新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2018年10月25日
拓馬篇後記−12
道場の体験会初日から一週間が経過した。その間、シドの予定は軌道に乗った旨がヤマダから告げられた。こまかい報告はしなくていい、と拓馬が釘を刺したせいか、彼女の報告回数はすくなかった。拓馬が借り物を返却したときと、終業式で顔を合わせたとき。以後の連絡は拓馬に相談したいことができるか、事態が急変した際にすることになった。ヤマダ自身はちょくちょくシドから話を聞いているらしい。実際は聞くというよりは一緒に方策を考えている、といった感じのようだ。伝達の実態を知った拓馬は彼女に相談役を押し付けてしまったと思い、そのことをやんわり詫びた。ヤマダは笑って、
「タッちゃんにも話してから決めてたら、おそくなっちゃう。それじゃ金髪くんは待ってくれないよ」
と現状のやり方がよいのだと肯定した。そのうえで、
「次の体験会をがんばってね。それはタッちゃんにまかされた人助けなんだから」
と拓馬の役目を優先するように言った。その言い分はもっともなので、拓馬は大畑の手伝いに気持ちを向けた。
拓馬は体験会二回目の準備に参加しにいった。とくに時間の再指定はなかったので、前回と同じ時刻に到着するようにした。
道場の前にはテントが設営されてあった。受付は道場の外でやる方向のままだ。受付係が着く机と椅子のうしろに、首の高い扇風機が設置してある。その扇風機になにかをしている人がいる。
(師範代か?)
白い頭巾をかぶった人だ。前回の大畑のファッションとはちがうが、肩幅は大畑に似ていた。
頭巾の者が拓馬のいるほうへ振り向いた。その顔は大畑ではなかった。ごつごつとした大畑とはまったく異なる、線の細い顔立ちだ。そのまなざしはおそらく、だれもが認める美男のたぐいである。どこか女性的な顔だと拓馬は感じたが、あきらかに男性だともわかる雰囲気だ。その差異に混乱が生じる。
(あれ? なんで女っぽいと思うんだ?)
相手はどう見ても男性特有のたくましい外見をしている。まごうことなき偉丈夫だ。女性らしさを感じる要素はないはずだが、かといって理屈に合わない直感を捨て置けなかった。
頭巾の男性が首をかしげ、「えっと……」とつぶやく。
「きみが、指導員の男の子?」
「あ、はい……」
正式に指導員になったつもりはないが、と拓馬は反論するのをおさえた。初対面の人とは当たり障りのない会話に努めるべき、と思ったためだ。男性は屈託なく笑む。
「高校生なんだったっけ。学校はもう夏休み?」
「はい、休みに入りました」
「休み中の予定はあるかい?」
「今日の手伝い以外は、とくに……」
「へえ、フリーなのか。夏休みには部活があるもんだと思ったけど」
拓馬は返答に困った。現在の部活動状況は大畑に伝えていない。その関係者である男性に真実を言えば、大畑の知るところとなる。幽霊部員だと知られるメリットはあるか、と考えると、デメリットのほうがあるような気がした。
拓馬が口ごもると人懐っこい男性は立ち上がる。肩回りの発達具合にふさわしい背の高さが顕著になった。背丈は大畑を超えているかもしれない。
「外で話すのもなんだし、中で準備しながらがいいか。ここはもうおわったから」
頭巾の男性は自己紹介を後回しにするつもりだ。拓馬もなるべく日陰で物事をすすめたいと思うので、彼の判断に同調した。
男性は道場の玄関をくぐった。拓馬は大人しくついていく。相手方の身分はまだ明かされていないが、あの男性が大畑の言っていた親戚にちがいなかった。彼は拓馬が思っていたよりも若く、三十代半ばな風貌の人だ。
(どっかで見たような感じがするんだよな……)
この男性を拓馬は知らない。そのはずが、しかし見覚えもあるという違和感がせめぎ合う。
(あの目か?)
彼のぱっちりした目に既視感をおぼえた。そこが女性的だと感じている。
(ああいう目をした女の人を、知ってる?)
自身の直感をかみ砕いて考えてみると、その結論が浮上した。しかし該当する女性がだれかまではすぐに出てこない。
(師範代の家族の女性……奥さん?)
しかし大畑の妻とは顔立ちがちがう。大畑の妻はけっして不美人ではないが、美人と断言するのは人によるような、クセのある外見だ。
(奥さんじゃないなら、娘さんか?)
大畑の娘は複数人いる。まっさきに思い浮かんだのは先週見かけた長女だ。彼女はおよそ普遍的な美形である。
(あの目……師範代の娘さんと似てる?)
大畑自慢の長女は大畑の母親に似ているという。その娘と頭巾の男性が似る事態は、二人が親戚である以上、ありうることだ。両者に共通する血筋は、大畑の母。外見の特徴をふまえると、男性は大畑の母につらなる親類だということになる。
(この人が娘さんとならんでたら、たぶん父親にまちがわれそうだな)
大畑の長女は実の両親と顔が似ていない。それでいて、親戚の者には似る──そんな子どももいるものなのだと、拓馬は血脈の不可思議を見た気がした。
「タッちゃんにも話してから決めてたら、おそくなっちゃう。それじゃ金髪くんは待ってくれないよ」
と現状のやり方がよいのだと肯定した。そのうえで、
「次の体験会をがんばってね。それはタッちゃんにまかされた人助けなんだから」
と拓馬の役目を優先するように言った。その言い分はもっともなので、拓馬は大畑の手伝いに気持ちを向けた。
拓馬は体験会二回目の準備に参加しにいった。とくに時間の再指定はなかったので、前回と同じ時刻に到着するようにした。
道場の前にはテントが設営されてあった。受付は道場の外でやる方向のままだ。受付係が着く机と椅子のうしろに、首の高い扇風機が設置してある。その扇風機になにかをしている人がいる。
(師範代か?)
白い頭巾をかぶった人だ。前回の大畑のファッションとはちがうが、肩幅は大畑に似ていた。
頭巾の者が拓馬のいるほうへ振り向いた。その顔は大畑ではなかった。ごつごつとした大畑とはまったく異なる、線の細い顔立ちだ。そのまなざしはおそらく、だれもが認める美男のたぐいである。どこか女性的な顔だと拓馬は感じたが、あきらかに男性だともわかる雰囲気だ。その差異に混乱が生じる。
(あれ? なんで女っぽいと思うんだ?)
相手はどう見ても男性特有のたくましい外見をしている。まごうことなき偉丈夫だ。女性らしさを感じる要素はないはずだが、かといって理屈に合わない直感を捨て置けなかった。
頭巾の男性が首をかしげ、「えっと……」とつぶやく。
「きみが、指導員の男の子?」
「あ、はい……」
正式に指導員になったつもりはないが、と拓馬は反論するのをおさえた。初対面の人とは当たり障りのない会話に努めるべき、と思ったためだ。男性は屈託なく笑む。
「高校生なんだったっけ。学校はもう夏休み?」
「はい、休みに入りました」
「休み中の予定はあるかい?」
「今日の手伝い以外は、とくに……」
「へえ、フリーなのか。夏休みには部活があるもんだと思ったけど」
拓馬は返答に困った。現在の部活動状況は大畑に伝えていない。その関係者である男性に真実を言えば、大畑の知るところとなる。幽霊部員だと知られるメリットはあるか、と考えると、デメリットのほうがあるような気がした。
拓馬が口ごもると人懐っこい男性は立ち上がる。肩回りの発達具合にふさわしい背の高さが顕著になった。背丈は大畑を超えているかもしれない。
「外で話すのもなんだし、中で準備しながらがいいか。ここはもうおわったから」
頭巾の男性は自己紹介を後回しにするつもりだ。拓馬もなるべく日陰で物事をすすめたいと思うので、彼の判断に同調した。
男性は道場の玄関をくぐった。拓馬は大人しくついていく。相手方の身分はまだ明かされていないが、あの男性が大畑の言っていた親戚にちがいなかった。彼は拓馬が思っていたよりも若く、三十代半ばな風貌の人だ。
(どっかで見たような感じがするんだよな……)
この男性を拓馬は知らない。そのはずが、しかし見覚えもあるという違和感がせめぎ合う。
(あの目か?)
彼のぱっちりした目に既視感をおぼえた。そこが女性的だと感じている。
(ああいう目をした女の人を、知ってる?)
自身の直感をかみ砕いて考えてみると、その結論が浮上した。しかし該当する女性がだれかまではすぐに出てこない。
(師範代の家族の女性……奥さん?)
しかし大畑の妻とは顔立ちがちがう。大畑の妻はけっして不美人ではないが、美人と断言するのは人によるような、クセのある外見だ。
(奥さんじゃないなら、娘さんか?)
大畑の娘は複数人いる。まっさきに思い浮かんだのは先週見かけた長女だ。彼女はおよそ普遍的な美形である。
(あの目……師範代の娘さんと似てる?)
大畑自慢の長女は大畑の母親に似ているという。その娘と頭巾の男性が似る事態は、二人が親戚である以上、ありうることだ。両者に共通する血筋は、大畑の母。外見の特徴をふまえると、男性は大畑の母につらなる親類だということになる。
(この人が娘さんとならんでたら、たぶん父親にまちがわれそうだな)
大畑の長女は実の両親と顔が似ていない。それでいて、親戚の者には似る──そんな子どももいるものなのだと、拓馬は血脈の不可思議を見た気がした。
タグ:拓馬
2018年10月22日
拓馬篇後記−11
呼鈴が響いた。犬の吠える声もした。拓馬は目を開け、なにが起きたのか確かめる。周りは明るい。時計を見れば十五時台。まだ昼間だ。そしてこの場は実家である。
(客? だれか出て──)
他力をねがったが、それは無意味だと思い出した。現在、家には拓馬と飼い犬のみがいる。居間の戸は開け放たれている。犬が客の出迎えにいったようだ。この積極性をかんがみるに、来訪者は大畑でないことが予想できた。
(起きよう……)
犬が間をもたせているのを好機とし、拓馬は身を起こした。廊下を出て、玄関先にいる人物を正視する。来訪者はヤマダだ。道場ではお団子頭だった髪をいつものポニーテールに直してある。彼女はトーマの首元をなでていた。
「ん? トーマをさわりにきたのか」
「あ、それだけじゃないよ」
ヤマダは玄関に設置された下足の棚を指差した。棚の上には大小二つのプラスチック容器が重なって置いてある。下は教科書を入れられそうなサイズ、上は炊いた米一膳分を入れるのにちょうどよさそうなサイズ。どちらも本体部分が透明だ。中身はクッキーのようである。
「クッキー焼いてきた。小さいほうがトーマ用ね。砂糖を使ってないの」
「ありがとうな。でも、なんでいまつくろうとしたんだ?」
拓馬はひそかに、自身が大畑の手伝いをこなしたことへのねぎらいかと思った。ヤマダは「ためしたいことがあって」とべつの動機をほのめかす。
「それとタッちゃんに教えておきたいことも」
「俺に?」
「ねえ、いまはお家の人、いないの?」
ヤマダは訪問時の応対に犬と人との時間差があったことから、察しがついたようだ。なおかつ、その状況を好機と思ったらしい。顔には微笑ができている。
「ああ、上がってくか?」
拓馬は彼女の主目的が他言無用な情報の共有だと気付いた。ヤマダをすずしい居間へ案内する。拓馬はソファにすわるが、ヤマダはトーマに抱きつきたいために床へすわった。同時にクッキーの入った容器は座卓に置いた。
「父さんたちがいつもどってくるか、わからない。人に言えないことは早めに言ってくれよ」
「そうだね。じゃあクッキーはあとで食べてもらうとして……」
ヤマダは片手でトーマをさわりながらもう片方の手でメモを取りだした。折りたたんだ紙を広げる。
「シド先生が金髪くんに会いに行ってきた。本人は復学のために先生が協力するのをオーケーしてるって」
「あいつがよく了解したな」
「オーケーといっても後ろ向きなほうだね。金髪くんの先生たちがシド先生を追い出したら、それでこの話はナシという約束」
「いまは確定してないってことだな」
「うん、金髪くんのことは明日からも先生ががんばらなきゃね」
ヤマダが拓馬に同意を求めるように見つめる。以降もこういった状況連絡が入ってきそうだ、と拓馬は感じた。それは不必要な気遣いだと思うので断りを入れる。
「そのへんは逐一俺に伝えなくていいぞ。知っててもなにもできねえし」
「そう? 気になってるかと思ったけど」
「そいつは先生とシズカさんがいりゃ、どうにかなるだろうよ。俺にたのむことがあるときにまた教えてくれ」
「じゃあそうする」
「それよか道場にきたやつだ。あいつのことを先生はなんか言ってなかったか?」
「あれ、シズカさんに聞いたんじゃないの?」
たしかに拓馬は不審者についてシズカにたずねると宣言した。知った情報に不足があることを、知れた情報をまじえて説明する。
「聞きはした。そいつもシズカさんみたいな呼出し主がいて、そのおかげでこっちの世界で活動してるらしい。シズカさんはまえから知ってた相手みたいだ」
「知り合いなんだ?」
「ああ、俺らには害のないやつだろうけど、合ってるか断定できないってさ。あとで先生に確認するそうだ。だから先生の判断がほしい」
ヤマダはメモにあらためて視線を落とす。
「先生も似たようなことを言ってたよ。わたしたちは気にしなくていいって」
「俺らはよくても、先生はどうなんだ?」
「……だましだましやってくって」
「どういうこった?」
「あんまりいいふうに思われてないんだって」
「敵だと思われてるのか?」
ヤマダはメモを見たまま、顔をしかめる。
「極端に言ったら、そうなんだろうね」
「なんでそいつは先生をねらう?」
「覆面忍者さんを従えてる人は、悪者退治をやってるって。その仕事のうち」
「それならシズカさんの同業者なんじゃないか? 協力してもらえばいいのに」
同じこころざしをもつ者同士、理解し合えるのではないかと拓馬は考えた。しかしヤマダの表情は変わらない。
「そうもいかないみたい。考え方がちがうのかな」
「なんでだ? シズカさんからそいつに事情を話せないのか」
「話しても引き下がってくれそうにないって。その人もその人でやり方があるとか」
話し合いでは合意をえられない。拓馬は忍者の使役主の頑迷さを不快に感じる。
「やろうとしてることが同じなのに、ケンカするはめになるのか」
「まだわかり合えてないからだよ。わたしたちはよく知らないけど、先生はあっちの世界じゃハデにわるさしてたらしい。その前科のせいで警戒されてる」
犯してきた罪の重さゆえにうたがわれる──それは罪人が生身の人間であろうと湧いてしまう不信だ。拓馬たちはさきにシドの人となりを見てきたので、真実を知っても彼を信用できた。だがその逆、つまりシドの罪を知っているが彼の性情を知らない者ではどうか。周囲の人間をだまし、また次の犯行の機会をうかがっている──と考えたとしても、致し方ない面はある。
「そいつは先生をただの悪人としか思ってないわけだ」
「そういうこと。先生に危険がないことが伝わったら、ほっといてくれると思う」
ヤマダはメモをポケットへしまった。これで報告はおわりだ。空いた手で放置していた小さな容器をさわる。
「トーマにおやつあげてもいい?」
「ああ、ちなみに材料はなんだ?」
「片栗粉と、豆乳と、カボチャ!」
ヤマダは容器の蓋を開けた。オレンジ色がかったクッキーをひとつ指でつまみ、となりにすわる犬へ向けた。犬は四角いクッキーに鼻を近づけて、すんすんと嗅ぐ。やさしくクッキーをくわえ、パリポリと食べだした。その口元の下にヤマダが手のひらを添える。食べかすを手で受けているのだ。クッキーを飲みこんだ犬はヤマダの手をぺろぺろなめた。落ちた食べかすをのこさず回収している。そこそこにおいしかったらしい。ヤマダがもうひとつつまむと、それもさくっと食べた。
「よし、合格っぽいね」
「まあまあイケるっていう食いつきだな」
「やっぱりお肉のガッつきには負けるね」
「トーマの好みの研究なんてしなくていいんだぞ。大抵のもんは食うバカ舌なんだから」
「今日のはねえ、トーマがメインじゃないの。先生たちが元気出るものをつくりたくて、これはそのおすそわけ」
シドとその仲間のエリーは活力の補給方法が特殊だ。普通の飲食ではあまり栄養にならず、かわりに生き物が所有する活力を吸い取る。しかしその方法だと吸い取られた側が疲労する。そしてヤマダはもっぱらその吸われ役を担当する。本人はその行為を了承済みだが、ほかに良い手段があるならそちらに切り替えたいとは考えているようだ。
「わたしの体から出る力が先生のご飯になるっていうでしょ。わたしの手でつくった料理にも栄養がうつるんじゃないかなーっと思って」
「それが『ためしたいこと』か?」
「うん。そうそう、この容器はどうしようか? 置いていってもいいんだけど」
クッキーを入れた容器をどうするか、とは、拓馬が容器ごと借りてクッキーをもらうか、根岸宅にある容器にクッキーをうつしてから小山田家の容器を返却するかの二択をえらんでほしいという意味だ。拓馬はこれらのクッキーをおさめるのにちょうどよい器が思いつけず、借りておく方向に決める。
「あとで洗って返す。あしたか明後日になるかわかんねえけど、いいか?」
「うん、洗うのがめんどーだったら空になったのを返してくれてもいいよ」
「俺はそんなズボラじゃない」
中身がクッキーならば容器のよごれは大してつかないが、それを放置したまま持ち主に返すという行動は拓馬の生活信条に反した。ヤマダはにっこり笑う。
「マジメだね。そういや、先生にも焼き菓子をあげたことがあるんだけど、そのときに貸した容器はやっぱりきれいになってたよ」
「そりゃ先生だもんな」
シドの誠実さは二人に十二分に伝わっている。礼には礼を、恩には恩をもって返す。彼はそういった礼儀をわきまえているのだ。それらの行ないが拓馬たちの信用を得た要因である。
ヤマダは菓子の容器の蓋を閉めた。その表情は笑顔から一変して、沈みがちだ。
「先生をうたがってる忍者さんたちも、先生と一緒にすごしてみればいいんだよ。先生んちに泊まりこんでさ、一週間もすれば見方が変わると思う」
「うたがってるうちはムリだろうな。『不意打ちをつかれる』とか思って、普通の行動にも難癖つけてきそうだ」
「むずかしいね、最初にサイアクな印象をもたれたあとの挽回って」
ヤマダは犬をなでた。トーマは会話の内容なぞそしらぬ顔で、自分が食べていたクッキーがのこる容器に鼻を近づけている。まだ食べたい、という意志表示のようだ。
「んじゃ、あとはタッちゃんがトーマにあげてね」
「ああ、わかった」
ヤマダは帰っていった。帰り際、トーマは彼女の見送りをした。お菓子以上にヤマダのことが気になるのだ。普段は食い意地が張っているようでいて、こういうところではきちんと愛想をふりまく。これも犬なりの誠実さだ、と拓馬は内心、愛犬を評した。
(客? だれか出て──)
他力をねがったが、それは無意味だと思い出した。現在、家には拓馬と飼い犬のみがいる。居間の戸は開け放たれている。犬が客の出迎えにいったようだ。この積極性をかんがみるに、来訪者は大畑でないことが予想できた。
(起きよう……)
犬が間をもたせているのを好機とし、拓馬は身を起こした。廊下を出て、玄関先にいる人物を正視する。来訪者はヤマダだ。道場ではお団子頭だった髪をいつものポニーテールに直してある。彼女はトーマの首元をなでていた。
「ん? トーマをさわりにきたのか」
「あ、それだけじゃないよ」
ヤマダは玄関に設置された下足の棚を指差した。棚の上には大小二つのプラスチック容器が重なって置いてある。下は教科書を入れられそうなサイズ、上は炊いた米一膳分を入れるのにちょうどよさそうなサイズ。どちらも本体部分が透明だ。中身はクッキーのようである。
「クッキー焼いてきた。小さいほうがトーマ用ね。砂糖を使ってないの」
「ありがとうな。でも、なんでいまつくろうとしたんだ?」
拓馬はひそかに、自身が大畑の手伝いをこなしたことへのねぎらいかと思った。ヤマダは「ためしたいことがあって」とべつの動機をほのめかす。
「それとタッちゃんに教えておきたいことも」
「俺に?」
「ねえ、いまはお家の人、いないの?」
ヤマダは訪問時の応対に犬と人との時間差があったことから、察しがついたようだ。なおかつ、その状況を好機と思ったらしい。顔には微笑ができている。
「ああ、上がってくか?」
拓馬は彼女の主目的が他言無用な情報の共有だと気付いた。ヤマダをすずしい居間へ案内する。拓馬はソファにすわるが、ヤマダはトーマに抱きつきたいために床へすわった。同時にクッキーの入った容器は座卓に置いた。
「父さんたちがいつもどってくるか、わからない。人に言えないことは早めに言ってくれよ」
「そうだね。じゃあクッキーはあとで食べてもらうとして……」
ヤマダは片手でトーマをさわりながらもう片方の手でメモを取りだした。折りたたんだ紙を広げる。
「シド先生が金髪くんに会いに行ってきた。本人は復学のために先生が協力するのをオーケーしてるって」
「あいつがよく了解したな」
「オーケーといっても後ろ向きなほうだね。金髪くんの先生たちがシド先生を追い出したら、それでこの話はナシという約束」
「いまは確定してないってことだな」
「うん、金髪くんのことは明日からも先生ががんばらなきゃね」
ヤマダが拓馬に同意を求めるように見つめる。以降もこういった状況連絡が入ってきそうだ、と拓馬は感じた。それは不必要な気遣いだと思うので断りを入れる。
「そのへんは逐一俺に伝えなくていいぞ。知っててもなにもできねえし」
「そう? 気になってるかと思ったけど」
「そいつは先生とシズカさんがいりゃ、どうにかなるだろうよ。俺にたのむことがあるときにまた教えてくれ」
「じゃあそうする」
「それよか道場にきたやつだ。あいつのことを先生はなんか言ってなかったか?」
「あれ、シズカさんに聞いたんじゃないの?」
たしかに拓馬は不審者についてシズカにたずねると宣言した。知った情報に不足があることを、知れた情報をまじえて説明する。
「聞きはした。そいつもシズカさんみたいな呼出し主がいて、そのおかげでこっちの世界で活動してるらしい。シズカさんはまえから知ってた相手みたいだ」
「知り合いなんだ?」
「ああ、俺らには害のないやつだろうけど、合ってるか断定できないってさ。あとで先生に確認するそうだ。だから先生の判断がほしい」
ヤマダはメモにあらためて視線を落とす。
「先生も似たようなことを言ってたよ。わたしたちは気にしなくていいって」
「俺らはよくても、先生はどうなんだ?」
「……だましだましやってくって」
「どういうこった?」
「あんまりいいふうに思われてないんだって」
「敵だと思われてるのか?」
ヤマダはメモを見たまま、顔をしかめる。
「極端に言ったら、そうなんだろうね」
「なんでそいつは先生をねらう?」
「覆面忍者さんを従えてる人は、悪者退治をやってるって。その仕事のうち」
「それならシズカさんの同業者なんじゃないか? 協力してもらえばいいのに」
同じこころざしをもつ者同士、理解し合えるのではないかと拓馬は考えた。しかしヤマダの表情は変わらない。
「そうもいかないみたい。考え方がちがうのかな」
「なんでだ? シズカさんからそいつに事情を話せないのか」
「話しても引き下がってくれそうにないって。その人もその人でやり方があるとか」
話し合いでは合意をえられない。拓馬は忍者の使役主の頑迷さを不快に感じる。
「やろうとしてることが同じなのに、ケンカするはめになるのか」
「まだわかり合えてないからだよ。わたしたちはよく知らないけど、先生はあっちの世界じゃハデにわるさしてたらしい。その前科のせいで警戒されてる」
犯してきた罪の重さゆえにうたがわれる──それは罪人が生身の人間であろうと湧いてしまう不信だ。拓馬たちはさきにシドの人となりを見てきたので、真実を知っても彼を信用できた。だがその逆、つまりシドの罪を知っているが彼の性情を知らない者ではどうか。周囲の人間をだまし、また次の犯行の機会をうかがっている──と考えたとしても、致し方ない面はある。
「そいつは先生をただの悪人としか思ってないわけだ」
「そういうこと。先生に危険がないことが伝わったら、ほっといてくれると思う」
ヤマダはメモをポケットへしまった。これで報告はおわりだ。空いた手で放置していた小さな容器をさわる。
「トーマにおやつあげてもいい?」
「ああ、ちなみに材料はなんだ?」
「片栗粉と、豆乳と、カボチャ!」
ヤマダは容器の蓋を開けた。オレンジ色がかったクッキーをひとつ指でつまみ、となりにすわる犬へ向けた。犬は四角いクッキーに鼻を近づけて、すんすんと嗅ぐ。やさしくクッキーをくわえ、パリポリと食べだした。その口元の下にヤマダが手のひらを添える。食べかすを手で受けているのだ。クッキーを飲みこんだ犬はヤマダの手をぺろぺろなめた。落ちた食べかすをのこさず回収している。そこそこにおいしかったらしい。ヤマダがもうひとつつまむと、それもさくっと食べた。
「よし、合格っぽいね」
「まあまあイケるっていう食いつきだな」
「やっぱりお肉のガッつきには負けるね」
「トーマの好みの研究なんてしなくていいんだぞ。大抵のもんは食うバカ舌なんだから」
「今日のはねえ、トーマがメインじゃないの。先生たちが元気出るものをつくりたくて、これはそのおすそわけ」
シドとその仲間のエリーは活力の補給方法が特殊だ。普通の飲食ではあまり栄養にならず、かわりに生き物が所有する活力を吸い取る。しかしその方法だと吸い取られた側が疲労する。そしてヤマダはもっぱらその吸われ役を担当する。本人はその行為を了承済みだが、ほかに良い手段があるならそちらに切り替えたいとは考えているようだ。
「わたしの体から出る力が先生のご飯になるっていうでしょ。わたしの手でつくった料理にも栄養がうつるんじゃないかなーっと思って」
「それが『ためしたいこと』か?」
「うん。そうそう、この容器はどうしようか? 置いていってもいいんだけど」
クッキーを入れた容器をどうするか、とは、拓馬が容器ごと借りてクッキーをもらうか、根岸宅にある容器にクッキーをうつしてから小山田家の容器を返却するかの二択をえらんでほしいという意味だ。拓馬はこれらのクッキーをおさめるのにちょうどよい器が思いつけず、借りておく方向に決める。
「あとで洗って返す。あしたか明後日になるかわかんねえけど、いいか?」
「うん、洗うのがめんどーだったら空になったのを返してくれてもいいよ」
「俺はそんなズボラじゃない」
中身がクッキーならば容器のよごれは大してつかないが、それを放置したまま持ち主に返すという行動は拓馬の生活信条に反した。ヤマダはにっこり笑う。
「マジメだね。そういや、先生にも焼き菓子をあげたことがあるんだけど、そのときに貸した容器はやっぱりきれいになってたよ」
「そりゃ先生だもんな」
シドの誠実さは二人に十二分に伝わっている。礼には礼を、恩には恩をもって返す。彼はそういった礼儀をわきまえているのだ。それらの行ないが拓馬たちの信用を得た要因である。
ヤマダは菓子の容器の蓋を閉めた。その表情は笑顔から一変して、沈みがちだ。
「先生をうたがってる忍者さんたちも、先生と一緒にすごしてみればいいんだよ。先生んちに泊まりこんでさ、一週間もすれば見方が変わると思う」
「うたがってるうちはムリだろうな。『不意打ちをつかれる』とか思って、普通の行動にも難癖つけてきそうだ」
「むずかしいね、最初にサイアクな印象をもたれたあとの挽回って」
ヤマダは犬をなでた。トーマは会話の内容なぞそしらぬ顔で、自分が食べていたクッキーがのこる容器に鼻を近づけている。まだ食べたい、という意志表示のようだ。
「んじゃ、あとはタッちゃんがトーマにあげてね」
「ああ、わかった」
ヤマダは帰っていった。帰り際、トーマは彼女の見送りをした。お菓子以上にヤマダのことが気になるのだ。普段は食い意地が張っているようでいて、こういうところではきちんと愛想をふりまく。これも犬なりの誠実さだ、と拓馬は内心、愛犬を評した。
タグ:拓馬
2018年10月21日
拓馬篇後記−10
体験会の後片付けがおわり、拓馬は帰宅する。家の玄関の戸に鍵がかかっていた。姉は喫茶店の仕事中、両親は昼から出かけると言っていたのを思い出す。
(じゃ、トーマはケージの中か)
家にだれもいないときは飼い犬を檻に入れることになっている。そのことに留意して、戸を開錠した。
まっさきに居間へすすむ。室内は冷房が稼働していた。これは拓馬が昼に帰ってくることを想定した気遣いではなく、飼い犬のための処置だ。犬用の檻には尻尾をふる犬がいる。犬は元気そうだ。
「ちょっと待っててくれよ」
拓馬は飼い犬に異常がないのを確認するだけして、次に洗濯場へ向かう。稽古後は使った道着をすぐ洗う。その習慣はむかしからつづけていて、ごく自然に行動にあらわれた。
洗濯機に道着と洗剤を投入したのち、居間へもどる。トーマを檻から出した。興奮したトーマは自身の体を拓馬にこすりつける。檻の拘束が解けたよろこびを全身で表現しているかのようだ。拓馬はすこし犬の胴をなでた。しかし気がかりなことがあるので、犬の相手は後回しにする。
(シズカさん……仕事中かな?)
拓馬は知人への連絡に取りかかる。連絡先の人物は現在勤務中か非番なのか、知らない。職務柄、所持する通信機器の受信音が鳴っても周囲からは責められない立場の人だ。遠慮せず、今日拓馬が目撃した人外情報を送った。
連絡内容に緊急性はない。それゆえ拓馬は即時連絡を期待しなかった。あとは先方が時間のあるときに返事をよこしてくれればいい。それで二、三日のうちに反応がなかったときは返事の催促をする。その算段のもと、しばらく反応を待つことにした。
いろいろと用事をすませた拓馬は空腹を感じた。いまは昼食時である。
(なんかあるかな……)
拓馬は居間とつながった台所で食べものを探した。フライパンがのった電子コンロのそばに、耐熱ガラス鍋で蓋をした深皿がある。皿にはチャーハンが盛ってあった。この暑い時期に食べものを冷蔵庫に入れていないということは、これはただの余りものでない。すぐ食べられることを想定した食事、ようは拓馬の昼食として用意されたものということになる。
(父さんたちも食べていったみたいだ)
流し台には使用済みの食器が水に浸かっている。拓馬は両親と同じ昼食をとった。食卓につく拓馬の足元にトーマがくっついてきた。おそらく食べこぼしをねらっている。うっかり落とさないよう注意して食べた。
昼食がすみ、使った器を水に浸した。ヒマだし皿を洗おうか、と拓馬がふと思った頃合いに、洗濯機の稼働終了の音が鳴る。優先順位の低い皿洗いは意識から抜け、さっそく洗いおえた道着の陰干しをした。
さあのんびり休もうか、と思って冷房の効いた居間へもどる。居間のソファへ移動したとき、ズボンのポケットが振動した。携帯用の電子機器が外部からの連絡をキャッチした。即座に機器の画面を見てみる。シズカからの返事を受信したとわかった。ソファで横になり、返信内容を確認する。話題は道場にあらわれた忍び風の不審者についてだ。
(知り合いの友だち……ねえ)
かの覆面はシズカの知る異世界人である可能性が高いという。シズカのほかにもシドのような異世界人を友とする人がいて、その人物に協力する忍者ではないか、とシズカは述べている。彼らは拓馬たちに害を与えることはないので放置してよい、とあった。ただし実物を確認しないうちから断定するのもよくないので、あとでシドに確認してみる、ともシズカは宣言した。シズカが言うには、忍者はシドの近辺をさぐっているらしい。
(忍者が先生をさがしてて、道場にくる理由って……)
あの道場はシドには縁のない建物だ。しかし彼は体験会の見学をするつもりだったとヤマダは言った。
(あのとき、先生もきてたのか?)
道場にこなかったとおぼしきシドだが、それは追手の忍者の接近に気付いて、逃亡したせいだった──そう考えると忍者が道場内を見ていたのも辻褄が合う。しかしなぜシドを追う必要があるのだろうか。以前、拓馬もシドの正体を知らないうちはシズカに調査してもらってはいた。真相を知ったいま、シドをさぐる理由はない。
(シズカさんと情報がうまく共有できてないのかな)
忍者を使役する者はかつての拓馬たち同様、シドが人間に不義をなす生き物だと危険視しているのかもしれない。その誤解はシズカによって解くことができる。そのあたりの対応は拓馬が口出しせずともシズカが配慮してくれるはずだ。この件は不問にすることとした。
拓馬は了解と礼の返事をシズカへ送った。本音を言えばこれだけだと物足りない。忍者とその主人についてたずねたい気持ちはある。忍者はどんな生き物で、どういった理由でこちらの住民に協力するのか。そして忍者の主人もまたどういう人間で、なぜ異世界の者をこちらの世界によぶのか。知りたいとは思っている。しかしいまの状況で根掘り葉掘り聞きだすのは気が咎めた。そう感じるきっかけは目下のシドの行動にある。
(金髪がらみで忙しいときに……)
シドはみずからの犯した罪と向き合い、その一環として不良少年の更生に尽力しようとしている。その後方支援をシズカが務めるという。彼らが真剣に事にあたろうとする中、余計な詮索をしかけるのはまずい。それは自己中心的な、和を乱す行為だと拓馬には思えた。
(みんなのやることが落ち着いてから聞こう……)
時が経つのを待つ。その結論に至った拓馬は睡魔におそわれ、ソファで寝そべったまま寝入った。
(じゃ、トーマはケージの中か)
家にだれもいないときは飼い犬を檻に入れることになっている。そのことに留意して、戸を開錠した。
まっさきに居間へすすむ。室内は冷房が稼働していた。これは拓馬が昼に帰ってくることを想定した気遣いではなく、飼い犬のための処置だ。犬用の檻には尻尾をふる犬がいる。犬は元気そうだ。
「ちょっと待っててくれよ」
拓馬は飼い犬に異常がないのを確認するだけして、次に洗濯場へ向かう。稽古後は使った道着をすぐ洗う。その習慣はむかしからつづけていて、ごく自然に行動にあらわれた。
洗濯機に道着と洗剤を投入したのち、居間へもどる。トーマを檻から出した。興奮したトーマは自身の体を拓馬にこすりつける。檻の拘束が解けたよろこびを全身で表現しているかのようだ。拓馬はすこし犬の胴をなでた。しかし気がかりなことがあるので、犬の相手は後回しにする。
(シズカさん……仕事中かな?)
拓馬は知人への連絡に取りかかる。連絡先の人物は現在勤務中か非番なのか、知らない。職務柄、所持する通信機器の受信音が鳴っても周囲からは責められない立場の人だ。遠慮せず、今日拓馬が目撃した人外情報を送った。
連絡内容に緊急性はない。それゆえ拓馬は即時連絡を期待しなかった。あとは先方が時間のあるときに返事をよこしてくれればいい。それで二、三日のうちに反応がなかったときは返事の催促をする。その算段のもと、しばらく反応を待つことにした。
いろいろと用事をすませた拓馬は空腹を感じた。いまは昼食時である。
(なんかあるかな……)
拓馬は居間とつながった台所で食べものを探した。フライパンがのった電子コンロのそばに、耐熱ガラス鍋で蓋をした深皿がある。皿にはチャーハンが盛ってあった。この暑い時期に食べものを冷蔵庫に入れていないということは、これはただの余りものでない。すぐ食べられることを想定した食事、ようは拓馬の昼食として用意されたものということになる。
(父さんたちも食べていったみたいだ)
流し台には使用済みの食器が水に浸かっている。拓馬は両親と同じ昼食をとった。食卓につく拓馬の足元にトーマがくっついてきた。おそらく食べこぼしをねらっている。うっかり落とさないよう注意して食べた。
昼食がすみ、使った器を水に浸した。ヒマだし皿を洗おうか、と拓馬がふと思った頃合いに、洗濯機の稼働終了の音が鳴る。優先順位の低い皿洗いは意識から抜け、さっそく洗いおえた道着の陰干しをした。
さあのんびり休もうか、と思って冷房の効いた居間へもどる。居間のソファへ移動したとき、ズボンのポケットが振動した。携帯用の電子機器が外部からの連絡をキャッチした。即座に機器の画面を見てみる。シズカからの返事を受信したとわかった。ソファで横になり、返信内容を確認する。話題は道場にあらわれた忍び風の不審者についてだ。
(知り合いの友だち……ねえ)
かの覆面はシズカの知る異世界人である可能性が高いという。シズカのほかにもシドのような異世界人を友とする人がいて、その人物に協力する忍者ではないか、とシズカは述べている。彼らは拓馬たちに害を与えることはないので放置してよい、とあった。ただし実物を確認しないうちから断定するのもよくないので、あとでシドに確認してみる、ともシズカは宣言した。シズカが言うには、忍者はシドの近辺をさぐっているらしい。
(忍者が先生をさがしてて、道場にくる理由って……)
あの道場はシドには縁のない建物だ。しかし彼は体験会の見学をするつもりだったとヤマダは言った。
(あのとき、先生もきてたのか?)
道場にこなかったとおぼしきシドだが、それは追手の忍者の接近に気付いて、逃亡したせいだった──そう考えると忍者が道場内を見ていたのも辻褄が合う。しかしなぜシドを追う必要があるのだろうか。以前、拓馬もシドの正体を知らないうちはシズカに調査してもらってはいた。真相を知ったいま、シドをさぐる理由はない。
(シズカさんと情報がうまく共有できてないのかな)
忍者を使役する者はかつての拓馬たち同様、シドが人間に不義をなす生き物だと危険視しているのかもしれない。その誤解はシズカによって解くことができる。そのあたりの対応は拓馬が口出しせずともシズカが配慮してくれるはずだ。この件は不問にすることとした。
拓馬は了解と礼の返事をシズカへ送った。本音を言えばこれだけだと物足りない。忍者とその主人についてたずねたい気持ちはある。忍者はどんな生き物で、どういった理由でこちらの住民に協力するのか。そして忍者の主人もまたどういう人間で、なぜ異世界の者をこちらの世界によぶのか。知りたいとは思っている。しかしいまの状況で根掘り葉掘り聞きだすのは気が咎めた。そう感じるきっかけは目下のシドの行動にある。
(金髪がらみで忙しいときに……)
シドはみずからの犯した罪と向き合い、その一環として不良少年の更生に尽力しようとしている。その後方支援をシズカが務めるという。彼らが真剣に事にあたろうとする中、余計な詮索をしかけるのはまずい。それは自己中心的な、和を乱す行為だと拓馬には思えた。
(みんなのやることが落ち着いてから聞こう……)
時が経つのを待つ。その結論に至った拓馬は睡魔におそわれ、ソファで寝そべったまま寝入った。
タグ:拓馬
2018年10月20日
拓馬篇後記−9
体験会の初日は無事おわった。参加者たちがぞろぞろと退室していく。大畑と師範はその見送りに外を出る。受付では希望者に入門書の配布もやるそうだ。それらに関わらない拓馬と神南は一足先に清掃に取りかかった。まず二人で練習場内に客の忘れ物がないのを確認する。そのあと、持ち場を分担した。神南は下足箱の掃除にいく。拓馬は今日使用したミットを拭く。どうせ使った道着は洗うので、着替えないまま掃除の支度をした。
拓馬は今朝使った掃除道具一式を用意し、練習場へもどった。そこにヤマダがいる。彼女はまだ帰らずにいた。拓馬はこの場に私物がのこってないのを知りながらも「わすれものか?」とたずねた。
「ううん、話したいことがあって。タッちゃんはいまからマット拭くの?」
「これはミット用だ。あとでマットもきれいにするけど」
「わたし、どっちかやろうか?」
「べつにいい。言いたいことをとっとと言ってくれ」
拓馬は道場で長話するつもりはない。ものの数分程度の会話でヤマダを掃除に付き合わせても、いろいろ中途半端になるだけだ。もし長くなるようなら、昼食後にどちらかの家にあつまって話せばいいと考えた。
二人は使用したミットを立てかけた壁付近にすわった。拓馬が水をはったバケツに雑巾をつっこみ、両手でしぼる。掃除の姿勢を見せたところでヤマダが本題に入る。
「でさ、だれかきてた?」
彼女の言わんとすることは他言無用の話題だ。拓馬は顔をあげた。この場にはほかに人がいない。しかしいつ大畑や神南がくるともしれないので、手短に話す。
「頭巾を覆面みたいにかぶってる人が、窓からのぞいてた。こいつで合ってるのか?」
ヤマダは首をかしげる。
「フクメン? だれだかわかんないね」
彼女が知らないとなると、あれは不審者だったようだ。それも人外の。
(あやふやな忠告を聞けてて、よかったな)
拓馬が人外をほぼ無視した態度をつらぬけたのはかえって幸運だった。あからさまに注目すれば覆面も拓馬の特性に気付いたはず。あれが行動理由をもった人外ならばあとあとめんどうに巻きこまれたかもしれない。
(俺が見えてるのをバレたおかげで防げたことも、あるけど)
拓馬が人ならざる者を見える性分だから起きた被害は最近遭ったばかり。だが見えなければさらに甚大な被害が発生していた。良し悪しではあるが、避けられるトラブルは避けておきたい。
「お前はだれがくると思ってた?」
「シド先生かエリー、もしくは二人とも……」
その予想は拓馬もなんとなく察していた。この二人は銀髪の異邦人、いや異世界人だ。その身は普通の人間とはちがい、幽霊のような精神体で活動できる。シドというあだ名の教師はもっぱら肉体を具現化して人間のふりをし、拓馬たちの高校へもぐりこんできた。つい最近になって正体を明かしたが、真実を知る者はすくない。
彼らが道場にくる目的は拓馬にはわからない。ただ、ヤマダが事前に到来を知りうる珍客というと、その二人しかいなかった。
「ぜんぜんちがうやつがきてた……のか?」
「先生たちの知り合いなのかな。あとで聞いてみる」
「なるべく早く聞いてくれるか。先生が知らないんなら、シズカさんに連絡しておきたい」
「そうしたいんだけどね……」
ヤマダは室内の掛け時計を見た。現在は正午まえ。まだ日曜がおわるには早い。
「聞けるのは夕方ぐらいになるかも」
「なんで?」
「先生は午後から大事な用事があるんだって。まだタッちゃんには言ってなかったね」
「大事な、用事……」
先日、シドは直近のすべきことを拓馬たちに告げていた。彼は目的の遂行のため、障害となりうる他校の不良少年を病院送りにした。その悪事への罪滅ぼしをするという。
「金髪に会いにいくのか?」
「うん、お話ししてくるって」
「話すだけ……じゃないんだろ? あの人の性格的に」
「そうだね、ただの見舞いじゃおわらないと思う」
シドは少年との面会を一度きりにするつもりがない。素行のわるい少年を指導する、とまで宣言した。
「金髪くんは入院中、期末試験を受けられなかったから、その穴埋めをして、ちゃんと登校できるように手伝ってあげる……本人が二学期以降に学校にいくかどうかはべつとしてね。そこまでやってはじめて、先生が金髪くんにしたことの責任をとったことになる」
かの少年はおよそ一ヶ月の入院をしている。その間、学校へいけなかったのはシドのせいだ。この強制的な不登校期間によって少年が落第する事態になれば、シドがひとりの人生をくるわせてしまったも同然。その不本意な未来を変えるべく、奮闘することは当然の責務である。しかし、これはあくまでシドと少年の二人の話だ。この二人の中で合意がとれたとしても、少年の学校の者が賛同せねば、シドは門前払いにされるだろう。
「そんなこと、他校の教師ができるのか?」
「どうなんだろうね。金髪くんの学校の人にとっちゃ、問題児の見守りをしてくれるのって、ありがたいと思うけど」
「先生がまともな教師だっていう信用があるんなら、な」
彼は実績のない新人教師。そのうえ出自は偽称だ。風貌が奇異なこともあいまって、頭の固い人たちには受け入れがたい存在である。端的に表現すれば不穏分子だ。異様な外部の教師を招いた結果、厄介事をさらに増やしてしまうのではないか、と学校側に警戒されかねない。事がスムーズにすすむには、後ろ盾がいる。
「せめて金髪の学校の先生に、うちの高校をいいふうに思ってる人がいればな……」
「その学校、本摩先生の知り合いがいるみたいだよ」
本摩は拓馬たちの担任、かつ新人教師であるシドの補佐をしている。拓馬たちの味方にあたる教師がキーマンになる。その好都合な伝聞を拓馬はにわかに信じられない。
「え? そんなこと知らないが……」
「わたしもあまりしっかり聞いてなくってね、たしかなことは言えない。でも本摩先生に口利きをたのんでみていいと思う。部活の連携あるし、まったく面識ないってことはないよ」
「部活……ああ、うん……」
拓馬は去年の部活動を連想した。高校生を対象とした空手の大会で、とある生徒に因縁をもたれたことを人づてに聞いた。
「金髪くんの学校にはタッちゃんのライバルくんもいるでしょ?」
「むこうが勝手にそう思ってるだけだ」
この話題は拓馬に不快感を呼び起こした。名前もさだかにおぼえていない人から強い情をもたれても、うれしくなかった。徐々に会話内容が雑談になってきたのをふまえ、拓馬は会話を切り上げる。
「いまの先生は金髪のことで手一杯だとわかった。だから覆面の件は俺がシズカさんに聞いてみる。ムリにお前から先生に話さなくてもいい」
「うん、先生に無理はさせない」
会話の目途がついた。ヤマダは拓馬が拭きおえたミットをもつ。立ち上がり、ミットを並べた棚の空いたスペースにミットを置いた。後片付けに参加しなかった、せめてもの手伝いのようだ。彼女の帰宅を察した拓馬はふっと湧いた疑問を口にする。
「そういや、先生はなんで体験会を見にこようとしてたんだ?」
シドは拓馬が知りうる武道家の中で最強と評していい猛者だ。彼が入門の希望をするわけがない。むしろ教える立場こそふさわしい。
ヤマダは「ん?」と不思議そうに、突然な問いに振り返る。
「それね、他人に武術を教えるやり方を勉強したかったんだって」
「意味あんのか? 自分よりよわい人のうごきを見ても」
「先生は一般的な教え方を知りたいんだよ。先生に武術を教えた人は、技が我流で教え方も独特だったらしいから。わたしに合わないかもしれないって思うんだろうね。わたしと先生じゃ体格も腕力もぜんぜんちがうし」
ヤマダはシドによる武術の稽古を所望している。その希望はシドみずからが引きだしたことだ。彼が拓馬たちに迷惑をかけた詫びとして、なにか自分にしてほしいことがないか、と彼からたずねてきた。その折にヤマダがシドの本職とは異なる教導を望んだ。彼女の思いに応えるためにシドが一般武術の指導方法を勉強しにきた、というのは妥当な経緯である。
「で、先生がフツーな武道の教え方を知ったら、お前に教えるってわけか?」
ヤマダは笑んで「わかんないね」と首を横にふる。
「わたしは先生の技を教えてほしいから、先生がよその武道を勉強しなくたっていいの。でもそれじゃ先生はうまく教える自信がないみたい」
「マジメだな、あの人は……」
シドは過去に悪行を重ねてきた者とはいえ、その性格は誠実で几帳面だ。自身に悪事を強制してきた主人の呪縛から逃れたいま、彼の長所はいかんなく発揮されている。
「先生が空手の指導を見たいってんなら、体験会じゃなくて普通の練習を見にきてもいいと伝えておいてくれるか。お前も見たとおり、体験会はかなりやさしめな内容だ。実際の指導にはあんまり役に立たない」
「うん、なにかのついでに言っておく」
用件のすんだヤマダは拓馬に別れを告げ、練習場を出た。拓馬もミット拭きに使った道具を片付けに移動した。
拓馬は今朝使った掃除道具一式を用意し、練習場へもどった。そこにヤマダがいる。彼女はまだ帰らずにいた。拓馬はこの場に私物がのこってないのを知りながらも「わすれものか?」とたずねた。
「ううん、話したいことがあって。タッちゃんはいまからマット拭くの?」
「これはミット用だ。あとでマットもきれいにするけど」
「わたし、どっちかやろうか?」
「べつにいい。言いたいことをとっとと言ってくれ」
拓馬は道場で長話するつもりはない。ものの数分程度の会話でヤマダを掃除に付き合わせても、いろいろ中途半端になるだけだ。もし長くなるようなら、昼食後にどちらかの家にあつまって話せばいいと考えた。
二人は使用したミットを立てかけた壁付近にすわった。拓馬が水をはったバケツに雑巾をつっこみ、両手でしぼる。掃除の姿勢を見せたところでヤマダが本題に入る。
「でさ、だれかきてた?」
彼女の言わんとすることは他言無用の話題だ。拓馬は顔をあげた。この場にはほかに人がいない。しかしいつ大畑や神南がくるともしれないので、手短に話す。
「頭巾を覆面みたいにかぶってる人が、窓からのぞいてた。こいつで合ってるのか?」
ヤマダは首をかしげる。
「フクメン? だれだかわかんないね」
彼女が知らないとなると、あれは不審者だったようだ。それも人外の。
(あやふやな忠告を聞けてて、よかったな)
拓馬が人外をほぼ無視した態度をつらぬけたのはかえって幸運だった。あからさまに注目すれば覆面も拓馬の特性に気付いたはず。あれが行動理由をもった人外ならばあとあとめんどうに巻きこまれたかもしれない。
(俺が見えてるのをバレたおかげで防げたことも、あるけど)
拓馬が人ならざる者を見える性分だから起きた被害は最近遭ったばかり。だが見えなければさらに甚大な被害が発生していた。良し悪しではあるが、避けられるトラブルは避けておきたい。
「お前はだれがくると思ってた?」
「シド先生かエリー、もしくは二人とも……」
その予想は拓馬もなんとなく察していた。この二人は銀髪の異邦人、いや異世界人だ。その身は普通の人間とはちがい、幽霊のような精神体で活動できる。シドというあだ名の教師はもっぱら肉体を具現化して人間のふりをし、拓馬たちの高校へもぐりこんできた。つい最近になって正体を明かしたが、真実を知る者はすくない。
彼らが道場にくる目的は拓馬にはわからない。ただ、ヤマダが事前に到来を知りうる珍客というと、その二人しかいなかった。
「ぜんぜんちがうやつがきてた……のか?」
「先生たちの知り合いなのかな。あとで聞いてみる」
「なるべく早く聞いてくれるか。先生が知らないんなら、シズカさんに連絡しておきたい」
「そうしたいんだけどね……」
ヤマダは室内の掛け時計を見た。現在は正午まえ。まだ日曜がおわるには早い。
「聞けるのは夕方ぐらいになるかも」
「なんで?」
「先生は午後から大事な用事があるんだって。まだタッちゃんには言ってなかったね」
「大事な、用事……」
先日、シドは直近のすべきことを拓馬たちに告げていた。彼は目的の遂行のため、障害となりうる他校の不良少年を病院送りにした。その悪事への罪滅ぼしをするという。
「金髪に会いにいくのか?」
「うん、お話ししてくるって」
「話すだけ……じゃないんだろ? あの人の性格的に」
「そうだね、ただの見舞いじゃおわらないと思う」
シドは少年との面会を一度きりにするつもりがない。素行のわるい少年を指導する、とまで宣言した。
「金髪くんは入院中、期末試験を受けられなかったから、その穴埋めをして、ちゃんと登校できるように手伝ってあげる……本人が二学期以降に学校にいくかどうかはべつとしてね。そこまでやってはじめて、先生が金髪くんにしたことの責任をとったことになる」
かの少年はおよそ一ヶ月の入院をしている。その間、学校へいけなかったのはシドのせいだ。この強制的な不登校期間によって少年が落第する事態になれば、シドがひとりの人生をくるわせてしまったも同然。その不本意な未来を変えるべく、奮闘することは当然の責務である。しかし、これはあくまでシドと少年の二人の話だ。この二人の中で合意がとれたとしても、少年の学校の者が賛同せねば、シドは門前払いにされるだろう。
「そんなこと、他校の教師ができるのか?」
「どうなんだろうね。金髪くんの学校の人にとっちゃ、問題児の見守りをしてくれるのって、ありがたいと思うけど」
「先生がまともな教師だっていう信用があるんなら、な」
彼は実績のない新人教師。そのうえ出自は偽称だ。風貌が奇異なこともあいまって、頭の固い人たちには受け入れがたい存在である。端的に表現すれば不穏分子だ。異様な外部の教師を招いた結果、厄介事をさらに増やしてしまうのではないか、と学校側に警戒されかねない。事がスムーズにすすむには、後ろ盾がいる。
「せめて金髪の学校の先生に、うちの高校をいいふうに思ってる人がいればな……」
「その学校、本摩先生の知り合いがいるみたいだよ」
本摩は拓馬たちの担任、かつ新人教師であるシドの補佐をしている。拓馬たちの味方にあたる教師がキーマンになる。その好都合な伝聞を拓馬はにわかに信じられない。
「え? そんなこと知らないが……」
「わたしもあまりしっかり聞いてなくってね、たしかなことは言えない。でも本摩先生に口利きをたのんでみていいと思う。部活の連携あるし、まったく面識ないってことはないよ」
「部活……ああ、うん……」
拓馬は去年の部活動を連想した。高校生を対象とした空手の大会で、とある生徒に因縁をもたれたことを人づてに聞いた。
「金髪くんの学校にはタッちゃんのライバルくんもいるでしょ?」
「むこうが勝手にそう思ってるだけだ」
この話題は拓馬に不快感を呼び起こした。名前もさだかにおぼえていない人から強い情をもたれても、うれしくなかった。徐々に会話内容が雑談になってきたのをふまえ、拓馬は会話を切り上げる。
「いまの先生は金髪のことで手一杯だとわかった。だから覆面の件は俺がシズカさんに聞いてみる。ムリにお前から先生に話さなくてもいい」
「うん、先生に無理はさせない」
会話の目途がついた。ヤマダは拓馬が拭きおえたミットをもつ。立ち上がり、ミットを並べた棚の空いたスペースにミットを置いた。後片付けに参加しなかった、せめてもの手伝いのようだ。彼女の帰宅を察した拓馬はふっと湧いた疑問を口にする。
「そういや、先生はなんで体験会を見にこようとしてたんだ?」
シドは拓馬が知りうる武道家の中で最強と評していい猛者だ。彼が入門の希望をするわけがない。むしろ教える立場こそふさわしい。
ヤマダは「ん?」と不思議そうに、突然な問いに振り返る。
「それね、他人に武術を教えるやり方を勉強したかったんだって」
「意味あんのか? 自分よりよわい人のうごきを見ても」
「先生は一般的な教え方を知りたいんだよ。先生に武術を教えた人は、技が我流で教え方も独特だったらしいから。わたしに合わないかもしれないって思うんだろうね。わたしと先生じゃ体格も腕力もぜんぜんちがうし」
ヤマダはシドによる武術の稽古を所望している。その希望はシドみずからが引きだしたことだ。彼が拓馬たちに迷惑をかけた詫びとして、なにか自分にしてほしいことがないか、と彼からたずねてきた。その折にヤマダがシドの本職とは異なる教導を望んだ。彼女の思いに応えるためにシドが一般武術の指導方法を勉強しにきた、というのは妥当な経緯である。
「で、先生がフツーな武道の教え方を知ったら、お前に教えるってわけか?」
ヤマダは笑んで「わかんないね」と首を横にふる。
「わたしは先生の技を教えてほしいから、先生がよその武道を勉強しなくたっていいの。でもそれじゃ先生はうまく教える自信がないみたい」
「マジメだな、あの人は……」
シドは過去に悪行を重ねてきた者とはいえ、その性格は誠実で几帳面だ。自身に悪事を強制してきた主人の呪縛から逃れたいま、彼の長所はいかんなく発揮されている。
「先生が空手の指導を見たいってんなら、体験会じゃなくて普通の練習を見にきてもいいと伝えておいてくれるか。お前も見たとおり、体験会はかなりやさしめな内容だ。実際の指導にはあんまり役に立たない」
「うん、なにかのついでに言っておく」
用件のすんだヤマダは拓馬に別れを告げ、練習場を出た。拓馬もミット拭きに使った道具を片付けに移動した。
タグ:拓馬
2018年10月19日
拓馬篇後記−8
最終的に、参加者は三十人ほどあつまった。拓馬の予想以上の集客ぶりだ。ただし子どもの付添人もふくむので、実際に門下生候補となるのは全体の半分程度におさまる。そのうちの何人が入門するかはわからない。これだけの人たちがこの道場に関心をもってくれた、という事実はよろこばしいことだった。
体験会の開始には大畑が冒頭説明をおこなった。彼は師範代である。名目上、道場の長を補佐する立場にある。こういった場の演説者は師範が適役だと拓馬は思っていた。
(世代交代、かな……)
拓馬の門下生時代では師範が練習場に顔を出すことがよくあった。それもいまはむずかしいのだろう。大畑が主動する様子は、彼が実質的な師範になっていることのあらわれのようだった。だが完全に身を引く予定はないようで、体験会の後半に師範が参加することになっている。
説明の次は慣例の準備運動をする。部屋の前方にお手本となる拓馬たちがならび、大畑の解説とともに体をほぐす。まるでラジオ体操のようだ。うごき自体も体育の準備運動と似た部分が多く、未就学児以外の客はわりとすんなり模倣していった。小さな子どもは親の補助つきでそれらしいポーズをとる。子どもはあたらしい遊びをやっているかのように、はしゃいでいた。拓馬は他人事ではないような、なつかしさをおぼえる。
(俺もああだったのかな)
拓馬はかなり小さいときに道場に入門した。まだ小学校にかよっていなかった時期だ。当時の記憶はおぼろげになっているが、親に連れられて、空手にはげんでいたことは思い出にのこっていた。
準備運動ののちはやっと武道らしい形(かた)の指導に入る。指導形式はさきほどと同じ。道場の者がやるうごきを皆が真似る。拓馬にとっては準備運動とひとしい、なんでもない修練だ。やり方は体がおぼえている。詰まることなくスムーズにできるはずが、視界に妙なものが入ったとたん、ぎこちなくなってしまった。
練習場の窓から人の顔がうつった。頭巾を覆面のごとく巻いて、目元だけを露出している。常人ではなさそうな風体だ。窓が見えているはずの大畑と神南は覆面の者に気付いていない。
(これが「かわった客」か?)
ヤマダが直前に珍客の到来を拓馬に告げていた。その客なのかもしれない。拓馬が予想した人物とはちがったが、一時窓辺の不審者を無害なものと見做し、無視することにした。ただしあやしい行動を起こさないか、警戒はおこたらない。無関心をよそおい、目の端で対象をとらえつづけた。
覆面の者は締めきったガラス窓に顔をつっこむ。その顔はガラスをするっと通過した。生身の生き物ではない証だ。幼少時から人外を見続ける拓馬にとって、おどろくような怪奇現象に値しない。
頭部しか見えなかった覆面の者の首回りが可視化される。着物の衿が見えた。和風な装束のようである。
(忍者の幽霊……?)
覆面で和装、そして偵察行為といえば忍び装束を髣髴した。のぞき魔の衣服は頭部周辺しか見えないので、正確なことはわからない。衣装以上に、スパイ活動のような動作の影響で忍者らしいと感じた。
覆面の者は窓辺で数秒ほどとまっていた。その後は顔をひっこめ、姿を消した。なにかをさぐっていたのだろうか。目当てのものはないと判断して、どこかへ去ったようだ。
(なにをしたかったんだ、あいつ)
こんな平凡な道場に幽霊がこのむようなシロモノがあるはずがない。目的は道場でなく、この場にあつまった人にあるのか。
(ヘンなの……シズカさんに聞いてみるか)
シズカとは拓馬が人ならざる者について相談できる知人だ。その知人は本業の警官で忙しい身だが、拓馬にふりかかる難事にはいつも親身になって対応してくれる。今回の件もこの知人に伝えるか──と拓馬は思ったが、べつの方法を思いつく。
(いや、いまはもっと手軽に聞ける人がいるんだった)
その人物は拓馬がこの場にくると思っていた「かわった客」だ。この人物もまた拓馬を援助してくれる好人物。こちらのほうが近所に住む人なので、会うのも話すのも気安い。
それ以上に気楽に話せるのはヤマダだ。彼女が本当の訪問客の姿を知っている。もしその姿と拓馬の目撃した覆面が別人であったと知れたとき、知人らにたずねる。その段取りを体験会終了後にやると決めた。
形の練習がおわる。最後の指導はミット打ちだ。師範代たちが持ったミットに、体験会参加者が順番に打つ流れである。まず大畑と神南が手本を見せた。人間の胴を隠せる大きさのミットを大畑が両手にかかげ、そのミットに神南が打つ。右こぶし、左こぶしを当てたら蹴りでフィニッシュ、という動作をこなした。拓馬が門下生時代に経験したミット打ちはもっと複雑だった。客に幼い子どももいるので、おぼえやすくやりやすいうごきに絞ったようだ。
デモンストレーションに際して、師範が練習場へあらわれた。ひとめで別格な空手家だとわかる、濃い灰色の道着に身を包んでいた。黒っぽい格好とは反対に、髪とヒゲは真っ白である。老人な風貌だ。とはいえ、背すじが伸びていて足腰はしっかりしている。その動作に老いをにおわせなかった。
師範をふくめた四人が室内の前方に立つ。皆が同じミットを持ち、横に等間隔に離れた。大畑の指示で、それぞれのミットのまえに人を並ばせる。なかば強制的に人を配分したせいで、ほかと風格がことなる師範の列についた子どもはビビった。保護者にだきつく子もいる。
師範はいつもの空手家モードでいるせいで、必要以上に子どもを威圧した。その態度が幼い子どもに不評だと知ると、わざと笑み、
「こわがらんでもいい。じぃじはなーんにもせんよ。ほれ、手をグーにして、ここに当ててみい」
師範は片ひざをつき、視線の高さを子どもに合わせた。祖父モードに入った師範の言うことには子どもがすんなり応じる。神南が実践したうごきを、みじかい手足で真似た。つたないうごきであっても師範は「よくやった」とほめる。ほめられた子どもは屈託のない笑顔を見せた。
一連の動作を二回繰り返すと、列の先頭にいた者は列の最後尾へまわり、ミット打ちを交代する。全員が三順ほどできたところでミット打ちは終了した。その間、拓馬にのみ感知できる生き物はだれもあらわれなかった。
体験会の開始には大畑が冒頭説明をおこなった。彼は師範代である。名目上、道場の長を補佐する立場にある。こういった場の演説者は師範が適役だと拓馬は思っていた。
(世代交代、かな……)
拓馬の門下生時代では師範が練習場に顔を出すことがよくあった。それもいまはむずかしいのだろう。大畑が主動する様子は、彼が実質的な師範になっていることのあらわれのようだった。だが完全に身を引く予定はないようで、体験会の後半に師範が参加することになっている。
説明の次は慣例の準備運動をする。部屋の前方にお手本となる拓馬たちがならび、大畑の解説とともに体をほぐす。まるでラジオ体操のようだ。うごき自体も体育の準備運動と似た部分が多く、未就学児以外の客はわりとすんなり模倣していった。小さな子どもは親の補助つきでそれらしいポーズをとる。子どもはあたらしい遊びをやっているかのように、はしゃいでいた。拓馬は他人事ではないような、なつかしさをおぼえる。
(俺もああだったのかな)
拓馬はかなり小さいときに道場に入門した。まだ小学校にかよっていなかった時期だ。当時の記憶はおぼろげになっているが、親に連れられて、空手にはげんでいたことは思い出にのこっていた。
準備運動ののちはやっと武道らしい形(かた)の指導に入る。指導形式はさきほどと同じ。道場の者がやるうごきを皆が真似る。拓馬にとっては準備運動とひとしい、なんでもない修練だ。やり方は体がおぼえている。詰まることなくスムーズにできるはずが、視界に妙なものが入ったとたん、ぎこちなくなってしまった。
練習場の窓から人の顔がうつった。頭巾を覆面のごとく巻いて、目元だけを露出している。常人ではなさそうな風体だ。窓が見えているはずの大畑と神南は覆面の者に気付いていない。
(これが「かわった客」か?)
ヤマダが直前に珍客の到来を拓馬に告げていた。その客なのかもしれない。拓馬が予想した人物とはちがったが、一時窓辺の不審者を無害なものと見做し、無視することにした。ただしあやしい行動を起こさないか、警戒はおこたらない。無関心をよそおい、目の端で対象をとらえつづけた。
覆面の者は締めきったガラス窓に顔をつっこむ。その顔はガラスをするっと通過した。生身の生き物ではない証だ。幼少時から人外を見続ける拓馬にとって、おどろくような怪奇現象に値しない。
頭部しか見えなかった覆面の者の首回りが可視化される。着物の衿が見えた。和風な装束のようである。
(忍者の幽霊……?)
覆面で和装、そして偵察行為といえば忍び装束を髣髴した。のぞき魔の衣服は頭部周辺しか見えないので、正確なことはわからない。衣装以上に、スパイ活動のような動作の影響で忍者らしいと感じた。
覆面の者は窓辺で数秒ほどとまっていた。その後は顔をひっこめ、姿を消した。なにかをさぐっていたのだろうか。目当てのものはないと判断して、どこかへ去ったようだ。
(なにをしたかったんだ、あいつ)
こんな平凡な道場に幽霊がこのむようなシロモノがあるはずがない。目的は道場でなく、この場にあつまった人にあるのか。
(ヘンなの……シズカさんに聞いてみるか)
シズカとは拓馬が人ならざる者について相談できる知人だ。その知人は本業の警官で忙しい身だが、拓馬にふりかかる難事にはいつも親身になって対応してくれる。今回の件もこの知人に伝えるか──と拓馬は思ったが、べつの方法を思いつく。
(いや、いまはもっと手軽に聞ける人がいるんだった)
その人物は拓馬がこの場にくると思っていた「かわった客」だ。この人物もまた拓馬を援助してくれる好人物。こちらのほうが近所に住む人なので、会うのも話すのも気安い。
それ以上に気楽に話せるのはヤマダだ。彼女が本当の訪問客の姿を知っている。もしその姿と拓馬の目撃した覆面が別人であったと知れたとき、知人らにたずねる。その段取りを体験会終了後にやると決めた。
形の練習がおわる。最後の指導はミット打ちだ。師範代たちが持ったミットに、体験会参加者が順番に打つ流れである。まず大畑と神南が手本を見せた。人間の胴を隠せる大きさのミットを大畑が両手にかかげ、そのミットに神南が打つ。右こぶし、左こぶしを当てたら蹴りでフィニッシュ、という動作をこなした。拓馬が門下生時代に経験したミット打ちはもっと複雑だった。客に幼い子どももいるので、おぼえやすくやりやすいうごきに絞ったようだ。
デモンストレーションに際して、師範が練習場へあらわれた。ひとめで別格な空手家だとわかる、濃い灰色の道着に身を包んでいた。黒っぽい格好とは反対に、髪とヒゲは真っ白である。老人な風貌だ。とはいえ、背すじが伸びていて足腰はしっかりしている。その動作に老いをにおわせなかった。
師範をふくめた四人が室内の前方に立つ。皆が同じミットを持ち、横に等間隔に離れた。大畑の指示で、それぞれのミットのまえに人を並ばせる。なかば強制的に人を配分したせいで、ほかと風格がことなる師範の列についた子どもはビビった。保護者にだきつく子もいる。
師範はいつもの空手家モードでいるせいで、必要以上に子どもを威圧した。その態度が幼い子どもに不評だと知ると、わざと笑み、
「こわがらんでもいい。じぃじはなーんにもせんよ。ほれ、手をグーにして、ここに当ててみい」
師範は片ひざをつき、視線の高さを子どもに合わせた。祖父モードに入った師範の言うことには子どもがすんなり応じる。神南が実践したうごきを、みじかい手足で真似た。つたないうごきであっても師範は「よくやった」とほめる。ほめられた子どもは屈託のない笑顔を見せた。
一連の動作を二回繰り返すと、列の先頭にいた者は列の最後尾へまわり、ミット打ちを交代する。全員が三順ほどできたところでミット打ちは終了した。その間、拓馬にのみ感知できる生き物はだれもあらわれなかった。
タグ:拓馬
2018年10月18日
拓馬篇後記−7
三人は練習場の片隅にすわった。拓馬はさっそく古馴染みたちの服装選択について問う。
「学校の体操服……じゃなくてもよかったんだぞ」
体験会の参加者には服装の指定があった。うごきやすい格好でくること──それがチラシに明記されている。当人が運動できると判断した服装であればよく、ことさら自分たちの所属なり年齢層なりがあきらかになる衣服を着る必要はなかった。あからさまな学生アピールは好奇の目にさらされるかもしれない。
「僕が言い出したことなんだ。ほかにいい服が思いつかなくて」
これまで運動には縁遠かった男子が言う。つまりヤマダと相談して、二人とも学校指定の運動着を着ていこうと決めたらしい。ヤマダのほうはほかに運動に適した衣類を所持しているだろうが、椙守ひとりが目立つのを気遣ったようだ。
「お前は運動用の私服なんて、もってないよな……」
「これから用意する……」
椙守はばつがわるそうだ。彼は運動を特別視している。私服の運動着がどうあるべきか、勝手がわからないのかもしれない。
「むずかしく考えるな。普段着でもいいんだ」
「いつも着ている服で?」
「ああ、簡単に洗えて、うごきやすけりゃいい。親の手伝いをしてるときも、そういう服をえらんでるんじゃないか?」
椙守の家業の花屋は意外と重労働だという。その際に着る服は機能性を優先しているはず、と拓馬は勝手に思っている。手伝い中の友人の姿がどんなものだったかは、意識して見たおぼえはない。
拓馬が話す間、ヤマダは両手を後頭部に回していた。長いポニーテールを掻き上げている。彼女はよく学校の体育の時間まえに、髪が邪魔にならないよう一工夫する。そのヘアセットをしている。今日は運動するために外出したのだから、家にいる時点でいつもの髪型を変更してもよさそうなのだが。
「家でやる時間がなかったのか?」
「んー、そんなとこ」
「椙守の待ち合わせに間に合わなかった?」
「あ、これは偶然だよ」
ヤマダが頭から手をはなした。垂れていた髪の房は後頭部に留まって、大きな団子状になっている。
「だったらなんで二人して早くきたんだ?」
「わたしはタッちゃんに用事があったから。ミッキーのほうは家にいたくないから」
ヤマダは自身の答えと同時に、椙守の代弁をした。自分で言うべきことを言われた椙守は「もうちょっと表現をどうか」と苦笑する。
「合ってるけど……」
「ああ、ごめん。『体験会がまちきれなかった』って言ったほうがまるくおさまるし、タッちゃん的にもうれしいよね」
拓馬は別段気分を害していない。椙守が実家にいたがらないのはいつものことだ。彼は家業を嫌々手伝っている。就業時間をへらしたいがために、部活の活動日ない日も部活を理由に帰宅時刻を遅らせることは日常茶飯事だ。
「言い方はどんなのでもいいよ。それで、お前が俺になんの用事だ?」
「えーっと、それがねー」
ヤマダは瞳をうごかした。顔は拓馬に向けたまま、視線を椙守のほうへそそぎ、数回まばたきする。
「あんまり大したことじゃないから、いいや」
「なんだ、それ」
「簡単にいうとね……かわった客がくるかもしれないんで、そのときはオーバーなリアクションをしないようにしてね」
なんとも抽象的な注意だ。しかし彼女があいまいに言わざるをえない理由はある。椙守の知らない秘密。その秘密にまつわることを拓馬に伝えたかったのだ。椙守が一足おそく道場へ着いていれば、きっと明確な注意をうながせた。彼女の目配せはそのように語っている。
「なんとなくわかった。ところで、店はどうした?」
「お母さんが代わってくれた!」
実澄は飲食店の店員ではないが、娘の務めを代替わりすることはまれにある。勤務先が個人経営の店ならではの融通のよさだ。拓馬は店事情を把握できた。しかしあらたな疑問が出てくる。
「でもミスミさんがバイトを代わってまで……お前に空手を習わせたかったのか?」
「参加していいのはこの体験会だけね。習っていいとは言われてない」
「やっぱり、許可はおりないか」
実澄は娘に武道を習わせない。習い事自体は娘に数多く経験させたらしいが、ことケガの危険性のある分野には手を出さなかった。娘の安全をねがうがゆえの方針だ。
「じゃ、この体験会は完全に冷やかしにきたってわけだな」
拓馬は門下生になりえぬ女子に皮肉を言った。ヤマダは臆さず「そうだね」とみとめる。
「お母さんの感覚だと、道場でお祭りやってる、って感じなんだろうね。だから見るだけ見にいっておいで、というわけ」
「このイベントは商売なんだけど……」
「人がたくさんきたら、帰るよ。道場は広いけど、稽古ができる人数に限界があるもんね」
「まーそんなに客はこないと思うなあ」
入門の意思がない者を立ち退かせねばならないほどの集客は見込めない。むしろ本当に入門希望者がくるのか、と拓馬はいささか心配になっている。参加者がすくなすぎても道場の体面はわるくなるだろう。だれからも注目されない、人気のない道場──そんなところにかよいたい、と思える人はちょっとした変わり者だ。ヤマダたちの参加は、ないよりはあったほうがいいという、枯れ木も山のにぎわいに相当する。
拓馬は意図せずサクラ役を担当する痩身な男子を見る。
「椙守は? お前も見にきただけか」
「あ……僕は……まだなんとも」
椙守が首を小刻みに横にふった。体験会の結果次第では門下生になる可能性があるようだ。
「親はどう言ってる? お前んちも親の意見がいちばん強いんだろ」
「いい、とは思ってるみたいだ。やっぱり、普通の人程度には体をきたえておいていいだろう、って」
「それは俺もそう思う」
拓馬も椙守の貧弱な体と身体能力には不安をおぼえている。人間苦手なものがあって当然だし、苦手を克服すべきだとは拓馬は思わないが、それにしても限度がある。健康体な若者ならとくに、災害などの緊急事態を乗り切れる体力はそなえておきたい。だれしも努力次第で一定レベルの運動能力は体得できるのだから。そのような観点で、椙守の意思を尊重したい気持ちが拓馬にはあった。しかし、苦手を克服する鍛錬にしても向き不向きはある。
「ただ体をきたえるだけなら、べつに武道を習わなくてもいいんだぞ?」
「それは、たしかに……」
肉体改造のみを求めるなら筋トレをすればいい。水泳や自転車などの自分のペースでやるスポーツもいい。わざわざいきなり他者との戦いを想定した競技に着手しなくてもいいだろう、というのが拓馬の本音だ。
「ここの流派はなるべくケガしない練習をするけど……なんだかんだ攻撃を食らえば痛い思いをするし、そういう思いを自分が他人にさせるときもある」
「だから『やめとけ』と言いたいのか?」
椙守は真顔で聞いてきた。怒ってはいないようだ。これが何か月まえの彼なら不機嫌な顔を見せていただろう。いまの彼はある教師の影響により、情緒が安定していた。椙守が空手に興味を示したのも、おそらくその教師が武芸家であることが関係している。
「やめろとは言わない。金を払ってまで痛い目に遭ってもいいのか、ちょっと考えてほしい」
われながら出過ぎた言葉だ、と拓馬は内省する。門下生の勧誘のために道場へ招かれた者が口にするにはふさわしくない忠告だ。拓馬は雇い主の目的にそぐわぬ発言を自認しながらも、撤回しようとは思わなかった。ひとえに椙守のためだ。入門したはいいが数日で辞めたくなった、となれば椙守が損をする。入門時に必要となる月謝に道着代は、学生にとって安い出費ではない。悔いがのこらない決定をしてほしいと拓馬は思った。
三人だけがいた練習場に人がやってくる。小学生になるかならないか、くらいのちいさな子どもと、親らしき女性の二人組だ。とうとう客人が到来した。拓馬はすっと立ち上がる。
「じゃ、いまからは俺と他人のふりしててくれよ」
友人二人はあっさり了承した。バイト経験のある彼らは拓馬以上に接客の知識がある。勤務中は私語をつつしむべきなのだと察してくれた。
拓馬はいったん練習場を出る。戸を開きっぱなしにした練習場入り口のそばに神南が立っていた。彼女は受付をおえた人を練習場へ誘導している。それに倣い、拓馬は彼女と反対側に立った。門番のごとく左右にひかえる必要はないのだが、ほかによいポジションもない。受付時間がおわるまでじっと立っていた。
「学校の体操服……じゃなくてもよかったんだぞ」
体験会の参加者には服装の指定があった。うごきやすい格好でくること──それがチラシに明記されている。当人が運動できると判断した服装であればよく、ことさら自分たちの所属なり年齢層なりがあきらかになる衣服を着る必要はなかった。あからさまな学生アピールは好奇の目にさらされるかもしれない。
「僕が言い出したことなんだ。ほかにいい服が思いつかなくて」
これまで運動には縁遠かった男子が言う。つまりヤマダと相談して、二人とも学校指定の運動着を着ていこうと決めたらしい。ヤマダのほうはほかに運動に適した衣類を所持しているだろうが、椙守ひとりが目立つのを気遣ったようだ。
「お前は運動用の私服なんて、もってないよな……」
「これから用意する……」
椙守はばつがわるそうだ。彼は運動を特別視している。私服の運動着がどうあるべきか、勝手がわからないのかもしれない。
「むずかしく考えるな。普段着でもいいんだ」
「いつも着ている服で?」
「ああ、簡単に洗えて、うごきやすけりゃいい。親の手伝いをしてるときも、そういう服をえらんでるんじゃないか?」
椙守の家業の花屋は意外と重労働だという。その際に着る服は機能性を優先しているはず、と拓馬は勝手に思っている。手伝い中の友人の姿がどんなものだったかは、意識して見たおぼえはない。
拓馬が話す間、ヤマダは両手を後頭部に回していた。長いポニーテールを掻き上げている。彼女はよく学校の体育の時間まえに、髪が邪魔にならないよう一工夫する。そのヘアセットをしている。今日は運動するために外出したのだから、家にいる時点でいつもの髪型を変更してもよさそうなのだが。
「家でやる時間がなかったのか?」
「んー、そんなとこ」
「椙守の待ち合わせに間に合わなかった?」
「あ、これは偶然だよ」
ヤマダが頭から手をはなした。垂れていた髪の房は後頭部に留まって、大きな団子状になっている。
「だったらなんで二人して早くきたんだ?」
「わたしはタッちゃんに用事があったから。ミッキーのほうは家にいたくないから」
ヤマダは自身の答えと同時に、椙守の代弁をした。自分で言うべきことを言われた椙守は「もうちょっと表現をどうか」と苦笑する。
「合ってるけど……」
「ああ、ごめん。『体験会がまちきれなかった』って言ったほうがまるくおさまるし、タッちゃん的にもうれしいよね」
拓馬は別段気分を害していない。椙守が実家にいたがらないのはいつものことだ。彼は家業を嫌々手伝っている。就業時間をへらしたいがために、部活の活動日ない日も部活を理由に帰宅時刻を遅らせることは日常茶飯事だ。
「言い方はどんなのでもいいよ。それで、お前が俺になんの用事だ?」
「えーっと、それがねー」
ヤマダは瞳をうごかした。顔は拓馬に向けたまま、視線を椙守のほうへそそぎ、数回まばたきする。
「あんまり大したことじゃないから、いいや」
「なんだ、それ」
「簡単にいうとね……かわった客がくるかもしれないんで、そのときはオーバーなリアクションをしないようにしてね」
なんとも抽象的な注意だ。しかし彼女があいまいに言わざるをえない理由はある。椙守の知らない秘密。その秘密にまつわることを拓馬に伝えたかったのだ。椙守が一足おそく道場へ着いていれば、きっと明確な注意をうながせた。彼女の目配せはそのように語っている。
「なんとなくわかった。ところで、店はどうした?」
「お母さんが代わってくれた!」
実澄は飲食店の店員ではないが、娘の務めを代替わりすることはまれにある。勤務先が個人経営の店ならではの融通のよさだ。拓馬は店事情を把握できた。しかしあらたな疑問が出てくる。
「でもミスミさんがバイトを代わってまで……お前に空手を習わせたかったのか?」
「参加していいのはこの体験会だけね。習っていいとは言われてない」
「やっぱり、許可はおりないか」
実澄は娘に武道を習わせない。習い事自体は娘に数多く経験させたらしいが、ことケガの危険性のある分野には手を出さなかった。娘の安全をねがうがゆえの方針だ。
「じゃ、この体験会は完全に冷やかしにきたってわけだな」
拓馬は門下生になりえぬ女子に皮肉を言った。ヤマダは臆さず「そうだね」とみとめる。
「お母さんの感覚だと、道場でお祭りやってる、って感じなんだろうね。だから見るだけ見にいっておいで、というわけ」
「このイベントは商売なんだけど……」
「人がたくさんきたら、帰るよ。道場は広いけど、稽古ができる人数に限界があるもんね」
「まーそんなに客はこないと思うなあ」
入門の意思がない者を立ち退かせねばならないほどの集客は見込めない。むしろ本当に入門希望者がくるのか、と拓馬はいささか心配になっている。参加者がすくなすぎても道場の体面はわるくなるだろう。だれからも注目されない、人気のない道場──そんなところにかよいたい、と思える人はちょっとした変わり者だ。ヤマダたちの参加は、ないよりはあったほうがいいという、枯れ木も山のにぎわいに相当する。
拓馬は意図せずサクラ役を担当する痩身な男子を見る。
「椙守は? お前も見にきただけか」
「あ……僕は……まだなんとも」
椙守が首を小刻みに横にふった。体験会の結果次第では門下生になる可能性があるようだ。
「親はどう言ってる? お前んちも親の意見がいちばん強いんだろ」
「いい、とは思ってるみたいだ。やっぱり、普通の人程度には体をきたえておいていいだろう、って」
「それは俺もそう思う」
拓馬も椙守の貧弱な体と身体能力には不安をおぼえている。人間苦手なものがあって当然だし、苦手を克服すべきだとは拓馬は思わないが、それにしても限度がある。健康体な若者ならとくに、災害などの緊急事態を乗り切れる体力はそなえておきたい。だれしも努力次第で一定レベルの運動能力は体得できるのだから。そのような観点で、椙守の意思を尊重したい気持ちが拓馬にはあった。しかし、苦手を克服する鍛錬にしても向き不向きはある。
「ただ体をきたえるだけなら、べつに武道を習わなくてもいいんだぞ?」
「それは、たしかに……」
肉体改造のみを求めるなら筋トレをすればいい。水泳や自転車などの自分のペースでやるスポーツもいい。わざわざいきなり他者との戦いを想定した競技に着手しなくてもいいだろう、というのが拓馬の本音だ。
「ここの流派はなるべくケガしない練習をするけど……なんだかんだ攻撃を食らえば痛い思いをするし、そういう思いを自分が他人にさせるときもある」
「だから『やめとけ』と言いたいのか?」
椙守は真顔で聞いてきた。怒ってはいないようだ。これが何か月まえの彼なら不機嫌な顔を見せていただろう。いまの彼はある教師の影響により、情緒が安定していた。椙守が空手に興味を示したのも、おそらくその教師が武芸家であることが関係している。
「やめろとは言わない。金を払ってまで痛い目に遭ってもいいのか、ちょっと考えてほしい」
われながら出過ぎた言葉だ、と拓馬は内省する。門下生の勧誘のために道場へ招かれた者が口にするにはふさわしくない忠告だ。拓馬は雇い主の目的にそぐわぬ発言を自認しながらも、撤回しようとは思わなかった。ひとえに椙守のためだ。入門したはいいが数日で辞めたくなった、となれば椙守が損をする。入門時に必要となる月謝に道着代は、学生にとって安い出費ではない。悔いがのこらない決定をしてほしいと拓馬は思った。
三人だけがいた練習場に人がやってくる。小学生になるかならないか、くらいのちいさな子どもと、親らしき女性の二人組だ。とうとう客人が到来した。拓馬はすっと立ち上がる。
「じゃ、いまからは俺と他人のふりしててくれよ」
友人二人はあっさり了承した。バイト経験のある彼らは拓馬以上に接客の知識がある。勤務中は私語をつつしむべきなのだと察してくれた。
拓馬はいったん練習場を出る。戸を開きっぱなしにした練習場入り口のそばに神南が立っていた。彼女は受付をおえた人を練習場へ誘導している。それに倣い、拓馬は彼女と反対側に立った。門番のごとく左右にひかえる必要はないのだが、ほかによいポジションもない。受付時間がおわるまでじっと立っていた。
タグ:拓馬