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2018年11月01日
拓馬篇後記−15
二度目の体験会がはじまった。参加する客層には新顔もいたが、多くは前回の顔ぶれと同じようだと拓馬は感じた。二度の参加を果たす彼らはおそらく入門を決めかねている。この体験会が入門の可否の決め手になる。道場側の者としてはここで客たちに好印象を与えるべきなのだが、あいにく今回の体験会で行なうことは前回と同じ。目立った変化は指導員がひとり増えたことだけだ。これではあまり効果的な勧誘は見込めない。しかし参加する子どもの保護者のうち、婦人方の目つきは多少ちがっていた。彼女らの視線はあらたな男性指導員によくあつまる。やはり見目麗しい異性に関心を寄せてしまうようだ。
(母親がトシさん目当てに子どもを入門させるって線も……)
不謹慎だがありえそうな事態だ。稔次は思いがけず女性客の心をつかんでいる。その彼に一目会いたいがために、子を道場にかよわせる母があらわれるかもしれなかった。
稔次のほうはというと、彼は女性からの注目には無関心だ。もっぱら小さな子どもに視線を落としている。その目は慈愛がこもっていて、拓馬たちに見せた表情とは異なる情が感じられた。
(子ども、好きなのかな……)
稔次は三十代以上の男性だ。これだけの容姿だと女性のほうが彼を放っておかない。そのうえ性格は社交的。彼と懇意になりたがる女性は過去にもいただろう。彼に結婚歴があって、子どもをもっていたとしてもおどろくことではない。
(子どもがいるか、なんて聞いていいのかどうか)
自分の兄弟のことを言いたがらない人だ。妻子の有無もさぐられたくはない個人情報かもしれない。そう考えた拓馬は稔次への疑念を押しとどめながら、指導員の補佐の役目をまっとうした。
体験会の終了間際、大畑は入門書を配布した。前回は希望者にのみ受付で渡していたものだ。今回もそんな受動的な態度でいては客をのがすと思ったのだろうか。拓馬たちも手分けして配った。中には「まえにもらった」と言って断る人がおり、そういった客にはむりに入門書を押し付けなかった。
体験会が閉幕する。客は練習場を出る者とのこる者に二分した。のこった客もまた大きく分けて二種類。入門を申しこもうとする者と、入門にまつわる質問をする者がいた。拓馬はその質疑応答をそばで聞いた。気になっていた夏季日程の担当はやはり稔次。彼に一任すると大畑が宣言する。
「彼の技はワシをしのいでおります。指導するのに不足はありません」
大畑が新人指導員の技芸を称賛した。しかし小さな子を連れた中年女性が意見する。
「それはいいんですけど、教える先生はおひとりなんですか?」
「おもにひとりですが、ときどき師範も参加する予定です。なにか問題が?」
「うちの子、物覚えがわるくって……この子におしえるのにかかりきりになったら、ほかの子にも迷惑をかけるでしょう? もっと先生がいてくだされば安心できるんです」
「ほかの指導員が……いたらいいんですね」
女性に顔を向けていた大畑は突然拓馬を見た。拓馬は体が硬直する。
(ああ、やっぱり……)
体験会の手伝いを承諾する以前からうすうす勘付いていたことだ。しかし快諾する気持ちにはなれなかった。
大畑はじりじりと寄ってきて、拓馬の肩に手をのせる。
「どうだろう、拓馬くん。夏休みの間──」
「俺が指導員をやってて、お客さんが納得すると思います?」
「なにを言う! きみは段位をもっているんだろう?」
拓馬はびっくりした。この情報をみずから大畑に伝えたおぼえはない。空手にまつわることは彼との話題にのぼらせないよう、注意していた。そう配慮したわけは、大畑がめんどくさいことを言い出しそうだと思っていたからだ。現にいま、段位取得を根拠に拓馬の道場の手伝いを継続させようとしている。
「初段は一人前の証拠になる!」
「それ、どこから知ったんです?」
「きみのお友だちが年賀状でおしえてくれたぞ」
大畑に年賀状を出す、拓馬の友人──思い当たるのはひとりだけだ。
「ヤマダが……余計なことを」
「いいじゃないか。めでたい報せはみんなで共有するもんだ」
「はぁ」
「で、どうだ? タダでとは言わないから」
正直拓馬はどうとも言えなかった。めんどうごとが増えるのはイヤだ。かといって夏休みの予定はとくになく、ぼーっとすごすのも時間が惜しい。まだ小遣い稼ぎにいそしんだほうが有益だといえる。
(でも俺が先生役なんて……)
その役割を果たす力量があるのか、不安に思っているのは拓馬自身だった。客がどう思う、というのは言い訳にすぎない。
煮え切らない態度の拓馬に、稔次も近寄ってくる。
「オレもきみがいてくれたら心強いな。この図体だと子どもがこわがるかもしれないし」
稔次の懸念は拓馬の視野を広げた。彼もまた不安をかかえている。その解消には拓馬の助勢が必要、とは真に受けがたいが、心にもないこととは思えなかった。
「あたらしく習いはじめた子が慣れるまで、でもいいからさ」
「それぐらいなら……」
予定にないことを引き受けてしまった。本来なら家族とも相談したうえで決めたかったが、指導員の数を気にする客がこの場にいるために、即断せねばならぬと拓馬は思った。
(やっていくのがムリになってきたら、ぬければいい)
大畑のほうが計画性のないことをポンポン言ってきているのだ。拓馬が指導員をやってみてダメだった、とこれまた行き当たりばったりな事態になっても、大畑は文句を言わないだろう。
拓馬の歯切れわるい了承を聞いた大畑は得意気に「よく言った!」と拓馬の決断を称賛した。待たせていた質問者へ向きなおり、「この子も指導員をやります」と拓馬を紹介する。
「まだ歳は若いですが、小さいときからこの道場で修練にはげんできた子です。実力はワシが保証します!」
「その子、イヤイヤ言ってません?」
「なに、彼が本気でイヤがっておればこの体験会にも参加しませんとも」
この場に拓馬が居ることが拓馬のやる気の証明だ、という論調だ。拓馬は(そうなのか?)と自分で自分の意思に疑問を感じた。わかるようなわからないような理屈だ。拓馬はいまひとつ大畑の言い分に納得しないものの、女性のほうは稔次の愛想笑いにほだされ、質問をおえた。
(母親がトシさん目当てに子どもを入門させるって線も……)
不謹慎だがありえそうな事態だ。稔次は思いがけず女性客の心をつかんでいる。その彼に一目会いたいがために、子を道場にかよわせる母があらわれるかもしれなかった。
稔次のほうはというと、彼は女性からの注目には無関心だ。もっぱら小さな子どもに視線を落としている。その目は慈愛がこもっていて、拓馬たちに見せた表情とは異なる情が感じられた。
(子ども、好きなのかな……)
稔次は三十代以上の男性だ。これだけの容姿だと女性のほうが彼を放っておかない。そのうえ性格は社交的。彼と懇意になりたがる女性は過去にもいただろう。彼に結婚歴があって、子どもをもっていたとしてもおどろくことではない。
(子どもがいるか、なんて聞いていいのかどうか)
自分の兄弟のことを言いたがらない人だ。妻子の有無もさぐられたくはない個人情報かもしれない。そう考えた拓馬は稔次への疑念を押しとどめながら、指導員の補佐の役目をまっとうした。
体験会の終了間際、大畑は入門書を配布した。前回は希望者にのみ受付で渡していたものだ。今回もそんな受動的な態度でいては客をのがすと思ったのだろうか。拓馬たちも手分けして配った。中には「まえにもらった」と言って断る人がおり、そういった客にはむりに入門書を押し付けなかった。
体験会が閉幕する。客は練習場を出る者とのこる者に二分した。のこった客もまた大きく分けて二種類。入門を申しこもうとする者と、入門にまつわる質問をする者がいた。拓馬はその質疑応答をそばで聞いた。気になっていた夏季日程の担当はやはり稔次。彼に一任すると大畑が宣言する。
「彼の技はワシをしのいでおります。指導するのに不足はありません」
大畑が新人指導員の技芸を称賛した。しかし小さな子を連れた中年女性が意見する。
「それはいいんですけど、教える先生はおひとりなんですか?」
「おもにひとりですが、ときどき師範も参加する予定です。なにか問題が?」
「うちの子、物覚えがわるくって……この子におしえるのにかかりきりになったら、ほかの子にも迷惑をかけるでしょう? もっと先生がいてくだされば安心できるんです」
「ほかの指導員が……いたらいいんですね」
女性に顔を向けていた大畑は突然拓馬を見た。拓馬は体が硬直する。
(ああ、やっぱり……)
体験会の手伝いを承諾する以前からうすうす勘付いていたことだ。しかし快諾する気持ちにはなれなかった。
大畑はじりじりと寄ってきて、拓馬の肩に手をのせる。
「どうだろう、拓馬くん。夏休みの間──」
「俺が指導員をやってて、お客さんが納得すると思います?」
「なにを言う! きみは段位をもっているんだろう?」
拓馬はびっくりした。この情報をみずから大畑に伝えたおぼえはない。空手にまつわることは彼との話題にのぼらせないよう、注意していた。そう配慮したわけは、大畑がめんどくさいことを言い出しそうだと思っていたからだ。現にいま、段位取得を根拠に拓馬の道場の手伝いを継続させようとしている。
「初段は一人前の証拠になる!」
「それ、どこから知ったんです?」
「きみのお友だちが年賀状でおしえてくれたぞ」
大畑に年賀状を出す、拓馬の友人──思い当たるのはひとりだけだ。
「ヤマダが……余計なことを」
「いいじゃないか。めでたい報せはみんなで共有するもんだ」
「はぁ」
「で、どうだ? タダでとは言わないから」
正直拓馬はどうとも言えなかった。めんどうごとが増えるのはイヤだ。かといって夏休みの予定はとくになく、ぼーっとすごすのも時間が惜しい。まだ小遣い稼ぎにいそしんだほうが有益だといえる。
(でも俺が先生役なんて……)
その役割を果たす力量があるのか、不安に思っているのは拓馬自身だった。客がどう思う、というのは言い訳にすぎない。
煮え切らない態度の拓馬に、稔次も近寄ってくる。
「オレもきみがいてくれたら心強いな。この図体だと子どもがこわがるかもしれないし」
稔次の懸念は拓馬の視野を広げた。彼もまた不安をかかえている。その解消には拓馬の助勢が必要、とは真に受けがたいが、心にもないこととは思えなかった。
「あたらしく習いはじめた子が慣れるまで、でもいいからさ」
「それぐらいなら……」
予定にないことを引き受けてしまった。本来なら家族とも相談したうえで決めたかったが、指導員の数を気にする客がこの場にいるために、即断せねばならぬと拓馬は思った。
(やっていくのがムリになってきたら、ぬければいい)
大畑のほうが計画性のないことをポンポン言ってきているのだ。拓馬が指導員をやってみてダメだった、とこれまた行き当たりばったりな事態になっても、大畑は文句を言わないだろう。
拓馬の歯切れわるい了承を聞いた大畑は得意気に「よく言った!」と拓馬の決断を称賛した。待たせていた質問者へ向きなおり、「この子も指導員をやります」と拓馬を紹介する。
「まだ歳は若いですが、小さいときからこの道場で修練にはげんできた子です。実力はワシが保証します!」
「その子、イヤイヤ言ってません?」
「なに、彼が本気でイヤがっておればこの体験会にも参加しませんとも」
この場に拓馬が居ることが拓馬のやる気の証明だ、という論調だ。拓馬は(そうなのか?)と自分で自分の意思に疑問を感じた。わかるようなわからないような理屈だ。拓馬はいまひとつ大畑の言い分に納得しないものの、女性のほうは稔次の愛想笑いにほだされ、質問をおえた。
タグ:拓馬
2018年11月03日
拓馬篇後記−16
体験会に参加した客は全員帰途についた。練習場には道場関係者がのこる。彼らは輪になって、新規の指導員について議題にする。
「あの状況じゃ拓馬くんがことわれません」
とは神南の言葉だ。彼女は大畑が土壇場で拓馬を指導員に仕立てたことをやり玉に挙げる。
「お客さんには『人手を増やしたいと思っています』と答えるぐらいじゃ、ダメだったんですか」
普段は控えめな神南がめずらしくキツいことを言っている。大畑に言動の反省をうながしているのだ。責められた大畑は「言われればたしかに」と萎縮する。
「あそこで急に決めなくてもよかったな……」
「ひとりでも多くの門下生がほしいのはわかります。でも子どもに気を遣わせるなんて、いい大人のすることじゃありません」
「むう、スマンな、拓馬くん……」
大畑がうなだれながら謝った。拓馬は謝罪を要求するほどのことではないと思っていたので、この対応にはあわてる。
「いや、どうせ予定はないし……トシさんが俺の手を借りたいっていうなら、貸していいなって」
「おお、トシを気に入ってくれたか!」
落ち込んでいた中年が一気に元通りになった。その変貌に拓馬は面食らう。
「あ……べつに気に入るってわけじゃ……」
「照れんでもいい! ワシもトシは好きだ」
「え」
「家族として好きという意味だ。誤解はせんでくれ。きみはどうもワシをカンちがいしとるようだからな」
拓馬が大畑に男色のケがあるとうたがっている。そのことがバレた。それをどう言い繕おうかと拓馬がまごまごすると、大畑の父である師範は「どうだかの」とうたがいのまなざしを子に向ける。
「トシに会えたその晩に、トシにくっついて寝たのはだれだ?」
「妻もいっしょだからいいでしょう!」
「よそさまの夫はな、川の字になって寝るのは妻と子どもとだけだ。この夏場の暑苦しいときに男同士でひっつき合うのはどうかしとる」
「長年積もった情があふれ出ておるのです!」
大畑は稔次と肩を組もうと手をのばした。しかし稔次がひらりと身をかわす。
「オレもーヤダよ」
「なんと! このファミリー愛をこばむというのか!」
「くっつかれるなら女の人がいいって」
「そんなスケコマシにそだてたおぼえはないぞ!」
「普通の男ならだれだってそうだよ」
ねー、と稔次が拓馬に同意を求める。拓馬は家族間の言い争いに加わりたくなかったので、無言でうなずいた。同時に大畑の発言を考察する。
(師範代がトシさんをそだてたって言ってるから……二人はちっちゃいときから一緒だったみたいだな)
稔次が身よりのない親戚の子どもだったのか、あるいは大畑とは兄弟なのか。その二つが可能性として浮上した。大畑の名が豊一で長男らしいのと、稔次の名が次男らしいのをふまえると、兄弟の線が濃厚だ。
(でも弟を親戚だなんて言うかな)
稔次が大畑家と直接の関わりがあると周囲に知れてはこまる──そんな事情が両者の間にあるのかもしれない。そう思った頃合いに、大畑が質問の好機となるセリフを言う。
「──これまでにいろいろあったが、これからのトシには人生をたのしんでほしいと思っておる」
「いろいろって?」
拓馬はその質問をするのが当然のようにたずねた。過去を隠したがる彼らが直接答えを教えるはずもないが、想像の種くらいは言ってくれるのではないかと思った。大畑は稔次の顔色をうかがう。稔次は気まずそうだ。
「それを知りたくば……」
大畑は満面の笑みを拓馬に見せる。
「ワシと家族になるかい?」
「なんで?」
「家族のヒミツを知りたいんだろう? ではきみにも家族になってもらわんとな!」
「どうやって?」
「ワシの息子に──」
拓馬はとっさに首を横にふる。いくら大畑が娘ばかりの家庭状況とはいえ「養子に入れ」とは急な話だと思ったためだ。
「ヤですよ、養子なんて」
「養子か。そういうことにもなるか」
「ちがうんですか?」
「婿に入れば同じことだな!」
拓馬は呆気にとられた。大畑の娘は年長の者でも小学生。とても恋愛対象には見れない相手だ。神南がおずおずと「まだ言うのは早いんじゃ」と大畑を制止する。
「二人ともまだ子どもです。そんなこと言っても反発されるだけですよ」
「そうは思っていたが、やはり言っておかないと心配だ。噂によれば拓馬くんには美人の女友達ができたそうじゃないか。その子にとられてからではおそい!」
近ごろ拓馬の友人になった女子というと、拓馬の思い当たる人物がいた。しかし彼女と特別親しくはないし、相手の気難しい性格上、大畑の心配はいきすぎだと感じる。
「その子とはそんな関係になれっこないです」
「転ばぬ先の杖だ! さあどうだ、うちの娘と許婚(いいなずけ)に」
「ムリです。歳が離れすぎです」
「うちの妻とワシもそれぐらい離れているぞ」
「そりゃ師範代みたいに三十路で結婚するんだったら気にならないでしょうけど……」
現実味の感じられない申し出だ。拓馬はどうにかこの場を乗り切ろうと話題を変える。
「もういいです。とっとと後片付けを──」
「いいよ、教えてあげる」
稔次が二人の会話に割って入る。表情はやわらかいが、心から笑ってはいない。
「教えるのと婿養子に入るのはべつの話だ。安心していい」
「あ、はい……」
「ぜんぶを言えるわけじゃないけど……それで我慢してくれ」
思いがけず重いトーンのやり取りがはじまることになった。大畑は師範と神南を見遣る。
「……拓馬くんとトシに練習場の掃除をまかせる。ワシらはほかの片付けをしよう」
大畑が厄介払いをした。三人がこの場を出ていく。しかし練習場を担当する拓馬たちも一度出なくては掃除ができない。謎多き男性と分担する掃除箇所を決め、そののちに掃除道具を取りに向かった。
「あの状況じゃ拓馬くんがことわれません」
とは神南の言葉だ。彼女は大畑が土壇場で拓馬を指導員に仕立てたことをやり玉に挙げる。
「お客さんには『人手を増やしたいと思っています』と答えるぐらいじゃ、ダメだったんですか」
普段は控えめな神南がめずらしくキツいことを言っている。大畑に言動の反省をうながしているのだ。責められた大畑は「言われればたしかに」と萎縮する。
「あそこで急に決めなくてもよかったな……」
「ひとりでも多くの門下生がほしいのはわかります。でも子どもに気を遣わせるなんて、いい大人のすることじゃありません」
「むう、スマンな、拓馬くん……」
大畑がうなだれながら謝った。拓馬は謝罪を要求するほどのことではないと思っていたので、この対応にはあわてる。
「いや、どうせ予定はないし……トシさんが俺の手を借りたいっていうなら、貸していいなって」
「おお、トシを気に入ってくれたか!」
落ち込んでいた中年が一気に元通りになった。その変貌に拓馬は面食らう。
「あ……べつに気に入るってわけじゃ……」
「照れんでもいい! ワシもトシは好きだ」
「え」
「家族として好きという意味だ。誤解はせんでくれ。きみはどうもワシをカンちがいしとるようだからな」
拓馬が大畑に男色のケがあるとうたがっている。そのことがバレた。それをどう言い繕おうかと拓馬がまごまごすると、大畑の父である師範は「どうだかの」とうたがいのまなざしを子に向ける。
「トシに会えたその晩に、トシにくっついて寝たのはだれだ?」
「妻もいっしょだからいいでしょう!」
「よそさまの夫はな、川の字になって寝るのは妻と子どもとだけだ。この夏場の暑苦しいときに男同士でひっつき合うのはどうかしとる」
「長年積もった情があふれ出ておるのです!」
大畑は稔次と肩を組もうと手をのばした。しかし稔次がひらりと身をかわす。
「オレもーヤダよ」
「なんと! このファミリー愛をこばむというのか!」
「くっつかれるなら女の人がいいって」
「そんなスケコマシにそだてたおぼえはないぞ!」
「普通の男ならだれだってそうだよ」
ねー、と稔次が拓馬に同意を求める。拓馬は家族間の言い争いに加わりたくなかったので、無言でうなずいた。同時に大畑の発言を考察する。
(師範代がトシさんをそだてたって言ってるから……二人はちっちゃいときから一緒だったみたいだな)
稔次が身よりのない親戚の子どもだったのか、あるいは大畑とは兄弟なのか。その二つが可能性として浮上した。大畑の名が豊一で長男らしいのと、稔次の名が次男らしいのをふまえると、兄弟の線が濃厚だ。
(でも弟を親戚だなんて言うかな)
稔次が大畑家と直接の関わりがあると周囲に知れてはこまる──そんな事情が両者の間にあるのかもしれない。そう思った頃合いに、大畑が質問の好機となるセリフを言う。
「──これまでにいろいろあったが、これからのトシには人生をたのしんでほしいと思っておる」
「いろいろって?」
拓馬はその質問をするのが当然のようにたずねた。過去を隠したがる彼らが直接答えを教えるはずもないが、想像の種くらいは言ってくれるのではないかと思った。大畑は稔次の顔色をうかがう。稔次は気まずそうだ。
「それを知りたくば……」
大畑は満面の笑みを拓馬に見せる。
「ワシと家族になるかい?」
「なんで?」
「家族のヒミツを知りたいんだろう? ではきみにも家族になってもらわんとな!」
「どうやって?」
「ワシの息子に──」
拓馬はとっさに首を横にふる。いくら大畑が娘ばかりの家庭状況とはいえ「養子に入れ」とは急な話だと思ったためだ。
「ヤですよ、養子なんて」
「養子か。そういうことにもなるか」
「ちがうんですか?」
「婿に入れば同じことだな!」
拓馬は呆気にとられた。大畑の娘は年長の者でも小学生。とても恋愛対象には見れない相手だ。神南がおずおずと「まだ言うのは早いんじゃ」と大畑を制止する。
「二人ともまだ子どもです。そんなこと言っても反発されるだけですよ」
「そうは思っていたが、やはり言っておかないと心配だ。噂によれば拓馬くんには美人の女友達ができたそうじゃないか。その子にとられてからではおそい!」
近ごろ拓馬の友人になった女子というと、拓馬の思い当たる人物がいた。しかし彼女と特別親しくはないし、相手の気難しい性格上、大畑の心配はいきすぎだと感じる。
「その子とはそんな関係になれっこないです」
「転ばぬ先の杖だ! さあどうだ、うちの娘と許婚(いいなずけ)に」
「ムリです。歳が離れすぎです」
「うちの妻とワシもそれぐらい離れているぞ」
「そりゃ師範代みたいに三十路で結婚するんだったら気にならないでしょうけど……」
現実味の感じられない申し出だ。拓馬はどうにかこの場を乗り切ろうと話題を変える。
「もういいです。とっとと後片付けを──」
「いいよ、教えてあげる」
稔次が二人の会話に割って入る。表情はやわらかいが、心から笑ってはいない。
「教えるのと婿養子に入るのはべつの話だ。安心していい」
「あ、はい……」
「ぜんぶを言えるわけじゃないけど……それで我慢してくれ」
思いがけず重いトーンのやり取りがはじまることになった。大畑は師範と神南を見遣る。
「……拓馬くんとトシに練習場の掃除をまかせる。ワシらはほかの片付けをしよう」
大畑が厄介払いをした。三人がこの場を出ていく。しかし練習場を担当する拓馬たちも一度出なくては掃除ができない。謎多き男性と分担する掃除箇所を決め、そののちに掃除道具を取りに向かった。
タグ:拓馬
2018年11月06日
拓馬篇後記−17
「さあて、オレのなにに興味があるのかな」
稔次は雑巾による床掃除の開始と同時にしゃべった。拓馬は今日使用したミットの拭き掃除に取りかかっている。二人の視線が合うことはなく、ただ声だけで意志疎通する。
「なにから……トシさんからまだ隠されてないことを聞きましょうか」
「ああ、それがいいと思うんならね」
解答者は腰をすえて拭き掃除をおこなっている。
「たぶんどんな質問も、はっきりした返事はできないよ」
「答えられなくてもいいんです」
拓馬が思いついた質問は、稔次とその家族を特定しない漠然とした内容だ。
「……トシさんって、子どもいます?」
稔次は顔を上げる。拓馬がどんな思いでその問いをしたのか、推しはかっているようだ。
「なんでそんなことが気になる?」
「トシさんが体験会にきた子どもを見てるとき、なんだか、お父さんみたいな顔をしてると思ったんです」
「へえ、きみは感受性が豊かなんだね〜」
稔次は顔を伏せ、掃除を再開した。拓馬はこの問いが茶化されたように感じる。
(あんまりいい質問じゃなかったかな……)
もとより完全な返答を期待してはいない。拓馬は次なる疑問をたずねようかと意識を切り替えた。だが稔次は「合ってるよ」と前問の解答をしてくる。
「オレには、子どもがいたんだ」
彼は掃除を続けている。声の調子はいくぶん暗い。
「もう大きくなってる。いま見てもだれだかわからないくらいに……」
「ずいぶん会ってないんですか?」
「そうだよ。離婚して、それからは会ってない」
その説明は事実のみを述べていた。子と離れて暮らす彼個人の意思は伝わらない。
「会いたいっておも──」
「会っちゃいけないと思ってるんだ」
強い語調だった。そこに稔次の願望とは相反する決意がある。
「オレがふがいないばっかりに、妻をつらい目に遭わせた。だから、二人にはオレぬきで幸せになってほしい」
この希望はもっともらしい。過去のいまわしい記憶を封印しつづけることが妻子の幸福になる。そんな家庭もあるのだろうと拓馬は思った。しかし身近な友人のことを考えると、同意しかねた。拓馬が連想した友は二人。ひとりは母親が復縁した椙守、もうひとりは父親のいない男友達だ。
「ほんとうに、奥さんたちはトシさんがいないほうが幸せになれるんですか?」
だれにも正解のわからないことを拓馬は口走った。言われたほうは不快になるだろうと思ったが、稔次は平然と作業を続けている。
「子どもにはよくわからないだろうさ」
「子どもだから知ってることはありますよ」
「どんなことを?」
「俺の友だちに、両親が離婚した子が二人います。ひとりは母親が復縁して、実の父親の家にもどってこれた子です」
「その子は父親と仲がいいのかな?」
「ぜんぜん。好きじゃないみたいです。家の仕事を無理やり手伝わされるし、好きなことをあんまりさせてもらえないから」
「じゃあ父親はいないほうがいいんじゃないか」
稔次がからかうように軽い調子で言った。いまの説明で話がおわりなら、彼の意見は正しい。拓馬は首を横にふる。
「だけど『親が再婚しなかったらよかった』なんて一度も言ったことがないんです」
「お父さんがキライなのに?」
「父親と仲良くはないけど、体の強くない母親が無理してはたらいていたときとくらべたら、いまがいいってことらしいです」
椙守母子の過去を拓馬はすべて知っているわけではない。ただ一度、椙守が「母さんには父さんが必要なんだ」と父親を評価したことがあった。それきり椙守は拓馬の前では父親をほめないが、たった一回の賛辞もまた彼の本心だと拓馬は感じていた。
「その子は、お母さんのための再婚、と割り切ってるのか」
「そうだと思います。そいつ、頭がいいから、物事のメリットとデメリットをちゃんと考えられるんです」
「ざんねんだけどオレには当てはまらなさそうだな。オレはむしろ妻側に負担をかけてしまうほうだ」
稔次は就労しづらい事情を抱えているという。それゆえ金銭面での再婚のメリットは見いだせない。拓馬はこちらの事例が蛇足だったと反省した。
「もうひとりの子の話は?」
稔次が拓馬の話題に食いついている。子ども目線の話にまだ興味をもってくれているとわかり、拓馬はもうひとりの友人のことを思い出す。その人物はジモンという、大柄で筋肉質な男子だ。
「もうひとりは、父親がいません。ちっちゃいときに母親と離婚したそうで、父親がどんな人だったか、ほとんどおぼえていないらしいです」
「その子は父親に会いたがってる?」
「そう、だと思います。いつも明るい性格で、しめっぽい話はしたがらないけど……父親にちかづきたい、とは言ってました。だから剣道部に入るんだって」
ジモンは体格的に徒手の武道を習ったほうが有利そうな男子だ。しかし彼はあえて剣の道を選んだ。その動機は彼の母親から聞いた、父親の像を追いかけるためだという。
「俺はその子のことをジモンってよぶんですけどね。ジモンの父親は、歳が若くても剣術が上手だったっていうんです。そのことを母親から聞かされたジモンは『漫画によくある主人公みたいだ』と冗談かましてたけど、父親が剣の達人だってことを信じてる。剣の道をすすんでいけば、いつか父親のことがもっとわかるかもしれないって……思ってるんでしょうね」
闊達(かったつ)なジモンからは想像しにくい経緯だ。しかしそれが拓馬が見聞きしたジモンとその父親の情報。父を慕う父なき子の実例を根拠に、拓馬はさらに言う。
「もしトシさんの子どもも、親に会いたい子だったら、やっぱり一回は会ったほうがいいんじゃないかと思うんです」
「『会わなきゃよかった』と幻滅するかもしれないよ?」
「俺はそう思えません」
「おや、今日会ったばかりだっていうのに、ずいぶんオレを信じてくれるね」
「そうですよ。俺はトシさんをいい人だと思ってる」
稔次の私生活がどんなのであれ、彼の外面(そとづら)はよい。それは拓馬だけでなく、おそらく体験会に参加した客たちも感じていることだ。
「裏でどんなことをしてきたのか知らないけど、俺はそう思った。これは、お子さんに一回会うくらいじゃボロが出ない証拠になるんじゃないですか」
「うまいこと言うね〜」
稔次は拓馬の主張をほめてきたが、本気かどうかは拓馬にはわからなかった。彼の飄々とした態度は、なにかを隠そうとする気持ちのあらわれだろう。その反応にしても、過去に妻にトラウマを植えつける真似をした人物だとはにわかに信じられない。そのトラウマがなにか、が拓馬は気になり出す。
「奥さんになにをした、ってことは聞けないですよね?」
「ああ、言えない。それを言うと師範代たちにも迷惑がかかりそうでね」
親類にまで被害がおよぶこと。それは稔次が風聞のよくないことを過去にしでかした、ということが該当すると拓馬は考えた。それゆえ大畑一家との関係性を不透明にしているのかもしれない。
(わるいこと……犯罪? それで長いこと警察から逃げ回ったとか……)
あるいは収監されていたのか。いずれにせよ、稔次が仕事に就労しづらいとの事情には合致する。
「もしかして、そのせいで仕事に就きにくくなったんですか?」
「よく当ててくるね。きみって探偵になれるんじゃないか?」
「それはないです。俺の知ってる人のほうがカンがいいんで」
拓馬の脳裏には幼馴染のヤマダと知人のシズカがうかんだ。この二人の察しのよさは自身をしのぐ、と拓馬は評価していた。
「まわりにいる人がスゴイのか。それできみはちっともエラぶらないんだな」
「俺のことはいいです。まだ質問してもいいですか」
「うーん、今度はオレがきみに聞いてもいいかな」
「なんです?」
「そのジモンって子は……オレの子だと思う?」
意外にも彼は父不明の男子に関心があった。拓馬はあくまで例え話としてジモンの身の上を話しただけなので、稔次の発想は予想外だ。
「え……顔がぜんぜん似てないし……」
ジモンはブサイクではないが美形では決してない。その造形は稔次とちがいすぎた。そもそもジモンの父は剣術の達人。空手家である稔次とは持ちうる武芸の腕が異なる。
「トシさんは剣道をやってたんですか?」
「いや、剣道はやってこなかったなぁ」
「じゃあちがうんじゃ」
「まぁそうか。ごめん、つまんないこと聞いたね」
室内の半分あたりまで清掃した稔次はバケツに雑巾を入れた。バケツの水で雑巾を洗い、絞る。
「んー、水を換えようかな……どう? まだ話し足りないことはある?」
稔次はこれで込み入った話を終えようとしている。拓馬もあらかた聞けることは聞いた手応えがあり、最後に言うことはないかと絞り出す。
「えっと……ひとつだけ確認していいですか」
「いいよ」
「俺としゃべってて……家族に会わない宣言は、どうなりました?」
稔次はバケツの取っ手を握った。バケツを持つ彼がにっと笑う。
「いま気持ちがぐらついてる」
「じゃあ……」
「前向きに検討しようかな」
そう言って稔次は練習場を出た。心なしか声色はうれしそうだった。やはり自分の子どもに会ってもよいのだと言われて、彼の気が楽になる部分があったようだ。
(いいこと言えた……のかな)
事情を知らぬ部外者が好き勝手にアドバイスをして、当事者にどれだけの得になるだろうか。それでも彼に抜け落ちていた視点を伝えるのは拓馬のすべきことだと思った。
(ジモンは……本当の父さんに会えたら、すごくよろこぶんだろうな)
小事にこだわらない友のことだ。どんなに悪辣な過去がある人物だろうと、現在改心していれば普通に接するはず。
(そういう子もいるんだから……一方的に子どもと会わないほうがいいと決めつけるの、ちがうと思う)
父不在の子どもの思いは拓馬が代弁した。これで稔次の意向が変わらなかったとしても、悔いはのこらない。それが彼なりの家族への愛し方だというのなら、門外漢が口出しできる余地はなかった。
拓馬は五つのミットを拭きおえた。実はとうに終了していい出来だったが、意識は掃除以外のことに重点を置いていたために、長く時間をかけた。
(俺はべつの掃除をしようか……)
拓馬も掃除道具をもって、練習場を出た。その後に稔次と会っても彼の家族の話題はなく、事務連絡的な会話と雑談で締めくくられた。
稔次は雑巾による床掃除の開始と同時にしゃべった。拓馬は今日使用したミットの拭き掃除に取りかかっている。二人の視線が合うことはなく、ただ声だけで意志疎通する。
「なにから……トシさんからまだ隠されてないことを聞きましょうか」
「ああ、それがいいと思うんならね」
解答者は腰をすえて拭き掃除をおこなっている。
「たぶんどんな質問も、はっきりした返事はできないよ」
「答えられなくてもいいんです」
拓馬が思いついた質問は、稔次とその家族を特定しない漠然とした内容だ。
「……トシさんって、子どもいます?」
稔次は顔を上げる。拓馬がどんな思いでその問いをしたのか、推しはかっているようだ。
「なんでそんなことが気になる?」
「トシさんが体験会にきた子どもを見てるとき、なんだか、お父さんみたいな顔をしてると思ったんです」
「へえ、きみは感受性が豊かなんだね〜」
稔次は顔を伏せ、掃除を再開した。拓馬はこの問いが茶化されたように感じる。
(あんまりいい質問じゃなかったかな……)
もとより完全な返答を期待してはいない。拓馬は次なる疑問をたずねようかと意識を切り替えた。だが稔次は「合ってるよ」と前問の解答をしてくる。
「オレには、子どもがいたんだ」
彼は掃除を続けている。声の調子はいくぶん暗い。
「もう大きくなってる。いま見てもだれだかわからないくらいに……」
「ずいぶん会ってないんですか?」
「そうだよ。離婚して、それからは会ってない」
その説明は事実のみを述べていた。子と離れて暮らす彼個人の意思は伝わらない。
「会いたいっておも──」
「会っちゃいけないと思ってるんだ」
強い語調だった。そこに稔次の願望とは相反する決意がある。
「オレがふがいないばっかりに、妻をつらい目に遭わせた。だから、二人にはオレぬきで幸せになってほしい」
この希望はもっともらしい。過去のいまわしい記憶を封印しつづけることが妻子の幸福になる。そんな家庭もあるのだろうと拓馬は思った。しかし身近な友人のことを考えると、同意しかねた。拓馬が連想した友は二人。ひとりは母親が復縁した椙守、もうひとりは父親のいない男友達だ。
「ほんとうに、奥さんたちはトシさんがいないほうが幸せになれるんですか?」
だれにも正解のわからないことを拓馬は口走った。言われたほうは不快になるだろうと思ったが、稔次は平然と作業を続けている。
「子どもにはよくわからないだろうさ」
「子どもだから知ってることはありますよ」
「どんなことを?」
「俺の友だちに、両親が離婚した子が二人います。ひとりは母親が復縁して、実の父親の家にもどってこれた子です」
「その子は父親と仲がいいのかな?」
「ぜんぜん。好きじゃないみたいです。家の仕事を無理やり手伝わされるし、好きなことをあんまりさせてもらえないから」
「じゃあ父親はいないほうがいいんじゃないか」
稔次がからかうように軽い調子で言った。いまの説明で話がおわりなら、彼の意見は正しい。拓馬は首を横にふる。
「だけど『親が再婚しなかったらよかった』なんて一度も言ったことがないんです」
「お父さんがキライなのに?」
「父親と仲良くはないけど、体の強くない母親が無理してはたらいていたときとくらべたら、いまがいいってことらしいです」
椙守母子の過去を拓馬はすべて知っているわけではない。ただ一度、椙守が「母さんには父さんが必要なんだ」と父親を評価したことがあった。それきり椙守は拓馬の前では父親をほめないが、たった一回の賛辞もまた彼の本心だと拓馬は感じていた。
「その子は、お母さんのための再婚、と割り切ってるのか」
「そうだと思います。そいつ、頭がいいから、物事のメリットとデメリットをちゃんと考えられるんです」
「ざんねんだけどオレには当てはまらなさそうだな。オレはむしろ妻側に負担をかけてしまうほうだ」
稔次は就労しづらい事情を抱えているという。それゆえ金銭面での再婚のメリットは見いだせない。拓馬はこちらの事例が蛇足だったと反省した。
「もうひとりの子の話は?」
稔次が拓馬の話題に食いついている。子ども目線の話にまだ興味をもってくれているとわかり、拓馬はもうひとりの友人のことを思い出す。その人物はジモンという、大柄で筋肉質な男子だ。
「もうひとりは、父親がいません。ちっちゃいときに母親と離婚したそうで、父親がどんな人だったか、ほとんどおぼえていないらしいです」
「その子は父親に会いたがってる?」
「そう、だと思います。いつも明るい性格で、しめっぽい話はしたがらないけど……父親にちかづきたい、とは言ってました。だから剣道部に入るんだって」
ジモンは体格的に徒手の武道を習ったほうが有利そうな男子だ。しかし彼はあえて剣の道を選んだ。その動機は彼の母親から聞いた、父親の像を追いかけるためだという。
「俺はその子のことをジモンってよぶんですけどね。ジモンの父親は、歳が若くても剣術が上手だったっていうんです。そのことを母親から聞かされたジモンは『漫画によくある主人公みたいだ』と冗談かましてたけど、父親が剣の達人だってことを信じてる。剣の道をすすんでいけば、いつか父親のことがもっとわかるかもしれないって……思ってるんでしょうね」
闊達(かったつ)なジモンからは想像しにくい経緯だ。しかしそれが拓馬が見聞きしたジモンとその父親の情報。父を慕う父なき子の実例を根拠に、拓馬はさらに言う。
「もしトシさんの子どもも、親に会いたい子だったら、やっぱり一回は会ったほうがいいんじゃないかと思うんです」
「『会わなきゃよかった』と幻滅するかもしれないよ?」
「俺はそう思えません」
「おや、今日会ったばかりだっていうのに、ずいぶんオレを信じてくれるね」
「そうですよ。俺はトシさんをいい人だと思ってる」
稔次の私生活がどんなのであれ、彼の外面(そとづら)はよい。それは拓馬だけでなく、おそらく体験会に参加した客たちも感じていることだ。
「裏でどんなことをしてきたのか知らないけど、俺はそう思った。これは、お子さんに一回会うくらいじゃボロが出ない証拠になるんじゃないですか」
「うまいこと言うね〜」
稔次は拓馬の主張をほめてきたが、本気かどうかは拓馬にはわからなかった。彼の飄々とした態度は、なにかを隠そうとする気持ちのあらわれだろう。その反応にしても、過去に妻にトラウマを植えつける真似をした人物だとはにわかに信じられない。そのトラウマがなにか、が拓馬は気になり出す。
「奥さんになにをした、ってことは聞けないですよね?」
「ああ、言えない。それを言うと師範代たちにも迷惑がかかりそうでね」
親類にまで被害がおよぶこと。それは稔次が風聞のよくないことを過去にしでかした、ということが該当すると拓馬は考えた。それゆえ大畑一家との関係性を不透明にしているのかもしれない。
(わるいこと……犯罪? それで長いこと警察から逃げ回ったとか……)
あるいは収監されていたのか。いずれにせよ、稔次が仕事に就労しづらいとの事情には合致する。
「もしかして、そのせいで仕事に就きにくくなったんですか?」
「よく当ててくるね。きみって探偵になれるんじゃないか?」
「それはないです。俺の知ってる人のほうがカンがいいんで」
拓馬の脳裏には幼馴染のヤマダと知人のシズカがうかんだ。この二人の察しのよさは自身をしのぐ、と拓馬は評価していた。
「まわりにいる人がスゴイのか。それできみはちっともエラぶらないんだな」
「俺のことはいいです。まだ質問してもいいですか」
「うーん、今度はオレがきみに聞いてもいいかな」
「なんです?」
「そのジモンって子は……オレの子だと思う?」
意外にも彼は父不明の男子に関心があった。拓馬はあくまで例え話としてジモンの身の上を話しただけなので、稔次の発想は予想外だ。
「え……顔がぜんぜん似てないし……」
ジモンはブサイクではないが美形では決してない。その造形は稔次とちがいすぎた。そもそもジモンの父は剣術の達人。空手家である稔次とは持ちうる武芸の腕が異なる。
「トシさんは剣道をやってたんですか?」
「いや、剣道はやってこなかったなぁ」
「じゃあちがうんじゃ」
「まぁそうか。ごめん、つまんないこと聞いたね」
室内の半分あたりまで清掃した稔次はバケツに雑巾を入れた。バケツの水で雑巾を洗い、絞る。
「んー、水を換えようかな……どう? まだ話し足りないことはある?」
稔次はこれで込み入った話を終えようとしている。拓馬もあらかた聞けることは聞いた手応えがあり、最後に言うことはないかと絞り出す。
「えっと……ひとつだけ確認していいですか」
「いいよ」
「俺としゃべってて……家族に会わない宣言は、どうなりました?」
稔次はバケツの取っ手を握った。バケツを持つ彼がにっと笑う。
「いま気持ちがぐらついてる」
「じゃあ……」
「前向きに検討しようかな」
そう言って稔次は練習場を出た。心なしか声色はうれしそうだった。やはり自分の子どもに会ってもよいのだと言われて、彼の気が楽になる部分があったようだ。
(いいこと言えた……のかな)
事情を知らぬ部外者が好き勝手にアドバイスをして、当事者にどれだけの得になるだろうか。それでも彼に抜け落ちていた視点を伝えるのは拓馬のすべきことだと思った。
(ジモンは……本当の父さんに会えたら、すごくよろこぶんだろうな)
小事にこだわらない友のことだ。どんなに悪辣な過去がある人物だろうと、現在改心していれば普通に接するはず。
(そういう子もいるんだから……一方的に子どもと会わないほうがいいと決めつけるの、ちがうと思う)
父不在の子どもの思いは拓馬が代弁した。これで稔次の意向が変わらなかったとしても、悔いはのこらない。それが彼なりの家族への愛し方だというのなら、門外漢が口出しできる余地はなかった。
拓馬は五つのミットを拭きおえた。実はとうに終了していい出来だったが、意識は掃除以外のことに重点を置いていたために、長く時間をかけた。
(俺はべつの掃除をしようか……)
拓馬も掃除道具をもって、練習場を出た。その後に稔次と会っても彼の家族の話題はなく、事務連絡的な会話と雑談で締めくくられた。
タグ:拓馬
2018年11月10日
拓馬篇後記−18
体験会を終えたあとの次の道場開放日。練習開始時刻がせまる午後に、拓馬は道着を片手にして道場へやってきた。今日は夏季日程の開始日ではない。指導員の研修を受けるため、通常の練習風景を見学する。拓馬が参加する予定の練習時間にあらわれる門下生は皆、拓馬の年下だ。それゆえ拓馬が新規の入門者だとまちがわれるおそれはない。
(俺がかよってたときと練習内容は変わってんのかな……)
具体的な指導要領はまだ聞かされていなかった。変更があったとしても細々(こまごま)とした部分のみであろうことは先日の体験会を見てもわかる。あまり気負いせずに入館した。
道場は人の気配がうすかった。拓馬は更衣室へ向かう。男子更衣室に入ると、室内の背もたれのない長椅子にだれかが座っていた。道着を着た大男の背中が見える。その背中からはみ出る、毛むくじゃらなものに拓馬は注目した。
(なんだ……? 鳥?)
犬猫にはない、猛禽類のような先端の尖ったくちばしが拓馬の目についた。しかしすぐにくちばしは見えなくなる。その生き物が消えたかと思うと、鳥の両翼が広がった。鳥は飛び立ち、更衣室の窓へ突進する。窓にぶつかる瞬間、鳥はすりガラスを抜けた。
(普通の鳥じゃない……)
こういった生き物はめずらしいが、拓馬はよく見聞きしている。それゆえ鳥自体にはあまり動揺しなかった。問題は、その鳥と触れあっていたとおぼしき男性だ。
道着姿の男性は体の向きを変えた。その顔は拓馬と最近関わりをもったばかりの人物だった。彼は笑顔で「拓馬くん?」と話しかけてくる。
「無言で立ってるなんて、ちょっとこわいよ」
「あ、いや……」
「なにかあった?」
拓馬はさきほどの鳥について問おうかやめるか判断しかねた。もし稔次が鳥を視認できる人ではなく、あの鳥がたまたま彼のそばにいただけだとしたら、鳥のことは話すべきでない。拓馬が正直に言うと彼を混乱させることになる。しかし何事もなかったとふるまうには、時すでにおそい。
拓馬は事実をぼやかした表現で伝える。
「ヘンなものが見えた気がしたんです。でももう見えないし、見間違いだったみたいで──」
「見間違いじゃないかもよ?」
稔次が冗談とも真剣ともとれる返答をした。拓馬はどちらの前提で会話を続ければよいのか迷い、言葉につまった。稔次は少々真面目な顔つきになる。
「きみが見た『ヘンなもの』は鳥だった?」
「なんで……」
「オレも向こうに行ったからさ」
向こう、とはこの世界ではない異世界を指すのだと拓馬は察した。その世界へ行ってもどってきた者は、この世界にあらわれる異界の生き物が見えるようになるという。しかし拓馬はここではない世界へ行った経験はない。異形の可視化は生まれついての特徴だ。
(ちょっと勘違いされてるな……)
拓馬が案じたとおり、稔次は「やっぱりなぁ」とうれしそうに言う。
「向こうに行く日本人は、オレらの時代の人が多いみたいだね」
「いや、俺はちがうんです」
「ん? そうなの?」
稔次が目を丸くした。拓馬は自身の特異な性質を明かすことに決める。
「俺はたまたま見える体質なんです。異界には行ってません」
「じゃあどうしてオレが異界に行ったって話が通じるんだ?」
「知り合いが、教えてくれました。その人もさっきの鳥みたいなのをよく呼び寄せるんです」
「その人の名前、聞いてもいい?」
拓馬はするっと答えそうになるのをこらえる。シズカに無断で情報をもらしてはいけないと思い、ふみとどまった。
「それはちょっと……本人に確認しないと」
「秘密主義な人なんだ?」
「その人は慎重なんです。あんまり情報のやり取りをしすぎると、こっちか異界の未来を知ってしまうかもしれないって……」
未来を知ること自体は害悪ではない。既知の未来を改変しようとする者が出現する、その事態が忌むべきことだという。そういった歴史の改竄者があらわれる可能性をおさえるため、異界ではこちらの世界の人同士の安易な情報交換が止められている、とシズカは拓馬にのべていた。シズカはその規則にしたがっている。具体的にどういった情報を伝えてはいけないのかという線引きはシズカが知っているはずだが、拓馬はよくわかっていない。判断しかねることはひとまず彼に聞いてみるべき、と拓馬は考えた。
「へ〜、マジメな人だな。決まりをやぶったってバレっこないのに」
「守らなくてもいいんですか?」
「うーん、気にはするけどね。オレが向こうで会ったときより年齢が若い人には、向こうのことを教えちゃまずいと思う」
「未来を教えてしまうから?」
「そう。なにより、オレのことを知らない状態だろうしな」
「それはたしかに……」
「でもいちおう、拓馬くんの知り合いにオレのことを聞いてみてよ」
稔次は長椅子から立ち上がる。
「もしかしたら友だちかもしれない」
「思い当たる人、います?」
「うん、何人かいる。いまの年齢が向こうで会ったときより上だったら、直接話しても平気だろう」
「ぜんぜん知らない人だったら?」
「オレのことを教えるだけ教えておいて、あとはなにもしない。その人が会いたがったら会おうかな」
「わかりました。そういうふうに伝えます」
稔次が「じゃあよろしく〜」と言って、拓馬とすれちがおうとする。拓馬にはまだ解消されない疑問があったので、引き止める。
「あの、ひとつ聞いていいですか?」
「なに?」
「さっきの鳥はなんでここにいたんですか」
「オレの様子を見にきたんだよ。あの鳥とオレは古い仲間だ」
「トシさんが呼んだわけじゃない?」
「そう、いまはほかの人に使われてる」
「その人はなにが目的で鳥をよぶんです?」
「人を捜してるみたいだよ。人、といっても異界の生き物らしいけど」
異界の生き物の捜索のためにあらわれる、異界の生き物──というと、拓馬には連想する存在があった。その存在も人知れず道場に来ていた。
「もしかして、忍者みたいなやつも──」
「よく知ってるな〜。忍者もお友だちにしてる人が、さっきの鳥を使ってるんだ。知り合い?」
「いや、知らない人ですけど……」
拓馬は謎の人物がシドを悪者だとうたがっていることを思いだした。眉間に力が入る。
「俺としちゃ、その人はうっとうしいな、と思ってるんです」
「そうだよねぇ。オレたちが人外を見たら知らんぷりしなきゃいけないし、神経使うよ」
稔次は拓馬とはべつの観点で不満を挙げる。それもそうなのだが、拓馬の本心はちがった。
「やめるようにたのんでみようか?」
「偵察はべつにいいんです。事を荒立ててほしくないんです」
「荒立てるって、なにを?」
「そいつは俺の身近にいる人……といっても異界からきた人なんだけど、この知り合いをわるいやつだと思ってて、こそこそ調べてるらしいんです」
「拓馬くんの知り合いはわるいことしてたの?」
「むかしはやってたそうですけど、いまはやらないと誓ってる……」
行なってきた悪事とてシドが苦しい思いを我慢してやってきたことだ。それを無神経に蒸し返す輩には好感をもてない。
「もうわるさしないのに、過去のせいでケンカふっかけてこられたら、イヤだ」
「その気持ち、鳥づたいに言っておこうか?」
「いいです、それでトシさんに迷惑かかったらまずいから」
「そう? ま、いまはやめとこう。まだ自分のこともうまくいってないからね〜」
稔次は拓馬にも当てはまる言葉をのこし、更衣室を出ていった。これから拓馬たちは他人様(ひとさま)の子を道場であずかる。その役目に慣れないうちから、他人のことにあれこれと気を揉む余裕は正直ない。
(道場にいる間は道場のことに集中しよう)
目のまえの責務に従事する。拓馬と意外な共通点をもっていた男性とは、あくまで同業の武芸家として接していくことになる。それが守らねばならない表向きの顔だ。稔次もシズカと同じ経験をしてきた者だという驚愕は心の底にしまいこみ、拓馬は着替えをはじめた。
(俺がかよってたときと練習内容は変わってんのかな……)
具体的な指導要領はまだ聞かされていなかった。変更があったとしても細々(こまごま)とした部分のみであろうことは先日の体験会を見てもわかる。あまり気負いせずに入館した。
道場は人の気配がうすかった。拓馬は更衣室へ向かう。男子更衣室に入ると、室内の背もたれのない長椅子にだれかが座っていた。道着を着た大男の背中が見える。その背中からはみ出る、毛むくじゃらなものに拓馬は注目した。
(なんだ……? 鳥?)
犬猫にはない、猛禽類のような先端の尖ったくちばしが拓馬の目についた。しかしすぐにくちばしは見えなくなる。その生き物が消えたかと思うと、鳥の両翼が広がった。鳥は飛び立ち、更衣室の窓へ突進する。窓にぶつかる瞬間、鳥はすりガラスを抜けた。
(普通の鳥じゃない……)
こういった生き物はめずらしいが、拓馬はよく見聞きしている。それゆえ鳥自体にはあまり動揺しなかった。問題は、その鳥と触れあっていたとおぼしき男性だ。
道着姿の男性は体の向きを変えた。その顔は拓馬と最近関わりをもったばかりの人物だった。彼は笑顔で「拓馬くん?」と話しかけてくる。
「無言で立ってるなんて、ちょっとこわいよ」
「あ、いや……」
「なにかあった?」
拓馬はさきほどの鳥について問おうかやめるか判断しかねた。もし稔次が鳥を視認できる人ではなく、あの鳥がたまたま彼のそばにいただけだとしたら、鳥のことは話すべきでない。拓馬が正直に言うと彼を混乱させることになる。しかし何事もなかったとふるまうには、時すでにおそい。
拓馬は事実をぼやかした表現で伝える。
「ヘンなものが見えた気がしたんです。でももう見えないし、見間違いだったみたいで──」
「見間違いじゃないかもよ?」
稔次が冗談とも真剣ともとれる返答をした。拓馬はどちらの前提で会話を続ければよいのか迷い、言葉につまった。稔次は少々真面目な顔つきになる。
「きみが見た『ヘンなもの』は鳥だった?」
「なんで……」
「オレも向こうに行ったからさ」
向こう、とはこの世界ではない異世界を指すのだと拓馬は察した。その世界へ行ってもどってきた者は、この世界にあらわれる異界の生き物が見えるようになるという。しかし拓馬はここではない世界へ行った経験はない。異形の可視化は生まれついての特徴だ。
(ちょっと勘違いされてるな……)
拓馬が案じたとおり、稔次は「やっぱりなぁ」とうれしそうに言う。
「向こうに行く日本人は、オレらの時代の人が多いみたいだね」
「いや、俺はちがうんです」
「ん? そうなの?」
稔次が目を丸くした。拓馬は自身の特異な性質を明かすことに決める。
「俺はたまたま見える体質なんです。異界には行ってません」
「じゃあどうしてオレが異界に行ったって話が通じるんだ?」
「知り合いが、教えてくれました。その人もさっきの鳥みたいなのをよく呼び寄せるんです」
「その人の名前、聞いてもいい?」
拓馬はするっと答えそうになるのをこらえる。シズカに無断で情報をもらしてはいけないと思い、ふみとどまった。
「それはちょっと……本人に確認しないと」
「秘密主義な人なんだ?」
「その人は慎重なんです。あんまり情報のやり取りをしすぎると、こっちか異界の未来を知ってしまうかもしれないって……」
未来を知ること自体は害悪ではない。既知の未来を改変しようとする者が出現する、その事態が忌むべきことだという。そういった歴史の改竄者があらわれる可能性をおさえるため、異界ではこちらの世界の人同士の安易な情報交換が止められている、とシズカは拓馬にのべていた。シズカはその規則にしたがっている。具体的にどういった情報を伝えてはいけないのかという線引きはシズカが知っているはずだが、拓馬はよくわかっていない。判断しかねることはひとまず彼に聞いてみるべき、と拓馬は考えた。
「へ〜、マジメな人だな。決まりをやぶったってバレっこないのに」
「守らなくてもいいんですか?」
「うーん、気にはするけどね。オレが向こうで会ったときより年齢が若い人には、向こうのことを教えちゃまずいと思う」
「未来を教えてしまうから?」
「そう。なにより、オレのことを知らない状態だろうしな」
「それはたしかに……」
「でもいちおう、拓馬くんの知り合いにオレのことを聞いてみてよ」
稔次は長椅子から立ち上がる。
「もしかしたら友だちかもしれない」
「思い当たる人、います?」
「うん、何人かいる。いまの年齢が向こうで会ったときより上だったら、直接話しても平気だろう」
「ぜんぜん知らない人だったら?」
「オレのことを教えるだけ教えておいて、あとはなにもしない。その人が会いたがったら会おうかな」
「わかりました。そういうふうに伝えます」
稔次が「じゃあよろしく〜」と言って、拓馬とすれちがおうとする。拓馬にはまだ解消されない疑問があったので、引き止める。
「あの、ひとつ聞いていいですか?」
「なに?」
「さっきの鳥はなんでここにいたんですか」
「オレの様子を見にきたんだよ。あの鳥とオレは古い仲間だ」
「トシさんが呼んだわけじゃない?」
「そう、いまはほかの人に使われてる」
「その人はなにが目的で鳥をよぶんです?」
「人を捜してるみたいだよ。人、といっても異界の生き物らしいけど」
異界の生き物の捜索のためにあらわれる、異界の生き物──というと、拓馬には連想する存在があった。その存在も人知れず道場に来ていた。
「もしかして、忍者みたいなやつも──」
「よく知ってるな〜。忍者もお友だちにしてる人が、さっきの鳥を使ってるんだ。知り合い?」
「いや、知らない人ですけど……」
拓馬は謎の人物がシドを悪者だとうたがっていることを思いだした。眉間に力が入る。
「俺としちゃ、その人はうっとうしいな、と思ってるんです」
「そうだよねぇ。オレたちが人外を見たら知らんぷりしなきゃいけないし、神経使うよ」
稔次は拓馬とはべつの観点で不満を挙げる。それもそうなのだが、拓馬の本心はちがった。
「やめるようにたのんでみようか?」
「偵察はべつにいいんです。事を荒立ててほしくないんです」
「荒立てるって、なにを?」
「そいつは俺の身近にいる人……といっても異界からきた人なんだけど、この知り合いをわるいやつだと思ってて、こそこそ調べてるらしいんです」
「拓馬くんの知り合いはわるいことしてたの?」
「むかしはやってたそうですけど、いまはやらないと誓ってる……」
行なってきた悪事とてシドが苦しい思いを我慢してやってきたことだ。それを無神経に蒸し返す輩には好感をもてない。
「もうわるさしないのに、過去のせいでケンカふっかけてこられたら、イヤだ」
「その気持ち、鳥づたいに言っておこうか?」
「いいです、それでトシさんに迷惑かかったらまずいから」
「そう? ま、いまはやめとこう。まだ自分のこともうまくいってないからね〜」
稔次は拓馬にも当てはまる言葉をのこし、更衣室を出ていった。これから拓馬たちは他人様(ひとさま)の子を道場であずかる。その役目に慣れないうちから、他人のことにあれこれと気を揉む余裕は正直ない。
(道場にいる間は道場のことに集中しよう)
目のまえの責務に従事する。拓馬と意外な共通点をもっていた男性とは、あくまで同業の武芸家として接していくことになる。それが守らねばならない表向きの顔だ。稔次もシズカと同じ経験をしてきた者だという驚愕は心の底にしまいこみ、拓馬は着替えをはじめた。
タグ:拓馬
2018年11月14日
拓馬篇後記−19
拓馬は道場の研修に参加した。年少の門下生たちは新参者の指導員を興味深そうに見てくる。彼らの視線はどれも歓迎の意がこもっていた。拓馬と背格好の変わらぬ中学生でもそのような反応だ。拓馬は自身の小柄な体型ゆえに、自分と体格がちかいかそれ以上にすぐれる者からあなどられるのではないかと少々危惧していた。そうではなさそうだとわかり、前途が良好だと感じた。
研修にかかった時間は都合三時間ほど。最初の指導対象は未就学児から小学三年生までの部、その次に小学四年生から中学三年生までの部があった。門下生ひとりあたりの練習時間は一時間程度でおわる。拓馬は二部続きでくわわった。練習前後の支度と合間の休憩時間込みで三時間かかる計算だ。拓馬が担当する時間も同じくらいなのだと、同じ研修生の稔次が言った。同時に彼は「今日はすぐに帰らないでね」と拓馬に忠告した。体験会に参加した謝礼を大畑が本日の研修後に渡すという。ここで受け取らねば大畑が根岸宅にやってくる。そのような手間を大畑にとらせる意義はないので、拓馬は素直にしたがった。
道場の練習がおわったころには日が落ちていた。暗がりの中を門下生が帰宅していく。その姿を見送ったあと、拓馬は更衣室へ向かった。着替えをすませたのち、道場に居残る。現在大畑は道場にいない。彼は本日、門下生に指導していたが、いまは一時帰宅している。拓馬のための報酬を取りにもどったのだ。道場内での金銭紛失をおそれて、そのような段取りをとったらしい。
拓馬は道場の玄関で待ちぼうけた。まだ着替えていない稔次がそのとなりに立つ。
「師範代はもうちょっとでくるはずだから」
「はい」
「お金をもらったらなにに使う?」
稔次は無邪気に聞いてきた。拓馬はそれまで思いつきもしなかったことを一考する。
(なにに……なんだろう?)
すぐに出てくる使い道はなかった。そもそも頂戴できる金額がわからない。決まった予算もなしに使用用途を決められるはずもない。
「いくらもらえるのか知らないんで、わからないです」
「うーん、そう? 知らないいまだからこそ、夢をふくらませて答えてくれるかと思ったんだけど」
「夢? ……『宇宙旅行に行きたい』とかですか」
「デッカイ夢だね〜。でも道場の稼ぎじゃあとても行けないね」
拓馬もその経済事情はわかっていた。しかるに、稔次が夏季日程で得られる収入はどうなるのかと拓馬は気になりはじめた。当初の予定では彼ひとりで午前の部を担当するつもりだったのが、拓馬もくわわることになる。当然、儲けは減る。
「あの、俺が指導員をやったらトシさんの稼ぎって──」
「単純計算で半分こになるね」
「それでいいんですか?」
「うん。そのほうが結果的にもうかるんじゃないかな」
「『もうかる』?」
余分な人件費がかさむために利益が下がるのだ。それなのに奇妙な発言だと拓馬は思った。
「もしオレがヘマやって、客をにがしたら、どうなると思う?」
「それは、月謝が入らなくなって……」
「月謝もそうだけど道場の評判だっておちる。それじゃ今後の門下生が増えにくくなるだろ?」
「へる一方、ですか」
「そう。目先のもうけよりもリスクを下げたほうがいいと思うんだ。ここはオレだけの道場じゃないからね」
この道場は子々孫々と受け継がれているそうだ。一度ついた汚名は現在の師範一家がかぶるだけですまず、末裔にも影響をのこすかもしれない。その連綿とつづく歴史に若輩者が参与することで、まことにリスクを下げられるのか疑問である。
「そんな大事なこと……ホントに俺に任せていいんですか?」
「拓馬くんはしっかり者だからヘーキだよ。肩肘はらずに付き合ってくれればいい」
稔次の言葉は拓馬の不安を軽減した。
ガラス戸の向こうから道着姿の人物があらわれる。それを見た稔次は「じゃあ服を着替えてくる」と言って更衣室へ入った。玄関に入ってきた大畑は下足をぬがないまま封筒を差し出してくる。
「これが体験会の駄賃だ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「いちおう、中を確認してほしい」
拓馬はさっそく封筒の中身を拝見した。紙幣数枚が入っている。その総金額は、拓馬が想定した数字の倍に相当する。
(半日を二日間で……?)
時間を合計すれば一日分の給与。最低賃金ではない普通の仕事ではそれが日当の相場だとは聞く。しかし縁故ある個人からの依頼で、しかも職務内容は重要度の低いアシスタント役だ。相場を下回っても致し方ないかと拓馬は思っていた。
「どうだろう?」
「もっと安いかと思ってました」
「そうか、じつは今回は特別だ。約束どおり色をつけさせてもらったからな」
「門下生が予想より増えたら、手当てをつけるってやつですか」
「そうだ。なんと体験会に参加していない人からも申し込みがあってな! 体験会に出た人の口コミでひろまったらしい」
拓馬たちが参加した体験会が好評だった結果なのだろう。その要因はおそらく拓馬よりは稔次にありそうだ。彼の風貌が人々、とくにご婦人方の会話にあがりやすい素材なのだ。
(そのへんは言わなくていいか……)
拓馬が引き起こした成果ではない、と言ったところで、大畑はよろこばない。これが正当な対価だというならそのまま受け取っておくことにした。
「夏休みの指導の報酬はこれより単価が下がるが……わるく思わないでほしい」
「それはわかってます。トシさんの稼ぎを横取りするつもりはありませんから」
「うむ、どうかトシが独り立ちできるまで補佐してくれ。一ヶ月の辛抱だ」
本当に夏休みで契約が切れるのだろうか、と拓馬はひそかに思う。
(最初は二日間だけ、って言われて、次が一ヶ月で……)
体験会、夏季日程と徐々に契約が延長している。夏休みがおわるころには「放課後の夕方も」と大畑が言い出すのではないか。その可能性を感じたが、藪蛇をつつく真似はしたくない。拓馬は大畑に別れのあいさつを交わし、早々に家路についた。
研修にかかった時間は都合三時間ほど。最初の指導対象は未就学児から小学三年生までの部、その次に小学四年生から中学三年生までの部があった。門下生ひとりあたりの練習時間は一時間程度でおわる。拓馬は二部続きでくわわった。練習前後の支度と合間の休憩時間込みで三時間かかる計算だ。拓馬が担当する時間も同じくらいなのだと、同じ研修生の稔次が言った。同時に彼は「今日はすぐに帰らないでね」と拓馬に忠告した。体験会に参加した謝礼を大畑が本日の研修後に渡すという。ここで受け取らねば大畑が根岸宅にやってくる。そのような手間を大畑にとらせる意義はないので、拓馬は素直にしたがった。
道場の練習がおわったころには日が落ちていた。暗がりの中を門下生が帰宅していく。その姿を見送ったあと、拓馬は更衣室へ向かった。着替えをすませたのち、道場に居残る。現在大畑は道場にいない。彼は本日、門下生に指導していたが、いまは一時帰宅している。拓馬のための報酬を取りにもどったのだ。道場内での金銭紛失をおそれて、そのような段取りをとったらしい。
拓馬は道場の玄関で待ちぼうけた。まだ着替えていない稔次がそのとなりに立つ。
「師範代はもうちょっとでくるはずだから」
「はい」
「お金をもらったらなにに使う?」
稔次は無邪気に聞いてきた。拓馬はそれまで思いつきもしなかったことを一考する。
(なにに……なんだろう?)
すぐに出てくる使い道はなかった。そもそも頂戴できる金額がわからない。決まった予算もなしに使用用途を決められるはずもない。
「いくらもらえるのか知らないんで、わからないです」
「うーん、そう? 知らないいまだからこそ、夢をふくらませて答えてくれるかと思ったんだけど」
「夢? ……『宇宙旅行に行きたい』とかですか」
「デッカイ夢だね〜。でも道場の稼ぎじゃあとても行けないね」
拓馬もその経済事情はわかっていた。しかるに、稔次が夏季日程で得られる収入はどうなるのかと拓馬は気になりはじめた。当初の予定では彼ひとりで午前の部を担当するつもりだったのが、拓馬もくわわることになる。当然、儲けは減る。
「あの、俺が指導員をやったらトシさんの稼ぎって──」
「単純計算で半分こになるね」
「それでいいんですか?」
「うん。そのほうが結果的にもうかるんじゃないかな」
「『もうかる』?」
余分な人件費がかさむために利益が下がるのだ。それなのに奇妙な発言だと拓馬は思った。
「もしオレがヘマやって、客をにがしたら、どうなると思う?」
「それは、月謝が入らなくなって……」
「月謝もそうだけど道場の評判だっておちる。それじゃ今後の門下生が増えにくくなるだろ?」
「へる一方、ですか」
「そう。目先のもうけよりもリスクを下げたほうがいいと思うんだ。ここはオレだけの道場じゃないからね」
この道場は子々孫々と受け継がれているそうだ。一度ついた汚名は現在の師範一家がかぶるだけですまず、末裔にも影響をのこすかもしれない。その連綿とつづく歴史に若輩者が参与することで、まことにリスクを下げられるのか疑問である。
「そんな大事なこと……ホントに俺に任せていいんですか?」
「拓馬くんはしっかり者だからヘーキだよ。肩肘はらずに付き合ってくれればいい」
稔次の言葉は拓馬の不安を軽減した。
ガラス戸の向こうから道着姿の人物があらわれる。それを見た稔次は「じゃあ服を着替えてくる」と言って更衣室へ入った。玄関に入ってきた大畑は下足をぬがないまま封筒を差し出してくる。
「これが体験会の駄賃だ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「いちおう、中を確認してほしい」
拓馬はさっそく封筒の中身を拝見した。紙幣数枚が入っている。その総金額は、拓馬が想定した数字の倍に相当する。
(半日を二日間で……?)
時間を合計すれば一日分の給与。最低賃金ではない普通の仕事ではそれが日当の相場だとは聞く。しかし縁故ある個人からの依頼で、しかも職務内容は重要度の低いアシスタント役だ。相場を下回っても致し方ないかと拓馬は思っていた。
「どうだろう?」
「もっと安いかと思ってました」
「そうか、じつは今回は特別だ。約束どおり色をつけさせてもらったからな」
「門下生が予想より増えたら、手当てをつけるってやつですか」
「そうだ。なんと体験会に参加していない人からも申し込みがあってな! 体験会に出た人の口コミでひろまったらしい」
拓馬たちが参加した体験会が好評だった結果なのだろう。その要因はおそらく拓馬よりは稔次にありそうだ。彼の風貌が人々、とくにご婦人方の会話にあがりやすい素材なのだ。
(そのへんは言わなくていいか……)
拓馬が引き起こした成果ではない、と言ったところで、大畑はよろこばない。これが正当な対価だというならそのまま受け取っておくことにした。
「夏休みの指導の報酬はこれより単価が下がるが……わるく思わないでほしい」
「それはわかってます。トシさんの稼ぎを横取りするつもりはありませんから」
「うむ、どうかトシが独り立ちできるまで補佐してくれ。一ヶ月の辛抱だ」
本当に夏休みで契約が切れるのだろうか、と拓馬はひそかに思う。
(最初は二日間だけ、って言われて、次が一ヶ月で……)
体験会、夏季日程と徐々に契約が延長している。夏休みがおわるころには「放課後の夕方も」と大畑が言い出すのではないか。その可能性を感じたが、藪蛇をつつく真似はしたくない。拓馬は大畑に別れのあいさつを交わし、早々に家路についた。
タグ:拓馬
2018年11月16日
拓馬篇後記−20
拓馬は帰宅後、すぐに自室へ行った。大畑からもらった紙幣入りの封筒を机の引き出しにしまう。こういった大事な紙類は不用意に放置しないことに決めている。居間などの家族の目につくところに置いておくと、飼い犬か姉が手をつけかねない。自衛のため、大切に保管した。
自室にきたついでに電子機器を操作する。シズカに話がしたい旨をメールで伝えた。今回の用件は稔次のことだ。シズカの知人かもしれない人を見つけた、といまのうちに知らせておき、シズカの都合のよいタイミングで通話する。あとはシズカの反応待ちだ。
次に拓馬は使用した道着を洗いにかかる。洗濯機の洗濯完了には二、三十分かかるので、その待機時間は居間ですごす。居間では母がくつろいでいた。この場にいない姉は入浴中で、父は犬の散歩に出かけたという。
拓馬は母にすすめられて、自分の分の夕食をとる。このように自分の夕食時間がおくれる状況は最近なかった。
(小学生のころ……こんなふうに食ってたな)
かつての門下生時代、幼年の部から少年の部へ移行したときのことを拓馬は思い出した。少年の部は今日と同じ時間帯の開催だ。当時の夕飯も道場の練習がおわったあとに食べていた。学校でとる昼食と自宅での夕食まで時間がかなり空くので、練習前には軽食をとったおぼえもある。つまり一日四食とっていた。拓馬なりに体によいものを選んで摂取したのだが、あまり成長は促進されなかった。
(けっこう食ってて、この身長なんだもんな)
拓馬の両親は体格に恵まれていない。やはり遺伝は努力ではいかんともしがたいのだ。小学生当時はまだその真実に気付かず、未来に希望を持っていた。
(もう伸びないよな、高二にもなりゃ……)
どこぞの噂では高校入学後に急成長した男子がいたという。その人は丈が合わなくなった制服を着続け、卒業していったとか。拓馬はそれと似た事象が自身にも起こりうるかもしれないという淡い期待を抱いていた。今年の身体計測の結果を見て、ようやくあきらめがついてきた。
(一七〇センチはほしかった……)
と、自身の成長具合に不満をもらすのは拓馬だけではない。ヤマダもまた「一六〇センチ台にいきたかった」とぼやいたことがある。そう言う彼女の身長は日本人女性の平均値と似たりよったり。低身長だと気にするほどではないと拓馬は思っている。
(一七〇あったって、もうちょっと背がほしいって思うんだろうな)
平均値に達している友人がそうなのだから、自身も例外ではないと感じた。人間の欲は深い──そんな哲学めいたことを思いふけっているうちに父が散歩からもどってきた。居間に父と犬が入ってくる。リードを外された白黒の犬は真っ先に拓馬のもとへやってきた。食卓の椅子にすわる拓馬の足に体をこすりつけ、尻尾をぱたつかせている。
(俺に会うだけでこんなによろこんで……)
犬はひとしきり歓迎の行動を行なった。最終的に拓馬の足にもたれかかって、横になる。飼い犬は拓馬のコンプレックスをまったく気にしていない。拓馬の背が伸びようがちぢもうが、動物には関係のないことだ。
(トーマはもっと大きくなりたい、なんて思うことがあるのかな)
この飼い犬は中型犬サイズ。どうにか室内で飼える大きさだ。これより大きいと日々の世話が大変になってしまう。人間の都合を考慮すると、いまのサイズがちょうどよい。
(トーマに足りてないところはないな)
この犬は名目上雑種だがなかなか優秀だ。同じ犬の中では充分に身体能力が高く、愛嬌者で、知性がある。血統書付きであれば上流階級の家庭に愛育されるのに申し分ない。また、作業犬としてもやっていけそうな能力を持っている。しかし平凡な家庭で飼われていてはそのすぐれた能力をぞんぶんに活かせず、その愛らしさに見合う待遇を満足に受けられない。この日常を物足りなく感じているのではないか、と案ずることが拓馬にはときどきあった。それでも根岸一家が目にするトーマは毎日をたのしそうにすごしている。
(毎日が、しあわせか……)
トーマは現在与えられている以上のものをのぞんでいるようには見えない。ただ人間が餌を用意して、寝床をきれいに掃除して、共に散歩しに出かけて、ときどき遊びに付き合いさえすれば、きっと満足なのだ。日々に充足感を持ちえている飼い犬を見ていると、拓馬は自分の悩みが取るに足らぬことだと思えてきた。
(俺も、見習おう)
洗濯機のアラーム音が鳴る。かの機械が仕事をしおえた合図だ。拓馬は空になった食器を流し台に置いた。そのほかにも道着を干す、入浴するといった所用をすませる。その間にシズカからの連絡が届いていた。彼は今夜、拓馬と話せるという。
(よし、部屋に行こう)
拓馬はさっそく自室にこもった。冷房をつけた室内で、パソコンを起動させる。シズカとの会話を他者に聞かれないよう、ヘッドホンの準備をした。そうしてすでに拓馬を待っていたシズカとの通信をはじめた。
自室にきたついでに電子機器を操作する。シズカに話がしたい旨をメールで伝えた。今回の用件は稔次のことだ。シズカの知人かもしれない人を見つけた、といまのうちに知らせておき、シズカの都合のよいタイミングで通話する。あとはシズカの反応待ちだ。
次に拓馬は使用した道着を洗いにかかる。洗濯機の洗濯完了には二、三十分かかるので、その待機時間は居間ですごす。居間では母がくつろいでいた。この場にいない姉は入浴中で、父は犬の散歩に出かけたという。
拓馬は母にすすめられて、自分の分の夕食をとる。このように自分の夕食時間がおくれる状況は最近なかった。
(小学生のころ……こんなふうに食ってたな)
かつての門下生時代、幼年の部から少年の部へ移行したときのことを拓馬は思い出した。少年の部は今日と同じ時間帯の開催だ。当時の夕飯も道場の練習がおわったあとに食べていた。学校でとる昼食と自宅での夕食まで時間がかなり空くので、練習前には軽食をとったおぼえもある。つまり一日四食とっていた。拓馬なりに体によいものを選んで摂取したのだが、あまり成長は促進されなかった。
(けっこう食ってて、この身長なんだもんな)
拓馬の両親は体格に恵まれていない。やはり遺伝は努力ではいかんともしがたいのだ。小学生当時はまだその真実に気付かず、未来に希望を持っていた。
(もう伸びないよな、高二にもなりゃ……)
どこぞの噂では高校入学後に急成長した男子がいたという。その人は丈が合わなくなった制服を着続け、卒業していったとか。拓馬はそれと似た事象が自身にも起こりうるかもしれないという淡い期待を抱いていた。今年の身体計測の結果を見て、ようやくあきらめがついてきた。
(一七〇センチはほしかった……)
と、自身の成長具合に不満をもらすのは拓馬だけではない。ヤマダもまた「一六〇センチ台にいきたかった」とぼやいたことがある。そう言う彼女の身長は日本人女性の平均値と似たりよったり。低身長だと気にするほどではないと拓馬は思っている。
(一七〇あったって、もうちょっと背がほしいって思うんだろうな)
平均値に達している友人がそうなのだから、自身も例外ではないと感じた。人間の欲は深い──そんな哲学めいたことを思いふけっているうちに父が散歩からもどってきた。居間に父と犬が入ってくる。リードを外された白黒の犬は真っ先に拓馬のもとへやってきた。食卓の椅子にすわる拓馬の足に体をこすりつけ、尻尾をぱたつかせている。
(俺に会うだけでこんなによろこんで……)
犬はひとしきり歓迎の行動を行なった。最終的に拓馬の足にもたれかかって、横になる。飼い犬は拓馬のコンプレックスをまったく気にしていない。拓馬の背が伸びようがちぢもうが、動物には関係のないことだ。
(トーマはもっと大きくなりたい、なんて思うことがあるのかな)
この飼い犬は中型犬サイズ。どうにか室内で飼える大きさだ。これより大きいと日々の世話が大変になってしまう。人間の都合を考慮すると、いまのサイズがちょうどよい。
(トーマに足りてないところはないな)
この犬は名目上雑種だがなかなか優秀だ。同じ犬の中では充分に身体能力が高く、愛嬌者で、知性がある。血統書付きであれば上流階級の家庭に愛育されるのに申し分ない。また、作業犬としてもやっていけそうな能力を持っている。しかし平凡な家庭で飼われていてはそのすぐれた能力をぞんぶんに活かせず、その愛らしさに見合う待遇を満足に受けられない。この日常を物足りなく感じているのではないか、と案ずることが拓馬にはときどきあった。それでも根岸一家が目にするトーマは毎日をたのしそうにすごしている。
(毎日が、しあわせか……)
トーマは現在与えられている以上のものをのぞんでいるようには見えない。ただ人間が餌を用意して、寝床をきれいに掃除して、共に散歩しに出かけて、ときどき遊びに付き合いさえすれば、きっと満足なのだ。日々に充足感を持ちえている飼い犬を見ていると、拓馬は自分の悩みが取るに足らぬことだと思えてきた。
(俺も、見習おう)
洗濯機のアラーム音が鳴る。かの機械が仕事をしおえた合図だ。拓馬は空になった食器を流し台に置いた。そのほかにも道着を干す、入浴するといった所用をすませる。その間にシズカからの連絡が届いていた。彼は今夜、拓馬と話せるという。
(よし、部屋に行こう)
拓馬はさっそく自室にこもった。冷房をつけた室内で、パソコンを起動させる。シズカとの会話を他者に聞かれないよう、ヘッドホンの準備をした。そうしてすでに拓馬を待っていたシズカとの通信をはじめた。
タグ:拓馬
2018年11月18日
拓馬篇後記−21
拓馬は年長の知人との音声通話を開始した。決まりきった挨拶ののち、シズカがすぐに本題に入る。
『えーっと、異界絡みの人のことをおれに確認してほしいんだったね?』
「はい。トシツグっていう男性、知ってますか?」
『うん、その名前の人には向こうで会ったことがあるね』
稔次とシズカが顔見知りである可能性が浮上した。拓馬は俄然二人の関係性が気になりだす。
「シズカさんが知ってるトシツグって人は、何歳くらいの人だったんです?」
『おれがはじめて会ったときは……ギリギリ十代だったっけな』
十代──シズカもその年代で異界へ迷いこんだという。そして現在のシズカは二十代半ば。両者の実年齢には十歳ばかしの開きがあることになる。
『あのときはおれのすこし年上のお兄さんって感じだったんだが……きみが見た人はどうだった?』
「歳は聞いていませんけど、三十代くらいに見えました」
『うん、そうか』
シズカはごく普通に相槌を打った。シズカが会ったトシツグは十代の若者で、拓馬が会った稔次は三十代の壮年。この世界の常識で考えると、両者はまったくの別人である。しかしシズカはそのように判断していない。この問答はあくまで異界の出来事を過去のものとして語れるかどうかを知る年齢確認だ。拓馬はいまひとつ完全に理解することはできないが、異世界は実世界と時間の感覚が異なるもの、とぼんやり認識している。
「年齢だけじゃ、同じ人かどうか特定できませんよね?」
『そうだね。見た目の特徴を教えてくれるかい?』
「体が大きかったです。一九〇センチあるかも」
『顔はけっこうな男前?』
「はい、カッコイイですね」
『性格はどう?』
「俺に気さくに話しかけてくれて、感じのいい人だと思いました」
『そうか……』
シズカは歓喜とも悲嘆とも知れないため息を吐く。その反応に拓馬は不安をおぼえる。
「トシさんとは知り合い……で合ってますか?」
『うん、きっと同じ人だ。実家が空手の道場を経営してると言っていたし』
「え? 実家?」
シズカが発した情報は拓馬の前提になかった。シズカは拓馬の反応におどろいて『ちがった?』と質問してくる。
『拓馬くんが言ってる人は、空手家なんだろ?』
「そうなんですけど……」
大畑の道場が稔次の実家のものである、とくれば、稔次は大畑一家の親戚ではなく、直近の家族ということになる。年齢的には四十代である大畑の兄弟が妥当だ。稔次が大畑姓だという告白と、彼が大畑の母親に顔が似ている事実とも合致する。拓馬はようやく稔次が大畑の弟なのだと確証をつかんだ。そういった家族構成を稔次が隠匿していることを、シズカは知らない。
「あの道場の経営者とトシさんの関係って、はっきりしてなくて」
『ありゃ、トシが隠してることをバラしちゃったな』
シズカは情報漏えいをしたらしい。しかし拓馬もうすうす勘付いていた事実だ。そのことをなぐさめがわりに告げる。
「気にしなくていいです。トシさんは師範代の弟なんだろうな、と俺は思ってたんで」
『んー、そうか。きみの察しがよくて助かったよ』
「それも向こうの規則に関係あるんですか?」
『いや、これはちがうね。トシの……というか、おれの気持ちの問題だ。彼が家族のことを隠したがる理由があるだろうから』
「はい、なんでも『師範代たちに迷惑をかけたくない』とか」
拓馬はその発言に納得しがたい部分があった。あのような偉丈夫が身内にいて、なんの迷惑がかかるというのか。むしろ自慢の対象になりうるのではないか──表面上のことだけを見ると、そんな発想に至ってしまう。ところがシズカはそのような疑問を口にせず『訳ありみたいだね』と瞬時に稔次の背景に理解を示す。
『それで……トシはおれの正体を知って、なにがしたいって?』
「もし会う気があるなら会いたい、みたいなことを言ってました」
『男二人で顔見せ、か……』
シズカは稔次の要求を飲むかどうか考えている。その決定を急ぐ必要はないので、拓馬は目下の行動案を提示する。
「どうします? とりあえずトシさんには、俺の知り合いがシズカさんだと伝えましょうか」
『そうだね……拓馬くんのほうからおれのことをトシに伝えてくれれば、あとはおれたちでなんとかするよ』
「あとは二人で話す……んですか」
拓馬は彼らの異界事情があまり聞けずにおわるのを残念に感じた。するとシズカは『トシのことを聞きたい?』とたずねてくる。拓馬は一も二もなく「はい」と答えた。
『そうだなぁ……おれが勝手に教えてもトシが嫌がりそうにないこと……』
「なにかあります?」
『そうだ、ついでだからシド先生と関係のあることを教えておこう』
「先生とトシさんが、どう……」
『二人の武芸の師匠は同じ男なんだ。トシはもともと格闘家だったけれど、その男にしごかれて、剣術も得意になったそうだ』
「へー、剣術も得意……」
拓馬はその説明に引っ掛かりをおぼえた。だが次なるシズカの説明のインパクトが強かったために、違和感が押し流される。
『でもトシから見たら師匠っていう大層なもんじゃないだろうな。悪友がピッタリだよ』
「その『悪友』って、わるいことを一緒にする友だち、のことですか?」
『うん、その意味だ』
「トシさんはわるい人には見えないけど……」
だが稔次は過去、他者に口外できぬことをしでかしたという。若いころと現在の稔次は人格が変わっているのかもしれず、拓馬は稔次の悪行が明かされるのを覚悟した。
『二人ともちょいちょい女の人をひっかけてて、まあ気が合ってたね』
「え、女好き?」
想定を下回る平和的な悪癖だと拓馬は思った。拍子抜けした拓馬に対し『そうだよ』とシズカがあっけらかんと答える。
『とはいってもトシの女癖は師匠ほどわるくなかったね。だいたい師匠が女性に声かけて、そのお伴にトシがついてくって感じだったかな』
「その師匠がかなりの女好きなんですね……」
『そういうこと。今日のところはこんなもんでいいかな?』
「あ、はい。もういい時間だし……」
拓馬は眠気を感じていた。夜更ししていると言えるほど夜おそい時間帯ではないものの、体に疲労をおぼえている。その原因は、今日の研修にあると思った。日常と変わった体験をしてきて、気が張っていたからだと自己判断する。そのことをシズカに言うと『大人の階段のぼってきてるね』と言われた。これまで拓馬がバイトらしいことをしてこなかったのをシズカは知っており、その変化についての感想が「大人にちかづく」なのだろう。だが拓馬は道場の手伝いを正規の就労とは見做せていない。このバイトは習い事の延長上にあることだと思っている。それゆえシズカの言葉をやんわり否定する。
「あんまり仕事してるとは思えてないですけど……」
『今日は仕事の内容を教わってきたところだもんね。きっとこれからだよ、労働者の自覚が芽生えるのは』
シズカは『おやすみー』と言い、拓馬との通信をおえた。拓馬はさっそく就寝支度をする。照明を落とした自室で、ベッドに横たわる。目を閉じて、シズカとの会話を振り返る。
(シズカさんがトシさんと会ったとき……トシさんは十代だった)
拓馬の聞くところ、シズカも十代後半で異形との関わりを持った。二人はそのときに見知った仲なのだろう。
(ほんのちょっと歳がちがってた人が、こっちの世界じゃ一回りもちがう……)
二つの世界を行き来する者にとって、その差はあって当たり前のことのようだ。中にはこちらの世界ではとっくに死没した人が、異界で元気にすごすこともあると言う。この世界の生死の感覚が異界では通用しないのだ。
(ややこしい話だよなぁ……)
現地に行ったことのない拓馬には実感しがたい知識だ。しかし今日、二人の異界放浪経験者に出会え、その一端を知ることができた。貴重な体験だ。
(ほかにも、どんな人が向こうに行ってるんだろ)
まだ会ったことはなくとも、その存在は聞いた者がいる。それは現在シドのことを探っているという人物だ。拓馬はその人のことをシズカに聞きわすれてしまった。また次の機会にたずねよう、とおぼろげに考えながら、拓馬の意識が混濁していった。
『えーっと、異界絡みの人のことをおれに確認してほしいんだったね?』
「はい。トシツグっていう男性、知ってますか?」
『うん、その名前の人には向こうで会ったことがあるね』
稔次とシズカが顔見知りである可能性が浮上した。拓馬は俄然二人の関係性が気になりだす。
「シズカさんが知ってるトシツグって人は、何歳くらいの人だったんです?」
『おれがはじめて会ったときは……ギリギリ十代だったっけな』
十代──シズカもその年代で異界へ迷いこんだという。そして現在のシズカは二十代半ば。両者の実年齢には十歳ばかしの開きがあることになる。
『あのときはおれのすこし年上のお兄さんって感じだったんだが……きみが見た人はどうだった?』
「歳は聞いていませんけど、三十代くらいに見えました」
『うん、そうか』
シズカはごく普通に相槌を打った。シズカが会ったトシツグは十代の若者で、拓馬が会った稔次は三十代の壮年。この世界の常識で考えると、両者はまったくの別人である。しかしシズカはそのように判断していない。この問答はあくまで異界の出来事を過去のものとして語れるかどうかを知る年齢確認だ。拓馬はいまひとつ完全に理解することはできないが、異世界は実世界と時間の感覚が異なるもの、とぼんやり認識している。
「年齢だけじゃ、同じ人かどうか特定できませんよね?」
『そうだね。見た目の特徴を教えてくれるかい?』
「体が大きかったです。一九〇センチあるかも」
『顔はけっこうな男前?』
「はい、カッコイイですね」
『性格はどう?』
「俺に気さくに話しかけてくれて、感じのいい人だと思いました」
『そうか……』
シズカは歓喜とも悲嘆とも知れないため息を吐く。その反応に拓馬は不安をおぼえる。
「トシさんとは知り合い……で合ってますか?」
『うん、きっと同じ人だ。実家が空手の道場を経営してると言っていたし』
「え? 実家?」
シズカが発した情報は拓馬の前提になかった。シズカは拓馬の反応におどろいて『ちがった?』と質問してくる。
『拓馬くんが言ってる人は、空手家なんだろ?』
「そうなんですけど……」
大畑の道場が稔次の実家のものである、とくれば、稔次は大畑一家の親戚ではなく、直近の家族ということになる。年齢的には四十代である大畑の兄弟が妥当だ。稔次が大畑姓だという告白と、彼が大畑の母親に顔が似ている事実とも合致する。拓馬はようやく稔次が大畑の弟なのだと確証をつかんだ。そういった家族構成を稔次が隠匿していることを、シズカは知らない。
「あの道場の経営者とトシさんの関係って、はっきりしてなくて」
『ありゃ、トシが隠してることをバラしちゃったな』
シズカは情報漏えいをしたらしい。しかし拓馬もうすうす勘付いていた事実だ。そのことをなぐさめがわりに告げる。
「気にしなくていいです。トシさんは師範代の弟なんだろうな、と俺は思ってたんで」
『んー、そうか。きみの察しがよくて助かったよ』
「それも向こうの規則に関係あるんですか?」
『いや、これはちがうね。トシの……というか、おれの気持ちの問題だ。彼が家族のことを隠したがる理由があるだろうから』
「はい、なんでも『師範代たちに迷惑をかけたくない』とか」
拓馬はその発言に納得しがたい部分があった。あのような偉丈夫が身内にいて、なんの迷惑がかかるというのか。むしろ自慢の対象になりうるのではないか──表面上のことだけを見ると、そんな発想に至ってしまう。ところがシズカはそのような疑問を口にせず『訳ありみたいだね』と瞬時に稔次の背景に理解を示す。
『それで……トシはおれの正体を知って、なにがしたいって?』
「もし会う気があるなら会いたい、みたいなことを言ってました」
『男二人で顔見せ、か……』
シズカは稔次の要求を飲むかどうか考えている。その決定を急ぐ必要はないので、拓馬は目下の行動案を提示する。
「どうします? とりあえずトシさんには、俺の知り合いがシズカさんだと伝えましょうか」
『そうだね……拓馬くんのほうからおれのことをトシに伝えてくれれば、あとはおれたちでなんとかするよ』
「あとは二人で話す……んですか」
拓馬は彼らの異界事情があまり聞けずにおわるのを残念に感じた。するとシズカは『トシのことを聞きたい?』とたずねてくる。拓馬は一も二もなく「はい」と答えた。
『そうだなぁ……おれが勝手に教えてもトシが嫌がりそうにないこと……』
「なにかあります?」
『そうだ、ついでだからシド先生と関係のあることを教えておこう』
「先生とトシさんが、どう……」
『二人の武芸の師匠は同じ男なんだ。トシはもともと格闘家だったけれど、その男にしごかれて、剣術も得意になったそうだ』
「へー、剣術も得意……」
拓馬はその説明に引っ掛かりをおぼえた。だが次なるシズカの説明のインパクトが強かったために、違和感が押し流される。
『でもトシから見たら師匠っていう大層なもんじゃないだろうな。悪友がピッタリだよ』
「その『悪友』って、わるいことを一緒にする友だち、のことですか?」
『うん、その意味だ』
「トシさんはわるい人には見えないけど……」
だが稔次は過去、他者に口外できぬことをしでかしたという。若いころと現在の稔次は人格が変わっているのかもしれず、拓馬は稔次の悪行が明かされるのを覚悟した。
『二人ともちょいちょい女の人をひっかけてて、まあ気が合ってたね』
「え、女好き?」
想定を下回る平和的な悪癖だと拓馬は思った。拍子抜けした拓馬に対し『そうだよ』とシズカがあっけらかんと答える。
『とはいってもトシの女癖は師匠ほどわるくなかったね。だいたい師匠が女性に声かけて、そのお伴にトシがついてくって感じだったかな』
「その師匠がかなりの女好きなんですね……」
『そういうこと。今日のところはこんなもんでいいかな?』
「あ、はい。もういい時間だし……」
拓馬は眠気を感じていた。夜更ししていると言えるほど夜おそい時間帯ではないものの、体に疲労をおぼえている。その原因は、今日の研修にあると思った。日常と変わった体験をしてきて、気が張っていたからだと自己判断する。そのことをシズカに言うと『大人の階段のぼってきてるね』と言われた。これまで拓馬がバイトらしいことをしてこなかったのをシズカは知っており、その変化についての感想が「大人にちかづく」なのだろう。だが拓馬は道場の手伝いを正規の就労とは見做せていない。このバイトは習い事の延長上にあることだと思っている。それゆえシズカの言葉をやんわり否定する。
「あんまり仕事してるとは思えてないですけど……」
『今日は仕事の内容を教わってきたところだもんね。きっとこれからだよ、労働者の自覚が芽生えるのは』
シズカは『おやすみー』と言い、拓馬との通信をおえた。拓馬はさっそく就寝支度をする。照明を落とした自室で、ベッドに横たわる。目を閉じて、シズカとの会話を振り返る。
(シズカさんがトシさんと会ったとき……トシさんは十代だった)
拓馬の聞くところ、シズカも十代後半で異形との関わりを持った。二人はそのときに見知った仲なのだろう。
(ほんのちょっと歳がちがってた人が、こっちの世界じゃ一回りもちがう……)
二つの世界を行き来する者にとって、その差はあって当たり前のことのようだ。中にはこちらの世界ではとっくに死没した人が、異界で元気にすごすこともあると言う。この世界の生死の感覚が異界では通用しないのだ。
(ややこしい話だよなぁ……)
現地に行ったことのない拓馬には実感しがたい知識だ。しかし今日、二人の異界放浪経験者に出会え、その一端を知ることができた。貴重な体験だ。
(ほかにも、どんな人が向こうに行ってるんだろ)
まだ会ったことはなくとも、その存在は聞いた者がいる。それは現在シドのことを探っているという人物だ。拓馬はその人のことをシズカに聞きわすれてしまった。また次の機会にたずねよう、とおぼろげに考えながら、拓馬の意識が混濁していった。
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