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2018年10月14日
拓馬篇後記−3
拓馬は家へもどった。トーマを家へあがらせる際、犬の四つの足をふく。出かけるまえに用意しておいたぬれタオルを使い、肉球の表面と肉球同士のすきまをきれいにした。その作業中に父に「おかえり」と声をかけられる。
「長かったね。今日は遠出してきた?」
「いんや、ちょっと人と話しこんでた」
「へえ、どんな人と?」
「大畑さんが──」
拓馬は犬のケアと並行して、散歩中の出来事を話した。大畑とヤマダ両名との会話を父が知ると「いいじゃないか」と言う。
「それは手伝ってあげたらいい。椙守くんも行きやすくなるだろう」
父は椙守贔屓なところがある。椙守の生まれつき卑弱な体質が、同情をさそうのだろう。父は若いころ、体がよわかったという。といっても二人のよわさは方向性がちがう。父は病がち、椙守は非力で運動音痴。病弱な者が常人より体力面に劣ることはよくあっても、体力がないからといって病弱とはかぎらない。
(行くしかなさそうな空気になってきたな……)
ひかえめな父がすすめることだ。これをことわるには確固たる理由がなくては拓馬の納得がいかない。そして、拒否する理由は不確定な要素にだけある。
「体験会だけですむなら、な……」
拓馬は台所で犬専用の皿に水を入れる。その水をトーマに飲ませてやった。父もトーマの朝食用のドッグフードを用意する。
「体験会がおわったあとも手伝わされるかは、まだわからないんだろう? だったらその話が出たときに考えていいんじゃないか」
「ああ、うん……」
父の助言は拓馬に迷いを生じさせた。父の指示にしたがえば、拓馬は今月の日曜日の参加についてのみ大畑に口を出せばよいことになる。それが無難だ。夏休み期間中の指導のことをつつくと墓穴をほりかねない。「俺にやらせるのか」とこちらから言えば「その方法があったか!」とばかりに大畑を乗り気にさせる可能性がある。
(でも気にはなるよな)
大畑がなぜハードな夏季日程を組んだのか。それをうまく聞き出したいと拓馬は思った。
父がトーマのエサを計量カップで皿にうつしていると、呼鈴が鳴った。大畑だ、と察した拓馬はすぐに玄関へ向かった。玄関の戸が勝手に開く。
「おはようございます! 拓馬くん……はそこにいたか!」
体格も威勢もよい中年男性が玄関へ入ってくる。その格好は夏らしい半袖短パンだ。散歩中に着ていた服とは色がちがう。他人の家へ訪問するエチケットとして身綺麗にしてきたらしい。
「約束のチラシだ! もらってほしい」
「あ、はい……」
拓馬は手製のチラシを受け取り、目を通した。ヤマダに見せてもらったのと同じ内容だ。再読の必要はない。すぐに視線を大畑へもどした。大畑は不思議そうに「見なくていいのか?」と聞いてきた。
「はい、もう見たんで……」
大畑の目がかがやく。
「もしかして、チラシをとっておいてくれてた?」
「いえ、俺じゃなくて──」
「いやぁ、うれしいね。もう道場には興味ないみたいだったのに、気にかけてくれているとは! 心はまだ通じ合っていた──」
「ヤマダがもってたんです! 俺じゃありません」
拓馬は強く否定した。否定の主目的は、他人が聞いたら誤解しそうな言い回しをさえぎりたかったことにある。チラシの所有者の特定はどうでもよかった。
拓馬が声を荒げた結果、大畑はすこしひるんだ。しかし拓馬の態度は真実の追究にあると考えたようで、自身の失言に気付くことなく話をすすめる。
「もう知っていたなら話は早い。この体験会に指導員として加わってくれるかね?」
「はい、その体験会だけならかまいません」
「『だけ』? ほかにもなにか、たのんでいたかな」
拓馬はうっかり本音をもらした。大畑の内なる計画を知らない状態で「夏休みの指導も俺にやらせる気なんじゃないですか」と言うのはリスクが高い。
「あー……えっと、客寄せをやらされたらイヤだな、と思ってて」
適当に付帯業務をこじつけた。大畑はにっと笑んで「そんなことはさせないとも」と大見得を切る。
「そういう営業は指導員の役目じゃない、とワシは思っているよ」
「だからチラシ配りしてたんですか?」
「ああ、実澄さんから聞いたか。配るついでに体を鍛えられるし、よそで依頼しなくていいから安くつくし、いいことずくめでな」
自力でのポスティング行為には「出費を抑えたい」という動機があった。やはり金銭関係でなにか事情がある。
「なんで急に門下生を増やそうと思ったんです?」
拓馬が思う大畑とは、あまり損得にこだわらない人だ。空手とはべつに生業(なりわい)をもつせいか、道場の運営はボランティア感覚でやっているフシがある。先祖代々受け継ぐ道場を子孫の代まで維持できたらいい、といった感じで、大畑家の利益追求は二の次だ。このような熱心な宣伝行為をする光景は拓馬の記憶にないし、ましてや練習時間帯を増やすこともなかった。
大畑は照れくさそうに「多少お金が入り用で」と言う。
「いまの稼ぎじゃ将来不安になってな……」
「将来っていうと……子どもが産まれるんですか?」
大畑の妻はまだ三十代。出産をするのにムリのない年齢だ。大畑にはすでに子がいるが、女児ばかり。道場を継ぐのに穏当な男児は不在だ。有力な後継者を求めてもおかしくない。そう拓馬は考えていたが、大畑は「その予定はない」ときっぱり否定する。
「親戚が……居候するんだ」
すでに家庭をきずいている一家に親戚があがりこむ。これはあまり一般的ではない事態だ。
(身寄りのない親戚の子かな?)
と拓馬は予想したものの、大畑の言葉によってすぐ否定される。
「長い間、遠方にいっていた人で、これから職をさがす」
「職……ってことは、大人?」
「ああ、ワシのすこし下だ」
つまり四十歳前後の人だ。その年頃なら部屋を借りて、独り暮らしをしてもよさそうなものだ。
「アパートは借りられないんですか?」
「それはこれから考える。どうせ住むなら仕事場にちかいところをえらんだほうがいいしな」
「じゃあ、仕事が決まるまでの居候か……」
せいぜい年内でおさまりそうな出費だ。それだけで「将来が不安」と言うほど、大畑家に余裕がないのだろうか。
(あんまりよその家のお金のことは……)
こればかりは気心の知れた相手でも質問できなかった。拓馬がだまると大畑の表情がくもる。
「訳あってすぐに勤められそうにない。『どうしてか』と聞かないでおくれよ」
「はい」
「確実な勤め先がうちの道場だと思ってな。だから一ヶ月間は昼間も道場を開放できるわけだ」
「じゃ、その人も空手の指導員?」
「そう。ワシより強いぞ」
大畑の親類かつ強い人──拓馬はなんとなく、大畑に似た男くさい屈強な男性を想像した。素性は知らないものの、その人物が指導員に加わるというのなら拓馬が出る幕はなさそうだ。
「その人が体験会にも出れば、人手はじゅうぶんじゃないですか?」
「それが、初日は無理なんだ。開催日を一週ずらしておいたらよかったかとちょっと思ってる」
「つまり、二回めの体験会にはその人が出るってこと?」
「そういうことだ」
「じゃあ俺は初日だけで──」
「いやいや、ついでだから二回めも出てほしい。新規の門下生が予想以上に増えたら、お駄賃に色をつけよう」
「はぁ、わかりました」
拓馬は生返事をした。道場の催し物に参加して、お金をもらえるという感覚がどうにもしっくりこない。むかしはお金を支払ったのちにかよう場所だった。その変化がいまいち慣れない。
「言うまでもないが、当日は空手着を持参してほしい。それと準備があるから……八時半にきてもらえるかな」
「はい、行きます」
単発の雇用契約は成立した。大畑が去っていく。それと同時にトーマが玄関へやってきた。トーマは自身の口回りをぺろぺろなめている。もう朝食をとったようだ。客がきてもご飯を優先した理由は、トーマが大畑をそれほどこのんでいないからだ。動物の本能ゆえか、ああいった大柄で声の大きい人は敵として警戒しがちな面がある。
「俺も朝飯を食うかな……」
拓馬が居間へもどるとトーマもあとをついてくる。ごはんのおこぼれがもらえる、とでも思っているのだろうか。拓馬はトーマに自身のごはんを分けないのだが、トーマは食事中の拓馬にすりよることがしばしばあった。
「くっついててもなにもやらないからな」
一言忠告しておき、拓馬は食卓に着いた。
「長かったね。今日は遠出してきた?」
「いんや、ちょっと人と話しこんでた」
「へえ、どんな人と?」
「大畑さんが──」
拓馬は犬のケアと並行して、散歩中の出来事を話した。大畑とヤマダ両名との会話を父が知ると「いいじゃないか」と言う。
「それは手伝ってあげたらいい。椙守くんも行きやすくなるだろう」
父は椙守贔屓なところがある。椙守の生まれつき卑弱な体質が、同情をさそうのだろう。父は若いころ、体がよわかったという。といっても二人のよわさは方向性がちがう。父は病がち、椙守は非力で運動音痴。病弱な者が常人より体力面に劣ることはよくあっても、体力がないからといって病弱とはかぎらない。
(行くしかなさそうな空気になってきたな……)
ひかえめな父がすすめることだ。これをことわるには確固たる理由がなくては拓馬の納得がいかない。そして、拒否する理由は不確定な要素にだけある。
「体験会だけですむなら、な……」
拓馬は台所で犬専用の皿に水を入れる。その水をトーマに飲ませてやった。父もトーマの朝食用のドッグフードを用意する。
「体験会がおわったあとも手伝わされるかは、まだわからないんだろう? だったらその話が出たときに考えていいんじゃないか」
「ああ、うん……」
父の助言は拓馬に迷いを生じさせた。父の指示にしたがえば、拓馬は今月の日曜日の参加についてのみ大畑に口を出せばよいことになる。それが無難だ。夏休み期間中の指導のことをつつくと墓穴をほりかねない。「俺にやらせるのか」とこちらから言えば「その方法があったか!」とばかりに大畑を乗り気にさせる可能性がある。
(でも気にはなるよな)
大畑がなぜハードな夏季日程を組んだのか。それをうまく聞き出したいと拓馬は思った。
父がトーマのエサを計量カップで皿にうつしていると、呼鈴が鳴った。大畑だ、と察した拓馬はすぐに玄関へ向かった。玄関の戸が勝手に開く。
「おはようございます! 拓馬くん……はそこにいたか!」
体格も威勢もよい中年男性が玄関へ入ってくる。その格好は夏らしい半袖短パンだ。散歩中に着ていた服とは色がちがう。他人の家へ訪問するエチケットとして身綺麗にしてきたらしい。
「約束のチラシだ! もらってほしい」
「あ、はい……」
拓馬は手製のチラシを受け取り、目を通した。ヤマダに見せてもらったのと同じ内容だ。再読の必要はない。すぐに視線を大畑へもどした。大畑は不思議そうに「見なくていいのか?」と聞いてきた。
「はい、もう見たんで……」
大畑の目がかがやく。
「もしかして、チラシをとっておいてくれてた?」
「いえ、俺じゃなくて──」
「いやぁ、うれしいね。もう道場には興味ないみたいだったのに、気にかけてくれているとは! 心はまだ通じ合っていた──」
「ヤマダがもってたんです! 俺じゃありません」
拓馬は強く否定した。否定の主目的は、他人が聞いたら誤解しそうな言い回しをさえぎりたかったことにある。チラシの所有者の特定はどうでもよかった。
拓馬が声を荒げた結果、大畑はすこしひるんだ。しかし拓馬の態度は真実の追究にあると考えたようで、自身の失言に気付くことなく話をすすめる。
「もう知っていたなら話は早い。この体験会に指導員として加わってくれるかね?」
「はい、その体験会だけならかまいません」
「『だけ』? ほかにもなにか、たのんでいたかな」
拓馬はうっかり本音をもらした。大畑の内なる計画を知らない状態で「夏休みの指導も俺にやらせる気なんじゃないですか」と言うのはリスクが高い。
「あー……えっと、客寄せをやらされたらイヤだな、と思ってて」
適当に付帯業務をこじつけた。大畑はにっと笑んで「そんなことはさせないとも」と大見得を切る。
「そういう営業は指導員の役目じゃない、とワシは思っているよ」
「だからチラシ配りしてたんですか?」
「ああ、実澄さんから聞いたか。配るついでに体を鍛えられるし、よそで依頼しなくていいから安くつくし、いいことずくめでな」
自力でのポスティング行為には「出費を抑えたい」という動機があった。やはり金銭関係でなにか事情がある。
「なんで急に門下生を増やそうと思ったんです?」
拓馬が思う大畑とは、あまり損得にこだわらない人だ。空手とはべつに生業(なりわい)をもつせいか、道場の運営はボランティア感覚でやっているフシがある。先祖代々受け継ぐ道場を子孫の代まで維持できたらいい、といった感じで、大畑家の利益追求は二の次だ。このような熱心な宣伝行為をする光景は拓馬の記憶にないし、ましてや練習時間帯を増やすこともなかった。
大畑は照れくさそうに「多少お金が入り用で」と言う。
「いまの稼ぎじゃ将来不安になってな……」
「将来っていうと……子どもが産まれるんですか?」
大畑の妻はまだ三十代。出産をするのにムリのない年齢だ。大畑にはすでに子がいるが、女児ばかり。道場を継ぐのに穏当な男児は不在だ。有力な後継者を求めてもおかしくない。そう拓馬は考えていたが、大畑は「その予定はない」ときっぱり否定する。
「親戚が……居候するんだ」
すでに家庭をきずいている一家に親戚があがりこむ。これはあまり一般的ではない事態だ。
(身寄りのない親戚の子かな?)
と拓馬は予想したものの、大畑の言葉によってすぐ否定される。
「長い間、遠方にいっていた人で、これから職をさがす」
「職……ってことは、大人?」
「ああ、ワシのすこし下だ」
つまり四十歳前後の人だ。その年頃なら部屋を借りて、独り暮らしをしてもよさそうなものだ。
「アパートは借りられないんですか?」
「それはこれから考える。どうせ住むなら仕事場にちかいところをえらんだほうがいいしな」
「じゃあ、仕事が決まるまでの居候か……」
せいぜい年内でおさまりそうな出費だ。それだけで「将来が不安」と言うほど、大畑家に余裕がないのだろうか。
(あんまりよその家のお金のことは……)
こればかりは気心の知れた相手でも質問できなかった。拓馬がだまると大畑の表情がくもる。
「訳あってすぐに勤められそうにない。『どうしてか』と聞かないでおくれよ」
「はい」
「確実な勤め先がうちの道場だと思ってな。だから一ヶ月間は昼間も道場を開放できるわけだ」
「じゃ、その人も空手の指導員?」
「そう。ワシより強いぞ」
大畑の親類かつ強い人──拓馬はなんとなく、大畑に似た男くさい屈強な男性を想像した。素性は知らないものの、その人物が指導員に加わるというのなら拓馬が出る幕はなさそうだ。
「その人が体験会にも出れば、人手はじゅうぶんじゃないですか?」
「それが、初日は無理なんだ。開催日を一週ずらしておいたらよかったかとちょっと思ってる」
「つまり、二回めの体験会にはその人が出るってこと?」
「そういうことだ」
「じゃあ俺は初日だけで──」
「いやいや、ついでだから二回めも出てほしい。新規の門下生が予想以上に増えたら、お駄賃に色をつけよう」
「はぁ、わかりました」
拓馬は生返事をした。道場の催し物に参加して、お金をもらえるという感覚がどうにもしっくりこない。むかしはお金を支払ったのちにかよう場所だった。その変化がいまいち慣れない。
「言うまでもないが、当日は空手着を持参してほしい。それと準備があるから……八時半にきてもらえるかな」
「はい、行きます」
単発の雇用契約は成立した。大畑が去っていく。それと同時にトーマが玄関へやってきた。トーマは自身の口回りをぺろぺろなめている。もう朝食をとったようだ。客がきてもご飯を優先した理由は、トーマが大畑をそれほどこのんでいないからだ。動物の本能ゆえか、ああいった大柄で声の大きい人は敵として警戒しがちな面がある。
「俺も朝飯を食うかな……」
拓馬が居間へもどるとトーマもあとをついてくる。ごはんのおこぼれがもらえる、とでも思っているのだろうか。拓馬はトーマに自身のごはんを分けないのだが、トーマは食事中の拓馬にすりよることがしばしばあった。
「くっついててもなにもやらないからな」
一言忠告しておき、拓馬は食卓に着いた。
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