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2018年07月21日
拓馬篇−9章2 ★
「なあ、俺たちっていつになったらここを出させてもらえるんだ?」
拓馬は自分たちを監禁した者の縁者に問う。銀髪の少女はヤマダに寄り添ったままだ。
「わかんない」
「あの大男はお前にも教えてないのか?」
「うん……」
少女がうなずいた。知らないのなら仕方ない、と拓馬は別の質問に切り替える。
「あいつはどこにいるんだ?」
「いちばん広いへや」
拓馬は学校でもっとも広い一室がどこかを考えた。図書室、職員室、食堂、校長室、道場など、一通り思い浮かべてみたがどれもピンとこなかった。一番面積の広い場所はグラウンドだが部屋ではない。その次に広い場所は体育館。現在は扉が開かない箇所だ。
「体育館を部屋って言うか……? まあいいや、その男はそこでなにをしてる?」
「まってる」
「なにを待ってるんだ? 俺たちか?」
「もうひとりまってる」
「それはシズカさんか?」
「その人のつかいがくるんだって」
「『つかい』?」
「きたよ」
教室の戸からコツコツと固い物が当たる音がした。拓馬が音の出所へ注目すると白い烏がアクリル窓をつついていた。その烏はシズカの仲間だ。拓馬は助けがきたのだと心の中で歓喜する。即座に席を立ち、烏を教室へ入れた。烏はヤマダの近くにある机に着地する。その足には細長く折りたたんだ紙が結んである。拓馬がその紙を広げる。差出人不明だが、拓馬宛ての手紙だった。
≪タクマくんへ。ヤマダさんを守らせていた子と連絡ができなくなった。その子は毛が白くて首に鈴を付けた狐だ。ヤマダさんの近くにいるだろうか? 返信求む。≫
「……キツネって……」
拓馬はヤマダを見た。彼女を護衛する狐はいない。そもそも今朝から狐は見ていなかった。試験中にヤマダが襲われたことはシズカに伝えてあり、現在は日中もヤマダを守る手はずになっている。姿を見せなくとも付近にいるもの、と拓馬は楽観視していた。だが狐がシズカと連絡を取れないのなら、狐は正常な状態ではないことになる。
拓馬はこのことも少女にたずねる。
「……お前は白いキツネを見たか?」
「うん」
「いまはどこにいる?」
少女は「あのへん」と中庭を挟んだ校舎の上部を示した。反対側の校舎の二階だろうか。
「キツネがどうなってるか、わかるか?」
「生きてないし死んでもない」
「どういう意味だ?」
「ヤマダかシズカ、もとにもどせる」
「なんでその二人なんだ」
「そういう力、もってるから」
少女は正直に話しているのだろうが、拓馬の要領を得ない。
(引き出しの開け閉めができるのと、関係あるのか?)
拓馬や赤毛にはできないが、ヤマダにできること──いまのところ、特定の机と箱の引き出しの開閉はヤマダの特権となっている。それ関連の能力かと拓馬は心に留めた。
突然、烏が拓馬の手をつついた。返信を書け、と催促しているらしい。
「あ、わるいな。いま返事を書くよ」
拓馬はヤマダの文具を用い、メモ用紙に現状報告を書く。狐は姿を消したこと、自分たちが妙な学校に閉じこめられたこと、狐はこの閉じた空間の中にいるらしいことを記した。紙を折りたたみ、烏の足に結ぶ。役目を達成した使いは羽ばたき、飛び去った。
(無事にとどけてくれよ)
拓馬はそう念じた。あの烏が拓馬たちの生命線であると信じて。
烏が通ったあとの戸は開けっ放しである。拓馬は廊下の様子を確認したのち、引き戸を閉める。シズカと連絡がとれた歓喜のせいか、戸を強くうごかしてしまった。ドンという音とともに戸が反動する。拓馬は力加減をまちがえたことを反省し、そっと戸を閉めた。
拓馬が出した物音のせいだろうか。ずっとうつむいていたヤマダの頭がうごいた。拓馬は彼女の私物を使ったことを伝える。
「お前がねてるあいだ、紙とペンを使わせてもらったぞ」
「……んー? あれ、居眠りしてた?」
寝起きの生徒が頭を上げた。ヤマダがはじめて少女姿の化け物と対面する。ヤマダはわずかに身を引き、驚愕した。少女と手をつないでいることに気付くと、もとの姿勢にもどる。だが見開いた目は変わらない。
「あー……そうだ、大変なことになってるんだったね」
「ああ。でもシズカさんの使いがきたんだ。ちょっとは状況がよくなるぞ」
「それは心強いね。……あれ?」
ヤマダは席にもどってきた拓馬の顔を見る。
「そういえばわたしのそばに白いキツネがいるんだっけ。その子はどうしてるの?」
「今朝から見てないんだ。シズカさんも、連絡が取れないと手紙に書いてた。んで、そいつが言うには、向かいの校舎の二階あたりで捕まってるらしい」
拓馬が「そいつ」と称した銀髪の少女を指し示す。ヤマダは少女の顔をまじまじと見た。元黒い化け物だった者へ向けた視線は、しばらく経つと拓馬へ移される。
「この子が、さっきの黒い子?」
「そうだよ、お前がこの姿を想像したからこうなったんだとさ」
「たしかに、声が女の子かなーと思ったのと、シド先生を思い出しちゃって……」
「なんで先生のことを思い出してたんだ?」
ヤマダは口ごもった。「なんでって……」と少女と見つめ合う。
「ほんとは試験の時間なのに、こんなことになっちゃって……先生、心配してるかなーと思ったんだよ。そんな想像で、この子が人間に変身できるんだね」
やや早口でヤマダが答えた。本心とズレた理由を言っている、と拓馬は直感する。
(ほんとうは先生が化け物の仲間だって、思ってんじゃないか?)
いまにして思うと、追試のはじまるタイミングで異変が起きたこと、謎解きの数々が英語を使用する二点は怪しい。これらは新任の英語教師を騒動の原因だと疑える事実だ。
(わかってても、認めたくないのか……?)
その気持ちがわからなくはなかった。あれほど友好な関係をきずいてきた相手が、自分たちをあざむいていたとは信じられないのだ。
拓馬は彼女を傷つけぬよう、あえてヤマダのごまかしの言葉にのっかる。
「シズカさんの猫はいろんな人間に化けられるっていうからな。異界の連中はわりとカンタンに人に化けるもんなんじゃないか?」
「化け猫と一緒かあ……ところで、この子の名前は聞いた?」
「ないらしい」
「んー、ないのは不便だね。パッと思いついたところで……」
ヤマダは首をひねった。十数秒が経過したのちに少女を正視する。
「黒人女性歌手に、本名がエリノーラという人がいたの。ほかに偉い女性のなかでエレノア・ルーズベルトという人もいてね。そこからとって、エリー。仮にそう呼んでいい?」
少女は「うん」と二の句を告げずに快諾する。あっさりしたやり取りだ。
(こいつ、けっこう素直だな……)
少女の従順さをを逆手にとって、大男の計画を根掘り葉掘り聞き出すことはできる。だが赤毛が教室の戸をがらがらと開けて入室したため、その聴取は中断さぜるをえなかった。
拓馬は自分たちを監禁した者の縁者に問う。銀髪の少女はヤマダに寄り添ったままだ。
「わかんない」
「あの大男はお前にも教えてないのか?」
「うん……」
少女がうなずいた。知らないのなら仕方ない、と拓馬は別の質問に切り替える。
「あいつはどこにいるんだ?」
「いちばん広いへや」
拓馬は学校でもっとも広い一室がどこかを考えた。図書室、職員室、食堂、校長室、道場など、一通り思い浮かべてみたがどれもピンとこなかった。一番面積の広い場所はグラウンドだが部屋ではない。その次に広い場所は体育館。現在は扉が開かない箇所だ。
「体育館を部屋って言うか……? まあいいや、その男はそこでなにをしてる?」
「まってる」
「なにを待ってるんだ? 俺たちか?」
「もうひとりまってる」
「それはシズカさんか?」
「その人のつかいがくるんだって」
「『つかい』?」
「きたよ」
教室の戸からコツコツと固い物が当たる音がした。拓馬が音の出所へ注目すると白い烏がアクリル窓をつついていた。その烏はシズカの仲間だ。拓馬は助けがきたのだと心の中で歓喜する。即座に席を立ち、烏を教室へ入れた。烏はヤマダの近くにある机に着地する。その足には細長く折りたたんだ紙が結んである。拓馬がその紙を広げる。差出人不明だが、拓馬宛ての手紙だった。
≪タクマくんへ。ヤマダさんを守らせていた子と連絡ができなくなった。その子は毛が白くて首に鈴を付けた狐だ。ヤマダさんの近くにいるだろうか? 返信求む。≫
「……キツネって……」
拓馬はヤマダを見た。彼女を護衛する狐はいない。そもそも今朝から狐は見ていなかった。試験中にヤマダが襲われたことはシズカに伝えてあり、現在は日中もヤマダを守る手はずになっている。姿を見せなくとも付近にいるもの、と拓馬は楽観視していた。だが狐がシズカと連絡を取れないのなら、狐は正常な状態ではないことになる。
拓馬はこのことも少女にたずねる。
「……お前は白いキツネを見たか?」
「うん」
「いまはどこにいる?」
少女は「あのへん」と中庭を挟んだ校舎の上部を示した。反対側の校舎の二階だろうか。
「キツネがどうなってるか、わかるか?」
「生きてないし死んでもない」
「どういう意味だ?」
「ヤマダかシズカ、もとにもどせる」
「なんでその二人なんだ」
「そういう力、もってるから」
少女は正直に話しているのだろうが、拓馬の要領を得ない。
(引き出しの開け閉めができるのと、関係あるのか?)
拓馬や赤毛にはできないが、ヤマダにできること──いまのところ、特定の机と箱の引き出しの開閉はヤマダの特権となっている。それ関連の能力かと拓馬は心に留めた。
突然、烏が拓馬の手をつついた。返信を書け、と催促しているらしい。
「あ、わるいな。いま返事を書くよ」
拓馬はヤマダの文具を用い、メモ用紙に現状報告を書く。狐は姿を消したこと、自分たちが妙な学校に閉じこめられたこと、狐はこの閉じた空間の中にいるらしいことを記した。紙を折りたたみ、烏の足に結ぶ。役目を達成した使いは羽ばたき、飛び去った。
(無事にとどけてくれよ)
拓馬はそう念じた。あの烏が拓馬たちの生命線であると信じて。
烏が通ったあとの戸は開けっ放しである。拓馬は廊下の様子を確認したのち、引き戸を閉める。シズカと連絡がとれた歓喜のせいか、戸を強くうごかしてしまった。ドンという音とともに戸が反動する。拓馬は力加減をまちがえたことを反省し、そっと戸を閉めた。
拓馬が出した物音のせいだろうか。ずっとうつむいていたヤマダの頭がうごいた。拓馬は彼女の私物を使ったことを伝える。
「お前がねてるあいだ、紙とペンを使わせてもらったぞ」
「……んー? あれ、居眠りしてた?」
寝起きの生徒が頭を上げた。ヤマダがはじめて少女姿の化け物と対面する。ヤマダはわずかに身を引き、驚愕した。少女と手をつないでいることに気付くと、もとの姿勢にもどる。だが見開いた目は変わらない。
「あー……そうだ、大変なことになってるんだったね」
「ああ。でもシズカさんの使いがきたんだ。ちょっとは状況がよくなるぞ」
「それは心強いね。……あれ?」
ヤマダは席にもどってきた拓馬の顔を見る。
「そういえばわたしのそばに白いキツネがいるんだっけ。その子はどうしてるの?」
「今朝から見てないんだ。シズカさんも、連絡が取れないと手紙に書いてた。んで、そいつが言うには、向かいの校舎の二階あたりで捕まってるらしい」
拓馬が「そいつ」と称した銀髪の少女を指し示す。ヤマダは少女の顔をまじまじと見た。元黒い化け物だった者へ向けた視線は、しばらく経つと拓馬へ移される。
「この子が、さっきの黒い子?」
「そうだよ、お前がこの姿を想像したからこうなったんだとさ」
「たしかに、声が女の子かなーと思ったのと、シド先生を思い出しちゃって……」
「なんで先生のことを思い出してたんだ?」
ヤマダは口ごもった。「なんでって……」と少女と見つめ合う。
「ほんとは試験の時間なのに、こんなことになっちゃって……先生、心配してるかなーと思ったんだよ。そんな想像で、この子が人間に変身できるんだね」
やや早口でヤマダが答えた。本心とズレた理由を言っている、と拓馬は直感する。
(ほんとうは先生が化け物の仲間だって、思ってんじゃないか?)
いまにして思うと、追試のはじまるタイミングで異変が起きたこと、謎解きの数々が英語を使用する二点は怪しい。これらは新任の英語教師を騒動の原因だと疑える事実だ。
(わかってても、認めたくないのか……?)
その気持ちがわからなくはなかった。あれほど友好な関係をきずいてきた相手が、自分たちをあざむいていたとは信じられないのだ。
拓馬は彼女を傷つけぬよう、あえてヤマダのごまかしの言葉にのっかる。
「シズカさんの猫はいろんな人間に化けられるっていうからな。異界の連中はわりとカンタンに人に化けるもんなんじゃないか?」
「化け猫と一緒かあ……ところで、この子の名前は聞いた?」
「ないらしい」
「んー、ないのは不便だね。パッと思いついたところで……」
ヤマダは首をひねった。十数秒が経過したのちに少女を正視する。
「黒人女性歌手に、本名がエリノーラという人がいたの。ほかに偉い女性のなかでエレノア・ルーズベルトという人もいてね。そこからとって、エリー。仮にそう呼んでいい?」
少女は「うん」と二の句を告げずに快諾する。あっさりしたやり取りだ。
(こいつ、けっこう素直だな……)
少女の従順さをを逆手にとって、大男の計画を根掘り葉掘り聞き出すことはできる。だが赤毛が教室の戸をがらがらと開けて入室したため、その聴取は中断さぜるをえなかった。
2018年07月22日
拓馬篇−9章3 ★
「箱を集めてきましたよ。解答は任せます」
赤毛は両手に持った箱をヤマダ付近の机に置く。あらたに現れた箱は二つだ。
「二個か……さっきあんたが持ってきたのは三個で、一個はとなりの教室にあったから……全部で六個だな」
「あとひとつは持ちはこべない場所にありました。ここにある箱を処理した後、ナゾナゾを解きに行きましょう」
「了解。んじゃ、やってくか」
「よーし、どれから……て、あれ? タッちゃんがもう解いたのもあるの?」
ヤマダは紙が乗る箱に注目した。その紙は拓馬がメモ書きしたものだ。
「ああ、答えらしい答えはわかったんだけど、まだピースをはめてなかったんだ」
解答権がヤマダにのみ与えられている、との事実を伝える間もなく、ヤマダは「ほかのもさきに答えを考えようか」と言う。まずは一通りの答えの候補を挙げる、というやり方で拓馬が取り組んでいると考えたらしい。
二人はどの問題から取りかかるか選定した。そこを赤毛がヤマダに話しかける。
「アナタだけでも問題は解けそうですか?」
「んー、イケると思うよ。文章は初歩的だし、試験より簡単」
「それは結構。しばし一人で解いてもらえますか。坊ちゃんに知らせることがあるので」
ヤマダはすっかり謎解きに集中しており、「いいよー」と生返事をした。
赤毛と拓馬は教室の後方へ移動する。少女はヤマダの隣に座ったまま。赤毛は少女がこちらに関心がないのを確かめ、拓馬の着席を促した。拓馬は素直に椅子に腰を下ろす。だが赤毛の話が始まるまえに「聞きたいことがある」と先手を打つ。
「あんたは言ったよな。犯人は俺らの身近にいるやつだって」
「ええ、そうですよ」
「なんでわかった?」
「まずはひとつ確認しましょう。ここへ入室する前のアナタの言葉から察するに、アナタは精神体の異界の者が見えるようですね?」
「俺は幽霊もごちゃ混ぜに見える。どっちがどの世界のやつだか区別できやしない」
「つまり、アナタが学校にいる間に不審な幽霊がうろついていれば、すぐに発見できますね。頻出するようなら、シズカさんに伝えて対処してもらうのではありませんか? そして、その連絡をアナタはしなかった」
「そうだけど、だからなんだって言うんだ?」
「この学校は異界の者が創出した偽物です。似せるには、隅々までよく知る必要があります。ですからこの昼間の建物内を再現するに至るまで、異界の者が潜入を繰り返したことになります。それにアナタが気付けず、我々は現在まがい物の学舎にいる」
赤毛の主張は、現状におちいった原因が拓馬にあると言いたげだ。その意見は不快だが一理あり、「俺がにぶくてわるかったな」と拓馬は嫌々ながらも認めた。赤毛は「反省しようがないことですよ」となぐさめる。
「アナタが鈍感なのではありません。異界の者がアナタをうまくだましていたのです」
「それが、身近にいた人だっていうのか?」
「教師、職員、学生、なんでもよろしい。それらになりすまして日常的に学舎に入り、この空間を生み出した。そう考えると無理がないでしょう?」
赤毛の推論はもっともらしかった。拓馬は異議をとなえず、赤毛の話を継続して聞く。
「この国は戸籍管理が厳重だそうですね。簡単になりすますにはこの学校に所属する人を殺害し、その人に化けるのがよいでしょう」
「さらっとムゴイことを言ってくれるな」
拓馬が残虐性のある仮説に難色を示した。赤毛はその非難を無視する。
「しかし、中身が別人になっていてはそのうちボロが出ます。最近、性格が変わった知り合いはいますか?」
拓馬は赤毛の軽薄な態度に嫌気がさすが、必要な質疑ゆえに返答をとどこおらせない。
「いないな。けど、三か月前にこの学校にきた人がいる。その中で怪しいのは……」
拓馬は銀髪の少女に目をやる。彼女は銀髪の教師に似た姿に変化した化け物。その姿はヤマダが想像したものだ。ヤマダが少女に、新任の教師に共通する特徴を与えたわけとは──ヤマダが例の教師を、黒い化け物の一味だと疑う思いが具現化したのではないか。
(でも、決定的な証拠はないんだよな)
状況的に不審な点が多いとはいえ、まだシドが黒幕だと決定づける段階ではない。
(あいつは、見つけたんだろうか?)
拓馬が見逃した証拠を、ヤマダは発見しているかもしれない。それを問いただしてよいものかどうか、迷いが生じる。話の途中で沈思黙考した拓馬に対し、赤毛は不敵に笑う。
「怪しいのはだれです? 嬢ちゃんには言いませんから、安心して言ってください」
拓馬が黙した理由はヤマダにあると赤毛は思ったらしい。当たらずとも遠からずだ。拓馬は不確実な推論で返答する。
「……今月で退職する英語の先生だ」
「エイゴ、というと箱に書かれた言語は?」
「英語だよ。扉の問題文も、綴りは英語」
「では犯人はその教師で決まりですね。退職するのは、あとで逃走するためでしょう。あの娘を捕えるためにずいぶん回りくどいことをしたものです。潜伏の期限がせまってきたので事を起こしたのでしょうが、多大な労を割いてこの場に囲った目的とは……」
赤毛が言葉に詰まったかと思いきや、「ああ、そうです」となにかを思い出す。
「アナタは箱の引き出しのことを気にしていましたっけね。どうして嬢ちゃんには開けられるのか、知りたいですか?」
「ああ、まあ……」
赤毛はにんまり笑い、「考えられる理由は三つ」と語りはじめた。
赤毛は両手に持った箱をヤマダ付近の机に置く。あらたに現れた箱は二つだ。
「二個か……さっきあんたが持ってきたのは三個で、一個はとなりの教室にあったから……全部で六個だな」
「あとひとつは持ちはこべない場所にありました。ここにある箱を処理した後、ナゾナゾを解きに行きましょう」
「了解。んじゃ、やってくか」
「よーし、どれから……て、あれ? タッちゃんがもう解いたのもあるの?」
ヤマダは紙が乗る箱に注目した。その紙は拓馬がメモ書きしたものだ。
「ああ、答えらしい答えはわかったんだけど、まだピースをはめてなかったんだ」
解答権がヤマダにのみ与えられている、との事実を伝える間もなく、ヤマダは「ほかのもさきに答えを考えようか」と言う。まずは一通りの答えの候補を挙げる、というやり方で拓馬が取り組んでいると考えたらしい。
二人はどの問題から取りかかるか選定した。そこを赤毛がヤマダに話しかける。
「アナタだけでも問題は解けそうですか?」
「んー、イケると思うよ。文章は初歩的だし、試験より簡単」
「それは結構。しばし一人で解いてもらえますか。坊ちゃんに知らせることがあるので」
ヤマダはすっかり謎解きに集中しており、「いいよー」と生返事をした。
赤毛と拓馬は教室の後方へ移動する。少女はヤマダの隣に座ったまま。赤毛は少女がこちらに関心がないのを確かめ、拓馬の着席を促した。拓馬は素直に椅子に腰を下ろす。だが赤毛の話が始まるまえに「聞きたいことがある」と先手を打つ。
「あんたは言ったよな。犯人は俺らの身近にいるやつだって」
「ええ、そうですよ」
「なんでわかった?」
「まずはひとつ確認しましょう。ここへ入室する前のアナタの言葉から察するに、アナタは精神体の異界の者が見えるようですね?」
「俺は幽霊もごちゃ混ぜに見える。どっちがどの世界のやつだか区別できやしない」
「つまり、アナタが学校にいる間に不審な幽霊がうろついていれば、すぐに発見できますね。頻出するようなら、シズカさんに伝えて対処してもらうのではありませんか? そして、その連絡をアナタはしなかった」
「そうだけど、だからなんだって言うんだ?」
「この学校は異界の者が創出した偽物です。似せるには、隅々までよく知る必要があります。ですからこの昼間の建物内を再現するに至るまで、異界の者が潜入を繰り返したことになります。それにアナタが気付けず、我々は現在まがい物の学舎にいる」
赤毛の主張は、現状におちいった原因が拓馬にあると言いたげだ。その意見は不快だが一理あり、「俺がにぶくてわるかったな」と拓馬は嫌々ながらも認めた。赤毛は「反省しようがないことですよ」となぐさめる。
「アナタが鈍感なのではありません。異界の者がアナタをうまくだましていたのです」
「それが、身近にいた人だっていうのか?」
「教師、職員、学生、なんでもよろしい。それらになりすまして日常的に学舎に入り、この空間を生み出した。そう考えると無理がないでしょう?」
赤毛の推論はもっともらしかった。拓馬は異議をとなえず、赤毛の話を継続して聞く。
「この国は戸籍管理が厳重だそうですね。簡単になりすますにはこの学校に所属する人を殺害し、その人に化けるのがよいでしょう」
「さらっとムゴイことを言ってくれるな」
拓馬が残虐性のある仮説に難色を示した。赤毛はその非難を無視する。
「しかし、中身が別人になっていてはそのうちボロが出ます。最近、性格が変わった知り合いはいますか?」
拓馬は赤毛の軽薄な態度に嫌気がさすが、必要な質疑ゆえに返答をとどこおらせない。
「いないな。けど、三か月前にこの学校にきた人がいる。その中で怪しいのは……」
拓馬は銀髪の少女に目をやる。彼女は銀髪の教師に似た姿に変化した化け物。その姿はヤマダが想像したものだ。ヤマダが少女に、新任の教師に共通する特徴を与えたわけとは──ヤマダが例の教師を、黒い化け物の一味だと疑う思いが具現化したのではないか。
(でも、決定的な証拠はないんだよな)
状況的に不審な点が多いとはいえ、まだシドが黒幕だと決定づける段階ではない。
(あいつは、見つけたんだろうか?)
拓馬が見逃した証拠を、ヤマダは発見しているかもしれない。それを問いただしてよいものかどうか、迷いが生じる。話の途中で沈思黙考した拓馬に対し、赤毛は不敵に笑う。
「怪しいのはだれです? 嬢ちゃんには言いませんから、安心して言ってください」
拓馬が黙した理由はヤマダにあると赤毛は思ったらしい。当たらずとも遠からずだ。拓馬は不確実な推論で返答する。
「……今月で退職する英語の先生だ」
「エイゴ、というと箱に書かれた言語は?」
「英語だよ。扉の問題文も、綴りは英語」
「では犯人はその教師で決まりですね。退職するのは、あとで逃走するためでしょう。あの娘を捕えるためにずいぶん回りくどいことをしたものです。潜伏の期限がせまってきたので事を起こしたのでしょうが、多大な労を割いてこの場に囲った目的とは……」
赤毛が言葉に詰まったかと思いきや、「ああ、そうです」となにかを思い出す。
「アナタは箱の引き出しのことを気にしていましたっけね。どうして嬢ちゃんには開けられるのか、知りたいですか?」
「ああ、まあ……」
赤毛はにんまり笑い、「考えられる理由は三つ」と語りはじめた。
2018年07月23日
拓馬篇−9章4 ★
「一つ、術者が彼女限定で開けられるよう細工した。判別方法は彼女の掌紋なり生体反応なりあるでしょう。二つ、箱になんらかの術がかかっていて、その術を解除する能力を彼女が備えている。これは稀にいます。たとえばシズカさんはその力を持っています」
「シズカさんが……?」
シズカとヤマダの二人だけができること。拓馬は少女が告げた狐救出の条件を思い出した。赤毛が三つめの話に進むのを、拓馬は手を上げて止める。
「さっき、あの女の子が言ってたんだ。シズカさんが俺たちを守るために送ったキツネが、ここに囚われている。そいつを助けるために、シズカさんかヤマダの力がいるって」
これはその能力が関係してるのか、と聞くまえに赤毛は「そうですか」と答える。
「では二つめの仮定が正解ですね。なるほど、奴らも本能バカばかりではないようです」
赤毛は高笑いした。それが長く続いたので、
「漫談やってるの?」
とヤマダがたずねてきた。拓馬は「俺は真面目な話をしてる」とつっけんどんに返した。
赤毛がひとしきり笑った。拓馬は赤毛が落ち着いたのを見計らい、奇行の意味を問う。
「どこが笑いのツボだったんだ?」
「いえね、なかなか斬新な方法を思いつくものだと感心したのです」
「斬新?」
「このナゾナゾの数々はおそらく、彼女が本当に能力者なのか確かめる最終試験なのでしょう。合格したあかつきには異界に連れこみ、その力を悪用するものと思われます」
「鍵の開け閉め程度の力じゃないのか?」
「その応用です。例えばこの空間に囚われた狐。その状態は異界の処刑方法の一種です」
処刑、と聞いて拓馬は背筋がぞっとする。だが少女は狐を「死んでもない」と説明していたので、そこまで酷い状況ではないのだと自身に言い聞かせた。
「大罪人は悪しき魂を所有する、と考えられていましてね。死刑にした罪人が生まれ変われば、また罪を犯すのだと人間は思っています。それゆえ生死のない次元に閉ざし、二度と悪事を働かせないようにするそうです。そんな極悪人が、機密情報として隠された場所に眠り続けるのです。その連中を解き放てば、世界は大混乱に陥るでしょうね」
赤毛の話は突拍子がない。事の重大さが実感できない拓馬をよそに、赤毛は話を続ける。
「ほかにも使い道はありますけど、知りたいですか?」
「いや……べつにいい」
「そうですか。では今度はワタシからアナタに聞きますね」
まだ赤毛はしゃべるつもりだ。拓馬は精神的に疲弊してきたが、内容の要不要が不明なうちは耐えておくことにした。
「ワタシがここへもどるときに白い烏を見かけましたが、アナタの所にきましたか?」
これは必要な情報伝達だ。拓馬は烏が訪問してきたときの状況を思い出す。
「ああ、シズカさんの手紙を届けてくれた。手紙には、白いキツネと連絡が取れなくなって、いまどうしてるかと書いてあった。返信はしたから、こっちの状態が伝わってる」
「ではじきに彼もきますね。それまでに七つのナゾナゾをすべて解けると良いのですが」
赤毛は視線をヤマダに移した。ヤマダは木切れをあちこちに置いては並べなおす作業を繰り返している。赤毛はまだ時間がかかると思ったらしく、ふたたび拓馬を見る。
「そうそう、先程言いそびれた、彼女が引き出しを開けられる三つめの理由ですがね」
「まだしゃべるのかよ……」
拓馬は長話にげんなりしている。赤毛は動じず「まあ聞きなさい」と会話を強行する。
「ワタシは彼女に一定の望みを叶える権限が与えられたのだとも考えました。扉の問題文を見た彼女が言ったでしょう、『文字の置き換えが一覧になった表がないか』と。その言葉の通り、表がそばに落ちていました。あれはワタシが初めてあの場に立ったときも、我々三人がきた直後にもなかった。あのとき、彼女の思いを反映して用意されました」
「たしかに出来すぎなタイミングだったけど……なんで監禁した側が俺らを甘やかす?」
「よい質問ですねえ」
疑問をもらした直後、拓馬は自分から赤毛におしゃべりのネタをやったのだと後悔した。
「論理的な思考で言えば、ズルを認めても最終的な結果に差がないと判断したのでしょう。希望をちらつかせてからの絶望は見物ですし、自信家がやる手です。力量を把握できない三下はそれで足をすくわれるわけですが」
赤毛が悪役の心境を洞察する。その指摘には説得力があり、赤毛自身にも身に覚えのある思考のようでもある。
(こいつがそういう悪人なのかもな)
と、拓馬が邪推するかたわら、赤毛はおもしろくなさそうに口元をゆがませる。
「……感情的な見方をすると、怪物の親玉は彼女と接触を重ねるうちに情が湧いたのでしょう。我々人でない者にも感情はあります。自分に良くしてくれる対象には、すくなからず愛着が出てくるものです。そのせいで非情になりきれないのだとしたら、悪党には向かない相手だと言えますね」
赤毛は対極な犯人像を打ち出した。そのどちらが真相に近いか、拓馬は決めあぐねる。
(先生……どっちも当てはまりそうだな)
犯人候補の教師がかつて不良少年に見せた冷徹ぶりは前者、平時の穏やかな人柄は後者に思えた。とりわけヤマダに対しては親切そのもの、徹底して優しかった。
「ま、敵の心中は考えなくてよろしい。嬢ちゃんを上手に誘導すれば我々に有利になる、とだけ思っていてください。ワタシからは以上です。ほかに、アナタがワタシに聞きたいことはありますか?」
拓馬は気が乗らないものの、質問すべき謎が残っていないか模索する。赤毛の話には、ヤマダに知らせないほうがよい話題が多かった。彼女が箱の問題に熱中する間に話し合っておくべきことはあるか。そのように考えを深めていくと、あらたな疑問が出る。
「あんたの世界じゃ、だれでも自由に見た目を変えられるのか?」
「だれでも、とは言えませんがよくあることです。ワタシ自身、時と場合によって体の大小を変えます。それがどうかしましたか?」
「俺らをここに閉じこめたやつが先生だろうってことはわかった。それとは別に、ヤマダに手を出してきた男がいて……」
赤毛が手を打ち「ああ、大男と言ってましたね」と主旨を理解する。
「その大男は偽教師の別形態ではないか、と思うわけですね?」
「どうせなら同じ人であってほしい、って願望だな。どっちもすごく強かった。もし二人同時に戦うことになったら、シズカさんでも勝てそうにない」
「ワタシがいれば敵が何人でも同じですよ」
赤毛は自信満々に笑い飛ばす。その自信がどこから来るのか、拓馬にはわからない。
(口だけでなけりゃいいが)
と拓馬が疑う最中に「終わったよー」とのんきな声が飛んでくる。
「そっちの話は済んだ?」
「ええ、次のナゾナゾへ行きましょうか。そこまでワタシが運んであげます」
赤毛は銀髪の少女にゴーグルを向ける。
「アナタも一緒にきますか?」
少女は「ひとりでいく」と断った。それは後で拓馬たちに合流するとも、別行動後の再会はしないという意味にもとれた。少女のそばで、ヤマダが机上に散乱した文具と木切れをまとめる。拓馬も片付けを手伝うと、机上に出た木切れが箱五つ分もないことに気付く。
「もしかして一回一回、片付けてたのか」
「うん、箱とセットになってるピースでなきゃ認識しない仕組みかもしれなかったから」
「ありえそうだな。でも最後に解いた分はほっといていいんじゃ?」
「んー、ここまできたら最後もキレイにしときたい」
二人がいらぬ片付けまで行なう中、赤毛は一足先に廊下へ出る。拓馬はちらっと少女を見る。彼女はじっとヤマダを見つめていた。
ヤマダがリュックサックを背負うと、拓馬の手をとる。
「次いこ、次」
ヤマダは空いてる片手で少女に手を振る。
「また会おうね」
少女はこっくりうなずいた。彼女をひとり教室に残し、拓馬とヤマダは赤毛と合流した。
「シズカさんが……?」
シズカとヤマダの二人だけができること。拓馬は少女が告げた狐救出の条件を思い出した。赤毛が三つめの話に進むのを、拓馬は手を上げて止める。
「さっき、あの女の子が言ってたんだ。シズカさんが俺たちを守るために送ったキツネが、ここに囚われている。そいつを助けるために、シズカさんかヤマダの力がいるって」
これはその能力が関係してるのか、と聞くまえに赤毛は「そうですか」と答える。
「では二つめの仮定が正解ですね。なるほど、奴らも本能バカばかりではないようです」
赤毛は高笑いした。それが長く続いたので、
「漫談やってるの?」
とヤマダがたずねてきた。拓馬は「俺は真面目な話をしてる」とつっけんどんに返した。
赤毛がひとしきり笑った。拓馬は赤毛が落ち着いたのを見計らい、奇行の意味を問う。
「どこが笑いのツボだったんだ?」
「いえね、なかなか斬新な方法を思いつくものだと感心したのです」
「斬新?」
「このナゾナゾの数々はおそらく、彼女が本当に能力者なのか確かめる最終試験なのでしょう。合格したあかつきには異界に連れこみ、その力を悪用するものと思われます」
「鍵の開け閉め程度の力じゃないのか?」
「その応用です。例えばこの空間に囚われた狐。その状態は異界の処刑方法の一種です」
処刑、と聞いて拓馬は背筋がぞっとする。だが少女は狐を「死んでもない」と説明していたので、そこまで酷い状況ではないのだと自身に言い聞かせた。
「大罪人は悪しき魂を所有する、と考えられていましてね。死刑にした罪人が生まれ変われば、また罪を犯すのだと人間は思っています。それゆえ生死のない次元に閉ざし、二度と悪事を働かせないようにするそうです。そんな極悪人が、機密情報として隠された場所に眠り続けるのです。その連中を解き放てば、世界は大混乱に陥るでしょうね」
赤毛の話は突拍子がない。事の重大さが実感できない拓馬をよそに、赤毛は話を続ける。
「ほかにも使い道はありますけど、知りたいですか?」
「いや……べつにいい」
「そうですか。では今度はワタシからアナタに聞きますね」
まだ赤毛はしゃべるつもりだ。拓馬は精神的に疲弊してきたが、内容の要不要が不明なうちは耐えておくことにした。
「ワタシがここへもどるときに白い烏を見かけましたが、アナタの所にきましたか?」
これは必要な情報伝達だ。拓馬は烏が訪問してきたときの状況を思い出す。
「ああ、シズカさんの手紙を届けてくれた。手紙には、白いキツネと連絡が取れなくなって、いまどうしてるかと書いてあった。返信はしたから、こっちの状態が伝わってる」
「ではじきに彼もきますね。それまでに七つのナゾナゾをすべて解けると良いのですが」
赤毛は視線をヤマダに移した。ヤマダは木切れをあちこちに置いては並べなおす作業を繰り返している。赤毛はまだ時間がかかると思ったらしく、ふたたび拓馬を見る。
「そうそう、先程言いそびれた、彼女が引き出しを開けられる三つめの理由ですがね」
「まだしゃべるのかよ……」
拓馬は長話にげんなりしている。赤毛は動じず「まあ聞きなさい」と会話を強行する。
「ワタシは彼女に一定の望みを叶える権限が与えられたのだとも考えました。扉の問題文を見た彼女が言ったでしょう、『文字の置き換えが一覧になった表がないか』と。その言葉の通り、表がそばに落ちていました。あれはワタシが初めてあの場に立ったときも、我々三人がきた直後にもなかった。あのとき、彼女の思いを反映して用意されました」
「たしかに出来すぎなタイミングだったけど……なんで監禁した側が俺らを甘やかす?」
「よい質問ですねえ」
疑問をもらした直後、拓馬は自分から赤毛におしゃべりのネタをやったのだと後悔した。
「論理的な思考で言えば、ズルを認めても最終的な結果に差がないと判断したのでしょう。希望をちらつかせてからの絶望は見物ですし、自信家がやる手です。力量を把握できない三下はそれで足をすくわれるわけですが」
赤毛が悪役の心境を洞察する。その指摘には説得力があり、赤毛自身にも身に覚えのある思考のようでもある。
(こいつがそういう悪人なのかもな)
と、拓馬が邪推するかたわら、赤毛はおもしろくなさそうに口元をゆがませる。
「……感情的な見方をすると、怪物の親玉は彼女と接触を重ねるうちに情が湧いたのでしょう。我々人でない者にも感情はあります。自分に良くしてくれる対象には、すくなからず愛着が出てくるものです。そのせいで非情になりきれないのだとしたら、悪党には向かない相手だと言えますね」
赤毛は対極な犯人像を打ち出した。そのどちらが真相に近いか、拓馬は決めあぐねる。
(先生……どっちも当てはまりそうだな)
犯人候補の教師がかつて不良少年に見せた冷徹ぶりは前者、平時の穏やかな人柄は後者に思えた。とりわけヤマダに対しては親切そのもの、徹底して優しかった。
「ま、敵の心中は考えなくてよろしい。嬢ちゃんを上手に誘導すれば我々に有利になる、とだけ思っていてください。ワタシからは以上です。ほかに、アナタがワタシに聞きたいことはありますか?」
拓馬は気が乗らないものの、質問すべき謎が残っていないか模索する。赤毛の話には、ヤマダに知らせないほうがよい話題が多かった。彼女が箱の問題に熱中する間に話し合っておくべきことはあるか。そのように考えを深めていくと、あらたな疑問が出る。
「あんたの世界じゃ、だれでも自由に見た目を変えられるのか?」
「だれでも、とは言えませんがよくあることです。ワタシ自身、時と場合によって体の大小を変えます。それがどうかしましたか?」
「俺らをここに閉じこめたやつが先生だろうってことはわかった。それとは別に、ヤマダに手を出してきた男がいて……」
赤毛が手を打ち「ああ、大男と言ってましたね」と主旨を理解する。
「その大男は偽教師の別形態ではないか、と思うわけですね?」
「どうせなら同じ人であってほしい、って願望だな。どっちもすごく強かった。もし二人同時に戦うことになったら、シズカさんでも勝てそうにない」
「ワタシがいれば敵が何人でも同じですよ」
赤毛は自信満々に笑い飛ばす。その自信がどこから来るのか、拓馬にはわからない。
(口だけでなけりゃいいが)
と拓馬が疑う最中に「終わったよー」とのんきな声が飛んでくる。
「そっちの話は済んだ?」
「ええ、次のナゾナゾへ行きましょうか。そこまでワタシが運んであげます」
赤毛は銀髪の少女にゴーグルを向ける。
「アナタも一緒にきますか?」
少女は「ひとりでいく」と断った。それは後で拓馬たちに合流するとも、別行動後の再会はしないという意味にもとれた。少女のそばで、ヤマダが机上に散乱した文具と木切れをまとめる。拓馬も片付けを手伝うと、机上に出た木切れが箱五つ分もないことに気付く。
「もしかして一回一回、片付けてたのか」
「うん、箱とセットになってるピースでなきゃ認識しない仕組みかもしれなかったから」
「ありえそうだな。でも最後に解いた分はほっといていいんじゃ?」
「んー、ここまできたら最後もキレイにしときたい」
二人がいらぬ片付けまで行なう中、赤毛は一足先に廊下へ出る。拓馬はちらっと少女を見る。彼女はじっとヤマダを見つめていた。
ヤマダがリュックサックを背負うと、拓馬の手をとる。
「次いこ、次」
ヤマダは空いてる片手で少女に手を振る。
「また会おうね」
少女はこっくりうなずいた。彼女をひとり教室に残し、拓馬とヤマダは赤毛と合流した。
2018年07月24日
拓馬篇−9章◇
はじめて人へ変じた異形は小箱の群れを見つめた。役目を終えた道具たちだ。ヤマダという人間がすべての箱の仕掛けを解いた。彼女は解答で使用しなかった木切れを、ふたたび箱の引き出しにもどしていった。そうする意味はとくになかった。その箱はもう二度と使われない。箱を用意した者にも、それを一時的に必要とした者にとっても、もはや無価値の道具だ。異形はその情景を仲間に伝える。
(ねえ見て。ヤマダが箱のなぞなぞをといていったよ)
異形の視界が半分、現在いる教室とは別の場所を映した。ドアノブのついた両開き扉が見える。教室や職員室とはちがった部屋らしい。
『すでに六つおわったか』
視界を共有する仲間が、男性の声で答えた。
(とくときにつかったもの、ちゃんと引き出しにしまっていったの)
『……そうか』
(おかたづけ、すきな子なんだね。あなたといっしょ)
『……そうだな』
仲間は同意を示した。だがその話題にまつわるおしゃべりをしたがらない。
『彼らは七つめに向かったんだな?』
(うん、もういっちゃった)
『そうか。私も定位置につく頃合いだな』
(どこいってるの?)
『校長室だ。私の不注意でこの場にまぎれた退魔師を、ここに封じた。これで同胞の被害は減る』
別室を映していた視界がうごく。大きく広い机のむこうに、うつむく和装姿の男がいた。見た目は人型だが、これも人間ではないのだという。土着の守護霊かなにかだと、仲間は推測している。
『ほかにもここに迷いこんだ者がいるが……そちらはなにもされなかったか?』
(うん。あの竜、イヤなことしてこなかった)
『無事でなにより。おまえが消されないか不安だった』
(あんまり、こわいかんじしない)
『おまえが無垢だからだ。魔族の多くは子どもに甘いと聞く』
(わたし、こども?)
『ああ、まだ赤子くらいだ。ところで、人に化けられるようになったか?』
仲間は事前にそのような指示を出していた。人間から力を吸収し、人型に変じるすべを身に着けよ、と。
(いま女の子に化けてる。ヘンかな?)
『いや……なんとなく、おまえは人に化けるなら女性が合うと思っていた』
(そうなの? あるじさまも、ヤマダの中にいる仲間もそんなふうに思ってるよね)
『そう、だな……なぜだかわからないが、そう感じた』
(女のほうがすきなの?)
『……否定はしない。私はそのような価値観を植えつけられている』
男性型の異形は男の姿で人間や魔人による教育を受けた結果、男性とはこうあるべきという教えを叩きこまれた。とくに武芸全般の師匠は同性を苦手とする男性だったので、彼の性癖が多少受け継がれているのだとか。
『それはいいとして、彼らはどれだけ勘付いている?』
問われた異形は人と竜の会話を思い起こした。無関心のそぶりを見せながらも、彼らの話を盗み聞きしていたのだ。
(だいぶうたがわれてるみたい)
『結構なことだ。利発な子たちだからな』
仲間はあわてる様子なく、人間たちを称賛した。仲間はとうに身分を隠し通すつもりがない。にもかかわらず、彼らに自身の正体は教えるなと忠告する。それが少女の異形にはあまり理解できなかった。
(これからどうする?)
『おまえは彼らを見守れ。大切な客人が到着するまでは丁重にあつかいたい』
(わかった)
『彼らが危険地帯へ行くようなら、校長室にいるコレのことを言え』
(せっかくつかまえたのに、いいの?)
『彼らに死なれては困る』
(その人はヤマダたちをおそわない?)
『きっと大丈夫だ。死神をその身に宿した人間なら……コレも懐柔できる』
(ちょっとしんぱい)
『彼らに同行はするな。おまえの身があやうくなる』
(うん、ほかに気をつけること、ある?)
『まえもって伝えた内容に変更はない。あとはおまえの好きなようにやるといい』
仲間が命じることの中には実行したくないものもあった。しかしその気持ちを表に出してみても、言いくるめられてしまっていた。会話の知識も技術もとぼしい異形では「わかった」と答えることしかできない。
(うん……そうする)
分かれた視界が一つにもどる。異形は窓から中庭をながめた。そこの噴水に、三人の人影があった。
(ねえ見て。ヤマダが箱のなぞなぞをといていったよ)
異形の視界が半分、現在いる教室とは別の場所を映した。ドアノブのついた両開き扉が見える。教室や職員室とはちがった部屋らしい。
『すでに六つおわったか』
視界を共有する仲間が、男性の声で答えた。
(とくときにつかったもの、ちゃんと引き出しにしまっていったの)
『……そうか』
(おかたづけ、すきな子なんだね。あなたといっしょ)
『……そうだな』
仲間は同意を示した。だがその話題にまつわるおしゃべりをしたがらない。
『彼らは七つめに向かったんだな?』
(うん、もういっちゃった)
『そうか。私も定位置につく頃合いだな』
(どこいってるの?)
『校長室だ。私の不注意でこの場にまぎれた退魔師を、ここに封じた。これで同胞の被害は減る』
別室を映していた視界がうごく。大きく広い机のむこうに、うつむく和装姿の男がいた。見た目は人型だが、これも人間ではないのだという。土着の守護霊かなにかだと、仲間は推測している。
『ほかにもここに迷いこんだ者がいるが……そちらはなにもされなかったか?』
(うん。あの竜、イヤなことしてこなかった)
『無事でなにより。おまえが消されないか不安だった』
(あんまり、こわいかんじしない)
『おまえが無垢だからだ。魔族の多くは子どもに甘いと聞く』
(わたし、こども?)
『ああ、まだ赤子くらいだ。ところで、人に化けられるようになったか?』
仲間は事前にそのような指示を出していた。人間から力を吸収し、人型に変じるすべを身に着けよ、と。
(いま女の子に化けてる。ヘンかな?)
『いや……なんとなく、おまえは人に化けるなら女性が合うと思っていた』
(そうなの? あるじさまも、ヤマダの中にいる仲間もそんなふうに思ってるよね)
『そう、だな……なぜだかわからないが、そう感じた』
(女のほうがすきなの?)
『……否定はしない。私はそのような価値観を植えつけられている』
男性型の異形は男の姿で人間や魔人による教育を受けた結果、男性とはこうあるべきという教えを叩きこまれた。とくに武芸全般の師匠は同性を苦手とする男性だったので、彼の性癖が多少受け継がれているのだとか。
『それはいいとして、彼らはどれだけ勘付いている?』
問われた異形は人と竜の会話を思い起こした。無関心のそぶりを見せながらも、彼らの話を盗み聞きしていたのだ。
(だいぶうたがわれてるみたい)
『結構なことだ。利発な子たちだからな』
仲間はあわてる様子なく、人間たちを称賛した。仲間はとうに身分を隠し通すつもりがない。にもかかわらず、彼らに自身の正体は教えるなと忠告する。それが少女の異形にはあまり理解できなかった。
(これからどうする?)
『おまえは彼らを見守れ。大切な客人が到着するまでは丁重にあつかいたい』
(わかった)
『彼らが危険地帯へ行くようなら、校長室にいるコレのことを言え』
(せっかくつかまえたのに、いいの?)
『彼らに死なれては困る』
(その人はヤマダたちをおそわない?)
『きっと大丈夫だ。死神をその身に宿した人間なら……コレも懐柔できる』
(ちょっとしんぱい)
『彼らに同行はするな。おまえの身があやうくなる』
(うん、ほかに気をつけること、ある?)
『まえもって伝えた内容に変更はない。あとはおまえの好きなようにやるといい』
仲間が命じることの中には実行したくないものもあった。しかしその気持ちを表に出してみても、言いくるめられてしまっていた。会話の知識も技術もとぼしい異形では「わかった」と答えることしかできない。
(うん……そうする)
分かれた視界が一つにもどる。異形は窓から中庭をながめた。そこの噴水に、三人の人影があった。
タグ:拓馬
2018年07月25日
拓馬篇−9章5 ★
「さあて、行きましょう」
赤毛が拓馬とヤマダを抱え、二度目の飛行を行なう。またたくまに中庭に続くガラス戸の前に到着した。拓馬たちは慣れたもので、今度は赤毛にしがみつかなかった。
拓馬は透明な開き戸を押す。反対校舎へ続く経路から横にそれた先が中庭だ。
「この噴水に問題が設置されています」
赤毛がそう言うので、拓馬たちは噴水へ近づく。噴水は今なお稼働し、水を下から上へと循環させる。流動する水は淡い光を放つ。
「噴水に照明はついてたっけ?」
ヤマダが非日常的な仕様の噴水を不思議がった。しかし拓馬は別の異物に気を取られてしまい、返答しなかった。
噴水の縁に大小二つの持ち手付きの容器が置かれている。その付近には札と台が設置してあった。札にはまたも英文が記載されてあった。設問は「Please draw exactly 4 liter of water」。透明な容器のうち、大きいものには目盛りの横に数字で五、小さいものには三と印字してある。
「五リットルと三リットルの水差しを使って、四リットルの水を汲めってことか」
拓馬が出題を翻訳した。ヤマダは小さい水差しを持ち上げる。
「大きな計量カップみたいだね」
一リットルを超える計量カップは二人とも見たことはないが、それが卑近な例えだった。
「量ったらどこに置くのかな……この台?」
ヤマダは水差しを台に置いてみた。なにも変化は起きない。やはり一定量の水が解答に関わる仕組みなのだろう。
「これに水を汲む……手順、知ってるか?」
拓馬はヤマダと赤毛に聞く。赤毛は「二人に任せます」と非協力的だ。
「若いアナタたちにはちょうどいい遊戯でしょう」
「ジジくさいことを言うんだな」
赤毛の性別は明確でないが、拓馬は率直にそう感じた。そうこうしているうちにヤマダが小さな水差しを手にする。
「試せばわかると思うよ。三と五以外の水の量にできないかな」
ヤマダは水を汲み、いったん縁に置く。大きな水差しも縁に置き、その中に汲んだ水をすべて入れた。再度小さな水差しで水を汲む。汲んだ水を大きな水差しの五の目盛りまで入れた。現在水差しには五リットルと一リットルの水が入った状態になる。
「小さいほうは一リットルの水になったね。これを繰り返せば四リットルができる!」
「一リットルをとっておく容器がねえぞ」
指摘を受けたヤマダは「やっぱそうねー」と笑った。するといきなり真面目な顔になる。
「一足す三は……」
そのつぶやきによって拓馬も解法を理解した。まず大きな水差しの水を捨てる。空になった水差しを台に置いて支えた。そこにヤマダが一リットルの水を入れる。彼女は小さな水差しに水を汲み、拓馬が支える水差しへ注ぐ。これで四リットルの水が用意できた。
カチっと物音がする。水差しの下にある台の側面の板が外れ、なにかが地面に落ちる。拓馬が拾いあげた。目当てのピースだ。
「よーし、体育館に入る用意はできたね」
「アルファベットで言うと、どれが集まったんだ?」
ヤマダはリュックサックを下ろし、異界の文字の置き換え表を出した。表に丸の付いたアルファベットが六つある。その六つは「F」、「A」、「R」、「N」、「T」、「O」。
「印をつけたところがいままで集めた文字ね。ここで手に入れた文字は……『U』」
そう言うとヤマダは表に丸を書き足した。あとは正解となる綴りがわかれば体育館の扉の問題は解ける。だが体育館へ突入するまえにやり残したことがある。
「さきにキツネを見つけようぜ」
「向かいの校舎にいる子ね」
「ああ、体育館に行くのはそれからだ」
拓馬は赤毛を見た。赤毛はその機動力で学校中を探索している。囚われの狐がいる場所の見当がついていそうだと拓馬は思い、可能性のある場所を聞こうとした。
「狐など捨ておきなさい」
この場の脱出のみを目的とする者らしい意見だ。拓馬は赤毛がそう主張するのもわかるため、丁寧な反論を心がける。
「シズカさんの仲間なんだ。生きて返さなきゃいけない」
「空間を生み出した術士をくだせば、もどってきますよ」
「シズカさんならそうするのか?」
赤毛は口をへの字にする。
「彼は助けにいくでしょうね」
「なんであんたはイヤがるんだ?」
「体育館以外にもワタシが行けなかった場所があります。そこに狐がいるかもしれませんが、我々では到達できません」
「なにが邪魔してる?」
「アナタたちよりも体の大きい蜘蛛です。あれを倒すには戦闘向きな者の力が要ります。この場で協力を仰げる仲間がいますか?」
拓馬は無理だと思った。自身の体術は人外に通用しない。手助けが望める者といえば、ヤマダが力を分け与えた少女。しかし彼女が戦力になるとは思えなかった。確実な方法とは、シズカの到着を待ちその仲間に戦ってもらうこと。だがこの手段にも欠点がある。
「キツネの救出までシズカさん任せには……ここのボスを倒す力が無くなったら困るぞ」
「だから我々が先んじて空間の主を打倒するのです。ワタシにはできます」
「蜘蛛のバケモノから逃げたやつが、かなう相手なのかよ」
「蜘蛛は視力が弱いのでワタシとの相性がイマイチだったのです。例え真に効き目のない敵だとしても、ワタシが変化を解けば戦えます。あの体育館は広そうですから身動きが取れなくなる心配もありません」
赤毛本来の姿では廊下や教室が狭すぎるらしい。ヤマダは「赤毛さんは大きい鳥か竜なの?」とたずねた。赤毛がうなずく。
「そういうことです。……ワタシを信じるも信じないも貴方次第です」
赤毛は拓馬に判断を委ねる。拓馬は赤毛の力量が不足すると疑うつもりはないが、赤毛の提案に乗るのはリスクが高いと思った。やはりシズカが同行してくれれば安心できる。
「俺はシズカさんと合流してから体育館に乗りこみたい。それじゃダメなのか?」
「彼とはあまり仲が良くないのですよ」
「シズカさんはよっぽど悪さする相手じゃなけりゃ、なにもしないだろ」
「悪さをすると思われているから会いたくないのです」
「あんたの日頃の行ないが悪いってことか?」
「平たく言えばその通りです」
赤毛は悪びれもなく答える。その潔さの手前、拓馬はなにも言う気にならない。
「アナタが彼を待つのならワタシは抜けます。あとはご自由にどうぞ」
赤毛は拓馬たちが長らく滞在した校舎へと歩き、ガラス戸の付近で立ち止まる。
「ここにはワタシ以外にも招かれざる客がいます。敵意のある者、手助けしてくれる者もいるでしょう。それらを見極めなさい」
忠告を終えると赤毛は校舎内へ入る。赤い髪が炎のように揺れ、消えていった。
赤毛が拓馬とヤマダを抱え、二度目の飛行を行なう。またたくまに中庭に続くガラス戸の前に到着した。拓馬たちは慣れたもので、今度は赤毛にしがみつかなかった。
拓馬は透明な開き戸を押す。反対校舎へ続く経路から横にそれた先が中庭だ。
「この噴水に問題が設置されています」
赤毛がそう言うので、拓馬たちは噴水へ近づく。噴水は今なお稼働し、水を下から上へと循環させる。流動する水は淡い光を放つ。
「噴水に照明はついてたっけ?」
ヤマダが非日常的な仕様の噴水を不思議がった。しかし拓馬は別の異物に気を取られてしまい、返答しなかった。
噴水の縁に大小二つの持ち手付きの容器が置かれている。その付近には札と台が設置してあった。札にはまたも英文が記載されてあった。設問は「Please draw exactly 4 liter of water」。透明な容器のうち、大きいものには目盛りの横に数字で五、小さいものには三と印字してある。
「五リットルと三リットルの水差しを使って、四リットルの水を汲めってことか」
拓馬が出題を翻訳した。ヤマダは小さい水差しを持ち上げる。
「大きな計量カップみたいだね」
一リットルを超える計量カップは二人とも見たことはないが、それが卑近な例えだった。
「量ったらどこに置くのかな……この台?」
ヤマダは水差しを台に置いてみた。なにも変化は起きない。やはり一定量の水が解答に関わる仕組みなのだろう。
「これに水を汲む……手順、知ってるか?」
拓馬はヤマダと赤毛に聞く。赤毛は「二人に任せます」と非協力的だ。
「若いアナタたちにはちょうどいい遊戯でしょう」
「ジジくさいことを言うんだな」
赤毛の性別は明確でないが、拓馬は率直にそう感じた。そうこうしているうちにヤマダが小さな水差しを手にする。
「試せばわかると思うよ。三と五以外の水の量にできないかな」
ヤマダは水を汲み、いったん縁に置く。大きな水差しも縁に置き、その中に汲んだ水をすべて入れた。再度小さな水差しで水を汲む。汲んだ水を大きな水差しの五の目盛りまで入れた。現在水差しには五リットルと一リットルの水が入った状態になる。
「小さいほうは一リットルの水になったね。これを繰り返せば四リットルができる!」
「一リットルをとっておく容器がねえぞ」
指摘を受けたヤマダは「やっぱそうねー」と笑った。するといきなり真面目な顔になる。
「一足す三は……」
そのつぶやきによって拓馬も解法を理解した。まず大きな水差しの水を捨てる。空になった水差しを台に置いて支えた。そこにヤマダが一リットルの水を入れる。彼女は小さな水差しに水を汲み、拓馬が支える水差しへ注ぐ。これで四リットルの水が用意できた。
カチっと物音がする。水差しの下にある台の側面の板が外れ、なにかが地面に落ちる。拓馬が拾いあげた。目当てのピースだ。
「よーし、体育館に入る用意はできたね」
「アルファベットで言うと、どれが集まったんだ?」
ヤマダはリュックサックを下ろし、異界の文字の置き換え表を出した。表に丸の付いたアルファベットが六つある。その六つは「F」、「A」、「R」、「N」、「T」、「O」。
「印をつけたところがいままで集めた文字ね。ここで手に入れた文字は……『U』」
そう言うとヤマダは表に丸を書き足した。あとは正解となる綴りがわかれば体育館の扉の問題は解ける。だが体育館へ突入するまえにやり残したことがある。
「さきにキツネを見つけようぜ」
「向かいの校舎にいる子ね」
「ああ、体育館に行くのはそれからだ」
拓馬は赤毛を見た。赤毛はその機動力で学校中を探索している。囚われの狐がいる場所の見当がついていそうだと拓馬は思い、可能性のある場所を聞こうとした。
「狐など捨ておきなさい」
この場の脱出のみを目的とする者らしい意見だ。拓馬は赤毛がそう主張するのもわかるため、丁寧な反論を心がける。
「シズカさんの仲間なんだ。生きて返さなきゃいけない」
「空間を生み出した術士をくだせば、もどってきますよ」
「シズカさんならそうするのか?」
赤毛は口をへの字にする。
「彼は助けにいくでしょうね」
「なんであんたはイヤがるんだ?」
「体育館以外にもワタシが行けなかった場所があります。そこに狐がいるかもしれませんが、我々では到達できません」
「なにが邪魔してる?」
「アナタたちよりも体の大きい蜘蛛です。あれを倒すには戦闘向きな者の力が要ります。この場で協力を仰げる仲間がいますか?」
拓馬は無理だと思った。自身の体術は人外に通用しない。手助けが望める者といえば、ヤマダが力を分け与えた少女。しかし彼女が戦力になるとは思えなかった。確実な方法とは、シズカの到着を待ちその仲間に戦ってもらうこと。だがこの手段にも欠点がある。
「キツネの救出までシズカさん任せには……ここのボスを倒す力が無くなったら困るぞ」
「だから我々が先んじて空間の主を打倒するのです。ワタシにはできます」
「蜘蛛のバケモノから逃げたやつが、かなう相手なのかよ」
「蜘蛛は視力が弱いのでワタシとの相性がイマイチだったのです。例え真に効き目のない敵だとしても、ワタシが変化を解けば戦えます。あの体育館は広そうですから身動きが取れなくなる心配もありません」
赤毛本来の姿では廊下や教室が狭すぎるらしい。ヤマダは「赤毛さんは大きい鳥か竜なの?」とたずねた。赤毛がうなずく。
「そういうことです。……ワタシを信じるも信じないも貴方次第です」
赤毛は拓馬に判断を委ねる。拓馬は赤毛の力量が不足すると疑うつもりはないが、赤毛の提案に乗るのはリスクが高いと思った。やはりシズカが同行してくれれば安心できる。
「俺はシズカさんと合流してから体育館に乗りこみたい。それじゃダメなのか?」
「彼とはあまり仲が良くないのですよ」
「シズカさんはよっぽど悪さする相手じゃなけりゃ、なにもしないだろ」
「悪さをすると思われているから会いたくないのです」
「あんたの日頃の行ないが悪いってことか?」
「平たく言えばその通りです」
赤毛は悪びれもなく答える。その潔さの手前、拓馬はなにも言う気にならない。
「アナタが彼を待つのならワタシは抜けます。あとはご自由にどうぞ」
赤毛は拓馬たちが長らく滞在した校舎へと歩き、ガラス戸の付近で立ち止まる。
「ここにはワタシ以外にも招かれざる客がいます。敵意のある者、手助けしてくれる者もいるでしょう。それらを見極めなさい」
忠告を終えると赤毛は校舎内へ入る。赤い髪が炎のように揺れ、消えていった。
2018年07月26日
拓馬篇−9章6 ★
拓馬はヤマダと二人きりになる。現在は自分たちを守る者のいない状況だ。
「行っちまったな……」
脇腹が寒くなるような、心もとなさを拓馬は感じる。
「お前はあいつと一緒にいるべきだと思うか?」
「いたらたのもしいけど、しょうがないよ」
ヤマダはケロっとした顔でいる。
「一度、大きい蜘蛛を見てみよう。たおさなくてもキツネ捜しができるかもしれない」
「そうだな。でも危なそうだったらすぐ逃げよう」
その判断は保身とシズカへの配慮をふくむ。
「シズカさん、俺らがやられてまで仲間を助けてほしいとは思わないだろうから」
拓馬たちは赤毛が向かった校舎の逆へ進む。一階の廊下にはなんの姿もないので階段を上がる。銀髪の少女が示した場所は二階か、それ以上の階だ。二階を確認して異常がなければ三階に──と画策したのもむなしく、階段の踊り場に白い糸が垂れていた。
階段にある異物は縄のように太い。階下から見上げた廊下にも、その白い糸は点在する。
「この糸……普通じゃなさそう」
ヤマダは筆箱から鉛筆を出し、一際太さのある糸にくっつけた。鉛筆を引っ張ると糸が引き寄せられる。その粘度は高く、ヤマダが鉛筆をぐいぐい引っ張ってもはがれない。彼女が何秒か格闘して、やっと糸と鉛筆が離れた。鉛筆には細かな糸が付着している。
「お餅みたいにくっついて、伸びる糸だね」
ヤマダは糸の特性を検分する。
「これに足を取られたら、逃げられないかも」
「この糸を避けつつ大蜘蛛からも逃げる、ってのはキツいな」
二人は周囲の環境が自分たちに不利だと確認した。次に警戒対象を発見すべく階段を上がる。階段を上がってすぐの壁に身を隠す。
先頭に立つ拓馬は廊下の奥を見る。床も天井も、白い糸が張り巡らされていた。その中に、黒くうごめくものを見つける。全身が毛羽立ち、長い足が何本も生えている。尋常でなく大きな蜘蛛だ。
ヤマダも拓馬の後ろで、蜘蛛を観察する。
「どこかの教室に入るか、反対方向をむいてくれたら部分的に捜せるけど……」
「それで教室を調べられても、出るときにあいつがいたんじゃ立ち往生しちまうぞ」
「じゃ、三階に行ってみる? きっと赤毛さんはここで引き返してて、見落としがあると思う」
「そうしたいが……」
蜘蛛は拓馬たちのいるほうへ移動してくる。速度はおそいが、侵入者を察知したときの行動は予想がつかない。
「近づいてきてるな。俺らに気付いたら、なにしてくるか……」
「ちょっとタイミングがわるいね。いったん引こうか?」
「そうしよう」
二人はきた道をもどった。一階に着き、ヤマダが無人の教室を指さす。
「ここの教室から見てく?」
「うーん、そうだな……」
拓馬は一階にはなにもないと思った。おそらく赤毛はこちらの教室を一通り見ただろう。それに狐の居場所を知る少女は一階を指差してはいなかった。
拓馬はなんとなく窓越しに中庭を見た。噴水の前に、銀髪の少女が立っている。
「……いや、もう一回あいつにキツネのことを聞いてみよう」
「あ、あの子ね」
ヤマダは窓を見、中庭へ出た。一時、別行動をとった少女に話しかける。
「ねえ、エリー。また質問してもいい?」
少女は「うん」と承諾した。
「白いキツネがどこにいるか知らない?」
拓馬たちがいた校舎の二階を指して「あのへん」と答えた。ヤマダは眉を落とす。
「やっぱり蜘蛛をどうにかしなきゃいけないんだね……」
「バケモノ退治、する?」
「わたしたちにそんな力はないよ。協力してくれる相手がいたらいいけど……」
「強いバケモノ、あっちにいる」
エリーは拓馬たちの関心になかった場所を指す。そこは一階の校長室のようだ。
「あのバケモノ、仲間をたおそうとするから……うごけなくされた。キツネみたいに」
「確認するけど、そのバケモノは赤毛さんじゃないんだね?」
「うん。ぜんぜんちがう」
赤毛とは別個体の、異形をたおしうる化け物がいる。そいつがはたして拓馬たちに協力するか、敵となるかは未知数だ。
「あなたがさわったら、おきるよ」
少女は簡単に言ってくれるが、その行為には危険がともなう。目覚めた化け物が拓馬たちを攻撃するかもしれないのだ。
「……試すか?」
拓馬は危険性をわかったうえで、ヤマダにたずねた。彼女は緊張気味に「やってみる」と答えた。
二人は校長室へむかう。校舎内は黒い人影の異形が廊下をうろついていたが、さいわい校長室の付近になにもいない。二人は駆け足で校長室前へ移動した。
校長室の入口には両開きの扉がある。その扉には西洋風な金ピカのドアノブがついていた。拓馬がドアノブに手をかけてみると、鍵はかかっておらず、すんなり開いた。
扉を開けたなり、拓馬は室内の異物を発見した。校長の椅子に人が座っている。それは学校関係者ではない。袖口を絞った着物の上に、胸から腹を防護する鎧を着た男。頭部は頭頂の後方が膨らんだ頭巾で覆われている。
「戦国武将か? あんまり立派な甲冑じゃないけど」
「烏帽子《えぼし》を被ってるから、もっと昔の人かも」
二人は武者の様子をうかがう。武者は椅子に腰かけたまま目をつむり、微動だにしない。
「この人、固まってるね」
「さわると目を覚ますらしいが……お前の印象だと、こいつは安全そうか?」
「イヤな感じはしないよ」
「なら悪霊じゃないのかもな……」
「起きていきなり攻撃されたらこわいね。弓を持ってるよ」
武者の手には弓が、背中には矢筒がある。筒の中の矢数は数本程度。だが人外の持ち物に物理的な数は関係しないかもしれない。ひとたび拓馬たちを敵と認めれば延々射かける危険はある。
「わかった。逃げ道を用意しとこう」
拓馬はすぐに逃げられるよう、校長室のドアを開いた状態を保つ。
「ここを開けておく。危ないと感じたらすぐに走ってこい」
ヤマダはうなずいた。そうして武者の向かって右側から近づく。小さな鉄板を繋げた鎧に、指先をちょんちょんと当ててみる。
「本当に鎧だ!」
ヤマダがはしゃいだ。彼女は次に烏帽子を手のひらでポンポンと触った。だんだんヤマダは物怖じしなくなり、しまいには武者の顎鬚《あごひげ》をぴんぴん引っ張った。
「なかなか起きないね」
ヤマダは武者の顎をさすりつつ、拓馬を見る。当初の警戒心は完全に消えていた。そんな無防備な態度をとっていると突然、ヤマダの手を、武者がつかんだ。
ヤマダがびくんと体を震わせ、長い髪を振るう。武者が覚醒したのを、彼女も気付いた。
(こいつはどう出る?)
拓馬は息を呑んだ。武者は無言でヤマダを見据えている。無礼な接触をしたせいで怒ったか、と拓馬は内心ヒヤヒヤした。
「追いはらってほしい物の怪《もののけ》がいるの」
武者に手を握られるヤマダが嘆願する。
「お願い、ついてきて!」
武者はヤマダの手を放し、矢筒に手をかける。拓馬は武者が攻撃をしかけるのかと思い、「こっちにこい!」とヤマダに逃走を促す。彼女は拓馬めがけて走るが、足を止める。
「タッちゃん、うしろ!」
必死な呼びかけだ。異常事態を察した拓馬が後方を向く。目の前に黒い異形がいた。拓馬はぎょっとした。あとずさり、ヤマダのもとへ走る。二人は応接用のソファの影に隠れた。
袋の鼠になってなお、拓馬は逃走経路を考える。武者の後ろには窓がある。そこから脱出できそうだ。しかし窓へ近づくには、武者の注意を逸らさねばならない。武者が異形の相手をする隙をつけばなんとかなりそうだ。
武者は矢をつがえ、狙いを異形にさだめる。拓馬は声をひそめて「窓から逃げるぞ」と言い、そろりそろりと移動する。二人が校長の机に身を寄せたとき、空気を切り裂く音が鳴った。
矢が異形を射止める。命中した部分に大きな風穴があく。体を保てなくなった異形は床に沈み、あとかたもなく消えた。一撃で異形を葬った早業に二人は感心する。だが決着が予想以上に早くついてしまった。
「えーと、窓と廊下の、どっちに逃げる?」
ヤマダが拓馬にたずねた。どちらにしても逃げ切れるとは考えにくい。武者の放つ矢を避ける方法はないのだ。二人がまごついていると武者は片膝をつき、弓を床に置いた。敵意がないことの表れのようだ。
「武者のおじさんはわたしたちを守ってくれたのかな?」
「たぶんな。あとは蜘蛛の住処までついてくるかどうか……」
「よーし、行ってみよう」
二人が校長室を出る。武者は浮遊して追ってきた。ヤマダの依頼を受けるつもりらしい。
「助けてもらえそうだな」
「それはうれしいんだけど、なにか意思表示してくれたらいいのにね」
武者は無言かつ無表情。口も堅く閉じていた。
「タッちゃんが見える幽霊も無口なんだっけ?」
「幽霊の声は聞こえないな。俺が小さいころはしゃべってたような気もするんだが」
「武者のおじさんは口がうごいてないから、たぶんわたしたちが『聞こえない』んじゃなくて『話してない』んだろうね」
「言葉が通じねえのかな? 昔の人みたいだし」
「わたしの言葉がわからないんだったら、どうしてついてきてくれるんだろ?」
拓馬は赤毛の言葉を思い出した。この空間において、ヤマダの願いが実現されるという不思議な力が存在する。それが武者の霊にも適用されたか。しかしその不確かな予想を本人に告げていいものか、拓馬はなやむ。
「心は通じるんだよ、きっと」
拓馬が適当に答えた。ヤマダはぽかんとする。拓馬らしからぬ発言だと思ったのだろう。しかし彼女は同調する。
「やっぱりハートは大事だね」
そう言って、握りこぶしを左胸に数回当てた。
拓馬たちは武者を引き連れ、蜘蛛の住まう区画へ向かう。順路は噴水の前を通る道だ。。そこに銀髪の少女はいない。
「あの子、どこ行ったのかな」
「放っておいて平気だろ。ここは黒い連中のテリトリーなんだから」
彼女ひとりで行動しても危険はない。同じ仲間がうろつく中、害する敵といえば大蜘蛛と武者だ。蜘蛛は糸の存在でおよその潜伏位置がわかるし、武者は拓馬たちのそばにいるとわかっている。武者を連れて蜘蛛を退治しようとする者の前からいなくなるのは正しい判断だ。
「わたしらといるほうが危険だもんね」
ヤマダも拓馬と同じ心情に至った。
2018年07月27日
拓馬篇−9章◆
羽田校長はひとり、校長室の自席で物思いにふけっていた。彼の頭は現在行われている追試にある。
(ふふふ……よもやあの二人だけの時間ができようとは!)
追試の監督者は若い男性教師、追試を受ける者は女子生徒。たがいに親しい間柄だ。双方ともに奥手な性分ゆえに、大それたことが起きるはずもない。ただ校長はあの二人が一緒にいるというだけで幸福な気持ちになれた。
(うーん、シドくんは最後までよいネタを提供してくれたな)
新人教師はこの学期で離職する約束になっている。校長は内心ずっと居てほしいと思っているが、無理を言って相手を困らせることはしたくない。そのため教師の要望通りに任期を終わらせようと考えている。去りゆく教師の置き土産が、今日の追試だ。
(追試はどうなっているかな)
ごく普通の筆記試験に決まっている。そうとわかっていながら、校長は二人の様子を確かめたくて、腰を浮かした。その時、電話が鳴る。電話機のランプは事務室からの内線を示していた。校長は受話器を取る。
「もしもし、校長です」
『いま、警察官を名乗る方がお越しになっています。捜査のために校内を出歩く許可を得たいとのことです。いかが致しますか?』
女性事務員が校長に判断を仰いでいる。この学校で警察沙汰になるような出来事があっただろうか、と校長は疑問に思う。
「警察官……?」
『はい、警察手帳をお持ちでした』
「直接会って決めよう。その方は事務室にいるのかね?」
『はい、お待ちいただいております』
「すぐに向かう。もうすこし待ってもらいたまえ」
電話を切った校長はすぐさま廊下へ出た。事務室は校長室の隣りである。校長が事務室の戸口へ向かったところ、事務室の来客応対用のアクリル窓のそばに若い男性がいた。二十代の半ばといった年頃だが、白いワイシャツとスラックス姿は学生のようにも見える。
「あ、校長先生、はじめまして」
肩掛け鞄を掛けた男性が一礼した。校長も礼儀としてお辞儀をする。
「はい、私が校長の羽田ですが……あなたはどういう警察の方なんですか?」
警官を名乗る男性は穏やかな表情で鞄から手帳を出す。校長は若い警官の姓名と顔写真を見せられた。名字に目をやったあと、警官の所属する地名に注目した。
「おれは露木(つゆき)と言います」
「露木さん、ですか。あなたは他県の警察官でいらっしゃるようだが」
「そうなんです。こちらはおれの管轄外なんですけど、うちの県で起きた事件と同じことがこの地区にも発生しまして、その捜査にうかがったんです」
「ほう、どんな事件なのか、聞いてもよろしいかな?」
「高校生が襲われて、昏睡状態におちいる事件です」
意識不明になった自校の生徒というと、校長の耳に入ってはいない。
「失礼ですが、たずねる学校をお間違えでは? うちの生徒に、そんな被害を受けた子は──」
「ええ、被害者は他校の生徒ですよ。けれど、こちらの教師や生徒とも関わりのある子です」
「うちの教師と生徒……」
他校との交流は校長の知らぬところで多々起きている。部活の練習試合なり展覧会なり、多岐に渡る。
「その関わりは部活動で……ですか?」
「いえ、ハッキリ言ってしまえば喧嘩ですね」
校長が即座に思いついたのは、他校の少年と乱闘を起こした教師と生徒たちだ。敵対した少年たちのうち、ひとりは近隣の名だたる学校の所属だと聞いている。
「まさか雒英(らくえい)の生徒のことですか?」
露木はにっこり笑いながらうなずく。
「ご明察のとおりです。そちらの学校では有益な情報が得られませんので、こちらに足を運びました。なに、捜査と言っても簡単なこと。事情を知っていそうな人のお話を聞くだけです。騒ぎになるようなことはしませんから、協力していただけますか?」
露木が温厚な表情でたずねてくる。校長が断る理由はない。しかし憂慮すべきことがある。
「露木さんの所望する教師と生徒は学校にいるんですが、いまは大事な試験中でして」
「話すのは試験が終わってからでかまいません。その試験会場を教えてもらえますか?」
「では私が案内しましょう。露木さんのことは私から監督者に伝えます」
露木は「ご親切にありがとうございます」と謝辞を述べ、階段をのぼる校長のあとについていった。
二人は追試を行なっている教室へ着いた。廊下から様子をさぐってみるも、中に人はいない。
「おや? もう終わったんだろうか……」
校長は空き教室へ入ってみた。黒板には生徒への激励の言葉が英語で綴ってある。追試が終了しているのなら、真面目な監督者が消していそうな痕跡だ。
「んん? シド先生らしくないな、これは」
校長がとまどっているかたわら、露木は教卓へ接近する。教卓に残された紙切れを一枚手に取った。それを真剣な目つきで見ている。
「どうやらほかの場所で試験をやっているみたいですね」
「なんと。そんなことが書いてあるのですか?」
「いや、この紙自体はおれへの招待状ですよ」
露木が紙を校長に見せる。罫線の印字された紙に「Dear Mr.T Please come see me. from S」と書いてあった。
「『ミスターT』……ツユキのTですか」
「そうみたいですね。おれ宛てに『会いにきてくれ』と言っています」
「あなたはシド先生とお知り合いなんですか?」
「ええ、まあ……過去を知っている仲ですよ」
校長は露木を見る目が変わる。一介の公務員だと思っていたが、一気に身内のような親近感が湧く。
「ほう! どういった経緯で──」
二人の関係を校長がさぐろうとしたが、露木は「校長先生」と校長の言葉に被せてくる。
「案内していただいて、ありがとうございました」
露木は笑顔で会釈する。その和やかな雰囲気に校長が飲まれそうになった。
(いかん! はぐらかれるところだった)
露木は不自然に会話を打ち切ろうとしている。事情聴取すべき対象が不在で、その行方も知れないというのに。
「なにをおっしゃる。そのメモ書きには場所が書いていないでしょう?」
「目星はついています。あとはおれに任せて、校長先生にはお引き取り願いましょう。彼は校長の手引きなしでも、おれに会ってくれるみたいです」
露木はあからさまに校長の同伴をこばみ出した。そんなことで引き下がる校長ではない。
「事情を説明したまえ。なぜシド先生は露木さんの訪問があると知っていたのだね?」
「今日でなくてはいけなかったのです。すくなくとも彼の都合ではね」
「先生は露木さんが学校に来るとは一言も言わなかった。どうして彼は私たちに知らせなかったとお思いで?」
「お互いの意思疎通がうまく取れなかったんですよ。おれは正面切って彼と話し合いたいのですが、彼はそうでないらしい」
「先生がそういったシャイボーイだとは思えませんな」
「申し訳ない。これ以上の問答はご免こうむります」
露木は紙切れを持ったまま、廊下へ出ようとした。校長はあわてて引き止める。
「露木さん、どこへ行かれる?」
「先生のもとへいそぎます。彼を待たせてはあとが怖いので」
露木が早足で立ち去った。彼の歩行には迷いがない。
(本当に先生たちの居場所を知っている……?)
と思ったのも束の間で、外部の男性はトイレへ入っていく。校長はがっくりした。
(いそぐんじゃないのかね!)
しかし好都合である。トイレ内では逃げ場がない。窓からの逃走も、二階では容易にできないことだ。校長はこっそり男子トイレへ足を踏み入れた。人影はない。ドアのある洋式トイレに隠れたかと思い、ドアを開けてみる。鍵の手応えはなく、中に人もいなかった。
(もしや窓から脱出を?)
そんな常人離れした運動能力をもつ人なのか、と半信半疑になりながら、校長は窓を全開にする。興奮していたせいで、レール上を移動する窓が少々跳ね返った。
校舎の外には露木の姿がなかった。代わりに下校途中らしき生徒が歩いている。
(いない……ではアレか、いないと見せかけて天井に張り付くやつ!)
校長は窓の上を見上げる。ここにはいない。こちらは入口から視界に入る位置なので、いないのは最初からわかっていた。
(うしろか!)
校長は相手の身軽さに対抗して、機敏に振り向く。
「ザッツ・ニンジャ!」
校長は頭に思いついた語句を適当に発した。非日常的な状況に置かれていて、気分が高揚しているせいだ。言葉自体に意味はない。
しかし意気揚々と見た天井にも、人の姿はなかった。
(じゃあアレだ。隙を見て、すでにここを出たと!)
追跡者がなにかに注意を逸らしている合間を縫って、逃走する──そんなスパイじみたアクションを校長は想像した。即座にトイレの出入り口へ行き、あたりを見回す。
「ザッツ・ニ──」
ちょっと気に入ってきたワードを校長は途中で止めた。長身の男子生徒が目の前にいる。校長は露木以外の人が通りがかるとは思っていなかった。そのため、自身の態度は変質者に見えていないものかと一気に冷静になる。
ばったり会った男子生徒は校長のよく知る人物だった。先の期末試験で、またもトップの成績をおさめた秀才である。
「お、おや、椙守くんかね」
「はい、そうですが……」
椙守は校長を怪しんでいる。「なにをひとりで盛り上がっているんだ」と言わんばかりに冷めた目だ。校長は名誉の回復を図るまえに、露木の行方をたずねる。
「このトイレから、二十代の男の人が出てこなかったかね?」
「いえ、僕は見ていません」
「むむむ、そうか……」
校長の予想はことごとく外れた。露木はまことに消えてしまったようだ。
「あの、校長はどうしてここに……?」
椙守は当然の疑問を口にする。校長が校長室から遠いトイレへわざわざ行く理由がないのだ。正直に事情を話しても、この現実主義者な生徒は信じてくれないだろう。それどころか校長を変人あつかいしかねない──もうすでにそう見られている自覚はあったが、別種の変人属性を付与されたくなかった。
校長は追究を回避するため、椙守の機嫌をとりにかかる。
「いやはや、きみはまたまた優秀な試験結果を出したそうだね。すごいことだよ」
しかし椙守の表情は変わらない。
「いつものことですから」
彼の胸に校長の言葉はまったく響いていない。校長は新種の噂をもとにアプローチをしかける。
「きみは学校の成績に出にくいこともがんばっているようだね」
「うちの花屋のことですか?」
「それもあるが、特筆すべきはきみの肉体改造だよ。ずいぶん、たくましくなってきたんじゃないか?」
椙守は運動のできない秀才タイプであったが、ここ最近は筋トレにめざめているという。正直なところ、その成果が体に反映されているのか、校長はわからない。彼の身体にはからっきし関心がなかったので、比較できる記憶がないのだ。
生徒が求めているであろう褒め言葉をかけると、椙守はようやく少年らしい素直なよろこびを表に出す。
「え……わかるんですか?」
「ああ! 男らしさが増してきたようだ。その調子でいけば小山田くんもきみを放っておかなくなるだろうね」
校長の差し出がましい感想は椙守の喜色を吹き飛ばした。だがさっきまではなかった照れが内在している。
「そんなやましい気持ちでやってるんじゃありません」
「ははは、そうかね。これは失礼なことを言ってしまった。おじさんの冗談だと思って、わすれてほしい」
「校長が言うと冗談に聞こえません」
椙守はぷいっと顔をそむけて、男子トイレへすすむ。校長の目論見通り、どうにか話をはぐらかせた。
(ふぅ、あの子にはやはり小山田くんの話題が効果テキメンのようだ)
その女子生徒は、英語の追試を受ける対象である。しかし試験会場に生徒はいなかった。彼女も大事な用事をすっぽかす人間ではないはずだが。
(先生と生徒の二人で……どこかへ行った?)
そうとしか考えられない。この推測に至った校長は打ち震えた。
(なんということだ……!)
校長の全身に、熱い感情が駆け巡る。
(愛の逃避行か!)
校長はにやけた顔をさげて、校舎内を巡回しはじめた。とうに露木の行方はどうでもよくなっている。校長の脳内には、純情な教師と生徒の親しげな場面が展開されていた。
(ふふふ……よもやあの二人だけの時間ができようとは!)
追試の監督者は若い男性教師、追試を受ける者は女子生徒。たがいに親しい間柄だ。双方ともに奥手な性分ゆえに、大それたことが起きるはずもない。ただ校長はあの二人が一緒にいるというだけで幸福な気持ちになれた。
(うーん、シドくんは最後までよいネタを提供してくれたな)
新人教師はこの学期で離職する約束になっている。校長は内心ずっと居てほしいと思っているが、無理を言って相手を困らせることはしたくない。そのため教師の要望通りに任期を終わらせようと考えている。去りゆく教師の置き土産が、今日の追試だ。
(追試はどうなっているかな)
ごく普通の筆記試験に決まっている。そうとわかっていながら、校長は二人の様子を確かめたくて、腰を浮かした。その時、電話が鳴る。電話機のランプは事務室からの内線を示していた。校長は受話器を取る。
「もしもし、校長です」
『いま、警察官を名乗る方がお越しになっています。捜査のために校内を出歩く許可を得たいとのことです。いかが致しますか?』
女性事務員が校長に判断を仰いでいる。この学校で警察沙汰になるような出来事があっただろうか、と校長は疑問に思う。
「警察官……?」
『はい、警察手帳をお持ちでした』
「直接会って決めよう。その方は事務室にいるのかね?」
『はい、お待ちいただいております』
「すぐに向かう。もうすこし待ってもらいたまえ」
電話を切った校長はすぐさま廊下へ出た。事務室は校長室の隣りである。校長が事務室の戸口へ向かったところ、事務室の来客応対用のアクリル窓のそばに若い男性がいた。二十代の半ばといった年頃だが、白いワイシャツとスラックス姿は学生のようにも見える。
「あ、校長先生、はじめまして」
肩掛け鞄を掛けた男性が一礼した。校長も礼儀としてお辞儀をする。
「はい、私が校長の羽田ですが……あなたはどういう警察の方なんですか?」
警官を名乗る男性は穏やかな表情で鞄から手帳を出す。校長は若い警官の姓名と顔写真を見せられた。名字に目をやったあと、警官の所属する地名に注目した。
「おれは露木(つゆき)と言います」
「露木さん、ですか。あなたは他県の警察官でいらっしゃるようだが」
「そうなんです。こちらはおれの管轄外なんですけど、うちの県で起きた事件と同じことがこの地区にも発生しまして、その捜査にうかがったんです」
「ほう、どんな事件なのか、聞いてもよろしいかな?」
「高校生が襲われて、昏睡状態におちいる事件です」
意識不明になった自校の生徒というと、校長の耳に入ってはいない。
「失礼ですが、たずねる学校をお間違えでは? うちの生徒に、そんな被害を受けた子は──」
「ええ、被害者は他校の生徒ですよ。けれど、こちらの教師や生徒とも関わりのある子です」
「うちの教師と生徒……」
他校との交流は校長の知らぬところで多々起きている。部活の練習試合なり展覧会なり、多岐に渡る。
「その関わりは部活動で……ですか?」
「いえ、ハッキリ言ってしまえば喧嘩ですね」
校長が即座に思いついたのは、他校の少年と乱闘を起こした教師と生徒たちだ。敵対した少年たちのうち、ひとりは近隣の名だたる学校の所属だと聞いている。
「まさか雒英(らくえい)の生徒のことですか?」
露木はにっこり笑いながらうなずく。
「ご明察のとおりです。そちらの学校では有益な情報が得られませんので、こちらに足を運びました。なに、捜査と言っても簡単なこと。事情を知っていそうな人のお話を聞くだけです。騒ぎになるようなことはしませんから、協力していただけますか?」
露木が温厚な表情でたずねてくる。校長が断る理由はない。しかし憂慮すべきことがある。
「露木さんの所望する教師と生徒は学校にいるんですが、いまは大事な試験中でして」
「話すのは試験が終わってからでかまいません。その試験会場を教えてもらえますか?」
「では私が案内しましょう。露木さんのことは私から監督者に伝えます」
露木は「ご親切にありがとうございます」と謝辞を述べ、階段をのぼる校長のあとについていった。
二人は追試を行なっている教室へ着いた。廊下から様子をさぐってみるも、中に人はいない。
「おや? もう終わったんだろうか……」
校長は空き教室へ入ってみた。黒板には生徒への激励の言葉が英語で綴ってある。追試が終了しているのなら、真面目な監督者が消していそうな痕跡だ。
「んん? シド先生らしくないな、これは」
校長がとまどっているかたわら、露木は教卓へ接近する。教卓に残された紙切れを一枚手に取った。それを真剣な目つきで見ている。
「どうやらほかの場所で試験をやっているみたいですね」
「なんと。そんなことが書いてあるのですか?」
「いや、この紙自体はおれへの招待状ですよ」
露木が紙を校長に見せる。罫線の印字された紙に「Dear Mr.T Please come see me. from S」と書いてあった。
「『ミスターT』……ツユキのTですか」
「そうみたいですね。おれ宛てに『会いにきてくれ』と言っています」
「あなたはシド先生とお知り合いなんですか?」
「ええ、まあ……過去を知っている仲ですよ」
校長は露木を見る目が変わる。一介の公務員だと思っていたが、一気に身内のような親近感が湧く。
「ほう! どういった経緯で──」
二人の関係を校長がさぐろうとしたが、露木は「校長先生」と校長の言葉に被せてくる。
「案内していただいて、ありがとうございました」
露木は笑顔で会釈する。その和やかな雰囲気に校長が飲まれそうになった。
(いかん! はぐらかれるところだった)
露木は不自然に会話を打ち切ろうとしている。事情聴取すべき対象が不在で、その行方も知れないというのに。
「なにをおっしゃる。そのメモ書きには場所が書いていないでしょう?」
「目星はついています。あとはおれに任せて、校長先生にはお引き取り願いましょう。彼は校長の手引きなしでも、おれに会ってくれるみたいです」
露木はあからさまに校長の同伴をこばみ出した。そんなことで引き下がる校長ではない。
「事情を説明したまえ。なぜシド先生は露木さんの訪問があると知っていたのだね?」
「今日でなくてはいけなかったのです。すくなくとも彼の都合ではね」
「先生は露木さんが学校に来るとは一言も言わなかった。どうして彼は私たちに知らせなかったとお思いで?」
「お互いの意思疎通がうまく取れなかったんですよ。おれは正面切って彼と話し合いたいのですが、彼はそうでないらしい」
「先生がそういったシャイボーイだとは思えませんな」
「申し訳ない。これ以上の問答はご免こうむります」
露木は紙切れを持ったまま、廊下へ出ようとした。校長はあわてて引き止める。
「露木さん、どこへ行かれる?」
「先生のもとへいそぎます。彼を待たせてはあとが怖いので」
露木が早足で立ち去った。彼の歩行には迷いがない。
(本当に先生たちの居場所を知っている……?)
と思ったのも束の間で、外部の男性はトイレへ入っていく。校長はがっくりした。
(いそぐんじゃないのかね!)
しかし好都合である。トイレ内では逃げ場がない。窓からの逃走も、二階では容易にできないことだ。校長はこっそり男子トイレへ足を踏み入れた。人影はない。ドアのある洋式トイレに隠れたかと思い、ドアを開けてみる。鍵の手応えはなく、中に人もいなかった。
(もしや窓から脱出を?)
そんな常人離れした運動能力をもつ人なのか、と半信半疑になりながら、校長は窓を全開にする。興奮していたせいで、レール上を移動する窓が少々跳ね返った。
校舎の外には露木の姿がなかった。代わりに下校途中らしき生徒が歩いている。
(いない……ではアレか、いないと見せかけて天井に張り付くやつ!)
校長は窓の上を見上げる。ここにはいない。こちらは入口から視界に入る位置なので、いないのは最初からわかっていた。
(うしろか!)
校長は相手の身軽さに対抗して、機敏に振り向く。
「ザッツ・ニンジャ!」
校長は頭に思いついた語句を適当に発した。非日常的な状況に置かれていて、気分が高揚しているせいだ。言葉自体に意味はない。
しかし意気揚々と見た天井にも、人の姿はなかった。
(じゃあアレだ。隙を見て、すでにここを出たと!)
追跡者がなにかに注意を逸らしている合間を縫って、逃走する──そんなスパイじみたアクションを校長は想像した。即座にトイレの出入り口へ行き、あたりを見回す。
「ザッツ・ニ──」
ちょっと気に入ってきたワードを校長は途中で止めた。長身の男子生徒が目の前にいる。校長は露木以外の人が通りがかるとは思っていなかった。そのため、自身の態度は変質者に見えていないものかと一気に冷静になる。
ばったり会った男子生徒は校長のよく知る人物だった。先の期末試験で、またもトップの成績をおさめた秀才である。
「お、おや、椙守くんかね」
「はい、そうですが……」
椙守は校長を怪しんでいる。「なにをひとりで盛り上がっているんだ」と言わんばかりに冷めた目だ。校長は名誉の回復を図るまえに、露木の行方をたずねる。
「このトイレから、二十代の男の人が出てこなかったかね?」
「いえ、僕は見ていません」
「むむむ、そうか……」
校長の予想はことごとく外れた。露木はまことに消えてしまったようだ。
「あの、校長はどうしてここに……?」
椙守は当然の疑問を口にする。校長が校長室から遠いトイレへわざわざ行く理由がないのだ。正直に事情を話しても、この現実主義者な生徒は信じてくれないだろう。それどころか校長を変人あつかいしかねない──もうすでにそう見られている自覚はあったが、別種の変人属性を付与されたくなかった。
校長は追究を回避するため、椙守の機嫌をとりにかかる。
「いやはや、きみはまたまた優秀な試験結果を出したそうだね。すごいことだよ」
しかし椙守の表情は変わらない。
「いつものことですから」
彼の胸に校長の言葉はまったく響いていない。校長は新種の噂をもとにアプローチをしかける。
「きみは学校の成績に出にくいこともがんばっているようだね」
「うちの花屋のことですか?」
「それもあるが、特筆すべきはきみの肉体改造だよ。ずいぶん、たくましくなってきたんじゃないか?」
椙守は運動のできない秀才タイプであったが、ここ最近は筋トレにめざめているという。正直なところ、その成果が体に反映されているのか、校長はわからない。彼の身体にはからっきし関心がなかったので、比較できる記憶がないのだ。
生徒が求めているであろう褒め言葉をかけると、椙守はようやく少年らしい素直なよろこびを表に出す。
「え……わかるんですか?」
「ああ! 男らしさが増してきたようだ。その調子でいけば小山田くんもきみを放っておかなくなるだろうね」
校長の差し出がましい感想は椙守の喜色を吹き飛ばした。だがさっきまではなかった照れが内在している。
「そんなやましい気持ちでやってるんじゃありません」
「ははは、そうかね。これは失礼なことを言ってしまった。おじさんの冗談だと思って、わすれてほしい」
「校長が言うと冗談に聞こえません」
椙守はぷいっと顔をそむけて、男子トイレへすすむ。校長の目論見通り、どうにか話をはぐらかせた。
(ふぅ、あの子にはやはり小山田くんの話題が効果テキメンのようだ)
その女子生徒は、英語の追試を受ける対象である。しかし試験会場に生徒はいなかった。彼女も大事な用事をすっぽかす人間ではないはずだが。
(先生と生徒の二人で……どこかへ行った?)
そうとしか考えられない。この推測に至った校長は打ち震えた。
(なんということだ……!)
校長の全身に、熱い感情が駆け巡る。
(愛の逃避行か!)
校長はにやけた顔をさげて、校舎内を巡回しはじめた。とうに露木の行方はどうでもよくなっている。校長の脳内には、純情な教師と生徒の親しげな場面が展開されていた。
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