いが復活する。習一は異形の演じ分けを奇妙に感じながらも「知らねえな」と答える。ただし、そのような喧嘩があったことは人づてに聞いていた。
「オレを痛めつけすぎたのを苦にして……とかなんとか掛尾先生に言ったんだったか」
「そうです。これらを見ても効果がないようですね」
「ああ、もうちょっとインパクトがないとな」
「では再現しましょう」
習一が了承しない間に荒々しい手が喉に食らいつく。気管支を圧迫し、首や顎の骨に多大な負荷をかけて習一の体を持ち上げた。地に足がつかぬ浮遊感、強調される脈動、浅くなる呼吸。着実に窒息の順序を経る中、習一は懸命に捕捉者の手を引きはがそうとあらがった。捨てたナイフの残骸がからん、と乾いた音を立てる。
(いくら、思い出させるためだからって……!)
まかり間違えば死に至る。習一は暴挙に対抗して足を前後に動かした。空を蹴る足先がシドの体に当たったが、全くの無反応だった。
『先生、やりすぎだ!』
習一と完全に意見が一致する台詞が脳裏を走る。それは習一と同年代の少年の声だ。少年はあの時、こめかみから血を流していた。その傷は──習一が負わせたものだ。少年が放つ蹴りで倒されたことに習一が逆上し、仲間内にもらった武器を振るった。頭を狙った覚えはないが、相手が体勢を崩したせいで結果的に頭部の負傷をつくった。少年が転んだ時に彼の下敷きになった者がいる。小山田だ。彼女は鈍い音を鳴らして倒れた。習一が生みだした負傷者のうち、一人は習一の意図しない巻き添えを食ったのだ。
足は宙を掻く力が萎え、手は肩より上へあげていられなくなる。あがく気力が根こそぎ奪われた時、足裏が硬いコンクリートに触れた。習一はその場にへたれこみ、潰れかかった首を手でさする。喉にからんだ痰が新鮮な空気の吸入をさまたげた。
「思い出しましたか」
シドは平素と変わらぬ調子で尋ねる。その態度に習一はむかっ腹が立った。
「あんたなぁ! 昔話をする程度のことで、人を殺す気か!」
「死にはしません。加減をわきまえています」
「死ななかったら何をしてもいいってわけじゃねえんだぞ!」
「その忠告、胸に留めておきましょう」
詫び言を聞けなかったせいで、習一の苛立ちは加速する。
「オレが不良だから手荒くしても平気だと思ってんだろ」
「いいえ。記憶を取りもどしたいという貴方の希望に沿いました」
「これが小山田だったら、同じことをしたか?」
「彼女の望みにかなうのなら喜んでやります」
ブレない返答は習一に諦観を生じさせた。第一、相手はこの世の者ではないという異形だ。人間の常識や痛覚を理解するのにも限度があるのだろう。
「あー、わかったよ。あんたは悪気がないんだな。余計タチわりぃが気にしてられ……」
ふいに鼻がむずがゆくなり、習一はくしゃみをした。
「冷えてきましたか。続きは部屋に帰ってからにしましょう」
「……そうだな。部屋ん中ならあんたも暴れねえだろうし」
「必要ならまたやりますが。『思い出せた』という言葉を私は聞けていません」
「あんたに負けた前後の記憶はもどったよ! とっとと行くぞ」
再犯をほのめかした男は習一に背を向けてしゃがむ。
「私におぶさってください」
「え……おんぶ?」
「嫌ですか。ではここへ来た時と同じ、肩に担ぐ方法がよいのでしょうか」
「いや……あの体勢は腹が苦しくなる」
なにより頭が地面をむく姿勢は不安定で怖い。だが、赤の他人の男性に背負われることへの戸惑いもあった。シドは向きなおる。
「おすすめはしませんが、横抱きで行きましょうか?」
「げ……男同士でやるもんじゃねえだろ。緊急時は、しゃーないにしても」
「私もそう思います。……そうですね、では私が女に化けます」
「あんたが女に……? ああ、光葉が言ってた長身の女って」
「私のもう一つの形態です。あの姿は、武術の師匠に稽古をつけてもらう時によく変化していました」
「なんで大男の格好じゃダメなんだ?」
「彼は男が苦手で女好きな方でした。それで私は彼の……従者兼娘にあたる女性の姿を模倣して、指導を受けたのです──この詳細を話すのも帰宅してからにしましょう」
習一は無難におぶさる運送方法を選び、意を決して黒シャツに覆いかぶさった。自身のひざ裏を持つ手と、広い背中に体を預ける。
(父親にもされた覚えがねえのに……)
全身を他者に託す感覚が不慣れで、妙にうわついた気分になった。
シドは助走をつけ、屋上の塀を跳びこえる。彼は風と一体化したかのように疾走した。
3
二人はアパートのベランダに到着した。室内の座卓に洗濯物の山ができている。その奥にイチカが扇風機の風で涼む。ベランダのガラス戸を開けるとイチカは「おかえりー」と笑顔で出迎えた。知人がベランダから出現したことを日常茶飯事のごとく受け流している。
「おさきにお風呂入ったんすけど、オダのアニキはどうする?」
湯船に浸かる気分ではないがシドが「お先にどうぞ」と言うので、なんとはなしに入浴の流れになった。嫌な汗はべったりかいている。さっさと洗い流すことにした。
風呂を出た習一と入れ替わりでシドが脱衣場に入る。彼は自身よりも風呂場を綺麗にする目的で入浴するのだと昨晩知った。清掃にはそれなりに時間がかかる。話を再開する時機がずれてしまい、習一はじれったく感じた。
帰宅時は未整理だった洗濯物が片付けられ、卓上にはイチカが用意した冷茶が置かれる。
「オダのアニキは、なくした思い出を元にもどしたいんすよね?」
習一はうなずいた。イチカが得意気に破顔する。
「アニキの日記を読んだら思い出せるかも!」
彼女はロフトベッド下の机に行き、棚にしまったノートを取った。
「勝手に読んでいいのか?」
「じゃ、了解をとってくるっす!」
イチカは座卓にノートを置いてから風呂場に向かう。行動の順番が逆だと習一は思いながら茶を飲んだ。ものの十秒ほどで「読んでいいっすよー!」という声が飛ぶ。思えば以前、日記を読んでもいいと本人の了解を得ていた。だがその時はあまり習一の役に立つ記録はないだろうとも言われた。
(このまんま待ってるのもなんだしな……)
適当にページをめくる。開いたページには三月、シドが才穎高校へ赴任するくだりが載っていた。このあたりは習一と出会う前のことだ。とばして他の日付を見る。イチカが習一のとなりに座り、一緒に見始める。
「オダのアニキの話は四月の下旬くらいから出てきたはずっす!」
「お前、いつも日記を読んでるのか?」
「アニキんちに遊びに来た時は読ませてもらってるんすよ。今日は買い物中にアニキが一人でどっか行っちゃってヒマだったんで……」
「だから無断でオレに読ませようと?」
「最初はあるじさんの報告用にまとめてたもんすから、アニキの事情を知っていい人は読めるんす」
「ご主人様に、ねえ。あいつはなにが目当てでここに来たか、聞いたか?」
「人を捜してるっす。何人か連れてったけど違ってて、ヤマダさんがドンピシャなんす」
「ふーん……?」
習一は説明不足な箇所を複数思いついた。捜す対象はどんな人物か。連れ去った人とは露木の言う習一と同じ被害者か。どうやって目当ての人物だと見極めるのか。小山田はどういった理由で当たりの人物なのか。
しかし今は自分の情報を得ようとして日記を漁る。文中にはアルファベット一字で表記される仮名が登場し、なかでもHという名が頻出した。イチカが閲覧をすすめた四月下旬の記録を探すも、習一とは無関係な内容に目がとまる。
『校長の講義中、Hが事務員に変装してきた。目的は私と校長の密会の理由を探るためだという。行動力と胆力のある娘だ。校長が言うには、彼女は私に気があるという。校長の注目を集めると今後の行動に支障が出そうだ』
Hなる人物がシドと直接関わった形跡だ。彼と関連の強い女子生徒──習一は小山田かと思い、イチカに尋ねた。イチカは悔しそうに「そうなんすよ!」と答える。
「もーアニキったらヤマさんに甘々なんすよ! アニキはおいらと何年いたってレディに見てくれないのに、ヤマさんには女性あつかいするんすから!」
「だってお前ガキだろ。自立してたらあいつにベタベタしねえよ」
イチカは熱烈に反論するが習一の興味の対象外だ。Hが小山田だという変換が正しいとわかれば他の情報はいらない。習一は日記を読み進めた。
四月の終わり際、シドは町中の見回りを行なっていたことが書かれる。そして雒英(らくえい)高校の制服を着た金髪の男子生徒について言及があった。習一のことだ。この時期は習一の身辺調査をしていたと書きつづられる。その目的は教え子たちと二度目の衝突を起こす前に、不良のリーダー格を無力化するというもの。
(二回目……? あいつに負ける前に、才穎の連中とやり合ったことがある?)
無関係だと切り捨てた四月以前の過去にさかのぼってみる。シドは四月から赴任したというので、彼が人づてに聞いた騒動だろうか。日記に事跡が書かれていない可能性はあるものの、とりあえず確認する。ぱらぱらと数ページめくった先の二月、そこに少年たちの喧嘩が記載される。
『新たな土地へ訪れる。強く惹かれる力を感じた。同胞に似た感覚だ。力に接近すると少年らの乱闘を目撃した。そこにいた編み帽子を被った一番小柄な子が力を発していた。後日、試験をしよう。もう一つ気になったことがある。あの中で体術に優れる子の一人が私を見ていた。あの視線は偶然ではなさそうだ。帽子の子とは友人のようだった。接近には注意が必要』
喧嘩に関わる少年の身分は不明だが、この時に目当ての人物を見つけたとわかる。姿を消したシドが見える少年とは誰か。習一は自分かと思ったが、編み帽子を着用する知り合いはいない。これはビルの屋上でシドが言った、小山田の友人のことだろう。
(じゃあ帽子の子ってのは小山田か?)
その予想を胸に秘め、脱衣場より鳴る機械音を耳にした。じきに日記の作成者は現れる。習一に衛生を説いた模範として、髪をきちんと乾かした状態で。
(しっかし、体がないっていうバケモンが体を洗う意味はあんのか?)
姿を消した時に体に付着した汚れが落ちそうなものだ。だが衣類が体と同化して消える仕組みを考えると、汚れもずっと付いたままなのかもしれない。
(いや、問題はそこじゃない。あいつがオレを襲った理由……それを知らなきゃな)
枝葉末節にこだわっていては夜が明けても疑問が解消されない。習一は現在一番に知るべき真相を突きとめようと、退院の一か月前にあたる六月の記録を漁った。
才穎の体育祭の記録を読み飛ばしたところで部屋主がやってきた。相変わらずの黒シャツと灰色のスラックス姿だ。彼は寝間着を持たないようだ。
(バケモンだから寝なくても平気なのかな)
またも思考が逸れた、と習一は己に注意する。だがイチカが騒ぐせいで集中が途切れた。
「アニキー! チューするっす!」
「オダギリさんと大事な話をしますから、そういうことは明日以降に」
「イヤっす! いま、愛が欲しいんす!」
イチカがシドに抱きつく。彼の胸に押しつけた顔は嬉しそうだ。シドの腕はイチカの背を包み、うなじと二の腕に手を置く。手から黒いもやが発生した。
「あー……アニキ、おいらを眠らせるんすね?」
黒い気体はイチカの上半身から出て、シドの体へ吸収されていく。
「今日のところはこれで休んでください」
シドの背中をつかんでいたイチカの手が落ちる。あんなにはしゃいでいた彼女がすぐに眠りに落ちた。ぐったりした少女をシドが横抱きにし、ロフトベッドに横たわらせた。
「お見苦しいところ見せましたね。この子はいつまで経ってもお兄ちゃん子なんですよ」
「あんたはそいつの兄貴じゃないだろ?」
「イチカさんには本当の兄がいました。残念なことに、私がこの世界へ来る前に亡くなったそうです。その兄の代わりが、私です」
シドはベッド横の階段をおり、机のライトを点けた。
「私が早くこちらに着いていれば助けられたかもしれません」
「そんなの考えるとキリないぞ。イチカはあんたに会えて喜んでる。それでいいじゃねえか」
シドが悲しそうに笑った。次に部屋の照明のスイッチがある壁へ向かう。
「部屋の明かりは消しましょう」
「ああ……イチカが起きないようにだな。わかった、オレも話の腰を折られたくねえ」
習一はシドがイチカを眠らせた力について触れなかった。それは必要な知識ではない。そう己に言い聞かせていると天井の明かりが消えた。机のライトは習一とその周辺に光を届ける。ただし光源から距離をへだてるごとに明るさは弱くなった。
「日記を読みたかったら私の机でどうぞ」
「あんたに直接聞く。そのほうが早い」
習一は日記を座卓に放り、壁際で立て膝に座る人型の異形を見た。
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2018年12月17日
習一篇草稿−終章中
4
「六月、あんたはオレを襲った。それはなんでだ?」
「貴方が邪魔でした。オヤマダさんたちに報復をしようとする、貴方が」
「覚えてねえな。オレがそんな計画を立てたことをどうやって知った?」
「貴方が仲間と通話するのを聞きました」
「盗み聞きか。ま、鈍かったオレが悪いな」
「それは致し方ないのです。あの時の貴方は実体化しない私が見えなかったのですから」
「なんだと? いまは見えてるのに?」
習一は最初から異形が見える体質なのではなかった。ではなにをきっかけに、彼らを視認できるようになったのか。
「……お前らに喰われたから、見えるようになった?」
「いえ、私が貴方を異界へ連れていった影響です。そこから帰ってきた人はみな、こちらで隠遁した異界の生き物が見えるそうですよ」
「姿を消したあんたが見えるっていう少年もそうか?」
「その方は希少な例でして生まれつきの能力です。彼は異界の者だけでなくこちらの幽霊も見えるので、はじめは私たちのことを普通の霊だと思ったそうです」
霊視能力は国を問わず、まことしやかに健在する。習一がシドに出会うまでは信じなかった特殊能力だ。こうして人ならざる者にまみえた以上、ペテンだと断ずる気は起きない。
「幽霊……か。そいつもめんどくせえ人生を送っていそうだな」
「はい、あの子も苦労の多い生き方をしていると思います。オダギリさんとは少し、似ているかもしれませんね」
「オレと? そいつは家族ともめてんのか」
「家族仲は良好です。二人が似ていると思う部分は……ぶっきらぼうに見えても心根は優しいところですよ」
「オレが、やさしい? あんたの目は節穴か」
「自分では気付きにくい……いえ、認めたくないのでしょうね」
習一は含みのある言葉が気に入らなかった。だがここは軌道修正をはかる。
「そんな話はどうでもいい。あんたのご主人様はなぜあんたに人を襲わせる?」
「理由は知らされていません。私たちは道具と同じです。命令を与えられるだけ……その成果が何をもらたすかは考えなくていい」
ロボットのような存在意義だ。無感情な声が「ただ」とつぶやく。
「主の求める人物を差し出せば、その人は過酷な仕打ちを受ける。鈍感な私でもそう思うほど、主は抑えきれない憎悪を抱えていました」
「あんたはご主人様の気持ちを聞かなかったのか?」
「一度は質問しました。ですが教えてもらえませんでした。『いずれわかる』と……」
「はん、あんたがオレに言ってた『記憶がもどったら話す』と同じだな」
「そう、ですね。主は……私が主と同じ考えに行きつくのを待っていたように思います。私の記憶は、私が人型に変化するまでの期間が抜け落ちています。失くした思い出の中に、あの方の苦しみを共有する何かがあったのでしょう。ですが私はあの方の心を理解する前に……離れてしまった」
シドは左手にある指輪を見つめた。その指輪は主が贈ったものだという。この世界においては肉体同様レプリカなのだろうが、それを常に身に着ける心理からは、彼が忠誠心を失っていないと予想が立つ。だが彼はもう、仕える者の手駒にならない。そうわかる言動は今宵だけで何度もしていた。相反する行為のどれもが彼の本心だ。理屈通りにはいかない、ちぐはぐな姿はとても人間臭かった。
「……オレはバケモンに喰われて死んだはずだ。なんで生きてる?」
「異界へは精神だけが移動します。貴方が喰われた時の肉体は、私の力がつくった偽物です。同胞は私の力と貴方の持つ活力を餌にしました」
「体はこっちに置いたままだから、死ななかった、と?」
「そうです。ですが死なないという保証はありません。私の恩師のケイはこの世界の少し昔の人です。彼女は異界で亡くなり……以後、姿を現しませんでした。異界での死が疑似的な体験なら、彼女は再びあちらに訪れたと思います」
「おい、それって……オレも本当に死んだ可能性があるってことじゃ」
「それはないと思います。オダギリさんと同じ状況下で落命しなかった先例が十ありますから」
「オレが例外だったらどうしたよ?」
「その時は私と心中していただくということで、不運を嘆いてもらおうかと」
「しん、じゅう?」
さらっと発した言葉は彼に自決の計画があったことを匂わせた。
「私は最終的に、ツユキさんに消されるつもりでした。それは教員の生活を過ごすうちに固まってきた願望です」
「人さらいを……気に病んでいたのか。でも、死ぬようなことか? オレ以外の被害者はみんな、普通に生きているんだろ」
「こちらでは公(おおやけ)に目立つ被害を出しませんでしたが、元いた世界では死人が続出しました。私はお尋ね者なのです。そのことを、ツユキさんも承知なさっていたのですが……」
「あの警官が、こっちで教師のふりをずっとしろとでも言ったか?」
「大元はツユキさんの発案ですね。正確には、あちらの被害者の生き残りとお話しして私の処遇を決めてもらいました。消息をつかめた一人が……教師業の継続が贖罪になるとおっしゃったのです。その方は恵まれない子どもを育てることに人生を捧げていますから──」
「オレを保護することがあんたの罪を帳消しにする第一歩になるわけか」
「そうとも言えますが、私は貴方に不当な仕打ちをしたのですからその謝罪ですね。これは『子どもを助ける』という契約の履行とは別物だと思っています」
「じゃ、オレがどうなったらあんたの謝罪はおさまって、どっからが罪の償いになるんだ?」
「そう言われてみると……明確な線引きはできませんね。私も、よくわかりません」
習一が思うに、彼の目標である「夏休みの期間中に習一の生活を健全にする」というのが自主的な行動の範囲であり、それ以降の交流は他者に命じられた行為に値するのだろう。どっちがどうであれシドが習一に良くしてくれることに変わりない。習一は次の話題をふる。
「あんたが犯した罪はぜんぶ、ご主人様に従ってのことか?」
「そうです。私もエリーも、あの方に仕えるために存在する。そのように信じて努力してきたのですが……」
「そりゃ無理があるな。あんたは……悪人になりきれない。もともとが犯罪者向きの性格をしてないんだよ」
青い目が習一を見る。その目は優しげだ。
「この短期間で、よく見抜きますね。貴方は聡明だ」
「あんたほどわかりやすい野郎もいない。露木の警戒をそらす手段とはいえ、教師になって小山田に近付いたら情が移るとは考えなかったのか?」
「数ある生徒のうちの一人、であれば大丈夫だと思いました。やはり、というか……あの子も私を気にかけてしまって、ただの他人ではいられなくなりました」
「『やはり』ってどういうことだ?」
「彼女の中には同胞が住んでいます」
「中に……あの黒いやつが?」
「そうです。私とは別の役目を負う仲間でした。自我は欠けた個体だったのですが、現在は主命に背いてオヤマダさんと共存しています。その同胞と共にあり続けるうちに、彼女も私たちに親しみを覚えるようになった……のだと思います」
「彼女『も』? あんたは最初っから小山田が好きだったのかよ」
さんざん恋心はないと否定してきた主張をくつがえす告白だ。彼は首をひねる。
「どう捉えてもらってもかまいません。実を言うと、教師として潜入する前から迷いはありました。その時は彼女とその親への憐れみが先立っていましたが」
「『憐れみ』だぁ? キーワードを小出しにすんのやめろ。とっとと全部言いやがれ」
他人の興味を持続させる方法なのだろうが、まだるっこしいと感じた習一はいらいらした。シドは「貴方とは直接関わりのない話ですが」と警告する。
「私はある特殊な力を持つ人物を捜しています。その判定方法は……私がかけた術を解除できるかどうかを見ます。時を止めた時計の針を動かす──それが合否の判定方法です。オヤマダ以前にも同じ試験を行なった子はいました。彼らのうち、針を動かし続ける時計を渡してくれた人たちを私は攫いました。ですがオヤマダさんは違います。返却された時計は……時間が経つと針が止まったのです」
「電池切れじゃないのか?」
「いいえ、私が術を解けば針は動きました。彼女は術の効果を一時的に無効にする力を備えていたのです。その特別な力が、主の求めるものではないかと思いました」
小山田はこうしてシドの試験に合格した。折を見て彼女を連れ去ろうとしたものの、彼女の友人が「怪しい霊がいる」と露木に連絡したために実行は阻止された。シドが今後の計画を再編していたころ、小さな少女が高所より転落する現場に出くわした。その子を助けた際に同じく助けに入ろうとした女性に感謝された。その女性が小山田の母親だ。
「自分の子ではないのに、ミスミさんはとても喜んでいました。ベランダから落ちた女の子の家族が帰宅するまで私たちがその子の面倒を看ることになり、その時にミスミさんの話を聞きました」
ミスミの人助けへの熱意について質問すると、彼女は身の上を語ったという。
「ミスミさんは、お子さんを次々に亡くしていました。そのせいで他人の子どもであっても傷つく様子を見るのが怖いのだとおっしゃいました」
習一はミスミが野良猫の飼育には否定的だったことを連想した。我が子が先に逝く辛さを経験したせいで、寿命の短いペットを飼うことが怖くなったのだろう。だが──
「娘は生きてるじゃねえか」
「ええ、そうです。あの子は同胞が見逃したおかげで生きのびました」
「『見逃した』……?」
シドが連れ去った人間は化け物に喰われても死ななかった。それがミスミの子たちになると生死に関わるという。
「こっちの人間を拉致していっても、普通は死なないんだろ?」
「私の場合はそうです。しかし同胞はそれぞれに能力と役割が違います。私はおもに人間生活に溶けこんで標的を攫う役目を持ちました。ミスミさんの子を狙った同胞は、他者の頼みを聞いて魂を刈りとる役目を担っていました。この同胞はいわば『死神』です」
シドを超える攻撃的な化け物がいる。習一は黒い異形姿のエリーを脳裏に浮かべた。
「死神が連れ去った人は、もとの肉体と精神を繋ぐ糸を切られてしまい、生還できなくなる……と、私は理屈をこねてみましたが、実際のところはよくわかりません」
習一はがくっと肩を落とした。適当なことをぬかすシドをにらみつける。
「お前な、仲間のやってることくらいきちっと把握しとけ!」
「同胞自身もよくわからないでしていたことです。ご容赦ください」
「死神は襲った人間を覚えてねえのかよ」
「先ほども言いましたが、自我のはっきりしない個体なのです。こちらとあちらの生き物を区別しませんし、どれだけの命を刈ったかも数えていません」
「え? 『先ほど』?」
シドの同胞の話は、エリー以外だと小山田の体内に住まう者が一体だけあがった。
「はい。死神は……オヤマダさんが野良猫に手招きするような呼びかけに応じて、彼女に取り憑きました。以後はひっそりと、彼女と一緒に生きています。私が話しかけると簡単な返答をする程度には自己も生まれていました」
小山田は黒い異形を目の前にしても動じなかった。そこには二点の不審な箇所がある。
「なんで小山田はビビらなかったんだ? いや、それよかどうして死神に気付けた? あいつの目は普通なんだろ」
「彼女には死神とは別に憑いている何かがいます。『クロスケ』と名付けたそれと勘違いしたそうです。このクロスケは彼女の幼馴染が存在を教えていました」
「じゃあなぜ死神がいるとわかった? そいつがわざわざ姿をあらわしたのか」
「半分正解です。生物に接触をはかる際、姿を消した我々は相手に見える時があります。強い害意を持つとその危険が高くなる……それは怪談話に出る幽霊も同じでしょう?」
「まあ……そうかもな。幽霊が見えるタイプじゃねえのに、悪霊にばったり会ったら姿が見えたとかいう、ホントかウソかわからん話はな」
「我々の場合は当てはまります。おいそれと悪事が働けないよう、働いたとしても足がつくように、この世界はできています。ですから私は不意打ちか、闇に乗じて目的を遂行していました。死神はそういう対策を思いつけません。思考しないがゆえに……赤子にも非情になれた」
シドは急に立った。おもむろに座卓に歩み寄り、日記を回収する。
「同胞はもう死神ではありません。他に、よい呼び名があればいいのですけど」
そう言って勉強机の回転椅子に座った。思いついたことを日記に書く気らしい。その姿勢が話を終えようとする意思表示に見えて、習一は少し寂しく感じた。質疑応答をはじめる前は聞かなかったであろう質問が口に出る。
「エリーやシドって名前は誰が付けたんだ?」
「オヤマダさんです」
「なら、あいつに名付け親になってもらえばいい。同居人なんだしな」
シドは笑って「それがいいですね」と同調した。彼は机に向かい、書き物をする態勢になる。その状態でも習一が話しかければ延々答えるだろう。だが習一は思いつく限りの重要な質問を聞き終えた。常温になった茶を飲み干し、そのまま寝床へあがろうとした。
「歯は磨きましたか?」
シドが机に向かったまま尋ねた。習一は黙って洗面台へ行く。歯磨きのために部屋の照明を点けると、鏡には口の端がわずかに上がる自分がいた。
5
暗い廊下に光源が一つあった。そこから母の声が聞こえる。
『習一、学年で一位をとったんですって』
わがことのように誇らしげだった。この口調から察するに話し相手は父だ。
『この成績を維持できたらどの大学でも狙えると、先生がおっしゃっていたのよ』
三者面談では担任にそう言われた。進学を目指す者にはこれ以上ない評価だ。習一は父の称賛をひそかに期待した。だが父の声は一向に聞こえない。
『……どうして、嬉しくないの?』
母のか細い落胆の声がもれる。
『あなたはいつもそう。あの子が満点をとったテストを見せてきても全然喜ばないで……一言くらいほめてあげてもいいじゃない』
『ほめなくていい。あいつはできて当たり前だ』
『習一は天才児じゃありません。努力して、いい成績をとるんです。そのがんばりを認めて』
『あいつは血統がいいんだ。あの男の血に感謝するんだな』
習一の思考は止まった。父がなにを意図した発言をしているのか、わからない。
『またそんなことを……あの子が聞いたらどんな思いをするか、考えたことがあるの?』
母の返答も習一の理解を超えた。父の言葉はこの時、はじめて出した妄言ではないのだ。
『納得するんじゃないか。父親に顔も頭も似なかったことを』
『顔はたまたま私に似ただけよ』
『ああ、顔はお前似だな。それはよかったよ。カミジョウに似たんじゃ美形にならない』
カミジョウ、とは母が語る回想に登場した名前だ。写真を見せられたこともある。醜男ではないが麗人でもない、ふくよかな男性だった。それらの情報は決まって父が不在の際に見聞きした。彼は父と母の共通の友人であり、母とは懇意な仲だったという。
『頭だって少し物覚えがよかったのを、あの子なりに鍛えたから雒英に入れたんです』
『あれが「少し」なものか。たった一度教えたことでもしっかり覚えるうえに、抜け目ない観察力がある。カミジョウもそうだった』
『あなただって賢いじゃないの。難関の司法試験に合格してるのよ』
『あいつは一発で合格したんだぞ。俺が一度滑ったのを、カミジョウは簡単に乗り越えていった』
『二回めでちゃんと受かったでしょう。一回の結果なんて、その時の運次第──』
『バカを言え!』
父がいきり立つ。その悪声には己の自信を粉砕する人物への憎悪があった。
『あいつは急に「海外の仕事をしたい」と言い出して、ほんの数ヶ月で英語と中国語の資格を取ったんだ。中国語なんぞ必須単位だけ習っていたやつが……』
友人の優秀さを肯定する裏に、醜い嫉妬が凝り固まっている。
『やつはお前に海外行きの話をすぐにしなかったそうだな。なんでか、わかるか?』
『……知りません、そんなの』
『自分の恋人が、法曹界に入る男を夫にしようと考える女だと思わなかったからだ。どんな生き方でも応援してくれると自惚れていたわけだな。あいつは自分のこととなると勘が鈍る……そんなところも習一は似た』
『あの子が父親に認めてほしくて頑張ってるのを、わかってて冷たくするの? そんなにあの人も習一も憎いなら、どうして検査をしないの』
『カミジョウの子だとわかったら、お前は習一を連れて家を出ていくんだろう? 独り身のあいつは歓迎するとも。大企業に勤めていて羽振りがいいんだ、お前もいい再婚相手だと思うはずだ。……思い通りにはさせん。お前たちだけ幸せになってたまるか!』
『だったら習一をどうしたいの?』
『養ってやる。自分が不出来な人間だという劣等感を抱きながら、一生過ごせばいい』
父の下卑た笑いが響いた。だがこれは真実ではない。脳が手を加えた作り話だ。習一はまどろみの中、己だけが見える非現実の世界を漂流していたと理解した。どこまでが本当にあった両親の会話だかおぼろげだ。
(ほかにも言ってたことがあったかな……カミジョウって人のこと)
知り得た情報はまだある。ただ、父の嫌疑を聞いた時に知ったこととはかぎらない。
母の昔話には母と父が学生結婚を果たしたという一段がある。その際に様々な事情を覚えた。どれも母の口伝であり、母の都合の良い部分が切り取られていた。
(いい人、みたいだったな……)
両親の友人は明朗、かつ才識にめぐまれながらも他者に驕ることはなかったという。父とは性格がまったく異なる男性だ。合わない二人が学生生活をともに過ごせた要因は、ひとえに友人の度量の広さによるのだろう。
(オレみたいなやつでも、仲良くしてくれんのか?)
そのような空想は過去に何度も出現した。実の父親との疑いのある人物が、行き場のない自分を庇護してくれる。そんな自分勝手な夢想を、最近はめぐらせていなかった。
(もう……いるもんな、オレの保護者)
習一の身を案じる男がいる。彼がどんな障害でも取り去ってくれる。その事実を掛け値なしに信じる気持ちが芽生えてきた──
(いまじゃ、ない。もっと前からだ)
信頼はとうにあった。その心に蓋を閉めていただけなのだ。蓋に気付いていながら知らぬふりを続けてきた。それは少し前のシドも同じだ。
彼は絶対たる主人への忠誠ゆえに自身の感情を押し殺し、望まぬ犯罪に手を染めた。だが小山田とその家族との関わりが、彼の蓋を取り払うきっかけになった。
(あの教師は小山田がいなかったらここにいないし、オレも不良のままだった。結果的にみんながいいほうへ転んでる……のか?)
長考に飽きた習一はまぶたを開けた。室内は薄暗い。日がのぼりきらない早朝に目が覚めたのだ。二度寝をしようと寝返りを打ったところ、階下から光が漏れる。習一は物音を立てないよう移動し、居間の様子を見た。またベッド下の机には煌々とライトが点いている。ライトの光は縦長の陰影を座卓の上にまで形作る。その影は部屋主のものだ。
(いっつも寝ないでなにやってんだ?)
好奇が眠気に勝り、習一はロフト部屋をおりた。
6
習一はそろりそろりと慎重に階段を下りた。しかしどうしても足場がきしむ。習一の起床を部屋主が察知したはずだが、彼は作業を止めない。大方、用足しに起きたとでも思ったのだろう。習一は座卓のそばに座った。昨晩使用したコップは片付けられている。
「お早いのですね。あまり眠れませんでしたか?」
シドが椅子をキィっと動かした。彼はいつものサングラスをかけていない。直射日光の入らぬ室内なのだから日除け眼鏡を着用しなくて当然なのだが、習一は変だと感じた。
「べつに、目が冴えただけだ。あんたこそ寝なくて平気なのか?」
「私は力の補給さえ万全であれば眠らなくてよいのです」
「『力の補給』はどうやるんだよ。やっぱり……人を?」
自身の体験の断片がよみがえり、身震いした。シドは習一の恐怖を払うかのように表情を和らげる。
「昨夜、イチカさんを眠らせた方法です。元気を分けてもらうと眠くなる方が多いんですよ。私もエリーも、流血沙汰はやりません」
「そう、か……オレは別のやつにやられたんだな」
「はい。それともう一つ、栄養の摂り方がありまして……」
シドが机の引き出しを開けた。透明な瓶が仕事机の上に置かれる。瓶には黒い丸薬がぎっしり詰まっていた。
「これはツユキさん特製の栄養剤です。彼も白いカラスなどを呼び出すと力を消耗しますから、その回復用に作り置きなさっているそうです」
「オレが見た白いカラスもあんたと同じ、こことちがう世界から来てるのか?」
「そのように考えてよろしいです」
習一は瓶を手にとって観察した。あの露木が作る薬剤には人を傷つけて得る材料は混入しないだろう。シドは他人に危害を加えずに生活できるのだ。習一は一安心し、瓶を机にもどす。
「それで、あんたは寝ないでなにをしてたんだ?」
「生活費の試算をしています」
「なんだ、やっぱりオレがいるとカツカツなんじゃねえか?」
「これは……オダギリさんが一人で生活することを想定した計算です」
シドはノートパソコンを片手に持ち、習一に見せた。画面に数字の羅列が表示してある。
「一人暮らしをする大学生の生活費の平均値を参考にしました。加えて学校に通うとなると、教材費や修学旅行などの出費もありますから……」
「オレにこれだけ稼げ、と言いたいんだな?」
「いえ、私が負担します。高校生生活の残りの約一年半、私の貯金でまかなえることがわかりました。貴方は安心して勉学にいそしんでください」
「安心して、っつってもな……」
このまま家出状態で新学期を迎えたなら、親との軋轢(あつれき)が教師連中に問題視される。とても勉強に身が入る環境ではない。
「雒英高校は貴方が通いたくない学校ですか?」
シドがわかりきったことを尋ねる。これは確認だ。習一は口をつぐみ、うなずいた。
「では転校しましょう。才穎高校はいかがです? 常識では推し量れない人がいますけど、心優しい方が多いですよ」
「オレ個人で決められるか? 学校側がオレみてえな問題児を抱えたくないだろ」
「たった今、言ったでしょう。常識が通用しない人がいると。それは校長です」
習一は才穎高校の評判を思い出す。ありえない基準で入学者を選定する、色物高校。
「オレが校長のおめがねにかなう、と?」
「はい。その素質は備えているように思います」
「どういう審査なんだ?」
「ありていに言えば異性にもてる人物が好まれます。くしくも私は風貌の立派な男性を模して、採用と相成りました」
「見てくれのよさでか? それじゃアイドル養成所じゃねえかよ」
「外見はファクターです。ようは校長がお好きな恋愛騒動を起こす逸材だと思わせることが大事です」
「オレは女に興味ないぞ。男にもねえけど」
「私も同じです。言い換えると周りが勝手に騒いでくれればよいのです。校長も含めて」
「おめでたい学長だな……ま、そのぐらいおバカなほうがオレに合ってるかもしんねえ」
珍しく習一は好意的な返答をした。事実、中退をしないのならこの教師が在籍する学校に行ってはどうだろうと薄々思っていた。はじめは白壁に促されたのを頭の片隅に追いやっていたが、シドとの交流を重ねるにつれて現実味を帯びてきた。
(こいつがいるんならきっと、いい学校なんだろう)
小山田も過去に習一と敵対したとはいえ現在は普通に接している。彼女は習一のせいで傷を負ったのをおくびにも出さず、食事の用意をした。彼女の友人も後腐れがなさそうだ。たとえ習一を敵視する者がいても、不要な争いを避けたがるシドが釘をさすだろう。
シドはパソコンを机に置いた。くるっと椅子を回して習一と顔を合わす。
「残るは親御さんの件ですね」
習一の眉間に力がこもる。多くの事柄に整理がついても、父と対決する心構えは万全でない。
「もし差しつかえなければ……なぜ貴方の父親がわが子を憎むのか、教えてくれますか?」
「それを知って、どうなる?」
「和解の道を探るにはまず、真相を明らかにせねばならないと思います」
「和解なんかできっこねえよ。オレは、本当の息子じゃないんだ」
習一は腹をくくった。質問者はすでに他言無用の素性をさらけ出したのだ。自分もその誠意に応えねばならないという義務感が芽生えた。聞き手は顔色を変えずに黙っている。
「はっきりした根拠はないみたいだけどな。そんな話を夫婦喧嘩の時に聞いた」
「貴方の母親に不貞行為があったのですか?」
「それは知らない。オレが知ってるのは両親の結婚前に、母親に恋人がいたってことだ」
習一は直接会ったことのない人物に思いを馳せる。
「その恋人は父親の友人だった。この二人が付きあってることはあいつもわかってた。相手の男が海外の仕事に就こうとしたら母親と別れて、あいつがかあさんと一緒になった。すぐに二人は結婚して、オレが生まれた。妊娠期間が前の恋人のいた時期と被るから、疑われてる」
「遺伝子の検査で父親が判明するでしょう。どうして不明なままにしておくのです」
「それがあいつのバカなとこなんだよ。出産後すぐ検査すりゃあいいものを、その時は自分の子だと疑いもしなかったそうだ。看護師どもが『お父さん似ですね』と言ってきて、その気になってたらしい。オレ、母親似なのにな」
実父でない可能性のある男を「あいつ」と呼び名を固定して習一は説明を続ける。
「あいつがオレを本当の子じゃない、と思ったのはオレが物心ついてから。頭が回り過ぎるところが、あいつの友人に似ていたんだとよ。一つ疑うとなにもかも疑わしくなる。だから、オレはあいつに冷たくされた記憶ばっかり残ってる。そんなに疑うなら調べりゃいいとはあいつもわかってるはずだ。でも、やらないんだ。本当の子だったからって急に態度を変えられるもんじゃない。思いこみだけでオレをいじめられればそれで満足なんだ」
もしも息子が実の子だと判明した時、父はピエロに成り下がる。その可能性をおそれて真実をあきらかにできないのだとも考えられた。
「あいつの友人は切れ者だった。見た目はぼーっとしてるのに毎回成績が上位で、司法試験に一発合格したんだとさ。あいつは一度落ちたから余計にみじめだったんだろ。オレが高校でいい成績をとったら、あいつは言った。『やっぱりあの男の息子なのか』ってよ」
その言葉は両親の口論の後日に出てきた。すでに父は息子に隠し立てする意欲がなくなっていたのだ。
「必死に勉強していい成績をとれば……親はみんな喜ぶもんだと信じてた。まちがってないだろ? 自分の子がバカだから喜ぶ親はかなりの変人だ」
「はい。世間一般的には、その通りです」
「いい成績を見せても渋い顔をすんのは『その程度で喜ぶな』と、高い目標をオレに期待してるからだと思ってた。けど全然違った。あいつはオレが秀才だと言われるたびにオレを憎んでいた。あいつの上を行った友人が時間を越えて、また自分を笑い者にする──」
この推測は習一がカミジョウの子だと断定した上で成り立つ。習一は想像を膨らませる。
「形を変えた友人を痛めつけて、プライドをずたずたにしてやれば、初めて勝ったことになる──そういう思考だ、あいつは。人の好いあんたにゃ死んでもわからないだろうよ」
習一で鼻で笑った。愚かな父親と、その父に媚びてきた己への嘲笑だ。
「あいつは妹を溺愛してる。妹はいま、中学生だ。塾に行ってても成績はせいぜい中くらい。塾に通う前は下の中だった。オレの時は『中学生が塾なんぞ行かなくていい』とぬかしてたくせに、妹になったら金に糸目をつけないでいやがる。勉強のできない子どものほうが可愛いんだろうな。自分の子だと安心できるから」
「……根が深い確執ですね」
傾聴していた聞き手が控えめに感想を述べる。ほとんどが習一の憶測でしかないことを、彼が否定するかと習一は思っていた。人間の醜さを持たぬ異形に「そんなことはない」と諭された時は受け入れるつもりだった。だが、シドは習一の洞察を全面的に支持する。習一は胸に小さな懐炉が入りこんだような温かみが広がるのを感じた。
「オダギリさんは父親との共存ができないことはわかりました。では、貴方はどうしたいですか? 自分を虐げてきた父親への復讐を果たしたいのでしょうか」
「やりたい、つったらあんたはどうする?」
「法に抵触しない範囲で、加担しましょう」
真顔で答える様子に、習一は声をあげて笑った。目の端に熱いしずくが溜まる。
「もう、どうでもよくなっちまったよ。無駄に疲れるだけで……なにも変わりゃしない」
「でしたら、これからどうします?」
「最低限、別居することは伝えなきゃな。あと学校を替えるのも……学費、どうすっかな」
「才穎高校の学費も私がなんとかできます」
「あんたに頼りっぱなしは癪だ。放課後に稼げるとこ、知らないか?」
シドがベランダに顔をむけて黙考する。その隙に習一は目をこすった。
「心当たりがあります。オヤマダさんに確認してみましょう」
「お好み焼屋で働くのか?」
「いえ、そちらは人手が足りているそうです。もう一つのお店のほうです」
小山田と関わりのある店。勘付いた習一はその店に抵抗があるとわかる渋面を作った。
「大丈夫ですよ。店長さんや店の仕事は普通なんですから」
シドは机の端にあったサングラスを取り、定位置にかけた。光葉の攻撃を受けたまま公園に置き去りにしたかと思われたが、きっちり回収していたようだ。
「さて、オダギリさんのご両親は早起きな方たちでしょうか?」
「どうかな。失踪していた息子が帰宅するのは早いほうがいいと思うが」
「そうですね。では支度しましょう」
シドはメモ帳の紙をちぎり、書置きを用意する。紙には「散歩に行きます」とあった。
「散歩のノリで行く気か?」
「はい。そのくらいの気持ちでいましょう。殴りこみに行くのではありませんから」
「オレはまぁ、殴り合ってもいいんだけどな」
「拳が心を通い合わせるツールになるのでしたら、止めはしません」
「んな漫画みたいな美談にもっていけねえよ」
シドはロフト下の壁際に立った。その壁はクローゼットの戸だ。がらがらと戸を動かし、中にあったタイピン付きのネクタイを取る。以前にも見た、三つの宝石がついたタイピンだ。習一はそれが彼の趣味だとは思えなかった。
「そのタイピン、貰いもんか?」
「ええ、オヤマダさんから頂いたものです。私が……この世界に残る証ですよ」
シドはタイピンを大切そうになでたあと、ネクタイを締めた。
「六月、あんたはオレを襲った。それはなんでだ?」
「貴方が邪魔でした。オヤマダさんたちに報復をしようとする、貴方が」
「覚えてねえな。オレがそんな計画を立てたことをどうやって知った?」
「貴方が仲間と通話するのを聞きました」
「盗み聞きか。ま、鈍かったオレが悪いな」
「それは致し方ないのです。あの時の貴方は実体化しない私が見えなかったのですから」
「なんだと? いまは見えてるのに?」
習一は最初から異形が見える体質なのではなかった。ではなにをきっかけに、彼らを視認できるようになったのか。
「……お前らに喰われたから、見えるようになった?」
「いえ、私が貴方を異界へ連れていった影響です。そこから帰ってきた人はみな、こちらで隠遁した異界の生き物が見えるそうですよ」
「姿を消したあんたが見えるっていう少年もそうか?」
「その方は希少な例でして生まれつきの能力です。彼は異界の者だけでなくこちらの幽霊も見えるので、はじめは私たちのことを普通の霊だと思ったそうです」
霊視能力は国を問わず、まことしやかに健在する。習一がシドに出会うまでは信じなかった特殊能力だ。こうして人ならざる者にまみえた以上、ペテンだと断ずる気は起きない。
「幽霊……か。そいつもめんどくせえ人生を送っていそうだな」
「はい、あの子も苦労の多い生き方をしていると思います。オダギリさんとは少し、似ているかもしれませんね」
「オレと? そいつは家族ともめてんのか」
「家族仲は良好です。二人が似ていると思う部分は……ぶっきらぼうに見えても心根は優しいところですよ」
「オレが、やさしい? あんたの目は節穴か」
「自分では気付きにくい……いえ、認めたくないのでしょうね」
習一は含みのある言葉が気に入らなかった。だがここは軌道修正をはかる。
「そんな話はどうでもいい。あんたのご主人様はなぜあんたに人を襲わせる?」
「理由は知らされていません。私たちは道具と同じです。命令を与えられるだけ……その成果が何をもらたすかは考えなくていい」
ロボットのような存在意義だ。無感情な声が「ただ」とつぶやく。
「主の求める人物を差し出せば、その人は過酷な仕打ちを受ける。鈍感な私でもそう思うほど、主は抑えきれない憎悪を抱えていました」
「あんたはご主人様の気持ちを聞かなかったのか?」
「一度は質問しました。ですが教えてもらえませんでした。『いずれわかる』と……」
「はん、あんたがオレに言ってた『記憶がもどったら話す』と同じだな」
「そう、ですね。主は……私が主と同じ考えに行きつくのを待っていたように思います。私の記憶は、私が人型に変化するまでの期間が抜け落ちています。失くした思い出の中に、あの方の苦しみを共有する何かがあったのでしょう。ですが私はあの方の心を理解する前に……離れてしまった」
シドは左手にある指輪を見つめた。その指輪は主が贈ったものだという。この世界においては肉体同様レプリカなのだろうが、それを常に身に着ける心理からは、彼が忠誠心を失っていないと予想が立つ。だが彼はもう、仕える者の手駒にならない。そうわかる言動は今宵だけで何度もしていた。相反する行為のどれもが彼の本心だ。理屈通りにはいかない、ちぐはぐな姿はとても人間臭かった。
「……オレはバケモンに喰われて死んだはずだ。なんで生きてる?」
「異界へは精神だけが移動します。貴方が喰われた時の肉体は、私の力がつくった偽物です。同胞は私の力と貴方の持つ活力を餌にしました」
「体はこっちに置いたままだから、死ななかった、と?」
「そうです。ですが死なないという保証はありません。私の恩師のケイはこの世界の少し昔の人です。彼女は異界で亡くなり……以後、姿を現しませんでした。異界での死が疑似的な体験なら、彼女は再びあちらに訪れたと思います」
「おい、それって……オレも本当に死んだ可能性があるってことじゃ」
「それはないと思います。オダギリさんと同じ状況下で落命しなかった先例が十ありますから」
「オレが例外だったらどうしたよ?」
「その時は私と心中していただくということで、不運を嘆いてもらおうかと」
「しん、じゅう?」
さらっと発した言葉は彼に自決の計画があったことを匂わせた。
「私は最終的に、ツユキさんに消されるつもりでした。それは教員の生活を過ごすうちに固まってきた願望です」
「人さらいを……気に病んでいたのか。でも、死ぬようなことか? オレ以外の被害者はみんな、普通に生きているんだろ」
「こちらでは公(おおやけ)に目立つ被害を出しませんでしたが、元いた世界では死人が続出しました。私はお尋ね者なのです。そのことを、ツユキさんも承知なさっていたのですが……」
「あの警官が、こっちで教師のふりをずっとしろとでも言ったか?」
「大元はツユキさんの発案ですね。正確には、あちらの被害者の生き残りとお話しして私の処遇を決めてもらいました。消息をつかめた一人が……教師業の継続が贖罪になるとおっしゃったのです。その方は恵まれない子どもを育てることに人生を捧げていますから──」
「オレを保護することがあんたの罪を帳消しにする第一歩になるわけか」
「そうとも言えますが、私は貴方に不当な仕打ちをしたのですからその謝罪ですね。これは『子どもを助ける』という契約の履行とは別物だと思っています」
「じゃ、オレがどうなったらあんたの謝罪はおさまって、どっからが罪の償いになるんだ?」
「そう言われてみると……明確な線引きはできませんね。私も、よくわかりません」
習一が思うに、彼の目標である「夏休みの期間中に習一の生活を健全にする」というのが自主的な行動の範囲であり、それ以降の交流は他者に命じられた行為に値するのだろう。どっちがどうであれシドが習一に良くしてくれることに変わりない。習一は次の話題をふる。
「あんたが犯した罪はぜんぶ、ご主人様に従ってのことか?」
「そうです。私もエリーも、あの方に仕えるために存在する。そのように信じて努力してきたのですが……」
「そりゃ無理があるな。あんたは……悪人になりきれない。もともとが犯罪者向きの性格をしてないんだよ」
青い目が習一を見る。その目は優しげだ。
「この短期間で、よく見抜きますね。貴方は聡明だ」
「あんたほどわかりやすい野郎もいない。露木の警戒をそらす手段とはいえ、教師になって小山田に近付いたら情が移るとは考えなかったのか?」
「数ある生徒のうちの一人、であれば大丈夫だと思いました。やはり、というか……あの子も私を気にかけてしまって、ただの他人ではいられなくなりました」
「『やはり』ってどういうことだ?」
「彼女の中には同胞が住んでいます」
「中に……あの黒いやつが?」
「そうです。私とは別の役目を負う仲間でした。自我は欠けた個体だったのですが、現在は主命に背いてオヤマダさんと共存しています。その同胞と共にあり続けるうちに、彼女も私たちに親しみを覚えるようになった……のだと思います」
「彼女『も』? あんたは最初っから小山田が好きだったのかよ」
さんざん恋心はないと否定してきた主張をくつがえす告白だ。彼は首をひねる。
「どう捉えてもらってもかまいません。実を言うと、教師として潜入する前から迷いはありました。その時は彼女とその親への憐れみが先立っていましたが」
「『憐れみ』だぁ? キーワードを小出しにすんのやめろ。とっとと全部言いやがれ」
他人の興味を持続させる方法なのだろうが、まだるっこしいと感じた習一はいらいらした。シドは「貴方とは直接関わりのない話ですが」と警告する。
「私はある特殊な力を持つ人物を捜しています。その判定方法は……私がかけた術を解除できるかどうかを見ます。時を止めた時計の針を動かす──それが合否の判定方法です。オヤマダ以前にも同じ試験を行なった子はいました。彼らのうち、針を動かし続ける時計を渡してくれた人たちを私は攫いました。ですがオヤマダさんは違います。返却された時計は……時間が経つと針が止まったのです」
「電池切れじゃないのか?」
「いいえ、私が術を解けば針は動きました。彼女は術の効果を一時的に無効にする力を備えていたのです。その特別な力が、主の求めるものではないかと思いました」
小山田はこうしてシドの試験に合格した。折を見て彼女を連れ去ろうとしたものの、彼女の友人が「怪しい霊がいる」と露木に連絡したために実行は阻止された。シドが今後の計画を再編していたころ、小さな少女が高所より転落する現場に出くわした。その子を助けた際に同じく助けに入ろうとした女性に感謝された。その女性が小山田の母親だ。
「自分の子ではないのに、ミスミさんはとても喜んでいました。ベランダから落ちた女の子の家族が帰宅するまで私たちがその子の面倒を看ることになり、その時にミスミさんの話を聞きました」
ミスミの人助けへの熱意について質問すると、彼女は身の上を語ったという。
「ミスミさんは、お子さんを次々に亡くしていました。そのせいで他人の子どもであっても傷つく様子を見るのが怖いのだとおっしゃいました」
習一はミスミが野良猫の飼育には否定的だったことを連想した。我が子が先に逝く辛さを経験したせいで、寿命の短いペットを飼うことが怖くなったのだろう。だが──
「娘は生きてるじゃねえか」
「ええ、そうです。あの子は同胞が見逃したおかげで生きのびました」
「『見逃した』……?」
シドが連れ去った人間は化け物に喰われても死ななかった。それがミスミの子たちになると生死に関わるという。
「こっちの人間を拉致していっても、普通は死なないんだろ?」
「私の場合はそうです。しかし同胞はそれぞれに能力と役割が違います。私はおもに人間生活に溶けこんで標的を攫う役目を持ちました。ミスミさんの子を狙った同胞は、他者の頼みを聞いて魂を刈りとる役目を担っていました。この同胞はいわば『死神』です」
シドを超える攻撃的な化け物がいる。習一は黒い異形姿のエリーを脳裏に浮かべた。
「死神が連れ去った人は、もとの肉体と精神を繋ぐ糸を切られてしまい、生還できなくなる……と、私は理屈をこねてみましたが、実際のところはよくわかりません」
習一はがくっと肩を落とした。適当なことをぬかすシドをにらみつける。
「お前な、仲間のやってることくらいきちっと把握しとけ!」
「同胞自身もよくわからないでしていたことです。ご容赦ください」
「死神は襲った人間を覚えてねえのかよ」
「先ほども言いましたが、自我のはっきりしない個体なのです。こちらとあちらの生き物を区別しませんし、どれだけの命を刈ったかも数えていません」
「え? 『先ほど』?」
シドの同胞の話は、エリー以外だと小山田の体内に住まう者が一体だけあがった。
「はい。死神は……オヤマダさんが野良猫に手招きするような呼びかけに応じて、彼女に取り憑きました。以後はひっそりと、彼女と一緒に生きています。私が話しかけると簡単な返答をする程度には自己も生まれていました」
小山田は黒い異形を目の前にしても動じなかった。そこには二点の不審な箇所がある。
「なんで小山田はビビらなかったんだ? いや、それよかどうして死神に気付けた? あいつの目は普通なんだろ」
「彼女には死神とは別に憑いている何かがいます。『クロスケ』と名付けたそれと勘違いしたそうです。このクロスケは彼女の幼馴染が存在を教えていました」
「じゃあなぜ死神がいるとわかった? そいつがわざわざ姿をあらわしたのか」
「半分正解です。生物に接触をはかる際、姿を消した我々は相手に見える時があります。強い害意を持つとその危険が高くなる……それは怪談話に出る幽霊も同じでしょう?」
「まあ……そうかもな。幽霊が見えるタイプじゃねえのに、悪霊にばったり会ったら姿が見えたとかいう、ホントかウソかわからん話はな」
「我々の場合は当てはまります。おいそれと悪事が働けないよう、働いたとしても足がつくように、この世界はできています。ですから私は不意打ちか、闇に乗じて目的を遂行していました。死神はそういう対策を思いつけません。思考しないがゆえに……赤子にも非情になれた」
シドは急に立った。おもむろに座卓に歩み寄り、日記を回収する。
「同胞はもう死神ではありません。他に、よい呼び名があればいいのですけど」
そう言って勉強机の回転椅子に座った。思いついたことを日記に書く気らしい。その姿勢が話を終えようとする意思表示に見えて、習一は少し寂しく感じた。質疑応答をはじめる前は聞かなかったであろう質問が口に出る。
「エリーやシドって名前は誰が付けたんだ?」
「オヤマダさんです」
「なら、あいつに名付け親になってもらえばいい。同居人なんだしな」
シドは笑って「それがいいですね」と同調した。彼は机に向かい、書き物をする態勢になる。その状態でも習一が話しかければ延々答えるだろう。だが習一は思いつく限りの重要な質問を聞き終えた。常温になった茶を飲み干し、そのまま寝床へあがろうとした。
「歯は磨きましたか?」
シドが机に向かったまま尋ねた。習一は黙って洗面台へ行く。歯磨きのために部屋の照明を点けると、鏡には口の端がわずかに上がる自分がいた。
5
暗い廊下に光源が一つあった。そこから母の声が聞こえる。
『習一、学年で一位をとったんですって』
わがことのように誇らしげだった。この口調から察するに話し相手は父だ。
『この成績を維持できたらどの大学でも狙えると、先生がおっしゃっていたのよ』
三者面談では担任にそう言われた。進学を目指す者にはこれ以上ない評価だ。習一は父の称賛をひそかに期待した。だが父の声は一向に聞こえない。
『……どうして、嬉しくないの?』
母のか細い落胆の声がもれる。
『あなたはいつもそう。あの子が満点をとったテストを見せてきても全然喜ばないで……一言くらいほめてあげてもいいじゃない』
『ほめなくていい。あいつはできて当たり前だ』
『習一は天才児じゃありません。努力して、いい成績をとるんです。そのがんばりを認めて』
『あいつは血統がいいんだ。あの男の血に感謝するんだな』
習一の思考は止まった。父がなにを意図した発言をしているのか、わからない。
『またそんなことを……あの子が聞いたらどんな思いをするか、考えたことがあるの?』
母の返答も習一の理解を超えた。父の言葉はこの時、はじめて出した妄言ではないのだ。
『納得するんじゃないか。父親に顔も頭も似なかったことを』
『顔はたまたま私に似ただけよ』
『ああ、顔はお前似だな。それはよかったよ。カミジョウに似たんじゃ美形にならない』
カミジョウ、とは母が語る回想に登場した名前だ。写真を見せられたこともある。醜男ではないが麗人でもない、ふくよかな男性だった。それらの情報は決まって父が不在の際に見聞きした。彼は父と母の共通の友人であり、母とは懇意な仲だったという。
『頭だって少し物覚えがよかったのを、あの子なりに鍛えたから雒英に入れたんです』
『あれが「少し」なものか。たった一度教えたことでもしっかり覚えるうえに、抜け目ない観察力がある。カミジョウもそうだった』
『あなただって賢いじゃないの。難関の司法試験に合格してるのよ』
『あいつは一発で合格したんだぞ。俺が一度滑ったのを、カミジョウは簡単に乗り越えていった』
『二回めでちゃんと受かったでしょう。一回の結果なんて、その時の運次第──』
『バカを言え!』
父がいきり立つ。その悪声には己の自信を粉砕する人物への憎悪があった。
『あいつは急に「海外の仕事をしたい」と言い出して、ほんの数ヶ月で英語と中国語の資格を取ったんだ。中国語なんぞ必須単位だけ習っていたやつが……』
友人の優秀さを肯定する裏に、醜い嫉妬が凝り固まっている。
『やつはお前に海外行きの話をすぐにしなかったそうだな。なんでか、わかるか?』
『……知りません、そんなの』
『自分の恋人が、法曹界に入る男を夫にしようと考える女だと思わなかったからだ。どんな生き方でも応援してくれると自惚れていたわけだな。あいつは自分のこととなると勘が鈍る……そんなところも習一は似た』
『あの子が父親に認めてほしくて頑張ってるのを、わかってて冷たくするの? そんなにあの人も習一も憎いなら、どうして検査をしないの』
『カミジョウの子だとわかったら、お前は習一を連れて家を出ていくんだろう? 独り身のあいつは歓迎するとも。大企業に勤めていて羽振りがいいんだ、お前もいい再婚相手だと思うはずだ。……思い通りにはさせん。お前たちだけ幸せになってたまるか!』
『だったら習一をどうしたいの?』
『養ってやる。自分が不出来な人間だという劣等感を抱きながら、一生過ごせばいい』
父の下卑た笑いが響いた。だがこれは真実ではない。脳が手を加えた作り話だ。習一はまどろみの中、己だけが見える非現実の世界を漂流していたと理解した。どこまでが本当にあった両親の会話だかおぼろげだ。
(ほかにも言ってたことがあったかな……カミジョウって人のこと)
知り得た情報はまだある。ただ、父の嫌疑を聞いた時に知ったこととはかぎらない。
母の昔話には母と父が学生結婚を果たしたという一段がある。その際に様々な事情を覚えた。どれも母の口伝であり、母の都合の良い部分が切り取られていた。
(いい人、みたいだったな……)
両親の友人は明朗、かつ才識にめぐまれながらも他者に驕ることはなかったという。父とは性格がまったく異なる男性だ。合わない二人が学生生活をともに過ごせた要因は、ひとえに友人の度量の広さによるのだろう。
(オレみたいなやつでも、仲良くしてくれんのか?)
そのような空想は過去に何度も出現した。実の父親との疑いのある人物が、行き場のない自分を庇護してくれる。そんな自分勝手な夢想を、最近はめぐらせていなかった。
(もう……いるもんな、オレの保護者)
習一の身を案じる男がいる。彼がどんな障害でも取り去ってくれる。その事実を掛け値なしに信じる気持ちが芽生えてきた──
(いまじゃ、ない。もっと前からだ)
信頼はとうにあった。その心に蓋を閉めていただけなのだ。蓋に気付いていながら知らぬふりを続けてきた。それは少し前のシドも同じだ。
彼は絶対たる主人への忠誠ゆえに自身の感情を押し殺し、望まぬ犯罪に手を染めた。だが小山田とその家族との関わりが、彼の蓋を取り払うきっかけになった。
(あの教師は小山田がいなかったらここにいないし、オレも不良のままだった。結果的にみんながいいほうへ転んでる……のか?)
長考に飽きた習一はまぶたを開けた。室内は薄暗い。日がのぼりきらない早朝に目が覚めたのだ。二度寝をしようと寝返りを打ったところ、階下から光が漏れる。習一は物音を立てないよう移動し、居間の様子を見た。またベッド下の机には煌々とライトが点いている。ライトの光は縦長の陰影を座卓の上にまで形作る。その影は部屋主のものだ。
(いっつも寝ないでなにやってんだ?)
好奇が眠気に勝り、習一はロフト部屋をおりた。
6
習一はそろりそろりと慎重に階段を下りた。しかしどうしても足場がきしむ。習一の起床を部屋主が察知したはずだが、彼は作業を止めない。大方、用足しに起きたとでも思ったのだろう。習一は座卓のそばに座った。昨晩使用したコップは片付けられている。
「お早いのですね。あまり眠れませんでしたか?」
シドが椅子をキィっと動かした。彼はいつものサングラスをかけていない。直射日光の入らぬ室内なのだから日除け眼鏡を着用しなくて当然なのだが、習一は変だと感じた。
「べつに、目が冴えただけだ。あんたこそ寝なくて平気なのか?」
「私は力の補給さえ万全であれば眠らなくてよいのです」
「『力の補給』はどうやるんだよ。やっぱり……人を?」
自身の体験の断片がよみがえり、身震いした。シドは習一の恐怖を払うかのように表情を和らげる。
「昨夜、イチカさんを眠らせた方法です。元気を分けてもらうと眠くなる方が多いんですよ。私もエリーも、流血沙汰はやりません」
「そう、か……オレは別のやつにやられたんだな」
「はい。それともう一つ、栄養の摂り方がありまして……」
シドが机の引き出しを開けた。透明な瓶が仕事机の上に置かれる。瓶には黒い丸薬がぎっしり詰まっていた。
「これはツユキさん特製の栄養剤です。彼も白いカラスなどを呼び出すと力を消耗しますから、その回復用に作り置きなさっているそうです」
「オレが見た白いカラスもあんたと同じ、こことちがう世界から来てるのか?」
「そのように考えてよろしいです」
習一は瓶を手にとって観察した。あの露木が作る薬剤には人を傷つけて得る材料は混入しないだろう。シドは他人に危害を加えずに生活できるのだ。習一は一安心し、瓶を机にもどす。
「それで、あんたは寝ないでなにをしてたんだ?」
「生活費の試算をしています」
「なんだ、やっぱりオレがいるとカツカツなんじゃねえか?」
「これは……オダギリさんが一人で生活することを想定した計算です」
シドはノートパソコンを片手に持ち、習一に見せた。画面に数字の羅列が表示してある。
「一人暮らしをする大学生の生活費の平均値を参考にしました。加えて学校に通うとなると、教材費や修学旅行などの出費もありますから……」
「オレにこれだけ稼げ、と言いたいんだな?」
「いえ、私が負担します。高校生生活の残りの約一年半、私の貯金でまかなえることがわかりました。貴方は安心して勉学にいそしんでください」
「安心して、っつってもな……」
このまま家出状態で新学期を迎えたなら、親との軋轢(あつれき)が教師連中に問題視される。とても勉強に身が入る環境ではない。
「雒英高校は貴方が通いたくない学校ですか?」
シドがわかりきったことを尋ねる。これは確認だ。習一は口をつぐみ、うなずいた。
「では転校しましょう。才穎高校はいかがです? 常識では推し量れない人がいますけど、心優しい方が多いですよ」
「オレ個人で決められるか? 学校側がオレみてえな問題児を抱えたくないだろ」
「たった今、言ったでしょう。常識が通用しない人がいると。それは校長です」
習一は才穎高校の評判を思い出す。ありえない基準で入学者を選定する、色物高校。
「オレが校長のおめがねにかなう、と?」
「はい。その素質は備えているように思います」
「どういう審査なんだ?」
「ありていに言えば異性にもてる人物が好まれます。くしくも私は風貌の立派な男性を模して、採用と相成りました」
「見てくれのよさでか? それじゃアイドル養成所じゃねえかよ」
「外見はファクターです。ようは校長がお好きな恋愛騒動を起こす逸材だと思わせることが大事です」
「オレは女に興味ないぞ。男にもねえけど」
「私も同じです。言い換えると周りが勝手に騒いでくれればよいのです。校長も含めて」
「おめでたい学長だな……ま、そのぐらいおバカなほうがオレに合ってるかもしんねえ」
珍しく習一は好意的な返答をした。事実、中退をしないのならこの教師が在籍する学校に行ってはどうだろうと薄々思っていた。はじめは白壁に促されたのを頭の片隅に追いやっていたが、シドとの交流を重ねるにつれて現実味を帯びてきた。
(こいつがいるんならきっと、いい学校なんだろう)
小山田も過去に習一と敵対したとはいえ現在は普通に接している。彼女は習一のせいで傷を負ったのをおくびにも出さず、食事の用意をした。彼女の友人も後腐れがなさそうだ。たとえ習一を敵視する者がいても、不要な争いを避けたがるシドが釘をさすだろう。
シドはパソコンを机に置いた。くるっと椅子を回して習一と顔を合わす。
「残るは親御さんの件ですね」
習一の眉間に力がこもる。多くの事柄に整理がついても、父と対決する心構えは万全でない。
「もし差しつかえなければ……なぜ貴方の父親がわが子を憎むのか、教えてくれますか?」
「それを知って、どうなる?」
「和解の道を探るにはまず、真相を明らかにせねばならないと思います」
「和解なんかできっこねえよ。オレは、本当の息子じゃないんだ」
習一は腹をくくった。質問者はすでに他言無用の素性をさらけ出したのだ。自分もその誠意に応えねばならないという義務感が芽生えた。聞き手は顔色を変えずに黙っている。
「はっきりした根拠はないみたいだけどな。そんな話を夫婦喧嘩の時に聞いた」
「貴方の母親に不貞行為があったのですか?」
「それは知らない。オレが知ってるのは両親の結婚前に、母親に恋人がいたってことだ」
習一は直接会ったことのない人物に思いを馳せる。
「その恋人は父親の友人だった。この二人が付きあってることはあいつもわかってた。相手の男が海外の仕事に就こうとしたら母親と別れて、あいつがかあさんと一緒になった。すぐに二人は結婚して、オレが生まれた。妊娠期間が前の恋人のいた時期と被るから、疑われてる」
「遺伝子の検査で父親が判明するでしょう。どうして不明なままにしておくのです」
「それがあいつのバカなとこなんだよ。出産後すぐ検査すりゃあいいものを、その時は自分の子だと疑いもしなかったそうだ。看護師どもが『お父さん似ですね』と言ってきて、その気になってたらしい。オレ、母親似なのにな」
実父でない可能性のある男を「あいつ」と呼び名を固定して習一は説明を続ける。
「あいつがオレを本当の子じゃない、と思ったのはオレが物心ついてから。頭が回り過ぎるところが、あいつの友人に似ていたんだとよ。一つ疑うとなにもかも疑わしくなる。だから、オレはあいつに冷たくされた記憶ばっかり残ってる。そんなに疑うなら調べりゃいいとはあいつもわかってるはずだ。でも、やらないんだ。本当の子だったからって急に態度を変えられるもんじゃない。思いこみだけでオレをいじめられればそれで満足なんだ」
もしも息子が実の子だと判明した時、父はピエロに成り下がる。その可能性をおそれて真実をあきらかにできないのだとも考えられた。
「あいつの友人は切れ者だった。見た目はぼーっとしてるのに毎回成績が上位で、司法試験に一発合格したんだとさ。あいつは一度落ちたから余計にみじめだったんだろ。オレが高校でいい成績をとったら、あいつは言った。『やっぱりあの男の息子なのか』ってよ」
その言葉は両親の口論の後日に出てきた。すでに父は息子に隠し立てする意欲がなくなっていたのだ。
「必死に勉強していい成績をとれば……親はみんな喜ぶもんだと信じてた。まちがってないだろ? 自分の子がバカだから喜ぶ親はかなりの変人だ」
「はい。世間一般的には、その通りです」
「いい成績を見せても渋い顔をすんのは『その程度で喜ぶな』と、高い目標をオレに期待してるからだと思ってた。けど全然違った。あいつはオレが秀才だと言われるたびにオレを憎んでいた。あいつの上を行った友人が時間を越えて、また自分を笑い者にする──」
この推測は習一がカミジョウの子だと断定した上で成り立つ。習一は想像を膨らませる。
「形を変えた友人を痛めつけて、プライドをずたずたにしてやれば、初めて勝ったことになる──そういう思考だ、あいつは。人の好いあんたにゃ死んでもわからないだろうよ」
習一で鼻で笑った。愚かな父親と、その父に媚びてきた己への嘲笑だ。
「あいつは妹を溺愛してる。妹はいま、中学生だ。塾に行ってても成績はせいぜい中くらい。塾に通う前は下の中だった。オレの時は『中学生が塾なんぞ行かなくていい』とぬかしてたくせに、妹になったら金に糸目をつけないでいやがる。勉強のできない子どものほうが可愛いんだろうな。自分の子だと安心できるから」
「……根が深い確執ですね」
傾聴していた聞き手が控えめに感想を述べる。ほとんどが習一の憶測でしかないことを、彼が否定するかと習一は思っていた。人間の醜さを持たぬ異形に「そんなことはない」と諭された時は受け入れるつもりだった。だが、シドは習一の洞察を全面的に支持する。習一は胸に小さな懐炉が入りこんだような温かみが広がるのを感じた。
「オダギリさんは父親との共存ができないことはわかりました。では、貴方はどうしたいですか? 自分を虐げてきた父親への復讐を果たしたいのでしょうか」
「やりたい、つったらあんたはどうする?」
「法に抵触しない範囲で、加担しましょう」
真顔で答える様子に、習一は声をあげて笑った。目の端に熱いしずくが溜まる。
「もう、どうでもよくなっちまったよ。無駄に疲れるだけで……なにも変わりゃしない」
「でしたら、これからどうします?」
「最低限、別居することは伝えなきゃな。あと学校を替えるのも……学費、どうすっかな」
「才穎高校の学費も私がなんとかできます」
「あんたに頼りっぱなしは癪だ。放課後に稼げるとこ、知らないか?」
シドがベランダに顔をむけて黙考する。その隙に習一は目をこすった。
「心当たりがあります。オヤマダさんに確認してみましょう」
「お好み焼屋で働くのか?」
「いえ、そちらは人手が足りているそうです。もう一つのお店のほうです」
小山田と関わりのある店。勘付いた習一はその店に抵抗があるとわかる渋面を作った。
「大丈夫ですよ。店長さんや店の仕事は普通なんですから」
シドは机の端にあったサングラスを取り、定位置にかけた。光葉の攻撃を受けたまま公園に置き去りにしたかと思われたが、きっちり回収していたようだ。
「さて、オダギリさんのご両親は早起きな方たちでしょうか?」
「どうかな。失踪していた息子が帰宅するのは早いほうがいいと思うが」
「そうですね。では支度しましょう」
シドはメモ帳の紙をちぎり、書置きを用意する。紙には「散歩に行きます」とあった。
「散歩のノリで行く気か?」
「はい。そのくらいの気持ちでいましょう。殴りこみに行くのではありませんから」
「オレはまぁ、殴り合ってもいいんだけどな」
「拳が心を通い合わせるツールになるのでしたら、止めはしません」
「んな漫画みたいな美談にもっていけねえよ」
シドはロフト下の壁際に立った。その壁はクローゼットの戸だ。がらがらと戸を動かし、中にあったタイピン付きのネクタイを取る。以前にも見た、三つの宝石がついたタイピンだ。習一はそれが彼の趣味だとは思えなかった。
「そのタイピン、貰いもんか?」
「ええ、オヤマダさんから頂いたものです。私が……この世界に残る証ですよ」
シドはタイピンを大切そうになでたあと、ネクタイを締めた。
タグ:習一
2018年12月18日
習一篇草稿−終章下
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習一は自宅の玄関前に立った。押し慣れない呼鈴を鳴らす。これは家人が起床しているか確認する行為だ。現在は早朝。暑さがひどくならないうちに用事を済ませたい、と習一が考えたうえでの訪問ゆえに、一般的に人が起きている時間帯とは言いがたかった。
家屋の静けさが習一の焦りをまねく。その一方で、心を掻き乱されうることに立ち向かわなくてもよいという一時的な安楽さも生じた。
(いや……ここで逃げたら、だれもスッキリできやしないんだ)
習一も、父母も、現状に甘んじていたいとは思わないはず。両者が今後どう過ごしていくか、ここで決めねばならない。その決定は、自身の背後にひかえる外国人風の男ものぞんでいることだ。
習一はズボンのポケットの中にある鍵を握った。自宅の鍵だ。これを使えば自由に家へ入れる。だが独断で入るのはまずいと思った。習一ひとりならともかく、小田切家には無関係な男性も付き添っている。彼を家に入れるのも玄関付近で待機させるのも、家族の許可が必要だ。
屋内から足音が聞こえはじめた。その音が目の前にまで近づいたとき、一度音が止んだ。習一は思わず息を殺した。出てくる人物次第では、玄関先で悶着を起こしかねない。そんな緊張が走った。
玄関の戸が開く。戸を開けたのは習一の母だった。初手は無害な人物が現れたので、ひとまず習一の気持ちは落ち着いた。
母はすでに普段着に着がえていた。彼女は行方知れずだった息子を見て、言葉をうしなった。母は子の突然の訪問に驚くばかり。数日ぶりの息子の帰宅に対して怒ったり悲しんだりといった感情は見せない。習一は母が子の家出をとがめる気はないのだと察する。同時に、ただ母に見つめられる状況を気恥ずかしく思った。
母はひとしきり子を見つめたあと、子の後ろにだれかがいることに気付いた。母の目線は習一の身長を超えた先に向かう。
「いままで……息子は、どこにいたんですか?」
「私の下宿先で宿泊していました。食事と睡眠には不自由させておりません」
母は子の顔に視線をもどした。無理につくった笑顔を浮かべる。
「そう、ですか……とても、健康的に暮らせているんですね」
習一は母の素直な感想に納得した。数か月前の自分は、食うや食わずやの不規則な生活の結果、痩せぎみでいた。さらに、二週間前までは昏睡により一ヶ月の絶食を余儀なくされ、殊更やつれた。それが現在、この男性教師と過ごすうちに生気を取りもどしたのだ。親がすべき子の養生を、他人がこなした事実が顕在化している。
母の笑みがどんどん薄れる。しまいに母はうつむいてしまった。きっと親の不手際を他人が補ったことに罪悪感をおぼえているのだ。自分は不出来な親だと、そう自責の念に駆られているのかもしれない。習一がそのように推察したとき、はたと気付いた。母がよく見せる負の感情は、子に向かっていない可能性を。
「……かあさん、気にすんな」
母は目を丸くした。息子の口からなぐさめの言葉が出るとは夢にも思っていなかったのだろう。習一は握りこぶしをあげ、立てた親指を後方へ指す。
「この野郎が根っからのお節介焼きなだけだ」
その言葉は母に責任はないという主張のつもりだった。赤の他人が勝手に習一の世話を請け負ってきたのだと。好事家が好きでやった行為であるから、親としての責任を感じる必要はないのだ。
習一がシドのことを話題にしたせいか、シドはずいと習一の前に出る。
「今日は折りいって、オダギリさんのご両親とお話ししたいことがあります」
彼はさっそく本題を持ちかけている。習一は一瞬、シドがせっかちなように思ってしまった。しかし話を切り替えるにはベストなタイミングだとも感じた。
「中へあがらせていただいて、よろしいでしょうか」
慇懃な申し出だ。この丁寧な言動自体は他者の気分をそこねるデキではないはずだが、母の表情がくもった。母はこれから起きるであろう言い争いに不安を感じたのだろうか。沈痛な面持ちで承諾した。
習一は四日ぶりに小田切宅に足を踏みいれた。先導する母が居間に入る。そこには脚の長い食卓で新聞を読む父がいた。彼は寝間着姿であり、新聞紙を広げたまま習一たちとは顔を合わせない。玄関先での会話を聞いていたのかわからないが、この態度からうかがうに、訪問してきた者が習一だとは知っているようだ。そうでなくては客に不遜な居住まいを見せない。
父が座っている椅子の真向いに、この家の者でない男が座る。習一はその隣りに腰を落ち着けた。母は席に着かず、台所で茶器を鳴らしている。茶の準備ができてから話すべきかどうか、習一はまよった。これから繰り広げる話題は母にも伝えねばならぬこと。それゆえ、母が同席した状態で会話したほうがよいとは思った。しかし無言のまま、敵対している人物と同じ卓をかこむ状況は居心地がよくない。こんな状態は早く終わらせたいとも思う。
新聞紙の奥から「なんの用だ」と低く重い声が届いた。父は母を待つ気はない。彼がそう出るなら習一も話を切り出すのに抵抗はなかった。
「じつは──」
習一の同伴者が返答しようとした。それを習一が手で制する。
「オレはこの家を出ていくことに決めた。学校も別のところにする。それを言いにきた」
新聞紙が前後に揺らぐ。中年が顔出ししないまま「金はどうする気だ」と尋ねた。やはり一番に興味があることは金か、と習一はげんなりするものの、実際それがもっとも切実な問題だ。
「自分で稼いで、足りねえ分はこのシドっていう教師が立て替える。あんたの金はあてにしてない」
「放蕩息子がでかい口を叩くな」
習一は中年が吐いた単語に引っ掛かる。その語句はこの中年の口から出るには不愉快だ。
「その『息子』って言うのをやめにしねえか?」
新聞紙がぱんっと机に叩き下ろされた。父の顔がようやく見える。不快げに眉間にしわを寄せた中年の顔だった。習一の予想できた反応ゆえに、習一は平然と話をつづける。
「あんたはオレをカミジョウという男の子どもだと思ってんだろ?」
「……それがなんだ。戸籍上は親子だろう」
中年は顔色を変えずに言った。肯定も否定もはっきりしない返事は習一の期待外れだったが、そこはいま重要ではない。
「じゃあ親子の縁を切ってくれ。そうしたらおたがい、せいせいする」
中年はふん、と鼻をならした。
「お前は学校の勉強はできても法律は不勉強だな。親子関係はそうそう切れないものだ。特別養子縁組をすれば実親との関係は抹消できるが、お前の年齢ではもうできん」
「法律なんざどうでもいい。気持ちの問題だ」
中年は習一に勝る知識を無下に扱われ、さらに顔をしかめた。彼のそういう頭でっかちな性格を、習一は好きになれなかった。だからこそ、決別する。
「オレはあんたを父親だと思わねえし、あんたもこれまで通り、オレを息子だと思わないでいいってことだ。心にもない『息子』呼びはやめろ」
習一は刺々しくも理性的に答えた。自分でもおどろくほど気持ちが落ち着いている。もっと激しい言い合いになるかと思っていたが、案外スムーズに決着がつきそうだと思った。
習一側が会話の主導権をにぎる中、母が湯飲みを載せた盆を持ってくる。湯気の立つ茶が三つ、食卓に並んだ。この場で唯一の客分は丁寧に「いただきます」と母に会釈する。彼はこの非常時においても平時と変わらない対応を通すつもりだ。中年が劣勢でいるときに、シドの態度は慇懃無礼もいいところである。案の定、中年がシドを槍玉にあげる。
「貴様は悠長に茶をすすりに来たのか?」
「いいえ」
シドがこともなげに否定する。しかし茶を放置するわけではなく、両手で湯飲みの底と側面を持つ。
「ですが出された飲食物は粗末にしない主義ですので、お茶を頂戴します」
シドはくいっと湯飲みをかたむけ、茶を飲んだ。この状況でその我が道を行く対応は、人を食っているという印象を周囲に与えかねない。やはりと言うべきか、中年は怒り心頭に至ったかのように口を歪ませる。だがシドに不快な態度を改めさせようとしても、彼の行為そのものは礼を失する行動には当てはまらない。どう注意すればよいか中年はわからなかったのだろう。行き場のない不満は母に向かった。
「こんなやつを客扱いするんじゃない!」
シドの身代わりとして母が怒号を浴びる。母は盆を盾のように胸の前に持ったまま、体をすくめた。完全な八つ当たりである。その原因をつくったシドが物申そうとするより早く、習一が抗議する。
「おいおい、責めるなら空気を読まないこいつにやれ」
「なにを……!」
「言い返してこない相手にだけ強気に出るなっての。いい歳こいた大人がやることじゃねえぞ」
習一のたしなめを受けた中年は閉口した。叱責におびえていた母は習一を不思議そうにまんじりと見る。息子があまりに冷静かつ母に同情的なのを信じられないでいるようだった。
習一は茶を半分飲み、一呼吸ついた。中年は習一に反論も咎めも言いにこない。彼は習一の言い分に了承しているのか、習一は確認する。
「で、オレが家を出るのと学校を替えるの、異存はないんだな?」
「勝手にしろ。あとで泣きついても知らんぞ」
「それは無い。この教師はあんたよかよっぽど父親してるから」
中年は銀髪の教師をねめつけた。にらまれた相手はかるく頭を下げる。
「僭越ながら、彼の高校生活の後押しを努めさせてもらいます」
「若造にそんな余力があるのか?」
「経済面はこのお宅に劣るでしょうけど、不足のない援助ができる見込みです」
「せいぜい、共倒れにならないよう気をつけるんだな」
憎たらしい言い方だ。しかしある意味では習一たちの決定を認める返答でもある。その良いほうの意味で受け取ったらしいシドが深々と頭を下げる。
「貴重なご意見、この胸に刻んでおきます」
「まったく! 皮肉屋同士、仲が良いことだ!」
中年が乱暴に卓上を叩き、廊下へ引っこんだ。食卓には手つかずの茶がひとつのこる。それをシドが手元に寄せる。
「慇懃無礼が過ぎましたかね」
「なんだ、あいつの気持ちがよくわかってんじゃねえか」
習一はこの男が偏屈な人間の心情を解さぬまま、挑発に準じた行動をとったのかと思っていた。シドは苦笑いする。
「何度も怒らせましたからね」
彼はねらってあのような態度に徹したのではなさそうだ。およそペットが飼い主の叱りを受け、いまの行動は良くないことだと学習するのと同じ理屈なのかもしれない。
「礼を尽くすことが逆に失礼になるとは、どう動いてよいものやら判断に困ります」
「べつにいいんだよ。あいつの中身がガキなだけだ」
あのような矮小な人間に配慮する義理はない、と習一は断ずる。
「自分を敬わない人間がいると不機嫌になる……自分が一番じゃなきゃイヤだっつうわがまま野郎」
「私の同胞にもいますね。……なるほど、貴方はああいう敵意と接しながら、過ごしていたのですか」
習一はシドの共感を得たことにおどろく。習一が知りうるシドとその仲間であるエリーは、プライドの高さを感じさせない性格だ。それゆえ、彼の種族全体が驕慢とは縁遠い生き物だと習一は推量していた。それがシドの口から否定された。おまけに彼が「敵意」と的確に表現したのを鑑みるに、シドもまた、驕りたかぶる身内から攻撃された経験があるのだとうかがい知れる。その口ぶりは習一に親近感をおぼえさせた。
8
ひとり、だまっていた母が「あの」と心細げに会話に入る。
「ほんとうに、習一は一人立ちするんですか?」
母の視線と言葉遣いはシドに向けられたもの。そうと知れた習一は二人の会話を見守った。
「はい。私が勤務する高校には学生向けのアパートがあります。家具家電一式がそろっていますから、あとはご自分で足りないものを補充していけばよろしいかと」
「ご飯はどうするんです?」
「自炊するなり惣菜を買うなりは息子さんの判断に任せます。ご心配でしたら、私の知り合いに食事を用意できる者がいますので、その人たちにお願いしましょう」
「生活費は……」
母は憂鬱顔で質問を重ねた。その姿に習一はやきもきする。
「なぁ、この教師と親父のどっちがオレを大事にしてると思うんだ?」
「それは、先生のほうだけど……」
「じゃあ信用してくれよ。こいつが大丈夫だっつってんだから」
習一は不恰好な笑みを作った。母を不安にさせまいとする一心での表情だ。だのに母は大粒の涙を流す。
「ごめんなさい……」
母が顔を手で覆い、泣き崩れる。習一は自分の対応に汚点があったのかと焦った。笑顔に縁のない暮らしを長くつづけたせいで、怒気のこもった顔を見せてしまったのだろうか、と。
「私が弱いから、あなたをこんな目に……」
母は習一の態度で傷ついたのではなかった。むしろ習一が軟化した影響で、いままで堰き止めていた感情があふれ出たらしい。つまり、これが隠し立てのない母の本音だ。
習一が今日母に会ったときに感じた疑念は、これで確定した。いままで母が習一に向けてきた負の感情は自責の表れだったのだと。それを習一は母からの憎悪だと誤解してきた。このことが明らかになったいま、習一はずいぶん救われる思いがした。自分は完全に母に疎まれていたわけではない。母の愛情はたしかに子にそそがれていた──その想いに応えてあげたいのに、習一はできなかった。眼前の光景にどう対処していいかわからなくなる。ちいさく嗚咽を漏らす母に、息子である自分が、なにかしなくてはいけない。心ではそう感じていても、頭は単純な行動さえ思いつけない。
呆然とする習一に代わり、銀髪の教師がうごいた。彼は母のそばで膝を屈する。
「これが今生の別れではありません。息子さんの生活が軌道に乗ったときに、またお二人は会えるはずです」
母は声にならない声をともなって何度もうなずいた。習一はシドの対応が最適解だと思った。習一も母も、いまは動揺している。優先すべきは双方の気持ちの整理。この場は相互理解を深めるには適さないのだ。
習一はシドのフォローに異を唱えず、テーブルにのこる茶を飲みほす。
「……それか、あいつがいねえときにまたくる。オレの荷物もあるしな」
習一は母の反応を確認せず、部屋を出た。用件は済んだ。あの場に長居しても得なことは起きない。万一、妹が早起きしてくれば話がややこしくなりそうだと習一は考えた。
別れのあいさつなしで、習一は日が照る外へ出た。習一に遅れてシドも外へ現れる。彼が習一の突飛な行動に付き添うのは想定内だ。習一が家出を決行したときもそうだったのだから。
小田切家の敷地内を出たところ、「一つ、たずねてもよろしいですか」と声がかかる。習一は後ろに顔を向けたきり、良いとも悪いとも言わなかった。めんどくさそうだな、と思ったが、シドの質問に答える義理はあると感じていた。
「私が『父親をしてる』という評価は、本心で言ったことですか?」
習一は今朝がた母と対面したときと同程度の恥ずかしさがこみあげた。すぐに顔を前方へもどし、歩を進めた。正面を向く顔に、日光がじりじりと焼きつく。その日光とは別の熱が顔にのぼるのを自覚しつつ、質問しかえす。
「……そんなの聞いて、どうする?」
「どう、ということもないのですが、興味深いと思いました」
「まだ親をやる歳でもねえのに、ってか?」
「そうは思いません」
「そうか? まだ三十くらいだろ」
「いえ、私の活動年数はその倍以上です」
習一はぎょっとした。たしかに老成した男だとは思っていたが、中高年に相当するとは。
「ずいぶん長生き、だな」
「おそらくは、寿命自体がないのかもしれません。そういった生き物は私たち以外の種族にもいます」
「そうか……ま、アンタの世界じゃ長生きが普通だって言うなら、そういうもんだと思っておく」
シドが人外だという認識はすでに習一の中で確立している。いまさら人間との差異をとやかく言う気はなかった。生物として違いすぎるからといって、それが取り立てて声をあげるべき短所だとは思えなかった。
シドの寿命の話題がおわると、習一はすっきりした気分でシドの居住地を目指した。背後から「私の質問はどうなりました?」と話しかけられる。習一はなんのことだったか一瞬思い出せず、すぐに返答できなかった。
「言いにくいことでしたか?」
「あ……父親がどうこう、だったか」
習一はその話題について、答えたくないと思った。だが決して、その感情に向き合うことが苦行なのではない。胸をえぐられるような苦しみとは真っ向から対立している。ただ、この男にありのままの心情を吐露するのは「負け」になるような気がした──彼以外に本心を語れる相手もいないと思っていながら、これだけは言いたくない、認めたくないという気持ちが、習一にはまだのこっている。その抵抗を感じる原因は、純粋に習一の性格にある。
「なんだっていいだろ」
「わかりました。ではほかの方にたずねてみます」
「え?」
「貴方の心情を察しうる人に聞いて、それで私は疑問を解消しておきます」
シドは遠回しに、習一に答えなくてもよいと言っている。それは彼の気遣いなのだろうが、かえって習一をはずかしめる危険を、彼はまったく察知できていない。
「おい、だれに言いふらす気だ?」
「いけませんか?」
「ああ、やめろ。あんなの、あいつのダメ親さを当てこすりたいだけの出まかせだ。まともに考察したってムダだぞ」
習一は未熟な保身の連続に対して居心地のわるさを感じた。話題を変えようと周囲をさぐる。すると灰色の動物が民家の塀を渡っていた。顔と体の大きい、どこかふてぶてしさのある猫だ。習一の視線に気づいたシドが「おや、猫ですね」と関心をそそぐ。動物好きな彼には格好のネタだ。習一はこれを話題逸らしの好機として活用をこころみた。
9
「顔デカいな、こいつ」
「オスでしょうか」
「猫も顔にオスメスの差があるのか?」
「個体差はありますが、その傾向はあるそうです」
習一の思惑通りにシドが話に乗ってきた。たやすく目的を果たした習一は安堵し、通りすがりの獣から視線を外した。あとは適当な話をしておけばこの場をしのげると思ったのだ。だが動物好きの男は猫を凝視する。
「遺伝子的には……オヤマダさんが拾った子猫たちの父親にあたるかもしれませんね」
「え、こいつが?」
どの子猫とも毛皮は似ていないが、と習一が思った矢先にグレーの猫は消えた。民家の庭に降りていったようだ。気ままに放浪するさまは野良猫の常だが、習一はグレーの猫を憎たらしく感じた。子猫の母親が血で汚れていたのを思い出したせいだ。
「母猫が大変な思いしてたってのに、オスは気楽な一人旅か」
「そういう生き物です。猫はオスが育児に介入しなくてもよいようにできていますからね」
「そこが人間とはちがう、か」
習一は人間の倫理観を獣に押しつける行為を無駄だと思い、憤慨を引っ込めた。それと同時にある男性を髣髴する。自身の父疑惑のある男。もし彼が学生時代に得た就職先のまま勤続しているのなら、現在も海外での仕事をしているはず。
「……カミジョウも、あんな感じでふらついてんのかな」
「調べてみましょうか?」
思ってもみない有益な提案だ。習一は食い気味に「どうやるんだ?」とたずねた。
「シズカさんにその方の居場所を探ってもらいます」
「警官の捜査で? それとも白いカラスなんかを使ってか?」
「カラスのほうですね。近隣に住むカミジョウさんを一通り調べるくらいのことはできるかと」
「近場、か……」
「はい、それより広い範囲の調査はむずかしいと思います。できないことはないでしょうが、あまりに時間と労力を費やす依頼になってしまう」
「それならやめとく。どうせ海外を飛びまわってる人だから、会えっこない」
居所がわかったところで、習一の力ではなにもできない。海外旅行をする資金は持ち合わせていないのだ。いまは無理だが、いずれお金を貯めて、露木に捜索の依頼をしたら、本当の父に会えるのかもしれない。シドがもたらした情報は習一にかすかな希望を持たせた。
会話が途切れ、二人は黙々と帰路をたどった。不意に周辺がほの暗くなる。分厚い入道雲が太陽を覆い、鈍色の影を習一たちに落としていた。そのおかげで日差しが遮られる。
「ちょうどいい日除けだな。ま、あんたにゃあってもなくても同じだろうけど」
「必要なら日傘を買いましょうか?」
「んな女みたいなことはやらねえって」
「快適さを求めることに男女の性差は関係しないように思いますが」
「周りがどう思うかを言ってるんだ。そもそも持ち歩くのがめんどうだし」
「では帽子はどうでしょう。鍔の広いものは頭の周辺に日陰をつくれますし、通気性のよいものは被っていても熱がこもらないそうですよ──」
たわいない会話が展開する。習一は雑談をたのしむつもりはさらさらないのだが、無理やり話を打ち切りはしなかった。この会話はシドが習一をおもんばかっていることの表れだ。習一が暑さにうだっていようとなかろうと彼には関係がないのに、自分のことのようにあれこれ対策を考える。まるで子の体調を気遣う親のようだ。これがきっと、習一に欠けていたものだ。母からは受け取れていたが、その対に相当するものはいまになってようやく、他人から享受している。その他人が異種族であることはなにかの皮肉のようにも思えるが、習一は気に留めなかった。たとえシドが化け物であろうと、その心根が情け深い事実は変えようがない。
太陽の下にあった雲が風で流れていき、また直射日光が地を照らす。肌を焼く暑さが再来してきた。習一が帰路を急ごうとすると、後方にいた保護者が並行する。
「私が貴方を抱えていけば、すぐにアパートに着きますよ」
習一は昨夜に体験したことを思い出す。実体を無くした状態のシドは家屋を軽々と跳びこしていた。そのとき彼に抱えられていた習一も、常人には見えない特殊な状態にあったという。
「昨日の夜にやったやつか?」
「はい。私たちが消え去る瞬間を他人に見られない状況なら、できます」
「アパートに到着したときにだれかいたら?」
「部屋のベランダで降りるので、平気かと」
「昨日は暗かったからそこでもよかっただろうさ。明るいいまだと、だれかに気付かれるんじゃないか?」
「でしたら部屋で実体化しましょう。普通の家屋はすり抜けられます」
「なんで昨日はそうしなかった?」
「土足で床を汚したくありません」
綺麗好きな者らしい忌避理由だ。習一はなかばあきれながらも、
「だったら玄関で降りてくれ」
と言うと、シドの提案を飲んだことが言外に伝わる。シドがその場にしゃがんだ。習一はまわりにだれも自分たちに注目する者がいないのを確認したのち、彼の背におぶさった。
習一は自身の右腕をシドの胸元にまわし、自分の右手首を左手でつかむ。簡単に落ちない姿勢になった直後、シドは移動をはじめた。
習一の腕は大部分が露出しており、シドの灰がかった黒シャツをじかに接触した。彼のシャツは太陽光による熱を吸収している。習一が触れた直後は暑さが倍加したような熱気を感じたが、習一はその熱を嫌悪しなかった。
(ちょっと、たのしい)
自分の体をうごかさなくとも景色が移り変わる、という体験は、慣れぬうちは新鮮なものだ。おまけにこの状態のシドは常人が通らない、道なき道を行く。平生歩かない塀の上などを跳びまわるので、同行者である習一も、身軽な猫や猿に変じた気分になれる。これがなかなかおもしろかった。しかしその無邪気な本音は他人に明かせない。
習一は奇異な移動をたのしむ以外に、べつの意義も感じ取っていた。そちらも他言できない感情である。その情は先の実家での話中に発露したので、隠しとおせてはいないのだが。
(そこに食いつかれるとは思わなかったな)
それは習一がはぐらかしてしまった話題だ。シドは「興味深い」と言って習一の真意をたしかめようとしたが、習一が羞恥するあまり、彼の好奇は満たされなかった。習一が気にするのと同様、シドもまた琴線に触れる言葉だったのだろうか。それをたしかめるには習一が恥を忍ばねばならず、そのような問いかけは容易にできない。
(聞くときは……学校がはじまってからがいいな)
二人が四六時中ともに過ごす現状、気まずいことが起きると尾を引きずりやすい。両者が日常生活に忙しくする時期がねらい目だと思い、この場は沈黙に徹した。
太陽は燦々と地上を照りつけている。人外と化した状態の習一たちはその日射を無効化していた。そのことに習一が気付いたのは、シドの部屋の玄関が見えたころだった。習一がシドに担がれる目的とは、暑い外にいる時間を短縮するためにあった。いそいで帰らなくともよかったという発見と、疑似親に甘えうる時間の短さを惜しむ気持ちがこみ上げる。だが眼前の鉄扉にぶつかる恐怖がそれらの意識を上回った。習一は目をつむる。数秒が経ってもなんの衝撃も異音も起きなかった。ただシドの「着きましたよ」の一言が聞こえる。習一がおそるおそる視界を開けると、アパートの玄関内にいた。
「さ、降りてもらいますよ」
うながしにしたがい、習一はせまい玄関に降り立った。家主が一足先に靴をぬぎ、廊下に立つ。
「今日は部屋でのんびりすごす予定でしたね。どうかゆっくり休んでください」
シドは笑顔で習一に休息をすすめた。そのやさしさに呑まれそうになるのを、習一はこらえる。
「いや、休むのはあとだ。転校とか、住む部屋とか、バイトとか、いま決められることはあるんじゃないのか?」
「貴方はせっかちですね」
シドは顔色を変えずに言う。
「今日は日曜日ですよ。どこもそういった申請を受け付けていません」
「じゃあ明日になったらやるのか?」
「はい、私がすべて付き合います。ですから、いまは休んでおいてください。明日からまた忙しくなりますよ」
いまの習一ができることは休養をとること。その主張を完全に支持するほど習一はお人好しではない。だが習一の今後の生活を取り決める保護者がそう言う以上、習一にできることは思いつかない。この場はシドを尊重して、習一は彼の部屋へ進み入った。
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習一は自宅の玄関前に立った。押し慣れない呼鈴を鳴らす。これは家人が起床しているか確認する行為だ。現在は早朝。暑さがひどくならないうちに用事を済ませたい、と習一が考えたうえでの訪問ゆえに、一般的に人が起きている時間帯とは言いがたかった。
家屋の静けさが習一の焦りをまねく。その一方で、心を掻き乱されうることに立ち向かわなくてもよいという一時的な安楽さも生じた。
(いや……ここで逃げたら、だれもスッキリできやしないんだ)
習一も、父母も、現状に甘んじていたいとは思わないはず。両者が今後どう過ごしていくか、ここで決めねばならない。その決定は、自身の背後にひかえる外国人風の男ものぞんでいることだ。
習一はズボンのポケットの中にある鍵を握った。自宅の鍵だ。これを使えば自由に家へ入れる。だが独断で入るのはまずいと思った。習一ひとりならともかく、小田切家には無関係な男性も付き添っている。彼を家に入れるのも玄関付近で待機させるのも、家族の許可が必要だ。
屋内から足音が聞こえはじめた。その音が目の前にまで近づいたとき、一度音が止んだ。習一は思わず息を殺した。出てくる人物次第では、玄関先で悶着を起こしかねない。そんな緊張が走った。
玄関の戸が開く。戸を開けたのは習一の母だった。初手は無害な人物が現れたので、ひとまず習一の気持ちは落ち着いた。
母はすでに普段着に着がえていた。彼女は行方知れずだった息子を見て、言葉をうしなった。母は子の突然の訪問に驚くばかり。数日ぶりの息子の帰宅に対して怒ったり悲しんだりといった感情は見せない。習一は母が子の家出をとがめる気はないのだと察する。同時に、ただ母に見つめられる状況を気恥ずかしく思った。
母はひとしきり子を見つめたあと、子の後ろにだれかがいることに気付いた。母の目線は習一の身長を超えた先に向かう。
「いままで……息子は、どこにいたんですか?」
「私の下宿先で宿泊していました。食事と睡眠には不自由させておりません」
母は子の顔に視線をもどした。無理につくった笑顔を浮かべる。
「そう、ですか……とても、健康的に暮らせているんですね」
習一は母の素直な感想に納得した。数か月前の自分は、食うや食わずやの不規則な生活の結果、痩せぎみでいた。さらに、二週間前までは昏睡により一ヶ月の絶食を余儀なくされ、殊更やつれた。それが現在、この男性教師と過ごすうちに生気を取りもどしたのだ。親がすべき子の養生を、他人がこなした事実が顕在化している。
母の笑みがどんどん薄れる。しまいに母はうつむいてしまった。きっと親の不手際を他人が補ったことに罪悪感をおぼえているのだ。自分は不出来な親だと、そう自責の念に駆られているのかもしれない。習一がそのように推察したとき、はたと気付いた。母がよく見せる負の感情は、子に向かっていない可能性を。
「……かあさん、気にすんな」
母は目を丸くした。息子の口からなぐさめの言葉が出るとは夢にも思っていなかったのだろう。習一は握りこぶしをあげ、立てた親指を後方へ指す。
「この野郎が根っからのお節介焼きなだけだ」
その言葉は母に責任はないという主張のつもりだった。赤の他人が勝手に習一の世話を請け負ってきたのだと。好事家が好きでやった行為であるから、親としての責任を感じる必要はないのだ。
習一がシドのことを話題にしたせいか、シドはずいと習一の前に出る。
「今日は折りいって、オダギリさんのご両親とお話ししたいことがあります」
彼はさっそく本題を持ちかけている。習一は一瞬、シドがせっかちなように思ってしまった。しかし話を切り替えるにはベストなタイミングだとも感じた。
「中へあがらせていただいて、よろしいでしょうか」
慇懃な申し出だ。この丁寧な言動自体は他者の気分をそこねるデキではないはずだが、母の表情がくもった。母はこれから起きるであろう言い争いに不安を感じたのだろうか。沈痛な面持ちで承諾した。
習一は四日ぶりに小田切宅に足を踏みいれた。先導する母が居間に入る。そこには脚の長い食卓で新聞を読む父がいた。彼は寝間着姿であり、新聞紙を広げたまま習一たちとは顔を合わせない。玄関先での会話を聞いていたのかわからないが、この態度からうかがうに、訪問してきた者が習一だとは知っているようだ。そうでなくては客に不遜な居住まいを見せない。
父が座っている椅子の真向いに、この家の者でない男が座る。習一はその隣りに腰を落ち着けた。母は席に着かず、台所で茶器を鳴らしている。茶の準備ができてから話すべきかどうか、習一はまよった。これから繰り広げる話題は母にも伝えねばならぬこと。それゆえ、母が同席した状態で会話したほうがよいとは思った。しかし無言のまま、敵対している人物と同じ卓をかこむ状況は居心地がよくない。こんな状態は早く終わらせたいとも思う。
新聞紙の奥から「なんの用だ」と低く重い声が届いた。父は母を待つ気はない。彼がそう出るなら習一も話を切り出すのに抵抗はなかった。
「じつは──」
習一の同伴者が返答しようとした。それを習一が手で制する。
「オレはこの家を出ていくことに決めた。学校も別のところにする。それを言いにきた」
新聞紙が前後に揺らぐ。中年が顔出ししないまま「金はどうする気だ」と尋ねた。やはり一番に興味があることは金か、と習一はげんなりするものの、実際それがもっとも切実な問題だ。
「自分で稼いで、足りねえ分はこのシドっていう教師が立て替える。あんたの金はあてにしてない」
「放蕩息子がでかい口を叩くな」
習一は中年が吐いた単語に引っ掛かる。その語句はこの中年の口から出るには不愉快だ。
「その『息子』って言うのをやめにしねえか?」
新聞紙がぱんっと机に叩き下ろされた。父の顔がようやく見える。不快げに眉間にしわを寄せた中年の顔だった。習一の予想できた反応ゆえに、習一は平然と話をつづける。
「あんたはオレをカミジョウという男の子どもだと思ってんだろ?」
「……それがなんだ。戸籍上は親子だろう」
中年は顔色を変えずに言った。肯定も否定もはっきりしない返事は習一の期待外れだったが、そこはいま重要ではない。
「じゃあ親子の縁を切ってくれ。そうしたらおたがい、せいせいする」
中年はふん、と鼻をならした。
「お前は学校の勉強はできても法律は不勉強だな。親子関係はそうそう切れないものだ。特別養子縁組をすれば実親との関係は抹消できるが、お前の年齢ではもうできん」
「法律なんざどうでもいい。気持ちの問題だ」
中年は習一に勝る知識を無下に扱われ、さらに顔をしかめた。彼のそういう頭でっかちな性格を、習一は好きになれなかった。だからこそ、決別する。
「オレはあんたを父親だと思わねえし、あんたもこれまで通り、オレを息子だと思わないでいいってことだ。心にもない『息子』呼びはやめろ」
習一は刺々しくも理性的に答えた。自分でもおどろくほど気持ちが落ち着いている。もっと激しい言い合いになるかと思っていたが、案外スムーズに決着がつきそうだと思った。
習一側が会話の主導権をにぎる中、母が湯飲みを載せた盆を持ってくる。湯気の立つ茶が三つ、食卓に並んだ。この場で唯一の客分は丁寧に「いただきます」と母に会釈する。彼はこの非常時においても平時と変わらない対応を通すつもりだ。中年が劣勢でいるときに、シドの態度は慇懃無礼もいいところである。案の定、中年がシドを槍玉にあげる。
「貴様は悠長に茶をすすりに来たのか?」
「いいえ」
シドがこともなげに否定する。しかし茶を放置するわけではなく、両手で湯飲みの底と側面を持つ。
「ですが出された飲食物は粗末にしない主義ですので、お茶を頂戴します」
シドはくいっと湯飲みをかたむけ、茶を飲んだ。この状況でその我が道を行く対応は、人を食っているという印象を周囲に与えかねない。やはりと言うべきか、中年は怒り心頭に至ったかのように口を歪ませる。だがシドに不快な態度を改めさせようとしても、彼の行為そのものは礼を失する行動には当てはまらない。どう注意すればよいか中年はわからなかったのだろう。行き場のない不満は母に向かった。
「こんなやつを客扱いするんじゃない!」
シドの身代わりとして母が怒号を浴びる。母は盆を盾のように胸の前に持ったまま、体をすくめた。完全な八つ当たりである。その原因をつくったシドが物申そうとするより早く、習一が抗議する。
「おいおい、責めるなら空気を読まないこいつにやれ」
「なにを……!」
「言い返してこない相手にだけ強気に出るなっての。いい歳こいた大人がやることじゃねえぞ」
習一のたしなめを受けた中年は閉口した。叱責におびえていた母は習一を不思議そうにまんじりと見る。息子があまりに冷静かつ母に同情的なのを信じられないでいるようだった。
習一は茶を半分飲み、一呼吸ついた。中年は習一に反論も咎めも言いにこない。彼は習一の言い分に了承しているのか、習一は確認する。
「で、オレが家を出るのと学校を替えるの、異存はないんだな?」
「勝手にしろ。あとで泣きついても知らんぞ」
「それは無い。この教師はあんたよかよっぽど父親してるから」
中年は銀髪の教師をねめつけた。にらまれた相手はかるく頭を下げる。
「僭越ながら、彼の高校生活の後押しを努めさせてもらいます」
「若造にそんな余力があるのか?」
「経済面はこのお宅に劣るでしょうけど、不足のない援助ができる見込みです」
「せいぜい、共倒れにならないよう気をつけるんだな」
憎たらしい言い方だ。しかしある意味では習一たちの決定を認める返答でもある。その良いほうの意味で受け取ったらしいシドが深々と頭を下げる。
「貴重なご意見、この胸に刻んでおきます」
「まったく! 皮肉屋同士、仲が良いことだ!」
中年が乱暴に卓上を叩き、廊下へ引っこんだ。食卓には手つかずの茶がひとつのこる。それをシドが手元に寄せる。
「慇懃無礼が過ぎましたかね」
「なんだ、あいつの気持ちがよくわかってんじゃねえか」
習一はこの男が偏屈な人間の心情を解さぬまま、挑発に準じた行動をとったのかと思っていた。シドは苦笑いする。
「何度も怒らせましたからね」
彼はねらってあのような態度に徹したのではなさそうだ。およそペットが飼い主の叱りを受け、いまの行動は良くないことだと学習するのと同じ理屈なのかもしれない。
「礼を尽くすことが逆に失礼になるとは、どう動いてよいものやら判断に困ります」
「べつにいいんだよ。あいつの中身がガキなだけだ」
あのような矮小な人間に配慮する義理はない、と習一は断ずる。
「自分を敬わない人間がいると不機嫌になる……自分が一番じゃなきゃイヤだっつうわがまま野郎」
「私の同胞にもいますね。……なるほど、貴方はああいう敵意と接しながら、過ごしていたのですか」
習一はシドの共感を得たことにおどろく。習一が知りうるシドとその仲間であるエリーは、プライドの高さを感じさせない性格だ。それゆえ、彼の種族全体が驕慢とは縁遠い生き物だと習一は推量していた。それがシドの口から否定された。おまけに彼が「敵意」と的確に表現したのを鑑みるに、シドもまた、驕りたかぶる身内から攻撃された経験があるのだとうかがい知れる。その口ぶりは習一に親近感をおぼえさせた。
8
ひとり、だまっていた母が「あの」と心細げに会話に入る。
「ほんとうに、習一は一人立ちするんですか?」
母の視線と言葉遣いはシドに向けられたもの。そうと知れた習一は二人の会話を見守った。
「はい。私が勤務する高校には学生向けのアパートがあります。家具家電一式がそろっていますから、あとはご自分で足りないものを補充していけばよろしいかと」
「ご飯はどうするんです?」
「自炊するなり惣菜を買うなりは息子さんの判断に任せます。ご心配でしたら、私の知り合いに食事を用意できる者がいますので、その人たちにお願いしましょう」
「生活費は……」
母は憂鬱顔で質問を重ねた。その姿に習一はやきもきする。
「なぁ、この教師と親父のどっちがオレを大事にしてると思うんだ?」
「それは、先生のほうだけど……」
「じゃあ信用してくれよ。こいつが大丈夫だっつってんだから」
習一は不恰好な笑みを作った。母を不安にさせまいとする一心での表情だ。だのに母は大粒の涙を流す。
「ごめんなさい……」
母が顔を手で覆い、泣き崩れる。習一は自分の対応に汚点があったのかと焦った。笑顔に縁のない暮らしを長くつづけたせいで、怒気のこもった顔を見せてしまったのだろうか、と。
「私が弱いから、あなたをこんな目に……」
母は習一の態度で傷ついたのではなかった。むしろ習一が軟化した影響で、いままで堰き止めていた感情があふれ出たらしい。つまり、これが隠し立てのない母の本音だ。
習一が今日母に会ったときに感じた疑念は、これで確定した。いままで母が習一に向けてきた負の感情は自責の表れだったのだと。それを習一は母からの憎悪だと誤解してきた。このことが明らかになったいま、習一はずいぶん救われる思いがした。自分は完全に母に疎まれていたわけではない。母の愛情はたしかに子にそそがれていた──その想いに応えてあげたいのに、習一はできなかった。眼前の光景にどう対処していいかわからなくなる。ちいさく嗚咽を漏らす母に、息子である自分が、なにかしなくてはいけない。心ではそう感じていても、頭は単純な行動さえ思いつけない。
呆然とする習一に代わり、銀髪の教師がうごいた。彼は母のそばで膝を屈する。
「これが今生の別れではありません。息子さんの生活が軌道に乗ったときに、またお二人は会えるはずです」
母は声にならない声をともなって何度もうなずいた。習一はシドの対応が最適解だと思った。習一も母も、いまは動揺している。優先すべきは双方の気持ちの整理。この場は相互理解を深めるには適さないのだ。
習一はシドのフォローに異を唱えず、テーブルにのこる茶を飲みほす。
「……それか、あいつがいねえときにまたくる。オレの荷物もあるしな」
習一は母の反応を確認せず、部屋を出た。用件は済んだ。あの場に長居しても得なことは起きない。万一、妹が早起きしてくれば話がややこしくなりそうだと習一は考えた。
別れのあいさつなしで、習一は日が照る外へ出た。習一に遅れてシドも外へ現れる。彼が習一の突飛な行動に付き添うのは想定内だ。習一が家出を決行したときもそうだったのだから。
小田切家の敷地内を出たところ、「一つ、たずねてもよろしいですか」と声がかかる。習一は後ろに顔を向けたきり、良いとも悪いとも言わなかった。めんどくさそうだな、と思ったが、シドの質問に答える義理はあると感じていた。
「私が『父親をしてる』という評価は、本心で言ったことですか?」
習一は今朝がた母と対面したときと同程度の恥ずかしさがこみあげた。すぐに顔を前方へもどし、歩を進めた。正面を向く顔に、日光がじりじりと焼きつく。その日光とは別の熱が顔にのぼるのを自覚しつつ、質問しかえす。
「……そんなの聞いて、どうする?」
「どう、ということもないのですが、興味深いと思いました」
「まだ親をやる歳でもねえのに、ってか?」
「そうは思いません」
「そうか? まだ三十くらいだろ」
「いえ、私の活動年数はその倍以上です」
習一はぎょっとした。たしかに老成した男だとは思っていたが、中高年に相当するとは。
「ずいぶん長生き、だな」
「おそらくは、寿命自体がないのかもしれません。そういった生き物は私たち以外の種族にもいます」
「そうか……ま、アンタの世界じゃ長生きが普通だって言うなら、そういうもんだと思っておく」
シドが人外だという認識はすでに習一の中で確立している。いまさら人間との差異をとやかく言う気はなかった。生物として違いすぎるからといって、それが取り立てて声をあげるべき短所だとは思えなかった。
シドの寿命の話題がおわると、習一はすっきりした気分でシドの居住地を目指した。背後から「私の質問はどうなりました?」と話しかけられる。習一はなんのことだったか一瞬思い出せず、すぐに返答できなかった。
「言いにくいことでしたか?」
「あ……父親がどうこう、だったか」
習一はその話題について、答えたくないと思った。だが決して、その感情に向き合うことが苦行なのではない。胸をえぐられるような苦しみとは真っ向から対立している。ただ、この男にありのままの心情を吐露するのは「負け」になるような気がした──彼以外に本心を語れる相手もいないと思っていながら、これだけは言いたくない、認めたくないという気持ちが、習一にはまだのこっている。その抵抗を感じる原因は、純粋に習一の性格にある。
「なんだっていいだろ」
「わかりました。ではほかの方にたずねてみます」
「え?」
「貴方の心情を察しうる人に聞いて、それで私は疑問を解消しておきます」
シドは遠回しに、習一に答えなくてもよいと言っている。それは彼の気遣いなのだろうが、かえって習一をはずかしめる危険を、彼はまったく察知できていない。
「おい、だれに言いふらす気だ?」
「いけませんか?」
「ああ、やめろ。あんなの、あいつのダメ親さを当てこすりたいだけの出まかせだ。まともに考察したってムダだぞ」
習一は未熟な保身の連続に対して居心地のわるさを感じた。話題を変えようと周囲をさぐる。すると灰色の動物が民家の塀を渡っていた。顔と体の大きい、どこかふてぶてしさのある猫だ。習一の視線に気づいたシドが「おや、猫ですね」と関心をそそぐ。動物好きな彼には格好のネタだ。習一はこれを話題逸らしの好機として活用をこころみた。
9
「顔デカいな、こいつ」
「オスでしょうか」
「猫も顔にオスメスの差があるのか?」
「個体差はありますが、その傾向はあるそうです」
習一の思惑通りにシドが話に乗ってきた。たやすく目的を果たした習一は安堵し、通りすがりの獣から視線を外した。あとは適当な話をしておけばこの場をしのげると思ったのだ。だが動物好きの男は猫を凝視する。
「遺伝子的には……オヤマダさんが拾った子猫たちの父親にあたるかもしれませんね」
「え、こいつが?」
どの子猫とも毛皮は似ていないが、と習一が思った矢先にグレーの猫は消えた。民家の庭に降りていったようだ。気ままに放浪するさまは野良猫の常だが、習一はグレーの猫を憎たらしく感じた。子猫の母親が血で汚れていたのを思い出したせいだ。
「母猫が大変な思いしてたってのに、オスは気楽な一人旅か」
「そういう生き物です。猫はオスが育児に介入しなくてもよいようにできていますからね」
「そこが人間とはちがう、か」
習一は人間の倫理観を獣に押しつける行為を無駄だと思い、憤慨を引っ込めた。それと同時にある男性を髣髴する。自身の父疑惑のある男。もし彼が学生時代に得た就職先のまま勤続しているのなら、現在も海外での仕事をしているはず。
「……カミジョウも、あんな感じでふらついてんのかな」
「調べてみましょうか?」
思ってもみない有益な提案だ。習一は食い気味に「どうやるんだ?」とたずねた。
「シズカさんにその方の居場所を探ってもらいます」
「警官の捜査で? それとも白いカラスなんかを使ってか?」
「カラスのほうですね。近隣に住むカミジョウさんを一通り調べるくらいのことはできるかと」
「近場、か……」
「はい、それより広い範囲の調査はむずかしいと思います。できないことはないでしょうが、あまりに時間と労力を費やす依頼になってしまう」
「それならやめとく。どうせ海外を飛びまわってる人だから、会えっこない」
居所がわかったところで、習一の力ではなにもできない。海外旅行をする資金は持ち合わせていないのだ。いまは無理だが、いずれお金を貯めて、露木に捜索の依頼をしたら、本当の父に会えるのかもしれない。シドがもたらした情報は習一にかすかな希望を持たせた。
会話が途切れ、二人は黙々と帰路をたどった。不意に周辺がほの暗くなる。分厚い入道雲が太陽を覆い、鈍色の影を習一たちに落としていた。そのおかげで日差しが遮られる。
「ちょうどいい日除けだな。ま、あんたにゃあってもなくても同じだろうけど」
「必要なら日傘を買いましょうか?」
「んな女みたいなことはやらねえって」
「快適さを求めることに男女の性差は関係しないように思いますが」
「周りがどう思うかを言ってるんだ。そもそも持ち歩くのがめんどうだし」
「では帽子はどうでしょう。鍔の広いものは頭の周辺に日陰をつくれますし、通気性のよいものは被っていても熱がこもらないそうですよ──」
たわいない会話が展開する。習一は雑談をたのしむつもりはさらさらないのだが、無理やり話を打ち切りはしなかった。この会話はシドが習一をおもんばかっていることの表れだ。習一が暑さにうだっていようとなかろうと彼には関係がないのに、自分のことのようにあれこれ対策を考える。まるで子の体調を気遣う親のようだ。これがきっと、習一に欠けていたものだ。母からは受け取れていたが、その対に相当するものはいまになってようやく、他人から享受している。その他人が異種族であることはなにかの皮肉のようにも思えるが、習一は気に留めなかった。たとえシドが化け物であろうと、その心根が情け深い事実は変えようがない。
太陽の下にあった雲が風で流れていき、また直射日光が地を照らす。肌を焼く暑さが再来してきた。習一が帰路を急ごうとすると、後方にいた保護者が並行する。
「私が貴方を抱えていけば、すぐにアパートに着きますよ」
習一は昨夜に体験したことを思い出す。実体を無くした状態のシドは家屋を軽々と跳びこしていた。そのとき彼に抱えられていた習一も、常人には見えない特殊な状態にあったという。
「昨日の夜にやったやつか?」
「はい。私たちが消え去る瞬間を他人に見られない状況なら、できます」
「アパートに到着したときにだれかいたら?」
「部屋のベランダで降りるので、平気かと」
「昨日は暗かったからそこでもよかっただろうさ。明るいいまだと、だれかに気付かれるんじゃないか?」
「でしたら部屋で実体化しましょう。普通の家屋はすり抜けられます」
「なんで昨日はそうしなかった?」
「土足で床を汚したくありません」
綺麗好きな者らしい忌避理由だ。習一はなかばあきれながらも、
「だったら玄関で降りてくれ」
と言うと、シドの提案を飲んだことが言外に伝わる。シドがその場にしゃがんだ。習一はまわりにだれも自分たちに注目する者がいないのを確認したのち、彼の背におぶさった。
習一は自身の右腕をシドの胸元にまわし、自分の右手首を左手でつかむ。簡単に落ちない姿勢になった直後、シドは移動をはじめた。
習一の腕は大部分が露出しており、シドの灰がかった黒シャツをじかに接触した。彼のシャツは太陽光による熱を吸収している。習一が触れた直後は暑さが倍加したような熱気を感じたが、習一はその熱を嫌悪しなかった。
(ちょっと、たのしい)
自分の体をうごかさなくとも景色が移り変わる、という体験は、慣れぬうちは新鮮なものだ。おまけにこの状態のシドは常人が通らない、道なき道を行く。平生歩かない塀の上などを跳びまわるので、同行者である習一も、身軽な猫や猿に変じた気分になれる。これがなかなかおもしろかった。しかしその無邪気な本音は他人に明かせない。
習一は奇異な移動をたのしむ以外に、べつの意義も感じ取っていた。そちらも他言できない感情である。その情は先の実家での話中に発露したので、隠しとおせてはいないのだが。
(そこに食いつかれるとは思わなかったな)
それは習一がはぐらかしてしまった話題だ。シドは「興味深い」と言って習一の真意をたしかめようとしたが、習一が羞恥するあまり、彼の好奇は満たされなかった。習一が気にするのと同様、シドもまた琴線に触れる言葉だったのだろうか。それをたしかめるには習一が恥を忍ばねばならず、そのような問いかけは容易にできない。
(聞くときは……学校がはじまってからがいいな)
二人が四六時中ともに過ごす現状、気まずいことが起きると尾を引きずりやすい。両者が日常生活に忙しくする時期がねらい目だと思い、この場は沈黙に徹した。
太陽は燦々と地上を照りつけている。人外と化した状態の習一たちはその日射を無効化していた。そのことに習一が気付いたのは、シドの部屋の玄関が見えたころだった。習一がシドに担がれる目的とは、暑い外にいる時間を短縮するためにあった。いそいで帰らなくともよかったという発見と、疑似親に甘えうる時間の短さを惜しむ気持ちがこみ上げる。だが眼前の鉄扉にぶつかる恐怖がそれらの意識を上回った。習一は目をつむる。数秒が経ってもなんの衝撃も異音も起きなかった。ただシドの「着きましたよ」の一言が聞こえる。習一がおそるおそる視界を開けると、アパートの玄関内にいた。
「さ、降りてもらいますよ」
うながしにしたがい、習一はせまい玄関に降り立った。家主が一足先に靴をぬぎ、廊下に立つ。
「今日は部屋でのんびりすごす予定でしたね。どうかゆっくり休んでください」
シドは笑顔で習一に休息をすすめた。そのやさしさに呑まれそうになるのを、習一はこらえる。
「いや、休むのはあとだ。転校とか、住む部屋とか、バイトとか、いま決められることはあるんじゃないのか?」
「貴方はせっかちですね」
シドは顔色を変えずに言う。
「今日は日曜日ですよ。どこもそういった申請を受け付けていません」
「じゃあ明日になったらやるのか?」
「はい、私がすべて付き合います。ですから、いまは休んでおいてください。明日からまた忙しくなりますよ」
いまの習一ができることは休養をとること。その主張を完全に支持するほど習一はお人好しではない。だが習一の今後の生活を取り決める保護者がそう言う以上、習一にできることは思いつかない。この場はシドを尊重して、習一は彼の部屋へ進み入った。
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