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2018年01月12日
拓馬篇−1章◇
けたたましい音が鳴る。耳をつんざく高音域だ。その音色が少年の覚醒をうながした。
図体の大きい少年は微妙に赤のまじる黒い視界のなかにいる。周囲の状況が目視できない。直感をたよりに腕を頭の上へとうごかした。
室内に響く音と視界の色は早朝の合図だった。そのように習慣で身についた感覚が理解している。音の出所は頭上に位置することも、体がおぼえていた。
動員した手に固い感触が伝わる。その物体のわずかな凹凸の部分をさぐり、手のひらで押さえた。音がやむ。少年は騒音がなくなったことで一安心した。
少年は音の発生機に手をついたまま、体を横向きにする。
「学校に、行かんと──」
登校の意思に反して体は休息を続ける。眠りの誘いに抵抗できず、少年の動きは静止した。
あわただしい足音が近づいてきた。ふすまを勢いよく開ける音が間近に聞こえると、少年は本能で危険をさとった。
「また二度寝して!」
せっかちな肉親の声だった。直後に冷たい液体を顔に吹きかけられる。二度、三度と噴霧攻撃を受ける。少年は触感による覚醒を余儀なくされた。手で顔をぬぐい、ようやく目を開ける。目の前には普段着姿の母親がいる。少年とは似ても似つかぬ細身の中年だ。彼女はタオルを息子の顔に投げつける。
「顔ふいて! 洗面所にいく時間だってもうないよ!」
どうも寝過ごしたらしい。少年は遅刻の可能性を感じながら、母の命じるとおりに顔をごしごしふいた。手をおろすとタオルがパッと取られる。空いた手に白いワイシャツが落とされた。学校指定の衣服だ。
「制服に着替えて! そのシャツのうえから着れるでしょ!」
少年は上体を起こした。着ていた半袖のシャツはそのままに、制服の袖を腕に通す。無我の境地のていでボタンをちまちま留めていると「移動中にやりな!」と今度は制服のズボンを投げ渡された。母はさすがにパンツ一丁姿の息子は見たくないらしく、廊下へ出る。
「今日は授業ないんだろ? 手ぶらでダッシュして行きなよ」
母は霧吹きとタオルを回収し、一階へ降りていった。少年は部屋着のズボンを布団のうえに脱ぎ捨て、制服を着た。この格好で登校しても見た目には問題ないが、まだ不足がある。母がくれなかった靴下や制服のジャケット等を身に着ける。ふすまを乱雑に閉めてから自身も一階へ降りた。
一家の台所へ入ると母がいた。野菜や果物を細かく砕くジューサーの片付けをしている。そういった添加物のない野菜ジュースは美容によいと聞いてからは定期的に作っているのだ。見てくれの善し悪しに頓着のない少年には関心のうすい努力だった。自分の母親が美人か不美人なのかさえ、よくわかっていない。
「かーちゃん、メシある?」
とっとと行け、と言われるのが順当であったが、一応たずねる。母は泡のついた手で、食卓にある透明なコップを指差した。コップの中には不透明な薄緑色の野菜ジュースが入っている。量にして缶ジュース一本分あるかないか。これを朝食として飲めとの仰せだ。
「わしにゃ足りんよー」
「帰ってくるまで我慢しな」
なにも口にしないよりはいい。少年はひと息に母お手製のジュースを飲む。甘い風味からはバナナやリンゴが入っていると感じた。天然の甘さが野菜類の青くささを消していて、飲みやすかった。
「ごちそーさん!」
コップを食卓へ置いた。すぐに台所横の勝手口で靴を履く。ここが玄関だ。家の正面は一家が経営する飲食店の出入口になっている。室内側に掛けたのれんをくぐり、外へ出る。いってらっしゃい、という声が聞こえた気がした。その声は少年が定刻通りの登校をする際と同じ調子だった。
少年は町中を駆けていく。体を動かしていると頭も連動する。
(時計……見んかったのう)
現在の時刻は不明だ。彼は目覚まし時計に触れていながら、その盤面をちらりとも見ていなかった。いまこの時点ですでに遅刻しているのか、急げば間に合う程度の余裕はあるのか、はっきりしない。
(時間を知っておっても、どーにもならんか)
どちらであろうと走らねばならぬ状況は同じだ。少年は雑念を払い、疾走に注力した。
学校に近づくほどに少年と同じ制服を着た若者は増えるはずだが、一人も登校中の生徒を見かけない。少年はいよいよ自身の窮地を実感しはじめた。しかし生来のおおらかさが焦燥感を抑えこみ、走力のパフォーマンスを崩すことなく校内に入る。
屋内には静けさがたちこめる。その静寂はすでに始業式が開始したことを示していた。少年は教室には寄らず、式場である体育館に向かうことにした。なるべく足音がうるさく響かぬよう、注意しながら走る。体育館への曲がり角にさしかかったところ、前方に人影を見つけた。灰色のスーツを着た大人の男性だ。
(この人も遅刻か?)
始業式に用のある者は生徒と教師の二種類に限る。男性のいでたちは教師のようだが、少年に見覚えはなかった。
(なんでもいいや、とっとと入る)
小事にこだわらない少年は男性を警戒せず、後を追うように接近する。男性は体育館の鉄扉を開いた。人ひとりが通れるすきまを空けたまま、中へ入らない。少年は男性の行動を不思議に思いつつ扉に近づくと、男性が後ろを振りむく。
「お先にどうぞ」
男性が人の良さそうな微笑で言う。
「静粛にお入りください」
他人に静けさを求めるにふさわしい小声だった。少年は落ち着きのある男性に信頼感をいだく。地声の大きい少年は小声での応対が苦手であり、こっくりうなずいた。言われるままに体育館へ入る。館内はスピーカーを通した教員の声がこだましている。整列する生徒の数名が、少年のいる扉のほうへ視線を向けた。少年は生徒の視線を意に介さない。
(どの列にならぶか……?)
同学年の知り合いがいる列を探す。列はクラス別に並んでいるようだが、この際学年が合っていればいいと考えた。
少年は同年の友人を発見する。足音を忍ばせ、列に加わった。乱れた呼吸をなるべく周囲にもらさぬよう調整しつつ、目的を果たした達成感を胸に秘めた。
しばらく教員のスピーチに耳を傾ける。次第に入館前に会った男性が気になり、教師が立ちならぶ壁際を見やる。灰色のスーツ姿の男性がいた。彼は教師陣にまぎれている。
(やっぱり先生か)
少年は合点がいった。そのまま新任らしき教師を見ていると、彼は教師の一団から離れていく。鉄扉を開け、姿を消してしまった。
(遅刻で早退?)
その行為は休みがちな怠け者のようだ。しかしそんな不真面目な人には見えなかった。少年はあの教師になんらかの事情があったのだと思い、式典にふたたび意識を向けた。
図体の大きい少年は微妙に赤のまじる黒い視界のなかにいる。周囲の状況が目視できない。直感をたよりに腕を頭の上へとうごかした。
室内に響く音と視界の色は早朝の合図だった。そのように習慣で身についた感覚が理解している。音の出所は頭上に位置することも、体がおぼえていた。
動員した手に固い感触が伝わる。その物体のわずかな凹凸の部分をさぐり、手のひらで押さえた。音がやむ。少年は騒音がなくなったことで一安心した。
少年は音の発生機に手をついたまま、体を横向きにする。
「学校に、行かんと──」
登校の意思に反して体は休息を続ける。眠りの誘いに抵抗できず、少年の動きは静止した。
あわただしい足音が近づいてきた。ふすまを勢いよく開ける音が間近に聞こえると、少年は本能で危険をさとった。
「また二度寝して!」
せっかちな肉親の声だった。直後に冷たい液体を顔に吹きかけられる。二度、三度と噴霧攻撃を受ける。少年は触感による覚醒を余儀なくされた。手で顔をぬぐい、ようやく目を開ける。目の前には普段着姿の母親がいる。少年とは似ても似つかぬ細身の中年だ。彼女はタオルを息子の顔に投げつける。
「顔ふいて! 洗面所にいく時間だってもうないよ!」
どうも寝過ごしたらしい。少年は遅刻の可能性を感じながら、母の命じるとおりに顔をごしごしふいた。手をおろすとタオルがパッと取られる。空いた手に白いワイシャツが落とされた。学校指定の衣服だ。
「制服に着替えて! そのシャツのうえから着れるでしょ!」
少年は上体を起こした。着ていた半袖のシャツはそのままに、制服の袖を腕に通す。無我の境地のていでボタンをちまちま留めていると「移動中にやりな!」と今度は制服のズボンを投げ渡された。母はさすがにパンツ一丁姿の息子は見たくないらしく、廊下へ出る。
「今日は授業ないんだろ? 手ぶらでダッシュして行きなよ」
母は霧吹きとタオルを回収し、一階へ降りていった。少年は部屋着のズボンを布団のうえに脱ぎ捨て、制服を着た。この格好で登校しても見た目には問題ないが、まだ不足がある。母がくれなかった靴下や制服のジャケット等を身に着ける。ふすまを乱雑に閉めてから自身も一階へ降りた。
一家の台所へ入ると母がいた。野菜や果物を細かく砕くジューサーの片付けをしている。そういった添加物のない野菜ジュースは美容によいと聞いてからは定期的に作っているのだ。見てくれの善し悪しに頓着のない少年には関心のうすい努力だった。自分の母親が美人か不美人なのかさえ、よくわかっていない。
「かーちゃん、メシある?」
とっとと行け、と言われるのが順当であったが、一応たずねる。母は泡のついた手で、食卓にある透明なコップを指差した。コップの中には不透明な薄緑色の野菜ジュースが入っている。量にして缶ジュース一本分あるかないか。これを朝食として飲めとの仰せだ。
「わしにゃ足りんよー」
「帰ってくるまで我慢しな」
なにも口にしないよりはいい。少年はひと息に母お手製のジュースを飲む。甘い風味からはバナナやリンゴが入っていると感じた。天然の甘さが野菜類の青くささを消していて、飲みやすかった。
「ごちそーさん!」
コップを食卓へ置いた。すぐに台所横の勝手口で靴を履く。ここが玄関だ。家の正面は一家が経営する飲食店の出入口になっている。室内側に掛けたのれんをくぐり、外へ出る。いってらっしゃい、という声が聞こえた気がした。その声は少年が定刻通りの登校をする際と同じ調子だった。
少年は町中を駆けていく。体を動かしていると頭も連動する。
(時計……見んかったのう)
現在の時刻は不明だ。彼は目覚まし時計に触れていながら、その盤面をちらりとも見ていなかった。いまこの時点ですでに遅刻しているのか、急げば間に合う程度の余裕はあるのか、はっきりしない。
(時間を知っておっても、どーにもならんか)
どちらであろうと走らねばならぬ状況は同じだ。少年は雑念を払い、疾走に注力した。
学校に近づくほどに少年と同じ制服を着た若者は増えるはずだが、一人も登校中の生徒を見かけない。少年はいよいよ自身の窮地を実感しはじめた。しかし生来のおおらかさが焦燥感を抑えこみ、走力のパフォーマンスを崩すことなく校内に入る。
屋内には静けさがたちこめる。その静寂はすでに始業式が開始したことを示していた。少年は教室には寄らず、式場である体育館に向かうことにした。なるべく足音がうるさく響かぬよう、注意しながら走る。体育館への曲がり角にさしかかったところ、前方に人影を見つけた。灰色のスーツを着た大人の男性だ。
(この人も遅刻か?)
始業式に用のある者は生徒と教師の二種類に限る。男性のいでたちは教師のようだが、少年に見覚えはなかった。
(なんでもいいや、とっとと入る)
小事にこだわらない少年は男性を警戒せず、後を追うように接近する。男性は体育館の鉄扉を開いた。人ひとりが通れるすきまを空けたまま、中へ入らない。少年は男性の行動を不思議に思いつつ扉に近づくと、男性が後ろを振りむく。
「お先にどうぞ」
男性が人の良さそうな微笑で言う。
「静粛にお入りください」
他人に静けさを求めるにふさわしい小声だった。少年は落ち着きのある男性に信頼感をいだく。地声の大きい少年は小声での応対が苦手であり、こっくりうなずいた。言われるままに体育館へ入る。館内はスピーカーを通した教員の声がこだましている。整列する生徒の数名が、少年のいる扉のほうへ視線を向けた。少年は生徒の視線を意に介さない。
(どの列にならぶか……?)
同学年の知り合いがいる列を探す。列はクラス別に並んでいるようだが、この際学年が合っていればいいと考えた。
少年は同年の友人を発見する。足音を忍ばせ、列に加わった。乱れた呼吸をなるべく周囲にもらさぬよう調整しつつ、目的を果たした達成感を胸に秘めた。
しばらく教員のスピーチに耳を傾ける。次第に入館前に会った男性が気になり、教師が立ちならぶ壁際を見やる。灰色のスーツ姿の男性がいた。彼は教師陣にまぎれている。
(やっぱり先生か)
少年は合点がいった。そのまま新任らしき教師を見ていると、彼は教師の一団から離れていく。鉄扉を開け、姿を消してしまった。
(遅刻で早退?)
その行為は休みがちな怠け者のようだ。しかしそんな不真面目な人には見えなかった。少年はあの教師になんらかの事情があったのだと思い、式典にふたたび意識を向けた。
タグ:拓馬
2018年01月13日
拓馬篇−1章2
体育館に全校生徒と教師が一堂に会した。壇上には頭皮の面積の多い中年が立っている。この場では物理的にも立場的にもトップに位置する人物だ。その中年が喋りだす。
「全校生徒の皆さん、春休みは満喫されたかな? 今日からは再び学校生活をエンジョイする時期となった! 一同、大いに学び、大いに交友するように! 以上!」
中年は簡潔に話を終わらせ、半歩後ろへ下がった。進行役の若い教師が慌てる。
「羽田校長! お話が短くはありませんか?」
校長が再度マイクに顔を寄せる。
「そうか、ではもう一つ言っておこう。今学期から来る転校生と先生は皆、ステキな人だ! 特に新二年生の諸君、是非とも彼らと親しくなり、心躍らせたまえ!」
進行役の教師は校長の言葉に呆れ、そのまま始業式を進めた。校長は型破りだが他は至極普通な式典の流れだった。生徒たちは新たに振り分けられた教室へと帰る。大勢がぞろぞろと歩く中、流れに逆らう生徒がいた。拓馬のもとにポニーテールの女子がくる。
「タッちゃん、校長の話聞いた? まーたハゲたことを企んでるみたいだね」
「あの様子じゃ、二年に転校生と先生が来るか」
「どんな刺客が来ようと、わたしたちの信念に変わりはないよ」
ヤマダは拓馬の肩を叩いた。彼女の信念とは学内で恋愛をしないことだ。二人は親しい間柄だが恋仲ではない。物心ついた時から共にいた兄弟同然の友人だ。ベタな男女の恋物語を好む校長の格好の標的として、なにかにつけ校長との接触がある。
二人は他愛もない話をしながら二年生の教室へ行く。始業式前に自身のクラスは知っていた。ところがヤマダは他の教室へ入っていく。彼女は黒板に貼ったクラス名簿を見る。それは一度は目を通した印刷紙だ。
「やっぱり、このクラスに転校生は来ないんだね」
「うちのクラスには二人、知らない名前が載っていたのにな」
ヤマダはさらに別のクラスへ入る。どの一覧表にも見知った名前が載るばかり。
「と、いうことは……うちだけ転校生が割り当てられたんだね」
「校長が『転校生はステキな人』だとか抜かしてたな、きっとそういう狙いなんだろ」
「あの校長、よっぽどわたしらを目のカタキにしてんのかな?」
「メインはお前だ。男友だちが多いから」
「くそう、いっそ男に生まれていれば……」
「そのときは女友だちと変な目で見られるんじゃねえの?」
校長はとかく生徒に恋愛を奨励する。その目的は定かではないが、校長には重要な行動理念だ。標的となる生徒は恋愛沙汰に関心が薄い反面、仲の良い異性のいる者たちだった。
「うおーい、拓馬!」
野太い声が廊下から飛んでくる。ひときわ体格の良い男子生徒だ。
「わしらはこっちの教室じゃ、もうすぐ先生が来るぞ!」
拓馬が「いま行く!」と返事をした。早歩きで自分の教室へもどる。まだしっかり覚えていない自席に着くと、まもなく男性教師が入室した。白髪交じりの中年だ。拓馬たちが見慣れた英語教師がクラス全員に話しかける。
「二年三組を受け持つ本摩だ! 皆、よろしく頼むよ」
ヤマダ含めた一部の生徒が「はーい」と答えた。
「クラス分けの一覧を見ただろう。このクラスには転校生が二人やってくる! 新しい仲間は授業が始まったら登校する。紹介はその時にするから楽しみにしておくよーに」
次に本摩は連絡事項が載るプリントを配る。その中に土曜補習の日程があった。補習は週続きだったり隔週だったりと規則性なく行われる。拓馬は今月の補習日を念入りに確認した。
「配布物をもらったら今日は解散! 明日も半日だ。最後の休み気分を味わいなさい」
本摩が教壇から降りるや否や、生徒が活発になる。脇目もふらずに帰宅する者、友人と話す者、他の教室へ行く者など様々だ。拓馬は鞄を担いだ時にヤマダに話しかけられた。
「ねえタッちゃん、気になったことがあってね」
「なんだ?」
「去年……つっても二学期の始業式ね。新任の先生は校長の話の後にステージに立って、挨拶してたでしょ?」
「ぺーぺーのヤス先生か?」
昨年の二学期から勤める教師は教員未経験の若者だった。彼は新任早々、一年生の社会科科目を担当した。この新人は、事情があって休職する教師の代替要員だという。しかし拓馬は現在休職中の教師のことを知らない。一年生の一学期中に関わる機会がなかったのだ。
「うん。でも今日、校長は新しい先生が来ると言ってても、先生の挨拶がなかった」
「そういやそうか。転校生みたく授業日から来るんじゃねえか?」
「新任の先生なら、わし見たぞ」
声も体も大きい男子が会話に入る。二人が他の教室にいた時に声をかけた生徒だ。
「どこで見た……というかジモンはいつ来た? 整列した時にはいなかったような」
「わしはちと出遅れてな。始業式が始まったころに、体育館めがけて走っておった」
「初日から遅刻するか……」
「それはそれ、触れてくれるな!」
失態をつつかれた生徒は豪快に笑った。ヤマダは首をかしげる。
「ジモンのことだから、教室へ行かずに体育館に直行したんでしょ?」
「ん? それがどした?」
「クラス名簿を見るヒマがなかったのに、よく自分のクラスへ迷わず行けたね」
言われればそうだ。始業式後の拓馬たちは自分の席がないとわかっている、ほかのクラスにおもむいていた。そこでジモンに会わなかったのは、彼が正解のクラスを一発で引き当てたからだろう。
「あー、ほら、列の最後にワカがおったから、教えてもらったんじゃ」
ジモンの言う人物は若浜という男子だ。クラスごとに生徒が整列する時は名字の五十音順に並ぶ。そのため、最後のわ音から名字のはじまる彼は列の最後尾にいることが多々あった。
ジモンは「んで先生のことなんだがの」とヤマダへの質疑応答を短く切り上げ、本題に入る。
「わしが体育館に行く途中でよく知らん先生を見かけたんじゃ。グレーのスーツを着た男の人で、その人も体育館に向かっておって」
「そんな人、見たか?」
拓馬はヤマダに尋ねた。ヤマダは「わたしは気づかなかった」と首を横に振った。
「その先生は式が終わる前に帰ったんじゃ。だから気付くもんがおらんかったんじゃろ」
ジモンの言葉に拓馬は引っ掛かる。その男が先生だと断定できる情報がないのだ。
「しっかし、その人が先生とは限らないんじゃ……」
拓馬の主張にヤマダもうなずいた。ヤマダは自身のリュックサックを担ぐ。
「入学式じゃないから保護者も外部の賓客も来ないし、先生か不法侵入者じゃないの?」
本摩先生に聞いてくる、とヤマダは駆け足で廊下に出た。拓馬は彼女に同伴しようか迷ったが、ジモンが新しい教師だと談ずる人物への興味がわかないのでやめておいた。遠ざかる後ろ姿に拓馬が叫ぶ。
「俺は先に帰るからなー!」
わかったー、という返答が廊下に響く。ジモンは「わしも帰るかの」とそっけなく言う。
「ジモンは聞きに行かなくていいのか?」
「授業で会ってのお楽しみにしておくんじゃ」
「そっか……で、カバンは?」
拓馬がジモン本人とその机を見て、荷物がどこにもないのを確認する。
「ない! 授業も弁当もないからの。おかげで全力疾走できたわい!」
拓馬は豪快なジモンに「プリントを持ち帰る用意はしとこうな」と忠告した。
「全校生徒の皆さん、春休みは満喫されたかな? 今日からは再び学校生活をエンジョイする時期となった! 一同、大いに学び、大いに交友するように! 以上!」
中年は簡潔に話を終わらせ、半歩後ろへ下がった。進行役の若い教師が慌てる。
「羽田校長! お話が短くはありませんか?」
校長が再度マイクに顔を寄せる。
「そうか、ではもう一つ言っておこう。今学期から来る転校生と先生は皆、ステキな人だ! 特に新二年生の諸君、是非とも彼らと親しくなり、心躍らせたまえ!」
進行役の教師は校長の言葉に呆れ、そのまま始業式を進めた。校長は型破りだが他は至極普通な式典の流れだった。生徒たちは新たに振り分けられた教室へと帰る。大勢がぞろぞろと歩く中、流れに逆らう生徒がいた。拓馬のもとにポニーテールの女子がくる。
「タッちゃん、校長の話聞いた? まーたハゲたことを企んでるみたいだね」
「あの様子じゃ、二年に転校生と先生が来るか」
「どんな刺客が来ようと、わたしたちの信念に変わりはないよ」
ヤマダは拓馬の肩を叩いた。彼女の信念とは学内で恋愛をしないことだ。二人は親しい間柄だが恋仲ではない。物心ついた時から共にいた兄弟同然の友人だ。ベタな男女の恋物語を好む校長の格好の標的として、なにかにつけ校長との接触がある。
二人は他愛もない話をしながら二年生の教室へ行く。始業式前に自身のクラスは知っていた。ところがヤマダは他の教室へ入っていく。彼女は黒板に貼ったクラス名簿を見る。それは一度は目を通した印刷紙だ。
「やっぱり、このクラスに転校生は来ないんだね」
「うちのクラスには二人、知らない名前が載っていたのにな」
ヤマダはさらに別のクラスへ入る。どの一覧表にも見知った名前が載るばかり。
「と、いうことは……うちだけ転校生が割り当てられたんだね」
「校長が『転校生はステキな人』だとか抜かしてたな、きっとそういう狙いなんだろ」
「あの校長、よっぽどわたしらを目のカタキにしてんのかな?」
「メインはお前だ。男友だちが多いから」
「くそう、いっそ男に生まれていれば……」
「そのときは女友だちと変な目で見られるんじゃねえの?」
校長はとかく生徒に恋愛を奨励する。その目的は定かではないが、校長には重要な行動理念だ。標的となる生徒は恋愛沙汰に関心が薄い反面、仲の良い異性のいる者たちだった。
「うおーい、拓馬!」
野太い声が廊下から飛んでくる。ひときわ体格の良い男子生徒だ。
「わしらはこっちの教室じゃ、もうすぐ先生が来るぞ!」
拓馬が「いま行く!」と返事をした。早歩きで自分の教室へもどる。まだしっかり覚えていない自席に着くと、まもなく男性教師が入室した。白髪交じりの中年だ。拓馬たちが見慣れた英語教師がクラス全員に話しかける。
「二年三組を受け持つ本摩だ! 皆、よろしく頼むよ」
ヤマダ含めた一部の生徒が「はーい」と答えた。
「クラス分けの一覧を見ただろう。このクラスには転校生が二人やってくる! 新しい仲間は授業が始まったら登校する。紹介はその時にするから楽しみにしておくよーに」
次に本摩は連絡事項が載るプリントを配る。その中に土曜補習の日程があった。補習は週続きだったり隔週だったりと規則性なく行われる。拓馬は今月の補習日を念入りに確認した。
「配布物をもらったら今日は解散! 明日も半日だ。最後の休み気分を味わいなさい」
本摩が教壇から降りるや否や、生徒が活発になる。脇目もふらずに帰宅する者、友人と話す者、他の教室へ行く者など様々だ。拓馬は鞄を担いだ時にヤマダに話しかけられた。
「ねえタッちゃん、気になったことがあってね」
「なんだ?」
「去年……つっても二学期の始業式ね。新任の先生は校長の話の後にステージに立って、挨拶してたでしょ?」
「ぺーぺーのヤス先生か?」
昨年の二学期から勤める教師は教員未経験の若者だった。彼は新任早々、一年生の社会科科目を担当した。この新人は、事情があって休職する教師の代替要員だという。しかし拓馬は現在休職中の教師のことを知らない。一年生の一学期中に関わる機会がなかったのだ。
「うん。でも今日、校長は新しい先生が来ると言ってても、先生の挨拶がなかった」
「そういやそうか。転校生みたく授業日から来るんじゃねえか?」
「新任の先生なら、わし見たぞ」
声も体も大きい男子が会話に入る。二人が他の教室にいた時に声をかけた生徒だ。
「どこで見た……というかジモンはいつ来た? 整列した時にはいなかったような」
「わしはちと出遅れてな。始業式が始まったころに、体育館めがけて走っておった」
「初日から遅刻するか……」
「それはそれ、触れてくれるな!」
失態をつつかれた生徒は豪快に笑った。ヤマダは首をかしげる。
「ジモンのことだから、教室へ行かずに体育館に直行したんでしょ?」
「ん? それがどした?」
「クラス名簿を見るヒマがなかったのに、よく自分のクラスへ迷わず行けたね」
言われればそうだ。始業式後の拓馬たちは自分の席がないとわかっている、ほかのクラスにおもむいていた。そこでジモンに会わなかったのは、彼が正解のクラスを一発で引き当てたからだろう。
「あー、ほら、列の最後にワカがおったから、教えてもらったんじゃ」
ジモンの言う人物は若浜という男子だ。クラスごとに生徒が整列する時は名字の五十音順に並ぶ。そのため、最後のわ音から名字のはじまる彼は列の最後尾にいることが多々あった。
ジモンは「んで先生のことなんだがの」とヤマダへの質疑応答を短く切り上げ、本題に入る。
「わしが体育館に行く途中でよく知らん先生を見かけたんじゃ。グレーのスーツを着た男の人で、その人も体育館に向かっておって」
「そんな人、見たか?」
拓馬はヤマダに尋ねた。ヤマダは「わたしは気づかなかった」と首を横に振った。
「その先生は式が終わる前に帰ったんじゃ。だから気付くもんがおらんかったんじゃろ」
ジモンの言葉に拓馬は引っ掛かる。その男が先生だと断定できる情報がないのだ。
「しっかし、その人が先生とは限らないんじゃ……」
拓馬の主張にヤマダもうなずいた。ヤマダは自身のリュックサックを担ぐ。
「入学式じゃないから保護者も外部の賓客も来ないし、先生か不法侵入者じゃないの?」
本摩先生に聞いてくる、とヤマダは駆け足で廊下に出た。拓馬は彼女に同伴しようか迷ったが、ジモンが新しい教師だと談ずる人物への興味がわかないのでやめておいた。遠ざかる後ろ姿に拓馬が叫ぶ。
「俺は先に帰るからなー!」
わかったー、という返答が廊下に響く。ジモンは「わしも帰るかの」とそっけなく言う。
「ジモンは聞きに行かなくていいのか?」
「授業で会ってのお楽しみにしておくんじゃ」
「そっか……で、カバンは?」
拓馬がジモン本人とその机を見て、荷物がどこにもないのを確認する。
「ない! 授業も弁当もないからの。おかげで全力疾走できたわい!」
拓馬は豪快なジモンに「プリントを持ち帰る用意はしとこうな」と忠告した。
タグ:拓馬
2018年01月14日
拓馬篇−1章3
紅白幕で彩った体育館の中、校長が壇上で演説を始める。彼の目前にはパイプ椅子に座る、初々しい生徒が並ぶ。中年は生徒たちを眺め、声を張り上げた。
「新入生諸君、入学おめでとうございます! 保護者の方々にもお喜び申し上げます。この才穎高校を善良な子たちが選んだこと、大変誇りに思っています!」
中年は昨日と打って変わって校長らしい言葉を新一年生に投げかける。
「わが校では各自の人格、思想こそが知識よりも重要です。かつて五千円札の肖像にもなった新渡戸稲造は、彼の著作『武士道』で次のように述べました。『知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視』すべきだと。つまり、得た知識を活かし、行動を起こすことがまことの知恵と言えるでしょう。その行動とは当然、道徳にかなうものであるべきです。これから三年間、貴方たちの美しき人徳と個性を磨き上げ、親しき友を持ち、自由に学びましょう」
校長の演説はまさに退屈な学長の弁だ。始業式との落差に苦笑いする在校生が何人か現れる。拓馬もその一人だ。隣りの女子生徒が拓馬に小声で話しかけた。
「うまいこと言ってるけど、どうせ恋愛ネタが欲しいのよね」
「千智もそう思うか?」
前髪をヘアピンで留めた女子生徒はさも当然と言わんばかりに胸を張る。
「拓馬とヤマちゃんを見てる時の顔が違うもの。三郎だってあたしと幼馴染だから……」
「あいつも? モテるけど恋人はいないからな」
「ま、いまのあたしはよその学校の彼氏がいるからノーマークだけど」
「……そういや三郎はどこだ?」
拓馬は二年三組の列を見回すがそれらしい人物は見当たらない。整列の時は出席番号順で並ぶため、拓馬より番号の若い三郎は前方にいるはずだった。「あ、後ろ」と千智が言う。二年生の最後列に精悍な男子生徒がいた。彼は折りたたんだ白い紙を手にしている。
「在校生代表の挨拶、か…」
「新入生に近い前列で待機したらいいのに。もとの位置より遠いじゃない」
二人の視線に気づいた三郎が頭を振る。「ちゃんと前を向け」という合図だ。二人はすぐに前へ向きなおった。
「……普通、入学式の祝辞は三年生がやるもんだよな?」
「他人がやりたがらないことをしたがるヤツだし、自分から買って出たのかもね」
プログラムの祝辞の時間が近づいてきた。マイクを持つ教師が「在校生、祝辞」と言い放つ。三郎が走り、壇の下の中央に設置されたマイクスタンドに向かう。三郎は教師陣が並ぶ壁側を通る。同時に新入生の女子生徒も椅子から立ち、壇下の中央へと歩いた。
三郎は教師たちの前を静かに駆けていく。その姿を拓馬が追ううち、奇怪な人影が映った。グレーのスーツジャケットの下に黒いシャツを着た長身の男。男は褐色に焼けた肌と灰色の髪を持つ。色素の薄い髪は加齢によるものか、との仮説は間髪を置かず白紙にした。男の年齢は高く見積もっても四十にかかりそうにない。男の髪は体質の影響か、染髪の産物だ。式典に相応しくない黒シャツの存在により、後者の線が濃厚に思えた。この男も三郎を見る。男に最も接近した生徒は異質な存在に気付かない。彼は在校生代表の務めを果たすことで頭がいっぱいなのだ。もしくは見えないのか。
「ねえ……あの銀髪の人って先生かしら?」
千智も男の姿が見えた。拓馬はほっとする。そして男の目撃証言を思い出す。スーツの男は始業式の時に現れた。二度目の出没となる今、騒ぎがないのは不審者ではない証拠か。
「たぶんそうだ。先生たちがフツーにしてるから部外者じゃないな」
「教師なのに銀髪ってどうなの? あんなに派手にやっちゃっていいのかしら」
「それは本人に聞いてやれ」
拓馬は千智の不信感を軽く受け流した。拓馬も男の目立つ頭髪を快く思えないものの、この場で議論すべきではないとして黙った。幾人かの生徒の視線も祝辞の主役ではなく、教師が待機するほうへそそがれる。当の本人はその視線に気付かないようだ。
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます! 我々は新しい仲間が増えることを心待ちにしていました。初めての学び舎に戸惑うこともあるでしょうが、そのたびに我々を頼ってください。あなた方は同じ才穎高校の生徒です。苦楽を共にし、充実した学校生活を送りましょう。我々在校生一同はあなた方を歓迎します! 在校生代表、仙谷三郎!」
三郎は深く一礼した。よく通る声と堂々とした所作は、彼が所属する剣道部の活動で培われたものだ。彼の終始毅然とした態度に、新入生代表の女子生徒は少々たじろいだ。進行役の教師は女子生徒の動揺を意に介さず「新入生代表、答辞」と式を進める。女子生徒が紙を広げて話し出した。拓馬はふと教師たちの待機場所を見る。銀髪のスーツ男はなおもいた。男は体を体育館の出入り口へと歩く。まだ入学式は終わっていない。
「また途中退場か……?」
「新しい先生が? 『また』って、昨日もいたの?」
「ジモンが見たらしい。始業式の途中から来て、途中からいなくなったって」
「そう……もうすぐ終わるのになんで待てないのかしら。早く帰りたいのはわかるけど」
男は体育館の外へ出た。男に抗議する者はいない。彼に気付く者が少数だった。式典参加を全うできない様に、拓馬はまたも男への不信感を抱いた。拓馬の気持ちが晴れないまま入学式は終わった。新入生や保護者などが全員退場するまで在校生は立ちつくす。この後、体育館の片付けがある。それは新一年生のクラスを受け持たない教師も同じだ。紅白の幕や大量に並んだパイプ椅子の片付けなど、複数人で取り掛からねば終わらない仕事だ。
「さーて、一仕事やってから帰るか…」
拓馬は心のもやを振り切るように、片付けに意気込む友のもとへ駆け寄った。
「新入生諸君、入学おめでとうございます! 保護者の方々にもお喜び申し上げます。この才穎高校を善良な子たちが選んだこと、大変誇りに思っています!」
中年は昨日と打って変わって校長らしい言葉を新一年生に投げかける。
「わが校では各自の人格、思想こそが知識よりも重要です。かつて五千円札の肖像にもなった新渡戸稲造は、彼の著作『武士道』で次のように述べました。『知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視』すべきだと。つまり、得た知識を活かし、行動を起こすことがまことの知恵と言えるでしょう。その行動とは当然、道徳にかなうものであるべきです。これから三年間、貴方たちの美しき人徳と個性を磨き上げ、親しき友を持ち、自由に学びましょう」
校長の演説はまさに退屈な学長の弁だ。始業式との落差に苦笑いする在校生が何人か現れる。拓馬もその一人だ。隣りの女子生徒が拓馬に小声で話しかけた。
「うまいこと言ってるけど、どうせ恋愛ネタが欲しいのよね」
「千智もそう思うか?」
前髪をヘアピンで留めた女子生徒はさも当然と言わんばかりに胸を張る。
「拓馬とヤマちゃんを見てる時の顔が違うもの。三郎だってあたしと幼馴染だから……」
「あいつも? モテるけど恋人はいないからな」
「ま、いまのあたしはよその学校の彼氏がいるからノーマークだけど」
「……そういや三郎はどこだ?」
拓馬は二年三組の列を見回すがそれらしい人物は見当たらない。整列の時は出席番号順で並ぶため、拓馬より番号の若い三郎は前方にいるはずだった。「あ、後ろ」と千智が言う。二年生の最後列に精悍な男子生徒がいた。彼は折りたたんだ白い紙を手にしている。
「在校生代表の挨拶、か…」
「新入生に近い前列で待機したらいいのに。もとの位置より遠いじゃない」
二人の視線に気づいた三郎が頭を振る。「ちゃんと前を向け」という合図だ。二人はすぐに前へ向きなおった。
「……普通、入学式の祝辞は三年生がやるもんだよな?」
「他人がやりたがらないことをしたがるヤツだし、自分から買って出たのかもね」
プログラムの祝辞の時間が近づいてきた。マイクを持つ教師が「在校生、祝辞」と言い放つ。三郎が走り、壇の下の中央に設置されたマイクスタンドに向かう。三郎は教師陣が並ぶ壁側を通る。同時に新入生の女子生徒も椅子から立ち、壇下の中央へと歩いた。
三郎は教師たちの前を静かに駆けていく。その姿を拓馬が追ううち、奇怪な人影が映った。グレーのスーツジャケットの下に黒いシャツを着た長身の男。男は褐色に焼けた肌と灰色の髪を持つ。色素の薄い髪は加齢によるものか、との仮説は間髪を置かず白紙にした。男の年齢は高く見積もっても四十にかかりそうにない。男の髪は体質の影響か、染髪の産物だ。式典に相応しくない黒シャツの存在により、後者の線が濃厚に思えた。この男も三郎を見る。男に最も接近した生徒は異質な存在に気付かない。彼は在校生代表の務めを果たすことで頭がいっぱいなのだ。もしくは見えないのか。
「ねえ……あの銀髪の人って先生かしら?」
千智も男の姿が見えた。拓馬はほっとする。そして男の目撃証言を思い出す。スーツの男は始業式の時に現れた。二度目の出没となる今、騒ぎがないのは不審者ではない証拠か。
「たぶんそうだ。先生たちがフツーにしてるから部外者じゃないな」
「教師なのに銀髪ってどうなの? あんなに派手にやっちゃっていいのかしら」
「それは本人に聞いてやれ」
拓馬は千智の不信感を軽く受け流した。拓馬も男の目立つ頭髪を快く思えないものの、この場で議論すべきではないとして黙った。幾人かの生徒の視線も祝辞の主役ではなく、教師が待機するほうへそそがれる。当の本人はその視線に気付かないようだ。
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます! 我々は新しい仲間が増えることを心待ちにしていました。初めての学び舎に戸惑うこともあるでしょうが、そのたびに我々を頼ってください。あなた方は同じ才穎高校の生徒です。苦楽を共にし、充実した学校生活を送りましょう。我々在校生一同はあなた方を歓迎します! 在校生代表、仙谷三郎!」
三郎は深く一礼した。よく通る声と堂々とした所作は、彼が所属する剣道部の活動で培われたものだ。彼の終始毅然とした態度に、新入生代表の女子生徒は少々たじろいだ。進行役の教師は女子生徒の動揺を意に介さず「新入生代表、答辞」と式を進める。女子生徒が紙を広げて話し出した。拓馬はふと教師たちの待機場所を見る。銀髪のスーツ男はなおもいた。男は体を体育館の出入り口へと歩く。まだ入学式は終わっていない。
「また途中退場か……?」
「新しい先生が? 『また』って、昨日もいたの?」
「ジモンが見たらしい。始業式の途中から来て、途中からいなくなったって」
「そう……もうすぐ終わるのになんで待てないのかしら。早く帰りたいのはわかるけど」
男は体育館の外へ出た。男に抗議する者はいない。彼に気付く者が少数だった。式典参加を全うできない様に、拓馬はまたも男への不信感を抱いた。拓馬の気持ちが晴れないまま入学式は終わった。新入生や保護者などが全員退場するまで在校生は立ちつくす。この後、体育館の片付けがある。それは新一年生のクラスを受け持たない教師も同じだ。紅白の幕や大量に並んだパイプ椅子の片付けなど、複数人で取り掛からねば終わらない仕事だ。
「さーて、一仕事やってから帰るか…」
拓馬は心のもやを振り切るように、片付けに意気込む友のもとへ駆け寄った。
タグ:拓馬
2018年01月15日
拓馬篇−1章4
「その人は正規の教員じゃなくて、非常勤なんだって。アルバイトみたいなものかな?」
ヤマダは拓馬と協力して片付けをする片手間、昨日獲得した情報を喋る。二人はパイプ椅子の下敷きだった、滑り止め用の薄いマットを丸める。
「だから新任の教師の挨拶はしなかったって本摩先生が言ってた。担当は英語ね」
「この学校もケチなことするんだな。非正規の人を雇うのは安上がりなんだろ」
拓馬は父の仕事上、契約社員等の正規雇用でない社員について多少の知識があった。
「それが本人の希望だって。夏が終われば日本を出て、親戚の家に帰るんだってさ」
「国外の親戚……その人、外国人か?」
例の男は色の抜けた髪だった。異邦人ならば不良のような頭髪が正当な姿に思えた。
「アメリカ人らしいよ。でも国籍は日本だって。親が帰化してるんだとか」
「そう、か……髪を脱色してるわけじゃないのか」
「タッちゃんもその先生を見かけた?」
「ああ、三郎が喋る時に見た。肌が焼けてて髪が灰色の人だ。グレーのスーツ着てたよ」
「え……目の色、どうだった?」
気楽に喋っていたヤマダが声色を低めた。その反応の理由が拓馬にはわからない。
「目の色? よく見えなかったな」
拓馬は自ら語弊を感じた。正確には、そのほかの特徴を確認する余裕がなかったのだ。
「んじゃ、身長はどのくらい?」
「三郎より背が高いから……一八〇センチはあるな。なんでそんなに聞くんだ?」
「わたしたちが反省文を書かされた時に会った人じゃないかと思って。あの人も色黒で、グレーのスーツ着てて、きれいな銀髪だった。シャツは黒くなかったと思うけど」
拓馬たちは先月、呼出しを食らった。その日にヤマダが会った青い目の男は一日限りの客人だと思い、忘れ去っていた。採用試験があったのか、と拓馬は認識を改めた。
「あの時、ここの教師になるために来てたんだね」
ヤマダも同じ推測を立てる。拓馬たちが謝罪文を綴った日から今日まで、一ヶ月弱が経過した。学期開始前の準備期間を考慮するとかなり急な採用だ。おまけに教師は一年単位で仕事の区切りがつく。一学期の短い就任を学校側が歓迎するとは考えにくい。
「よく一年いられない先生を雇ったもんだな。それも迷うことなく採ったみたいだし」
「それね、本摩先生が言うには校長好みの先生だって。そういうことなのよ」
「まーた恋愛ネタに使えそうな人か。飽きねえな、あの校長」
マットは丸太に似た筒状になる。拓馬はマットの片端をヤマダに持たせ、二人で運送する。マット自体は拓馬一人で運べる重さだが、ヤマダが手伝いたがるため分担した。目的地は壇の下。そこにパイプ椅子とマットを収納する空間がある。現在は壇下の壁が動かされ、薄暗い穴がぽっかりと開いている。穴に向かう間、二人は異国風の教師について話す。
「お前が見た感じ、その先生は女にキャーキャー言われそうか?」
「言われるね。でも真面目そうな人だったよ。校長が期待してることは起きそうにない」
「女子が騒ぐだけで十分なんじゃねえの」
校長に強敵認定されるヤマダが食いつく時点で、校長の目論見は達成したように拓馬は思えた。野次馬根性が強い行動も校長の欲目では色恋の観点へ変換される。純愛を求める校長には、本物の恋人より寧ろ親しいだけの男女のほうが健全で好ましいきらいがあった。
(めんどくさい校風だよなあ。そのかわり自由にさせてもらってるけど)
拓馬たちが反省文の作成のみで済んだ罪は、停学処分を下されてもやむなしのものだった。他にも生徒に寛容な点は大半の学校で禁止する染髪の許容だ。この校則は拓馬のように地毛の明るい者が髪に負い目を抱かない配慮として設定されたと、本摩は述べていた。
二人は壇に着いた。拓馬が一人でマットを抱え、隠し倉庫へ慎重に足を入れる。壇の高さは拓馬の胸の辺り。壇下の一室の床は体育館より低く、出入口の大きさ以上に高さがある。片足が床を捉えた後、残る足も下ろす。一室には輸送物を収納する係の生徒がいなかった。拓馬は弱い電灯の光を頼りにマットを置いた。ヤマダが外から暗い部屋を見守る。
「これで終了だな。明かりを消してきてくれるか?」
「ステージの右側にスイッチがあるんだっけ。行ってくる」
ヤマダは壇の横へと走った。その間、拓馬は自身がいた穴倉を見て、電灯の光が消えるのを待つ。何年も同じ場所を照らしてきた蛍光灯の光は、時折消えかかる。点検がなおざりになる箇所のようだ。弱々しい明かりの奥に、緑色と青色の小さな光が見えた。
「……?」
あるはずのない光をもう一度見ようとして目を凝らす。有色の光は見えない。
(変なのが通りすがっただけかな)
目の前は真っ暗になった。拓馬は壁を閉め、壇横の準備室にいたヤマダが姿を見せる。
「タッちゃん、消えたー?」
「ちゃんと消えたぞー」
ヤマダはまたも走ってやってくる。
「みんな、もう帰ってるね、わたしたちも教室にもどろうか」
二人は普段の様子へもどった体育館を後にした。
ヤマダは拓馬と協力して片付けをする片手間、昨日獲得した情報を喋る。二人はパイプ椅子の下敷きだった、滑り止め用の薄いマットを丸める。
「だから新任の教師の挨拶はしなかったって本摩先生が言ってた。担当は英語ね」
「この学校もケチなことするんだな。非正規の人を雇うのは安上がりなんだろ」
拓馬は父の仕事上、契約社員等の正規雇用でない社員について多少の知識があった。
「それが本人の希望だって。夏が終われば日本を出て、親戚の家に帰るんだってさ」
「国外の親戚……その人、外国人か?」
例の男は色の抜けた髪だった。異邦人ならば不良のような頭髪が正当な姿に思えた。
「アメリカ人らしいよ。でも国籍は日本だって。親が帰化してるんだとか」
「そう、か……髪を脱色してるわけじゃないのか」
「タッちゃんもその先生を見かけた?」
「ああ、三郎が喋る時に見た。肌が焼けてて髪が灰色の人だ。グレーのスーツ着てたよ」
「え……目の色、どうだった?」
気楽に喋っていたヤマダが声色を低めた。その反応の理由が拓馬にはわからない。
「目の色? よく見えなかったな」
拓馬は自ら語弊を感じた。正確には、そのほかの特徴を確認する余裕がなかったのだ。
「んじゃ、身長はどのくらい?」
「三郎より背が高いから……一八〇センチはあるな。なんでそんなに聞くんだ?」
「わたしたちが反省文を書かされた時に会った人じゃないかと思って。あの人も色黒で、グレーのスーツ着てて、きれいな銀髪だった。シャツは黒くなかったと思うけど」
拓馬たちは先月、呼出しを食らった。その日にヤマダが会った青い目の男は一日限りの客人だと思い、忘れ去っていた。採用試験があったのか、と拓馬は認識を改めた。
「あの時、ここの教師になるために来てたんだね」
ヤマダも同じ推測を立てる。拓馬たちが謝罪文を綴った日から今日まで、一ヶ月弱が経過した。学期開始前の準備期間を考慮するとかなり急な採用だ。おまけに教師は一年単位で仕事の区切りがつく。一学期の短い就任を学校側が歓迎するとは考えにくい。
「よく一年いられない先生を雇ったもんだな。それも迷うことなく採ったみたいだし」
「それね、本摩先生が言うには校長好みの先生だって。そういうことなのよ」
「まーた恋愛ネタに使えそうな人か。飽きねえな、あの校長」
マットは丸太に似た筒状になる。拓馬はマットの片端をヤマダに持たせ、二人で運送する。マット自体は拓馬一人で運べる重さだが、ヤマダが手伝いたがるため分担した。目的地は壇の下。そこにパイプ椅子とマットを収納する空間がある。現在は壇下の壁が動かされ、薄暗い穴がぽっかりと開いている。穴に向かう間、二人は異国風の教師について話す。
「お前が見た感じ、その先生は女にキャーキャー言われそうか?」
「言われるね。でも真面目そうな人だったよ。校長が期待してることは起きそうにない」
「女子が騒ぐだけで十分なんじゃねえの」
校長に強敵認定されるヤマダが食いつく時点で、校長の目論見は達成したように拓馬は思えた。野次馬根性が強い行動も校長の欲目では色恋の観点へ変換される。純愛を求める校長には、本物の恋人より寧ろ親しいだけの男女のほうが健全で好ましいきらいがあった。
(めんどくさい校風だよなあ。そのかわり自由にさせてもらってるけど)
拓馬たちが反省文の作成のみで済んだ罪は、停学処分を下されてもやむなしのものだった。他にも生徒に寛容な点は大半の学校で禁止する染髪の許容だ。この校則は拓馬のように地毛の明るい者が髪に負い目を抱かない配慮として設定されたと、本摩は述べていた。
二人は壇に着いた。拓馬が一人でマットを抱え、隠し倉庫へ慎重に足を入れる。壇の高さは拓馬の胸の辺り。壇下の一室の床は体育館より低く、出入口の大きさ以上に高さがある。片足が床を捉えた後、残る足も下ろす。一室には輸送物を収納する係の生徒がいなかった。拓馬は弱い電灯の光を頼りにマットを置いた。ヤマダが外から暗い部屋を見守る。
「これで終了だな。明かりを消してきてくれるか?」
「ステージの右側にスイッチがあるんだっけ。行ってくる」
ヤマダは壇の横へと走った。その間、拓馬は自身がいた穴倉を見て、電灯の光が消えるのを待つ。何年も同じ場所を照らしてきた蛍光灯の光は、時折消えかかる。点検がなおざりになる箇所のようだ。弱々しい明かりの奥に、緑色と青色の小さな光が見えた。
「……?」
あるはずのない光をもう一度見ようとして目を凝らす。有色の光は見えない。
(変なのが通りすがっただけかな)
目の前は真っ暗になった。拓馬は壁を閉め、壇横の準備室にいたヤマダが姿を見せる。
「タッちゃん、消えたー?」
「ちゃんと消えたぞー」
ヤマダはまたも走ってやってくる。
「みんな、もう帰ってるね、わたしたちも教室にもどろうか」
二人は普段の様子へもどった体育館を後にした。
タグ:拓馬
2018年01月16日
拓馬篇−1章5
授業開始日、教壇に立つ本摩がホームルームを始める。
「みんな、おはよう! 前にも言った通り、さっそく転校生を紹介したいが……」
本摩は左腕に付けた腕時計を見る。
「長いこと校長に捕まってるみたいだなぁ……さて、どうするか」
本摩が「先に出席確認するか」とつぶやく。顔を上げた本摩は室内後方の戸を見て表情を明るくした。教室の戸の上部にはすべからく窓が付いている。廊下になにかいるようだ。
「お、一人来たな。お前たち、ちょっと待っててくれ」
本摩が廊下へ出ると彼の話し声が聞こえた。話は短く済み、すぐに本摩がもどる。
「お待ちかねの転校生の登場だ。自己紹介してもらうから静かにするよーに」
本摩は窓際に立つ。皆が教室の戸に注目する中、一人の女子生徒が手に鞄を提げて進み出た。彼女の髪は長く、後頭部にある髪留めで頭頂付近の髪をまとめていた。女子は無言で黒板に字を書く。自身の姓名を書き終えると振り返り、教室にいる生徒に顔をお披露目した。ファッション雑誌に現れそうな均整のとれた顔立ちだが、表情に柔らかさがない。
「須坂美弥です。よろしくお願いします」
玲瓏な声による非常に簡潔な自己紹介だった。本摩は物足りないと言いたげな顔をする。
「ほかに、言っておきたいことはあるかね?」
教師の問いに女子生徒は首を横に振るだけで答えた。長い髪が揺らいで、静止する。
「じゃ、須坂さんの席は最前列の真ん中の席だ。目の前の空いてる席に着いてくれ」
須坂は本摩の指示通りに三郎の左隣の席へ座る。三郎が須坂に片手を差し出した。
「オレは仙谷三郎という。このクラスに入ったのもなにかの縁だ、仲良くしよう!」
三郎は熱く握手を求めた。須坂は隣人の手を一度見たきり、そっぽを向いてしまった。三郎は己の予想とは違う展開に驚きを隠せない。目的を果たせなかった手で頭を掻く。
「嫌なら、いい」
先ほどとは真逆の態度だ。どこか堅苦しい雰囲気だった教室に笑いがこぼれる。
「三郎! めげるなよ!」
ジモンの激励を受けた三郎は大きくうなずいた。生徒のやり取りを傍観した教師は笑う。
「女子人気の高い仙谷でもフられることがあるんだなぁ」
「先生! オレにそんな気はありません。同じ仲間として……」
「わかってる。お前は義侠心の強い男だからな。そう急ぐな、追々打ち解ければいい」
本摩は飄々とした言い方で三郎をねぎらった。続いて本摩は二人目の転校生を待つ。
「さーて、もう一人転校生がいるんだが…」
本摩が言いかけた時、教室の後ろの戸が勢いよく開いた。栗毛色の髪の少年がわが物顔に教室内の真ん中を歩き、教壇に上がる。そして教卓に両手をつき、生徒を見回す。
「ぼくは成石ハイル。父が日本人で母がイギリス人のダブルだ。以前はイギリスに住んでいたけど、晴れて日本の高校へ通うことになった。いわゆる帰国子女というやつだね」
男子の転校生は先ほどの女子生徒とは対照的によく喋る。表情もまるで違い、活き活きとして自信にあふれている。能弁な生徒に対し本摩が声をかけた。
「あー、すまんが成石くん。一限目の授業があるのでシメに一言頼む」
本摩は演説に水を差した。現にホームルームの時間は終わろうとしている。一人目の自己紹介が短かったとはいえ、複数人の紹介を満足にできる時間は初めからないのだ。
「そうですか? じゃあ一つだけ。……ぼくは恋人募集中です!」
「正直な男だな。まぁ頑張れ。このクラスの女子以外ならお付き合いできるだろう」
男子生徒は意外そうな顔をしたが、すぐに自信満々の表情にもどった。
「えー、成石くんの席は最前列のドア側だ。名木野の隣だな」
「おや、かわいらしい子の隣だなんてラッキーだ」
成石は大人しい女子生徒の右隣の席へ堂々と座る。彼が隣りの生徒へウインクを飛ばすと、名木野はノートを盾のように構えて視線を塞いだ。
「恥ずかしがり屋なのかな? まあいいさ」
成石は名木野に拒絶されたことを気にする様子はない。本摩が手を叩く。
「よーし、これで転校生の紹介は終わり! みんな、一限目の用意をしなさい」
本摩は出席簿を抱え、急ぎ足で退室した。とうとう本摩が生徒の名を呼んで出席状況を確認することはなかった。だが転校生が着席したことで席がすべて埋まっている。再度確かめる必要はなかった。担任と入れ替わりに数学担当の女性教師が入室する。生徒たちの浮付いた気分が徐々になくなり、意識は学生の本分たる学業へと切り替わっていった。
「みんな、おはよう! 前にも言った通り、さっそく転校生を紹介したいが……」
本摩は左腕に付けた腕時計を見る。
「長いこと校長に捕まってるみたいだなぁ……さて、どうするか」
本摩が「先に出席確認するか」とつぶやく。顔を上げた本摩は室内後方の戸を見て表情を明るくした。教室の戸の上部にはすべからく窓が付いている。廊下になにかいるようだ。
「お、一人来たな。お前たち、ちょっと待っててくれ」
本摩が廊下へ出ると彼の話し声が聞こえた。話は短く済み、すぐに本摩がもどる。
「お待ちかねの転校生の登場だ。自己紹介してもらうから静かにするよーに」
本摩は窓際に立つ。皆が教室の戸に注目する中、一人の女子生徒が手に鞄を提げて進み出た。彼女の髪は長く、後頭部にある髪留めで頭頂付近の髪をまとめていた。女子は無言で黒板に字を書く。自身の姓名を書き終えると振り返り、教室にいる生徒に顔をお披露目した。ファッション雑誌に現れそうな均整のとれた顔立ちだが、表情に柔らかさがない。
「須坂美弥です。よろしくお願いします」
玲瓏な声による非常に簡潔な自己紹介だった。本摩は物足りないと言いたげな顔をする。
「ほかに、言っておきたいことはあるかね?」
教師の問いに女子生徒は首を横に振るだけで答えた。長い髪が揺らいで、静止する。
「じゃ、須坂さんの席は最前列の真ん中の席だ。目の前の空いてる席に着いてくれ」
須坂は本摩の指示通りに三郎の左隣の席へ座る。三郎が須坂に片手を差し出した。
「オレは仙谷三郎という。このクラスに入ったのもなにかの縁だ、仲良くしよう!」
三郎は熱く握手を求めた。須坂は隣人の手を一度見たきり、そっぽを向いてしまった。三郎は己の予想とは違う展開に驚きを隠せない。目的を果たせなかった手で頭を掻く。
「嫌なら、いい」
先ほどとは真逆の態度だ。どこか堅苦しい雰囲気だった教室に笑いがこぼれる。
「三郎! めげるなよ!」
ジモンの激励を受けた三郎は大きくうなずいた。生徒のやり取りを傍観した教師は笑う。
「女子人気の高い仙谷でもフられることがあるんだなぁ」
「先生! オレにそんな気はありません。同じ仲間として……」
「わかってる。お前は義侠心の強い男だからな。そう急ぐな、追々打ち解ければいい」
本摩は飄々とした言い方で三郎をねぎらった。続いて本摩は二人目の転校生を待つ。
「さーて、もう一人転校生がいるんだが…」
本摩が言いかけた時、教室の後ろの戸が勢いよく開いた。栗毛色の髪の少年がわが物顔に教室内の真ん中を歩き、教壇に上がる。そして教卓に両手をつき、生徒を見回す。
「ぼくは成石ハイル。父が日本人で母がイギリス人のダブルだ。以前はイギリスに住んでいたけど、晴れて日本の高校へ通うことになった。いわゆる帰国子女というやつだね」
男子の転校生は先ほどの女子生徒とは対照的によく喋る。表情もまるで違い、活き活きとして自信にあふれている。能弁な生徒に対し本摩が声をかけた。
「あー、すまんが成石くん。一限目の授業があるのでシメに一言頼む」
本摩は演説に水を差した。現にホームルームの時間は終わろうとしている。一人目の自己紹介が短かったとはいえ、複数人の紹介を満足にできる時間は初めからないのだ。
「そうですか? じゃあ一つだけ。……ぼくは恋人募集中です!」
「正直な男だな。まぁ頑張れ。このクラスの女子以外ならお付き合いできるだろう」
男子生徒は意外そうな顔をしたが、すぐに自信満々の表情にもどった。
「えー、成石くんの席は最前列のドア側だ。名木野の隣だな」
「おや、かわいらしい子の隣だなんてラッキーだ」
成石は大人しい女子生徒の右隣の席へ堂々と座る。彼が隣りの生徒へウインクを飛ばすと、名木野はノートを盾のように構えて視線を塞いだ。
「恥ずかしがり屋なのかな? まあいいさ」
成石は名木野に拒絶されたことを気にする様子はない。本摩が手を叩く。
「よーし、これで転校生の紹介は終わり! みんな、一限目の用意をしなさい」
本摩は出席簿を抱え、急ぎ足で退室した。とうとう本摩が生徒の名を呼んで出席状況を確認することはなかった。だが転校生が着席したことで席がすべて埋まっている。再度確かめる必要はなかった。担任と入れ替わりに数学担当の女性教師が入室する。生徒たちの浮付いた気分が徐々になくなり、意識は学生の本分たる学業へと切り替わっていった。
タグ:拓馬
2018年01月22日
拓馬篇−1章6
昼休みになった直後、名木野が同じ写真部のヤマダの席へ逃げてきた。男子の転校生は苦手のようだ。拓馬と千智も二人と一緒に昼食をとる。三郎だけは行方をくらましていた。
「ナギちゃん、災難ね。ああいうスケコマシのとなりじゃ落ち着かないでしょ」
千智が気遣うとナギは軽く首を横に振った。
「いまの席は後ろにチサちゃんと根岸くんがいるから平気」
「そうねぇ、なにかあったら拓馬が彼氏だって言っときゃ大丈夫よ」
「二次被害が出るからやめろ」
拓馬の指摘を千智は気に留めず、新たな話題を口にする。
「転校生は大体どんな子かわかったからいいとして……次は英語の先生ね!」
千智は入学式で見かけた銀髪の教師の話を切りだした。黙々と英語の教科書を眺めていたヤマダが反応を示す。その隣りに座るジモンも話に加わる。
「始業式も入学式もハンパに出ておった先生か。昼イチの授業に出るんかの」
ヤマダが本摩から聞いた新任教師の情報はすでに仲間内に伝えた。それ以外のことは今日わかるかもしれない。拓馬は教師よりヤマダが英語の勉強をする光景が気になった。
「ところでなんで英語の本を見てるんだ?」
「えーと、先生情報の整理」
教科書にはメモ用紙が数枚はさんである。一枚のメモに長いアルファベットが一行書かれていた。人名らしき羅列の大文字の箇所だけ丸が付いている。
「この長い単語、先生の名前か?」
「うん、そう。頭文字であだ名ができそうでね。先生がお堅い人だったらお蔵入り」
ヤマダがあだ名を付けることは多々ある。例えばジモンの本当の名は実門(みかど)という。天皇を意味する「帝」と同じ音が彼の雰囲気に合わないとヤマダが感じて「ジモン」と命名した。本人もこの名称は気に入り、以後彼の身近にいる者は彼をジモンと呼ぶ。今回もヤマダは相手が度量の広い者だった場合、新たな名前を付ける気だ。
「へー、それでなんて言うの──」
千智が質問しかけた時、教室の戸が荒々しく開いた。戸口には息を荒くした三郎がいる。拓馬は普段と異なる様子の三郎を興奮させないよう、細心の注意を払って声をかける。
「三郎、どこ行ってたん──」
「職員室だ! 例の先生、かなりできるぞ!」
三郎が嬉々として答える。興奮している三郎の言う「できる」の意味は一つだ。
「初対面で喧嘩ふっかけたのか?」
「端的に言えばそうなる。だが! オレの攻撃は相手の力量を見定めるためのもの。決して暴力ではない! そこを勘違いしないでほしい」
「やられる側にとっちゃ同じだ」
拓馬のつっこみに三郎はひるまず、職員室で起こした事件を回想する。
「オレが職員室に入った時、その先生は優雅にコーヒーを飲んでいた。居住まいだけで並みならぬ強さを感じ、そこでオレは背後から手刀を放った!」
「ふっかけるどころか不意打ちか」
「茶々を入れてくれるな! ……先生は見事にオレの攻撃を受け止めた。そしてオレの顔を見ることなく言ったんだ、勝負は場所を改めてしよう、と」
「不意打ちを食らっても怒らなかったのか。いい人だな」
「着眼点が違う! あの先生は普通の武芸者じゃないぞ。ぜひとも指南を受けるべきだ。空手家のお前にはうってつけだろう」
三郎は新任の教師が強者であることに歓喜している。その感性は三郎と同じ剣道部所属のジモンだけが理解しており、爽快な笑顔を浮かべる。
「剣術もできる先生ならわしらにちょうどいいのう!」
「体術を学ぶだけでも剣道に活かせると思うぞ!」
剣道部員の二人は盛り上がっている。見かねた千智が三郎に言う。
「それで、その先生は午後の英語の授業に出るの?」
「そうらしいぞ! おっと、いまのうちに英気を養っておかないとな」
三郎はそそくさと自席に着き、新しい教師の話題は止んだ。実物を目にすれば早いと皆が思ったのだ。残りの休み時間は千智がアイドルのドラマ初出演などを話して過ごした。
「ナギちゃん、災難ね。ああいうスケコマシのとなりじゃ落ち着かないでしょ」
千智が気遣うとナギは軽く首を横に振った。
「いまの席は後ろにチサちゃんと根岸くんがいるから平気」
「そうねぇ、なにかあったら拓馬が彼氏だって言っときゃ大丈夫よ」
「二次被害が出るからやめろ」
拓馬の指摘を千智は気に留めず、新たな話題を口にする。
「転校生は大体どんな子かわかったからいいとして……次は英語の先生ね!」
千智は入学式で見かけた銀髪の教師の話を切りだした。黙々と英語の教科書を眺めていたヤマダが反応を示す。その隣りに座るジモンも話に加わる。
「始業式も入学式もハンパに出ておった先生か。昼イチの授業に出るんかの」
ヤマダが本摩から聞いた新任教師の情報はすでに仲間内に伝えた。それ以外のことは今日わかるかもしれない。拓馬は教師よりヤマダが英語の勉強をする光景が気になった。
「ところでなんで英語の本を見てるんだ?」
「えーと、先生情報の整理」
教科書にはメモ用紙が数枚はさんである。一枚のメモに長いアルファベットが一行書かれていた。人名らしき羅列の大文字の箇所だけ丸が付いている。
「この長い単語、先生の名前か?」
「うん、そう。頭文字であだ名ができそうでね。先生がお堅い人だったらお蔵入り」
ヤマダがあだ名を付けることは多々ある。例えばジモンの本当の名は実門(みかど)という。天皇を意味する「帝」と同じ音が彼の雰囲気に合わないとヤマダが感じて「ジモン」と命名した。本人もこの名称は気に入り、以後彼の身近にいる者は彼をジモンと呼ぶ。今回もヤマダは相手が度量の広い者だった場合、新たな名前を付ける気だ。
「へー、それでなんて言うの──」
千智が質問しかけた時、教室の戸が荒々しく開いた。戸口には息を荒くした三郎がいる。拓馬は普段と異なる様子の三郎を興奮させないよう、細心の注意を払って声をかける。
「三郎、どこ行ってたん──」
「職員室だ! 例の先生、かなりできるぞ!」
三郎が嬉々として答える。興奮している三郎の言う「できる」の意味は一つだ。
「初対面で喧嘩ふっかけたのか?」
「端的に言えばそうなる。だが! オレの攻撃は相手の力量を見定めるためのもの。決して暴力ではない! そこを勘違いしないでほしい」
「やられる側にとっちゃ同じだ」
拓馬のつっこみに三郎はひるまず、職員室で起こした事件を回想する。
「オレが職員室に入った時、その先生は優雅にコーヒーを飲んでいた。居住まいだけで並みならぬ強さを感じ、そこでオレは背後から手刀を放った!」
「ふっかけるどころか不意打ちか」
「茶々を入れてくれるな! ……先生は見事にオレの攻撃を受け止めた。そしてオレの顔を見ることなく言ったんだ、勝負は場所を改めてしよう、と」
「不意打ちを食らっても怒らなかったのか。いい人だな」
「着眼点が違う! あの先生は普通の武芸者じゃないぞ。ぜひとも指南を受けるべきだ。空手家のお前にはうってつけだろう」
三郎は新任の教師が強者であることに歓喜している。その感性は三郎と同じ剣道部所属のジモンだけが理解しており、爽快な笑顔を浮かべる。
「剣術もできる先生ならわしらにちょうどいいのう!」
「体術を学ぶだけでも剣道に活かせると思うぞ!」
剣道部員の二人は盛り上がっている。見かねた千智が三郎に言う。
「それで、その先生は午後の英語の授業に出るの?」
「そうらしいぞ! おっと、いまのうちに英気を養っておかないとな」
三郎はそそくさと自席に着き、新しい教師の話題は止んだ。実物を目にすれば早いと皆が思ったのだ。残りの休み時間は千智がアイドルのドラマ初出演などを話して過ごした。
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2018年01月25日
拓馬篇−2章1
午後の授業の開始を知らせるチャイムが鳴る。担任の教師が入室した。新しい先生が来る、と期待していた生徒が気落ちする。それを察した本摩はすぐに授業を説明する。
「まだ教科書はいらないぞ。新人の先生が来ているので、まずは自己紹介してもらう」
本摩が拍手をし、担任を模倣した生徒も手を叩く。戸が開くと灰色のスーツを着た男性が現れた。拓馬が入学式で見た長身の男だ。式典と変わらず色の薄い髪と黒灰色のシャツが印象的で、さらに黄色のサングラスが加わる。不良度が増した姿だ。唯一の救いは、彼の表情が親切そうな、いわゆる良い人の雰囲気があることだ。新任の教師は教壇に立つ。
「Hello, everyone! My name is Sage Ivan Dale. いまから名前を書きますね」
突然、自然な日本語が出てきて生徒たちは面食らった。セイジと名乗る男は黒板にチョークでアルファベットを書く。彼の左手には指輪が光っていた。
「私の名前はまるきり西洋人ですけど、国籍は日本です。日本での暮らしは長いですよ」
教師は名前を書き終え、生徒に体の正面を向ける。
「一学期の間だけのお付き合いになりますが、精一杯皆さんと楽しく学んでいけるようにがんばります。どうかよろしくお願いします」
話す内容は至極普通なもので、口調には誠実さがある。再び拍手が起こった。
「さー、質問タイムだ。先生に気になったことを聞いてみよう! 何語でもいいぞ」
最初に挙手した者が千智だ。手をあげたのを本摩が当て、質問の権限を与える。
「How old are you?」
「I will be twenty-seven this year. 皆さんとは十歳違いでしょうか」
「へー、二十七歳ね。この学校に来る前はなにをしてたの?」
「警備の仕事です。おかげで体力には自信があります」
三郎が「体力に自信がある」の言葉に反応し、右腕をぴんと上へのばした。
「先生はどんな武術を学んでこられたのですか?」
「ジャンルは特にありません。私が師事した方は我流で武術を会得していたもので」
「では、どんな武器が扱えますか?」
三郎の質問は趣味に走っている。だが教師は年齢を聞かれた時と同じ態度で返答する。
「剣や長刀、弓などいろんな武器を学びました。基本的になんでも扱えると思います。ですが武器を使うことはあまり好きじゃありません」
「消去法でいくと、拳で戦うことが好ましいのですか?」
「そうです。むやみに拳をふるうのも考えものですけどね」
「よくわかりました! 回答ありがとうございます」
三郎は折り目正しく礼を言った。三郎の満足げな様子を見たヤマダが質問する。
「先生のサングラスはファッション? よく教頭になにも言われなかったね」
「ファッション、ということにしてください。ちなみに校長の許可は下りています」
「わざわざ校長に……あ、あとその黒シャツも聞きたい。あんまり仕事で黒シャツを着る人はいない気がするんだけど、黒を選んだのも理由ある?」
「私は見ての通り色黒です。黒いシャツを着たら色白に見えてきませんか?」
生徒たちは吹き出した。色白を美徳とする日本女性らしい主張が不似合いだったせいだ。
「あはは、そうかもしんない。でもその肌は先生に似合っててカッコイイと思うよ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
ヤマダは質問を終えた。しばしの間が空く。あー、とうなりながらジモンが手を上げた。
「先生の名前、三つもあるんじゃろ。どの名前で呼んだらいいんかの」
「どう呼んでもらってもかまいません。Anything is OK!」
ジモンが「迷うのう」と悩むとヤマダは二度めの質問をする。彼女は照れくさそうだ。
「名前のイニシャルを並べたニックネーム、どうかな? 『シド』って呼べるんだよ」
若い教師は目を見開く。人当たりの良い笑みは薄れ、茫然自失なまでに驚いている。テンポよく質問に答えてきた者がはたと言葉を詰まらせた。その異変にヤマダが焦る。
「あ……あだ名はまずかった?」
軽い気持ちで発した言葉に悔いる者をよそに、ジモンは妙案を得たように手を打つ。
「『シド先生』か! そりゃあ呼びやすいし覚えやすいのう。わしは気に入った!」
ジモンはやっと腑に落ちる答えを見つけて明朗に笑った。千智も「カッコよくていいんじゃない?」と同調する。独り合点な二人に向かって拓馬がとがめる。
「俺らじゃなくて、先生がいいって思わなきゃ呼べねえんだぞ」
拓馬の主張に三郎がうなずき、本人への確認を投げかける。
「先生、ヤマダのネーミングセンスをどう思われますか?」
三郎の問いに、銀髪の教師はやっと反応を示した。その口角は上がっている。
「いいですね。素敵なニックネームをもらえるとは思っていなくて、ついぼうっとしてしまいました。ぜひ、私をシドと呼んでください。Please call me Sid! OK?」
オッケー、という声が上がった。本摩が教壇に上がり「先生と打ち解けたところで授業に入るか」と教科書を開く。ジモンが嫌そうな顔をした。
「今日ぐらい、勉強なしにはならんかの?」
「今日の分を後回しにして、後の授業がぎゅうぎゅう詰めになったら苦しいぞ?」
ジモンは「あ〜い」と渋々了承する。そのやり取りを新人教師はにこやかに眺めていた。
「まだ教科書はいらないぞ。新人の先生が来ているので、まずは自己紹介してもらう」
本摩が拍手をし、担任を模倣した生徒も手を叩く。戸が開くと灰色のスーツを着た男性が現れた。拓馬が入学式で見た長身の男だ。式典と変わらず色の薄い髪と黒灰色のシャツが印象的で、さらに黄色のサングラスが加わる。不良度が増した姿だ。唯一の救いは、彼の表情が親切そうな、いわゆる良い人の雰囲気があることだ。新任の教師は教壇に立つ。
「Hello, everyone! My name is Sage Ivan Dale. いまから名前を書きますね」
突然、自然な日本語が出てきて生徒たちは面食らった。セイジと名乗る男は黒板にチョークでアルファベットを書く。彼の左手には指輪が光っていた。
「私の名前はまるきり西洋人ですけど、国籍は日本です。日本での暮らしは長いですよ」
教師は名前を書き終え、生徒に体の正面を向ける。
「一学期の間だけのお付き合いになりますが、精一杯皆さんと楽しく学んでいけるようにがんばります。どうかよろしくお願いします」
話す内容は至極普通なもので、口調には誠実さがある。再び拍手が起こった。
「さー、質問タイムだ。先生に気になったことを聞いてみよう! 何語でもいいぞ」
最初に挙手した者が千智だ。手をあげたのを本摩が当て、質問の権限を与える。
「How old are you?」
「I will be twenty-seven this year. 皆さんとは十歳違いでしょうか」
「へー、二十七歳ね。この学校に来る前はなにをしてたの?」
「警備の仕事です。おかげで体力には自信があります」
三郎が「体力に自信がある」の言葉に反応し、右腕をぴんと上へのばした。
「先生はどんな武術を学んでこられたのですか?」
「ジャンルは特にありません。私が師事した方は我流で武術を会得していたもので」
「では、どんな武器が扱えますか?」
三郎の質問は趣味に走っている。だが教師は年齢を聞かれた時と同じ態度で返答する。
「剣や長刀、弓などいろんな武器を学びました。基本的になんでも扱えると思います。ですが武器を使うことはあまり好きじゃありません」
「消去法でいくと、拳で戦うことが好ましいのですか?」
「そうです。むやみに拳をふるうのも考えものですけどね」
「よくわかりました! 回答ありがとうございます」
三郎は折り目正しく礼を言った。三郎の満足げな様子を見たヤマダが質問する。
「先生のサングラスはファッション? よく教頭になにも言われなかったね」
「ファッション、ということにしてください。ちなみに校長の許可は下りています」
「わざわざ校長に……あ、あとその黒シャツも聞きたい。あんまり仕事で黒シャツを着る人はいない気がするんだけど、黒を選んだのも理由ある?」
「私は見ての通り色黒です。黒いシャツを着たら色白に見えてきませんか?」
生徒たちは吹き出した。色白を美徳とする日本女性らしい主張が不似合いだったせいだ。
「あはは、そうかもしんない。でもその肌は先生に似合っててカッコイイと思うよ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
ヤマダは質問を終えた。しばしの間が空く。あー、とうなりながらジモンが手を上げた。
「先生の名前、三つもあるんじゃろ。どの名前で呼んだらいいんかの」
「どう呼んでもらってもかまいません。Anything is OK!」
ジモンが「迷うのう」と悩むとヤマダは二度めの質問をする。彼女は照れくさそうだ。
「名前のイニシャルを並べたニックネーム、どうかな? 『シド』って呼べるんだよ」
若い教師は目を見開く。人当たりの良い笑みは薄れ、茫然自失なまでに驚いている。テンポよく質問に答えてきた者がはたと言葉を詰まらせた。その異変にヤマダが焦る。
「あ……あだ名はまずかった?」
軽い気持ちで発した言葉に悔いる者をよそに、ジモンは妙案を得たように手を打つ。
「『シド先生』か! そりゃあ呼びやすいし覚えやすいのう。わしは気に入った!」
ジモンはやっと腑に落ちる答えを見つけて明朗に笑った。千智も「カッコよくていいんじゃない?」と同調する。独り合点な二人に向かって拓馬がとがめる。
「俺らじゃなくて、先生がいいって思わなきゃ呼べねえんだぞ」
拓馬の主張に三郎がうなずき、本人への確認を投げかける。
「先生、ヤマダのネーミングセンスをどう思われますか?」
三郎の問いに、銀髪の教師はやっと反応を示した。その口角は上がっている。
「いいですね。素敵なニックネームをもらえるとは思っていなくて、ついぼうっとしてしまいました。ぜひ、私をシドと呼んでください。Please call me Sid! OK?」
オッケー、という声が上がった。本摩が教壇に上がり「先生と打ち解けたところで授業に入るか」と教科書を開く。ジモンが嫌そうな顔をした。
「今日ぐらい、勉強なしにはならんかの?」
「今日の分を後回しにして、後の授業がぎゅうぎゅう詰めになったら苦しいぞ?」
ジモンは「あ〜い」と渋々了承する。そのやり取りを新人教師はにこやかに眺めていた。
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