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2020年02月17日
習一篇−1章6
私服の医者が去ったあとの室内に、軸の太いペンが一本落ちていた。習一と母の私物ではない。落とし主は状況的に、若い医者の可能性が高い。習一は医者が忘れものを取りにくる未来を見越して、一時的にペンを病室に保管しておくことにした。だがあの医者は今日、休みであったのにもかかわらず職場へやってきたのを考えてみると、たかだかペンひとつのためにもどってくる可能性は低いようにも習一は思った。
(どうせまた出勤してくるだろ)
今日中に落とし主が現れなくとも、ものの数日のうちに会う機会がある。習一はそう楽観視し、食材の原型のない病院食を食べた。
習一が昼食をおえると、母が食器を下げた。もどってきた母は自身の手提げ鞄から刺繍道具を出す。これは病室に居座る姿勢である。さきほど母はどこかで昼食をとっていたことをふまえ、いまは帰宅をうながせるタイミングではないと習一は思い、母の好きにさせた。どのみち母には家事がある。干した洗濯物の整理や夕飯の用意などを考えれば、病院にいられるのはあと二、三時間くらいだ。不調和な言い合いをするよりは順当に時間をつぶすのが楽である。そう考えた習一は院内にあった本を読みすすめた。
習一が文庫本を開いたとき、母が習一のほうを見た。きっと母の用意した本がいつ読まれるのかと心配になっているのだ。習一は母が購入した本を袋から出しておらず、本のタイトルさえ知らない。この態度はなにも母への嫌がらせというわけではなかった。興味が湧かないのである。母のセンスでは空虚な売れ筋の本を選ぶだろうと予想できており、そういった有名無実なものは習一の好みではない。もし読むとしたら、この環境でしか手に取らない病院所蔵の書籍をあらかた読み終えてからにしようと思った。
母子が個々の世界に没頭し、一時間ほどが経つ。習一にだんだんと眠気がせまってきた。座位で読書していた習一は仰向けにねそべる。その態勢で読書を続けるか、かるく寝てしまうか。この時間帯での昼寝はまだ夜の就寝に影響はすくないはず、などとぼんやり考えたころ、ノックが鳴る。だれがきたのやら、と習一は出入り口に興味を示した。
「失礼します」
低い声が聞こえた。男らしい声色であり、ペンをうっかりわすれた医者では到底出せない声質だ。
(やっときたか?)
習一は警官の使いがきたと思い、すぐに上体を起こしにかかる。すぐに、といっても一か月間も運動していなかった体だ。思いとは裏腹にのろのろとした動作だった。どうにか座位になり、引き戸に注目する。そのときすでに男性は入室していて、戸を几帳面に閉めていた。
習一は入室者のうしろ姿を念入りに観察する。それは露木が事前に言っていた特徴と照合するためである。
男性は一八〇センチを越えた長身。頭髪は光沢のある灰色の短髪で、上半身には黒灰色のシャツを着ている。ひじから下は肌が露出し、その色は健康的な褐色だ。この男の着るシャツは袖がひじにかかる程度の長さで、袖口に厚みがある。どうやら長袖を腕まくりしているらしい。その片手には黒いビジネスバッグを提げている。
(この男が……警官の言ってた教師か)
入室者は事前情報の特徴とほとんど合致した。あとは彼が着用するというサングラスをおがめれば確定する──のだが、現時点でも充分に個性的な風貌の持ち主ではある。おもに頭髪が、一般的に見かける色とは異なった。
珍奇ないでたちの男が振りかえる。彼の目元は黄色のレンズで覆われていた。外見年齢は三十歳すぎ。見る人によっては青年と呼べる年ごろかもしれないが、この教師にはその呼称が似合わない落ちつきがあった。
男性はまず習一の母に一礼する。母もつられて頭を下げた。
「先日、ツユキという警官がこちらへうかがったと思いますが」
教師が穏やかな顔つきで、母に事情を話しだした。この男性は風貌が異質であっても、言動はいたって普通である。その態度にごまされた母は奇異な訪問者に怖気づくことなく、うんうんと話を合わせた。母が無警戒な一方で、習一は警戒体勢をとる。
(こいつとやり合えば、負けるな)
教師と争うつもりは習一にない。だが拳で悪友をしたがえた経験のせいか、戦えそうな人を見るとその力量を気にするようになった。教師は一見するとただ背が高いだけの体つきに思えたのだが、よく観察するとアスリートの風格がある。シャツに沿う胸筋の張りと露出する腕の筋肉が、一流スポーツ選手のそれと似ているのだ。この教師は普通の教職員には不必要な鍛錬をかさねているらしい。ただ、教職員であっても職務上、鍛錬する正当性をもつ人はいる。
(体育教師か?)
この教師がどの教科を指導していようと習一には関係ない。なんの益もない予想を立てながら、習一は大人二人の会話を傍観した。
(どうせまた出勤してくるだろ)
今日中に落とし主が現れなくとも、ものの数日のうちに会う機会がある。習一はそう楽観視し、食材の原型のない病院食を食べた。
習一が昼食をおえると、母が食器を下げた。もどってきた母は自身の手提げ鞄から刺繍道具を出す。これは病室に居座る姿勢である。さきほど母はどこかで昼食をとっていたことをふまえ、いまは帰宅をうながせるタイミングではないと習一は思い、母の好きにさせた。どのみち母には家事がある。干した洗濯物の整理や夕飯の用意などを考えれば、病院にいられるのはあと二、三時間くらいだ。不調和な言い合いをするよりは順当に時間をつぶすのが楽である。そう考えた習一は院内にあった本を読みすすめた。
習一が文庫本を開いたとき、母が習一のほうを見た。きっと母の用意した本がいつ読まれるのかと心配になっているのだ。習一は母が購入した本を袋から出しておらず、本のタイトルさえ知らない。この態度はなにも母への嫌がらせというわけではなかった。興味が湧かないのである。母のセンスでは空虚な売れ筋の本を選ぶだろうと予想できており、そういった有名無実なものは習一の好みではない。もし読むとしたら、この環境でしか手に取らない病院所蔵の書籍をあらかた読み終えてからにしようと思った。
母子が個々の世界に没頭し、一時間ほどが経つ。習一にだんだんと眠気がせまってきた。座位で読書していた習一は仰向けにねそべる。その態勢で読書を続けるか、かるく寝てしまうか。この時間帯での昼寝はまだ夜の就寝に影響はすくないはず、などとぼんやり考えたころ、ノックが鳴る。だれがきたのやら、と習一は出入り口に興味を示した。
「失礼します」
低い声が聞こえた。男らしい声色であり、ペンをうっかりわすれた医者では到底出せない声質だ。
(やっときたか?)
習一は警官の使いがきたと思い、すぐに上体を起こしにかかる。すぐに、といっても一か月間も運動していなかった体だ。思いとは裏腹にのろのろとした動作だった。どうにか座位になり、引き戸に注目する。そのときすでに男性は入室していて、戸を几帳面に閉めていた。
習一は入室者のうしろ姿を念入りに観察する。それは露木が事前に言っていた特徴と照合するためである。
男性は一八〇センチを越えた長身。頭髪は光沢のある灰色の短髪で、上半身には黒灰色のシャツを着ている。ひじから下は肌が露出し、その色は健康的な褐色だ。この男の着るシャツは袖がひじにかかる程度の長さで、袖口に厚みがある。どうやら長袖を腕まくりしているらしい。その片手には黒いビジネスバッグを提げている。
(この男が……警官の言ってた教師か)
入室者は事前情報の特徴とほとんど合致した。あとは彼が着用するというサングラスをおがめれば確定する──のだが、現時点でも充分に個性的な風貌の持ち主ではある。おもに頭髪が、一般的に見かける色とは異なった。
珍奇ないでたちの男が振りかえる。彼の目元は黄色のレンズで覆われていた。外見年齢は三十歳すぎ。見る人によっては青年と呼べる年ごろかもしれないが、この教師にはその呼称が似合わない落ちつきがあった。
男性はまず習一の母に一礼する。母もつられて頭を下げた。
「先日、ツユキという警官がこちらへうかがったと思いますが」
教師が穏やかな顔つきで、母に事情を話しだした。この男性は風貌が異質であっても、言動はいたって普通である。その態度にごまされた母は奇異な訪問者に怖気づくことなく、うんうんと話を合わせた。母が無警戒な一方で、習一は警戒体勢をとる。
(こいつとやり合えば、負けるな)
教師と争うつもりは習一にない。だが拳で悪友をしたがえた経験のせいか、戦えそうな人を見るとその力量を気にするようになった。教師は一見するとただ背が高いだけの体つきに思えたのだが、よく観察するとアスリートの風格がある。シャツに沿う胸筋の張りと露出する腕の筋肉が、一流スポーツ選手のそれと似ているのだ。この教師は普通の教職員には不必要な鍛錬をかさねているらしい。ただ、教職員であっても職務上、鍛錬する正当性をもつ人はいる。
(体育教師か?)
この教師がどの教科を指導していようと習一には関係ない。なんの益もない予想を立てながら、習一は大人二人の会話を傍観した。
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