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2017年11月12日
拓馬篇前記−八巻5
「──と、いう次第です」
八巻はギプスで包まれた左足をクッションの上に投げ出しながら、自身の負傷の経緯を語り終えた。聞き手は校長。八巻が想定外の骨折をしてしまい、入院を継続するという連絡を受けて訪問した。先週見舞いに来た時と同じ病室のため、とくに迷うことなく来れたそうだ。
病室の丸椅子に座った校長は首をかしげながら「そうかね」と言う。
「その妖精さんは、助けてくれなかったわけだね」
「そうです。あのまま放置されて、従業員に発見してもらったんです」
第一発見者は八巻に院内での行動所作を注意した事務員だった。この人は銅像の倒壊理由を「走り回っててぶつかったんじゃ」などと八巻に責任を追及する予想立てたらしい。倒壊現場にいた隆之介が弁護したおかげで八巻の自己責任は問われなかった。
原因解明のため銅像の残骸を調査したところ、足元の金属部分がボロボロに崩れていたらしい。不思議とその部位だけ劣化が激しかったという。鋭利な物で切断した形跡も、高熱で溶けた痕跡もなかった。
結果、老朽化が原因で銅像が倒れたと診断され、その弁償は病院が負担することに決定した。同様に、八巻の負傷は病院側の不始末として受理された。
校長の関心は八巻の怪我の原因になく、もっぱら謎の女性に向かう。
「人を助けたりほったらかしにしたり、目的がよくわからん女性だね」
「ええ、まあ……命に別条がないとわかったから、何もしなかったのかもしれませんが」
こたびの骨折は足のすね部分だけ。骨がきれいに折れており、プレートやボルトを入れずにギプスで固定してある。
「医者に言わせれば『銅像一つでこうも骨が真っ二つに折れるものか』と疑っているそうですよ」
「ほう、それは責任逃れのためでなく?」
「どうなんでしょうね。あの像が骨折の原因じゃないなら、妖精さんが犯人になりそうですが」
「それは考えられないだろう。その女性は夜な夜なきみのケガを治しにきてくれたそうじゃないか。なぜ今になって、その努力をムダにする」
八巻は校長の言葉に大いにうなずいた。彼女が八巻を害する動機が見当たらない。
(まあ、ケガを治す理由もわからないんだが……)
八巻が瀕死の重体に陥った時に助けてくれたのは、良心による行動だと推測できる。普通の人間なら、死にゆく生き物の運命を変えたいと願うはずだ。よほど憎い相手以外は。
だが八巻の入院先を調べてまで治療を施す理由はなにか。それも良心で片付けてよいのだろうか。彼女は事故現場に居合わせただけの他人に尽くす、お人好しなのか。
(それとも、会ったことがあるんだろうか?)
八巻が気付かぬうちに妖精さんと会っており、その時に彼女の琴線に触れるなにかを八巻がした──と仮定すれば納得がいく。だが、あのような美人をちらりとでも見かけたならきれいサッパリ忘れそうにない。
(心当たりがないな……)
冷静になってみると、治癒能力を持つ存在自体が不可思議である。そして妖精さんを伝聞でしか知らぬ校長がなんの抵抗もなく八巻に話を合わせているのも奇妙だ。八巻は校長がこの若手教師を妄言家だと見てはいないか不安になる。
「あの、校長……なんだか自然とお話しされてますけど、妖精さんのこと……ほんとうに信じてらっしゃいます?」
八巻はおずおずと質問した。校長は目を細めてうなずく。
「もちろん。きみが惚れた人のことだ、疑う余地はないとも!」
「はぁ、そうですか……」
校長は恋話が第一優先事項であり、非科学的な事象の審議は二の次のようだ。校長の徹底されたポリシーは八巻に妙な安心感を与えた。
謎の女性が八巻にどう働きかけたのであれ、八巻が負傷した事実は変わらない。八巻は最短でも一ヶ月の入院を余儀なくされている。退院した後も何ヶ月と治療を続け、やっと人並みに動けるようになるのだ。
退院後、松葉杖をついた状態で授業を行なうことはできるだろう。しかし、校長の依頼は到底達成できない。外部の者と乱闘を起こす可能性のある生徒の監督という役目を。
「すみませんが、この怪我では、四月までに復帰は──」
八巻が申し訳なく言うと校長は「いいんだ」とさえぎる。
「人を助けようとして負ったケガなのだから、誇らしくしていなさい。きみはまちがったことをしていないよ」
「そう言っていただけると気持ちが楽になります。ですが、一年生はどうします?」
「仕方がないさ。ほかの先生たちと協力して、うまくやっていこう」
現状維持──それ以外にやりようもない。八巻は自分が役立つ絶好の機会を棒に振ったと感じる。
「どこかに、荒事の対処がうまい教師がいませんかね……」
「うーむ、知り合いに聞いてみるかな」
「ツテがあるんですか?」
「教師はどうか知らないが、武芸達者な人たちを抱える知人はいるよ。電話が繋がりにくいのが欠点でねえ──」
校長は大物な人名をあげた。大力会長という、大企業のトップと親交があるのだ。その人物は校長夫人の原作映画のスポンサーになったことがあり、そこから交流が始まったらしい。八巻はたかがいち高校に大それた人物を関わらせるのは非常識だと思う。
「お忙しい方なんじゃないですか? こんな子どものトラブルを相談するような相手じゃ──」
「なぁに、あの人は学校に興味がおありでね。話ぐらいは聞いてくれるさ」
校長はダメでもともとの精神でいる。その挑戦が相手方の負担にならないのなら八巻に異論はない。
「でしたら、校長の思うとおりにはからってください」
「わかった。きみは焦らずにじっくり体を治したまえ」
校長は自身の膝をぽんと叩き、別れの挨拶を交わした。話し疲れた八巻はベッドのリクライニングをリモコン操作で倒し、横になる。引き続き同室者になった隆之介が「なぁ」とカーテン越しにしゃべる。
「いい校長さんだな」
「……聞いてたのか」
「まーな。イヤだったか?」
「どうとも思わない。ほとんどがきみも知ってることだ」
この骨折を機に、妖精さんの話は隆之介にもしてあった。彼は実在の不確かな女性のことを信じたのかどうかはっきりしない。だが八巻をほら吹きのごとく馬鹿にすることは決してなかった。隆之介はなおも「そうそう」と話しかける。
「その妖精さん……に限ったことじゃねえんだけど、アドバイスな」
「なんだ、改まって」
「銀髪で色黒のやつには関わるなよ。それプラス青い目もアウトらしい」
隆之介の条件は髪以外、妖精さんに当てはまる。もしや、それがあの銅像の前で隆之介が質問してきた真意か。
「銀色の髪? それが、電話相手が言ってた人物の特徴か」
「そういうこった」
「どうして関わってはいけないんだ?」
「そのへんは仕事上、他言無用なんだとよ」
「きみの友人はどういう仕事をしてる人なんだ」
「どうとでも思っててくれ。しばらく待てばあいつがどーにかしてくれるさ」
隆之介は助言以上の情報を教える気はないらしい。八巻は念押しに質問する。
「そのアドバイス、校長にも伝えるべきか?」
「それはしなくていいんじゃねえかな。校長さんはその女性と会っちゃいないだろ?」
「まあ、そうか……」
学校の人々が八巻ほどの大事故に巻き込まれまい。妖精さんが現れる可能性は低そうだ。八巻は彼女への捨てきれぬ想いを胸に、別の質問をする。
「一つ聞くが……どれだけの間、待てばいい?」
「へ?」
「もし妖精さんが現れたとして、彼女に接触していい時期はいつだろうか?」
「あー……勝手にすりゃいい。命まではとらねえって話だから」
隆之介はめんどくさそうに答える。八巻の懲りない慕情に呆れているのだ。八巻は隆之介がくだす自分の評価はどうでもよかった。同室者の許しを得たことで気が大きくなる。
「そうか! 次は気絶しないように心掛けよう」
八巻は妖精さんに邂逅する時を期待して、慎重に寝返りをうった。
八巻はギプスで包まれた左足をクッションの上に投げ出しながら、自身の負傷の経緯を語り終えた。聞き手は校長。八巻が想定外の骨折をしてしまい、入院を継続するという連絡を受けて訪問した。先週見舞いに来た時と同じ病室のため、とくに迷うことなく来れたそうだ。
病室の丸椅子に座った校長は首をかしげながら「そうかね」と言う。
「その妖精さんは、助けてくれなかったわけだね」
「そうです。あのまま放置されて、従業員に発見してもらったんです」
第一発見者は八巻に院内での行動所作を注意した事務員だった。この人は銅像の倒壊理由を「走り回っててぶつかったんじゃ」などと八巻に責任を追及する予想立てたらしい。倒壊現場にいた隆之介が弁護したおかげで八巻の自己責任は問われなかった。
原因解明のため銅像の残骸を調査したところ、足元の金属部分がボロボロに崩れていたらしい。不思議とその部位だけ劣化が激しかったという。鋭利な物で切断した形跡も、高熱で溶けた痕跡もなかった。
結果、老朽化が原因で銅像が倒れたと診断され、その弁償は病院が負担することに決定した。同様に、八巻の負傷は病院側の不始末として受理された。
校長の関心は八巻の怪我の原因になく、もっぱら謎の女性に向かう。
「人を助けたりほったらかしにしたり、目的がよくわからん女性だね」
「ええ、まあ……命に別条がないとわかったから、何もしなかったのかもしれませんが」
こたびの骨折は足のすね部分だけ。骨がきれいに折れており、プレートやボルトを入れずにギプスで固定してある。
「医者に言わせれば『銅像一つでこうも骨が真っ二つに折れるものか』と疑っているそうですよ」
「ほう、それは責任逃れのためでなく?」
「どうなんでしょうね。あの像が骨折の原因じゃないなら、妖精さんが犯人になりそうですが」
「それは考えられないだろう。その女性は夜な夜なきみのケガを治しにきてくれたそうじゃないか。なぜ今になって、その努力をムダにする」
八巻は校長の言葉に大いにうなずいた。彼女が八巻を害する動機が見当たらない。
(まあ、ケガを治す理由もわからないんだが……)
八巻が瀕死の重体に陥った時に助けてくれたのは、良心による行動だと推測できる。普通の人間なら、死にゆく生き物の運命を変えたいと願うはずだ。よほど憎い相手以外は。
だが八巻の入院先を調べてまで治療を施す理由はなにか。それも良心で片付けてよいのだろうか。彼女は事故現場に居合わせただけの他人に尽くす、お人好しなのか。
(それとも、会ったことがあるんだろうか?)
八巻が気付かぬうちに妖精さんと会っており、その時に彼女の琴線に触れるなにかを八巻がした──と仮定すれば納得がいく。だが、あのような美人をちらりとでも見かけたならきれいサッパリ忘れそうにない。
(心当たりがないな……)
冷静になってみると、治癒能力を持つ存在自体が不可思議である。そして妖精さんを伝聞でしか知らぬ校長がなんの抵抗もなく八巻に話を合わせているのも奇妙だ。八巻は校長がこの若手教師を妄言家だと見てはいないか不安になる。
「あの、校長……なんだか自然とお話しされてますけど、妖精さんのこと……ほんとうに信じてらっしゃいます?」
八巻はおずおずと質問した。校長は目を細めてうなずく。
「もちろん。きみが惚れた人のことだ、疑う余地はないとも!」
「はぁ、そうですか……」
校長は恋話が第一優先事項であり、非科学的な事象の審議は二の次のようだ。校長の徹底されたポリシーは八巻に妙な安心感を与えた。
謎の女性が八巻にどう働きかけたのであれ、八巻が負傷した事実は変わらない。八巻は最短でも一ヶ月の入院を余儀なくされている。退院した後も何ヶ月と治療を続け、やっと人並みに動けるようになるのだ。
退院後、松葉杖をついた状態で授業を行なうことはできるだろう。しかし、校長の依頼は到底達成できない。外部の者と乱闘を起こす可能性のある生徒の監督という役目を。
「すみませんが、この怪我では、四月までに復帰は──」
八巻が申し訳なく言うと校長は「いいんだ」とさえぎる。
「人を助けようとして負ったケガなのだから、誇らしくしていなさい。きみはまちがったことをしていないよ」
「そう言っていただけると気持ちが楽になります。ですが、一年生はどうします?」
「仕方がないさ。ほかの先生たちと協力して、うまくやっていこう」
現状維持──それ以外にやりようもない。八巻は自分が役立つ絶好の機会を棒に振ったと感じる。
「どこかに、荒事の対処がうまい教師がいませんかね……」
「うーむ、知り合いに聞いてみるかな」
「ツテがあるんですか?」
「教師はどうか知らないが、武芸達者な人たちを抱える知人はいるよ。電話が繋がりにくいのが欠点でねえ──」
校長は大物な人名をあげた。大力会長という、大企業のトップと親交があるのだ。その人物は校長夫人の原作映画のスポンサーになったことがあり、そこから交流が始まったらしい。八巻はたかがいち高校に大それた人物を関わらせるのは非常識だと思う。
「お忙しい方なんじゃないですか? こんな子どものトラブルを相談するような相手じゃ──」
「なぁに、あの人は学校に興味がおありでね。話ぐらいは聞いてくれるさ」
校長はダメでもともとの精神でいる。その挑戦が相手方の負担にならないのなら八巻に異論はない。
「でしたら、校長の思うとおりにはからってください」
「わかった。きみは焦らずにじっくり体を治したまえ」
校長は自身の膝をぽんと叩き、別れの挨拶を交わした。話し疲れた八巻はベッドのリクライニングをリモコン操作で倒し、横になる。引き続き同室者になった隆之介が「なぁ」とカーテン越しにしゃべる。
「いい校長さんだな」
「……聞いてたのか」
「まーな。イヤだったか?」
「どうとも思わない。ほとんどがきみも知ってることだ」
この骨折を機に、妖精さんの話は隆之介にもしてあった。彼は実在の不確かな女性のことを信じたのかどうかはっきりしない。だが八巻をほら吹きのごとく馬鹿にすることは決してなかった。隆之介はなおも「そうそう」と話しかける。
「その妖精さん……に限ったことじゃねえんだけど、アドバイスな」
「なんだ、改まって」
「銀髪で色黒のやつには関わるなよ。それプラス青い目もアウトらしい」
隆之介の条件は髪以外、妖精さんに当てはまる。もしや、それがあの銅像の前で隆之介が質問してきた真意か。
「銀色の髪? それが、電話相手が言ってた人物の特徴か」
「そういうこった」
「どうして関わってはいけないんだ?」
「そのへんは仕事上、他言無用なんだとよ」
「きみの友人はどういう仕事をしてる人なんだ」
「どうとでも思っててくれ。しばらく待てばあいつがどーにかしてくれるさ」
隆之介は助言以上の情報を教える気はないらしい。八巻は念押しに質問する。
「そのアドバイス、校長にも伝えるべきか?」
「それはしなくていいんじゃねえかな。校長さんはその女性と会っちゃいないだろ?」
「まあ、そうか……」
学校の人々が八巻ほどの大事故に巻き込まれまい。妖精さんが現れる可能性は低そうだ。八巻は彼女への捨てきれぬ想いを胸に、別の質問をする。
「一つ聞くが……どれだけの間、待てばいい?」
「へ?」
「もし妖精さんが現れたとして、彼女に接触していい時期はいつだろうか?」
「あー……勝手にすりゃいい。命まではとらねえって話だから」
隆之介はめんどくさそうに答える。八巻の懲りない慕情に呆れているのだ。八巻は隆之介がくだす自分の評価はどうでもよかった。同室者の許しを得たことで気が大きくなる。
「そうか! 次は気絶しないように心掛けよう」
八巻は妖精さんに邂逅する時を期待して、慎重に寝返りをうった。
タグ:八巻
2017年11月13日
拓馬篇前記−校長5
羽田校長は八巻の見舞いから学校へもどると、さっそく大力会長に電話をかけてみた。大抵は彼の部下に繋がる。今回も事務員か秘書かは知らぬ女性が出て、今日は会長と話はできないと断られた。
『会長のお時間ができましたら、折り返しお電話をおかけいたします』
そう言われて日をまたぎ、現在は昼休み。折り返しの電話はまだ来ない。来るとしたら学校の電話に連絡が入るようにしてある。今回の話は学校に関する用件であり、私事ではないからだ。
(むむむ……やはりお忙しいのか?)
大力会長は自分で「会長職はお飾りの身分。気楽なものだ」と言いふらしていたが、まだまだ影響力の衰えない人物なのだろう。
(今月中に話ができないなら、あきらめよう)
いまなら良い人材を捜してもらい、四月から就労する段取りは組める。これが来月に人捜しから始めるとなると、一学期開始には間に合わないかもしれない。相手方に急ぎの用事をおしつける真似はしたくなかった。
(会長には得にならん話だ。無理を言うわけにもいくまい)
連絡がつかなくて当然という姿勢を保った。気持ちを切り替え、自身の鞄を手にとる。今日は日中、校長室で待機できるように弁当を持参した。この生活スタイルを今月の終わりまで続けるつもりである。
小さな手提げ袋に弁当が入っている。袋から出したとたん、机上の電話が鳴った。すぐに受話器を取る。
「はい、羽田です」
『校長、大力会長さんからお電話です。外線一番をどうぞ』
「ああ、ありがとう」
校長は電話のランプが点滅するボタンを押した。プツっと音声が切り替わる音が鳴る。校長は自身の名を名乗る。
「もしもし、才穎高校の羽田と申しますが、会長さんですが?」
『おお、羽田さん! 久しいな』
大力会長の口調はハツラツとしている。急な電話を不快に感じていないようで、校長は一安心した。
『さて、用件は……学校の職員を一人、募集したいんだったか?』
「ええ、そうなんです。ぶしつけなお願いで恐縮です」
『この儂に頼むのだ、よほど変わった募集条件なのだろうな?』
「端的に言いますと、格闘かなにかに強い教師がもしいれば、と思いまして」
『ふむ、面妖であるなぁ』
「え、どういうことです?」
校長は「面妖」が意味する事情を思いつけなかった。大力会長は『心配めされるな』と古風に返事をする。
『羽田さんがいまおっしゃったのとピッタリな男がそちらで働きたいと言っておってな。昨日はその男の上司と話をしておったのだよ』
「はあ、それはなんともタイムリーな」
昨日、会長との連絡がつかなかったのはそのせいか、と校長はそれとなく納得した。
『その男はまったく教職業に就いたことのない素人だ。だが仕事の合間に勉強して、教員免許を取ったそうだ』
「ほー、努力家ですなぁ。ちなみにその方はどの教科を担当できるか、お聞きになりましたか」
『英語だ。英語教師の数に不足はあるかな?』
「これといって足りないことはありません。なにぶん年配の教師が多いもので、若い人は歓迎したいです」
現在は定年を迎えた英語教師が非常勤で勤務している。仮にその教師が辞めることになれば、すこし厳しいかもしれない。新人を育てる期間を考えると、そろそろ若手を入れたい教科ではある。
『その男は二十代だという。まあ素人だから物の数にはあまり入らんだろう』
「二十代とはずいぶんお若いですな。いまはなんの仕事をしてる方ですか?」
『警備員……だな。そういう子会社をいくつも抱えておるもので』
「手広くやっておいでですな」
校長は大力会長の手腕を称賛した。会長は照れたのか咳払いをする。
『んん、そういうわけだ。この男を紹介したいと思うのだが……』
「なにか問題がおありで?」
『いやなに、個人的にその男と会うつもりだ。しかるのちに羽田さんにやっていいものか考えさせてほしい。その男の上司の太鼓判だけでは責任が持てぬ』
品質を重要視する大力会長らしい懸念だ。彼が直接見て、よいと思ったものを他者に譲りたいのだろう。校長はその誠実さを好ましいと思う。
「ええ、会長のお気に召すようになさってください。こちらとしては、四月の始業式までに間に合えばよいので」
『そこまで品定めに時間はかけない。そうだな、来月の一日……先方の予定が合えばその日に面接をしたい。そこで及第点以上の素質があるとわかれば、羽田さんのほうで面接していただくのはどうかな?』
「では、次に会長からご連絡があるのは三月以降ということですな」
『そうだな。そやつがあまりに教師不適格なやからだと感じた時は、ほかの人材を見繕おう』
「そうはならないことを期待したいものです」
絶妙なタイミングで起きた申し出だ。なにか運命的なものがあるようだと校長は思った。きっと才穎高校とご縁のある新人なのだ。
『さて、羽田さん。どうして腕の立つ教師を欲したのか、理由を聞かせてもらえるかね?』
校長は後回しにしていた説明を丁寧に述べる。──うちの生徒が正義感あふれるあまり、他校の生徒と喧嘩騒ぎを起こすのでとても危険だ。今後同じことが起きた際に対応のできる、そこそこに屈強な職員が必要だと判断した。適任者な教師が不測の負傷をしてしまい、その代わりとなる人員がほしい──そう正直に打ち明けた。大力会長はほがらかに笑う。
『はっはっは! 見所のある若者がお集まりのようで、うらやましいかぎりだ』
「会長好みの生徒ではあるんでしょうが、教職の立場では笑っていられませんよ」
『それは笑って悪かった。門外漢には教師の責任の重さがわからぬようだ』
「いえ、気になさらないでください。あとで振り返った時に笑い話ですむように、いま努力しているわけですから」
この後も二人の会話は続いた。昼休みが終わるチャイムが鳴り、それが大力会長の耳にも届く。
『おや、休憩時間が終わったか。ではまた後日に話そう』
締めの挨拶をして、通話は切れる。校長は自分にできることをやりきった。その達成感を噛みしめつつ、弁当箱を開いた。
『会長のお時間ができましたら、折り返しお電話をおかけいたします』
そう言われて日をまたぎ、現在は昼休み。折り返しの電話はまだ来ない。来るとしたら学校の電話に連絡が入るようにしてある。今回の話は学校に関する用件であり、私事ではないからだ。
(むむむ……やはりお忙しいのか?)
大力会長は自分で「会長職はお飾りの身分。気楽なものだ」と言いふらしていたが、まだまだ影響力の衰えない人物なのだろう。
(今月中に話ができないなら、あきらめよう)
いまなら良い人材を捜してもらい、四月から就労する段取りは組める。これが来月に人捜しから始めるとなると、一学期開始には間に合わないかもしれない。相手方に急ぎの用事をおしつける真似はしたくなかった。
(会長には得にならん話だ。無理を言うわけにもいくまい)
連絡がつかなくて当然という姿勢を保った。気持ちを切り替え、自身の鞄を手にとる。今日は日中、校長室で待機できるように弁当を持参した。この生活スタイルを今月の終わりまで続けるつもりである。
小さな手提げ袋に弁当が入っている。袋から出したとたん、机上の電話が鳴った。すぐに受話器を取る。
「はい、羽田です」
『校長、大力会長さんからお電話です。外線一番をどうぞ』
「ああ、ありがとう」
校長は電話のランプが点滅するボタンを押した。プツっと音声が切り替わる音が鳴る。校長は自身の名を名乗る。
「もしもし、才穎高校の羽田と申しますが、会長さんですが?」
『おお、羽田さん! 久しいな』
大力会長の口調はハツラツとしている。急な電話を不快に感じていないようで、校長は一安心した。
『さて、用件は……学校の職員を一人、募集したいんだったか?』
「ええ、そうなんです。ぶしつけなお願いで恐縮です」
『この儂に頼むのだ、よほど変わった募集条件なのだろうな?』
「端的に言いますと、格闘かなにかに強い教師がもしいれば、と思いまして」
『ふむ、面妖であるなぁ』
「え、どういうことです?」
校長は「面妖」が意味する事情を思いつけなかった。大力会長は『心配めされるな』と古風に返事をする。
『羽田さんがいまおっしゃったのとピッタリな男がそちらで働きたいと言っておってな。昨日はその男の上司と話をしておったのだよ』
「はあ、それはなんともタイムリーな」
昨日、会長との連絡がつかなかったのはそのせいか、と校長はそれとなく納得した。
『その男はまったく教職業に就いたことのない素人だ。だが仕事の合間に勉強して、教員免許を取ったそうだ』
「ほー、努力家ですなぁ。ちなみにその方はどの教科を担当できるか、お聞きになりましたか」
『英語だ。英語教師の数に不足はあるかな?』
「これといって足りないことはありません。なにぶん年配の教師が多いもので、若い人は歓迎したいです」
現在は定年を迎えた英語教師が非常勤で勤務している。仮にその教師が辞めることになれば、すこし厳しいかもしれない。新人を育てる期間を考えると、そろそろ若手を入れたい教科ではある。
『その男は二十代だという。まあ素人だから物の数にはあまり入らんだろう』
「二十代とはずいぶんお若いですな。いまはなんの仕事をしてる方ですか?」
『警備員……だな。そういう子会社をいくつも抱えておるもので』
「手広くやっておいでですな」
校長は大力会長の手腕を称賛した。会長は照れたのか咳払いをする。
『んん、そういうわけだ。この男を紹介したいと思うのだが……』
「なにか問題がおありで?」
『いやなに、個人的にその男と会うつもりだ。しかるのちに羽田さんにやっていいものか考えさせてほしい。その男の上司の太鼓判だけでは責任が持てぬ』
品質を重要視する大力会長らしい懸念だ。彼が直接見て、よいと思ったものを他者に譲りたいのだろう。校長はその誠実さを好ましいと思う。
「ええ、会長のお気に召すようになさってください。こちらとしては、四月の始業式までに間に合えばよいので」
『そこまで品定めに時間はかけない。そうだな、来月の一日……先方の予定が合えばその日に面接をしたい。そこで及第点以上の素質があるとわかれば、羽田さんのほうで面接していただくのはどうかな?』
「では、次に会長からご連絡があるのは三月以降ということですな」
『そうだな。そやつがあまりに教師不適格なやからだと感じた時は、ほかの人材を見繕おう』
「そうはならないことを期待したいものです」
絶妙なタイミングで起きた申し出だ。なにか運命的なものがあるようだと校長は思った。きっと才穎高校とご縁のある新人なのだ。
『さて、羽田さん。どうして腕の立つ教師を欲したのか、理由を聞かせてもらえるかね?』
校長は後回しにしていた説明を丁寧に述べる。──うちの生徒が正義感あふれるあまり、他校の生徒と喧嘩騒ぎを起こすのでとても危険だ。今後同じことが起きた際に対応のできる、そこそこに屈強な職員が必要だと判断した。適任者な教師が不測の負傷をしてしまい、その代わりとなる人員がほしい──そう正直に打ち明けた。大力会長はほがらかに笑う。
『はっはっは! 見所のある若者がお集まりのようで、うらやましいかぎりだ』
「会長好みの生徒ではあるんでしょうが、教職の立場では笑っていられませんよ」
『それは笑って悪かった。門外漢には教師の責任の重さがわからぬようだ』
「いえ、気になさらないでください。あとで振り返った時に笑い話ですむように、いま努力しているわけですから」
この後も二人の会話は続いた。昼休みが終わるチャイムが鳴り、それが大力会長の耳にも届く。
『おや、休憩時間が終わったか。ではまた後日に話そう』
締めの挨拶をして、通話は切れる。校長は自分にできることをやりきった。その達成感を噛みしめつつ、弁当箱を開いた。
タグ:羽田校長
2017年11月14日
拓馬篇前記−新人1
広大な瓦屋根の塀が続く。いったいどれだけの敷地面積があるのだろう、と考えながら、一人の男が黒い車の後部座席で鎮座していた。一八〇センチ以上ある身であっても車内はゆったりとした空間だった。
乗車中の車は、目前の屋敷の持ち主が手配した高級車だ。運転席とは仕切りが設けられていて、運転手の顔を見ることも会話することもない。男は移動時間を利用して運転手から情報収集しようと思っていたのだが、そうはいかなかった。
運転手とは乗車前に二、三言葉を交わしたきり。老齢だが覇気を感じる男性だった。男が想像する、一般的なタクシーの運転手とはイメージが異なる。これから面会する大力会長もこのような内なる強さを秘めた人物か、またはそれ以上なのではないかと男は予想した。
男は一角(ひとかど)の人物であろう運転手が目的地へいざなってくれることを信じた。じっと流れに身をゆだねる。この車は走行時の振動が少ないことに気づいた。普段、男の上司が乗るものとは乗り心地がちがう。
(金持ちは見栄のために高額な車に乗るわけではないんだ……)
男は世事にうとい。体験の一つひとつが、彼の知識や考えをより現実的な方向へ上塗りしていった。
白塗りの塀をながめているうちに、高さと色の異なる壁が見えてきた。格段に高くなった塀に、木製の門扉がそびえている。これが正門だ。
正門の前に車がゆるやかに停まる。自動で車のドアが開いた。男はビジネス鞄をたずさえ、車を降りる。
門の前に立ってみるとその大きさにおどろいた。幅は縦も横も普通の玄関の倍近く。城跡の門のようでもある。その扉は常人が一人で開けるには少々苦労する重さがありそうだ。大きな扉のとなりに普通サイズの扉があるので、日常的にはそちらから出入りするらしかった。
重そうな木の両扉が後退していく。二人の袴姿の男性がそれぞれ片方の扉を手で引いていた。両手を使っているとはいえ、足腰に力を込めた様子はない。彼らは思いのほか軽々と扉を動かしている。見た目ほど重量はないのかもしれない。
扉の奥からさらに一人の男性が現れた。彼は前開きの中華服を着ている。扉を開ける係の男性は和装であるのに、この差はなんだろうと男は不思議に思った。
中華服の男性は四十代ばかりの中年だ。立ち居振る舞いに隙がない。男は彼が武人だと察する。
中年は武人らしさをおくびにも出さぬ和やかな表情で、うやうやしく一礼する。男もそれに応じて頭を下げた。
「あなたが、大力会長と面会されるデイルさんで?」
男は「はい」と答える。中華服の中年は笑んで「では私についてきてください」と背を向けた。男は素直に後を追い、平らな石畳の上を歩く。通路の周りには砂利が敷き詰めてあったり、松の木や灯篭などを配置していたりと、日本庭園の様相が広がっていた。
案内役が正面を見たまま、自己紹介をはじめる。
「私は崔俊(ツイジュン)というものです。まあ覚える必要はないでしょうけど、一応ね」
「ツイジュンさんは中国人、なのですか?」
「ええ、そうです。だからこういう服を着てるというわけでもないんですがね」
「どんな意図があるんです?」
「動きやすいからですよ。あなたも、ラフな格好でよいと言われませんでした?」
服装に関する指示は上司から聞いてある。だがまがりなりにも就職の面接だ。男は無難なスーツを着てきた。伸縮性に富んだ素材を選んであるので、この格好でも激しい運動はできる。
「お聞きしました。ですが、ほかに見栄えする服もないので……スーツは良くなかったのでしょうか」
「とんでもない。これから体を動かしてもらいますから、そのハンデにならなければなんでもいいんです」
「『ハンデ』……? 試合でもするのですか」
「ちょっとした腕試しです。あまり気張らずにいてください」
崔俊は男に課せられる試験内容をくわしく述べなかった。その時になるまで隠しておくように、といった上の者の指示を守っているのだろう。男は追究せずにおいた。
二人は玄関で靴を脱ぎ、板張りの廊下を渡る。屋内はふすまや障子戸がいたるところにあった。女中らしき着物姿の女性が出入りする光景と合わせて、旅館かと錯覚する。あたり一面にただよう雰囲気は、西洋のスーツと中国の民族服を着た二人を異物にしていた。
場違いな二人は奥まった座敷にたどりついた。このあたりに近づくと女中を一切見かけなくなる。男はここが大力会長との面接の場なのだと思った。崔俊がふすまを開ける。
「こちらでしばらく待っててください。会長を呼んできます」
崔俊にうながされ、男は宴会場かと見間違う広さの座敷に入る。男がふすまを閉めようとしたところ、廊下にいる崔俊が閉めた。
一人になった男は室内を見回す。何畳もある広い和室に、座布団が一つ敷いてあるのを見つける。おそらくそこが男に用意された座席だ。
(一つだけ?)
対談する大力会長の分の座布団が無いのが妙だ。二つ置くとどちらが客人用か混乱すると判断されたのかもしれない。男は日本の文化に数年慣れ親しんではいるが、名前と外見は西洋人である。外国人向けの配慮の結果だろうと思った。
だだっ広い部屋にぽつんとある座布団を目標に、男は移動する。
(畳のへりを踏まずに、すり足で……)
男は事前に和室におけるマナーを学んでいた。大力会長が和風を尊ぶ人物だと上司から聞いており、失礼がないように予習した。これが茶室になると掛け軸やら生け花の鑑賞なども作法に含まれるらしい。この座敷の床の間にも掛け軸等はある。茶会に参加するつもりはないので普通に待つことにした。
乗車中の車は、目前の屋敷の持ち主が手配した高級車だ。運転席とは仕切りが設けられていて、運転手の顔を見ることも会話することもない。男は移動時間を利用して運転手から情報収集しようと思っていたのだが、そうはいかなかった。
運転手とは乗車前に二、三言葉を交わしたきり。老齢だが覇気を感じる男性だった。男が想像する、一般的なタクシーの運転手とはイメージが異なる。これから面会する大力会長もこのような内なる強さを秘めた人物か、またはそれ以上なのではないかと男は予想した。
男は一角(ひとかど)の人物であろう運転手が目的地へいざなってくれることを信じた。じっと流れに身をゆだねる。この車は走行時の振動が少ないことに気づいた。普段、男の上司が乗るものとは乗り心地がちがう。
(金持ちは見栄のために高額な車に乗るわけではないんだ……)
男は世事にうとい。体験の一つひとつが、彼の知識や考えをより現実的な方向へ上塗りしていった。
白塗りの塀をながめているうちに、高さと色の異なる壁が見えてきた。格段に高くなった塀に、木製の門扉がそびえている。これが正門だ。
正門の前に車がゆるやかに停まる。自動で車のドアが開いた。男はビジネス鞄をたずさえ、車を降りる。
門の前に立ってみるとその大きさにおどろいた。幅は縦も横も普通の玄関の倍近く。城跡の門のようでもある。その扉は常人が一人で開けるには少々苦労する重さがありそうだ。大きな扉のとなりに普通サイズの扉があるので、日常的にはそちらから出入りするらしかった。
重そうな木の両扉が後退していく。二人の袴姿の男性がそれぞれ片方の扉を手で引いていた。両手を使っているとはいえ、足腰に力を込めた様子はない。彼らは思いのほか軽々と扉を動かしている。見た目ほど重量はないのかもしれない。
扉の奥からさらに一人の男性が現れた。彼は前開きの中華服を着ている。扉を開ける係の男性は和装であるのに、この差はなんだろうと男は不思議に思った。
中華服の男性は四十代ばかりの中年だ。立ち居振る舞いに隙がない。男は彼が武人だと察する。
中年は武人らしさをおくびにも出さぬ和やかな表情で、うやうやしく一礼する。男もそれに応じて頭を下げた。
「あなたが、大力会長と面会されるデイルさんで?」
男は「はい」と答える。中華服の中年は笑んで「では私についてきてください」と背を向けた。男は素直に後を追い、平らな石畳の上を歩く。通路の周りには砂利が敷き詰めてあったり、松の木や灯篭などを配置していたりと、日本庭園の様相が広がっていた。
案内役が正面を見たまま、自己紹介をはじめる。
「私は崔俊(ツイジュン)というものです。まあ覚える必要はないでしょうけど、一応ね」
「ツイジュンさんは中国人、なのですか?」
「ええ、そうです。だからこういう服を着てるというわけでもないんですがね」
「どんな意図があるんです?」
「動きやすいからですよ。あなたも、ラフな格好でよいと言われませんでした?」
服装に関する指示は上司から聞いてある。だがまがりなりにも就職の面接だ。男は無難なスーツを着てきた。伸縮性に富んだ素材を選んであるので、この格好でも激しい運動はできる。
「お聞きしました。ですが、ほかに見栄えする服もないので……スーツは良くなかったのでしょうか」
「とんでもない。これから体を動かしてもらいますから、そのハンデにならなければなんでもいいんです」
「『ハンデ』……? 試合でもするのですか」
「ちょっとした腕試しです。あまり気張らずにいてください」
崔俊は男に課せられる試験内容をくわしく述べなかった。その時になるまで隠しておくように、といった上の者の指示を守っているのだろう。男は追究せずにおいた。
二人は玄関で靴を脱ぎ、板張りの廊下を渡る。屋内はふすまや障子戸がいたるところにあった。女中らしき着物姿の女性が出入りする光景と合わせて、旅館かと錯覚する。あたり一面にただよう雰囲気は、西洋のスーツと中国の民族服を着た二人を異物にしていた。
場違いな二人は奥まった座敷にたどりついた。このあたりに近づくと女中を一切見かけなくなる。男はここが大力会長との面接の場なのだと思った。崔俊がふすまを開ける。
「こちらでしばらく待っててください。会長を呼んできます」
崔俊にうながされ、男は宴会場かと見間違う広さの座敷に入る。男がふすまを閉めようとしたところ、廊下にいる崔俊が閉めた。
一人になった男は室内を見回す。何畳もある広い和室に、座布団が一つ敷いてあるのを見つける。おそらくそこが男に用意された座席だ。
(一つだけ?)
対談する大力会長の分の座布団が無いのが妙だ。二つ置くとどちらが客人用か混乱すると判断されたのかもしれない。男は日本の文化に数年慣れ親しんではいるが、名前と外見は西洋人である。外国人向けの配慮の結果だろうと思った。
だだっ広い部屋にぽつんとある座布団を目標に、男は移動する。
(畳のへりを踏まずに、すり足で……)
男は事前に和室におけるマナーを学んでいた。大力会長が和風を尊ぶ人物だと上司から聞いており、失礼がないように予習した。これが茶室になると掛け軸やら生け花の鑑賞なども作法に含まれるらしい。この座敷の床の間にも掛け軸等はある。茶会に参加するつもりはないので普通に待つことにした。
タグ:新人
2017年11月16日
拓馬篇前記−新人2
男は座布団の上に正座する。ふかふかした座布団だ。座った感触はよいのだが、男は奇妙な感覚を覚える。
(下に……だれか、いる?)
気配は畳の下、つまりは床下にある。何者かがいるであろう位置は座布団のすぐ前方。男はためしに目の前の畳を手でぐいぐい押してみた。畳が深く沈まないことから、床が抜けていないとわかる。だからといって侵入口ではないと断言できない。
(ここから人が出てくる……?)
床板を外したのちに襲撃される可能性もある──と、いつもの警戒のクセが出た男は自制する。
(いや、考えすぎか)
男は上司のそのまた上司にあたる人物に話をしにきたのだ。不審な人物と一戦交えることはないはず。そのような狼藉者の侵入を許す家屋ではあるまい。
(この家の者が手配したのでなければ、だが)
その線は大いにありえた。大力会長は強い者を好むという。男の戦闘技術がいかほどか試すつもりか──そう考えつくに充分な環境が整っている。
(監視カメラ……の音がする。それと衣擦れも……複数)
微細な機械音と人の気配が四方からただよう。機械はまだいい。万一、男が大力会長に無礼を働いた際の証拠として記録する目的だといえる。だが複数の人間を、来訪者に見せないかたちで侍らすことに正当な理由はあるのか。会長の護衛ならば堂々と会長の左右にいればよい。そのほうが抑止力にもなるだろうに。
男の頭上から木のきしむ音が鳴る。なにかが這いずるようでもあった。通常の家であれば蛇か鼠が天井にいるのかと見過ごす物音だ。しかしこの豪邸に小動物の付け入る隙間があるとは考えにくい。
新たに機械の音が鳴る。間髪を容れず人の声も漏れる。
『頭役、配置につきました。いつでもどうぞ』
かすかな話し声は天井の裏から聞こえた。
(手のこんだ歓待を準備してもらったらしい)
男は座布団に座ったまま、目を閉じた。この座敷を取りかこむ者の様子を探る。一人は床下、一人は天井裏にいることは知れた。そのほかには男が通ってきた廊下に一人、その反対側の障子戸に一人。背後のふすまの奥にも一人。合計で五人いるようだ。彼らは無線通話で連絡を取り合っている。
『足役のオレの位置、変更なしでいいですか? お客のケツにぶっ刺さらないっすよね?』
『こちら背役。客人は予定通りの場所にいらっしゃる。ハデにやってやれ』
若々しい男性と年配の男性の声だ。年配のほうは男に聞き覚えがある。
(この声……運転手?)
男を大力会長の屋敷まで護送した人物だ。ただならぬ人だとは感じていたが、やはり運転能力のみで雇われた男性ではないようだ。
(動かないほうがいいか)
まもなくサプライズが起きる。きっと崔俊の言っていた「ちょっとした腕試し」だ。
鎖のじゃらつく音が聞こえる。無線の会話は無くなり、周囲一帯に緊張感が高まった。いよいよ試験が始まる。
『胴役、入れ!』
背役という、男の背後に待機する者が命じた。障子戸が勢いよく開け放たれ、柱に当たる。太陽光の差しこむ縁側が露わになる。そこに全身黒装束姿の人がいた。両手に分銅のついた鎖を握っている。黒装束が座敷に足を踏みいれ、分銅を男めがけて投げつけた。
(掴むと腕に絡むな……)
初手で拘束を受けると後続の対処がやりづらくなる──と男は体で感じた。自身が下敷きにする座布団を引き抜く。厚みのある座布団を盾代わりにして攻撃を受け止めた。手元の自分の鞄を使わなかったわけは、中にある文具が衝撃で破損するのを嫌がったためだ。この非常時でも余裕のある判断をしてしまうのを、我ながらふてぶてしいと思った。
分銅が畳にぼとんと落ちた。が、宙へ跳ね上がる。金属の塊は畳とともに下から突き上げられた。
「お命、頂戴つかまつる!」
床下に控えていた若者が抜身の刀を振り上げて登場した。ぴょんと跳び、畳の上に着地する。彼も忍者のような黒装束だ。畳に手と膝をつき、ポーズを決めた。──かと思うと、なかなか立ち上がらない。
「あ、足……しびれた……」
狭い空間で待機していたせいなのだろう。大仰なセリフを吐いたわりに若者の動きはにぶく、なさけない。男は刀を持つ若者を戦力外と見做し、ほかの襲撃者に注意を払う。
分銅がふたたび迫る。申し合わせたように天井から小刀がばら撒かれる。小刀は男には当たらない位置に投げられた。男の回避動作を妨害するための投擲(とうてき)だ。分銅を避けるべきか、男に迷いが生じる。
(受けるか)
男は腕が使えなくなる覚悟をした。分銅の鎖を両手でつかむ。分銅が持つ遠心力により、鎖が右腕に巻きついた。これで右腕の自由は利かなくなる。常人の臂力(ひりょく)相当で応戦するかぎりは、他の手足で戦わねばならない。
男の動きが封じられたのを好機と見てか、天井裏から飛び道具を放った頭役が下りてくる。その足で男の頭を踏みつける気だ。男は自身の右腕を引っぱる鎖の方向へ移動する。
それが彼らの狙いだったか。新手の黒装束と鎖の使い手が蹴りの挟み撃ちをしかける。新手が男の首を、鎖使いが男のすねを狙った。
男は彼らの攻撃の軌道にない、上へ跳んだ。ここでも鎖のあるほうへ接近する。拘束主のそばに近づくほど、男の行動範囲も広がるからだ。
男は高く跳躍した。足先がちょうど鎖使いの頭部を狙える高さだ。回避行動のついでに顎を蹴っておいた。予想外の打撃だったようで、鎖使いはふんばりが利かずに後方へ倒れる。この隙に男は右腕にまとわりつく鎖をほどいた。
(敵は三人……)
束縛の解けた男は後方を向く。二人の黒装束が立ち向かってくるのを目にした。
(下に……だれか、いる?)
気配は畳の下、つまりは床下にある。何者かがいるであろう位置は座布団のすぐ前方。男はためしに目の前の畳を手でぐいぐい押してみた。畳が深く沈まないことから、床が抜けていないとわかる。だからといって侵入口ではないと断言できない。
(ここから人が出てくる……?)
床板を外したのちに襲撃される可能性もある──と、いつもの警戒のクセが出た男は自制する。
(いや、考えすぎか)
男は上司のそのまた上司にあたる人物に話をしにきたのだ。不審な人物と一戦交えることはないはず。そのような狼藉者の侵入を許す家屋ではあるまい。
(この家の者が手配したのでなければ、だが)
その線は大いにありえた。大力会長は強い者を好むという。男の戦闘技術がいかほどか試すつもりか──そう考えつくに充分な環境が整っている。
(監視カメラ……の音がする。それと衣擦れも……複数)
微細な機械音と人の気配が四方からただよう。機械はまだいい。万一、男が大力会長に無礼を働いた際の証拠として記録する目的だといえる。だが複数の人間を、来訪者に見せないかたちで侍らすことに正当な理由はあるのか。会長の護衛ならば堂々と会長の左右にいればよい。そのほうが抑止力にもなるだろうに。
男の頭上から木のきしむ音が鳴る。なにかが這いずるようでもあった。通常の家であれば蛇か鼠が天井にいるのかと見過ごす物音だ。しかしこの豪邸に小動物の付け入る隙間があるとは考えにくい。
新たに機械の音が鳴る。間髪を容れず人の声も漏れる。
『頭役、配置につきました。いつでもどうぞ』
かすかな話し声は天井の裏から聞こえた。
(手のこんだ歓待を準備してもらったらしい)
男は座布団に座ったまま、目を閉じた。この座敷を取りかこむ者の様子を探る。一人は床下、一人は天井裏にいることは知れた。そのほかには男が通ってきた廊下に一人、その反対側の障子戸に一人。背後のふすまの奥にも一人。合計で五人いるようだ。彼らは無線通話で連絡を取り合っている。
『足役のオレの位置、変更なしでいいですか? お客のケツにぶっ刺さらないっすよね?』
『こちら背役。客人は予定通りの場所にいらっしゃる。ハデにやってやれ』
若々しい男性と年配の男性の声だ。年配のほうは男に聞き覚えがある。
(この声……運転手?)
男を大力会長の屋敷まで護送した人物だ。ただならぬ人だとは感じていたが、やはり運転能力のみで雇われた男性ではないようだ。
(動かないほうがいいか)
まもなくサプライズが起きる。きっと崔俊の言っていた「ちょっとした腕試し」だ。
鎖のじゃらつく音が聞こえる。無線の会話は無くなり、周囲一帯に緊張感が高まった。いよいよ試験が始まる。
『胴役、入れ!』
背役という、男の背後に待機する者が命じた。障子戸が勢いよく開け放たれ、柱に当たる。太陽光の差しこむ縁側が露わになる。そこに全身黒装束姿の人がいた。両手に分銅のついた鎖を握っている。黒装束が座敷に足を踏みいれ、分銅を男めがけて投げつけた。
(掴むと腕に絡むな……)
初手で拘束を受けると後続の対処がやりづらくなる──と男は体で感じた。自身が下敷きにする座布団を引き抜く。厚みのある座布団を盾代わりにして攻撃を受け止めた。手元の自分の鞄を使わなかったわけは、中にある文具が衝撃で破損するのを嫌がったためだ。この非常時でも余裕のある判断をしてしまうのを、我ながらふてぶてしいと思った。
分銅が畳にぼとんと落ちた。が、宙へ跳ね上がる。金属の塊は畳とともに下から突き上げられた。
「お命、頂戴つかまつる!」
床下に控えていた若者が抜身の刀を振り上げて登場した。ぴょんと跳び、畳の上に着地する。彼も忍者のような黒装束だ。畳に手と膝をつき、ポーズを決めた。──かと思うと、なかなか立ち上がらない。
「あ、足……しびれた……」
狭い空間で待機していたせいなのだろう。大仰なセリフを吐いたわりに若者の動きはにぶく、なさけない。男は刀を持つ若者を戦力外と見做し、ほかの襲撃者に注意を払う。
分銅がふたたび迫る。申し合わせたように天井から小刀がばら撒かれる。小刀は男には当たらない位置に投げられた。男の回避動作を妨害するための投擲(とうてき)だ。分銅を避けるべきか、男に迷いが生じる。
(受けるか)
男は腕が使えなくなる覚悟をした。分銅の鎖を両手でつかむ。分銅が持つ遠心力により、鎖が右腕に巻きついた。これで右腕の自由は利かなくなる。常人の臂力(ひりょく)相当で応戦するかぎりは、他の手足で戦わねばならない。
男の動きが封じられたのを好機と見てか、天井裏から飛び道具を放った頭役が下りてくる。その足で男の頭を踏みつける気だ。男は自身の右腕を引っぱる鎖の方向へ移動する。
それが彼らの狙いだったか。新手の黒装束と鎖の使い手が蹴りの挟み撃ちをしかける。新手が男の首を、鎖使いが男のすねを狙った。
男は彼らの攻撃の軌道にない、上へ跳んだ。ここでも鎖のあるほうへ接近する。拘束主のそばに近づくほど、男の行動範囲も広がるからだ。
男は高く跳躍した。足先がちょうど鎖使いの頭部を狙える高さだ。回避行動のついでに顎を蹴っておいた。予想外の打撃だったようで、鎖使いはふんばりが利かずに後方へ倒れる。この隙に男は右腕にまとわりつく鎖をほどいた。
(敵は三人……)
束縛の解けた男は後方を向く。二人の黒装束が立ち向かってくるのを目にした。
タグ:新人
2017年11月17日
拓馬篇前記−新人3
目前の敵は二人。一人は天井裏に潜んでいた者、一人は廊下にいた者──こちらは一メートル足らずの棍棒を手にしている。
徒手で挑む者はさきほど不発だったハイキックを繰り出した。男は身を屈め、一気に相手のふところに潜る。がら空きの腹に掌底を当てる。黒装束は軽く吹き飛ぶ。また一人、倒せた。
仲間の犠牲を囮あつかいするかのごとく、棍棒使いが急襲する。横薙ぎの攻撃が続いたかと思うと突きへ、突きの連続攻撃を避けると今度は棍棒が二つに分かれた。二本の棒は鎖で繋がっている。いわゆるヌンチャクだ。
(厄介だな……)
軌道が読みづらい武器だ。初めに攻撃を受けた鎖分銅は射程が長い分、一度に攻撃できる範囲がおおまかに決まった。一方でヌンチャクはフットワークが軽く、攻撃の間隔も角度も小刻みに変わる。おまけに使い手は熟練者のようだ。男が倒した二人よりも動きにキレがある。
(この人が、ツイジュンさんか?)
振るう武器のイメージと初対面の印象において、崔俊がもっとも適合する。運転手が黒装束の司令塔を担う状況もふまえ、襲撃者は男がすでに会った人たちなのかと思った。
(あまり傷つけたくない)
彼らは上の者の命令に従っているだけ。彼らの職務を全うするに足る反撃に抑える。そのために男は崔俊の武器の片割れをつかんだ。崔俊は棒を受け取るはずだった右手で手持ちの棒をすばやく握る。その勢いのまま後ろ回し蹴りを放った。
男は手刀で彼の足首を叩き落とす。無防備になった崔俊の襟首を掴む。続けざま彼の体重を支える軸足に足払いをかける。崔俊は体勢を崩す。瞬間的に抵抗ができなくなった崔俊を、男は背負い投げした。その落下地点は牽制もかねて、最初から戦闘不能だった若者にしておく。まだ足のしびれが抜けない若者と崔俊がぶつかった。
(次はだれがくる?)
男は一度負かした相手が再度襲ってくるのではないかと警戒した。だが鎖使いも、天井裏にいた者も座敷から消えている。彼らは倒れた時点で退場するよう命じられたのだろう。まるで演劇のやられ役のように。
(では……残るは運転手か)
男は開いていないふすまを見遣った。人の気配はある。機敏な動きがしづらくなっていく高年といえど、この試合のトリを務めるのか──男が推測した時、そのふすまは開いた。
一人の男性が立っている。それは運転手ではなかった。立派な袴を着た六十代以上の人物。とても生命力にあふれていて実年齢より若く感じた。その脇には黒装束がふすまに隠れるようにして片膝をついている。彼は切っ先の丸くなった槍を立てていた。おそらくは武器を持つ人物がもと運転手だ。
上等な服を着た男性が拍手する。
「いやはや、お見事! すばらしい技芸だ!」
高年の男性が入室した。それに伴い、槍を持つ黒装束も座敷へ入る。彼は内側からふすまを閉めた。
「不意打ちをしかけてすまなんだ。儂が大力だ。文句の一つも受け付けよう」
「いえ……すこしは予想できましたから」
「ふむ、こちら側に人がおるのもわかっておった様子。噂以上の逸材とみた」
大力は床の間のほうへずんずん進む。床の開いた部分は黒装束の者が元通りに直す最中だ。上から物音がするので男は見上げてみる。真っ暗な部分の天井から黒装束の顔がのぞいた。すぐに板がカコンとはさまり、穴がふさがる。もはや試合は終わった。その参加者が片付けの姿勢でいる。
(合格できたんだろうか?)
大力会長の喝采ぶりを信じれば、いまのところ評価は上々である。だが男の就職とはなんの関係もない実力テストだ。男は、高校の教師になる前段階として面会をしにきたのだ。活劇ばりの身のこなしを要求する職務に就く気はない。
大力会長は黒装束が持参した座布団に正座する。男も置きなおされた座布団に座った。位置は床が抜けた部分の畳。その修理をした黒装束が「もう抜けませんぜ」と快活に喋る。
「あ、でも心配だったらずらしてもいいっすよ?」
この口調は床下に潜伏していた若者だ。
「おかまいなく。床を外した貴方が大丈夫だというなら、信じます」
「ありゃ? オレが床下から出てきたやつだってわかるんすか」
「ええ、まあ……声で」
若者は照れたようで、肩をすくめつつ頭をかく。
「あちゃー……『お命、頂戴つかまつる』っつって、カッコつけちゃってましたもんね。外人さんならよろこぶかなーっと思って」
「よろこぶ?」
「だって忍者好きな人が多いでしょ? んでもって『畳のすきまから忍者が刀を刺してくる』なーんて信じてる人もいてさ。そのとーりのことをやってみたんですよ」
畳の縁を踏まない理由の一つとして広まっている俗説だ。忍者に多大な期待を抱く外国人には感涙ものの演出なのかもしれない。男は若者のサービス精神の旺盛さに感心する。
「お気遣い、ありがとうございます。リアクションが薄くて、残念だったでしょう?」
「いいや! こんなヘボ忍者に『ありがとう』だなんてもったいない!」
若者は手のひらをぶんぶん横に振る。そこへ槍を持った黒装束が近づく。
「話はそこまで。客人は会長と大事な用件がある」
「あ、ハイ。どうもお騒がせしました」
黒装束の二人は左右の開いたふすまと障子戸から退室し、戸を閉めていった。畳に刺さっていた小刀は回収されてある。殺陣の現場は普通の広い和室に様変わりした。
「デイルさん、足を崩されてよいぞ。儂も楽に座らせてもらう」
大力はあぐらをかいた。男はこれといって楽な姿勢がないので、正座姿を継続する。
「このままでかまいません。ところで、さきほどの黒装束の方たちにお怪我はありませんか?」
「無事だ。貴公が加減してくれたおかげでな」
大力はにやりと笑った。男が本気を出さなかったことを見抜いている。大力はどこまで男の過去を知っているのか、男は気になった。しかし本題に逸れるため不問にした。
男が黙っていると大力は黒装束の内訳を説明した。鎖分銅の使い手と天井裏の者は兄弟であり、正門の開閉をした袴姿の二人だという。ヌンチャクの使い手は案内役の崔俊。戦わなかった槍使いは車の運転手。
「床から現れたヘッポコ刺客はデイルさんと会っておらん。こやつはあれでも役者をしておってな。もしデイルさんがご存知であれば話がややこしくなると言うて、顔を出さぬことにしたのだ」
「そうでしたか。役者を……」
舞台俳優かなにかの職人魂に火がつき、大げさな役回りをこなそうとしたのだろう。あの若者だけは企画倒れに終わってしまった。その事実を「ヘッポコ」と大力は評価する。男は失礼だと思いながらも正確な表現に感じた。
「桝矢基之(ますやもとゆき)……聞いたことがあるかな?」
「いえ、芸能にはとんと疎くて」
「なぁに、一般の者もよくは知らんだろうて。こやつは端役ばかりの無名同然。だからこのような場に駆り出されるのだ。人気な役者ならばスケジュールがびっちり埋まっておろう」
「でしたら、顔を見せても不都合がなかったのではありませんか」
「そうはっきりと言うてくれるな。やつにもプライドがある」
客の率直な意見に対し、大力は高らかに笑った。
徒手で挑む者はさきほど不発だったハイキックを繰り出した。男は身を屈め、一気に相手のふところに潜る。がら空きの腹に掌底を当てる。黒装束は軽く吹き飛ぶ。また一人、倒せた。
仲間の犠牲を囮あつかいするかのごとく、棍棒使いが急襲する。横薙ぎの攻撃が続いたかと思うと突きへ、突きの連続攻撃を避けると今度は棍棒が二つに分かれた。二本の棒は鎖で繋がっている。いわゆるヌンチャクだ。
(厄介だな……)
軌道が読みづらい武器だ。初めに攻撃を受けた鎖分銅は射程が長い分、一度に攻撃できる範囲がおおまかに決まった。一方でヌンチャクはフットワークが軽く、攻撃の間隔も角度も小刻みに変わる。おまけに使い手は熟練者のようだ。男が倒した二人よりも動きにキレがある。
(この人が、ツイジュンさんか?)
振るう武器のイメージと初対面の印象において、崔俊がもっとも適合する。運転手が黒装束の司令塔を担う状況もふまえ、襲撃者は男がすでに会った人たちなのかと思った。
(あまり傷つけたくない)
彼らは上の者の命令に従っているだけ。彼らの職務を全うするに足る反撃に抑える。そのために男は崔俊の武器の片割れをつかんだ。崔俊は棒を受け取るはずだった右手で手持ちの棒をすばやく握る。その勢いのまま後ろ回し蹴りを放った。
男は手刀で彼の足首を叩き落とす。無防備になった崔俊の襟首を掴む。続けざま彼の体重を支える軸足に足払いをかける。崔俊は体勢を崩す。瞬間的に抵抗ができなくなった崔俊を、男は背負い投げした。その落下地点は牽制もかねて、最初から戦闘不能だった若者にしておく。まだ足のしびれが抜けない若者と崔俊がぶつかった。
(次はだれがくる?)
男は一度負かした相手が再度襲ってくるのではないかと警戒した。だが鎖使いも、天井裏にいた者も座敷から消えている。彼らは倒れた時点で退場するよう命じられたのだろう。まるで演劇のやられ役のように。
(では……残るは運転手か)
男は開いていないふすまを見遣った。人の気配はある。機敏な動きがしづらくなっていく高年といえど、この試合のトリを務めるのか──男が推測した時、そのふすまは開いた。
一人の男性が立っている。それは運転手ではなかった。立派な袴を着た六十代以上の人物。とても生命力にあふれていて実年齢より若く感じた。その脇には黒装束がふすまに隠れるようにして片膝をついている。彼は切っ先の丸くなった槍を立てていた。おそらくは武器を持つ人物がもと運転手だ。
上等な服を着た男性が拍手する。
「いやはや、お見事! すばらしい技芸だ!」
高年の男性が入室した。それに伴い、槍を持つ黒装束も座敷へ入る。彼は内側からふすまを閉めた。
「不意打ちをしかけてすまなんだ。儂が大力だ。文句の一つも受け付けよう」
「いえ……すこしは予想できましたから」
「ふむ、こちら側に人がおるのもわかっておった様子。噂以上の逸材とみた」
大力は床の間のほうへずんずん進む。床の開いた部分は黒装束の者が元通りに直す最中だ。上から物音がするので男は見上げてみる。真っ暗な部分の天井から黒装束の顔がのぞいた。すぐに板がカコンとはさまり、穴がふさがる。もはや試合は終わった。その参加者が片付けの姿勢でいる。
(合格できたんだろうか?)
大力会長の喝采ぶりを信じれば、いまのところ評価は上々である。だが男の就職とはなんの関係もない実力テストだ。男は、高校の教師になる前段階として面会をしにきたのだ。活劇ばりの身のこなしを要求する職務に就く気はない。
大力会長は黒装束が持参した座布団に正座する。男も置きなおされた座布団に座った。位置は床が抜けた部分の畳。その修理をした黒装束が「もう抜けませんぜ」と快活に喋る。
「あ、でも心配だったらずらしてもいいっすよ?」
この口調は床下に潜伏していた若者だ。
「おかまいなく。床を外した貴方が大丈夫だというなら、信じます」
「ありゃ? オレが床下から出てきたやつだってわかるんすか」
「ええ、まあ……声で」
若者は照れたようで、肩をすくめつつ頭をかく。
「あちゃー……『お命、頂戴つかまつる』っつって、カッコつけちゃってましたもんね。外人さんならよろこぶかなーっと思って」
「よろこぶ?」
「だって忍者好きな人が多いでしょ? んでもって『畳のすきまから忍者が刀を刺してくる』なーんて信じてる人もいてさ。そのとーりのことをやってみたんですよ」
畳の縁を踏まない理由の一つとして広まっている俗説だ。忍者に多大な期待を抱く外国人には感涙ものの演出なのかもしれない。男は若者のサービス精神の旺盛さに感心する。
「お気遣い、ありがとうございます。リアクションが薄くて、残念だったでしょう?」
「いいや! こんなヘボ忍者に『ありがとう』だなんてもったいない!」
若者は手のひらをぶんぶん横に振る。そこへ槍を持った黒装束が近づく。
「話はそこまで。客人は会長と大事な用件がある」
「あ、ハイ。どうもお騒がせしました」
黒装束の二人は左右の開いたふすまと障子戸から退室し、戸を閉めていった。畳に刺さっていた小刀は回収されてある。殺陣の現場は普通の広い和室に様変わりした。
「デイルさん、足を崩されてよいぞ。儂も楽に座らせてもらう」
大力はあぐらをかいた。男はこれといって楽な姿勢がないので、正座姿を継続する。
「このままでかまいません。ところで、さきほどの黒装束の方たちにお怪我はありませんか?」
「無事だ。貴公が加減してくれたおかげでな」
大力はにやりと笑った。男が本気を出さなかったことを見抜いている。大力はどこまで男の過去を知っているのか、男は気になった。しかし本題に逸れるため不問にした。
男が黙っていると大力は黒装束の内訳を説明した。鎖分銅の使い手と天井裏の者は兄弟であり、正門の開閉をした袴姿の二人だという。ヌンチャクの使い手は案内役の崔俊。戦わなかった槍使いは車の運転手。
「床から現れたヘッポコ刺客はデイルさんと会っておらん。こやつはあれでも役者をしておってな。もしデイルさんがご存知であれば話がややこしくなると言うて、顔を出さぬことにしたのだ」
「そうでしたか。役者を……」
舞台俳優かなにかの職人魂に火がつき、大げさな役回りをこなそうとしたのだろう。あの若者だけは企画倒れに終わってしまった。その事実を「ヘッポコ」と大力は評価する。男は失礼だと思いながらも正確な表現に感じた。
「桝矢基之(ますやもとゆき)……聞いたことがあるかな?」
「いえ、芸能にはとんと疎くて」
「なぁに、一般の者もよくは知らんだろうて。こやつは端役ばかりの無名同然。だからこのような場に駆り出されるのだ。人気な役者ならばスケジュールがびっちり埋まっておろう」
「でしたら、顔を見せても不都合がなかったのではありませんか」
「そうはっきりと言うてくれるな。やつにもプライドがある」
客の率直な意見に対し、大力は高らかに笑った。
タグ:新人
2017年11月18日
拓馬篇前記−新人4
「して、貴公はまことに繁沢のもとを離れるのだな?」
繁沢とは男の上司の姓だ。上司とその一家はながらく男とともに過ごしてきた。家族にも近しい存在──とは上司の一家が思っていることだ。
「はい。もう、シゲさんたちに危険はないと思いますから」
「無いとは言い切れんぞ。ヤクザの足抜けというのは、成功例ができると困る連中がおるでな。いまだに寝首をかこうと企んでおるかもしれん」
繁沢一家は所属元の組員とそこに敵対する同業の者に恨まれ、危険にさらされる過去があった。おりしも男がやってきたのはその渦中。なしくずしに男が危険を取り除いた。そこから八年の月日が経とうとしている。男の成果なのか、ここ最近は報復の音沙汰がやんだ。しかしいつ再発するとも知れないことを、男もわかっている。
「その時は、会長が守ってくれる約束だとお聞きしましたが」
大力は多くの手練れを保有する。それらは弱者を守るための集団だという。普段の彼らは普通の会社員を装い、有事の際は警察が処理しきれない悪にも立ち向かうのだとか。そんなウソか真かわからないことを、男は繁沢から聞いた。すくなくとも警備会社を複数傘下に置く企業なので、護衛を手配できることはまちがいない。守られる側も警備業を経営している点がいびつではあるが。
「確かに約束した。だが急には対応できぬ。連中が怪しいそぶりを見せず、一気呵成に攻めてかかった時は手の打ちようがない。そんな時に貴公がいてくれれば繁沢は安心できように」
「シゲさんの許可は得ています。彼は私が教職に就くことを望んでくれています」
大力が明朗に笑む。
「そうか。その身体能力を存分に活かせぬのは惜しいが、さりとて教師が貴公の天職やもしれんしな」
大力は次に高校について話す。
「儂が繁沢に直接話をする前、数校紹介したのを覚えているか?」
「はい。パンフレットもいただきました」
まるで受験生みたいに、と男は思ったが口に出さなかった。男の実体験ではないからだ。
「迷いなく才穎高校を選んだそうだな。なぜ才穎なのだ?」
繁沢が余計なひと言を漏らしたのだと男は察した。だが上司を責めるつもりはない。彼は男によくしてくれた。繁沢が部下の本懐を遂げる援助をしたおかげで、男はこの場にいるのだ。男は失言がないよう気を払う。
「その高校はよいところだと、噂にうかがったのです」
「ほう、誰の言葉だ?」
男はまずいと思った。この質問に正直に答えたいのだが、もし厳密な調査をされれば矛盾が生じるおそれがある。
「個人名を明かさねばなりませんか?」
「聞かせてもらおう。貴公が気に病むのなら他言はせぬ」
男はその言葉を信じ、発言者を教えることにする。
「ではここだけの話にしてください。……八巻という才穎高校の教員から聞きました」
大力は若干目をきょろつかせた。なにかを思い出しているらしい。
「八巻というと、ケガで入院している人ではなかったか? 貴公の知り合いだったとは」
「いえ、たまたま出先でお会いしました。あちらは私のことを覚えていないでしょう」
「そうか……それならば儂からは伏せておこう。伝えたくなれば、貴公が復帰した八巻さんに追々言えばよい」
「それは……できないと思います」
大力が意表を突かれたかのように眉を動かす。
「できない? なにゆえに」
「彼とは一緒に教壇に立てないかもしれません。私は……一学期だけの就労を希望しています」
大力はささやかな不満を顔色に出す。
「そんな短期間だとは聞いておらんぞ」
「はい。シゲさんはずっと勤めればいいとお考えのようですが……私は、夏にはこの国を離れようと思っています」
男は変える気のない意思を見せた。大力は不思議そうに男を見る。
「この国を発つ理由は聞くまい。儂にはあずかりしらぬことよ」
「ご配慮、痛み入ります」
深く聞かれれば答えられる用意はしてあったが、質問されないほうが男の心的負担は軽い。真実は到底口に出せないからだ。
「だがものの数ヶ月だろう。出立の日までこのまま過ごせばよかろうに、なぜ教師になろうと思った?」
「せっかく教員免許を取得したのですから、最後に活かしたいと思いました」
「繁沢の無念を晴らそうとしてか?」
正確には繁沢の息子の無念だ。男は憐れな青年のことを思うと目を伏せた。その気持ちが大力に伝わり、「事情は聞いておる」と優しげな声をかけられる。
「繁沢の息子は教師になりたかったそうだな。その障害にならぬように繁沢は足を洗おうとしたと……」
「そう、聞いています」
「だが繁沢が足抜けする前に息子が闘争に巻き込まれ、落命した。そのことを繁沢は死ぬまで悔いるだろうな」
「私も、そう思います」
男にも多少の後悔はある。男は繁沢の子の死後にこの国へ来た。その到着時期は男が選んだものではないが、早期にたどりついていれば青年を守れただろうに、としばしば考える。
「私がシゲさんに『戦う以外の仕事ができるとしたら』とたずねたところ、教師を勧められました。息子さんの生き様を、多少なりとも意味のあるかたちに残したかったのだと思います」
大力があぐらの右膝に肘をつき、あごを手で支える。その顔は笑っている。
「故人を出されてはかなわんな」
「情に訴える気はなかったのですが──」
「いや、そんな意地悪な批判をしたいのではない。貴公はじつに清く、まっすぐな男だ」
男は大力の人物評を心苦しく思った。自分は、大力に本心を隠す卑怯者だというのに。
「私は、そのような身綺麗な人間ではありません」
「卑下をするな。だれしも他人には言えぬ秘め事を抱えておる」
大力はこれまで訳ありの者を庇い続けてきたという。繁沢一家もその範疇にある。大力の言葉には重みがあった。
「純然たる白さを持つのは赤子のうちだけ……だが白に近い灰色を保つ大人はいる。貴公の髪の色のようにな」
大力は得意気に両腕を組む。
「貴公の斡旋、しかとこの大力が承ったぞ」
「よろしいのですか? 私の教員としての知能や指導力を問われなくて」
筆記試験くらいやるのでは、と男は思い、文具を持ってきた。それは採用する高校側が出題する試験だとも思うが、大力会長ならなんでもアリだと想定していた。
「『教師の素質を見る』などと言ったやもしれんがな。あれは方便だ」
「方便……ですか」
「教員免許を取った者には最低限の能力が備わっていよう。儂のような素人が適格不適格を決めおおせられるものではない。儂は貴公の心根が知りたかっただけよ」
ついでに強さも、と大力はいたずらめいて言った。男はそちらがおもに鑑定したかった事項ではないかと勘繰る。
「私の思いを探るために、刺客を五人も用意する必要があったのですか?」
「はっはっは! それは純粋な儂の趣味だな」
大力は悪びれる様子なく笑った。男が呆れる。
「あのような腕試しは、普通の方にはおやりになりませんように……」
「わかっておる。貴公が鬼神のごとき強者(つわもの)だと聞き及んでおったからああしたのだ。並みの武芸家であれば刺客は二人に抑えておく」
「それでも、やるんですね……」
男の控えめな指摘を受けた大力はまた大笑いした。すると廊下から物音がする。ふすまがすっと開いた。
「楽しそうにしてますのね」
一人の少女が正座した姿で現れる。年頃は中学生か。彼女は長袖のワンピースを着ている。女中とは異なる風貌だ。蓋をした湯飲みと菓子入れの器が乗った盆が彼女の手元にある。
「お茶をご用意しました」
「なぜお前が茶請けなぞ運んでおる」
大力は少女が雑用をこなすことに難色を示した。雇われの者ではないらしい。
(娘さんか? ずいぶん歳が離れているな)
男の予想は的中し、大力は少女を自分の娘だと紹介した。
「タマオという。漢字は土を二つ縦に重ねた『圭』と、下駄の鼻緒の『緒』……と言って、想像がつくかな」
「はい。ケイ……と読めるほうのタマですか」
男がみずから発した響きは男の心中に深く刺さる。忘れがたい恩人の名だ。男の人格の多くを、その人によって形成された。男にとってのもう一人の親にあたる。
ぐうぜん恩人と同じ漢字を名付けられた少女が男に近づく。目の前に湯飲みを置いた。男は懐かしい思いをこめて少女をながめる。
(ケイ……)
男と圭緒の目が合う。少女は恥ずかしがって下を向いた。大力が咳払いする。
「うむ、大事な話は終わったところだ。お前も加わる……つもりか?」
大力が問うと圭緒はあわてて顔を上げた。やわらかく笑う。
「はい。教師になりたがっているお方ですもの。きっとお姉さまのご興味のあるお話が聞けます」
「イオのためにか。うまいことを言う」
大力は娘の申し出を聞き入れた。「デイルさんもよろしいか」と聞くので、男はこころよく了承した。
繁沢とは男の上司の姓だ。上司とその一家はながらく男とともに過ごしてきた。家族にも近しい存在──とは上司の一家が思っていることだ。
「はい。もう、シゲさんたちに危険はないと思いますから」
「無いとは言い切れんぞ。ヤクザの足抜けというのは、成功例ができると困る連中がおるでな。いまだに寝首をかこうと企んでおるかもしれん」
繁沢一家は所属元の組員とそこに敵対する同業の者に恨まれ、危険にさらされる過去があった。おりしも男がやってきたのはその渦中。なしくずしに男が危険を取り除いた。そこから八年の月日が経とうとしている。男の成果なのか、ここ最近は報復の音沙汰がやんだ。しかしいつ再発するとも知れないことを、男もわかっている。
「その時は、会長が守ってくれる約束だとお聞きしましたが」
大力は多くの手練れを保有する。それらは弱者を守るための集団だという。普段の彼らは普通の会社員を装い、有事の際は警察が処理しきれない悪にも立ち向かうのだとか。そんなウソか真かわからないことを、男は繁沢から聞いた。すくなくとも警備会社を複数傘下に置く企業なので、護衛を手配できることはまちがいない。守られる側も警備業を経営している点がいびつではあるが。
「確かに約束した。だが急には対応できぬ。連中が怪しいそぶりを見せず、一気呵成に攻めてかかった時は手の打ちようがない。そんな時に貴公がいてくれれば繁沢は安心できように」
「シゲさんの許可は得ています。彼は私が教職に就くことを望んでくれています」
大力が明朗に笑む。
「そうか。その身体能力を存分に活かせぬのは惜しいが、さりとて教師が貴公の天職やもしれんしな」
大力は次に高校について話す。
「儂が繁沢に直接話をする前、数校紹介したのを覚えているか?」
「はい。パンフレットもいただきました」
まるで受験生みたいに、と男は思ったが口に出さなかった。男の実体験ではないからだ。
「迷いなく才穎高校を選んだそうだな。なぜ才穎なのだ?」
繁沢が余計なひと言を漏らしたのだと男は察した。だが上司を責めるつもりはない。彼は男によくしてくれた。繁沢が部下の本懐を遂げる援助をしたおかげで、男はこの場にいるのだ。男は失言がないよう気を払う。
「その高校はよいところだと、噂にうかがったのです」
「ほう、誰の言葉だ?」
男はまずいと思った。この質問に正直に答えたいのだが、もし厳密な調査をされれば矛盾が生じるおそれがある。
「個人名を明かさねばなりませんか?」
「聞かせてもらおう。貴公が気に病むのなら他言はせぬ」
男はその言葉を信じ、発言者を教えることにする。
「ではここだけの話にしてください。……八巻という才穎高校の教員から聞きました」
大力は若干目をきょろつかせた。なにかを思い出しているらしい。
「八巻というと、ケガで入院している人ではなかったか? 貴公の知り合いだったとは」
「いえ、たまたま出先でお会いしました。あちらは私のことを覚えていないでしょう」
「そうか……それならば儂からは伏せておこう。伝えたくなれば、貴公が復帰した八巻さんに追々言えばよい」
「それは……できないと思います」
大力が意表を突かれたかのように眉を動かす。
「できない? なにゆえに」
「彼とは一緒に教壇に立てないかもしれません。私は……一学期だけの就労を希望しています」
大力はささやかな不満を顔色に出す。
「そんな短期間だとは聞いておらんぞ」
「はい。シゲさんはずっと勤めればいいとお考えのようですが……私は、夏にはこの国を離れようと思っています」
男は変える気のない意思を見せた。大力は不思議そうに男を見る。
「この国を発つ理由は聞くまい。儂にはあずかりしらぬことよ」
「ご配慮、痛み入ります」
深く聞かれれば答えられる用意はしてあったが、質問されないほうが男の心的負担は軽い。真実は到底口に出せないからだ。
「だがものの数ヶ月だろう。出立の日までこのまま過ごせばよかろうに、なぜ教師になろうと思った?」
「せっかく教員免許を取得したのですから、最後に活かしたいと思いました」
「繁沢の無念を晴らそうとしてか?」
正確には繁沢の息子の無念だ。男は憐れな青年のことを思うと目を伏せた。その気持ちが大力に伝わり、「事情は聞いておる」と優しげな声をかけられる。
「繁沢の息子は教師になりたかったそうだな。その障害にならぬように繁沢は足を洗おうとしたと……」
「そう、聞いています」
「だが繁沢が足抜けする前に息子が闘争に巻き込まれ、落命した。そのことを繁沢は死ぬまで悔いるだろうな」
「私も、そう思います」
男にも多少の後悔はある。男は繁沢の子の死後にこの国へ来た。その到着時期は男が選んだものではないが、早期にたどりついていれば青年を守れただろうに、としばしば考える。
「私がシゲさんに『戦う以外の仕事ができるとしたら』とたずねたところ、教師を勧められました。息子さんの生き様を、多少なりとも意味のあるかたちに残したかったのだと思います」
大力があぐらの右膝に肘をつき、あごを手で支える。その顔は笑っている。
「故人を出されてはかなわんな」
「情に訴える気はなかったのですが──」
「いや、そんな意地悪な批判をしたいのではない。貴公はじつに清く、まっすぐな男だ」
男は大力の人物評を心苦しく思った。自分は、大力に本心を隠す卑怯者だというのに。
「私は、そのような身綺麗な人間ではありません」
「卑下をするな。だれしも他人には言えぬ秘め事を抱えておる」
大力はこれまで訳ありの者を庇い続けてきたという。繁沢一家もその範疇にある。大力の言葉には重みがあった。
「純然たる白さを持つのは赤子のうちだけ……だが白に近い灰色を保つ大人はいる。貴公の髪の色のようにな」
大力は得意気に両腕を組む。
「貴公の斡旋、しかとこの大力が承ったぞ」
「よろしいのですか? 私の教員としての知能や指導力を問われなくて」
筆記試験くらいやるのでは、と男は思い、文具を持ってきた。それは採用する高校側が出題する試験だとも思うが、大力会長ならなんでもアリだと想定していた。
「『教師の素質を見る』などと言ったやもしれんがな。あれは方便だ」
「方便……ですか」
「教員免許を取った者には最低限の能力が備わっていよう。儂のような素人が適格不適格を決めおおせられるものではない。儂は貴公の心根が知りたかっただけよ」
ついでに強さも、と大力はいたずらめいて言った。男はそちらがおもに鑑定したかった事項ではないかと勘繰る。
「私の思いを探るために、刺客を五人も用意する必要があったのですか?」
「はっはっは! それは純粋な儂の趣味だな」
大力は悪びれる様子なく笑った。男が呆れる。
「あのような腕試しは、普通の方にはおやりになりませんように……」
「わかっておる。貴公が鬼神のごとき強者(つわもの)だと聞き及んでおったからああしたのだ。並みの武芸家であれば刺客は二人に抑えておく」
「それでも、やるんですね……」
男の控えめな指摘を受けた大力はまた大笑いした。すると廊下から物音がする。ふすまがすっと開いた。
「楽しそうにしてますのね」
一人の少女が正座した姿で現れる。年頃は中学生か。彼女は長袖のワンピースを着ている。女中とは異なる風貌だ。蓋をした湯飲みと菓子入れの器が乗った盆が彼女の手元にある。
「お茶をご用意しました」
「なぜお前が茶請けなぞ運んでおる」
大力は少女が雑用をこなすことに難色を示した。雇われの者ではないらしい。
(娘さんか? ずいぶん歳が離れているな)
男の予想は的中し、大力は少女を自分の娘だと紹介した。
「タマオという。漢字は土を二つ縦に重ねた『圭』と、下駄の鼻緒の『緒』……と言って、想像がつくかな」
「はい。ケイ……と読めるほうのタマですか」
男がみずから発した響きは男の心中に深く刺さる。忘れがたい恩人の名だ。男の人格の多くを、その人によって形成された。男にとってのもう一人の親にあたる。
ぐうぜん恩人と同じ漢字を名付けられた少女が男に近づく。目の前に湯飲みを置いた。男は懐かしい思いをこめて少女をながめる。
(ケイ……)
男と圭緒の目が合う。少女は恥ずかしがって下を向いた。大力が咳払いする。
「うむ、大事な話は終わったところだ。お前も加わる……つもりか?」
大力が問うと圭緒はあわてて顔を上げた。やわらかく笑う。
「はい。教師になりたがっているお方ですもの。きっとお姉さまのご興味のあるお話が聞けます」
「イオのためにか。うまいことを言う」
大力は娘の申し出を聞き入れた。「デイルさんもよろしいか」と聞くので、男はこころよく了承した。
タグ:新人
2017年11月19日
拓馬篇前記−新人5
イオという娘は教師を目指しているのだと大力が説明した。彼女はまだ高校生。いずれ教師業に就く際の参考として、妹の圭緒が二人の会話に同席することになった。──というのは建前だ。圭緒は父親がいたく心待ちにした人物が気になり、女中の仕事を代わりに引き受けてきたのだという。
「お父さまが心なしかはしゃいでいたんです。ひょっとして熊みたいにいかついお方かと思ったのですけど、案外スレンダーでいらっしゃるのですね」
初対面の感想を述べた圭緒は敷物なしで横座りした。男が「座布団を使いますか」と自分の真下にある座布団を引き抜こうとすると、彼女は首を横にふる。
「招いたお客さまを地べたに座らせるわけにいきません。大力家の恥になります」
「そうですか……」
家の名を汚すようなことなのかと男は疑問を感じた。しかし家の流儀に他人が口出ししては失礼にあたる。男はやむをえず居住まいを正した。男の得心がいかない様子を見た圭緒が笑顔をつくる。
「お気になさらず。冬場はいつも冷たい木の床に正座させられていますもの。畳のほうがあたたかいし柔らかくて、ずっと快適です」
お嬢さまらしからぬ苦行の告白だ。男はその親の顔をじっと見た。大力は「人聞きのわるいことを」と苦笑する。
「道場の稽古が苦痛か?」
「ええ、暖房がきいてない早朝は床が冷えてて、イヤです」
「しょうのないやつだ。ではもう三十分は早く道場の暖房をつけさせよう」
圭緒は鈴を転がすように笑った。
「もう三月ですよ。これから暖かい春になるんですもの。そう指示なさるのにはおそすぎます」
「お前が言わなかったせいだろう」
親子の平和な小競り合いがはじまった。子が親の指示を守りながらも「イヤだ」と言えるのは良好な関係を築けている証拠だ。男は大力が厳格な父親だろうとうっすら想像していたが、実際はその真逆。彼は子に理解のある親のようだ。
(『道場の稽古』……空手や剣道か?)
男は圭緒がなんらかの武術を習っているのだと推測する。
(強い者が好きな親だからか……)
親の勧めでやっている習い事なのだろう。「正座させられている」との口ぶりは、自分の望みで習っていないという意思表示に受け取れる。
(自分から『やりたい』という子は、そんな不満を言わなさそうだ)
親が半強制的にやらせる一方で、子が武術を習いたくとも親が拒む家庭がある。世の中、丸くおさまらないものだと思う。
「や、デイルさんが蚊帳の外になってしまったな」
「いえ、興味深く拝聴しておりました。娘さんは武術を習っていらっしゃるのですか?」
「そうだ。このご時世、女も強くあらねばならん。常に護衛をつけることはむずかしいゆえ、自衛の手段を学ばせておる」
「娘さんを大切に思うから、そうなさるのですね」
大力は目を丸くした。すぐににこやかな顔つきにもどる。
「そう言われると、こそばゆいが……おっしゃる通りだ。中には『子どもに武道を習わせると怪我をするからさせない』という親もいるが、その価値観は人それぞれだな」
どこかで聞いた話だ。だが男は大力の話に乗っからない。不用意な発言は己が首を絞めることになりかねなかった。
「子が一生、盗人や暴漢に遭わぬと知っておれば護身術を身につけさせる必要はない。いたずらにつらく、痛い思いをさせてしまうのでな。それはわかるのだ」
「はい。その考えがまちがいとは言えないと思います」
「だが儂は不慮の事故、危険はあって当然だと思っておる。その時に被害を軽くする準備がしておけるなら……全力を賭す価値はある」
ただし欠点もある、と大力は言う。
「戦うすべがあると自負するから、厄介事に首をつっこんでしまうやからもいる。貴公が行こうとする才穎高校の生徒がそうだ。武術の心得のある子らが、素行の悪い子らと戦う事件が起きた」
「強さが、また別の危険を引き寄せてしまうのですね」
「そういうことだ。かくいう儂の娘のイオも、負けん気が強いというのか……関わらんでもいいもめごとを解決しようとして、危険にぶつかっていく時があってな。気が気でない」
圭緒がふふっと笑う。
「だから、デイルさんに薦める就職先にお姉さまの高校を混ぜたのですよね?」
大力はバツが悪そうにうなずく。
「お恥ずかしいが、貴公に儂の娘を見守ってもらえれば助かると思ったのは事実だ。この時は羽田さんの近況を知らなかったのでな」
「そうだったのですね。期待に沿えず、申し訳ありません」
大力は首をゆっくり横にふる。
「なにをいう。儂の娘の護衛なぞ、儂が個人的に雇えばすむことだ。だが才穎高校の生徒はそうもいかん。貴公が才穎に行けばそこの生徒たちと教員らが救われる。そちらのほうが何倍も有意義であろう」
男は大力の意見に同意した。大力の見解は正論だと思うし、なにより男の願望に沿っていた。
「おそらく羽田さんと儂の思考は共通しておる。貴公が才穎の面接におもむいたとして、不採用になることはあるまい。たった一学期だけの勤務でも先方は熱望しておる人材だ。その後は八巻という教師が引き継げばよかろうしな」
「はい」
「だが一点、細心の注意を払うべきことがある」
大力の目つきがするどくなる。男の弱点を見透かすかのようだ。
「もし教師を志した理由を問われた時、儂に言ったことをそのまま明かしてはダメだ。貴公の過去は物々しすぎる。ありのままに喋ったなら、貴公が危険な人物だと思われかねん」
大力の忠告はもっともだ。大力は荒くれ者の世界に理解があるために男を危険視していない。その認識は特殊なのだ。一般人の享受する世界では、別世界の理解を求める前に排除される。
「誤解を与えてしまうと学校側が採用できなくなる。教師連中が貴公を仲間だと認めても、生徒やその親が認める保証はない。どこの地域にも異質な職員を歓迎せぬ者がいる──いかに貴公が優れた教師であろうと、その現在以上に不穏な過去を重く見る人間がな」
「はい……」
「嘆かわしいことよな。貴公に『ウソつきになれ』と勧めたくはないが……せめて、言わずにすむことは隠しておけ。それが世渡りというものだ」
男はうなずくことで戒めの言葉を肯定した。大力の表情が和らぐ。
「うかつに過去をさらけ出さなければ、ほかに恐れるものはあるまいて。もう一押し、才穎に受かる手段を教えておこう」
大力はかるく吹き出すふうに笑う。
「羽田さんは男女の恋愛にいたく関心のある御仁だ。貴公が才穎の女教師なり女子生徒なりとの因縁を匂わせてみよ。きっと羽田さんの心を鷲掴みするぞ」
圭緒が「まあ」と口元を両手で覆う。隠した表情はにやついていた。
「よろしいんですか? まるで女性が目当てで行かれるような思い違いを──」
「なに、どこぞで会った話したという程度でよい。あとは羽田さんのほうで勝手に膨らませてくれよう」
大力は大真面目に「儂がこう言ったとは告げるなよ」と男に警告する。男はにっこり笑い、「承知しました」と助言者の顔を立てた。
「お父さまが心なしかはしゃいでいたんです。ひょっとして熊みたいにいかついお方かと思ったのですけど、案外スレンダーでいらっしゃるのですね」
初対面の感想を述べた圭緒は敷物なしで横座りした。男が「座布団を使いますか」と自分の真下にある座布団を引き抜こうとすると、彼女は首を横にふる。
「招いたお客さまを地べたに座らせるわけにいきません。大力家の恥になります」
「そうですか……」
家の名を汚すようなことなのかと男は疑問を感じた。しかし家の流儀に他人が口出ししては失礼にあたる。男はやむをえず居住まいを正した。男の得心がいかない様子を見た圭緒が笑顔をつくる。
「お気になさらず。冬場はいつも冷たい木の床に正座させられていますもの。畳のほうがあたたかいし柔らかくて、ずっと快適です」
お嬢さまらしからぬ苦行の告白だ。男はその親の顔をじっと見た。大力は「人聞きのわるいことを」と苦笑する。
「道場の稽古が苦痛か?」
「ええ、暖房がきいてない早朝は床が冷えてて、イヤです」
「しょうのないやつだ。ではもう三十分は早く道場の暖房をつけさせよう」
圭緒は鈴を転がすように笑った。
「もう三月ですよ。これから暖かい春になるんですもの。そう指示なさるのにはおそすぎます」
「お前が言わなかったせいだろう」
親子の平和な小競り合いがはじまった。子が親の指示を守りながらも「イヤだ」と言えるのは良好な関係を築けている証拠だ。男は大力が厳格な父親だろうとうっすら想像していたが、実際はその真逆。彼は子に理解のある親のようだ。
(『道場の稽古』……空手や剣道か?)
男は圭緒がなんらかの武術を習っているのだと推測する。
(強い者が好きな親だからか……)
親の勧めでやっている習い事なのだろう。「正座させられている」との口ぶりは、自分の望みで習っていないという意思表示に受け取れる。
(自分から『やりたい』という子は、そんな不満を言わなさそうだ)
親が半強制的にやらせる一方で、子が武術を習いたくとも親が拒む家庭がある。世の中、丸くおさまらないものだと思う。
「や、デイルさんが蚊帳の外になってしまったな」
「いえ、興味深く拝聴しておりました。娘さんは武術を習っていらっしゃるのですか?」
「そうだ。このご時世、女も強くあらねばならん。常に護衛をつけることはむずかしいゆえ、自衛の手段を学ばせておる」
「娘さんを大切に思うから、そうなさるのですね」
大力は目を丸くした。すぐににこやかな顔つきにもどる。
「そう言われると、こそばゆいが……おっしゃる通りだ。中には『子どもに武道を習わせると怪我をするからさせない』という親もいるが、その価値観は人それぞれだな」
どこかで聞いた話だ。だが男は大力の話に乗っからない。不用意な発言は己が首を絞めることになりかねなかった。
「子が一生、盗人や暴漢に遭わぬと知っておれば護身術を身につけさせる必要はない。いたずらにつらく、痛い思いをさせてしまうのでな。それはわかるのだ」
「はい。その考えがまちがいとは言えないと思います」
「だが儂は不慮の事故、危険はあって当然だと思っておる。その時に被害を軽くする準備がしておけるなら……全力を賭す価値はある」
ただし欠点もある、と大力は言う。
「戦うすべがあると自負するから、厄介事に首をつっこんでしまうやからもいる。貴公が行こうとする才穎高校の生徒がそうだ。武術の心得のある子らが、素行の悪い子らと戦う事件が起きた」
「強さが、また別の危険を引き寄せてしまうのですね」
「そういうことだ。かくいう儂の娘のイオも、負けん気が強いというのか……関わらんでもいいもめごとを解決しようとして、危険にぶつかっていく時があってな。気が気でない」
圭緒がふふっと笑う。
「だから、デイルさんに薦める就職先にお姉さまの高校を混ぜたのですよね?」
大力はバツが悪そうにうなずく。
「お恥ずかしいが、貴公に儂の娘を見守ってもらえれば助かると思ったのは事実だ。この時は羽田さんの近況を知らなかったのでな」
「そうだったのですね。期待に沿えず、申し訳ありません」
大力は首をゆっくり横にふる。
「なにをいう。儂の娘の護衛なぞ、儂が個人的に雇えばすむことだ。だが才穎高校の生徒はそうもいかん。貴公が才穎に行けばそこの生徒たちと教員らが救われる。そちらのほうが何倍も有意義であろう」
男は大力の意見に同意した。大力の見解は正論だと思うし、なにより男の願望に沿っていた。
「おそらく羽田さんと儂の思考は共通しておる。貴公が才穎の面接におもむいたとして、不採用になることはあるまい。たった一学期だけの勤務でも先方は熱望しておる人材だ。その後は八巻という教師が引き継げばよかろうしな」
「はい」
「だが一点、細心の注意を払うべきことがある」
大力の目つきがするどくなる。男の弱点を見透かすかのようだ。
「もし教師を志した理由を問われた時、儂に言ったことをそのまま明かしてはダメだ。貴公の過去は物々しすぎる。ありのままに喋ったなら、貴公が危険な人物だと思われかねん」
大力の忠告はもっともだ。大力は荒くれ者の世界に理解があるために男を危険視していない。その認識は特殊なのだ。一般人の享受する世界では、別世界の理解を求める前に排除される。
「誤解を与えてしまうと学校側が採用できなくなる。教師連中が貴公を仲間だと認めても、生徒やその親が認める保証はない。どこの地域にも異質な職員を歓迎せぬ者がいる──いかに貴公が優れた教師であろうと、その現在以上に不穏な過去を重く見る人間がな」
「はい……」
「嘆かわしいことよな。貴公に『ウソつきになれ』と勧めたくはないが……せめて、言わずにすむことは隠しておけ。それが世渡りというものだ」
男はうなずくことで戒めの言葉を肯定した。大力の表情が和らぐ。
「うかつに過去をさらけ出さなければ、ほかに恐れるものはあるまいて。もう一押し、才穎に受かる手段を教えておこう」
大力はかるく吹き出すふうに笑う。
「羽田さんは男女の恋愛にいたく関心のある御仁だ。貴公が才穎の女教師なり女子生徒なりとの因縁を匂わせてみよ。きっと羽田さんの心を鷲掴みするぞ」
圭緒が「まあ」と口元を両手で覆う。隠した表情はにやついていた。
「よろしいんですか? まるで女性が目当てで行かれるような思い違いを──」
「なに、どこぞで会った話したという程度でよい。あとは羽田さんのほうで勝手に膨らませてくれよう」
大力は大真面目に「儂がこう言ったとは告げるなよ」と男に警告する。男はにっこり笑い、「承知しました」と助言者の顔を立てた。
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