2018年10月12日

拓馬篇後記−1

 一学期の期末試験がおわった直後の土曜、早朝。拓馬は散歩に出かけた。同伴者は白黒模様の飼い犬。この犬のための外出だ。現在の時分は夏。散歩はすずしい早朝か夜、できればその両方におこなうと決めていた。この日課は家族で分担している。ふだんの拓馬は登校に遅刻しない程度の早起きにとどまるため、朝の散歩はよく親にまかせる。今日は寝覚めがよかったので、拓馬がその役目を負った。拓馬自身が運動は好きな性分である。おまけに最近までピリピリした空間ですごしていた。その気分を払拭がてら、体をうごかしたいと思っていた。
(やっぱ試験のストレス、俺にもあったのかな)
 もともと拓馬は学業成績が安定しているほうだ。特別よいわけではないが、落第するほどではない。そのためほかの生徒が泣きごとを言いだす試験期間であっても、平常心をたもてた。期末試験なにするものぞ、とばかりに平気な面構えでいたのだ。試験が終了した休日に調子がよくなっている現状、無意識な負担はかかえていたようでもある。
(まだ安心はできないけどな……)
 その不安は拓馬以外の者に向かっている。それは幼馴染の試験結果だ。彼女は確実に不合格になっている科目がひとつある。それは最近拓馬たちが関わっている、人でない生き物が引き起こしたこと。彼女に非がなくとも、追試か補習はまぬがれられない。そのことを拓馬は気の毒に思った。
(帰りがけにトーマを見せにいこうかな)
 相手は動物好きな女子。一科目を落第したその日、拓馬は飼い犬とのふれあいを彼女にすすめた。気落ちしていた彼女は人好きな犬に歓迎されるうち、表情があかるくなった。あれ以降、彼女は飼い犬と出会っていない。またいい気晴らしになるかと思い、拓馬は帰り際の留意点を頭の片隅においた。
 閑静な住宅地のかたわらで、果樹園がひろがる道へ出た。収穫時期のちかい果物が木に生(な)っている。このあたりにくると飼い犬は歩く速度を落とし、鼻をすんすんとせわしなくうごかした。かすかに香る甘いにおいをたのしんでいるらしい。本当は嗅ぐだけでなく食べられればなおよいのだろうが、散歩中は無理なことだ。そうとわかっている犬はただゆっくりと果樹園のそばを歩く。緩慢な犬の動作を見慣れている拓馬は関心を進行方向へそそぐ。道の向こうから大柄な男性がやってくるのを発見した。男性は半袖短パン姿で軽快に走っている。拓馬は走る男性に既視感をおぼえる。
(あれ……師範代か?)
 彼はかつて拓馬が師事した空手の先生だ。姓を大畑(おばたけ)という。拓馬が幼稚園にかようころからの知り合いである。拓馬は彼を好意的に思っているものの、いささか難点も感じている。彼はおおらかで心根のよい中年だ。その鍛えぬいた肉体を露出したがる傾向がある。そこから幼馴染が「おはだけおじさん」あるいは「おはだけさん」とあだ名をつけた。そうよばれるたびに大畑は「おじさんはオバタケだぞー」と訂正するものの、別段そのあだ名をきらうそぶりはなかった。
 走る男性は拓馬のほうへ近づいてくる。その体つきはやはり拓馬が見慣れた人物のものだ。半袖のシャツの生地が太い二の腕と大胸筋にぴっちり這っていて、ボディラインが強調されていた。ワンサイズ大きい服を着ればよいのに、と窮屈さをきらう拓馬は思ってしまうが、そこは人それぞれのこのみだ。
 たがいの顔が見てとれる距離になってから男性が「拓馬くん!」と声をかける。
「エイミーちゃん……の、散歩か?」
 息切れをしながら大畑が立ち止まった。拓馬は首を横にふる。
「こいつはトーマです。エイミーはまえに飼ってた犬」
 以前の飼い犬はすでに他界した。もとは純血種の繁殖用によそで飼われていたボーダーコリーの雌だった。出産がむずかしくなったのを機に根岸宅へもらわれた。引き取りの目的は、役目をおえた犬の余生を看取る、といってもいいのかもしれない。だが引き取り時の雌犬はまだシニア犬ではない年齢だった。
 雌犬は根岸家で十年以上愛され、拓馬が中学生のころに死んだ。愛犬をうしなったときの拓馬は精神的に不安定になり、その回復のために雌犬と似た容姿の犬をあらたにむかえた。それがトーマである。こちらの犬は雑種犬だそうだが、その風貌と愛嬌は以前の犬に通じる。
「おお、そうだった」
 シャツに汗がにじむ中年は理解を示した。彼にも犬の事情は伝えてあるのだ。拓馬との直接的な人間関係は拓馬の小学校卒業あたりで切れているが、住む地区が同じなこともあって、その後も根岸家と大畑との交流を続いた。そのつど、めぼしい情報は共有している。それなのにこの中年は過去の記憶をいまだに引きずる。
「どうも拓馬くんが道場をはなれたあとのことは、おぼえにくい」
「まだ四十代でしょう。物忘れするトシじゃないですよ」
「きみが去ったあのころで、自分の時間が止まっているみたいだ」
「んな失恋した人みたいなこと言わないでくださいよ。気色わるい」
 拓馬はあえて嫌悪感を大げさに出した。この大畑は無自覚にホモくさいところがある。そう感じさせる主要原因はおもに二点。その手の人にこのまれやすい男らしい風貌と、まぎらわしい言動のせいだろう。拓馬がおさないころはぜんぜん気にしなかったが、成長していろいろと知識が増えると、どうにも見方が変わった。ただしそういった不愉快なことをされたおぼえはないし、妻子がいる男性なのでそのケは無いと言える。拓馬の辛辣さは大畑に誤解の生じぬ立ち居ふるまいを指導するのもかねた牽制だ。大畑は「すまんすまん」と簡単にあやまる。
「未練たらしい言い方だったかな」
「なにを言っても俺は道場にもどる気はありません。部活入ってるし」
 習い事をやめたきっかけは、学校で運動部に入るから、という理由だった。現在はほとんど部活動をしていないのだが、そのことは伏せた。
 暑がる大畑はなにかひらめいたようで「あー」と言う。
「道場のことなんだが……門下生じゃなくて、手伝いをやるのは、どうだろう?」
「手伝い?」
「来週と再来週の日曜午前中に、空手の無料体験会をやるんだ」
 体験会、と聞いて拓馬は頭に引っ掛かるものがあった。どこかでそんな文言を見た気がした。
「何人くるかわからなくて、人手がほしい。だから今日明日中にでも拓馬くんにたのむつもりだったんだよ」
「なんで俺なんです?」
「素人に指導ができる技量の持ち主で、手が空いていそうだから、だ。ちゃんと手間賃は出す。あとで体験会のチラシをもっていくから、考えてみてくれないか」
「考えるだけなら、まあ……」
 あいまいな返事にもかかわらず大畑は「そうか!」と角ばった顔をほころばせた。筋肉質な腕をあげて手をふる。それはただの別れの仕草なのだが、どこか筋肉を誇示するようなポーズだと拓馬には見えた。

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2018年10月13日

拓馬篇後記−2

 大畑と遭遇した拓馬は朝散歩をこなした。家に帰るまえに、小山田宅へ立ち寄る。当初拓馬が考えていた訪問動機は、傷心の幼馴染に犬を見せること。それだけのつもりだった。大畑の申し出を受けた現状、その返事をどうするかという相談もしたくなっていた。
 拓馬は玄関で「ごめんください」と他人行儀なあいさつをする。「はーい」という返事があった。小山田家の者があらわれる。柔和な顔立ちの中年女性だ。名は実澄(みすみ)。彼女は大畑より年上だというが、その顔貌はそう見えないほど若々しい。
「あら、拓馬くんおはよう。トーマもいっしょね」
 実澄はにこやかに犬を見つめた。彼女は小山田家でのペットの飼育を禁止する張本人。しかし動物嫌いというわけではない。こうして拓馬が犬を連れてくるのを、実澄はいつも笑顔でむかえてくれる。動物はむしろ好きなほうだ。好きであるがゆえに、人間よりはやく死ぬ生き物を飼わない。愛情を注いだ存在に先立たれる苦悩を避けるためだ。拓馬は実際に動物との愛別離苦を経験している。その際の心的負担を考えると、実澄の指針にはうなずけるものがあった。
「ヤマダにちょっと話したいことがあってきたんです。おきてますか?」
「朝ごはんを食べてるとこ。いまよんで──」
 言いおわるまえに実澄の娘が居室から顔を出した。彼女は母親とは似ていない。かわりに父親似で、目じりが吊りあがった顔をしている。いつもは長い髪をポニーテールにまとめるので、その眼光はさらに増した。いまは無造作に髪をおろしてある。そのせいか多少おだやかな雰囲気になっていた。
「あ、トーマいるんだ。じゃあ玄関で話す?」
「ああ、そのつもりだ。でもメシはいいのか?」
「うん、もう食べた」
 ヤマダが廊下へ出てきた。半袖短パンの、上下が水色の寝間着姿だ。袖丈はひじとひざにかかる長さで、袖口の幅は広い。先刻の大畑のピチピチした服とはかなり印象がちがった。
 ヤマダは玄関の式台に腰をおろす。足の裏がよごれないよう、サンダルを履いた。その場はうごかず、近寄ってくるトーマの背中をわしゃわしゃなでる。
「トーマは今日もかわいいね!」
 ヤマダは満面の笑みで犬をかわいがっている。そのやり取りを見ていた実澄はさびしそうに笑んで、居室へもどった。
「んで、話すことってなに?」
 ヤマダはトーマに顔をなめられながら本題を聞いてきた。拓馬も式台にすわる。
「ちょっと意見を聞かせてもらいたい。空手の道場の手伝いにきてくれないかって師範代に言われてる」
「おはだけさんの? それってチラシの体験会のことかな」
「ああ、チラシがあるみたいだ。あとで俺んちにもってくるってさ」
「たしかうちにとってあるよ。もってこようか?」
 ヤマダは拓馬の返事を待たずに立ち上がった。彼女としてもチラシが手元にあったほうが助言しやすいはず、と考えた拓馬はそのまま待機した。
 トーマはヤマダの動向が気になったのか、式台に前足をのせた。それ以上の進入はしない。勝手にあがりこめば拓馬にしかられることをわかっているのだ。小山田一家は犬が家屋に入ってきても怒りはしないだろうが、親しき仲にも礼儀あり、を心がける拓馬には見過ごせなかった。
 居室からヤマダと実澄の話し声が聞こえた。親子の会話があったのち、ヤマダがもどってくる。彼女の手には黄緑色のコピー用紙があった。その紙を拓馬に向けて「これだよ」と言う。拓馬は紙を手に取り、内容を確認した。
 チラシは印刷された紙だ。ただしその文字やイラストは肉筆で書いたとおぼしい、チラシではめずらしい表現だ。説明は古風な筆運びで書かれている。拓馬はこの執筆者が師範──大畑の父親──ではないかと思った。文言の余白には子どもがこのみそうな、ほんわかしたタッチのイラストが描いてある。おそらく絵は大畑の娘の作だ。正直なところ、文字と絵の雰囲気がマッチしていない。いかにも素人作品らしい広告だ。その野暮ったさが大畑らしいと拓馬は感じた。
「今月の頭くらいに、おはだけさんがポストに入れてたんだって」
「自力で配ってたのか……」
 大畑は自己鍛錬の好きな人だ。ランニングがてらに配達の真似事をしても納得がいく。
「でもどうして師範代がやったってわかる?」
「おはだけさんがチラシ配ってるときにお母さんが会っててね」
「ミスミさん経由か」
「そのときおはだけさんが『娘さんの期末試験はいつか』って聞いてきたらしいよ。たぶんタッちゃんに心の余裕があるタイミングをねらって、手伝いの話をもちかけようと思ってたんだろうね」
 筋のとおった推察だ。大畑は拓馬とヤマダが二人同じ学校にかよっていることを知っている。たとえ二人が別々の高校に所属していたとしても、拓馬の中学入学時期を境によそのお宅情報の更新がしにくくなったという彼のことだ。拓馬たちが同じ学校にかよっている体(てい)で質問してきたにちがいない。その行動は大畑がこの土日に拓馬に会おうとした発言とも噛み合う。
「きっとそうだな。よっぽど俺に拒否されたらこまると思ったのか……」
 拓馬はチラシの文言に注目した。この体験会は今月中に二回実施する。そのどちらも拓馬の予定はない。こばむ理由は見つからないものの、約束が延長しそうな気配を感じた。
「夏休みに入る子どもがターゲットみたいだね」
 式台にすわったヤマダがチラシの大意をのべる。この体験会は空手の門下生を増やすためのイベントであるが、それで長期の客を得ようとする表現はない。夏休みの間を利用して、空手を習ってみようと謳っている。お試し期間のための宣伝だ。もちろん、このチラシ作成者の希望はちがうはず。お試し終了後にも門下生でいてもらいたいに決まっている。そういった道場側の都合はうまくぼかしてある。
「学校が休みでヒマしてる子たち、ってのはいいターゲットだろうねー」
「その夏休み中にだれが教えるってんだ、これ。午前もやるのはムリだろ」
 チラシにはこの夏季限定で午前中も指導を行なうことを触れこんでいる。だが道場の師範代とそれを補佐する指導員にはほかに本業がある。彼らでは不可能だ。ほかに手隙(てすき)な者といえば、高齢につき毎日が日曜日な師範がいる。だが老体ゆえに彼ひとりでの指導は負担が大きすぎる。とてもいまの人員で手が回るようには思えなかった。
「タッちゃんに指導してもらうんじゃない? こういう道場の指導員って、とくに資格がなくてもできるんだったよね」
 ヤマダの予想は拓馬も直感していたこと。しかしもはや縁が切れたと思った分野に拘束されるのは抵抗がある。
「俺は『体験会を手伝え』としか言われてないぞ」
 不満を発散するように反論した。直後、微妙に理不尽な態度だったと拓馬は自己を反省する。その一方でヤマダはとくになんとも感じなかったようだ。自身の股の間にはさまるトーマを愛でている。
「簡単なことから『やる』と言わせて、どんどん条件のむずかしいことも『やる』って言わせるやり方なのかなー。交渉術でそういう切り口があるらしいよ」
「そんな器用なことをする人には思えねーけど……」
「この夏の午前中はだれが門下生に教えるのか、聞いてみたら? どういう理由で商魂燃やしてるのかも気になるし」
 大畑に聞く、それがいちばんの解決策だ。拓馬はヤマダとの対話を切り上げるつもりで、最後の質問をする。
「ああ、そこんとこは師範代に聞いてみるとして……お前はこの体験会に俺が関わるの、いいと思うか?」
「うん、やったらいいと思うよ」
「なんでだ? 俺がヒマしてるからか?」
「それもあるけど、タッちゃんがいてくれればルミさんも安心するだろうから」
 ルミさんとは道場の指導員の女性。かつ、ヤマダと拓馬の姉が定期的に手伝いに行く喫茶店の調理員だ。彼女も大畑に負けず劣らずの性根のよい人だが、社交的ではないので客商売には向いていない。決まりきった訓練指導をすることはできても、門下生候補な客を引きこむ対応となると、むずかしいものがありそうだった。
「そうか……前向きに考えとく」
「うん、あとミッキーが体験会に行くかもしれないから、よろしくー」
 ヤマダのいう人物は拓馬と共通の古馴染みの男子。運動が不得意なうえに筋力面でも女子のヤマダに負けるというひ弱な少年だ。近ごろはとある教師に触発されて、鍛錬に関心をもつようになった。筋トレをやっている、といった話は拓馬も聞いていたが、武道にも手を出すとは予想外だ。
「椙守が、本気で?」
「本気かはわかんないね。いまのとこ、まよってるみたい」
「あいつの親父さんがオーケー出すのか……?」
 椙守は日ごろから実家の花屋の手伝いをしている。彼が習い事をすればその時間は店の人手が不足するはずだ。
「勉強ばっかやってるよか、うれしいんじゃない?」
 椙守の父は息子に家業を継いでもらいたいがために、息子が学問へ傾倒するのをきらっている。多少仕事の手伝いの時間がへってでも、息子がガリ勉から遠ざかるのなら歓迎しそう、という見解には現実味があった。
「椙守のことはわかった。で、椙守を『よろしく』って言うのはどういう意味だ?」
 まるで椙守ひとりだけが道場に行くような口ぶりだ。ヤマダが体験会の参加に興味がないのならチラシを保管する意味がわからない。
「チラシを大事にとってたくせに、お前は行かないのか」
「遊びにいってみたかったけどさ、わたしはその日、店に出ることになってる」
「ルミさんがいないぶんか?」
「そう。なかなか従業員があつまらないからねー。すくない人数でやりくりしなきゃ」
「うちの姉貴じゃ料理はまかせられないしな」
 拓馬の姉は家事全般が苦手だ。それでも店内の清掃の仕事をまかせられている。いちおう、店ののこりもの処分やまかない料理の際に調理練習をさせてもらうそうだが、上達しているのか、よくわからなかった。
「そんなわけで、タッちゃんたちはがんばってね」
「もうお前ん中じゃ確定してるんだな」
「うん、みやげ話をたのしみにしてる」
 拓馬はチラシを返却し、小山田宅をはなれた。別れ際、ヤマダは手をふって「トーマ、またきてね」と犬との再会を心待ちにした。

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2018年10月14日

拓馬篇後記−3

 拓馬は家へもどった。トーマを家へあがらせる際、犬の四つの足をふく。出かけるまえに用意しておいたぬれタオルを使い、肉球の表面と肉球同士のすきまをきれいにした。その作業中に父に「おかえり」と声をかけられる。
「長かったね。今日は遠出してきた?」
「いんや、ちょっと人と話しこんでた」
「へえ、どんな人と?」
「大畑さんが──」
 拓馬は犬のケアと並行して、散歩中の出来事を話した。大畑とヤマダ両名との会話を父が知ると「いいじゃないか」と言う。
「それは手伝ってあげたらいい。椙守くんも行きやすくなるだろう」
 父は椙守贔屓なところがある。椙守の生まれつき卑弱な体質が、同情をさそうのだろう。父は若いころ、体がよわかったという。といっても二人のよわさは方向性がちがう。父は病がち、椙守は非力で運動音痴。病弱な者が常人より体力面に劣ることはよくあっても、体力がないからといって病弱とはかぎらない。
(行くしかなさそうな空気になってきたな……)
 ひかえめな父がすすめることだ。これをことわるには確固たる理由がなくては拓馬の納得がいかない。そして、拒否する理由は不確定な要素にだけある。
「体験会だけですむなら、な……」
 拓馬は台所で犬専用の皿に水を入れる。その水をトーマに飲ませてやった。父もトーマの朝食用のドッグフードを用意する。
「体験会がおわったあとも手伝わされるかは、まだわからないんだろう? だったらその話が出たときに考えていいんじゃないか」
「ああ、うん……」
 父の助言は拓馬に迷いを生じさせた。父の指示にしたがえば、拓馬は今月の日曜日の参加についてのみ大畑に口を出せばよいことになる。それが無難だ。夏休み期間中の指導のことをつつくと墓穴をほりかねない。「俺にやらせるのか」とこちらから言えば「その方法があったか!」とばかりに大畑を乗り気にさせる可能性がある。
(でも気にはなるよな)
 大畑がなぜハードな夏季日程を組んだのか。それをうまく聞き出したいと拓馬は思った。
 父がトーマのエサを計量カップで皿にうつしていると、呼鈴が鳴った。大畑だ、と察した拓馬はすぐに玄関へ向かった。玄関の戸が勝手に開く。
「おはようございます! 拓馬くん……はそこにいたか!」
 体格も威勢もよい中年男性が玄関へ入ってくる。その格好は夏らしい半袖短パンだ。散歩中に着ていた服とは色がちがう。他人の家へ訪問するエチケットとして身綺麗にしてきたらしい。
「約束のチラシだ! もらってほしい」
「あ、はい……」
 拓馬は手製のチラシを受け取り、目を通した。ヤマダに見せてもらったのと同じ内容だ。再読の必要はない。すぐに視線を大畑へもどした。大畑は不思議そうに「見なくていいのか?」と聞いてきた。
「はい、もう見たんで……」
 大畑の目がかがやく。
「もしかして、チラシをとっておいてくれてた?」
「いえ、俺じゃなくて──」
「いやぁ、うれしいね。もう道場には興味ないみたいだったのに、気にかけてくれているとは! 心はまだ通じ合っていた──」
「ヤマダがもってたんです! 俺じゃありません」
 拓馬は強く否定した。否定の主目的は、他人が聞いたら誤解しそうな言い回しをさえぎりたかったことにある。チラシの所有者の特定はどうでもよかった。
 拓馬が声を荒げた結果、大畑はすこしひるんだ。しかし拓馬の態度は真実の追究にあると考えたようで、自身の失言に気付くことなく話をすすめる。
「もう知っていたなら話は早い。この体験会に指導員として加わってくれるかね?」
「はい、その体験会だけならかまいません」
「『だけ』? ほかにもなにか、たのんでいたかな」
 拓馬はうっかり本音をもらした。大畑の内なる計画を知らない状態で「夏休みの指導も俺にやらせる気なんじゃないですか」と言うのはリスクが高い。
「あー……えっと、客寄せをやらされたらイヤだな、と思ってて」
 適当に付帯業務をこじつけた。大畑はにっと笑んで「そんなことはさせないとも」と大見得を切る。
「そういう営業は指導員の役目じゃない、とワシは思っているよ」
「だからチラシ配りしてたんですか?」
「ああ、実澄さんから聞いたか。配るついでに体を鍛えられるし、よそで依頼しなくていいから安くつくし、いいことずくめでな」
 自力でのポスティング行為には「出費を抑えたい」という動機があった。やはり金銭関係でなにか事情がある。
「なんで急に門下生を増やそうと思ったんです?」
 拓馬が思う大畑とは、あまり損得にこだわらない人だ。空手とはべつに生業(なりわい)をもつせいか、道場の運営はボランティア感覚でやっているフシがある。先祖代々受け継ぐ道場を子孫の代まで維持できたらいい、といった感じで、大畑家の利益追求は二の次だ。このような熱心な宣伝行為をする光景は拓馬の記憶にないし、ましてや練習時間帯を増やすこともなかった。
 大畑は照れくさそうに「多少お金が入り用で」と言う。
「いまの稼ぎじゃ将来不安になってな……」
「将来っていうと……子どもが産まれるんですか?」
 大畑の妻はまだ三十代。出産をするのにムリのない年齢だ。大畑にはすでに子がいるが、女児ばかり。道場を継ぐのに穏当な男児は不在だ。有力な後継者を求めてもおかしくない。そう拓馬は考えていたが、大畑は「その予定はない」ときっぱり否定する。
「親戚が……居候するんだ」
 すでに家庭をきずいている一家に親戚があがりこむ。これはあまり一般的ではない事態だ。
(身寄りのない親戚の子かな?)
 と拓馬は予想したものの、大畑の言葉によってすぐ否定される。
「長い間、遠方にいっていた人で、これから職をさがす」
「職……ってことは、大人?」
「ああ、ワシのすこし下だ」
 つまり四十歳前後の人だ。その年頃なら部屋を借りて、独り暮らしをしてもよさそうなものだ。
「アパートは借りられないんですか?」
「それはこれから考える。どうせ住むなら仕事場にちかいところをえらんだほうがいいしな」
「じゃあ、仕事が決まるまでの居候か……」
 せいぜい年内でおさまりそうな出費だ。それだけで「将来が不安」と言うほど、大畑家に余裕がないのだろうか。
(あんまりよその家のお金のことは……)
 こればかりは気心の知れた相手でも質問できなかった。拓馬がだまると大畑の表情がくもる。
「訳あってすぐに勤められそうにない。『どうしてか』と聞かないでおくれよ」
「はい」
「確実な勤め先がうちの道場だと思ってな。だから一ヶ月間は昼間も道場を開放できるわけだ」
「じゃ、その人も空手の指導員?」
「そう。ワシより強いぞ」
 大畑の親類かつ強い人──拓馬はなんとなく、大畑に似た男くさい屈強な男性を想像した。素性は知らないものの、その人物が指導員に加わるというのなら拓馬が出る幕はなさそうだ。
「その人が体験会にも出れば、人手はじゅうぶんじゃないですか?」
「それが、初日は無理なんだ。開催日を一週ずらしておいたらよかったかとちょっと思ってる」
「つまり、二回めの体験会にはその人が出るってこと?」
「そういうことだ」
「じゃあ俺は初日だけで──」
「いやいや、ついでだから二回めも出てほしい。新規の門下生が予想以上に増えたら、お駄賃に色をつけよう」
「はぁ、わかりました」
 拓馬は生返事をした。道場の催し物に参加して、お金をもらえるという感覚がどうにもしっくりこない。むかしはお金を支払ったのちにかよう場所だった。その変化がいまいち慣れない。
「言うまでもないが、当日は空手着を持参してほしい。それと準備があるから……八時半にきてもらえるかな」
「はい、行きます」
 単発の雇用契約は成立した。大畑が去っていく。それと同時にトーマが玄関へやってきた。トーマは自身の口回りをぺろぺろなめている。もう朝食をとったようだ。客がきてもご飯を優先した理由は、トーマが大畑をそれほどこのんでいないからだ。動物の本能ゆえか、ああいった大柄で声の大きい人は敵として警戒しがちな面がある。
「俺も朝飯を食うかな……」
 拓馬が居間へもどるとトーマもあとをついてくる。ごはんのおこぼれがもらえる、とでも思っているのだろうか。拓馬はトーマに自身のごはんを分けないのだが、トーマは食事中の拓馬にすりよることがしばしばあった。
「くっついててもなにもやらないからな」
 一言忠告しておき、拓馬は食卓に着いた。

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2018年10月15日

拓馬篇後記−4

 体験会の第一回めの日曜日。朝八時まえに拓馬は家を出た。目的地は大畑の道場。道場で着替える稽古着はコンパクトにたたんで黒帯でむすび、帯の部分を手にもった。
 大畑が提示した集合時刻は八時半。このままいけば約束を交わした時間より早く到着する。早めに出かけたのは家にいてもおちつかなかったからだ。拓馬には二つの懸念事項がある。
(一時間で用意できるのか?)
 八時半とは体験会を受講する人たちの受付開始から一時間さかのぼる時刻。つまり一時間で準備をしようというのだ。本当に一時間程度で準備が完了できるのか心配だった。大畑の作業速度は速いのだが、指導員の女性のほうはそうでもない。彼女は期限に間に合わせるために粗い職務をこなすのをよしとしない。決して仕事ができない人ではないものの、そのへんは少々融通がきかないのだ。
(あとなにをやりゃいいのか、ぜんぜん知らないんだよな……)
 拓馬が道場を去ってから五年の月日が経つ。準備運動や基礎の型などはおぼえているが、他人に教えられるほど完璧である自信はない。復習もふくめて、具体的な職務をまえもって知っておきたかった。
 ものの数分で道場に着く。その玄関前に屋根部分のみ天幕を張ったテントがあった。テントの中には机と椅子二人分が設置してある。ここで受付をするらしい。真夏で外にいるのはつらいだろうに、と拓馬は受付係の過酷な職務に思いをはせた。
「おお、拓馬くん!」
 いきなり野太い声で話しかけられた。大畑だ。私服の男性が道場の玄関から扇風機をかかえてやってくる。
「くるのがすこし早いんじゃないか?」
「あ……準備が大変かと思って」
「やる気マンマンだな!」
 上機嫌な大畑は扇風機をテントの下に設置した。受付係に風が当たるように向きを調整する。
「じゃあ道場に入って、神南(かんなみ)さんの手伝いをしてもらおう」
「はい」
 拓馬は久々に道場の玄関をくぐった。玄関先にはコンセントの延長コードが足元に伸びている。コードを使って、屋外の扇風機に電力を供給するらしい。地区の納涼祭でもよく見かける手法だ。
(受付……道場の中じゃやれないのか?)
 広い玄関を見て、拓馬は疑問に感じた。表にあった机と椅子をこの場に設置しても、人が行き来できる余裕はある。
(どんだけ人がくると思ってんだろ……)
 下足箱は数に限界がある。もし客が大多数だったとき、玄関の床に靴がならぶことになる。足の踏み場もないほど靴がならんだとしたら、玄関内に設置した受付場は混雑する。その手際のわるさは客の心がはなれる一因にもなりうる。大勢が詰め寄せる場合において、受付場を外に用意するのは適切な対処だ。
(そんなに人がくるとは思えないけど……)
 近隣にはほかに武道の習い事ができる施設がある。特別この道場をえらぶメリットはないように拓馬は感じた。過去に拓馬がこの道場へかよった動機は、たんに家から近かったというだけ。入門してみれば大畑の人のよさをありがたく感じられたが、外部の者がそんな長所を見抜けるだろうか。
(ま、言われたことをやっときゃいいか)
 門下生があつまろうとあつまらなかろうと、拓馬には関係のないことだ。分不相応な心配をやめ、下足箱に靴を入れた。練習場へつづく引き戸を開ける。室内から冷気が吹いてきた。エアコンを稼働しているらしい。踏み入れた足の裏も、靴下越しにひんやりしていた。
(あれ? おかしいな……マットがこんなに冷えるわけ──)
 床は全面、木製の板ばりだ。かつての記憶では床にジョイントマットが敷きつめてあったのだが。
(なくしたのかな……)
 マットなしでの稽古ができないわけではない。だがマットは転倒時の怪我をふせぐための緩衝材だ。その有用さを考慮すると、一切合切を排除してしまうにはもったいない。
 拓馬はどこかにマットが置いてないかさがした。すると床を拭く私服の人物を発見した。横幅のある体型からは性別が判別しづらい。だがその人物は女性だと拓馬は知っていた。彼女のことを大畑は神南とよび、ヤマダはルミさんとよぶ。拓馬は無難に名字でよびかける。
「神南さん、おはようございます」
 短いポニーテールがゆれた。胴囲のある女性が拓馬を見上げる。
「おはよう……もう手伝いにきたの?」
 神南は室内の壁掛け時計をちらっと見た。約束の八時半まで二十分弱の猶予がある。
「着替えてからでもいいんだけど……どうする?」
「どうすっかな……神南さんが着替えてない理由を聞いてもいいですか」
「あたしは……体験会のまえに道着をよごしたら、みっともないと思ったから」
「じゃ、俺も掃除がおわったら着替えます」
 拓馬は荷物置き用の木製の棚に自身の空手着を入れた。棚の横には打撃練習用のミットを収納する棚があり、大小さまざまなミットが置いてあった。いくつか新調したようで、見たことのない色や形のものもある。
「やること……」
 神南は拓馬への作業指示を考えている。
「マットを敷く?」
 神南は練習場の出入口付近の壁を指差した。そこに平積みしたオレンジ色のマットが積み重なっている。
「奥から水拭きと乾拭きをしてる。拭きおわったところにマットを敷いてくれる?」
 雑巾を二刀流であつかっていた神南は次に練習場の奥へ指をうごかした。拓馬は指示を実行するまえに、ひとつ気になったことを質問をする。
「このマットはもう洗ってあるんですか?」
「師範代は『きれいにした』って言ってる」
「じゃ、このまんま敷いていきます」
 拓馬は一メートル四方のマットを数枚かかえた。練習場最奥の壁側から一枚ずつ設置していく。手持ちのマットを床に置きおえたあとは、マット同士のギザギザした部分を丁寧にくっつけた。やった経験のある作業だ。しばらく距離を置いていた事柄に直面する実感が、このときになってようやく湧き上がった。

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posted by 三利実巳 at 23:56 | Comment(0) | 拓馬篇後記

2018年10月16日

拓馬篇後記−5

 拓馬は練習場内のマット敷き、神南が床の雑巾がけを分担する。神南の作業位置は練習場の中央。マット一枚が大きいせいでか、拓馬のマット敷き作業は拭き掃除に追いついてしまう。拓馬はマット敷きを一時中断する。
(ほかの作業は……)
 依然として平積みされたマットは床の上にある。それらは神南の拭き掃除の邪魔になると予想し、敷いたマットの上へ移すことにした。
 進捗の差を察した神南は手をとめる。
「マットを運んだら……ミットを拭く?」
「ここの棚にあるやつ全部ですか?」
「うん、まあ……やれるだけ」
 すべてを使う事態は想像しにくいが、なんにしても備品が清潔でこまることはない。拓馬はバケツとミット拭き用の雑巾を調達する。敷いたマットに座り、地道にミットの拭き掃除をした。腰を据えた作業だ。こなすうちに気持ちに余裕が生まれる。
(いまのうちに聞けることを聞いておこうか)
 大畑にたずねるには時間的にきびしそうだと思い、神南に話しかける。
「師範代がこの体験会をやろうとした理由、知ってますか?」
「親戚が居候するからお金を稼ぎたい、って……」
「その親戚の人が、夏休み中の指導員をやるんですよね。どういう人だか、知ってます? どうして遠くに行ってて、いまもどってくるのか、とか」
「ぜんぜん……教えてもらえない」
 神南も質問は行なったらしい口ぶりだ。彼女は押しの強くない人なので、大畑への追究はひかえたようだ。
「神南さんにも隠してるってわけか。あんまり師範代らしくないな」
「他人に言えない事情があるんでしょ」
「はい。一部『どうしてかは聞くな』って言われちまったし」
 釘を刺されたのは、居候がすぐに雇用されることはないという事情についてだった。居候は次週の体験会に空手の指導員として参加するというのだから、病気やケガなどの身体的問題は抱えていないはず。問題があるのは当人の内面か、希望する職種が狭き門であるなどのハードルの高さか。
「どういう人なんだか……」
「……いい指導員で、だれにも迷惑かけてないなら、どんな人だってかまわない」
 神南の意見は拓馬の胸にのこった。平時では印象深く感じなかったであろう言葉だ。
(先生……)
 拓馬はつい先日、身近にいた人物の重大な謎を知った。そのことが思いがけず連想する。
(あのレベルの他言無用な人はほかにいないだろうけど……しつこく知ろうとしちゃダメだな)
 拓馬も訳あり人物の秘密を共有している。もしだれかがその秘密をあきらかにしようとしてきたなら、拓馬はきっと心おだやかでいられなくなる。距離を置きたいと思うはずだ。
「じゃあ、その人とは道場の中だけの付き合いにしておいたほうがよさそうですね」
「でも、拓馬くんなら教えてもらえるかもしれない」
「なんで?」
「あたしはずっと指導員でいるけど、あなたは体験会だけなんでしょ?」
 道場にのこらない者になら言える──それはつまり、
「俺ならヤバイ事情を知っても後腐れがないってこと?」
「やばいかは知らないけど……まあそんな感じ」
 ようは今後の業務に影響があるかないか、が大畑家の秘密を知れる要因だと神南は言いたいらしい。
「あとは師範代のお気に入り、ってことも」
「そんなに俺って気に入られてます?」
「……あたしはそう見える」
 拓馬にその自覚はない。大畑が拓馬に特別目をかけるべき理由がないのだ。もし拓馬が門下生一の優秀な空手家であったならば話はわかるが、強い同年代はほかにもいた。
「どういったところを気に入るんです?」
「どうって……筋のいい子だし……」
「そんなの、ほかにもいるでしょう。神南さんだって──」
「あたしは男になれないからね」
 男であることに価値がある、と聞くと、拓馬は背中に悪寒が走る。
「まさか本当に師範代にそのケが……!」
「いや、そうじゃなくて……」
 神南が即否定した。そのおかげで拓馬が感じた身の危険はかなり軽減される。
「じゃ、ほかになにが?」
「いまは知らなくていいと思う」
「なんで?」
「あと十年くらいさきの話だもの」
 十年。その年数と性別に関わる事柄とは、と拓馬は考えてみたが、練習場の戸が開けられて、思考が逸れる。
「トイレ掃除がおわったぞ! こっちはどうだ?」
 大畑が入ってきた。彼は冷房の効いていない場所での作業をしていたせいか、シャツに汗じみが見える。指導員に快適な作業場をゆずるところに、彼のやさしさがあらわれている。
 大畑が手際よく清掃をこなしてきた一方で、練習場内の清掃は完了していない。大畑はまだ半分露出した床を見て「きれいに磨いているな!」とポジティブな感想をのべた。狭量な人であれば「まだおわっていないのか」と怒るか落胆しそうなものだ。この大畑はめったなことでは他人をわるく言わない。
「もうすぐ、床掃除がおわります」
 神南は雑巾がけの速度を上げた。大畑が「あわてないで」と言う。
「丁寧にやってもらったほうが、ワシはうれしい。次にマットをはがすタイミングはいつになるか、わからないからな。いまのうちにきっちり掃除してくれ」
 大畑が言うように、マットを撤去しての掃除は頻繁に行えない。平素は敷いたマットの上を拭くだけにとどまる。その清掃工程は拓馬が門下生時代に学んだことだ。
 大畑は雑巾がけが九割がた終了しているのを確認し、練習場内をすすむ。
「おわったところからマットを敷いていこう」
「はい、おねがいします」
 神南は大畑にさせない予定だった作業の分担を受け入れた。大畑の助力のおかげで事は順調にすすみ、ミット拭きも一通りやりおわる。
「よし、これで人を入れられるな! では体験会の流れをおさらいしよう!」
 大畑が荷物置きの棚から紙を出してきた。紙は罫線が印刷されたルーズリーフ。手書きで今日の行事内容が書いてあった。
「神南さんはもう知ってるが、拓馬くんには教えてないんで、ちょっと一緒に聞いてくれるか」
「はい」
 神南が返事をし、大畑のとなりへ移動する。拓馬も神南とは反対側の大畑のそばにいった。
「受付は妻と娘がやる。受付がすんだ人たちはこの練習場で待ってもらって──」
 大畑の説明を聞くよりさきに、拓馬は明文化した日程を読解する。簡単に表現すると、拓馬が特別なにかをやらされる展開はない。大畑たちのやることを真似ていればよい。そのことを理解した拓馬は気持ちが楽になった。
 説明がおわり、各自が着替えにとりかかる。汗だくな大畑は一度帰宅し、体を洗うのだという。彼だけは汗をかいても平気な環境にあった。それゆえ冷涼な場所での作業は拓馬たちに任せたようだ。
 大畑の家は道場のすぐちかくある。帰宅ついでに受付役の妻子の支度具合も確認するのだろう。拓馬たち三人はそれぞれちがう更衣の場所へ向かった。

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2018年10月17日

拓馬篇後記−6

 拓馬は道場の男子更衣室にて、空手着に着替えた。久々の白い道着だ。これを着るからといってどうという感慨は湧かない。むしろ緊張感が生じた。教わる立場だった自分が教える側に立つことに関心があつまったためだ。
(部活は同じ年ごろの人ばっかだったからいいけど……)
 体験会のメインターゲット層は夏休みのある子ども。だが社会人の参加も可能としている。それにくわえ、自身の子どもを入門させようかと考える親が子どもに同伴する。拓馬が注意するのは大人の目だ。
(俺がいちばん、たよりないよな……)
 大人の客が拓馬を見て、どう思うだろうか。年少ゆえに指導力不足を案じられるのではないか。
(客にとっちゃ俺が代打の指導員だなんて、わかりっこない)
 拓馬が指導とよべる指導を実施する予定はない。だが客にそんなことを弁明する機会もない。大畑や神南と同じ、指導者のひとりとしてかぞえられるにちがいない。
(俺がいたせいで門下生が増えなかった、ってことがないようにしたいな)
 大畑は拓馬の技量を高く買っているようだ。それは大畑の希望観測ではないという証拠がある。現に拓馬は高校一年生のときにどうにか初段を修得している。これは大人に混じっての試験を合格した結果だ。しかし初対面の者にはそのような事情は伝わらない。ただの若輩者にしか見えないはずだ。拓馬の体格がさほどよくないのもあり、最低限の段位保持者には到底思えないだろう。
(ヘタなことをしないように……)
 あまり目立たぬよう、黒子のような補佐役に徹する──そう決心した。
 準備がととのった拓馬は更衣室を出た。受付場に人がきているか気になり、玄関のガラス戸の奥、つまり道場の外を見る。受付の座席には二人の女性がすわっていた。ひとりは大畑の妻。グラマーな体型の人だ。今日は体のラインが出ない、ゆったりした格好でいる。もうひとりは大畑の長女。現在は小学校の高学年だ。この長女はむかしから顔立ちが父にも母にも似ず、まるでよそから美形の遺伝子を引っ張ってきたかのように端正である。そのため過去に、娘は大畑の血を引いてないんじゃないか、という指摘があがった。
 その旨を表沙汰にした者は当時、無邪気な子どもの門下生だった。人生経験のとぼしい子どもにありがちな、他者の心情をかえりみない、ぶしつけな物言いである。その指摘に対して、大畑は「いやワシの子だ! ワシの母親がすごい美人だったんだ」と断言した。つまり長女は親でなく祖母似だということになる。
 拓馬はそういった大畑の主張を是としている。実際に大畑の母親を見たことがあり、ぱっちりした目元は彼女の孫娘と似ていたおぼえがあるからだ。
(ちょうどいい看板娘になってるな……)
 母親と談笑中の娘の顔を見て、拓馬はひそかに思った。大畑の道場で唯一宣伝力の高いものといえば大畑の長女かもしれない。そんなことを口に出せば「娘に気があるのか?」と大畑に誤解されかねないので、だまっておくことにした。
 練習場へもどろうかと拓馬が思ったとき、受付に人がやってきた。男女の二人のようである。まだ受付開始の時刻には早いはずだが、大畑親子は客になにかをしゃべった。すると客人は受付の者におじぎ──ではなく、机上にある紙に自分の名前を書くために前かがみになった。彼らの服は拓馬が所属する高校指定の運動着。拓馬と同学の者が二人きたのだ。
(え? あのヒョロ長い感じ……)
 拓馬は男子のほうに着目した。あの貧相な痩せっぷりは、よく体育の時間で見かけた。彼は最近、体を鍛えているらしい。まだ目に見えた成果は出ない。
(椙守か……で、女のほうは?)
 椙守と友人関係にある女子は何人かいる。そのうちの、格闘技に興味のある女子はひとりだけ。だが彼女は今日の体験会に参加できないと言っていた。
(店の都合がついたのか?)
 拓馬がじっと外を見ていると「知ってる人がきた?」と神南に聞かれた。拓馬は視線を恰幅のよい女性へ移す。彼女も白い道着を着ている。
「たぶん、友だちが」
「拓馬くんがいるから遊びにきた子?」
「ひとりはそんな感じですけど、もうひとりは本気かどうか、知らないんです」
 神南は受付のほうを見る。拓馬の友以外に客はいない。
「……ほかの人がこないうちは、友だちとおしゃべりしてていいよ」
「はい、客がきたらやめます」
「うん、そうしてね。なにも知らない人がおしゃべりを見たら、公私混同してると思うだろうから」
 現在の拓馬は勤務中に相当する。友人と談話をするなら私的な場でするべき、という意見は拓馬も同感だ。礼節も教える道場において、私語歓談はふさわしくない行動である。
 同級生が受付をおえた。高校の運動着を着た二人は拓馬の予想通り、椙守とヤマダだ。玄関をくぐってきた彼らは拓馬を見て反応してくる。
「タッちゃん、おはよう!」
「はやく来すぎてしまったが、迷惑かけてないか?」
 ヤマダは威勢がよくて椙守はどこか腰が引けている。二人の温度差に拓馬は若干戸惑いつつも、なるべく落ち着いたトーンで対応する。
「ああ、おはよう。練習場に入ってくれ」
 拓馬は立ち話を簡単にすませて、友人らを練習場へ案内した。

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2018年10月18日

拓馬篇後記−7

 三人は練習場の片隅にすわった。拓馬はさっそく古馴染みたちの服装選択について問う。
「学校の体操服……じゃなくてもよかったんだぞ」
 体験会の参加者には服装の指定があった。うごきやすい格好でくること──それがチラシに明記されている。当人が運動できると判断した服装であればよく、ことさら自分たちの所属なり年齢層なりがあきらかになる衣服を着る必要はなかった。あからさまな学生アピールは好奇の目にさらされるかもしれない。
「僕が言い出したことなんだ。ほかにいい服が思いつかなくて」
 これまで運動には縁遠かった男子が言う。つまりヤマダと相談して、二人とも学校指定の運動着を着ていこうと決めたらしい。ヤマダのほうはほかに運動に適した衣類を所持しているだろうが、椙守ひとりが目立つのを気遣ったようだ。
「お前は運動用の私服なんて、もってないよな……」
「これから用意する……」
 椙守はばつがわるそうだ。彼は運動を特別視している。私服の運動着がどうあるべきか、勝手がわからないのかもしれない。
「むずかしく考えるな。普段着でもいいんだ」
「いつも着ている服で?」
「ああ、簡単に洗えて、うごきやすけりゃいい。親の手伝いをしてるときも、そういう服をえらんでるんじゃないか?」
 椙守の家業の花屋は意外と重労働だという。その際に着る服は機能性を優先しているはず、と拓馬は勝手に思っている。手伝い中の友人の姿がどんなものだったかは、意識して見たおぼえはない。
 拓馬が話す間、ヤマダは両手を後頭部に回していた。長いポニーテールを掻き上げている。彼女はよく学校の体育の時間まえに、髪が邪魔にならないよう一工夫する。そのヘアセットをしている。今日は運動するために外出したのだから、家にいる時点でいつもの髪型を変更してもよさそうなのだが。
「家でやる時間がなかったのか?」
「んー、そんなとこ」
「椙守の待ち合わせに間に合わなかった?」
「あ、これは偶然だよ」
 ヤマダが頭から手をはなした。垂れていた髪の房は後頭部に留まって、大きな団子状になっている。
「だったらなんで二人して早くきたんだ?」
「わたしはタッちゃんに用事があったから。ミッキーのほうは家にいたくないから」
 ヤマダは自身の答えと同時に、椙守の代弁をした。自分で言うべきことを言われた椙守は「もうちょっと表現をどうか」と苦笑する。
「合ってるけど……」
「ああ、ごめん。『体験会がまちきれなかった』って言ったほうがまるくおさまるし、タッちゃん的にもうれしいよね」
 拓馬は別段気分を害していない。椙守が実家にいたがらないのはいつものことだ。彼は家業を嫌々手伝っている。就業時間をへらしたいがために、部活の活動日ない日も部活を理由に帰宅時刻を遅らせることは日常茶飯事だ。
「言い方はどんなのでもいいよ。それで、お前が俺になんの用事だ?」
「えーっと、それがねー」
 ヤマダは瞳をうごかした。顔は拓馬に向けたまま、視線を椙守のほうへそそぎ、数回まばたきする。
「あんまり大したことじゃないから、いいや」
「なんだ、それ」
「簡単にいうとね……かわった客がくるかもしれないんで、そのときはオーバーなリアクションをしないようにしてね」
 なんとも抽象的な注意だ。しかし彼女があいまいに言わざるをえない理由はある。椙守の知らない秘密。その秘密にまつわることを拓馬に伝えたかったのだ。椙守が一足おそく道場へ着いていれば、きっと明確な注意をうながせた。彼女の目配せはそのように語っている。
「なんとなくわかった。ところで、店はどうした?」
「お母さんが代わってくれた!」
 実澄は飲食店の店員ではないが、娘の務めを代替わりすることはまれにある。勤務先が個人経営の店ならではの融通のよさだ。拓馬は店事情を把握できた。しかしあらたな疑問が出てくる。
「でもミスミさんがバイトを代わってまで……お前に空手を習わせたかったのか?」
「参加していいのはこの体験会だけね。習っていいとは言われてない」
「やっぱり、許可はおりないか」
 実澄は娘に武道を習わせない。習い事自体は娘に数多く経験させたらしいが、ことケガの危険性のある分野には手を出さなかった。娘の安全をねがうがゆえの方針だ。
「じゃ、この体験会は完全に冷やかしにきたってわけだな」
 拓馬は門下生になりえぬ女子に皮肉を言った。ヤマダは臆さず「そうだね」とみとめる。
「お母さんの感覚だと、道場でお祭りやってる、って感じなんだろうね。だから見るだけ見にいっておいで、というわけ」
「このイベントは商売なんだけど……」
「人がたくさんきたら、帰るよ。道場は広いけど、稽古ができる人数に限界があるもんね」
「まーそんなに客はこないと思うなあ」
 入門の意思がない者を立ち退かせねばならないほどの集客は見込めない。むしろ本当に入門希望者がくるのか、と拓馬はいささか心配になっている。参加者がすくなすぎても道場の体面はわるくなるだろう。だれからも注目されない、人気のない道場──そんなところにかよいたい、と思える人はちょっとした変わり者だ。ヤマダたちの参加は、ないよりはあったほうがいいという、枯れ木も山のにぎわいに相当する。
 拓馬は意図せずサクラ役を担当する痩身な男子を見る。
「椙守は? お前も見にきただけか」
「あ……僕は……まだなんとも」
 椙守が首を小刻みに横にふった。体験会の結果次第では門下生になる可能性があるようだ。
「親はどう言ってる? お前んちも親の意見がいちばん強いんだろ」
「いい、とは思ってるみたいだ。やっぱり、普通の人程度には体をきたえておいていいだろう、って」
「それは俺もそう思う」
 拓馬も椙守の貧弱な体と身体能力には不安をおぼえている。人間苦手なものがあって当然だし、苦手を克服すべきだとは拓馬は思わないが、それにしても限度がある。健康体な若者ならとくに、災害などの緊急事態を乗り切れる体力はそなえておきたい。だれしも努力次第で一定レベルの運動能力は体得できるのだから。そのような観点で、椙守の意思を尊重したい気持ちが拓馬にはあった。しかし、苦手を克服する鍛錬にしても向き不向きはある。
「ただ体をきたえるだけなら、べつに武道を習わなくてもいいんだぞ?」
「それは、たしかに……」
 肉体改造のみを求めるなら筋トレをすればいい。水泳や自転車などの自分のペースでやるスポーツもいい。わざわざいきなり他者との戦いを想定した競技に着手しなくてもいいだろう、というのが拓馬の本音だ。
「ここの流派はなるべくケガしない練習をするけど……なんだかんだ攻撃を食らえば痛い思いをするし、そういう思いを自分が他人にさせるときもある」
「だから『やめとけ』と言いたいのか?」
 椙守は真顔で聞いてきた。怒ってはいないようだ。これが何か月まえの彼なら不機嫌な顔を見せていただろう。いまの彼はある教師の影響により、情緒が安定していた。椙守が空手に興味を示したのも、おそらくその教師が武芸家であることが関係している。
「やめろとは言わない。金を払ってまで痛い目に遭ってもいいのか、ちょっと考えてほしい」
 われながら出過ぎた言葉だ、と拓馬は内省する。門下生の勧誘のために道場へ招かれた者が口にするにはふさわしくない忠告だ。拓馬は雇い主の目的にそぐわぬ発言を自認しながらも、撤回しようとは思わなかった。ひとえに椙守のためだ。入門したはいいが数日で辞めたくなった、となれば椙守が損をする。入門時に必要となる月謝に道着代は、学生にとって安い出費ではない。悔いがのこらない決定をしてほしいと拓馬は思った。
 三人だけがいた練習場に人がやってくる。小学生になるかならないか、くらいのちいさな子どもと、親らしき女性の二人組だ。とうとう客人が到来した。拓馬はすっと立ち上がる。
「じゃ、いまからは俺と他人のふりしててくれよ」
 友人二人はあっさり了承した。バイト経験のある彼らは拓馬以上に接客の知識がある。勤務中は私語をつつしむべきなのだと察してくれた。
 拓馬はいったん練習場を出る。戸を開きっぱなしにした練習場入り口のそばに神南が立っていた。彼女は受付をおえた人を練習場へ誘導している。それに倣い、拓馬は彼女と反対側に立った。門番のごとく左右にひかえる必要はないのだが、ほかによいポジションもない。受付時間がおわるまでじっと立っていた。

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長編の習一篇は他サイトで大部分が投稿済(未完)です。現ブログにてざっくり投稿(完結)しましたが、下記リンクはまだ貼っておきます。
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