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2017年10月06日
拓馬篇前記−拓馬1
寒い時期だった。気軽に外を出歩くには時期尚早。遊びに出かけるとしても快適な場所を求めるのが人情だ。その思いはなんぴとであろうと尊重されるべきである。だが──
「申しわけないが、よそへ行ってもらえるか? ほかの客がキミたちをおそれているんだ」
毅然とした態度の男子高校生が言った。呼びかけた相手は同年代の男子。他校の制服を着た、不良然とした男子三人だ。彼らはデパートの飲食コーナーにて乱雑に椅子と机に座っている。その行ないが常習化してから数ヶ月が経過した。
不良らがいる場所は客が自由に座ってよい一画だ。とはいえ、ゴロツキまがいの男子らが好き勝手に騒いぐことは本来の用途ではない。当然、従業員は彼らに注意した。しかし効き目はなかった。店の者が対応しきれないならば警察を頼るところだが、警察沙汰にするのは大げさであると判断されたらしい。その判断は従業員がくだしたのか、警察が決めつけたのかは不明だ。決定打がないまま、月日が無為に流れた。
この現状を聞きつけ、奮起した者がいる。その人物はたったいま、かの問題児たちに陳情を申し出た少年だ。彼は仙谷(せんたに)三郎という。現在は剣道部に所属する、正義感あふれる男だ。
三郎はほかに三人のお供を連れてきた。いずれも彼と同じ高校の同級生、かつ武技を学んだ友人たち。
三郎が友人を同伴した理由は不良の総数にある。相手方は四人。もし喧嘩沙汰になった場合、対等に渡り合えるよう対策した結果だ。もちろん話し合いで済ませたいと仙谷は考えていた。幸運にも不良は一人不在。荒事は回避できそうだった。
三郎の提言を受け、不良が一人動いた。刈り上げ頭が特徴的だ。不良は立ち退きを指示した少年にせまる。その接近ぶりはまるでハグをするかのよう。しかしそんな好意的な感情はだれも持ち合わせていない。至近距離でにらみ合うことで、互いの胆力を試そうとしているのだ。
三郎は不快を感じる間合いに入られる。後ずさりしたい体の衝動をこらえた。目の前にはニヤニヤした男子の顔がある。憎たらしいその顔に、強固な意志を見せつける。
「キミたちに居座られると客足が遠のくそうだ。お店の人が迷惑するから、どうか聞き入れてほしい」
「見返りは?」
「なに?」
「タダでどっか行ってもらおうってのはムシが良すぎやしないか?」
不良は理屈に合わない自論を振りかざした。三郎は要求は飲めないとばかりに首を横に振る。
「こちらから渡すものはなにもない。お金が欲しいならバイトでもしたらいいだろう」
「そんなことするツラに見える?」
「どんな顔であろうと人は働けるとも」
不良は苛立たしげに「んなことは聞いちゃいないんだよ!」と声を荒げる。
「この寒空で! 金もなしにどこ行けって言うんだ?」
「家や図書館、候補はいくらでも──」
「だから! ガラじゃないっつってんだよ!」
刈り上げの不良が拳を振りあげる。攻撃動作を見た三郎は無意識に体を動かしていた。ガタガタと椅子のひっくり返る音が響く。
椅子にぶつかったのは不良のほうだ。三郎はつい相手のみぞおちを殴打してしまった。その反応は彼の身に染みつく武芸の片鱗だった。剣道以外にも武術は体得していた。
「や、すまない。痛めつけるつもりはなかったんだが……」
三郎は丁寧に詫びた。だがその律儀さがかえって不良たちの闘志を燃えさせる。残る二人も立ちあがった。この二人は仲間を転倒させた三郎めがけて接近する。それを体格のよい男子がさえぎる。
「わしも混ぜとくれや」
三郎の友の一人は剛胆な笑みを浮かべた。彼も不良たちの標的となる。三郎は、最悪の事態に備えた仲間を動員せざるをえなくなった。その背後で、「はぁ」というべつの男子のため息が漏れる。彼は
「申しわけないが、よそへ行ってもらえるか? ほかの客がキミたちをおそれているんだ」
毅然とした態度の男子高校生が言った。呼びかけた相手は同年代の男子。他校の制服を着た、不良然とした男子三人だ。彼らはデパートの飲食コーナーにて乱雑に椅子と机に座っている。その行ないが常習化してから数ヶ月が経過した。
不良らがいる場所は客が自由に座ってよい一画だ。とはいえ、ゴロツキまがいの男子らが好き勝手に騒いぐことは本来の用途ではない。当然、従業員は彼らに注意した。しかし効き目はなかった。店の者が対応しきれないならば警察を頼るところだが、警察沙汰にするのは大げさであると判断されたらしい。その判断は従業員がくだしたのか、警察が決めつけたのかは不明だ。決定打がないまま、月日が無為に流れた。
この現状を聞きつけ、奮起した者がいる。その人物はたったいま、かの問題児たちに陳情を申し出た少年だ。彼は仙谷(せんたに)三郎という。現在は剣道部に所属する、正義感あふれる男だ。
三郎はほかに三人のお供を連れてきた。いずれも彼と同じ高校の同級生、かつ武技を学んだ友人たち。
三郎が友人を同伴した理由は不良の総数にある。相手方は四人。もし喧嘩沙汰になった場合、対等に渡り合えるよう対策した結果だ。もちろん話し合いで済ませたいと仙谷は考えていた。幸運にも不良は一人不在。荒事は回避できそうだった。
三郎の提言を受け、不良が一人動いた。刈り上げ頭が特徴的だ。不良は立ち退きを指示した少年にせまる。その接近ぶりはまるでハグをするかのよう。しかしそんな好意的な感情はだれも持ち合わせていない。至近距離でにらみ合うことで、互いの胆力を試そうとしているのだ。
三郎は不快を感じる間合いに入られる。後ずさりしたい体の衝動をこらえた。目の前にはニヤニヤした男子の顔がある。憎たらしいその顔に、強固な意志を見せつける。
「キミたちに居座られると客足が遠のくそうだ。お店の人が迷惑するから、どうか聞き入れてほしい」
「見返りは?」
「なに?」
「タダでどっか行ってもらおうってのはムシが良すぎやしないか?」
不良は理屈に合わない自論を振りかざした。三郎は要求は飲めないとばかりに首を横に振る。
「こちらから渡すものはなにもない。お金が欲しいならバイトでもしたらいいだろう」
「そんなことするツラに見える?」
「どんな顔であろうと人は働けるとも」
不良は苛立たしげに「んなことは聞いちゃいないんだよ!」と声を荒げる。
「この寒空で! 金もなしにどこ行けって言うんだ?」
「家や図書館、候補はいくらでも──」
「だから! ガラじゃないっつってんだよ!」
刈り上げの不良が拳を振りあげる。攻撃動作を見た三郎は無意識に体を動かしていた。ガタガタと椅子のひっくり返る音が響く。
椅子にぶつかったのは不良のほうだ。三郎はつい相手のみぞおちを殴打してしまった。その反応は彼の身に染みつく武芸の片鱗だった。剣道以外にも武術は体得していた。
「や、すまない。痛めつけるつもりはなかったんだが……」
三郎は丁寧に詫びた。だがその律儀さがかえって不良たちの闘志を燃えさせる。残る二人も立ちあがった。この二人は仲間を転倒させた三郎めがけて接近する。それを体格のよい男子がさえぎる。
「わしも混ぜとくれや」
三郎の友の一人は剛胆な笑みを浮かべた。彼も不良たちの標的となる。三郎は、最悪の事態に備えた仲間を動員せざるをえなくなった。その背後で、「はぁ」というべつの男子のため息が漏れる。彼は
タグ:拓馬
2017年10月10日
拓馬篇前記ー拓馬2
三郎は刈り上げの不良に危害を加えた。身を守るため、という正当な理由はあったが、この状況において正論はなんの免罪符にもならない。なし崩しに乱闘へ発展した。
場所固定されていない机と椅子が、少年らの動きと連動する。左へ右へとずれていき、いびつな空きスペースが広がった。
さいわいにして無法地帯な空間は思った以上に小さくおさまった。三郎の攻撃を食らった不良は一発で伸びており、応戦できる不良は二人だけだ。
戦闘中の不良は片方が巨漢、片方が長身。身体的特徴がはっきりわかれている。二人とも多勢に無勢ながらも最初は余裕の笑みを浮かべていた。だがすぐに人数差以上の不利を感じたようだった。拳も蹴りも、三郎らは苦もなくいなしていく。相手がやわな一般人でないと察した不良は逃げ腰になった。
それもそのはず、三郎陣営は長く武芸に親しむ者ばかり。鍛錬もせずに遊興にふける者よりは幾分有利だ。ネックは紅一点のヤマダだけ。彼女は母親の教育方針により武道を正式に習えておらず、周囲の心得者がこっそり教えた範囲でしかうまく戦えない。なのに問題事に首をつっこみたがるという困った性格だ。そのため、彼女と古馴染みである拓馬はその保護を第一目的として同行した。むろん彼女が敵の標的に出ぬよう、拓馬は自身を盾にして立ち回る。だが実質的には拓馬もまた守られていた。
今回の件は三郎とその相方のジモンの腕自慢コンビが率先して取り組んでいる。拓馬とヤマダは彼らの補佐的役割を担う。それゆえ、拓馬たち二人は格闘技における審判のような動作をするだけで相手方の敗色が濃厚になってきた。あとは不良らが負けを認め、退散するきっかけを作れば目的は達成できる。だがそれがもっとも厄介だ。三郎らの呼びかけに素直に応える連中とは思えず、下手な交渉は火に油を注ぐことになりかねない。喧嘩の口火を切った原因が、三郎の問答にあったように。
(大人が止めにきてくれればなぁ)
警備員なり売り場の従業員なりが仲裁に入り、少年たちはすごすごと帰宅する。そんな脚本を拓馬は思い描いた。即興で筋書きの代行者になりうる人物を目で捜してみる。飲食コーナー担当の従業員はカウンターの奥へ引っ込んでいたり、警備員は所在不明であったり、通路にいる買い物客は遠巻きに見物していたりする。見込みのない大人ばかりだ。
(──そんなんだから、こいつらが好き勝手にできたんだろうな)
拓馬は脱力感に見舞われる。今度同じ状況を迎える時は知り合いの大人も同伴してもらうかと考え、事なかれ主義の人間をあてにしないと決めた。
意識を交戦の場へもどすと、その奥に異様な人影を発見する。ひときわ体格がすぐれる男性だ。背丈は二メートルあるのだろうか、とにかく高い。少年らの中ではジモンがいちばん筋骨隆々な体つきであるが、彼を優に超すいかめしさがある。重量級の格闘家のような人物は鍔つきの帽子を目深に被っている。帽子の鍔と顔のうつむき加減のせいで表情はよくわからない。ただ、その視線は喧嘩の真っ最中にある少年らには向かっておらず、一歩引いた位置に立つ拓馬に向けているようだった。
(なんで、俺を?)
普通は乱闘に注目するのではないか。その不可思議さが一抹の気味悪さに通じた。
男性は拓馬の疑惑のまなざしに勘付いたのか、ゆっくり顔を背けた。そうして床に転がりっぱなしの不良の背後へ回る。刈り上げの不良は三郎の打撃以外にも転倒時にあちこち負傷したようで、なかなか立ち上がれないでいた。その頭に男性の大きな手がぽんと乗る。二、三回かるくタッチすると、不良はむっくりと起き上がった。自身の体をあちこち触ってみて「痛くない?」と困惑した声をもらす。どういうわけだか、元気を取り戻したらしい。
戦闘不能だった者へ拓馬の意識が注がれる間に、ようやく老警備員が「もうやめなさーい!」と制止してくれた。劣勢の不良はこれを好機にし、遁走する。その際に「オダさんがいればこんなやつら……」と捨て台詞を吐いた。あくまでも好戦的態度は徹底するつもりらしい。
身動きがとれるようになった不良も仲間に続き、走り去る。彼は自身に触れた男性には見向きもしなかった。よほど慌てたのだろう、と拓馬は推測を一点思いついた。
当の男性はというと、すでに姿が見えなくなっていた。拓馬が復活した不良と老警備員に気を取られるうちに、どこかへ行ってしまったようだ。
(変な人だったな……)
戦いを止めるでもなく、無関心をよそおうわけでもなく、騒動の関係者に接触する。他に例を見ない野次馬だ。それが生身の人間であるなら、と拓馬の場合は但し書きが付くが。
拓馬はためしにヤマダに「変な男を見なかったか」とたずねた。前方に鍔のついた帽子を被る彼女は「見てない」と声をひそめる。ヤマダが声量を小さくするのは、これが内密な話だと判断したからだ。
「どんな姿だった?」
「体の大きな男の人だ。ま、ほっといて平気だろ」
拓馬は男性が不良に接したしぐさから温情を感じていた。危険な存在ではないと思い、気に留めないことにした。こんなことでいちいち不安がっていては身が持たないのだ。
「それよか、片付けをやるか」
「うん、お店に迷惑かけたもんね。もとに戻すくらいはやっとかなきゃ」
拓馬たちは老警備員と話しこむ三郎とジモンの脇で、机と椅子を並べなおす作業をはじめた。
場所固定されていない机と椅子が、少年らの動きと連動する。左へ右へとずれていき、いびつな空きスペースが広がった。
さいわいにして無法地帯な空間は思った以上に小さくおさまった。三郎の攻撃を食らった不良は一発で伸びており、応戦できる不良は二人だけだ。
戦闘中の不良は片方が巨漢、片方が長身。身体的特徴がはっきりわかれている。二人とも多勢に無勢ながらも最初は余裕の笑みを浮かべていた。だがすぐに人数差以上の不利を感じたようだった。拳も蹴りも、三郎らは苦もなくいなしていく。相手がやわな一般人でないと察した不良は逃げ腰になった。
それもそのはず、三郎陣営は長く武芸に親しむ者ばかり。鍛錬もせずに遊興にふける者よりは幾分有利だ。ネックは紅一点のヤマダだけ。彼女は母親の教育方針により武道を正式に習えておらず、周囲の心得者がこっそり教えた範囲でしかうまく戦えない。なのに問題事に首をつっこみたがるという困った性格だ。そのため、彼女と古馴染みである拓馬はその保護を第一目的として同行した。むろん彼女が敵の標的に出ぬよう、拓馬は自身を盾にして立ち回る。だが実質的には拓馬もまた守られていた。
今回の件は三郎とその相方のジモンの腕自慢コンビが率先して取り組んでいる。拓馬とヤマダは彼らの補佐的役割を担う。それゆえ、拓馬たち二人は格闘技における審判のような動作をするだけで相手方の敗色が濃厚になってきた。あとは不良らが負けを認め、退散するきっかけを作れば目的は達成できる。だがそれがもっとも厄介だ。三郎らの呼びかけに素直に応える連中とは思えず、下手な交渉は火に油を注ぐことになりかねない。喧嘩の口火を切った原因が、三郎の問答にあったように。
(大人が止めにきてくれればなぁ)
警備員なり売り場の従業員なりが仲裁に入り、少年たちはすごすごと帰宅する。そんな脚本を拓馬は思い描いた。即興で筋書きの代行者になりうる人物を目で捜してみる。飲食コーナー担当の従業員はカウンターの奥へ引っ込んでいたり、警備員は所在不明であったり、通路にいる買い物客は遠巻きに見物していたりする。見込みのない大人ばかりだ。
(──そんなんだから、こいつらが好き勝手にできたんだろうな)
拓馬は脱力感に見舞われる。今度同じ状況を迎える時は知り合いの大人も同伴してもらうかと考え、事なかれ主義の人間をあてにしないと決めた。
意識を交戦の場へもどすと、その奥に異様な人影を発見する。ひときわ体格がすぐれる男性だ。背丈は二メートルあるのだろうか、とにかく高い。少年らの中ではジモンがいちばん筋骨隆々な体つきであるが、彼を優に超すいかめしさがある。重量級の格闘家のような人物は鍔つきの帽子を目深に被っている。帽子の鍔と顔のうつむき加減のせいで表情はよくわからない。ただ、その視線は喧嘩の真っ最中にある少年らには向かっておらず、一歩引いた位置に立つ拓馬に向けているようだった。
(なんで、俺を?)
普通は乱闘に注目するのではないか。その不可思議さが一抹の気味悪さに通じた。
男性は拓馬の疑惑のまなざしに勘付いたのか、ゆっくり顔を背けた。そうして床に転がりっぱなしの不良の背後へ回る。刈り上げの不良は三郎の打撃以外にも転倒時にあちこち負傷したようで、なかなか立ち上がれないでいた。その頭に男性の大きな手がぽんと乗る。二、三回かるくタッチすると、不良はむっくりと起き上がった。自身の体をあちこち触ってみて「痛くない?」と困惑した声をもらす。どういうわけだか、元気を取り戻したらしい。
戦闘不能だった者へ拓馬の意識が注がれる間に、ようやく老警備員が「もうやめなさーい!」と制止してくれた。劣勢の不良はこれを好機にし、遁走する。その際に「オダさんがいればこんなやつら……」と捨て台詞を吐いた。あくまでも好戦的態度は徹底するつもりらしい。
身動きがとれるようになった不良も仲間に続き、走り去る。彼は自身に触れた男性には見向きもしなかった。よほど慌てたのだろう、と拓馬は推測を一点思いついた。
当の男性はというと、すでに姿が見えなくなっていた。拓馬が復活した不良と老警備員に気を取られるうちに、どこかへ行ってしまったようだ。
(変な人だったな……)
戦いを止めるでもなく、無関心をよそおうわけでもなく、騒動の関係者に接触する。他に例を見ない野次馬だ。それが生身の人間であるなら、と拓馬の場合は但し書きが付くが。
拓馬はためしにヤマダに「変な男を見なかったか」とたずねた。前方に鍔のついた帽子を被る彼女は「見てない」と声をひそめる。ヤマダが声量を小さくするのは、これが内密な話だと判断したからだ。
「どんな姿だった?」
「体の大きな男の人だ。ま、ほっといて平気だろ」
拓馬は男性が不良に接したしぐさから温情を感じていた。危険な存在ではないと思い、気に留めないことにした。こんなことでいちいち不安がっていては身が持たないのだ。
「それよか、片付けをやるか」
「うん、お店に迷惑かけたもんね。もとに戻すくらいはやっとかなきゃ」
拓馬たちは老警備員と話しこむ三郎とジモンの脇で、机と椅子を並べなおす作業をはじめた。
タグ:拓馬
2017年10月11日
拓馬篇前記−拓馬3
老警備員は感謝なのか愚痴なのかわからない話をくどくどと述べた。おおむね三郎たちの行動を肯定していることは伝わる。推定年齢七十歳ばかりの警備員は「老いぼれだけで若者の集団をどうにかできるわけがない」と警備職らしからぬ本音を露わにした。
「警察には知らせなかったんですか?」
三郎が質問を投げた。いちおう、警察沙汰を避けたかった旨は知っている。だが又聞きゆえに正確さに欠けた。不良がデパートに集まるという近況も、三郎らが直接見聞きしたものではない。もとをたどれば顔も知らない一般人のタレコミだ。飲食店を経営するジモンの母が、客からそういう話しをされたのを息子に伝え、その友人にも広まった程度には情報の鮮度が落ちていた。
警備員はシワの多い顔にさらにシワを寄せて「うーん」とうなる。
「相談はしてみたんだけどねえ、『実害がないから』と動いてくれなくってねえ」
「ほんとうに、害はなかったんですか?」
「店の物を壊したり他人様を傷つけたりはしてなかったみたいだからねえ……」
三郎は目が泳ぐ。
「もしかして、オレたちは余計なおせっかいをしたと?」
「いやいや、このコーナーにお客さんが寄りつかなくなってたのは本当だ。連中がこれに懲りてくれればいいんだがね」
老警備員は肩の荷が下りたようで、安堵の表情を見せた。そのおかげで「人のためになる行動をした」という三郎の自信は回復した。
拓馬とヤマダは彼らの会話を耳にしつつ、黙々と作業をこなす。このデパートの飲食コーナーは売店の数にくらべて広い。もともといろんな食べ物を提供する店があったのだが、あまり客の入りが良くないことから店舗数が減った。誰も使わないカウンターには白い板が貼られており、壁と同化している。座席が並ぶ区画と通路を区切るための敷居もあって、死角が多い場所だ。その立地条件が不良を長く居座らせる要因になったらしい。
二人は机と椅子を定位置にもどし終えた。ヤマダが「じゃ、帰ろう」と言い、被害のなかった方面へ歩く。そこに私物が置かれた椅子があった。彼女は椅子の上に丸まっていたコートを羽織る。ヤマダは防寒着を脱いだ状態で臨戦したのだ。コートに不似合いな野球帽似の帽子も、一種の戦闘服である。
不要になった帽子が頭と引き離される。中に収納してあった長い束ね髪が流れおちた。学校でもよく見かける、ポニーテールだ。その結い方は長い髪を帽子の中に隠しやすくて便利だと本人は主張する。
とはいえ学校では防寒着を必要とする時期以外、帽子を被る姿はめったに見ない。なんでも「荷物が増えるとめんどう」だそうだ。私服ではよくバンダナを頭巾代わりに覆ったりいろんな帽子を被ったりするので、オフの時に合わせた髪型が習慣になったようだ。
「この帽子、あんまり必要なかった」
「動いても外れにくいんだったか」
「わたしは動きやすさを重視したからね。タッちゃんみたいに着膨れしてても戦える自信がない」
指摘の通り、拓馬は防寒のジャケットを着たままだ。一方で三郎とジモンは「そんなものは邪魔になる」と寒さ対策なしで来ている。
「俺はお前らほどやる気マンマンで来ちゃいないんでな」
「うん、それでいいんだよ。いてくれるだけで安心」
他己肯定感のある発言はヤマダには珍しくない。と、わかっていも拓馬はちょっぴり照れた。その反応に気付いたのか不明だが、ヤマダは取った帽子を畳みながら「そうそう」と別の話に切り替える。
「お姉さんが食べたがってるパン、お店に残ってるか見てくるね。あったら家まで持ってく」
拓馬の姉は近場のパン専門店にある新商品を所望中だ。パン屋は商品を毎朝焼いており、前日のパンは品質管理の観点により売らないことにしているという。通常の店なら廃棄処分するところを、ヤマダの勤める喫茶店はそれらを回収する。売れ残りのパンを翌日のモーニングサービスの一環に提供するのだ。もちろん利用客は訳ありのパンだと承知のうえで食べる。それはちょっと遠慮したいと思う人でも、他の新鮮なモーニングメニューだけで腹を満たすこともできるという。いまのところ、そんな神経質な客は来店したことがないそうだが。
喫茶店で提供しきれなかった古いパンは客に出せず、従業員が引き取るか棄てるかするほかない。そうなってしまえばタダで食える、という意地汚い姉のもくろみにより、最近のヤマダはちょくちょくバイト先でパンの在庫を確認していた。拓馬はヤマダの勤勉さに呆れる。
「まーだ姉貴のワガママに付き合う気か? あんなの、とっとと自腹切って食えばいいと思わねーか」
拓馬は姉が冗談半分でヤマダに頼んだのを察している。一度依頼を達成しようと努力して、ダメだったらもうあきらめてよい程度のことなのだ。
「いいじゃない。宝探ししてるみたいで、わたしはイヤじゃないよ」
「お前がいいなら、なにしたっていいんだけどさ」
ヤマダはコンパクトになった帽子をコートのポケットに入れた。ポケットから出した手には別の種類の布地がある。こちらは防寒目的のニット帽だ。
「日が落ちてもわたしが来なかったら、今日はハズレっていうことで」
ヤマダが帰ると、老警備員に捕まっていた三郎たちも帰宅の意思表示を見せる。老警備員はこころよく拓馬たちに別れを告げた。
「警察には知らせなかったんですか?」
三郎が質問を投げた。いちおう、警察沙汰を避けたかった旨は知っている。だが又聞きゆえに正確さに欠けた。不良がデパートに集まるという近況も、三郎らが直接見聞きしたものではない。もとをたどれば顔も知らない一般人のタレコミだ。飲食店を経営するジモンの母が、客からそういう話しをされたのを息子に伝え、その友人にも広まった程度には情報の鮮度が落ちていた。
警備員はシワの多い顔にさらにシワを寄せて「うーん」とうなる。
「相談はしてみたんだけどねえ、『実害がないから』と動いてくれなくってねえ」
「ほんとうに、害はなかったんですか?」
「店の物を壊したり他人様を傷つけたりはしてなかったみたいだからねえ……」
三郎は目が泳ぐ。
「もしかして、オレたちは余計なおせっかいをしたと?」
「いやいや、このコーナーにお客さんが寄りつかなくなってたのは本当だ。連中がこれに懲りてくれればいいんだがね」
老警備員は肩の荷が下りたようで、安堵の表情を見せた。そのおかげで「人のためになる行動をした」という三郎の自信は回復した。
拓馬とヤマダは彼らの会話を耳にしつつ、黙々と作業をこなす。このデパートの飲食コーナーは売店の数にくらべて広い。もともといろんな食べ物を提供する店があったのだが、あまり客の入りが良くないことから店舗数が減った。誰も使わないカウンターには白い板が貼られており、壁と同化している。座席が並ぶ区画と通路を区切るための敷居もあって、死角が多い場所だ。その立地条件が不良を長く居座らせる要因になったらしい。
二人は机と椅子を定位置にもどし終えた。ヤマダが「じゃ、帰ろう」と言い、被害のなかった方面へ歩く。そこに私物が置かれた椅子があった。彼女は椅子の上に丸まっていたコートを羽織る。ヤマダは防寒着を脱いだ状態で臨戦したのだ。コートに不似合いな野球帽似の帽子も、一種の戦闘服である。
不要になった帽子が頭と引き離される。中に収納してあった長い束ね髪が流れおちた。学校でもよく見かける、ポニーテールだ。その結い方は長い髪を帽子の中に隠しやすくて便利だと本人は主張する。
とはいえ学校では防寒着を必要とする時期以外、帽子を被る姿はめったに見ない。なんでも「荷物が増えるとめんどう」だそうだ。私服ではよくバンダナを頭巾代わりに覆ったりいろんな帽子を被ったりするので、オフの時に合わせた髪型が習慣になったようだ。
「この帽子、あんまり必要なかった」
「動いても外れにくいんだったか」
「わたしは動きやすさを重視したからね。タッちゃんみたいに着膨れしてても戦える自信がない」
指摘の通り、拓馬は防寒のジャケットを着たままだ。一方で三郎とジモンは「そんなものは邪魔になる」と寒さ対策なしで来ている。
「俺はお前らほどやる気マンマンで来ちゃいないんでな」
「うん、それでいいんだよ。いてくれるだけで安心」
他己肯定感のある発言はヤマダには珍しくない。と、わかっていも拓馬はちょっぴり照れた。その反応に気付いたのか不明だが、ヤマダは取った帽子を畳みながら「そうそう」と別の話に切り替える。
「お姉さんが食べたがってるパン、お店に残ってるか見てくるね。あったら家まで持ってく」
拓馬の姉は近場のパン専門店にある新商品を所望中だ。パン屋は商品を毎朝焼いており、前日のパンは品質管理の観点により売らないことにしているという。通常の店なら廃棄処分するところを、ヤマダの勤める喫茶店はそれらを回収する。売れ残りのパンを翌日のモーニングサービスの一環に提供するのだ。もちろん利用客は訳ありのパンだと承知のうえで食べる。それはちょっと遠慮したいと思う人でも、他の新鮮なモーニングメニューだけで腹を満たすこともできるという。いまのところ、そんな神経質な客は来店したことがないそうだが。
喫茶店で提供しきれなかった古いパンは客に出せず、従業員が引き取るか棄てるかするほかない。そうなってしまえばタダで食える、という意地汚い姉のもくろみにより、最近のヤマダはちょくちょくバイト先でパンの在庫を確認していた。拓馬はヤマダの勤勉さに呆れる。
「まーだ姉貴のワガママに付き合う気か? あんなの、とっとと自腹切って食えばいいと思わねーか」
拓馬は姉が冗談半分でヤマダに頼んだのを察している。一度依頼を達成しようと努力して、ダメだったらもうあきらめてよい程度のことなのだ。
「いいじゃない。宝探ししてるみたいで、わたしはイヤじゃないよ」
「お前がいいなら、なにしたっていいんだけどさ」
ヤマダはコンパクトになった帽子をコートのポケットに入れた。ポケットから出した手には別の種類の布地がある。こちらは防寒目的のニット帽だ。
「日が落ちてもわたしが来なかったら、今日はハズレっていうことで」
ヤマダが帰ると、老警備員に捕まっていた三郎たちも帰宅の意思表示を見せる。老警備員はこころよく拓馬たちに別れを告げた。
タグ:拓馬
2017年10月12日
拓馬篇−* ★
*
日が暮れゆくころ。男は店舗と住居が混在する通りを進んだ。すれちがう人々は暖かい衣服に身を包んでいる。男は寒暖の感覚にうといが、周囲の者に合わせた格好をしていた。しかしそれでも男は好奇と畏怖が入りまじる視線を感じてきた。そこへいたる道中も現在も、人々が男を注目する。その理由を男はよくわかっていた。自身の風貌が特異なのだ。背と、髪と、肌と、目とが、この国の標準とかけ離れる。それらの外見が目立たなくなるよう帽子を被ったものの、あまり効果は体感できなかった。
ひとり、男に対する強い好奇を放つ者が歩いてくる。その者は厚手のコートを羽織り、ニット帽子を被った子どもだ。年頃は十代の後半。大抵その年齢になると男女の違いがはっきりしやすくなるものだ。だが生地の厚い服装を着ているせいで、少年と少女の区別がつきにくかった。
性別不明の若者は紙袋を大事そうに抱えていた。それでいて視線は男に向かっている。年若いがゆえの好奇心なのだろう。男は若者から物怖じしない無邪気さを感じた。その性情は男が普段庇護する存在と似ており、男は若者に心惹かれるものがあった。
男と若者の距離が縮まる。若者は猫のように射ていた視線をふっと逸らした。凝視していることを男に気付かれれば失礼にあたると配慮したらしい。
二人は最接近し、たがいに相手を無視しようとした。二人のすれ違いざまに足音以外の音が鳴った。重量の軽い金属が硬い物にぶつかる音だ。男がうつむく。アスファルトの地面に蓋付きの懐中時計が落ちていた。若者がいち早くしゃがむ。
「これ、お兄さんのものですよね?」
柔和な声だ。男は若者の性別が女だと確信した。少女が時計を拾い、その側面のでっぱりをおさえる。蓋がぱかっと開いた。少女はうれしそうに「よかった」と言う。
「ちゃんとうごいてますよ」
少女は時計を男にも見せた。たしかに針は正常に動いている。男は胸の内で「時計はうごいている」という言葉を繰り返した。しかし反芻してばかりでいては不審がられる。少女に返答せねばならない。男は突いて出る言葉がつとめて善人に聞こえるよう心掛ける。
「ありがとう。これは私の大切なものだ」
男はそう答え、時計を返してもらった。穏便なやり取りは成功した。これでこの場を立ち去ろうとする──が、後ろ髪を引かれてしまう。そのとまどいは少女の態度によって生まれた。彼女はまだ足を止めている。
「その時計、指してる時刻がめちゃくちゃですよ」
男は時計の盤面に注目した。針は現在とはまったく無関係な時刻を指し示している。
「わたしが直してみましょうか?」
少女の親切心は落し物を拾うだけにとどまらない。その厚意に男は感じ入るものがあった。しかし彼女の申し出をことわる。
「いつもは止まっている時計だ。これでいい、じきに止まる」
「そう……だからお兄さんは複雑な顔をしてるの?」
男が予期しない問いだった。過去に男の微妙な表情を読み取った者は数少ない。
「うれしいのと悲しい気持ちが混ざってるみたい」
思いがけない言葉を得た男はだまっていた。どう返事をしてよいかわからなかったのだ。
「……変なこと言った? それじゃ、その時計は大事にしてね」
少女は離れていく。男はしばらく少女を見送った。そして彼女の姿を見失わぬうちに時計を見る。針は止まっていた。男はこの状態に困惑している。針が止まる事態は自分が少女に述べた通りのこと。とはいえ、この現象は一度も体験したことがなかった。時計は壊れておらず、電池が古いわけでもないのだ。多くの被験者は時計の蓋を開けられないか、針が稼働しつづける時計を返してきた。少女は過去の例に見ない時計を、男に与えてきたのだ。
男は未知の現象について思い悩むのをやめた。次に形無き仲間に語りかける。
『あの娘を追え。勘付かれないようにな』
男は少女が去った逆の道を歩く。男の目的は達成された。あとは人目につかぬ場所へ移動し、仲間の報告を待つのみ。その胸中に抱く思いは、なにもない。男はそう信じた。
日が暮れゆくころ。男は店舗と住居が混在する通りを進んだ。すれちがう人々は暖かい衣服に身を包んでいる。男は寒暖の感覚にうといが、周囲の者に合わせた格好をしていた。しかしそれでも男は好奇と畏怖が入りまじる視線を感じてきた。そこへいたる道中も現在も、人々が男を注目する。その理由を男はよくわかっていた。自身の風貌が特異なのだ。背と、髪と、肌と、目とが、この国の標準とかけ離れる。それらの外見が目立たなくなるよう帽子を被ったものの、あまり効果は体感できなかった。
ひとり、男に対する強い好奇を放つ者が歩いてくる。その者は厚手のコートを羽織り、ニット帽子を被った子どもだ。年頃は十代の後半。大抵その年齢になると男女の違いがはっきりしやすくなるものだ。だが生地の厚い服装を着ているせいで、少年と少女の区別がつきにくかった。
性別不明の若者は紙袋を大事そうに抱えていた。それでいて視線は男に向かっている。年若いがゆえの好奇心なのだろう。男は若者から物怖じしない無邪気さを感じた。その性情は男が普段庇護する存在と似ており、男は若者に心惹かれるものがあった。
男と若者の距離が縮まる。若者は猫のように射ていた視線をふっと逸らした。凝視していることを男に気付かれれば失礼にあたると配慮したらしい。
二人は最接近し、たがいに相手を無視しようとした。二人のすれ違いざまに足音以外の音が鳴った。重量の軽い金属が硬い物にぶつかる音だ。男がうつむく。アスファルトの地面に蓋付きの懐中時計が落ちていた。若者がいち早くしゃがむ。
「これ、お兄さんのものですよね?」
柔和な声だ。男は若者の性別が女だと確信した。少女が時計を拾い、その側面のでっぱりをおさえる。蓋がぱかっと開いた。少女はうれしそうに「よかった」と言う。
「ちゃんとうごいてますよ」
少女は時計を男にも見せた。たしかに針は正常に動いている。男は胸の内で「時計はうごいている」という言葉を繰り返した。しかし反芻してばかりでいては不審がられる。少女に返答せねばならない。男は突いて出る言葉がつとめて善人に聞こえるよう心掛ける。
「ありがとう。これは私の大切なものだ」
男はそう答え、時計を返してもらった。穏便なやり取りは成功した。これでこの場を立ち去ろうとする──が、後ろ髪を引かれてしまう。そのとまどいは少女の態度によって生まれた。彼女はまだ足を止めている。
「その時計、指してる時刻がめちゃくちゃですよ」
男は時計の盤面に注目した。針は現在とはまったく無関係な時刻を指し示している。
「わたしが直してみましょうか?」
少女の親切心は落し物を拾うだけにとどまらない。その厚意に男は感じ入るものがあった。しかし彼女の申し出をことわる。
「いつもは止まっている時計だ。これでいい、じきに止まる」
「そう……だからお兄さんは複雑な顔をしてるの?」
男が予期しない問いだった。過去に男の微妙な表情を読み取った者は数少ない。
「うれしいのと悲しい気持ちが混ざってるみたい」
思いがけない言葉を得た男はだまっていた。どう返事をしてよいかわからなかったのだ。
「……変なこと言った? それじゃ、その時計は大事にしてね」
少女は離れていく。男はしばらく少女を見送った。そして彼女の姿を見失わぬうちに時計を見る。針は止まっていた。男はこの状態に困惑している。針が止まる事態は自分が少女に述べた通りのこと。とはいえ、この現象は一度も体験したことがなかった。時計は壊れておらず、電池が古いわけでもないのだ。多くの被験者は時計の蓋を開けられないか、針が稼働しつづける時計を返してきた。少女は過去の例に見ない時計を、男に与えてきたのだ。
男は未知の現象について思い悩むのをやめた。次に形無き仲間に語りかける。
『あの娘を追え。勘付かれないようにな』
男は少女が去った逆の道を歩く。男の目的は達成された。あとは人目につかぬ場所へ移動し、仲間の報告を待つのみ。その胸中に抱く思いは、なにもない。男はそう信じた。
タグ:拓馬
2017年10月13日
拓馬篇前記−習一1
──今度の期末考査、受けなかったら留年ですよ。
不快感を顔いっぱいに漏らす女教師が警告した。通知相手は実力考査をすっぽかした男子生徒。名前を小田切習一といった。彼は放課後に呼出しを受け、空き教室にて試験のやり直しをした。この言葉は個別試験の終了時に放たれた。
習一は口答えをしなかった。その反応は教師の言い分をもっともだと思ったわけでも、自分のあやまちを反省したのでもない。ひとえに、早く解放されたかった。なのに教師は習一の煮え切らない態度を「悔い改めた」と手応えを感じたかのような笑みをつくった。退屈な時間の最後に見られた滑稽なシーンだった。
(留年か、それもいいな)
教師の意図に反して、習一は格好の目標を得た気がした。現在の習一は高校二年生。順調にいけば大学受験を控える三年生になる。というのも習一が所属する雒英(らくえい)高校は進学校だ。ほとんどの生徒が名声のある大学進学を目指す。習一も入学当初はそのつもりだった。今はどうやれば周囲の大人を辟易させ、消耗させられるかということばかり研究を重ねている。それが目下の重要な報復だ。自分を進学率アップの駒としか見ぬ教師陣と、自分をひたすらに侮蔑の対象とする父親への。
習一は校内の者に絡まれないようにまっすぐ外へ出る。急いで行かねばならぬ場所はないが、ひとまず学校から離れようと思った。ぐずぐずしていてはめんどうなやつが現れるのだ。
暖色の光に照らされた校門にはだれもいない。帰宅部はとっくに帰り、部活動をする生徒はまだ学校に残っているからだろう。気兼ねなく通過する。
「お、来たな」
習一はおもわず肩を震わせた。人の姿がないのに声が聞こえる。
「後ろだ、後ろ」
振りかえれば校門の柱の前で中年の教師がしゃがんでいる。これが習一の警戒していた、めんどうなやつだ。姓を掛尾。二年生の一クラスを受け持つが習一の担任ではない。
「そんなヤな顔するなって」
丈の長いコートを着た掛尾はむくっと立ち上がった。彼の手には古ぼけた本がある。習一はその背表紙に見覚えがあった。長らく名著と評される海外小説の翻訳本だ。記憶が確かなら、その本の保管場所は職員室付近にある本棚だろう。
本を持つ掛尾の手は赤らんでいる。外気温の低さを考慮し、掛尾は長時間ここにいたのだと習一は推測する。
「オレを出待ちしてたのか」
習一は掛尾の手をじっと見ながら言った。寒さのせいで感覚が鈍っていそうな皮膚の色だ。
「天気がいいから外で読書だ。おかげで五ページ進んだぞ」
「手がかじかむまでやることか?」
「集中するとちょっとの寒さくらい気にならんさ」
集中して読んでもたった五ページか、と習一はツッコミそうになった。言うより早く「冗談はこれぐらいにしとくか」と掛尾が雑談を終わらせる。その声に重々しさがある。習一の気持ちも重く沈んだ。
「小田切、冬休みの間になにかあったのか?」
習一は答えない。他人に打ち明けても、解決の見込みがないとわかっていた。
「ここ一ヶ月のお前はやっぱり変だ」
似たようなことを他の教師にも言われた。だが決定的に異なる部分がある。語気に非難の色がない。掛尾は習一の変貌には並みならぬ経緯があったと信じているらしい。
「どうしたら、少し前の小田切にもどれるんだ?」
どう、と聞かれて習一は両親の会話が頭をよぎる。あの時、あの場所に自分が近寄らなければ、今も愚直に優等生を演じていたにちがいない。そのほうが幸福であったのか、習一にはわからない。
「……記憶を消せたら、かな」
掛尾の耳にギリギリ届く小声でつぶやく。都合よく嫌な記憶だけを消す解決法は現実にはありえない。習一は空想的な言葉の意味を追究される前に駆けだした。掛尾にあれこれ聞かれては煩わしいから逃げる。そう思わせるに足る対応はできたはずだ。
(もう、後には引けない)
もっと確実に、自分は以前の自分にもどらないことを見せつける方法はないか。仲間のいる場所へ着くまでの時間を、その模索に費やす。そうすることで掛尾との問答中に生まれた居たたまれない気持ちを押し包んだ。
不快感を顔いっぱいに漏らす女教師が警告した。通知相手は実力考査をすっぽかした男子生徒。名前を小田切習一といった。彼は放課後に呼出しを受け、空き教室にて試験のやり直しをした。この言葉は個別試験の終了時に放たれた。
習一は口答えをしなかった。その反応は教師の言い分をもっともだと思ったわけでも、自分のあやまちを反省したのでもない。ひとえに、早く解放されたかった。なのに教師は習一の煮え切らない態度を「悔い改めた」と手応えを感じたかのような笑みをつくった。退屈な時間の最後に見られた滑稽なシーンだった。
(留年か、それもいいな)
教師の意図に反して、習一は格好の目標を得た気がした。現在の習一は高校二年生。順調にいけば大学受験を控える三年生になる。というのも習一が所属する雒英(らくえい)高校は進学校だ。ほとんどの生徒が名声のある大学進学を目指す。習一も入学当初はそのつもりだった。今はどうやれば周囲の大人を辟易させ、消耗させられるかということばかり研究を重ねている。それが目下の重要な報復だ。自分を進学率アップの駒としか見ぬ教師陣と、自分をひたすらに侮蔑の対象とする父親への。
習一は校内の者に絡まれないようにまっすぐ外へ出る。急いで行かねばならぬ場所はないが、ひとまず学校から離れようと思った。ぐずぐずしていてはめんどうなやつが現れるのだ。
暖色の光に照らされた校門にはだれもいない。帰宅部はとっくに帰り、部活動をする生徒はまだ学校に残っているからだろう。気兼ねなく通過する。
「お、来たな」
習一はおもわず肩を震わせた。人の姿がないのに声が聞こえる。
「後ろだ、後ろ」
振りかえれば校門の柱の前で中年の教師がしゃがんでいる。これが習一の警戒していた、めんどうなやつだ。姓を掛尾。二年生の一クラスを受け持つが習一の担任ではない。
「そんなヤな顔するなって」
丈の長いコートを着た掛尾はむくっと立ち上がった。彼の手には古ぼけた本がある。習一はその背表紙に見覚えがあった。長らく名著と評される海外小説の翻訳本だ。記憶が確かなら、その本の保管場所は職員室付近にある本棚だろう。
本を持つ掛尾の手は赤らんでいる。外気温の低さを考慮し、掛尾は長時間ここにいたのだと習一は推測する。
「オレを出待ちしてたのか」
習一は掛尾の手をじっと見ながら言った。寒さのせいで感覚が鈍っていそうな皮膚の色だ。
「天気がいいから外で読書だ。おかげで五ページ進んだぞ」
「手がかじかむまでやることか?」
「集中するとちょっとの寒さくらい気にならんさ」
集中して読んでもたった五ページか、と習一はツッコミそうになった。言うより早く「冗談はこれぐらいにしとくか」と掛尾が雑談を終わらせる。その声に重々しさがある。習一の気持ちも重く沈んだ。
「小田切、冬休みの間になにかあったのか?」
習一は答えない。他人に打ち明けても、解決の見込みがないとわかっていた。
「ここ一ヶ月のお前はやっぱり変だ」
似たようなことを他の教師にも言われた。だが決定的に異なる部分がある。語気に非難の色がない。掛尾は習一の変貌には並みならぬ経緯があったと信じているらしい。
「どうしたら、少し前の小田切にもどれるんだ?」
どう、と聞かれて習一は両親の会話が頭をよぎる。あの時、あの場所に自分が近寄らなければ、今も愚直に優等生を演じていたにちがいない。そのほうが幸福であったのか、習一にはわからない。
「……記憶を消せたら、かな」
掛尾の耳にギリギリ届く小声でつぶやく。都合よく嫌な記憶だけを消す解決法は現実にはありえない。習一は空想的な言葉の意味を追究される前に駆けだした。掛尾にあれこれ聞かれては煩わしいから逃げる。そう思わせるに足る対応はできたはずだ。
(もう、後には引けない)
もっと確実に、自分は以前の自分にもどらないことを見せつける方法はないか。仲間のいる場所へ着くまでの時間を、その模索に費やす。そうすることで掛尾との問答中に生まれた居たたまれない気持ちを押し包んだ。
タグ:習一
2017年10月14日
拓馬篇前記−習一2
習一は他校の不良を仲間にしている。彼らはおよそ一か月前、打ちしおれた習一の前に立ちはだかった。その目的は金品。のちに事情を聴くと、彼らの目には習一の顔つきや身なりが金持ちの子に映ったらしい。事実その見立ては間違っていない。習一の父は高給取りだ。そのため母が子に与える品物はどれも値が張った。安い粗悪品をたくさん買うよりは、高くても良い品を買ったほうが快適かつ長持ちするという父の意向に従った結果だ。
彼らの思い違いは一つあった。習一が殴り合いに強かったことだ。事の発端は彼らによる脅し行為にある。それはあとになって思えば、危害を加える気のない戯言だった。平時の習一だったら冗談に済ませただろうし、なんなら逃走しても良かった。逃げ切れるだけの俊敏さは備えている。だが当時の習一は情動が不安定だった。過度に危険を感じてしまい、不良たちを叩きのめすに至った。あるいは、抱えきれない憤懣(ふんまん)をだれかにぶつけたかったのかもしれない。
その時、習一は自分の腕っぷしの強さに驚愕した。もともと運動神経の良さは自他ともに認めるところ。筋力などの身体能力も、同年の男子とくらべて優れることは体育の授業のおかげでわかった。しかし戦う行為には縁が無かった。己の強さに関係があることといえば、テレビで見かける屈強な俳優への憧れだ。見事なアクションシーンを真似たり、作中の筋トレと同じことをしてみたりと、自分に男性的な強さを求める時期があった。過去の鍛錬が窮地において活かされた、と習一なりに納得している。
不良らは予想外の反撃を食らって怒るどころか、逆に習一の強さに惚れこんだ。それ以降、習一は不良の末席に加わった──と認識したのは習一一人の感覚だ。迎え入れた側は習一のことをリーダーのごとく慕う。彼らのほうが不良歴が長いのにも関わらず、まるで習一は不良の古強者(ふるつわもの)であったかのようにすんなりハマっている。ハマらないのは習一の容姿だけだ。
習一が最初、現在の仲間に舐めてかかられた原因は見た目にある。習一の外見は端的に表現すると「弱そう」である。身長は平均的、体型は痩せていて凄みが足りない。とりわけ顔は女っぽく、線が細い。それと優良児として長年過ごした影響なのか真面目さが顔に出ている。
習一の外見が柔弱であるがゆえに生じる不利益はほかにもある。掛尾をのぞく周囲の大人は、習一の不品行を真剣に問題視していない。体調不良なり思春期によくある気の迷いなりと、一過性の不具合だと見做している。この状況はおもしろくない。習一がまた以前のような良い子になるという希望を他者に抱かせてしまっている。蛮行が永続すると思わせるには姿を変える必要があった。
そのための参考材料として校則の禁止事項を思いつく。これらを破っていけば不良生徒の出来上がりだ。しかし生徒手帳を持ちあわせていない。習一は記憶の範囲で取捨選択をしはじめる。
(たしか、ピアスは禁止だよな)
ピアスをつける必須条件は耳たぶに穴が開いていること。一度耳に穴を開けたなら、その痕跡は死ぬまで残る。これはよさそうだ。しかし装飾品を身につけるのは女々しくて嫌だと思った。習一には男らしい男になりたいというひそかな願望がある。
(アクセサリーはダメだな。ほかは、髪を伸ばすのと染めるのくらいか)
どちらも女子が好んでやりそうなことだ。習一が尊敬する男性はしそうにない。えてして、学校が禁止する事柄は男子の女性化を防ごうとしているのではないかと勘繰る。きっとこの考えは一般的でないとも習一は感じた。長髪以外は女子も禁止されているからだ。しかし染髪とピアスは、女子への禁止事項である化粧と同類の着飾る行為だと習一には思える。
(そういや化粧も禁止……ぜってーやらないけどな)
思いついたことを全部やったら、変なものに目覚めた男子に成り下がってしまう。それは周囲の大人たちを落胆させられるにしても、男としての尊厳を損なう自傷行為だ。習一は鼻で笑って棄却した。
思案を巡らすうちに店が並ぶ通りを歩いていた。目的地は近い。橙色と青色が混じっていた空は雲にその面影を残し、灰がかってきた。もうじき夜になる。今日は何時頃まで暖房のきいた建物内でねばれるだろうか。
黒色へ近づく空に黒い陰影がまぎれこむ。習一が目線を下げると巨大な男性の姿を発見した。この男は背が図抜けて高い。肩はがっちりしていて太く、見るからに強そうだ。そんな相手が習一とすれ違う。習一は男の間合いに入った時に緊張した。気まぐれで攻撃されようものならひとたまりもない。習一は警戒心が先立ったが、そうとは気取られないように男から目を背けた。
男は無言で習一の横を通る。習一は何ごともなく男の後ろ姿を拝めた。
(……ま、普通はそうだよな)
だれもかれもが突然暴力を振るうわけではない。その常識がこの精強な男にあてはまったことに安心した。
男をつぶさに観察してみると、彼は鍔の広い帽子を被っている。帽子の下からはうなじを覆い隠す長髪が垂れる。その髪は灰色のようだ。
(長くて、染めてる髪、か)
この二点の特徴があっても性別はちゃんと男に見える。おまけに女らしさなど微塵もない。これはいける、と習一は行きずりの人から妙案を得た。
彼らの思い違いは一つあった。習一が殴り合いに強かったことだ。事の発端は彼らによる脅し行為にある。それはあとになって思えば、危害を加える気のない戯言だった。平時の習一だったら冗談に済ませただろうし、なんなら逃走しても良かった。逃げ切れるだけの俊敏さは備えている。だが当時の習一は情動が不安定だった。過度に危険を感じてしまい、不良たちを叩きのめすに至った。あるいは、抱えきれない憤懣(ふんまん)をだれかにぶつけたかったのかもしれない。
その時、習一は自分の腕っぷしの強さに驚愕した。もともと運動神経の良さは自他ともに認めるところ。筋力などの身体能力も、同年の男子とくらべて優れることは体育の授業のおかげでわかった。しかし戦う行為には縁が無かった。己の強さに関係があることといえば、テレビで見かける屈強な俳優への憧れだ。見事なアクションシーンを真似たり、作中の筋トレと同じことをしてみたりと、自分に男性的な強さを求める時期があった。過去の鍛錬が窮地において活かされた、と習一なりに納得している。
不良らは予想外の反撃を食らって怒るどころか、逆に習一の強さに惚れこんだ。それ以降、習一は不良の末席に加わった──と認識したのは習一一人の感覚だ。迎え入れた側は習一のことをリーダーのごとく慕う。彼らのほうが不良歴が長いのにも関わらず、まるで習一は不良の古強者(ふるつわもの)であったかのようにすんなりハマっている。ハマらないのは習一の容姿だけだ。
習一が最初、現在の仲間に舐めてかかられた原因は見た目にある。習一の外見は端的に表現すると「弱そう」である。身長は平均的、体型は痩せていて凄みが足りない。とりわけ顔は女っぽく、線が細い。それと優良児として長年過ごした影響なのか真面目さが顔に出ている。
習一の外見が柔弱であるがゆえに生じる不利益はほかにもある。掛尾をのぞく周囲の大人は、習一の不品行を真剣に問題視していない。体調不良なり思春期によくある気の迷いなりと、一過性の不具合だと見做している。この状況はおもしろくない。習一がまた以前のような良い子になるという希望を他者に抱かせてしまっている。蛮行が永続すると思わせるには姿を変える必要があった。
そのための参考材料として校則の禁止事項を思いつく。これらを破っていけば不良生徒の出来上がりだ。しかし生徒手帳を持ちあわせていない。習一は記憶の範囲で取捨選択をしはじめる。
(たしか、ピアスは禁止だよな)
ピアスをつける必須条件は耳たぶに穴が開いていること。一度耳に穴を開けたなら、その痕跡は死ぬまで残る。これはよさそうだ。しかし装飾品を身につけるのは女々しくて嫌だと思った。習一には男らしい男になりたいというひそかな願望がある。
(アクセサリーはダメだな。ほかは、髪を伸ばすのと染めるのくらいか)
どちらも女子が好んでやりそうなことだ。習一が尊敬する男性はしそうにない。えてして、学校が禁止する事柄は男子の女性化を防ごうとしているのではないかと勘繰る。きっとこの考えは一般的でないとも習一は感じた。長髪以外は女子も禁止されているからだ。しかし染髪とピアスは、女子への禁止事項である化粧と同類の着飾る行為だと習一には思える。
(そういや化粧も禁止……ぜってーやらないけどな)
思いついたことを全部やったら、変なものに目覚めた男子に成り下がってしまう。それは周囲の大人たちを落胆させられるにしても、男としての尊厳を損なう自傷行為だ。習一は鼻で笑って棄却した。
思案を巡らすうちに店が並ぶ通りを歩いていた。目的地は近い。橙色と青色が混じっていた空は雲にその面影を残し、灰がかってきた。もうじき夜になる。今日は何時頃まで暖房のきいた建物内でねばれるだろうか。
黒色へ近づく空に黒い陰影がまぎれこむ。習一が目線を下げると巨大な男性の姿を発見した。この男は背が図抜けて高い。肩はがっちりしていて太く、見るからに強そうだ。そんな相手が習一とすれ違う。習一は男の間合いに入った時に緊張した。気まぐれで攻撃されようものならひとたまりもない。習一は警戒心が先立ったが、そうとは気取られないように男から目を背けた。
男は無言で習一の横を通る。習一は何ごともなく男の後ろ姿を拝めた。
(……ま、普通はそうだよな)
だれもかれもが突然暴力を振るうわけではない。その常識がこの精強な男にあてはまったことに安心した。
男をつぶさに観察してみると、彼は鍔の広い帽子を被っている。帽子の下からはうなじを覆い隠す長髪が垂れる。その髪は灰色のようだ。
(長くて、染めてる髪、か)
この二点の特徴があっても性別はちゃんと男に見える。おまけに女らしさなど微塵もない。これはいける、と習一は行きずりの人から妙案を得た。
タグ:習一
2017年10月15日
拓馬篇前記−習一3
習一は目的地のデパートに着いた。だが仲間は定位置のフードコートにいない。
(今日はべつの場所で集まってるのか?)
場所替えは好都合である。このフードコートは習一には居心地が良くない。無料で利用可能な場ゆえに設備にケチをつける気はないが、習一個人の不快感がある。それは他言できない内容だ。幼少期に母とともに訪れたことを思い出すのだ。あの頃はもっと売店があって賑やかだった。それに父はまだ冷酷でなかったように思う。現在との落差をまざまざと見せつける場所は、一人でいると殊更苦しく感じた。
予定が狂った習一は座席には座らず、店内を適当に歩く。仲間の居所を電話で聞いても良かったが、気が乗らなかった。そもそも彼らがどこにいようとかまわない。習一はあの三人を暇つぶしのために利用している。それ以外にこれといった必要性は感じない。単に、帰宅時刻を遅らせられればよいのだ。
この中で自分に恩恵のありそうな区画は、と考えるうちに空腹を感じた。少々早いが夕飯時ではある。ちょうど良いので食品売り場へ向かった。
室内の店舗と店舗ではさまれた通路を行く。ついでに別段買う気のない品物をながめた。
ガラガラという音が近づく。滑りの悪い椅子のキャスターを動かしたような音だ。音の発生元はスーパーマーケットに付きものな買い物カートだと習一は推測した。その音は大量に重なる。一般客が鳴らす音ではない。
習一は華麗さのない重奏の音源を見遣った。高齢の従業員が複数のカートを連結し、移動させている。外のカート置場にたまったカートを中へもどす作業中のようだ。習一は青い制服の老人をしげしげと見た。警察官の制服に似たそれは他の従業員の服とは趣向が異なる。
(警備員か……)
字面で言えば年齢不相応の大層な職分だ。しかし実際はとても悪漢を組み伏せられるとは思えない老齢の男性がしばしばその役を担う。特別仕様の制服を着た人間がいることに意味があるのだ。その姿をちらつかせ、不審者を威圧する目的なのだろう。華美な服を着させられるマネキンと同種にあたる、お飾りなのだと習一はうがった。
老人はカートの群れの進行を止めた。静止しきらぬ先頭のカートを手で押さえたあと、習一に接近する。
「きみ! ガラの悪い子たちに絡まれてた子だね?」
老人が習一に話しかけてきた。その顔と声は明るい調子だ。習一への注意の気持ちはないようだ。
「連中はもうどこかに行ったよ。当分ここに寄りつかないだろう」
老人は嬉しそうだ。仲間に異変が起きたらしい。
「なにがあったんだ?」
「タチの悪いやつらを退治してくれた子たちがいてねえ」
老人の話しぶりでは「タチの悪いやつら」に習一が含まれていない。そのことに習一は違和感を覚えつつも傾聴する。
「名前はちゃんと聞けなかったんだが、あの中に近所のお好み焼屋の息子さんがいたんだ。今度会ったらお礼を言っておくといいよ」
老人は習一の防寒着からのぞく制服を見ながら言う。
「雒英(らくえい)といや、このあたりでとっても頭が良くて真面目な子が行く学校じゃないか。きみはおとなしそうだから、無理やりあいつらに付き合わされていたんだろ?」
またも習一は外見のせいで善人だと判別されている。それが癪で、首を横に振る。
「オレがあいつらを仕切ってるんだよ」
老人は意外にも破顔する。
「冗談きついねえ、きみが連中と居るようになったのは最近だろ? やつらはその前からここに来て──」
カートが激しくぶつかり合う音が響く。長く連なったカートの側面を習一が蹴り飛ばしたのだ。整列していたカートはてんでバラバラな方向へ広がる。老人はせっせと運んだカートが散らばることよりも、習一の暴挙に瞠目した。
「これでわかるだろ。オレが一番タチが悪いって」
うろたえる老人を一瞥し、習一は暗い外へ出た。心中にさきほどの老人は一切現れず、自身の容姿について再考する。
(ワルっぽい見た目……田淵たちに相談してみるか)
やはり内面と外見を一致させねばならない。その思いから仲間へ電話をかけた。
(今日はべつの場所で集まってるのか?)
場所替えは好都合である。このフードコートは習一には居心地が良くない。無料で利用可能な場ゆえに設備にケチをつける気はないが、習一個人の不快感がある。それは他言できない内容だ。幼少期に母とともに訪れたことを思い出すのだ。あの頃はもっと売店があって賑やかだった。それに父はまだ冷酷でなかったように思う。現在との落差をまざまざと見せつける場所は、一人でいると殊更苦しく感じた。
予定が狂った習一は座席には座らず、店内を適当に歩く。仲間の居所を電話で聞いても良かったが、気が乗らなかった。そもそも彼らがどこにいようとかまわない。習一はあの三人を暇つぶしのために利用している。それ以外にこれといった必要性は感じない。単に、帰宅時刻を遅らせられればよいのだ。
この中で自分に恩恵のありそうな区画は、と考えるうちに空腹を感じた。少々早いが夕飯時ではある。ちょうど良いので食品売り場へ向かった。
室内の店舗と店舗ではさまれた通路を行く。ついでに別段買う気のない品物をながめた。
ガラガラという音が近づく。滑りの悪い椅子のキャスターを動かしたような音だ。音の発生元はスーパーマーケットに付きものな買い物カートだと習一は推測した。その音は大量に重なる。一般客が鳴らす音ではない。
習一は華麗さのない重奏の音源を見遣った。高齢の従業員が複数のカートを連結し、移動させている。外のカート置場にたまったカートを中へもどす作業中のようだ。習一は青い制服の老人をしげしげと見た。警察官の制服に似たそれは他の従業員の服とは趣向が異なる。
(警備員か……)
字面で言えば年齢不相応の大層な職分だ。しかし実際はとても悪漢を組み伏せられるとは思えない老齢の男性がしばしばその役を担う。特別仕様の制服を着た人間がいることに意味があるのだ。その姿をちらつかせ、不審者を威圧する目的なのだろう。華美な服を着させられるマネキンと同種にあたる、お飾りなのだと習一はうがった。
老人はカートの群れの進行を止めた。静止しきらぬ先頭のカートを手で押さえたあと、習一に接近する。
「きみ! ガラの悪い子たちに絡まれてた子だね?」
老人が習一に話しかけてきた。その顔と声は明るい調子だ。習一への注意の気持ちはないようだ。
「連中はもうどこかに行ったよ。当分ここに寄りつかないだろう」
老人は嬉しそうだ。仲間に異変が起きたらしい。
「なにがあったんだ?」
「タチの悪いやつらを退治してくれた子たちがいてねえ」
老人の話しぶりでは「タチの悪いやつら」に習一が含まれていない。そのことに習一は違和感を覚えつつも傾聴する。
「名前はちゃんと聞けなかったんだが、あの中に近所のお好み焼屋の息子さんがいたんだ。今度会ったらお礼を言っておくといいよ」
老人は習一の防寒着からのぞく制服を見ながら言う。
「雒英(らくえい)といや、このあたりでとっても頭が良くて真面目な子が行く学校じゃないか。きみはおとなしそうだから、無理やりあいつらに付き合わされていたんだろ?」
またも習一は外見のせいで善人だと判別されている。それが癪で、首を横に振る。
「オレがあいつらを仕切ってるんだよ」
老人は意外にも破顔する。
「冗談きついねえ、きみが連中と居るようになったのは最近だろ? やつらはその前からここに来て──」
カートが激しくぶつかり合う音が響く。長く連なったカートの側面を習一が蹴り飛ばしたのだ。整列していたカートはてんでバラバラな方向へ広がる。老人はせっせと運んだカートが散らばることよりも、習一の暴挙に瞠目した。
「これでわかるだろ。オレが一番タチが悪いって」
うろたえる老人を一瞥し、習一は暗い外へ出た。心中にさきほどの老人は一切現れず、自身の容姿について再考する。
(ワルっぽい見た目……田淵たちに相談してみるか)
やはり内面と外見を一致させねばならない。その思いから仲間へ電話をかけた。
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