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2018年08月01日

拓馬篇−10章1 ★

 拓馬とヤマダは無口な仲間を連れて、蜘蛛がねぐらとする校舎にもどった。二階へ続く階段は依然として極太の白い糸で装飾されている。これが大蜘蛛の縄張りだ。その範囲は二つの校舎をつなぐ連絡通路にはおよんでいない。
 拓馬たちが階段をのぼりきる直前、ヤマダが仲間に引き入れた武者の霊が前方へ行く。彼は下向きに矢を弓につがえていた。臨戦態勢のようだ。
(見えてなくても、わかるのか)
 武者はすでに異形の気配を捕捉している。その証に、武者は二階廊下へ出るとすぐさま矢を放った。奇怪な音が響く。蜘蛛のうなり声だろうか。音が止むのを待たずに武者は二本目の矢を撃った。武者は自発的に健闘する。その様子に拓馬の胸がおどる。
「本当にやっつけてくれそうだな」
 拓馬がヤマダに同意を求めたところ、彼女は両手をひざにつき、つらそうに立っている。
「どうした? 調子がわるいのか」
「いきなり、体が重くなってきて……」
「やせ我慢してたんじゃないか?」
 ヤマダは拓馬の足を引っ張るまいと、無理をしていたのかもしれない。なにせ彼女は少女の異形に活力をうばわれていた。その回復が未完全なのだと拓馬は推しはかった。
「ううん、急に、だよ」
「そうか? とりあえず、ここの蜘蛛を退散させたら休むか」
 蜘蛛退治をすぐに放棄してもよいのだが、武者を止める方法がわからなかった。そのため拓馬は物陰から人外の闘争を見守った。
 当初は武者の優勢に見えた。だが蜘蛛がねばり、糸を武者の体にまきつけて、弓攻撃を妨害する。身動きの取れにくくなった武者は跳び、窓へぶつかる──と思いきや窓をすり抜けた。糸でつながっていた蜘蛛もつられて外へ行く。二体の人外は落下せず、すっと掻き消えていった。
(いなくなった?)
 拓馬はあわてて窓に駆け寄る。地面にも宙にも、彼らの姿はない。ひょっとしたらこの窓なら外に出られるのだろうか。そんな淡い期待から窓を開ける。外へ手を出そうとするも、見えない壁に押し返された。
(窓の外は行けないのか?)
 一階は中庭に出られるため、おそらく一階の窓ならこんな妨害はされない。二階以上の高さになると、出入りが禁じられるようだ。
(なんであいつらだけ……?)
 人外たちのみが忽然と消えたことに拓馬は釈然としなかった。だが目下の目的は狐の捜索である。狐捜しをはばむ障害がなくなったいま、やるべきことはひとつだ。
「とにかく、順番に教室を──」
 見ていく、と拓馬が言いかけた。振り返るとヤマダの姿がない。視線を下へずらしてみると、彼女は階段上で突っ伏していた。段の角が彼女の頬に当たっている。
「おいおい、そんなとこで寝るな!」
 倒れるなら床にしとけ、と小言を言いながら、拓馬は介抱しにむかった。以前ジュンがノブにやっていた、意識不明者を運ぶ方法にならう。まずはヤマダの体を仰向きにする。脇の下へ自分の腕を通して彼女に腕組みをさせ、その両腕を持って二階へ引き上げる。彼女が背負うリュックサックを下ろし、上半身を壁に寄りかからせた。
(ここで休ませて、いいのか?)
 安全な場所へ移りたいが、どこが適切な休憩場所だか判断しようがなかった。通常、体調不良の者は保健室で休むものだ。しかし保健室とて異形がいつ出現するか知れたものではない。
(ヘタにうろつくのも危険だしな……)
 人ひとりを運びながらの移動は体力を消耗する。そのうえ、襲撃を受けた際の逃走にも支障が出る。おまけに場所を移動すればするほど、異形との遭遇率も高まるだろう。むやみな移動は避けるべきだ。危険がせまるまでは待機するのが賢明だと拓馬は考えた。
 いつでもうごけるよう、拓馬はヤマダのリュックサックを背負った。横から、上から、下から異形が現れないかと周囲に気を配る。
 視界による警戒を続けて数分が経つ。まだなにも起きない。この後もあたりに平穏が続くようなら、ねむる女子を置いて狐捜索に行けるが──
(でも目をはなした隙をつかれるってこと、きっとあるよなぁ)
 異形は神出鬼没。ものの数秒であっても、連中は無抵抗な人間に接近できるはずだ。
(ムチャする意味はないな……)
 拓馬はおとなしく待機を続けた。

 拓馬自身にも若干の睡魔がにじり寄ってきたころ、足音が聞こえた。人のようだ。その根拠は三つ。異形は足を鳴らさない。幽霊は地に足をつけて歩かなかった。赤毛は飛行で移動する。となると、それ以外の人、あるいは人型の異形だ。
(さっきの女の子なら、いいんだが)
 現状、男のほうがくると抵抗すらできずにやられる。拓馬は自分たちに協力的な少女の到来に期待を寄せた。
 足音の出所は連絡通路。拓馬が通路へ一点集中すると、銀髪の少女を発見した。シド及び大男でないことを拓馬はよろこんだ。
 少女は拓馬のもとにくる。ねむるヤマダを見て、不思議そうに拓馬の顔をのぞく。
「こんなところにヤマダをいさせていいの?」
「安全な場所がどこだかわかんねーんだ。お前、知ってるか?」
「はじめに、ここへきたときにいたとこ。あそこがいいよ」
「追試をやる予定だった教室のことか?」
「うん、むこうのすみのへや。あそこはいちばん境《さかい》がうすくなってて、外をこわがる仲間はちかよらない」
「俺らが最初にいた教室が安全なのか……」
 言われてみれば、拓馬たちが気絶している間は何者にもおそわれなかった。それが黒い異形たちにとっての不可侵な領域ゆえか。
「それに、シズカはあのへやにくる。使いがそこからきてた」
 安全圏かつシズカとの合流場所──とくれば絶好の休憩場所だ。
「それを早く教えてくれよ!」
 拓馬は明朗に言い、ヤマダを横抱きで持ち上げた。シドのように軽々とはいかないが、空き教室までは持ちこたえられる。一気に駆け抜けようとしたものの、少女が「わたしがもとうか?」とたずねてきた。
「え……お前が、こいつを?」
「うん」
 エリーは拓馬と同じ持ち方でヤマダを抱えた。そのさまはシドと同じく、重さを苦にしない屈強さがある。拓馬はちょっとした敗北感を覚える。
「お前たちはみんな力持ちなのか?」
「たぶん、そう」
 こともなげに答えられてしまった。少女は先天的な能力の優秀さを誇る様子なく歩きだした。拓馬も空き教室へ移動を開始する。少女のとなりで歩く最中、ヤマダが倒れた原因について少女にたずねてみる。
「武者の霊を連れて蜘蛛を追っ払ったら、ヤマダが倒れちまったんだ。なんでだろうな」
「しえき、してたから、かな」
「なんだ、その『しえき』って。はたらかせるっていう意味の『使役』か?」
「そう。シズカのつかいとおなじ」
 シズカに例えられると拓馬は納得がいった。シズカも、自身の活力と引き換えに異界の獣を呼び出し、活動させている。その関係を構築する術を、ヤマダが意識せずに行なっていた、ということになる。
「あの武者も……ヤマダの力をつかって、蜘蛛と戦ったのか」
「そう。それに、わたしがヤマダから力をとってたせいもあるかも」
 その見解は拓馬もうすうす勘付いていた。ふと、なぜ少女がヤマダの力を欲したのか気になりはじめる。
「そういえば、なんでお前は人から力を吸い取ろうとしてた?」
「おはなし、するため……」
「本当に、それだけか?」
 会話だけなら黒い化け物の状態でもできはしていた。発話がスムーズにいかない不便さはあっただろうが、会話が成立しないほどではなかったと拓馬は思う。
「化け物の姿でもしゃべれただろ?」
「うん……」
「お前が人に化ける目的……俺らと話をすること以外にもあったんじゃないか?」
「わかんない。そうしろっていわれた」
「お前が人に化けると、いいことがあるのか?」
「たぶん、そう」
 少女自身がよくわからないでやっていたことらしい。その目的は司令塔に聞くほかに手立てはなさそうだ。少女に命令をくだす者──そのことに拓馬の意識が向いたとき、とある疑念が再燃する。
(赤毛とは『シド先生が犯人だ』って話をしたけど……確認はとってないな)
 拓馬は確実に少女が知っている質問をしかける。
「お前に指示だしてる仲間って、先生なのか?」
 少女は答えない。そのへんは口止めされているのだろうか。
「もうだいたいわかってんだ。言ってくれてもよくないか?」
「いっちゃだめっていわれてる」
「マジメなやつだな……」
 彼女の実直さはかの英語教師と似通っている。その態度が暫定的な返答としておき、拓馬たちは二階の空き教室に着いた。拓馬は教室の後方の床にリュックサックを置く。
「この上にそいつの頭がのるように、寝かせてくれるか」
 ヤマダを運んできた者は床に両膝をつき、そっとヤマダをおろした。
「手伝ってくれて、ありがとうな」
 拓馬は感謝ついでに、さらなる依頼をする。
「なぁ、こいつを見ててくれないか?」
「どうして?」
「俺はキツネを捜しにいく。そのためにあそこから蜘蛛を追いだしたんだしな」
「できない」
 意外にも少女がきっぱり断る。
「もうじき、シズカがくる。わたしは会っちゃいけない」
「人間じゃないからって、シズカさんは誰彼かまわず倒す人じゃないぞ」
 少女はすっくと立ち、なにもいわずに教室を飛び出した。その動作が俊敏だったために、拓馬が引き止める隙はなかった。
(そんなにシズカさんって、人以外には危険な存在なのか?)
 赤毛もシズカを忌避していた。あちらは裏であくどいことをしていそうなので、シズカに成敗される事態は理解できる。しかし少女のほうはいまひとつ、シズカが打倒すべき意義を見いだせなかった。
 遠ざかる足音を聞きながら、拓馬は幼馴染を見る。
(どうするかな……)
 教室で時間をつぶすか、単独で行動するか。どちらが最善なのか決めかね、ひとまず適当な椅子に座って、考えることにした。
posted by 三利実巳 at 23:00 | Comment(0) | 長編拓馬 

2018年08月02日

拓馬篇−10章2 ★

 防音部屋のような静寂さの中、拓馬は自分のすべきことを思い悩む。
(シズカさんを待つにしても、ぼーっとしているわけにいかないよな)
 この場でやれること。それは体育館の扉に設置してあった最終問題の答え探しだ。
(七文字の単語を答えるんだっけか……?)
 七つの解答用の小道具はそろっている。しかし解答は未着手だ。おそらくヤマダもまだ答えの候補を見つけていない。
(ちょっくら考えてみるか)
 問題の訳文のメモや、問題を訳す際に参考にした異界の文字一覧表などはすべてヤマダが所有している。それらは、ヤマダの枕として利用中のリュックサックに入れてある。
(枕代わりはやめとこう)
 気を利かせたつもりだったが、結果的に物事を煩雑にするだけにおわった。拓馬は「ごめんな」とつぶやきながら、そっとヤマダの頭を床におろす。彼女の荷物を持ち、席に着いた。必要な文具類一式を机にならべる。そのうちのリング式のメモ帳を開いた。パラパラとページをめくり、この場に関わる記載をさがす。ストンと折りたたんだ紙が机に落ちた。紙を開いてみると、それは異界の文字をアルファベットに置き換える表だった。文字に七箇所、丸が描いてある。
(この七文字……で合ってるか、いちおう確認しとくか)
 拓馬は現物の解答用ピースをさがした。文具類があった収納スペースには見当たらない。リュックサックの外側についた正面ポケットに硬い感触があり、そこのファスナーを開くと文字の書いたピースがあった。鷲づかみで机上へ取り出す。ピースの向きはなにが正しいのかわからないため、一覧表を見ながらととのえていった。
(丸をつけたところ……と対応してるな)
 次にこのピースを使って解くべき問題文のメモをさがす。一覧表をはさんでいたメモ帳に、記載があった。
(幸運の女神の名前……か)
 拓馬には心当たりがない分野だ。
(この答えはたぶん、和名じゃないよな)
 母音は「U」「A」「O」の三つ、母音のまえにつくべき子音は「F」「R」「N」「T」の四つ。「N」を「ん」と読むのなら子音と母音の数は合う。だが「ん」のつく四文字の女神は記憶にない。そもそも日本の神さまは長い名前が多く、四文字では足りない。
(日本で『幸運』っつうざっくりした運担当の神さまはいない気がするし……)
 運は運でも商売運であったり恋愛運、健康運なりと、日本ではよく細分化されている。神さまも分業しているのだ。
(やっぱ西洋か)
 外国の名前ならば、解答に必要とする子音はどれも母音なしで発音できる。どんな配列だろうと名前として読めそうだ。
(総当たりでためすとしたら、何通りになるんだろ?)
 拓馬は適当なメモ用紙を出した。数学でならった計算式を書いていく。
(異なる七つの文字を、一列にならべるのは、七の階乗か)
 七かける六かける五……と続いて二まで書いた。本来の数式では一もかけるのだが、答えを出す際には無意味な計算ゆえに省略した。
(五〇四〇通り……ひとつずつ一秒間でためしたとしても、一時間はかかるな)
 一時間は三六〇〇秒。そうと知っているので大ざっぱな算定が簡単にできた。しかし知らぬ知識はどれだけ頭をなやませてもわかるはずがない。
(シド先生が作った問題だと、いじわるはしてこないと思うんだけどな)
 あの素直な教師ならきっと、どこかに答えを用意している──たとえば彼が拓馬たちに持たせた辞書に。
(箱の問題で一個、辞書に答えが載ってるのがあったな)
 それは拓馬が答えを導いた問題だ。問題文にある英単語を、辞書で調べるだけで解答できた。そんなふうに、辞書を検索すれば見つかる答えなのかもしれない。拓馬は辞書を引っ張りだした。キーワードとなる「God」をさがす。項目はあったが、その用例にそれらしい女神の名前は書いてなかった。
(ダメか……)
 そう何度も同じ手段は通じないらしい。あきらめてほかの可能性を考えていくと、他力本願的な発想に行き着く。
(もしかして、シズカさんが知ってる言葉なのか?)
 赤毛の洞察では、体育館前の問題はシズカ向けにつくられているという。異界の文字で表記した問題文だけでなく、答えもシズカ用であるのなら、拓馬たちの長考は休憩と同じことになる。
(やっぱりキツネを見つけようかな……)
 シズカの到来を恐れる少女の言動をかえりみるに、異形はこの教室に近寄らない、シズカとはもうすこしで合流がかなう。拓馬がヤマダを置いて、狐捜索に出かけてもよい条件はそろっている。
(しばらくここにいて、なんともなかったんだし……)
 拓馬は数分前まで蜘蛛の住処だった校舎を見る。窓越しに確認したところ、蜘蛛も黒い化け物たちもいなかった。
(いまがチャンスじゃないか?)
 拓馬はヤマダ向けの書置きをする。拓馬の不在中、寝起きの彼女が拓馬を捜しに教室を離れる事態はありうる。そうならないよう、配慮した。
 拓馬は紙に「俺が戻るまでここにいろ」と自身の名を添えて書く。その紙をヤマダの腹に置いた。謎解きに使った文具類は帰ってきたときにまた使うと思い、そのまま放置した。
 廊下を出ると、こちらの校舎にも黒い化け物が一体も見当たらなかった。
(あの赤毛がなにかしたのか?)
 拓馬はこの好都合な状況を、別行動する同志がつくりだしたものだと仮説を立てておいた。胸中の謎を処理できた拓馬は連絡通路を通り、白い糸が残る校舎に立った。こちらの廊下を一見したところ、廊下の端と端は糸の被害がすくないようだ。拓馬の位置にちかい末端の部屋は自習用の学習室である。
(こっちのほうは、指差されてなかったな)
 少女が示した狐の居場所を思うに、この階の両端は不在だと直感した。
(普通の教室から見ていこう)
 手始めに直近の教室に入る。室内に糸はなく、異形の姿もない。拓馬は安心して教室を調べた。教卓の下、机と椅子の間、掃除ロッカーの中などをくまなくしらべた。ひととおり目を通して、獣はいないと判断する。
(この教室はハズレだ)
 次の教室に移る。隣の教室は二つあるうちのひとつの戸口に糸が絡まっていた。もう一方の戸は無事だったため、そこから入室する。出入口が片方のみの教室にいて、拓馬は緊張した。
(ここで入口に化け物が出てきたら、どうすっかな)
 自身の状況をあやぶんだが、危険な存在は現れず、杞憂ですんだ。この教室も丹念に捜索したが不発だったため、次へと向かう。
 三つめの教室は戸口が両方とも糸で覆われていた。拓馬は糸の被害が比較的すくない引き戸を左右に揺さぶり、糸をはがす。がたがたと何度も戸をうごかしたのち、入室できた。
 糸で覆われた教室に入ったとたん、教卓の下にある白い物陰が目についた。犬や猫が寝入る仕草のように、丸まったなにか。
(キツネか!)
 拓馬は歓心をおさえながら教卓に接近した。かがんでみるとその白い物体は獣だとわかった。分厚い尻尾はまぎれもなく狐のもの。拓馬は狐をやさしく抱き上げた。狐は呼吸をしておらず、うごいていない。まるで死骸のようだ。だが体の熱は失われていないように感じた。これがエリーと名付けられた異形の言う、生きても死んでもいない状態か。この仮死状態はヤマダかシズカが接触すると解除されるという。
(ねてるヤマダに触らせても、復活するのかな?)
 ささやかな疑問を持ちつつ、拓馬は狐を抱いて空き教室へもどる。白い糸の張った廊下をふたたび行き、連絡通路へ出る。するとさっきまでいなかった異形が床からぬっと顔を出した。拓馬は面食らう。それが一体だけでなく、複数体が一挙に出現したため、足を止めざるをえなかった。黒い物体たちは道をふさいでいるのだ。
(これは突っ切れないな……)
 拓馬は迂回ルートを通ることに決めた。即座に思いついた経路は二種類。一階の連絡通路を通り二階にもどるか、二階職員室付近の連絡通路を通るか。
(階段の上り下りは地味にキツい……)
 体力の温存が図れる、職員室前経路を選ぶことにした。化け物たちは動作の緩慢な連中なようで、拓馬の脚力についてこれず、拓馬は難なく逃走できた。

posted by 三利実巳 at 23:30 | Comment(0) | 長編拓馬 

2018年08月03日

拓馬篇−10章◇ ★

 ヤマダが目を開けた。どこかの建物の天井が視界に映る。それがなんの建物なのかわからず、ぼーっとした。
 一秒一秒を経るごとに、寝起きのヤマダは直近の記憶がよみがえっていく。この場は異質な空間だ。ヤマダは古馴染みと新参の仲間と一緒に、大蜘蛛の怪物をどうにかしようとした。そんな危険な冒険を共にした相棒が、声をかけてこない。
「タッちゃん、どこ?」
 返事はなかった。床に寝ていたヤマダはむくりと上体を起こす。教室内に人の姿はない。拓馬はどこかへ行ったのだろうか。まずは椅子に座ろうと思い、床に手をつく。その際に紙にふれた。床に落ちていた紙は、自分が常日頃から使うメモ用紙だった。そこに拓馬の字で書かれた一文がある。
(ここで待っていればいいんだね……)
 メモによって事の次第をつかめた。拓馬の行き先はわかるが、そこへ向かうのは得策でない。もし行きちがいになれば拓馬に余計な心配をかけさせる。なにより、ヤマダは自分で思うほど本調子ではない。この空間で二度も昏倒したのだ。一度めは覚悟のうえで行なった結果だが、二度めはまったくの想定外。もし三度めが自分ひとりのときに発生したなら、命はないかもしれない。
(えーと、わたしのカバンは……)
 ヤマダは自分のリュックサックが手元にないのに気付き、その行方をさがした。私物は机上にある。立ち上がってその机に近づいてみると、さらに隣りの机上に自分の文具が散乱していた。
(タッちゃんが使っていったんだ)
 それらはヤマダへの伝言を書く目的にとどまらず、体育館前のクイズを解こうと苦心した様子もうかがい知れる。
(なぞなぞに飽きちゃって、キツネをさがしに行ったみたい)
 解答に必要なピースも机上に放置されている。これを失っては困るので、ヤマダはリュックサックのポケットにもどした。というのも解答に使う文字自体はすでにメモに控えてある。答えを考えるのにピースは必要でなかった。
(あ、そうだ……ここ、どこの教室?)
 ヤマダは自分の現在位置を把握するため、窓の外を見た。連絡通路がある。それは二階の教室からよく見かける景色だ。
(二階の……試験をやる教室かな?)
 連絡通路が見える角度的に、追試の会場となる教室だと感じた。その確認がてら黒板に注目する。そこには「Wishing you good fortune」と書かれてあった。追試の場でまちがいない。
「『幸運を祈る』……か」
 最初にその文を読んだときは、ごく普通の激励文だと受け流していた。いまでは一種の嫌味だ。怪物が住む学校に囚われていては、幸運もへったくれもない。
 あえて良かったことを挙げるとすれば、幼馴染が日常的に接する世界を垣間見れたこと。だがそれももう充分だ。もはや疲れてしまった。
(……へこたれちゃいけない)
 ヤマダは自身のうしろむきな思考を、反省する。
(タッちゃんはひとりでもがんばってるんだから)
 自分もなにかやらねば、と己を叱咤する。その発想にもとづき、ヤマダは体育館の扉の問題に取りかかった。問題にまつわる資料一式はすでに机上にある。拓馬が座っていたであろう椅子に、腰をおろした。
 最終問題で求められる答えは、幸運をつかさどる女神の名前。かつ、七文字の語句。
(『幸運』って……ラック以外にもあったね)
 解答に思い当たるふしがあり、黒板を再度見る。ヤマダはチョークで書かれた英単語のひとつに着目し、その文字数をひとつずつ数えた。ラックと意味が被る英単語は、七文字だ。
(あ、これかな!)
 これぞと思った英単語を、文字の置き換え表で丸をつけたアルファベットと見比べる。符合するアルファベットを順番に、表の余白に書いた。順調な筆運びだった。しかし六文字めを書いたところで手が止まる。
「最後のスペルが合わないや……」
 惜しいことに、ひとつだけピースと文字がちがう。
(最後の文字を変えたら……女神の名前になるってこと?)
 正答らしき単語が辞書に載っているか、確かめる。静かな室内でページをめくると、紙がこすれ合う音が明瞭に聞こえた。
 ヤマダが辞書を繰るうち、紙では発生しえない音も耳にとどいた。かつん、こつん、と高く乾いた音。その音は廊下から響く。
(タッちゃんがきたの?)
 ヤマダはぬかよろこびした。だがすぐに、拓馬があんな足音を出すだろうか、と冷静に考える。彼の内履きはスポーツシューズだ。あの靴裏のゴムでは、固いものを叩くような音は鳴らない気がする。
(え……じゃあ、だれ?)
 別人の到来を予想したヤマダは、大急ぎで持ち物を片付けた。これは室内の人の気配を消すためであり、逃走準備でもある。
 リュックサックを抱えながら、廊下側の教室の壁を背にして、しゃがむ。この位置なら教室の戸の窓から室内を見られても、発見されにくいと考えた。
 無人をよそおった教室内で、ヤマダは息を殺す。耳をそばだてたところ、足音がやんでいた。
(廊下でとまってる?)
 ヤマダは何十秒か様子をうかがった。物音はまったくしない。自身の衣擦れや呼吸だけが耳に入った。
(べつのところに行った?)
 これ以上、身をひそめていても進展がなさそうだ。そう判断したヤマダは壁からはなれる。その際、机より上に頭があがらないよう注意を払った。
 まずは教室の戸の窓を見上げ、そこになにもないのを確認する。次に廊下の様子を見に、教室前方の戸の窓から確認する。異物は発見できなかった。
(このへんにはいないのかな)
 身をかがめた姿勢のまま、戸をすこし開けた。そっと顔の半分を出してみる。廊下にはなにもいなかった。足音を鳴らした者はほかの教室に入ったか、べつの通路へ行ったかしたのだろう。
(人さわがせだねー)
 心臓によくないことを体験させてくれた対象に不満を抱きつつも、ヤマダは胸をなでおろした。安堵したヤマダは戸を閉める。謎解きを再開しようとして、うしろへ向きなおった。その途端──
「ひぎゃー!」
 と、ヤマダは情けない悲鳴をあげた。教室にいないはずの人影が、そこに立っている。
「亡霊でも見たような顔をしていますね」
 背後にいたのは、銀髪の英語教師だ。突然の教師出現に際して、ヤマダは我をわすれる。
「そりゃおどろくよ! ドッキリ映像だもん! いやホラー演出だよ、ゲームならCERO-B以上になるね!」
 正誤のわからないことを早口でまくしたてた。対する教師はほほえんで、首を左右にゆっくりうごかす。
「貴女のボキャブラリーは私の理解を超えます」
 落ち着きはらった態度だ。ふだん通りのシドの姿を見て、ヤマダは平静を取りもどしてくる。
「あの、先生は……なにしにここへきたの?」
 ヤマダは自分が発した質問でありながら、違和感をおぼえた。本来ならこの二階の教室で、追試を行なう予定だった。その監督者である教師が現れること自体は必然なのだが。
 女子生徒の困惑をよそに、男性教師はとびっきりの笑みを見せる。
「貴女を連れ去りにきました」
 ヤマダはぽかんとした。その宣言はとっくに果たされた行為だと思っていたためだ。
 ヤマダが呆然としているとシドも呆気にとられる。
「おや、今度はおどろきませんか」
「だってもう、連れこんでるよね。このヘンな学校に」
「これが私の仕業だと、貴女は思っていると?」
「うん、きっかけはこれ」
 ヤマダがスカートのポケットに手をつっこむ。職員室で入手した小瓶を、蓋と瓶の底を指で持ちながら出した。それはシドの仕事机の引き出しにあったものだ。
 小瓶には紫色の宝石のかけらが入っている。ヤマダはその割れた宝石の残骸を見つめる。
「これ、うちのお母さんが持ってたものだよね?」
 ヤマダは自分でもおどろくほど自然体で質問をはじめた。小瓶を発見した当初は、持ち主にどう問いただしていいやら混乱していた。
(こうなったら、腹くくるしかない)
 もう開き直った。この武闘派な教師と会ったが最後、逃げられはしない。だったらやれるだけのことをしてやろう、という捨て身の覚悟ができあがっていた。
「先生にはあげてないはずなの。先生がこの学校にくるまえに、お母さんがべつの男の人にあげたから」
 母が家族に話した内容では、その男性は小さな女の子の命を救った若者だったという。母が彼と話を深めていくうちに彼を気に入り、出会った記念として小瓶を渡したそうだ。また、その男性は父をしのぐほど体が大きかったとも聞いた。そして彼は、銀髪で、色黒の、青い目をした人だったらしい。
「その男の人が……先生なんでしょ?」
 教師と大男は体格が完全に別物だ。それをわかっていて、ヤマダは二人が同じ人物であると断定する。
「いまとはちがう、大男の姿で、お母さんと会ってた」
 並みの人間ではできない変装である。そんな荒唐無稽な話を是とする根拠は、エリーと名付けた化け物にある。
「……先生はエリーの、黒いオバケの子の仲間なんでしょう。……人間じゃないから、どんな姿にも変身できる。だってエリーが、わたしたちのまえで人に化けたんだから」
 ヤマダが一方的な質問を展開した。返答をはさめるだけの間隔をあけているのだが、聞き手の反応はない。
「あの子たちは人を食うって、ここで会った異界の人が言ってた。本当なの? 教えてよ、先生!」
 質問の締めにショッキングな内容をたずねた。正直なところ、その問いの返答は期待していない。ただ無反応をつらぬく相手の心をうごかしたかった。
 待望の返答は、せまりくる手のひらだった。ヤマダは反射的に背を向ける。やはり逃走はできず、大きな手がヤマダの首をつかむ。逃げようと前へ出した足は空振りした。
(うぅ……わかっちゃいたけど……)
 頸動脈を押さえられて、瞬時に死の恐怖が体中を走る。ヤマダは手にもつ荷物すべてを手放した。両手を使って、自分の首を絞める手を引きはがそうとする。懸命にもがくが、指一本とて離れる気配はない。力の差は歴然だった。
(このまま、負けたくない……)
 絶望的な苦境に立たされながらも、一矢報いてやりたい、という闘志がふつふつ湧く。しかしその思いを成就するだけの力がなかった。
 シドの右腕がヤマダを両腕ごと拘束した。そして彼の顔がヤマダの耳に触れる。
「貴女の思っていることがすべて真実だとしたら、どうしますか?」
 ヤマダの全身に鳥肌が立った。これは耳元でささやかれたことへの拒絶反応だ。
(ちかい! 悪寒がする!)
 このような不快な状況下において、唯一の安息がうまれた。ヤマダの首をつかむ手がゆるんだのだ。生命の危機を脱したおかげで、ヤマダの体のこわばりがいくらか解消された。
 ヤマダの首を絞めていたシドの左手が、徐々に顔のほうへ上がる。肌をすべっていく感触が、ヤマダの嫌悪感を最大限に増幅させた。
「助平! 色魔! けだもの! 色事師! 淫乱教師ーっ! わたしの体が目当てで、だましてたんだなーっ!」
 渾身の罵倒を浴びせた。暴言を吐かれた側はかすかに笑い「やはりボキャブラリーが豊かですね」と感心した。余裕綽綽な態度だ。
(くそっ、勝利を確信した悪党の余裕か!)
 言葉での反撃は効き目がなかった。そうこうしている間にも彼の左手はヤマダの顔にせまってくる。指輪をはめた人差し指が口元に近付いた。
(ええい、これが最終手段!)
 ヤマダはその指先に噛みつく。大抵、手をかまれた者はひるむ。その隙に逃げられれば、と一縷の望みをかけたが、手は遠ざからない。何度か噛みなおしてみる。手を噛まれた相手が痛がる素振りはない。
(だったら手加減しない! 噛みちぎるつもりでやってやる!)
 全力で噛もうとして口を開けた。すると指は口深くに侵入する。歯が指輪にがちっと当たった。指輪を噛んだせいでできた隙間に、中指も入る。二本の指で舌を押さえられた。
「貴女の指摘は半分正解で半分外れです」
 体中から、とくに口から黒い煙のようなものが立ちこめる。
「いまの私は貴女の肉体にみなぎる活力を必要としていますが、それが目的で人里にまぎれているのではありません」
 煙が放出していくにつれ、ヤマダの全身が脱力感に見舞われる。エリーと名付けた少女が人型へ変ずるにあたり、ヤマダが力を分けた時と同じ感覚だ。あの時も黒い異形に全身を抱えられ、口をふさがれた。
(これが、補給スタイル……?)
 口内に指を入れるのも力をうばう態勢だったか、と理解した時にはもう遅かった。立つ力を失い、化けの皮がはがれた教師に体をあずける。ヤマダの元気が失われたせいか、煙がうすれていく。そしてシドの手は口元を離れた。唾液にまみれたはずの指はぬれていなかった。
 混濁する意識の中、重いまぶたを閉じる。床をとらえていた足裏の感触が消えた。代わりに背中とひざ裏に重力を感じ、体の片側にぬくもりが伝わってきた。横抱きにされているらしい。
(どこに、つれてく……)
 そう聞きたかったが、声は出なかった。最後のあがきとして、握りこぶしをシドの胸に当てた。ずり落ちる拳の小指に、硬い感触がした。それは小さな宝石を三つあしらったネクタイピン。小山田家の亡き長男が将来的に使うために作られ、父の友人が父に贈ったものだ。現在は期限付きでシドに貸し出している。
(まだ、使ってるんだ……)
 自分が与えたものを、身に着けている──その事実はヤマダの胸にほんのり温かみを生じさせた。
「次に貴女が目覚めたとき……すべてが終わっています」
 廊下に響く足音にかさねて、男性の低い声が聞こえる。
「最良の結末が訪れることを祈りなさい」
 どんな表情で発した言葉なのか、もうわからない。その声色はどこまでもやさしかった。

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2018年08月04日

拓馬篇−10章3 ★

 拓馬は狐を抱え、職員室前を通り過ぎた。ヤマダを置いてきた空き教室へもどる道中、またも化け物連中が出現する。ただし一体二体がちらほら通せんぼする程度だ。その脇を危なげなくすりぬけて行った。
(なんでさっきだけ、かたまってたんだ?)
 最短ルートは通行止めをくらった。五、六体の異形がその体を盾にしてきたのだ。この現象は単なる偶然ではないように思えてくる。
(俺のジャマをする意味……時間稼ぎか?)
 拓馬が二階の空き教室へ帰還するのを遅らせたかった。そんないやがらせか、もしくは拓馬を疲弊させるつもりだろうか。
(セコいことしてくるんだな)
 持ってまわった仕掛けにめんどくささを感じた。
(まあいいや、いまはシズカさんと合流する!)
 拓馬は空き教室に到着する。戸の窓をのぞくと人影が見えた。毛先が外に跳ねた短髪、学生のような白い半袖シャツ、肩から提げた肩掛け鞄──それらの特徴を持つ人物と拓馬は直接会う機会はすくないが、見間違えることはない。これが拓馬たちの守り手だ。
「シズカさん!」
 拓馬は力いっぱいに戸を引いた。室内にいた若い男性は物柔らかな笑みで入室者を見る。
「拓馬くん、大変だったね。ケガはしてないかい?」
「大丈夫ですっ」
 拓馬は安堵と歓喜を押しとどめながら即答した。拓馬がシズカを観察したところ、彼は手に持った紙切れを見ていたようだった。ヤマダの無地のメモ用紙ではなく、罫線が印字された紙だ。拓馬はその紙がなんなのか気になったものの、先にもうひとりの仲間の姿をさがした。
 教室を見渡すとヤマダの荷物が机上に置かれている。しかし持ち主はいなくなっていた。
「あれ? あいつ、どこに……」
「おれはさっき着いたばかりだけど、この教室にはだれもいなかったよ」
「え……ヤマダがいたはずなんです」
 どこかに行ったのだろうか、と拓馬は心配になる。
(俺のメモ書き、気付かなかったのか?)
 拓馬直筆のメモが落ちてないかと思い、ヤマダが横になっていた付近の床を見る。白い紙は見当たらない。
「彼が連れていったらしい」
 シズカは持っていた紙切れを拓馬に見せる。罫線が引かれた紙には「体育館にて待つ」の一言が書きのこしてあった。その字は、シドのものと似ている。
「俺がヤマダを置いていったせいで……」
 拓馬は自身の選択が誤っていたのだとくやんだ。この教室に寄りつかないのは、下っぱの化け物のみ。連中を指揮する男には無関係なのだと、いまになって気付いた。
(ずっと体育館で待ってるんじゃないのか……)
 赤毛が校内をめぐっても大男または英語教師に遭遇しなかったという。なので、拓馬は勝手に、相手はラスボスらしく最深部に閉じこもっているのだと思っていた。
「その子を捜してくれたんだろ? きみはわるくないさ」
 シズカは拓馬の腕に抱かれた白い狐を受け取る。
「それに、彼はおれにも用事があるんだ。おれが行くまではヤマダさんに危害を加えないと思うよ」
 シズカが狐をなでながら言う。するとぴくりともしなかった狐が目を開ける。そして霧のごとく消えた。
「あ、キツネが……」
「ツキちゃんには一足先に帰ってもらった。いまは弱ってて、一緒に戦えなさそうだ」
「ほんとに生きてたんだ……」
「ああ、この子なら……大男さんにつかまっても殺されはしないと思ってたからね」
「?」
「彼、動物が好きなんだよ。とくにキツネは彼の故郷にいたんで、愛着があるらしい」
「動物好き、か……」
 シドも拓馬の飼い犬相手に愛情をもって接していた。いよいよもって同一人物の確信ができあがっていく。
「やっぱ先生なのか……」
「それを確かめるためにも、体育館に行こう」
 シズカは肩掛け鞄から細長い紙を出した。変な字形の漢字が書いてある。
「それ、おフダですか?」
「そう。異界限定で使える道具だ。この世界にもどってから自作してみたけど、なにも効果が出なかった」
「ここなら使える……と?」
「ああ、異界に近い空間みたいだからね」
 シズカは目を閉じて深呼吸する。これから使用する札はどういう性能なのか拓馬は知らされていないが、彼のすることならきっと意味のあることだと信じた。

 拓馬は移動の準備のため、ヤマダの荷物を持った。さきほど拓馬がヤマダを置いていった際に拓馬が散らかした文具類はリュックサックに収納されてある。七つのピースの置き場も、拓馬が取り出すまえの位置にもどっていた。おそらくヤマダが片付けたのだ。言い換えれば、ヤマダは意識のある状態でシドに連れ去られたことになりうる。
(こわかっただろうに、そばにいてやれなかったな)
 拓馬が教室にいたとしても、あの教師にかなう見込みはゼロ。そうと頭でわかっていながら、自分が友人を守るために善処しなかったことをくやんだ。
 気落ちする拓馬の周りに、もくもくと煙が出てきた。シズカを見ると、彼の持つ札が焼け焦げている。札の上部から徐々に黒くなり、塵と化していた。その塵から色のうすい煙がやおら出て、二人をつつむ。
「この煙はなんです?」
「足が速くなる効果がある。ちゃんと効いてるか、ためしてみよう」
 シズカが廊下に出る。数メートル先に異形が、複数うごめいていた。
「おっと、こんなに歓迎してくれるんだね」
「あいつらニブいんで、逃げきれますよ」
「よし、それじゃ体育館までダッシュで案内してくれるかい」
 拓馬は快諾した。リュックサックを背負い、走り出す。床を蹴る感触がさほど強くないにも関わらず、一歩一歩の進む距離が長かった。野生動物のように軽やかに走れている。拓馬の後ろを追うシズカが「ちゃんと効いてるね」と満足げに言った。
 二人は階段を駆け下りる。階段にも黒い連中はいたが、それらを跳びこさんばかりに駆け抜けた。
「こんなに亡人がいるなんて、びっくりだな」
「もうじん?」
「この黒い生き物のことだよ。異界では亡人が人を襲う事件がたびたびあったんだ」
「凶暴なんですか?」
「それがどうとも言えない。おれには亡人の知り合いがいるんだが、そいつはやさしくて気のいいやつだよ」
「個体差があるってことですか?」
「そうかもね。だから、一概にわるい生き物だとは言えないんだ」
 シズカは異形に理解があるようだ。それを聞いた拓馬がひそかに安心する。
(やっぱり、あの子がビビるような人じゃない)
 銀髪の少女は、過剰な自己防衛に走ったのだ。おそらくそれが司令塔の命令なのだろう。
(それはいいとして……解答、どうしよう)
 シズカの的確な補助の影響で、二人はすぐに体育館前に到着した。扉にはなお問題文の書かれた札がある。シズカが札の文字を指でなぞった。
「これは……向こうの文字か。こういう並びは見たことがないけど……」
「それ、スペルは英語なんです。問題は訳してあります」
 拓馬はリュックサック内にあるヤマダのメモ帳をさがした。メモ帳を見つけると、いま必要なページを開く。それをシズカに渡そうとした。そのときの彼は黒い丸薬を飲む最中で、両手がふさがっていた。
「なんの薬ですか?」
 シズカがペットボトルの水で丸薬を押し流した。口の中が空になった彼は「回復薬だよ」と言う。
「友だちをよぶときに使う元気を、はやく取りもどすためのものなんだ。おれにとっての常備薬だね」
 シズカは拓馬が広げたメモをじっと見た。しばらくして彼がうなずく。それが「メモの内容を理解した」という合図だと拓馬は察する。
「あつめた七つのピースを問題の板にはめて、正しく答えられたら扉が開くみたいです」
 シズカは「なるほど」と納得しながらも、鉄扉を開けようとした。扉はびくともしない。
「おれがくればフリーパスになるかと期待したんだがね」
 ビップ待遇はしてくれないか、と冗談半分でシズカは残念がった。拓馬もその意見には同意である。相手方が必要とする役者はすでにそろった。いつまでも面会の場を封鎖する意味があるだろうか。
 シズカはそれきり問題を解く方向へ事を進めた。拓馬は文字の変換表を提示する。
「これの、丸のついた文字とアルファベットが、解答に使う文字で──」
 説明のさなか、拓馬は表の余白に注目する。ヤマダの字で書いた英単語があるのだ。その語句は表中に丸をつけた字で構成されている。しかしそれは六文字までの記述だった。拓馬はシズカと顔を見合わせる。
「あいつ、答えがわかったんじゃ……?」
「その答えをあてはめてみよう。解答に使うものは……」
 拓馬はピースを収納したリュックサックのポケットを開く。シズカは拓馬が開けたポケットに手を入れた。そこからピースを片手でつかめるだけつかむ。拓馬は作業効率を上げるため、のこるピースをすべて自身の手のひらに乗せた。
 解答をこころみるシズカの手際は良かった。拓馬ではいまだに文字の向きが熟知できていないのに、シズカは表を見なくても正しい向きに直せた。異界の文字が頭にインプットされているらしい。
 シズカが最後のピースに手をかけたとき、彼はそのピースの文字をしげしげと見る。
「のこり一個……入れてみようか」
 シズカはアルファベットの「A」にあたる文字の板をはめる。カチっと音が鳴った。鉄扉にかかった札は透明になって、消える。
「あー、答えが消えちゃったね」
 シズカが淡い落胆の声をあげた。
「なんて答えたんですか?」
「フォルトゥナという女神さまだよ。英語のフォーチュンの語源になってたと思う」
 拓馬はシズカが発声した英単語を最近見聞きしたおぼえがある。
「フォーチュン……?」
「『幸運』とか『運命』って意味だよ」
「あ、『グッドフォーチュン』!」
 追試会場の黒板に書かれていた激励の言葉だ。ヤマダが書きのこした六文字を見てみるに、それらはフォーチュンと綴りが同じである。そのことを知ったいま、拓馬は徒労を感じてしまう。
「黒板に書いてあった英文に、この答えをまぜてたのか……」
「最後のアルファベットだけ、スペルがちがうけどね。でもちがう文字がひとつだけならきみたちがチャレンジしてくれる、と彼は思ったんだろう」
 かぎりなく答えに近いヒントが、拓馬たちの目につく場所に用意してあった。その親切心が、拓馬にはすこし憎らしく映る。
「手のこんだヒントだな……フツーにはげましのフレーズだと思った」
「おなじみのセリフに偽装しやすい言葉を、答えにえらんだのかもね」
 シズカが「それで、だ」と真面目な表情になる。
「これでやっと体育館に入れる。……心の準備はいいかい?」
 拓馬はぎこちなく首を縦にうごかした。緊張するが、もたもたしてはいられない。先へ進まねば、もといた世界にはもどれないのだ。
 シズカはにっこり笑ってみせ、鉄扉を開けた。パッと見たところの館内は無人だ。運動器具もない。人気のない体育館に二人が入る。すると乾いた拍手が鳴りだした。音の出所は壇上だった。
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2018年08月05日

拓馬篇−10章4 ★

「It's so great!」
 壇上より、拍手とともに称賛の声があがった。壇上の演台の奥には笑みをたたえた銀髪の教師が立っている。いつもの黒シャツに黄色のサングラスを身に着けた格好だ。異形の少女の話では大男が待ち受けるはずだが、拓馬はおどろかなかった。これは想定しえた一場面だ。
(やっぱりか……)
 みずから正体をあきらかにしていても、教師は人の良さそうな演技を継続している。その対応が殊更彼の空恐ろしさを助長させた。
 不気味な人物がいる演台の側面に、ヤマダが座っていた。演台にもたれかかっている。例のごとく元気を吸われて、ねむっているのだろう。
(しばらく起きなさそうか)
 無事だと知れただけ、一安心できた。彼女を拉致した者が拍手をとめる。
「皆さん、よくたどり着きました」
 偽りの教師は気さくな調子を維持する。
「ツユキさん、貴方にもお越しいただけて感激しています」
 シズカも対抗してか温厚な顔をする。
「お招きありがとう。えーと、あなたのことはなんて呼んだらいいかな。『シド』さん、『ジルベル』さん、それとも『スタール』さんか」
 拓馬には聞きおぼえのない名前が出た。それは銀髪の教師が教師に扮する以前に使っていた名前におぼしい。
「どれでも結構です。すべて、私の名ではありません」
「そうかい。じゃあシドさん、あなたに聞こう。今年の一月から発生した高校生が昏睡する事件と、先月に同じ症状になった小田切くんの件、すべてあなたがしたことか?」
 オダギリ、という名も拓馬は初耳だった。しかしその名に心当たりはある。
(『オダ』ってよぱれてた金髪の本名かな?)
 あの不良少年が現在どうしているか、知らない。病院に搬送された以後、シズカがその居場所を突きとめたはずだが、そこがどこかはまだ教えてもらっていなかった。
 私服警官に問われた教師から笑顔が消える。
「聞いてどうします。私が『はい』と答えて、逮捕できる証拠はありますか?」
「ないね。でもおれは警官だからここにきたんじゃない」
「ではどんな動機です?」
「異人の代表として、あなたを止める」
 その立ち位置こそが、シズカを警官の職に向かわせた理由だ。
「私を制するおつもりなら、屈服させてください。手段は問いません」
「決闘をしようってことかい?」
「はい」
「ご指名がおれ一人だけじゃないなら受けよう」
「もとよりそのつもりです。どうぞ、だれを呼ぶか選んでください。三分待ちましょう」
 シドが懐中時計を手にする。彼が時計をいじる光景を、拓馬ははじめて見た。
「拓馬くん、おりいって頼みがある!」
 シズカは拓馬の両肩をつかむ。
「おれは猿の友だちを呼ぶ。でもこの子じゃ彼はたおせない。あくまで足止め係だ」
「足止め?」
「そうとも。先生をたおすには、ほかの子の助けがいるんだ」
「どうして最初から強いやつを呼ばないんですか?」
「ここへくるまでに力を使いすぎた。回復薬を飲んでも、その子を呼ぶにはすこーし力が足りない」
「じゃ、どうやって力を回復するんです?」
「ヤマダさんから借りる。見たところだいぶ弱ってるが、それでも充分だ」
 拓馬は壇上のヤマダを見ようとした。が、シズカの両手が拓馬の両頬をおさえたせいで、視線をずらせなかった。
「おれがヤマダさんに近づければ勝てる。でも先生はきっとおれのジャマをしてくるはず。だから、だれかが先生の注意を引く必要がある」
「それが、猿の友だち?」
「そう。それと、きみもだよ」
 シズカは無理難題を要求してきた。拓馬はその期待が現実的でないことを、あわてて伝える。
「ムチャ言わないでください! あの人、拳法の達人をあっさり負かしてるんですよ」
「勝たなくていい。負けなきゃいいんだ」
「どっちにしても無理です」
「大丈夫、おれがきみの体を強化しておくよ。この札の力で」
 シズカは肩掛け鞄から札を二枚出した。漢字らしき模様が墨で書かれた札だ。一枚はさきほど見た模様だが、もう一枚は別物のようだ。
「さっき廊下で使ったのと同じ種類もある。効果は期待できるだろ?」
 拓馬は脚力が増幅された体験により、札があれば俊敏性においてシドに遅れをとらない希望が見えてくる。
「はい、まあ……もうひとつのはなんですか?」
「こっちは防御力を高めるんだけど、先生相手だと注意事項が──」
 シズカが話しおわらない間に「三分が経ちます」と無情なタイムアップ宣告がくだる。
「準備はよろしいですか?」
 シドは自身の提示した約束事を守ろうとしている。シズカは拓馬との相談と戦闘支度が完了していない。にもかかわらず、一歩まえへ出る。
「ああ、いいよ。あなたの相手はこの子だ」
 シズカが立つ前方に、こげ茶色の猿が現れる。大きさは一般的なニホンザルと同程度の、人の背の半分。その身に赤い法被を着て、顔にお面を被っている。
 シドが奇異な外見の獣を一瞥した。あまり興味がなさそうに目をつむると、サングラスを外し、それを演台に置く。
「結構。その小さな体でどれほど持つか、試してみましょう」
 シズカが「バレてるかな?」と猿が本命の対戦相手ではないことをつぶやいた。だが前言撤回するかのように声を張り上げる。
「おれたちが勝ったらもとの世界に帰してもらおう。でも、あなたが勝ったらどうするつもりだ?」
「私と同行を願います。我が主《あるじ》がお待ちです」
「そのアルジさんの目的はなんだ? 世界平和のため、というわけじゃなさそうだが」
「答えられません。質問は以上でよろしいですか」
 演台から離れた手には銀色に光るなにかがあった。なんらかの取っ手部分のような、金属製のもの。それを見たシズカがまた別の質問をする。
「そのナックル、おれの知人があなたに造ってあげた物かい?」
「そうです。術が不得意な私に合わせていただいた武器です」
「それは悪事の手助けをするために造った道具じゃない。自分と他者を守るために与えられたはずだ」
「御託を聞くつもりはありません」
 壇上よりシドが飛びおりた。彼がシズカめがけて駆ける。もう話し合いは無しのようだ。その唐突な戦闘開始ぶりに拓馬はとまどう。
(うわ、まだシズカさんの援護をもらってないのに……)
 襲来する者と対峙する者、二人の間に猿が入る。猿は両手の爪を急激に長くのばした。生やした爪で襲来者を威嚇する。シズカは「いまのうちに」と札を二枚広げた。札が二枚、同時に塵となる。
「速さと耐久力を高めておいた。これで戦いやすくなるはずだ。でも注意点がある。あの先生のナックルは食らわないようにしてくれ」
 早口でシズカは説明をすませると、壇上に向かって走りだした。

posted by 三利実巳 at 23:55 | Comment(0) | 長編拓馬 

2018年08月07日

拓馬篇−10章5 ★

 シズカはヤマダのいる壇上へ駆ける。その進路に、長身の男が立ちふさがる。彼もシズカの作戦は予想がついているのか、シズカの進行をはばもうとした。
 シズカが呼び出した猿が、全身を使って敵の足にまとわりつく。猿は両手両足を使い、敵の捕縛に徹する。つまり、無防備な状態だ。敵はその隙を見逃すことなく、猿の背に鉄拳を落とす。鈍い音が鳴る。重い一撃をもらった猿は床に伏した。
「ごめん、エーコちゃん!」
 シズカがさけんだ。それと同時に一枚の札をシドに向ける。札は上下にやぶけ、分かれた隙間から渦を巻く風が生まれる。渦は散り散りになった札を巻きこみ、床と並行にのびる竜巻となった。横向きの竜巻はシドの腹部に命中する。質量のある長身が、軽々と体育館の後方へ押しやられた。
(こんなこともできるのか!)
 拓馬はシズカ自身に魔法的な攻撃手段があるとは思っていなかった。それゆえ「なんでそれを最初から使わないんですか!」と大声でたずねる。
「俺をあてにしなくたって──」
「これじゃ先生はたおせない。ジリ貧になるんだ!」
 あとは任せたよ、とシズカが改めて壇上をめざした。シドは館内の用具室の前まで飛ばされ、片膝を付く状態だ。しかしすっと立ち上がる。彼は無傷のようだ。シズカの読みどおり、あの程度の攻撃では屈さないらしい。
 拓馬はちらっと猿の様子を確認した。ついさっきまでシドと格闘した猿はまだたおれている。いま、敵に立ち向かえるのは拓馬だけだ。
(俺が、先生を止める……?)
 無謀な挑戦だとわかっていた。だが、こうして拓馬がまごつく間にも、シドはまたシズカにねらいをさだめている。ここで臆してはシズカが負けてしまい、拓馬とヤマダも敵に拉致されることとなる。皆が不幸になるのだ。
(四の五の言ってられないな……!)
 拓馬は自身をふるいたたせ、背負っていたリュックサックを壁際へ放り投げた。そしてシズカとシドの直線上をふさぐように立つ。
「先生、手合せをたのむ!」
 このフレーズは以前、拓馬以外の者が発していた。強い者が好きな三郎だ。この男子はシドの強さにほれこみ、何度か組手を要求したことがある。そのときに笑顔で応じた教師の面影は、すでになかった。
 元教師は生徒を障害物として避けようとする。拓馬は両腕をのばして、シドの進行をさえぎる。彼の青い目が拓馬に向けられる。
「どきなさい!」
 威圧する命令と蹴りが飛来する。拓馬はとっさに両腕を縦にして、防御する。きたる衝撃は重く、数歩後ろへのけぞる。しかし痛みは感じなかった。腕がしびれる感覚もない。
(これが、札の効果か)
 猛攻を無痛ですませるとはおどろきだ。そのことを知った拓馬は気がかるくなった。これならシズカのねらい通り、時間を稼げる。
 シドは次に右拳を振るう。拓馬はシズカの助言にしたがい、ナックルに触れないように避ける。しかし鉄拳は二つもある。ひとつめを回避したあとの連撃を想定して、拓馬は左拳の挙動に注意をはらった。
 突然、敵方の姿が視界から消えた。直後に拓馬の視野が転回する。床の感覚がなくなった、かと思うと、仰向けでたおれてしまった。どうやら足払いをかけられたらしい。シドの拳を警戒するあまり、足元がお留守になっていたのだ。
「貴方も素直が過ぎるようですね」
 その言葉とともに、シドの左拳が拓馬のみぞおちへ落ちる。拓馬は緊急的に腕で攻撃を受け止めた。拳の衝撃は人体をつらぬき、床までとどく。床の振動で拓馬の体がすこし跳ねた。その衝撃にたがわず、この攻撃は骨が折れんばかりに痛い。きっと札の援助がない状態で受ければ本当に折れていたのだろう。
 拓馬は急所に一撃を食らい、瞬間的に呼吸ができなくなった。思わずむせる。しかし、ひるんでいるヒマはなかった。敵の追い打ちがこないうちに、体勢を立て直さねばならない。拓馬は体を転がし、うつ伏せの状態になる。
(まだ、足止めしないと……)
 その一心で床に両手をつき、上体を持ち上げる。この隙に攻撃がこないものかと顔を上げた。するとシドの横顔が見える。敵の注意はすでに壇上のシズカにある。拓馬のことは戦闘不能者と見做しているらしい。
(行かせるか!)
 拓馬の両手が床をはなれ、片膝をつく。そのとき、進撃を防ぐべき者の足が止まった。彼はなぜかシズカのいない方向へ跳ぶ。シドがいた場所に、薄茶色の巨大な獣が降り立つ。体高がシド並みに高い、尋常でない大きさの獣だ。その体躯や顔つきは狼に似ている。
(これが、先生をたおせる仲間?)
 巨狼は巨躯に似つかわしくない軽やかさで敵に跳びかかった。シドが鉄拳で迎撃する。巨狼は打ちこまれる拳をまったく意に介さず、分厚い毛皮で受けとめる。そのまま太い前足をシドの両方の二の腕に、強靭な後ろ足をシドの両足へ乗せた。
──捕縛の成功だ。

 シドはナックルを放り、巨狼の足を手でどかそうとする。巨狼の体重がシドの怪力に勝るのか、縛が解かれる様子は微塵もない。これでシドを生かすも殺すも、巨狼次第となる。
 巨狼を使役するシズカが、仰向けになったシドに接近する。
「やっと捕まえた。さ、おれたちを元の世界へ帰してくれ」
 シズカはほほえみながら言う。対するシドは無表情だ。
「私を消せば術は解除され、すべて元通りになります」
 消す、ということは死ぬことと同義だろうか。拓馬はシズカの顔色を見て、シドの真意をさぐろうとした。
 シズカの表情が凍る。
「……死ぬ気かい?」
 やはり物々しい申し出だったのだ。拓馬は二人ののっぴきならない会話を見守る。
「昔の私の呼び名をご存知ならば、重ねた罪状も知っておいででしょう。……早く断罪を。貴方にはその力と天意がある」
 決然とした物言いを前にし、シズカも真剣な顔つきになる。
「ほかに、言いのこすことは?」
 シズカの言葉は暗に、シドの要求を飲むようにも聞こえた。拓馬はまことにシドが誅滅されるのかと思うと、それが妥当な処遇なのかもしれないという納得と、この数ヶ月親交のあった人物がこの世界にも異界にも存在しなくなることへの同情がないまぜになった。
「……エリーと名付けられた同胞がいます。あの子は人を傷つけたことがありません。おそらく、これからも他者に危害を加えることはないでしょう。それをどうか胸に留めおいてください」
 シズカが重々しくうなずく。その仕草を見届けたシドは目を閉じる。それまで巨狼の脚を除けようと抵抗した手が、床へ投げだされる。
「もっと早く、こうするべきでした」
 淡々とした声が響いた。その言葉は心から出てきたものだと拓馬は感じた。
(先生が、この空間をつくった理由……)
 赤毛が推測した、ヤマダの力を確認する試験場ではない。シドみずからが討たれるために用意した墓場──その意図が、彼の懺悔からうかがい知れた。
 シズカはだまってしまい、シドもまた耳目を閉じている。両者の決定に拓馬は口をはさめる立場ではないが、率直に「どうするんですか?」とシズカにたずねた。
「どうするかは──」
 不意に鉄扉の開く音が鳴った。扉を開け放った者は銀髪の少女だった。拓馬がそう認識したときには、彼女がシズカめがけて跳びついていた。シドを拘束する巨狼が迎撃の姿勢を見せる。だが「アオちゃん、待て!」と主人のおあずけを食らう。巨狼の助けをこばんだシズカは、少女の体当たりを受け止めて、たおれた。
「消さないで! おねがい!」
 少女はシズカにしがみつき、精一杯の助命を求めた。
「隠れるように言ったはず!」
 シドの怒号が飛ぶ。これが拓馬がはじめて見る、彼のはっきりとした負の感情だった。
 怒気を浴びた少女は肩をすぼめる。それでも彼女はシズカから離れない。
 たおれていたシズカは頭を上げた。少女と目線が合う。
「きみがエリーっていう子?」
 エリーは「うん」と答えた。シズカが「それなら話は早い」とにっこり笑う。
「最初からきみの仲間を消す気はないよ。だから安心してくれ」
 この言葉には少女だけでなく、拓馬も胸のつっかえがなくなる思いがした。
 シズカが「おりてくれるかな」と少女に頼む。エリーは素直にしたがった。
 シズカは体を起こした。巨狼に命令を出し、シドを解放する。寝そべるシドに、少女が嬉々として抱きついた。そのかたわらには巨狼が控える。この獣は人型の異形を見張っているらしい。シズカが巨狼ののどをなでて「もう大丈夫」と警戒心をゆるめさせた。
 シドが片膝を立てて座り、シズカをにらむ。
「どういうつもりですか?」
 シズカは巨狼から手をはなした。その表情は平常通り、緊迫感のない顔だ。
「おれは……罪の重さを理解し、悔いている者を、頭ごなしに罰する気にはなれない」
「罰さずに、どうするのです?」
「おれの役目はあくまで罪人の逮捕。あとは役人や被害者に罰を決めてもらうよ。といっても役人は異界のもこっちの世界のも、あなたの犯行を把握しきれちゃいない。おまけにこっちの被害者は被害当時の記憶を消しちゃったしで、身柄を渡せる相手は異界の被害者になるな」
 シズカは犯人を罰を受けないまま釈放するつもりはないようだ。それを知ったシドは憤怒の面持ちをやめ、自身にすがる少女をあわれんだ目で見る。少女は一転して不安顔になった。
「正当な報いです。わかってください」
 シドは少女をさとした。そのやり取りを見たシズカが語り出す。
「本当に罪を悔いているんなら、おれに処断されるのはお門ちがいだ。そんなラクな方法をとるまえに、あなたが会える限りの被害者の生き残りに詫びるんだ。たとえばあなたに家族を奪われた男の子は、おれの時間軸だと老いて病に伏せっていた。だけど立派に生きている。まずはその人に、あなたが会えるのなら償ってもらおう。おれが手を下すのは、被害者がそう望んだときだけだ」
 シズカはしゃがんだ。おびえた目で見る少女に、シズカは悲しく笑ってみせる。
「彼はいろんな人の、大事な家族をうばってしまった。それはきみにとっての彼と同じくらい、大切な人だった。だから、彼は謝らなくちゃいけない」
「消しちゃうの?」
「そうならない、とは約束できない。おれはそれが適切な罰だとは思わないがね」
 シズカが立ち上がり、今度は拓馬を見る。
「ヤマダさんを担いでもらっていいかい? おれも手伝うからさ、早いとこ帰ろう」
「でも、帰るには先生を……」
 たおさなくてはいけない、と言おうとする拓馬を、シズカが人差し指を立てて止める。
「方法はそれだけじゃない。ちゃんと本人が術の解き方を知っているはずさ。なにせ、おれの知り合いの弟子なんだ。正規の解除方法がわからない危険な術なんて、教わらないと思うよ」
 シズカは「それじゃ解除をよろしく」とシドに言いつけた。そして薄茶の巨体生物が消え去る。シドへの抑止力となる獣を、シズカが帰らせたのだ。そのことに拓馬はおどろく。
「え、いいんですか? あの狼をもう帰らせて」
「だいじょーぶ、先生は襲ってこないよ。彼がやりたかったことは、おれたちを連れ去ることじゃなかったんだからさ」
 シズカも拓馬と同じ心境にいたっていたのだ。拓馬はうなずいて「俺もそう思います」と答えた。
posted by 三利実巳 at 00:30 | Comment(0) | 長編拓馬 

2018年08月08日

拓馬篇−10章6 ★

 シズカと拓馬は壇上へ向かう。壇上にてヤマダが演台にもたれかける様子を拓馬は記憶していた。いま見てみると彼女は壇上で横たわっている。
「あれ? あいつ、体勢が変わってるような……」
 拓馬たちが体育館にきたとき、彼女は壇上にある演台にもたれかかっていたはずだ。
「おれがああしたんだ。ヤマダさんから力を分けてもらうときに、ちょっと姿勢をくずさせちゃってね。変なことはしてないから、信じてくれよ?」
「わかってますよ」
 拓馬はシズカの潔白を疑わなかった。次に拓馬は壇へのぼる方法を考える。式典のときにはよく移動式の短い階段が設置されるが、現在は撤去されてあった。それがないと一メートルは高さのある壇からの上り下りが穏便にできない。
「壇にあがる用の階段、さがしてきましょうか?」
「二人がかりなら無くてもいいんじゃないかな。おれが壇にのぼるから、拓馬くんは下でヤマダさんをおぶってほしい」
 シズカが壇に両手をついた。ぐっと体を持ち上げ、壇上に片足ずつのせる。壇へのぼったシズカはさっそく、ヤマダの背後から彼女の両腕を持った。
「それじゃ、下ろそう」
 壇の縁までヤマダを引きずる。そこで方向をかえ、被救護者の両足を下ろす。拓馬は壇に背を向け、前傾姿勢になる。そのとき、銀髪の二人も壇の付近にいることに気付いた。彼らは拓馬たちには無関心のようだ。
(ヤマダを運ぶのを手伝う、って感じじゃないな)
 拓馬は自身の体に人一人分の重さが加わるのを感じながら、二人の動向を見守った。シドが壇の壁をうごかす。そこには式典で使われるパイプ椅子と滑り止め用の薄いマットが収納されている。壇下の格納庫にエリーが入った。壇上にいるシズカは不思議がって「この下に、なにかあるの?」と拓馬にたずねた。
「あ、壇の下はちょっとした倉庫になってて……」
「へえ、倉庫?」
 学校の造りに詳しくないシズカが壇上からおりた。彼は開いた壇の壁の奥を見つめる。
「これは言われなきゃ気付かないぞ。ここに、術の仕掛けがあるのかい?」
 シズカがシドに問うと「はい、あります」とほほえんだ。死闘を演じたあとでいながら、シドはすっかり平時の篤実な教師にもどっている。まだ腕が痛む拓馬には信じがたい早変わりだ。
(切り替えがはえーな……)
 人のよい教師と無骨な大男、その二つを演じ分けた者のなせる業なのかもしれなかった。

 拓馬が周囲のなごやかさに置いてけぼりを食う中、格納庫からエリーが出てきた。その両腕に平たく丸い石がある。その形状は一段だけの鏡餅のよう。不思議なことに、淡い光をはなっていた。シズカが発光する石に注目する。
「それがこの空間をたもつ術具か」
「はい。手元にあるものでつくりました」
「器用なことをするもんだね。これを壊したら帰れるのかい?」
「そうなのですが……ここで解除すると、元の世界の体育館に行き着くかもしれません」
「ん? なんかまずい?」
「人目につくかと……部活動をする子たちがいますから」
「そっか、せめて体育館は出ておこう」
 シズカがヤマダのリュックサックを回収し、鉄扉を開ける。一行は一時、館外へ出た。全員が通路へ出ると、シズカは鉄扉を閉める。
「ここでいい? それとも、試験をする教室まで行くかい?」
「ここにします。この場なら人目についても、体育館から出てきたのだと思われそうですし」
 少女が抱える奇妙な石を、シドが受け取る。彼が持ったとたんに石の光は失われ、粉々に砕けた。砕けた石の粉は消えてなくなる。彼の手中には紫色のガラス片だけがのこった。
(あ、小瓶に入ってたやつ……)
 シドの仕事机にあった石と同じものだ。赤毛が言った「石が空間をつくる補助になっている」という見立ては正しかったようだ。
 周囲に熱気がこもってくる。外から蝉の鳴き声が聞こえた。そしてたったいま出た館内からも、ボールが床をつく音や人の走る音も鳴った。生命の気配がもどってきたのだ。
(もどるときって、案外フツーなんだな)
 拓馬とヤマダが異空間に連れてこられたときは気絶させられていた。その落差を意外に感じつつも、拓馬は安堵の一息をついた。
 さいわい、体育館前には人がだれもいなかった。そこでシドが「いかがしますか?」とシズカに今後の行動を問う。
「その、私の償いはいつ──」
「それはあと! まずはいまやることをやってかからないとね」
「と、言いますと?」
「ヤマダさんの追試を優先しよう。そうしなきゃ、彼女が夏休みをすごせないんだろ?」
「おっしゃる通りですが、いまのオヤマダさんは試験ができる体調ではないと思います」
 拓馬の背には就寝中のヤマダがいる。いろんな人から元気を吸われて、現在はヘロヘロな状態にちがいない。これは試験の日を改めたほうが無難そうである。
「ほかの日にずらせることって──」
 拓馬が提案しかけたのをシズカが「ちょっと待った」とさえぎる。
「すぐに復活できる方法がある。おれの友だちを呼ぶんだ」
「シズカさんの友だちって、疲労回復までできるんですか?」
「うん、体調不良はなんでも治療できる知人がひとり、ね」
「はー、そら便利な……」
「その代わり、おれがしんどくなる」
 シズカは冗談めいて言った。だが本当のことだ。拓馬はそういった現象に立ち会っている。一時的にヤマダの仲間になった武者が、ヤマダの力を借りて戦い、ヤマダがたおれる事態になったのと同じ理屈だ。
「わかりました。その手でいきましょう」
 シドは二つ返事でシズカにしたがう。一同は二階の空き教室へ向かうことになった。
 エリーはシドの背後からおぶさるかのように、彼の両肩に腕をのせる。ヤマダを背負う拓馬の真似をしているようだった。シドは仲間の行動に一言もふれない。なので拓馬とシズカも言及しなかった。

 拓馬たちは階段に向かう。廊下にて、後ろ手を組みながら歩く中年男性に遭遇した。この中年は校長である。額の面積が広い彼は拓馬たち一行に気付くと、早歩きで接近してくる。
「おお、シド先生! それにも露木さんも。お二人はお話ができましたかな」
「ええ、まあ……」
 校長はシドの背にいるエリーに気づかずに話す。彼女は常人に見えない姿でいるらしい。
「いやはや、二人とも忽然と消えてしまったからどうしたものかと──」
「校長、勝手に追試を放棄して、申し訳ありません」
「いや、気にしないでくれたまえ」
 低頭するシドに対し、校長は太っ腹なおおらかさで応じる。
「きみにはふかーい事情があったのだと思う。仔細は聞くまい、無粋ゆえ!」
 校長はいたく上機嫌だ。なにかうれしいことがあったのだろうか。
「成績は期日までに出してくれればいい。細かいことにはこだわらんよ」
「お許しいただけるのですか?」
「そうとも! きみと小山田くんは身持ちが堅いから、安心して見ていられるというものだ」
 校長は「存分に逢瀬を楽しみたまえ!」と言いのこし、スキップしていった。
(なんかカンちがいしてるみたいだな……)
 教師と生徒が試験をすっぽかす間、その二人がいちゃいちゃしていた、とでも校長は思ったらしい。その能天気さのおかげで不可思議な事情を不問にされた。それは痛い腹をさぐられたくない拓馬たちにとって幸運である。しかし──
「これが現実か……」
 と拓馬はぼやき、全身に疲労を感じた。念願の帰郷に際して出迎えてくれた人があれでは、ありがたみがうすれた。
「二人は校長公認の仲?」
 シズカは真顔でシドにたずねる。質問された側は首を横にふる。
「校長の偏見です。私にはそういった感情がありません」
「うん、それはおれの知り合いからも聞いてる。でもヤマダさんのほうは?」
「オヤマダさんも、校長が考えるような色恋の情はないと思います」
「そうなの?」
 シズカは拓馬に聞いてきた。拓馬もはっきりしたことはわからない。
「俺もどうなのか、ちょっと……友だち感覚だとは思うんですけど」
「じゃ、校長さんの思いこみのおかげで責任追及を回避できたわけか。結果オーライだね」
 以降、三人はだれともすれちがわずに二階の空き教室に到着した。シズカが教室内の椅子をうごかす。
「ここにヤマダさんを座らせてくれ」
 拓馬はヤマダを席に着かせた。シズカはヤマダの荷物をそばの机に置く。
「友人を呼ぶまえに、先生に聞いておこうか」
「なんでしょう?」
「先生の仕事って、いま立てこんでる?」
「いえ、この追試に関わること以外は、いそがしくありません。なぜそれをお聞きになるのです?」
「先生の仕事がおわったら、おれと一緒に向こうへいこうかと思って」
 罪人の表情がけわしくなる。
「あちらで、私の被害者に会うのですね?」
「ああ、まずはこれまでの犯行とその動機を聞かせてもらう。そのあと被害者に会って、被害者希望の罰を受ける。その段取りでいいかい?」
「貴方の意向に従います」
「いい返事だ。おれは近所の喫茶店にいるんで、あとで合流しよう。案内はちゃんとつけるからね」
「案内は遠慮します。この子を、貴方に同伴させますので」
 シドの背に乗っていた少女が床に立った。シズカは「わかった」と了承する。
「そうしてくれるとたすかる。おれも力の消費っぷりがひどいんだ」
 シズカは目を閉じた。口元を手でおおうと、シズカの周りの景色がゆがむ。ゆがみは人の形を成し、人らしい色が着く。着色後、白いコートを着た黒髪の男がシズカのとなりに現れた。無表情な男性に、シズカが笑いかける。
「クラさん、薬を分けてくれる?」
 うねった長い髪の男は懐に手を入れ、小さな包みを出す。
「……お前が直接、精気を渡せばいいだろうに」
「用事はそれだけじゃない。この子の体をちょっと治してほしいんだ」
 シズカは包みを受け取るかたわら、拓馬を指さした。長髪の男性は拓馬をじっと見る。
「腕にあざができているな……」
 拓馬は自身の前腕を見てみた。たしかにナックルに触れた部分は赤紫色に変色している。
「お前がついていながら、ケガをさせたのか」
「むかしの教え子くんにナックルをあげたろ? あれを食らった子なんだ、療術で全回復しておいてよ」
 男性はシドの顔を直視する。シドは一礼して「お久しぶりです」と言った。
「こんな男は知らん」
「え……」
「私が術を教えた男はもっと素朴で、心やさしい若者だった。他者をなげき悲しませるようなやつは知らん」
 男性はシドの過去を責めている。そうと知ったシドは「返す言葉はありません」と一言答え、男性から顔をそむけた。
 かつての教え子を叱責した男性が、拓馬の右手首をつかんだ。前腕部分をさわられると痛みが走る。
「いっ……そのへん、モロに食らったとこなんで……」
「わかった。すぐに治す」
 男性の手があたたかくなる。あたたかみは右腕から背中へ伝わり、左腕まで達する。その感覚に拓馬は既視感をおぼえる。
(あれ? この感じ、はじめてじゃないような)
 拓馬の父がケガの回復をはやめてくれるときも、このようなあたたかい力を感じていた。拓馬が負傷部分を見ると、すっかり肌の色がもとにもどっている。
(もしかして、父さんの力もリョウジュツってやつなのかな)
 その疑問を男性にたずねてみたかったが、彼は治療を終えるとさっさと教室を出てしまった。出ていく背中に対し、シドが「治療していただき、ありがとうございます」と謝辞をのべた。
 拓馬の治療の間にシズカはヤマダの服薬はすませたようで「拓馬くんには夜に連絡するね」と言って、彼も退室した。この場は教師と二名の生徒だけになる。
「ネギシさんは、ここにいますか?」
 教師は突然な質問をしてきた。彼の言わんとすることは、拓馬の想像がついた。
「オヤマダさんを一人にしては気が休まらないでしょう。この教室で読書や宿題をして、時間をつぶしていてもかまいません」
 シドは「試験の準備をしてきます」と言って教室を出た。拓馬は教室にのこるか帰るか、選択を迫られている。
(心配っちゃ心配だけど……)
 シドの目的はシズカに打倒されること。拓馬たちはそのダシに使われたのだ。拓馬がシドを警戒する必要はない。だがほかに懸念はあった。
(こいつがちゃんと家に帰れるかってことが心配かな?)
 拓馬は本日何度目の居眠りをしたかわからない女子を見る。弱っている彼女をひとりで帰らせるのは心もとない。一緒に帰宅するか、と拓馬は考えた。
 居残りを決意した拓馬は自分の荷物を取りにいく。自席にあった鞄を持った。その際、ふと現在の時刻が気になって、教室内の時計を見る。あの異空間に二、三時間は閉じこめられていたように感じたのだが、時計の針はせいぜい三十分ほどしかうごいていない。
(あの中だと時間の流れ方がちがうのか?)
 シズカに聞いた異界の特徴によれば、あちらで何年すごそうしても、もとの世界では数分程度の時間経過ですむのだという。異界の特性に近いという異空間も、似たようなものなのだろう。
 ひとつ疑問が解消できた拓馬は空き教室へもどる。このときにはヤマダが起きていた。彼女は狐につままれたような顔で、拓馬を見る。
「ねえタッちゃん、わたしはここでずっとねてた?」
「いや、いろんなとこでねてたよ。ここの下の教室とか、向かいの校舎の階段とか」
 拓馬が具体的な就寝場所をあげていく。ヤマダは拓馬と共通の記憶を有していることを知って、笑顔になる。
「あ、じゃあ夢じゃないんだね、あれ」
「ああ、くわしい話は追試がおわったあとでな。俺もここにのこるから」
 ヤマダが試験に集中できるよう、拓馬は彼女の視界に入らない位置を陣取った。拓馬の時間つぶし方法は、夏休みの宿題だ。国語の問題集をひらき、課題に指定されたページをさがした。
 拓馬が自習の姿勢をとる中、シドが追試用の問題と答案用紙を持ってくる。ヤマダは緊張した面持ちでシドを見ていた。彼が渡す紙を、無言で受け取っていた。
「貴女が解答を終えれば試験終了です。一発合格できるよう、がんばってください」
 シドは教卓に着いた。ヤマダは一言も発さずに試験問題を解きはじめる。拓馬も宿題に手をつけた。
 ときおり、時刻の確認がてらシドを見る。その様子はさっきまで熾烈な戦いを行なった者とは思えないほど、おだやかだった。
posted by 三利実巳 at 02:55 | Comment(0) | 長編拓馬 
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