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2018年11月10日
拓馬篇後記−18
体験会を終えたあとの次の道場開放日。練習開始時刻がせまる午後に、拓馬は道着を片手にして道場へやってきた。今日は夏季日程の開始日ではない。指導員の研修を受けるため、通常の練習風景を見学する。拓馬が参加する予定の練習時間にあらわれる門下生は皆、拓馬の年下だ。それゆえ拓馬が新規の入門者だとまちがわれるおそれはない。
(俺がかよってたときと練習内容は変わってんのかな……)
具体的な指導要領はまだ聞かされていなかった。変更があったとしても細々(こまごま)とした部分のみであろうことは先日の体験会を見てもわかる。あまり気負いせずに入館した。
道場は人の気配がうすかった。拓馬は更衣室へ向かう。男子更衣室に入ると、室内の背もたれのない長椅子にだれかが座っていた。道着を着た大男の背中が見える。その背中からはみ出る、毛むくじゃらなものに拓馬は注目した。
(なんだ……? 鳥?)
犬猫にはない、猛禽類のような先端の尖ったくちばしが拓馬の目についた。しかしすぐにくちばしは見えなくなる。その生き物が消えたかと思うと、鳥の両翼が広がった。鳥は飛び立ち、更衣室の窓へ突進する。窓にぶつかる瞬間、鳥はすりガラスを抜けた。
(普通の鳥じゃない……)
こういった生き物はめずらしいが、拓馬はよく見聞きしている。それゆえ鳥自体にはあまり動揺しなかった。問題は、その鳥と触れあっていたとおぼしき男性だ。
道着姿の男性は体の向きを変えた。その顔は拓馬と最近関わりをもったばかりの人物だった。彼は笑顔で「拓馬くん?」と話しかけてくる。
「無言で立ってるなんて、ちょっとこわいよ」
「あ、いや……」
「なにかあった?」
拓馬はさきほどの鳥について問おうかやめるか判断しかねた。もし稔次が鳥を視認できる人ではなく、あの鳥がたまたま彼のそばにいただけだとしたら、鳥のことは話すべきでない。拓馬が正直に言うと彼を混乱させることになる。しかし何事もなかったとふるまうには、時すでにおそい。
拓馬は事実をぼやかした表現で伝える。
「ヘンなものが見えた気がしたんです。でももう見えないし、見間違いだったみたいで──」
「見間違いじゃないかもよ?」
稔次が冗談とも真剣ともとれる返答をした。拓馬はどちらの前提で会話を続ければよいのか迷い、言葉につまった。稔次は少々真面目な顔つきになる。
「きみが見た『ヘンなもの』は鳥だった?」
「なんで……」
「オレも向こうに行ったからさ」
向こう、とはこの世界ではない異世界を指すのだと拓馬は察した。その世界へ行ってもどってきた者は、この世界にあらわれる異界の生き物が見えるようになるという。しかし拓馬はここではない世界へ行った経験はない。異形の可視化は生まれついての特徴だ。
(ちょっと勘違いされてるな……)
拓馬が案じたとおり、稔次は「やっぱりなぁ」とうれしそうに言う。
「向こうに行く日本人は、オレらの時代の人が多いみたいだね」
「いや、俺はちがうんです」
「ん? そうなの?」
稔次が目を丸くした。拓馬は自身の特異な性質を明かすことに決める。
「俺はたまたま見える体質なんです。異界には行ってません」
「じゃあどうしてオレが異界に行ったって話が通じるんだ?」
「知り合いが、教えてくれました。その人もさっきの鳥みたいなのをよく呼び寄せるんです」
「その人の名前、聞いてもいい?」
拓馬はするっと答えそうになるのをこらえる。シズカに無断で情報をもらしてはいけないと思い、ふみとどまった。
「それはちょっと……本人に確認しないと」
「秘密主義な人なんだ?」
「その人は慎重なんです。あんまり情報のやり取りをしすぎると、こっちか異界の未来を知ってしまうかもしれないって……」
未来を知ること自体は害悪ではない。既知の未来を改変しようとする者が出現する、その事態が忌むべきことだという。そういった歴史の改竄者があらわれる可能性をおさえるため、異界ではこちらの世界の人同士の安易な情報交換が止められている、とシズカは拓馬にのべていた。シズカはその規則にしたがっている。具体的にどういった情報を伝えてはいけないのかという線引きはシズカが知っているはずだが、拓馬はよくわかっていない。判断しかねることはひとまず彼に聞いてみるべき、と拓馬は考えた。
「へ〜、マジメな人だな。決まりをやぶったってバレっこないのに」
「守らなくてもいいんですか?」
「うーん、気にはするけどね。オレが向こうで会ったときより年齢が若い人には、向こうのことを教えちゃまずいと思う」
「未来を教えてしまうから?」
「そう。なにより、オレのことを知らない状態だろうしな」
「それはたしかに……」
「でもいちおう、拓馬くんの知り合いにオレのことを聞いてみてよ」
稔次は長椅子から立ち上がる。
「もしかしたら友だちかもしれない」
「思い当たる人、います?」
「うん、何人かいる。いまの年齢が向こうで会ったときより上だったら、直接話しても平気だろう」
「ぜんぜん知らない人だったら?」
「オレのことを教えるだけ教えておいて、あとはなにもしない。その人が会いたがったら会おうかな」
「わかりました。そういうふうに伝えます」
稔次が「じゃあよろしく〜」と言って、拓馬とすれちがおうとする。拓馬にはまだ解消されない疑問があったので、引き止める。
「あの、ひとつ聞いていいですか?」
「なに?」
「さっきの鳥はなんでここにいたんですか」
「オレの様子を見にきたんだよ。あの鳥とオレは古い仲間だ」
「トシさんが呼んだわけじゃない?」
「そう、いまはほかの人に使われてる」
「その人はなにが目的で鳥をよぶんです?」
「人を捜してるみたいだよ。人、といっても異界の生き物らしいけど」
異界の生き物の捜索のためにあらわれる、異界の生き物──というと、拓馬には連想する存在があった。その存在も人知れず道場に来ていた。
「もしかして、忍者みたいなやつも──」
「よく知ってるな〜。忍者もお友だちにしてる人が、さっきの鳥を使ってるんだ。知り合い?」
「いや、知らない人ですけど……」
拓馬は謎の人物がシドを悪者だとうたがっていることを思いだした。眉間に力が入る。
「俺としちゃ、その人はうっとうしいな、と思ってるんです」
「そうだよねぇ。オレたちが人外を見たら知らんぷりしなきゃいけないし、神経使うよ」
稔次は拓馬とはべつの観点で不満を挙げる。それもそうなのだが、拓馬の本心はちがった。
「やめるようにたのんでみようか?」
「偵察はべつにいいんです。事を荒立ててほしくないんです」
「荒立てるって、なにを?」
「そいつは俺の身近にいる人……といっても異界からきた人なんだけど、この知り合いをわるいやつだと思ってて、こそこそ調べてるらしいんです」
「拓馬くんの知り合いはわるいことしてたの?」
「むかしはやってたそうですけど、いまはやらないと誓ってる……」
行なってきた悪事とてシドが苦しい思いを我慢してやってきたことだ。それを無神経に蒸し返す輩には好感をもてない。
「もうわるさしないのに、過去のせいでケンカふっかけてこられたら、イヤだ」
「その気持ち、鳥づたいに言っておこうか?」
「いいです、それでトシさんに迷惑かかったらまずいから」
「そう? ま、いまはやめとこう。まだ自分のこともうまくいってないからね〜」
稔次は拓馬にも当てはまる言葉をのこし、更衣室を出ていった。これから拓馬たちは他人様(ひとさま)の子を道場であずかる。その役目に慣れないうちから、他人のことにあれこれと気を揉む余裕は正直ない。
(道場にいる間は道場のことに集中しよう)
目のまえの責務に従事する。拓馬と意外な共通点をもっていた男性とは、あくまで同業の武芸家として接していくことになる。それが守らねばならない表向きの顔だ。稔次もシズカと同じ経験をしてきた者だという驚愕は心の底にしまいこみ、拓馬は着替えをはじめた。
(俺がかよってたときと練習内容は変わってんのかな……)
具体的な指導要領はまだ聞かされていなかった。変更があったとしても細々(こまごま)とした部分のみであろうことは先日の体験会を見てもわかる。あまり気負いせずに入館した。
道場は人の気配がうすかった。拓馬は更衣室へ向かう。男子更衣室に入ると、室内の背もたれのない長椅子にだれかが座っていた。道着を着た大男の背中が見える。その背中からはみ出る、毛むくじゃらなものに拓馬は注目した。
(なんだ……? 鳥?)
犬猫にはない、猛禽類のような先端の尖ったくちばしが拓馬の目についた。しかしすぐにくちばしは見えなくなる。その生き物が消えたかと思うと、鳥の両翼が広がった。鳥は飛び立ち、更衣室の窓へ突進する。窓にぶつかる瞬間、鳥はすりガラスを抜けた。
(普通の鳥じゃない……)
こういった生き物はめずらしいが、拓馬はよく見聞きしている。それゆえ鳥自体にはあまり動揺しなかった。問題は、その鳥と触れあっていたとおぼしき男性だ。
道着姿の男性は体の向きを変えた。その顔は拓馬と最近関わりをもったばかりの人物だった。彼は笑顔で「拓馬くん?」と話しかけてくる。
「無言で立ってるなんて、ちょっとこわいよ」
「あ、いや……」
「なにかあった?」
拓馬はさきほどの鳥について問おうかやめるか判断しかねた。もし稔次が鳥を視認できる人ではなく、あの鳥がたまたま彼のそばにいただけだとしたら、鳥のことは話すべきでない。拓馬が正直に言うと彼を混乱させることになる。しかし何事もなかったとふるまうには、時すでにおそい。
拓馬は事実をぼやかした表現で伝える。
「ヘンなものが見えた気がしたんです。でももう見えないし、見間違いだったみたいで──」
「見間違いじゃないかもよ?」
稔次が冗談とも真剣ともとれる返答をした。拓馬はどちらの前提で会話を続ければよいのか迷い、言葉につまった。稔次は少々真面目な顔つきになる。
「きみが見た『ヘンなもの』は鳥だった?」
「なんで……」
「オレも向こうに行ったからさ」
向こう、とはこの世界ではない異世界を指すのだと拓馬は察した。その世界へ行ってもどってきた者は、この世界にあらわれる異界の生き物が見えるようになるという。しかし拓馬はここではない世界へ行った経験はない。異形の可視化は生まれついての特徴だ。
(ちょっと勘違いされてるな……)
拓馬が案じたとおり、稔次は「やっぱりなぁ」とうれしそうに言う。
「向こうに行く日本人は、オレらの時代の人が多いみたいだね」
「いや、俺はちがうんです」
「ん? そうなの?」
稔次が目を丸くした。拓馬は自身の特異な性質を明かすことに決める。
「俺はたまたま見える体質なんです。異界には行ってません」
「じゃあどうしてオレが異界に行ったって話が通じるんだ?」
「知り合いが、教えてくれました。その人もさっきの鳥みたいなのをよく呼び寄せるんです」
「その人の名前、聞いてもいい?」
拓馬はするっと答えそうになるのをこらえる。シズカに無断で情報をもらしてはいけないと思い、ふみとどまった。
「それはちょっと……本人に確認しないと」
「秘密主義な人なんだ?」
「その人は慎重なんです。あんまり情報のやり取りをしすぎると、こっちか異界の未来を知ってしまうかもしれないって……」
未来を知ること自体は害悪ではない。既知の未来を改変しようとする者が出現する、その事態が忌むべきことだという。そういった歴史の改竄者があらわれる可能性をおさえるため、異界ではこちらの世界の人同士の安易な情報交換が止められている、とシズカは拓馬にのべていた。シズカはその規則にしたがっている。具体的にどういった情報を伝えてはいけないのかという線引きはシズカが知っているはずだが、拓馬はよくわかっていない。判断しかねることはひとまず彼に聞いてみるべき、と拓馬は考えた。
「へ〜、マジメな人だな。決まりをやぶったってバレっこないのに」
「守らなくてもいいんですか?」
「うーん、気にはするけどね。オレが向こうで会ったときより年齢が若い人には、向こうのことを教えちゃまずいと思う」
「未来を教えてしまうから?」
「そう。なにより、オレのことを知らない状態だろうしな」
「それはたしかに……」
「でもいちおう、拓馬くんの知り合いにオレのことを聞いてみてよ」
稔次は長椅子から立ち上がる。
「もしかしたら友だちかもしれない」
「思い当たる人、います?」
「うん、何人かいる。いまの年齢が向こうで会ったときより上だったら、直接話しても平気だろう」
「ぜんぜん知らない人だったら?」
「オレのことを教えるだけ教えておいて、あとはなにもしない。その人が会いたがったら会おうかな」
「わかりました。そういうふうに伝えます」
稔次が「じゃあよろしく〜」と言って、拓馬とすれちがおうとする。拓馬にはまだ解消されない疑問があったので、引き止める。
「あの、ひとつ聞いていいですか?」
「なに?」
「さっきの鳥はなんでここにいたんですか」
「オレの様子を見にきたんだよ。あの鳥とオレは古い仲間だ」
「トシさんが呼んだわけじゃない?」
「そう、いまはほかの人に使われてる」
「その人はなにが目的で鳥をよぶんです?」
「人を捜してるみたいだよ。人、といっても異界の生き物らしいけど」
異界の生き物の捜索のためにあらわれる、異界の生き物──というと、拓馬には連想する存在があった。その存在も人知れず道場に来ていた。
「もしかして、忍者みたいなやつも──」
「よく知ってるな〜。忍者もお友だちにしてる人が、さっきの鳥を使ってるんだ。知り合い?」
「いや、知らない人ですけど……」
拓馬は謎の人物がシドを悪者だとうたがっていることを思いだした。眉間に力が入る。
「俺としちゃ、その人はうっとうしいな、と思ってるんです」
「そうだよねぇ。オレたちが人外を見たら知らんぷりしなきゃいけないし、神経使うよ」
稔次は拓馬とはべつの観点で不満を挙げる。それもそうなのだが、拓馬の本心はちがった。
「やめるようにたのんでみようか?」
「偵察はべつにいいんです。事を荒立ててほしくないんです」
「荒立てるって、なにを?」
「そいつは俺の身近にいる人……といっても異界からきた人なんだけど、この知り合いをわるいやつだと思ってて、こそこそ調べてるらしいんです」
「拓馬くんの知り合いはわるいことしてたの?」
「むかしはやってたそうですけど、いまはやらないと誓ってる……」
行なってきた悪事とてシドが苦しい思いを我慢してやってきたことだ。それを無神経に蒸し返す輩には好感をもてない。
「もうわるさしないのに、過去のせいでケンカふっかけてこられたら、イヤだ」
「その気持ち、鳥づたいに言っておこうか?」
「いいです、それでトシさんに迷惑かかったらまずいから」
「そう? ま、いまはやめとこう。まだ自分のこともうまくいってないからね〜」
稔次は拓馬にも当てはまる言葉をのこし、更衣室を出ていった。これから拓馬たちは他人様(ひとさま)の子を道場であずかる。その役目に慣れないうちから、他人のことにあれこれと気を揉む余裕は正直ない。
(道場にいる間は道場のことに集中しよう)
目のまえの責務に従事する。拓馬と意外な共通点をもっていた男性とは、あくまで同業の武芸家として接していくことになる。それが守らねばならない表向きの顔だ。稔次もシズカと同じ経験をしてきた者だという驚愕は心の底にしまいこみ、拓馬は着替えをはじめた。
タグ:拓馬
2018年11月06日
拓馬篇後記−17
「さあて、オレのなにに興味があるのかな」
稔次は雑巾による床掃除の開始と同時にしゃべった。拓馬は今日使用したミットの拭き掃除に取りかかっている。二人の視線が合うことはなく、ただ声だけで意志疎通する。
「なにから……トシさんからまだ隠されてないことを聞きましょうか」
「ああ、それがいいと思うんならね」
解答者は腰をすえて拭き掃除をおこなっている。
「たぶんどんな質問も、はっきりした返事はできないよ」
「答えられなくてもいいんです」
拓馬が思いついた質問は、稔次とその家族を特定しない漠然とした内容だ。
「……トシさんって、子どもいます?」
稔次は顔を上げる。拓馬がどんな思いでその問いをしたのか、推しはかっているようだ。
「なんでそんなことが気になる?」
「トシさんが体験会にきた子どもを見てるとき、なんだか、お父さんみたいな顔をしてると思ったんです」
「へえ、きみは感受性が豊かなんだね〜」
稔次は顔を伏せ、掃除を再開した。拓馬はこの問いが茶化されたように感じる。
(あんまりいい質問じゃなかったかな……)
もとより完全な返答を期待してはいない。拓馬は次なる疑問をたずねようかと意識を切り替えた。だが稔次は「合ってるよ」と前問の解答をしてくる。
「オレには、子どもがいたんだ」
彼は掃除を続けている。声の調子はいくぶん暗い。
「もう大きくなってる。いま見てもだれだかわからないくらいに……」
「ずいぶん会ってないんですか?」
「そうだよ。離婚して、それからは会ってない」
その説明は事実のみを述べていた。子と離れて暮らす彼個人の意思は伝わらない。
「会いたいっておも──」
「会っちゃいけないと思ってるんだ」
強い語調だった。そこに稔次の願望とは相反する決意がある。
「オレがふがいないばっかりに、妻をつらい目に遭わせた。だから、二人にはオレぬきで幸せになってほしい」
この希望はもっともらしい。過去のいまわしい記憶を封印しつづけることが妻子の幸福になる。そんな家庭もあるのだろうと拓馬は思った。しかし身近な友人のことを考えると、同意しかねた。拓馬が連想した友は二人。ひとりは母親が復縁した椙守、もうひとりは父親のいない男友達だ。
「ほんとうに、奥さんたちはトシさんがいないほうが幸せになれるんですか?」
だれにも正解のわからないことを拓馬は口走った。言われたほうは不快になるだろうと思ったが、稔次は平然と作業を続けている。
「子どもにはよくわからないだろうさ」
「子どもだから知ってることはありますよ」
「どんなことを?」
「俺の友だちに、両親が離婚した子が二人います。ひとりは母親が復縁して、実の父親の家にもどってこれた子です」
「その子は父親と仲がいいのかな?」
「ぜんぜん。好きじゃないみたいです。家の仕事を無理やり手伝わされるし、好きなことをあんまりさせてもらえないから」
「じゃあ父親はいないほうがいいんじゃないか」
稔次がからかうように軽い調子で言った。いまの説明で話がおわりなら、彼の意見は正しい。拓馬は首を横にふる。
「だけど『親が再婚しなかったらよかった』なんて一度も言ったことがないんです」
「お父さんがキライなのに?」
「父親と仲良くはないけど、体の強くない母親が無理してはたらいていたときとくらべたら、いまがいいってことらしいです」
椙守母子の過去を拓馬はすべて知っているわけではない。ただ一度、椙守が「母さんには父さんが必要なんだ」と父親を評価したことがあった。それきり椙守は拓馬の前では父親をほめないが、たった一回の賛辞もまた彼の本心だと拓馬は感じていた。
「その子は、お母さんのための再婚、と割り切ってるのか」
「そうだと思います。そいつ、頭がいいから、物事のメリットとデメリットをちゃんと考えられるんです」
「ざんねんだけどオレには当てはまらなさそうだな。オレはむしろ妻側に負担をかけてしまうほうだ」
稔次は就労しづらい事情を抱えているという。それゆえ金銭面での再婚のメリットは見いだせない。拓馬はこちらの事例が蛇足だったと反省した。
「もうひとりの子の話は?」
稔次が拓馬の話題に食いついている。子ども目線の話にまだ興味をもってくれているとわかり、拓馬はもうひとりの友人のことを思い出す。その人物はジモンという、大柄で筋肉質な男子だ。
「もうひとりは、父親がいません。ちっちゃいときに母親と離婚したそうで、父親がどんな人だったか、ほとんどおぼえていないらしいです」
「その子は父親に会いたがってる?」
「そう、だと思います。いつも明るい性格で、しめっぽい話はしたがらないけど……父親にちかづきたい、とは言ってました。だから剣道部に入るんだって」
ジモンは体格的に徒手の武道を習ったほうが有利そうな男子だ。しかし彼はあえて剣の道を選んだ。その動機は彼の母親から聞いた、父親の像を追いかけるためだという。
「俺はその子のことをジモンってよぶんですけどね。ジモンの父親は、歳が若くても剣術が上手だったっていうんです。そのことを母親から聞かされたジモンは『漫画によくある主人公みたいだ』と冗談かましてたけど、父親が剣の達人だってことを信じてる。剣の道をすすんでいけば、いつか父親のことがもっとわかるかもしれないって……思ってるんでしょうね」
闊達(かったつ)なジモンからは想像しにくい経緯だ。しかしそれが拓馬が見聞きしたジモンとその父親の情報。父を慕う父なき子の実例を根拠に、拓馬はさらに言う。
「もしトシさんの子どもも、親に会いたい子だったら、やっぱり一回は会ったほうがいいんじゃないかと思うんです」
「『会わなきゃよかった』と幻滅するかもしれないよ?」
「俺はそう思えません」
「おや、今日会ったばかりだっていうのに、ずいぶんオレを信じてくれるね」
「そうですよ。俺はトシさんをいい人だと思ってる」
稔次の私生活がどんなのであれ、彼の外面(そとづら)はよい。それは拓馬だけでなく、おそらく体験会に参加した客たちも感じていることだ。
「裏でどんなことをしてきたのか知らないけど、俺はそう思った。これは、お子さんに一回会うくらいじゃボロが出ない証拠になるんじゃないですか」
「うまいこと言うね〜」
稔次は拓馬の主張をほめてきたが、本気かどうかは拓馬にはわからなかった。彼の飄々とした態度は、なにかを隠そうとする気持ちのあらわれだろう。その反応にしても、過去に妻にトラウマを植えつける真似をした人物だとはにわかに信じられない。そのトラウマがなにか、が拓馬は気になり出す。
「奥さんになにをした、ってことは聞けないですよね?」
「ああ、言えない。それを言うと師範代たちにも迷惑がかかりそうでね」
親類にまで被害がおよぶこと。それは稔次が風聞のよくないことを過去にしでかした、ということが該当すると拓馬は考えた。それゆえ大畑一家との関係性を不透明にしているのかもしれない。
(わるいこと……犯罪? それで長いこと警察から逃げ回ったとか……)
あるいは収監されていたのか。いずれにせよ、稔次が仕事に就労しづらいとの事情には合致する。
「もしかして、そのせいで仕事に就きにくくなったんですか?」
「よく当ててくるね。きみって探偵になれるんじゃないか?」
「それはないです。俺の知ってる人のほうがカンがいいんで」
拓馬の脳裏には幼馴染のヤマダと知人のシズカがうかんだ。この二人の察しのよさは自身をしのぐ、と拓馬は評価していた。
「まわりにいる人がスゴイのか。それできみはちっともエラぶらないんだな」
「俺のことはいいです。まだ質問してもいいですか」
「うーん、今度はオレがきみに聞いてもいいかな」
「なんです?」
「そのジモンって子は……オレの子だと思う?」
意外にも彼は父不明の男子に関心があった。拓馬はあくまで例え話としてジモンの身の上を話しただけなので、稔次の発想は予想外だ。
「え……顔がぜんぜん似てないし……」
ジモンはブサイクではないが美形では決してない。その造形は稔次とちがいすぎた。そもそもジモンの父は剣術の達人。空手家である稔次とは持ちうる武芸の腕が異なる。
「トシさんは剣道をやってたんですか?」
「いや、剣道はやってこなかったなぁ」
「じゃあちがうんじゃ」
「まぁそうか。ごめん、つまんないこと聞いたね」
室内の半分あたりまで清掃した稔次はバケツに雑巾を入れた。バケツの水で雑巾を洗い、絞る。
「んー、水を換えようかな……どう? まだ話し足りないことはある?」
稔次はこれで込み入った話を終えようとしている。拓馬もあらかた聞けることは聞いた手応えがあり、最後に言うことはないかと絞り出す。
「えっと……ひとつだけ確認していいですか」
「いいよ」
「俺としゃべってて……家族に会わない宣言は、どうなりました?」
稔次はバケツの取っ手を握った。バケツを持つ彼がにっと笑う。
「いま気持ちがぐらついてる」
「じゃあ……」
「前向きに検討しようかな」
そう言って稔次は練習場を出た。心なしか声色はうれしそうだった。やはり自分の子どもに会ってもよいのだと言われて、彼の気が楽になる部分があったようだ。
(いいこと言えた……のかな)
事情を知らぬ部外者が好き勝手にアドバイスをして、当事者にどれだけの得になるだろうか。それでも彼に抜け落ちていた視点を伝えるのは拓馬のすべきことだと思った。
(ジモンは……本当の父さんに会えたら、すごくよろこぶんだろうな)
小事にこだわらない友のことだ。どんなに悪辣な過去がある人物だろうと、現在改心していれば普通に接するはず。
(そういう子もいるんだから……一方的に子どもと会わないほうがいいと決めつけるの、ちがうと思う)
父不在の子どもの思いは拓馬が代弁した。これで稔次の意向が変わらなかったとしても、悔いはのこらない。それが彼なりの家族への愛し方だというのなら、門外漢が口出しできる余地はなかった。
拓馬は五つのミットを拭きおえた。実はとうに終了していい出来だったが、意識は掃除以外のことに重点を置いていたために、長く時間をかけた。
(俺はべつの掃除をしようか……)
拓馬も掃除道具をもって、練習場を出た。その後に稔次と会っても彼の家族の話題はなく、事務連絡的な会話と雑談で締めくくられた。
稔次は雑巾による床掃除の開始と同時にしゃべった。拓馬は今日使用したミットの拭き掃除に取りかかっている。二人の視線が合うことはなく、ただ声だけで意志疎通する。
「なにから……トシさんからまだ隠されてないことを聞きましょうか」
「ああ、それがいいと思うんならね」
解答者は腰をすえて拭き掃除をおこなっている。
「たぶんどんな質問も、はっきりした返事はできないよ」
「答えられなくてもいいんです」
拓馬が思いついた質問は、稔次とその家族を特定しない漠然とした内容だ。
「……トシさんって、子どもいます?」
稔次は顔を上げる。拓馬がどんな思いでその問いをしたのか、推しはかっているようだ。
「なんでそんなことが気になる?」
「トシさんが体験会にきた子どもを見てるとき、なんだか、お父さんみたいな顔をしてると思ったんです」
「へえ、きみは感受性が豊かなんだね〜」
稔次は顔を伏せ、掃除を再開した。拓馬はこの問いが茶化されたように感じる。
(あんまりいい質問じゃなかったかな……)
もとより完全な返答を期待してはいない。拓馬は次なる疑問をたずねようかと意識を切り替えた。だが稔次は「合ってるよ」と前問の解答をしてくる。
「オレには、子どもがいたんだ」
彼は掃除を続けている。声の調子はいくぶん暗い。
「もう大きくなってる。いま見てもだれだかわからないくらいに……」
「ずいぶん会ってないんですか?」
「そうだよ。離婚して、それからは会ってない」
その説明は事実のみを述べていた。子と離れて暮らす彼個人の意思は伝わらない。
「会いたいっておも──」
「会っちゃいけないと思ってるんだ」
強い語調だった。そこに稔次の願望とは相反する決意がある。
「オレがふがいないばっかりに、妻をつらい目に遭わせた。だから、二人にはオレぬきで幸せになってほしい」
この希望はもっともらしい。過去のいまわしい記憶を封印しつづけることが妻子の幸福になる。そんな家庭もあるのだろうと拓馬は思った。しかし身近な友人のことを考えると、同意しかねた。拓馬が連想した友は二人。ひとりは母親が復縁した椙守、もうひとりは父親のいない男友達だ。
「ほんとうに、奥さんたちはトシさんがいないほうが幸せになれるんですか?」
だれにも正解のわからないことを拓馬は口走った。言われたほうは不快になるだろうと思ったが、稔次は平然と作業を続けている。
「子どもにはよくわからないだろうさ」
「子どもだから知ってることはありますよ」
「どんなことを?」
「俺の友だちに、両親が離婚した子が二人います。ひとりは母親が復縁して、実の父親の家にもどってこれた子です」
「その子は父親と仲がいいのかな?」
「ぜんぜん。好きじゃないみたいです。家の仕事を無理やり手伝わされるし、好きなことをあんまりさせてもらえないから」
「じゃあ父親はいないほうがいいんじゃないか」
稔次がからかうように軽い調子で言った。いまの説明で話がおわりなら、彼の意見は正しい。拓馬は首を横にふる。
「だけど『親が再婚しなかったらよかった』なんて一度も言ったことがないんです」
「お父さんがキライなのに?」
「父親と仲良くはないけど、体の強くない母親が無理してはたらいていたときとくらべたら、いまがいいってことらしいです」
椙守母子の過去を拓馬はすべて知っているわけではない。ただ一度、椙守が「母さんには父さんが必要なんだ」と父親を評価したことがあった。それきり椙守は拓馬の前では父親をほめないが、たった一回の賛辞もまた彼の本心だと拓馬は感じていた。
「その子は、お母さんのための再婚、と割り切ってるのか」
「そうだと思います。そいつ、頭がいいから、物事のメリットとデメリットをちゃんと考えられるんです」
「ざんねんだけどオレには当てはまらなさそうだな。オレはむしろ妻側に負担をかけてしまうほうだ」
稔次は就労しづらい事情を抱えているという。それゆえ金銭面での再婚のメリットは見いだせない。拓馬はこちらの事例が蛇足だったと反省した。
「もうひとりの子の話は?」
稔次が拓馬の話題に食いついている。子ども目線の話にまだ興味をもってくれているとわかり、拓馬はもうひとりの友人のことを思い出す。その人物はジモンという、大柄で筋肉質な男子だ。
「もうひとりは、父親がいません。ちっちゃいときに母親と離婚したそうで、父親がどんな人だったか、ほとんどおぼえていないらしいです」
「その子は父親に会いたがってる?」
「そう、だと思います。いつも明るい性格で、しめっぽい話はしたがらないけど……父親にちかづきたい、とは言ってました。だから剣道部に入るんだって」
ジモンは体格的に徒手の武道を習ったほうが有利そうな男子だ。しかし彼はあえて剣の道を選んだ。その動機は彼の母親から聞いた、父親の像を追いかけるためだという。
「俺はその子のことをジモンってよぶんですけどね。ジモンの父親は、歳が若くても剣術が上手だったっていうんです。そのことを母親から聞かされたジモンは『漫画によくある主人公みたいだ』と冗談かましてたけど、父親が剣の達人だってことを信じてる。剣の道をすすんでいけば、いつか父親のことがもっとわかるかもしれないって……思ってるんでしょうね」
闊達(かったつ)なジモンからは想像しにくい経緯だ。しかしそれが拓馬が見聞きしたジモンとその父親の情報。父を慕う父なき子の実例を根拠に、拓馬はさらに言う。
「もしトシさんの子どもも、親に会いたい子だったら、やっぱり一回は会ったほうがいいんじゃないかと思うんです」
「『会わなきゃよかった』と幻滅するかもしれないよ?」
「俺はそう思えません」
「おや、今日会ったばかりだっていうのに、ずいぶんオレを信じてくれるね」
「そうですよ。俺はトシさんをいい人だと思ってる」
稔次の私生活がどんなのであれ、彼の外面(そとづら)はよい。それは拓馬だけでなく、おそらく体験会に参加した客たちも感じていることだ。
「裏でどんなことをしてきたのか知らないけど、俺はそう思った。これは、お子さんに一回会うくらいじゃボロが出ない証拠になるんじゃないですか」
「うまいこと言うね〜」
稔次は拓馬の主張をほめてきたが、本気かどうかは拓馬にはわからなかった。彼の飄々とした態度は、なにかを隠そうとする気持ちのあらわれだろう。その反応にしても、過去に妻にトラウマを植えつける真似をした人物だとはにわかに信じられない。そのトラウマがなにか、が拓馬は気になり出す。
「奥さんになにをした、ってことは聞けないですよね?」
「ああ、言えない。それを言うと師範代たちにも迷惑がかかりそうでね」
親類にまで被害がおよぶこと。それは稔次が風聞のよくないことを過去にしでかした、ということが該当すると拓馬は考えた。それゆえ大畑一家との関係性を不透明にしているのかもしれない。
(わるいこと……犯罪? それで長いこと警察から逃げ回ったとか……)
あるいは収監されていたのか。いずれにせよ、稔次が仕事に就労しづらいとの事情には合致する。
「もしかして、そのせいで仕事に就きにくくなったんですか?」
「よく当ててくるね。きみって探偵になれるんじゃないか?」
「それはないです。俺の知ってる人のほうがカンがいいんで」
拓馬の脳裏には幼馴染のヤマダと知人のシズカがうかんだ。この二人の察しのよさは自身をしのぐ、と拓馬は評価していた。
「まわりにいる人がスゴイのか。それできみはちっともエラぶらないんだな」
「俺のことはいいです。まだ質問してもいいですか」
「うーん、今度はオレがきみに聞いてもいいかな」
「なんです?」
「そのジモンって子は……オレの子だと思う?」
意外にも彼は父不明の男子に関心があった。拓馬はあくまで例え話としてジモンの身の上を話しただけなので、稔次の発想は予想外だ。
「え……顔がぜんぜん似てないし……」
ジモンはブサイクではないが美形では決してない。その造形は稔次とちがいすぎた。そもそもジモンの父は剣術の達人。空手家である稔次とは持ちうる武芸の腕が異なる。
「トシさんは剣道をやってたんですか?」
「いや、剣道はやってこなかったなぁ」
「じゃあちがうんじゃ」
「まぁそうか。ごめん、つまんないこと聞いたね」
室内の半分あたりまで清掃した稔次はバケツに雑巾を入れた。バケツの水で雑巾を洗い、絞る。
「んー、水を換えようかな……どう? まだ話し足りないことはある?」
稔次はこれで込み入った話を終えようとしている。拓馬もあらかた聞けることは聞いた手応えがあり、最後に言うことはないかと絞り出す。
「えっと……ひとつだけ確認していいですか」
「いいよ」
「俺としゃべってて……家族に会わない宣言は、どうなりました?」
稔次はバケツの取っ手を握った。バケツを持つ彼がにっと笑う。
「いま気持ちがぐらついてる」
「じゃあ……」
「前向きに検討しようかな」
そう言って稔次は練習場を出た。心なしか声色はうれしそうだった。やはり自分の子どもに会ってもよいのだと言われて、彼の気が楽になる部分があったようだ。
(いいこと言えた……のかな)
事情を知らぬ部外者が好き勝手にアドバイスをして、当事者にどれだけの得になるだろうか。それでも彼に抜け落ちていた視点を伝えるのは拓馬のすべきことだと思った。
(ジモンは……本当の父さんに会えたら、すごくよろこぶんだろうな)
小事にこだわらない友のことだ。どんなに悪辣な過去がある人物だろうと、現在改心していれば普通に接するはず。
(そういう子もいるんだから……一方的に子どもと会わないほうがいいと決めつけるの、ちがうと思う)
父不在の子どもの思いは拓馬が代弁した。これで稔次の意向が変わらなかったとしても、悔いはのこらない。それが彼なりの家族への愛し方だというのなら、門外漢が口出しできる余地はなかった。
拓馬は五つのミットを拭きおえた。実はとうに終了していい出来だったが、意識は掃除以外のことに重点を置いていたために、長く時間をかけた。
(俺はべつの掃除をしようか……)
拓馬も掃除道具をもって、練習場を出た。その後に稔次と会っても彼の家族の話題はなく、事務連絡的な会話と雑談で締めくくられた。
タグ:拓馬
2018年11月03日
拓馬篇後記−16
体験会に参加した客は全員帰途についた。練習場には道場関係者がのこる。彼らは輪になって、新規の指導員について議題にする。
「あの状況じゃ拓馬くんがことわれません」
とは神南の言葉だ。彼女は大畑が土壇場で拓馬を指導員に仕立てたことをやり玉に挙げる。
「お客さんには『人手を増やしたいと思っています』と答えるぐらいじゃ、ダメだったんですか」
普段は控えめな神南がめずらしくキツいことを言っている。大畑に言動の反省をうながしているのだ。責められた大畑は「言われればたしかに」と萎縮する。
「あそこで急に決めなくてもよかったな……」
「ひとりでも多くの門下生がほしいのはわかります。でも子どもに気を遣わせるなんて、いい大人のすることじゃありません」
「むう、スマンな、拓馬くん……」
大畑がうなだれながら謝った。拓馬は謝罪を要求するほどのことではないと思っていたので、この対応にはあわてる。
「いや、どうせ予定はないし……トシさんが俺の手を借りたいっていうなら、貸していいなって」
「おお、トシを気に入ってくれたか!」
落ち込んでいた中年が一気に元通りになった。その変貌に拓馬は面食らう。
「あ……べつに気に入るってわけじゃ……」
「照れんでもいい! ワシもトシは好きだ」
「え」
「家族として好きという意味だ。誤解はせんでくれ。きみはどうもワシをカンちがいしとるようだからな」
拓馬が大畑に男色のケがあるとうたがっている。そのことがバレた。それをどう言い繕おうかと拓馬がまごまごすると、大畑の父である師範は「どうだかの」とうたがいのまなざしを子に向ける。
「トシに会えたその晩に、トシにくっついて寝たのはだれだ?」
「妻もいっしょだからいいでしょう!」
「よそさまの夫はな、川の字になって寝るのは妻と子どもとだけだ。この夏場の暑苦しいときに男同士でひっつき合うのはどうかしとる」
「長年積もった情があふれ出ておるのです!」
大畑は稔次と肩を組もうと手をのばした。しかし稔次がひらりと身をかわす。
「オレもーヤダよ」
「なんと! このファミリー愛をこばむというのか!」
「くっつかれるなら女の人がいいって」
「そんなスケコマシにそだてたおぼえはないぞ!」
「普通の男ならだれだってそうだよ」
ねー、と稔次が拓馬に同意を求める。拓馬は家族間の言い争いに加わりたくなかったので、無言でうなずいた。同時に大畑の発言を考察する。
(師範代がトシさんをそだてたって言ってるから……二人はちっちゃいときから一緒だったみたいだな)
稔次が身よりのない親戚の子どもだったのか、あるいは大畑とは兄弟なのか。その二つが可能性として浮上した。大畑の名が豊一で長男らしいのと、稔次の名が次男らしいのをふまえると、兄弟の線が濃厚だ。
(でも弟を親戚だなんて言うかな)
稔次が大畑家と直接の関わりがあると周囲に知れてはこまる──そんな事情が両者の間にあるのかもしれない。そう思った頃合いに、大畑が質問の好機となるセリフを言う。
「──これまでにいろいろあったが、これからのトシには人生をたのしんでほしいと思っておる」
「いろいろって?」
拓馬はその質問をするのが当然のようにたずねた。過去を隠したがる彼らが直接答えを教えるはずもないが、想像の種くらいは言ってくれるのではないかと思った。大畑は稔次の顔色をうかがう。稔次は気まずそうだ。
「それを知りたくば……」
大畑は満面の笑みを拓馬に見せる。
「ワシと家族になるかい?」
「なんで?」
「家族のヒミツを知りたいんだろう? ではきみにも家族になってもらわんとな!」
「どうやって?」
「ワシの息子に──」
拓馬はとっさに首を横にふる。いくら大畑が娘ばかりの家庭状況とはいえ「養子に入れ」とは急な話だと思ったためだ。
「ヤですよ、養子なんて」
「養子か。そういうことにもなるか」
「ちがうんですか?」
「婿に入れば同じことだな!」
拓馬は呆気にとられた。大畑の娘は年長の者でも小学生。とても恋愛対象には見れない相手だ。神南がおずおずと「まだ言うのは早いんじゃ」と大畑を制止する。
「二人ともまだ子どもです。そんなこと言っても反発されるだけですよ」
「そうは思っていたが、やはり言っておかないと心配だ。噂によれば拓馬くんには美人の女友達ができたそうじゃないか。その子にとられてからではおそい!」
近ごろ拓馬の友人になった女子というと、拓馬の思い当たる人物がいた。しかし彼女と特別親しくはないし、相手の気難しい性格上、大畑の心配はいきすぎだと感じる。
「その子とはそんな関係になれっこないです」
「転ばぬ先の杖だ! さあどうだ、うちの娘と許婚(いいなずけ)に」
「ムリです。歳が離れすぎです」
「うちの妻とワシもそれぐらい離れているぞ」
「そりゃ師範代みたいに三十路で結婚するんだったら気にならないでしょうけど……」
現実味の感じられない申し出だ。拓馬はどうにかこの場を乗り切ろうと話題を変える。
「もういいです。とっとと後片付けを──」
「いいよ、教えてあげる」
稔次が二人の会話に割って入る。表情はやわらかいが、心から笑ってはいない。
「教えるのと婿養子に入るのはべつの話だ。安心していい」
「あ、はい……」
「ぜんぶを言えるわけじゃないけど……それで我慢してくれ」
思いがけず重いトーンのやり取りがはじまることになった。大畑は師範と神南を見遣る。
「……拓馬くんとトシに練習場の掃除をまかせる。ワシらはほかの片付けをしよう」
大畑が厄介払いをした。三人がこの場を出ていく。しかし練習場を担当する拓馬たちも一度出なくては掃除ができない。謎多き男性と分担する掃除箇所を決め、そののちに掃除道具を取りに向かった。
「あの状況じゃ拓馬くんがことわれません」
とは神南の言葉だ。彼女は大畑が土壇場で拓馬を指導員に仕立てたことをやり玉に挙げる。
「お客さんには『人手を増やしたいと思っています』と答えるぐらいじゃ、ダメだったんですか」
普段は控えめな神南がめずらしくキツいことを言っている。大畑に言動の反省をうながしているのだ。責められた大畑は「言われればたしかに」と萎縮する。
「あそこで急に決めなくてもよかったな……」
「ひとりでも多くの門下生がほしいのはわかります。でも子どもに気を遣わせるなんて、いい大人のすることじゃありません」
「むう、スマンな、拓馬くん……」
大畑がうなだれながら謝った。拓馬は謝罪を要求するほどのことではないと思っていたので、この対応にはあわてる。
「いや、どうせ予定はないし……トシさんが俺の手を借りたいっていうなら、貸していいなって」
「おお、トシを気に入ってくれたか!」
落ち込んでいた中年が一気に元通りになった。その変貌に拓馬は面食らう。
「あ……べつに気に入るってわけじゃ……」
「照れんでもいい! ワシもトシは好きだ」
「え」
「家族として好きという意味だ。誤解はせんでくれ。きみはどうもワシをカンちがいしとるようだからな」
拓馬が大畑に男色のケがあるとうたがっている。そのことがバレた。それをどう言い繕おうかと拓馬がまごまごすると、大畑の父である師範は「どうだかの」とうたがいのまなざしを子に向ける。
「トシに会えたその晩に、トシにくっついて寝たのはだれだ?」
「妻もいっしょだからいいでしょう!」
「よそさまの夫はな、川の字になって寝るのは妻と子どもとだけだ。この夏場の暑苦しいときに男同士でひっつき合うのはどうかしとる」
「長年積もった情があふれ出ておるのです!」
大畑は稔次と肩を組もうと手をのばした。しかし稔次がひらりと身をかわす。
「オレもーヤダよ」
「なんと! このファミリー愛をこばむというのか!」
「くっつかれるなら女の人がいいって」
「そんなスケコマシにそだてたおぼえはないぞ!」
「普通の男ならだれだってそうだよ」
ねー、と稔次が拓馬に同意を求める。拓馬は家族間の言い争いに加わりたくなかったので、無言でうなずいた。同時に大畑の発言を考察する。
(師範代がトシさんをそだてたって言ってるから……二人はちっちゃいときから一緒だったみたいだな)
稔次が身よりのない親戚の子どもだったのか、あるいは大畑とは兄弟なのか。その二つが可能性として浮上した。大畑の名が豊一で長男らしいのと、稔次の名が次男らしいのをふまえると、兄弟の線が濃厚だ。
(でも弟を親戚だなんて言うかな)
稔次が大畑家と直接の関わりがあると周囲に知れてはこまる──そんな事情が両者の間にあるのかもしれない。そう思った頃合いに、大畑が質問の好機となるセリフを言う。
「──これまでにいろいろあったが、これからのトシには人生をたのしんでほしいと思っておる」
「いろいろって?」
拓馬はその質問をするのが当然のようにたずねた。過去を隠したがる彼らが直接答えを教えるはずもないが、想像の種くらいは言ってくれるのではないかと思った。大畑は稔次の顔色をうかがう。稔次は気まずそうだ。
「それを知りたくば……」
大畑は満面の笑みを拓馬に見せる。
「ワシと家族になるかい?」
「なんで?」
「家族のヒミツを知りたいんだろう? ではきみにも家族になってもらわんとな!」
「どうやって?」
「ワシの息子に──」
拓馬はとっさに首を横にふる。いくら大畑が娘ばかりの家庭状況とはいえ「養子に入れ」とは急な話だと思ったためだ。
「ヤですよ、養子なんて」
「養子か。そういうことにもなるか」
「ちがうんですか?」
「婿に入れば同じことだな!」
拓馬は呆気にとられた。大畑の娘は年長の者でも小学生。とても恋愛対象には見れない相手だ。神南がおずおずと「まだ言うのは早いんじゃ」と大畑を制止する。
「二人ともまだ子どもです。そんなこと言っても反発されるだけですよ」
「そうは思っていたが、やはり言っておかないと心配だ。噂によれば拓馬くんには美人の女友達ができたそうじゃないか。その子にとられてからではおそい!」
近ごろ拓馬の友人になった女子というと、拓馬の思い当たる人物がいた。しかし彼女と特別親しくはないし、相手の気難しい性格上、大畑の心配はいきすぎだと感じる。
「その子とはそんな関係になれっこないです」
「転ばぬ先の杖だ! さあどうだ、うちの娘と許婚(いいなずけ)に」
「ムリです。歳が離れすぎです」
「うちの妻とワシもそれぐらい離れているぞ」
「そりゃ師範代みたいに三十路で結婚するんだったら気にならないでしょうけど……」
現実味の感じられない申し出だ。拓馬はどうにかこの場を乗り切ろうと話題を変える。
「もういいです。とっとと後片付けを──」
「いいよ、教えてあげる」
稔次が二人の会話に割って入る。表情はやわらかいが、心から笑ってはいない。
「教えるのと婿養子に入るのはべつの話だ。安心していい」
「あ、はい……」
「ぜんぶを言えるわけじゃないけど……それで我慢してくれ」
思いがけず重いトーンのやり取りがはじまることになった。大畑は師範と神南を見遣る。
「……拓馬くんとトシに練習場の掃除をまかせる。ワシらはほかの片付けをしよう」
大畑が厄介払いをした。三人がこの場を出ていく。しかし練習場を担当する拓馬たちも一度出なくては掃除ができない。謎多き男性と分担する掃除箇所を決め、そののちに掃除道具を取りに向かった。
タグ:拓馬
2018年11月01日
拓馬篇後記−15
二度目の体験会がはじまった。参加する客層には新顔もいたが、多くは前回の顔ぶれと同じようだと拓馬は感じた。二度の参加を果たす彼らはおそらく入門を決めかねている。この体験会が入門の可否の決め手になる。道場側の者としてはここで客たちに好印象を与えるべきなのだが、あいにく今回の体験会で行なうことは前回と同じ。目立った変化は指導員がひとり増えたことだけだ。これではあまり効果的な勧誘は見込めない。しかし参加する子どもの保護者のうち、婦人方の目つきは多少ちがっていた。彼女らの視線はあらたな男性指導員によくあつまる。やはり見目麗しい異性に関心を寄せてしまうようだ。
(母親がトシさん目当てに子どもを入門させるって線も……)
不謹慎だがありえそうな事態だ。稔次は思いがけず女性客の心をつかんでいる。その彼に一目会いたいがために、子を道場にかよわせる母があらわれるかもしれなかった。
稔次のほうはというと、彼は女性からの注目には無関心だ。もっぱら小さな子どもに視線を落としている。その目は慈愛がこもっていて、拓馬たちに見せた表情とは異なる情が感じられた。
(子ども、好きなのかな……)
稔次は三十代以上の男性だ。これだけの容姿だと女性のほうが彼を放っておかない。そのうえ性格は社交的。彼と懇意になりたがる女性は過去にもいただろう。彼に結婚歴があって、子どもをもっていたとしてもおどろくことではない。
(子どもがいるか、なんて聞いていいのかどうか)
自分の兄弟のことを言いたがらない人だ。妻子の有無もさぐられたくはない個人情報かもしれない。そう考えた拓馬は稔次への疑念を押しとどめながら、指導員の補佐の役目をまっとうした。
体験会の終了間際、大畑は入門書を配布した。前回は希望者にのみ受付で渡していたものだ。今回もそんな受動的な態度でいては客をのがすと思ったのだろうか。拓馬たちも手分けして配った。中には「まえにもらった」と言って断る人がおり、そういった客にはむりに入門書を押し付けなかった。
体験会が閉幕する。客は練習場を出る者とのこる者に二分した。のこった客もまた大きく分けて二種類。入門を申しこもうとする者と、入門にまつわる質問をする者がいた。拓馬はその質疑応答をそばで聞いた。気になっていた夏季日程の担当はやはり稔次。彼に一任すると大畑が宣言する。
「彼の技はワシをしのいでおります。指導するのに不足はありません」
大畑が新人指導員の技芸を称賛した。しかし小さな子を連れた中年女性が意見する。
「それはいいんですけど、教える先生はおひとりなんですか?」
「おもにひとりですが、ときどき師範も参加する予定です。なにか問題が?」
「うちの子、物覚えがわるくって……この子におしえるのにかかりきりになったら、ほかの子にも迷惑をかけるでしょう? もっと先生がいてくだされば安心できるんです」
「ほかの指導員が……いたらいいんですね」
女性に顔を向けていた大畑は突然拓馬を見た。拓馬は体が硬直する。
(ああ、やっぱり……)
体験会の手伝いを承諾する以前からうすうす勘付いていたことだ。しかし快諾する気持ちにはなれなかった。
大畑はじりじりと寄ってきて、拓馬の肩に手をのせる。
「どうだろう、拓馬くん。夏休みの間──」
「俺が指導員をやってて、お客さんが納得すると思います?」
「なにを言う! きみは段位をもっているんだろう?」
拓馬はびっくりした。この情報をみずから大畑に伝えたおぼえはない。空手にまつわることは彼との話題にのぼらせないよう、注意していた。そう配慮したわけは、大畑がめんどくさいことを言い出しそうだと思っていたからだ。現にいま、段位取得を根拠に拓馬の道場の手伝いを継続させようとしている。
「初段は一人前の証拠になる!」
「それ、どこから知ったんです?」
「きみのお友だちが年賀状でおしえてくれたぞ」
大畑に年賀状を出す、拓馬の友人──思い当たるのはひとりだけだ。
「ヤマダが……余計なことを」
「いいじゃないか。めでたい報せはみんなで共有するもんだ」
「はぁ」
「で、どうだ? タダでとは言わないから」
正直拓馬はどうとも言えなかった。めんどうごとが増えるのはイヤだ。かといって夏休みの予定はとくになく、ぼーっとすごすのも時間が惜しい。まだ小遣い稼ぎにいそしんだほうが有益だといえる。
(でも俺が先生役なんて……)
その役割を果たす力量があるのか、不安に思っているのは拓馬自身だった。客がどう思う、というのは言い訳にすぎない。
煮え切らない態度の拓馬に、稔次も近寄ってくる。
「オレもきみがいてくれたら心強いな。この図体だと子どもがこわがるかもしれないし」
稔次の懸念は拓馬の視野を広げた。彼もまた不安をかかえている。その解消には拓馬の助勢が必要、とは真に受けがたいが、心にもないこととは思えなかった。
「あたらしく習いはじめた子が慣れるまで、でもいいからさ」
「それぐらいなら……」
予定にないことを引き受けてしまった。本来なら家族とも相談したうえで決めたかったが、指導員の数を気にする客がこの場にいるために、即断せねばならぬと拓馬は思った。
(やっていくのがムリになってきたら、ぬければいい)
大畑のほうが計画性のないことをポンポン言ってきているのだ。拓馬が指導員をやってみてダメだった、とこれまた行き当たりばったりな事態になっても、大畑は文句を言わないだろう。
拓馬の歯切れわるい了承を聞いた大畑は得意気に「よく言った!」と拓馬の決断を称賛した。待たせていた質問者へ向きなおり、「この子も指導員をやります」と拓馬を紹介する。
「まだ歳は若いですが、小さいときからこの道場で修練にはげんできた子です。実力はワシが保証します!」
「その子、イヤイヤ言ってません?」
「なに、彼が本気でイヤがっておればこの体験会にも参加しませんとも」
この場に拓馬が居ることが拓馬のやる気の証明だ、という論調だ。拓馬は(そうなのか?)と自分で自分の意思に疑問を感じた。わかるようなわからないような理屈だ。拓馬はいまひとつ大畑の言い分に納得しないものの、女性のほうは稔次の愛想笑いにほだされ、質問をおえた。
(母親がトシさん目当てに子どもを入門させるって線も……)
不謹慎だがありえそうな事態だ。稔次は思いがけず女性客の心をつかんでいる。その彼に一目会いたいがために、子を道場にかよわせる母があらわれるかもしれなかった。
稔次のほうはというと、彼は女性からの注目には無関心だ。もっぱら小さな子どもに視線を落としている。その目は慈愛がこもっていて、拓馬たちに見せた表情とは異なる情が感じられた。
(子ども、好きなのかな……)
稔次は三十代以上の男性だ。これだけの容姿だと女性のほうが彼を放っておかない。そのうえ性格は社交的。彼と懇意になりたがる女性は過去にもいただろう。彼に結婚歴があって、子どもをもっていたとしてもおどろくことではない。
(子どもがいるか、なんて聞いていいのかどうか)
自分の兄弟のことを言いたがらない人だ。妻子の有無もさぐられたくはない個人情報かもしれない。そう考えた拓馬は稔次への疑念を押しとどめながら、指導員の補佐の役目をまっとうした。
体験会の終了間際、大畑は入門書を配布した。前回は希望者にのみ受付で渡していたものだ。今回もそんな受動的な態度でいては客をのがすと思ったのだろうか。拓馬たちも手分けして配った。中には「まえにもらった」と言って断る人がおり、そういった客にはむりに入門書を押し付けなかった。
体験会が閉幕する。客は練習場を出る者とのこる者に二分した。のこった客もまた大きく分けて二種類。入門を申しこもうとする者と、入門にまつわる質問をする者がいた。拓馬はその質疑応答をそばで聞いた。気になっていた夏季日程の担当はやはり稔次。彼に一任すると大畑が宣言する。
「彼の技はワシをしのいでおります。指導するのに不足はありません」
大畑が新人指導員の技芸を称賛した。しかし小さな子を連れた中年女性が意見する。
「それはいいんですけど、教える先生はおひとりなんですか?」
「おもにひとりですが、ときどき師範も参加する予定です。なにか問題が?」
「うちの子、物覚えがわるくって……この子におしえるのにかかりきりになったら、ほかの子にも迷惑をかけるでしょう? もっと先生がいてくだされば安心できるんです」
「ほかの指導員が……いたらいいんですね」
女性に顔を向けていた大畑は突然拓馬を見た。拓馬は体が硬直する。
(ああ、やっぱり……)
体験会の手伝いを承諾する以前からうすうす勘付いていたことだ。しかし快諾する気持ちにはなれなかった。
大畑はじりじりと寄ってきて、拓馬の肩に手をのせる。
「どうだろう、拓馬くん。夏休みの間──」
「俺が指導員をやってて、お客さんが納得すると思います?」
「なにを言う! きみは段位をもっているんだろう?」
拓馬はびっくりした。この情報をみずから大畑に伝えたおぼえはない。空手にまつわることは彼との話題にのぼらせないよう、注意していた。そう配慮したわけは、大畑がめんどくさいことを言い出しそうだと思っていたからだ。現にいま、段位取得を根拠に拓馬の道場の手伝いを継続させようとしている。
「初段は一人前の証拠になる!」
「それ、どこから知ったんです?」
「きみのお友だちが年賀状でおしえてくれたぞ」
大畑に年賀状を出す、拓馬の友人──思い当たるのはひとりだけだ。
「ヤマダが……余計なことを」
「いいじゃないか。めでたい報せはみんなで共有するもんだ」
「はぁ」
「で、どうだ? タダでとは言わないから」
正直拓馬はどうとも言えなかった。めんどうごとが増えるのはイヤだ。かといって夏休みの予定はとくになく、ぼーっとすごすのも時間が惜しい。まだ小遣い稼ぎにいそしんだほうが有益だといえる。
(でも俺が先生役なんて……)
その役割を果たす力量があるのか、不安に思っているのは拓馬自身だった。客がどう思う、というのは言い訳にすぎない。
煮え切らない態度の拓馬に、稔次も近寄ってくる。
「オレもきみがいてくれたら心強いな。この図体だと子どもがこわがるかもしれないし」
稔次の懸念は拓馬の視野を広げた。彼もまた不安をかかえている。その解消には拓馬の助勢が必要、とは真に受けがたいが、心にもないこととは思えなかった。
「あたらしく習いはじめた子が慣れるまで、でもいいからさ」
「それぐらいなら……」
予定にないことを引き受けてしまった。本来なら家族とも相談したうえで決めたかったが、指導員の数を気にする客がこの場にいるために、即断せねばならぬと拓馬は思った。
(やっていくのがムリになってきたら、ぬければいい)
大畑のほうが計画性のないことをポンポン言ってきているのだ。拓馬が指導員をやってみてダメだった、とこれまた行き当たりばったりな事態になっても、大畑は文句を言わないだろう。
拓馬の歯切れわるい了承を聞いた大畑は得意気に「よく言った!」と拓馬の決断を称賛した。待たせていた質問者へ向きなおり、「この子も指導員をやります」と拓馬を紹介する。
「まだ歳は若いですが、小さいときからこの道場で修練にはげんできた子です。実力はワシが保証します!」
「その子、イヤイヤ言ってません?」
「なに、彼が本気でイヤがっておればこの体験会にも参加しませんとも」
この場に拓馬が居ることが拓馬のやる気の証明だ、という論調だ。拓馬は(そうなのか?)と自分で自分の意思に疑問を感じた。わかるようなわからないような理屈だ。拓馬はいまひとつ大畑の言い分に納得しないものの、女性のほうは稔次の愛想笑いにほだされ、質問をおえた。
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2018年10月27日
拓馬篇後記−14
道着に着替えた拓馬は練習場へもどった。着替えおわったことを男性に知らせようかと思ったが、相手方の片付け作業をせかす可能性もあったので、やめておいた。
ほどなくして神南もやってくる。彼女は練習場の出入りに邪魔にならない場所で柔軟体操をはじめた。ケガを未然にふせぐには適切な柔軟体操が大事だ。拓馬も神南に倣い、片足前屈をする。しかし無言でいるのもなんなので、頭巾の男性の話をもちかける。
「あの男の人、なにかわかりました?」
「いえ、あんまり……でも師範代とは仲がいいみたい」
「どこを見てそう思ったんです?」
「師範代のことを『ホーちゃん』ってよんでた」
大畑の名は豊一(ほういち)という。そのあだ名を呼ぶのに妥当な本名ではあるが、かなりちかしい存在でなくては使いにくい呼び名だ。むかしからの友人なのだろうか。それとも男性が一方的に馴れ馴れしくしているだけなのか。たとえばヤマダは大畑に少々失礼なあだ名をつけており、大畑はその名の使用を寛大な心で許可している。
(師範代はあの人をどうよんでるんだ?)
大畑が男性に使う呼称次第で親密度が測れそうだ。なおかつ拓馬が知りたかった男性の呼び名もわかる。
「師範代のほうは、男の人をなんてよぶんです?」
「『トシ』か『トッシー』って……」
「それは仲よさそうな……神南さんはどうよぶことにしました?」
「まあ、ふつうに『トシさん』、かな……」
神南は片足前屈を両足やりおえ、次に両足をひらく開脚前屈をはじめた。拓馬は片足前屈の片足を長く伸ばしていたので、もう片方の足の柔軟に切り替える。
「じゃあ俺もそうよびます」
「うん……一回、本人に聞いていいとは思うけど」
「神南さんも自己紹介はしてないんですか」
「そう。でも師範代が教えたみたいで、トシさんはあたしの名前を知ってた」
「『神南さん』ってよばれた?」
「あ、いや……」
神南は床に向けていた顔を横にそむけた。奇妙な反応だ。恥ずかしがっているようでもある。
「下の名前でよばれてる?」
「そうでもなくて……」
練習場の引き戸が開いた。白い道着に着替えた男性が入ってくる。彼の頭巾は外されていて、頭巾で隠れていた前髪が額にかかっている。
「カンちゃんたちは準備運動やってるんだ?」
聞き慣れない名前だ。それが拓馬の呼び名ではないことは知れた。
(カンナミのカン……?)
あだ名を呼ばれたであろう神南の様子を見ると、彼女は男性に顔を合わせないようにしていた。その呼び名に抵抗があるらしい。だが不快ではなさそうだ。拓馬が男性へあだ名の呼びとめを仕掛けるにはおよばず、そのまま様子を見た。
男性は「オレもやろうっと」と座り、三人で円をつくるような形で柔軟体操をはじめた。男性はかかとの裏同士を合わせた足を手でつかみ、前のめりになる。なぜだか彼の目の前には体験会のチラシがある。
「あれ、どっからそのチラシが……」
「いまオレが持ってきた。時間があるし、ヒマつぶしに見ておこうかと思って」
「はあ……」
大畑家が自力制作したとおぼしいチラシを、男性はながめている。そのチラシはデキのよくない作品だ。古風な筆致とかわいらしいイラストが混在する混沌としたつくりである。拓馬としては、見ていてたのしめる広告には思えないのだが。
(この人が作ったわけじゃなさそうだな)
その制作に関わっていたならいまさらこの場で見なくてもよいはず。よほどのナルシストでなければ見飽きているだろう、と拓馬は思い、チラシについて質問する。
「そのチラシはだれが作ったか、聞いてます?」
「ん? これはホーちゃん……師範代の家族の合作だ」
「やっぱり。フツーの会社にたのんだら、こんなのになりませんよね」
男性は上体をもどした。その顔は笑っている。
「よくわかるね〜。きみはセンスがあるよ」
なんでもない普通の感性をほめられて、拓馬は気恥ずかしくなる。
「いや、これぐらい学校で習うんで……」
「へえ、チラシの制作を学ぶのか」
「うちの高校、授業にデジタルの画像処理もあるんです。それ専門の学校じゃないですけど、それでウェブサイトと広告の基本はだいたい……」
「そりゃいいな。オレも通いたいくらいだ」
拓馬の倍ほど生きる男性が学校に興味を示している。それが不思議で、拓馬は掘り下げる。
「広告をつくることに興味あるんですか?」
「まえはそれで食ってたんだよ。そういう学校にも行った」
「じゃあ勉強しなくても──」
「こういう技術はどんどんあたらしくなるからね。最新の手法とセンスは磨きたい……けど、それで仕事に就けるかは別問題だ」
男性はこれから職をさがすという。しかしそれは困難でもあるといい、その事情は他人が気軽に聞けるものではなかった。
男性はふたたび前屈する。
「このチラシ、見ようによっちゃいい広告だよ」
「え? 文字とイラストの雰囲気がぜんぜんちがうのに?」
「広告は見た人の記憶にのこってナンボだ。たしかにきれいにつくったものは人にこのまれやすい。でもだからおぼえてもらえるとはかぎらない。このチラシのアンバランスさはかえって見る人の印象にのこりやすいと思うよ」
その筋の人らしい見方だ。素人では思いつかない意見を聞けて、拓馬にささやかな好奇心が芽生える。
「じゃあこのチラシは手直ししなくていいと?」
「うーん、オレが手を入れていいんなら、変えたくなるな」
「どんなふうに?」
「オレだったら文字を変える。イラストに合わせたポップな書体にするかな。子ども向けの企画なんだし……奇抜なことはしなくていいと思う」
「子どもに合わせるんですね」
「ああ、平凡なことを言っちゃうとそうなるね」
「いえ、参考になります」
拓馬は姿勢を変え、男性と同じ柔軟体操をやる。男性は不意に笑う。
「あはは、きみはずいぶん大人びてるね」
「あ……ヘンですか?」
「そんなことないよ。人間、しっかりしててしすぎってこたぁない。オレなんかいっつも抜け作でね〜」
抜けてる、といえば拓馬たちは互いの名前を明かしていない。一般的な初対面の者とのやり取りがいまだに完遂されないことに、拓馬は多少のあせりをおぼえる。
「あの、俺の名前ってまだ言ってないですよね?」
「師範代から聞いてるよ。拓馬くんって言うんだろ? オレもそうよんでいいかな」
「はい。俺はあなたのことをなんてよべばいいですか?」
「呼び名か……『オバタケ』じゃ師範代とかぶるしね〜」
「え、あなたも大畑というんですか? 『大きい』に『畑』の?」
「そうだけど……?」
男性は拓馬のおどろきようにおどろいている。拓馬の推測では彼が大畑姓の一族ではないと思っていた。その見込みちがいについて拓馬は釈明する。
「あ、てっきり……師範代のお母さんの家系の人かと思って」
「ああ〜、顔がね……」
男性は自身の頬を手のひらでこする。大畑の母に顔が似ている自覚はあるようだ。
「そっちで通したほうがよかったかな」
「え、『通す』?」
通す、とは真実でない事柄をそれらしく見せかけるときにも使う言葉だ。詐称のにおいがただよってくる口ぶりである。拓馬があやしむと男性は愛想笑いをする。
「なんでもないよ。オレのことは……トシツグとよんでくれ」
「トシツグ、さん?」
「『トシ』はのぎへんに念じる、で『稔』。『ツグ』は次男次女の『次』って字だ。みじかくよびたかったらトシでいい」
「次男の……もしかしてお兄さんがいるんですか?」
稔次という男性は顔をこわばらせた。痛いところを突かれたかのようだ。これまでほがらかに会話してきた人とは思えぬ態度だ。
「俺、まずいことを言いました?」
「いや、その、なんでオレにアニキがいると思ったのかな、て」
「いま自分で『次男だ』ってことを遠回しに言ったんじゃ」
「あ、そんなふうに、聞こえる?」
稔次のまばたきの回数が増えた。どうも反応が奇妙である。彼の素性と漢字の説明とが一致しないのなら拓馬の予想を否定すればよいのに、確実にそうではない素振りだ。
(兄弟がいるのって、隠したいことなのか……?)
秘匿したがる動機はまったく見当もつかないが、当人がのぞむのなら追究はしない。拓馬は室内の壁掛け時計を見る。受付の開始時刻があと数分にせまっている。
「そろそろ人がくる時間じゃないですか」
「お、そうか。案内役をしないとな」
稔次はそそくさと練習場を出る。拓馬もそれに続こうかと思い、腰をあげた。神南も立ち上がり、「気を遣ってあげたの?」と拓馬の言動を問う。
「トシさん、隠し事が上手じゃないみたいね」
「そうですね……いい人っぽいから、気になりませんけど」
「ええ、こわい人じゃなくてよかった」
神南も稔次の人柄に免じて、彼の不審な点を見逃すつもりだ。二人はこれで稔次の話をやめ、今日の体験会に向けた行動を再開した。
ほどなくして神南もやってくる。彼女は練習場の出入りに邪魔にならない場所で柔軟体操をはじめた。ケガを未然にふせぐには適切な柔軟体操が大事だ。拓馬も神南に倣い、片足前屈をする。しかし無言でいるのもなんなので、頭巾の男性の話をもちかける。
「あの男の人、なにかわかりました?」
「いえ、あんまり……でも師範代とは仲がいいみたい」
「どこを見てそう思ったんです?」
「師範代のことを『ホーちゃん』ってよんでた」
大畑の名は豊一(ほういち)という。そのあだ名を呼ぶのに妥当な本名ではあるが、かなりちかしい存在でなくては使いにくい呼び名だ。むかしからの友人なのだろうか。それとも男性が一方的に馴れ馴れしくしているだけなのか。たとえばヤマダは大畑に少々失礼なあだ名をつけており、大畑はその名の使用を寛大な心で許可している。
(師範代はあの人をどうよんでるんだ?)
大畑が男性に使う呼称次第で親密度が測れそうだ。なおかつ拓馬が知りたかった男性の呼び名もわかる。
「師範代のほうは、男の人をなんてよぶんです?」
「『トシ』か『トッシー』って……」
「それは仲よさそうな……神南さんはどうよぶことにしました?」
「まあ、ふつうに『トシさん』、かな……」
神南は片足前屈を両足やりおえ、次に両足をひらく開脚前屈をはじめた。拓馬は片足前屈の片足を長く伸ばしていたので、もう片方の足の柔軟に切り替える。
「じゃあ俺もそうよびます」
「うん……一回、本人に聞いていいとは思うけど」
「神南さんも自己紹介はしてないんですか」
「そう。でも師範代が教えたみたいで、トシさんはあたしの名前を知ってた」
「『神南さん』ってよばれた?」
「あ、いや……」
神南は床に向けていた顔を横にそむけた。奇妙な反応だ。恥ずかしがっているようでもある。
「下の名前でよばれてる?」
「そうでもなくて……」
練習場の引き戸が開いた。白い道着に着替えた男性が入ってくる。彼の頭巾は外されていて、頭巾で隠れていた前髪が額にかかっている。
「カンちゃんたちは準備運動やってるんだ?」
聞き慣れない名前だ。それが拓馬の呼び名ではないことは知れた。
(カンナミのカン……?)
あだ名を呼ばれたであろう神南の様子を見ると、彼女は男性に顔を合わせないようにしていた。その呼び名に抵抗があるらしい。だが不快ではなさそうだ。拓馬が男性へあだ名の呼びとめを仕掛けるにはおよばず、そのまま様子を見た。
男性は「オレもやろうっと」と座り、三人で円をつくるような形で柔軟体操をはじめた。男性はかかとの裏同士を合わせた足を手でつかみ、前のめりになる。なぜだか彼の目の前には体験会のチラシがある。
「あれ、どっからそのチラシが……」
「いまオレが持ってきた。時間があるし、ヒマつぶしに見ておこうかと思って」
「はあ……」
大畑家が自力制作したとおぼしいチラシを、男性はながめている。そのチラシはデキのよくない作品だ。古風な筆致とかわいらしいイラストが混在する混沌としたつくりである。拓馬としては、見ていてたのしめる広告には思えないのだが。
(この人が作ったわけじゃなさそうだな)
その制作に関わっていたならいまさらこの場で見なくてもよいはず。よほどのナルシストでなければ見飽きているだろう、と拓馬は思い、チラシについて質問する。
「そのチラシはだれが作ったか、聞いてます?」
「ん? これはホーちゃん……師範代の家族の合作だ」
「やっぱり。フツーの会社にたのんだら、こんなのになりませんよね」
男性は上体をもどした。その顔は笑っている。
「よくわかるね〜。きみはセンスがあるよ」
なんでもない普通の感性をほめられて、拓馬は気恥ずかしくなる。
「いや、これぐらい学校で習うんで……」
「へえ、チラシの制作を学ぶのか」
「うちの高校、授業にデジタルの画像処理もあるんです。それ専門の学校じゃないですけど、それでウェブサイトと広告の基本はだいたい……」
「そりゃいいな。オレも通いたいくらいだ」
拓馬の倍ほど生きる男性が学校に興味を示している。それが不思議で、拓馬は掘り下げる。
「広告をつくることに興味あるんですか?」
「まえはそれで食ってたんだよ。そういう学校にも行った」
「じゃあ勉強しなくても──」
「こういう技術はどんどんあたらしくなるからね。最新の手法とセンスは磨きたい……けど、それで仕事に就けるかは別問題だ」
男性はこれから職をさがすという。しかしそれは困難でもあるといい、その事情は他人が気軽に聞けるものではなかった。
男性はふたたび前屈する。
「このチラシ、見ようによっちゃいい広告だよ」
「え? 文字とイラストの雰囲気がぜんぜんちがうのに?」
「広告は見た人の記憶にのこってナンボだ。たしかにきれいにつくったものは人にこのまれやすい。でもだからおぼえてもらえるとはかぎらない。このチラシのアンバランスさはかえって見る人の印象にのこりやすいと思うよ」
その筋の人らしい見方だ。素人では思いつかない意見を聞けて、拓馬にささやかな好奇心が芽生える。
「じゃあこのチラシは手直ししなくていいと?」
「うーん、オレが手を入れていいんなら、変えたくなるな」
「どんなふうに?」
「オレだったら文字を変える。イラストに合わせたポップな書体にするかな。子ども向けの企画なんだし……奇抜なことはしなくていいと思う」
「子どもに合わせるんですね」
「ああ、平凡なことを言っちゃうとそうなるね」
「いえ、参考になります」
拓馬は姿勢を変え、男性と同じ柔軟体操をやる。男性は不意に笑う。
「あはは、きみはずいぶん大人びてるね」
「あ……ヘンですか?」
「そんなことないよ。人間、しっかりしててしすぎってこたぁない。オレなんかいっつも抜け作でね〜」
抜けてる、といえば拓馬たちは互いの名前を明かしていない。一般的な初対面の者とのやり取りがいまだに完遂されないことに、拓馬は多少のあせりをおぼえる。
「あの、俺の名前ってまだ言ってないですよね?」
「師範代から聞いてるよ。拓馬くんって言うんだろ? オレもそうよんでいいかな」
「はい。俺はあなたのことをなんてよべばいいですか?」
「呼び名か……『オバタケ』じゃ師範代とかぶるしね〜」
「え、あなたも大畑というんですか? 『大きい』に『畑』の?」
「そうだけど……?」
男性は拓馬のおどろきようにおどろいている。拓馬の推測では彼が大畑姓の一族ではないと思っていた。その見込みちがいについて拓馬は釈明する。
「あ、てっきり……師範代のお母さんの家系の人かと思って」
「ああ〜、顔がね……」
男性は自身の頬を手のひらでこする。大畑の母に顔が似ている自覚はあるようだ。
「そっちで通したほうがよかったかな」
「え、『通す』?」
通す、とは真実でない事柄をそれらしく見せかけるときにも使う言葉だ。詐称のにおいがただよってくる口ぶりである。拓馬があやしむと男性は愛想笑いをする。
「なんでもないよ。オレのことは……トシツグとよんでくれ」
「トシツグ、さん?」
「『トシ』はのぎへんに念じる、で『稔』。『ツグ』は次男次女の『次』って字だ。みじかくよびたかったらトシでいい」
「次男の……もしかしてお兄さんがいるんですか?」
稔次という男性は顔をこわばらせた。痛いところを突かれたかのようだ。これまでほがらかに会話してきた人とは思えぬ態度だ。
「俺、まずいことを言いました?」
「いや、その、なんでオレにアニキがいると思ったのかな、て」
「いま自分で『次男だ』ってことを遠回しに言ったんじゃ」
「あ、そんなふうに、聞こえる?」
稔次のまばたきの回数が増えた。どうも反応が奇妙である。彼の素性と漢字の説明とが一致しないのなら拓馬の予想を否定すればよいのに、確実にそうではない素振りだ。
(兄弟がいるのって、隠したいことなのか……?)
秘匿したがる動機はまったく見当もつかないが、当人がのぞむのなら追究はしない。拓馬は室内の壁掛け時計を見る。受付の開始時刻があと数分にせまっている。
「そろそろ人がくる時間じゃないですか」
「お、そうか。案内役をしないとな」
稔次はそそくさと練習場を出る。拓馬もそれに続こうかと思い、腰をあげた。神南も立ち上がり、「気を遣ってあげたの?」と拓馬の言動を問う。
「トシさん、隠し事が上手じゃないみたいね」
「そうですね……いい人っぽいから、気になりませんけど」
「ええ、こわい人じゃなくてよかった」
神南も稔次の人柄に免じて、彼の不審な点を見逃すつもりだ。二人はこれで稔次の話をやめ、今日の体験会に向けた行動を再開した。
タグ:拓馬
2018年10月26日
拓馬篇後記−13
頭巾の男性は「掃除道具をとってくる」と言って、別行動をとる。拓馬は手持ちの道着を一時保管すべく、練習場へ入る。室内の床にはジョイントマットが一面敷かれていた。今日はマットを外しての床掃除はしないらしい。
室内の中央には神南がいた。彼女は長い柄つきの掃除用ワイパーをふるって天井を掃除している。拓馬はまずあいさつをする。
「神南さん、おはようございます」
「うん、おはよう」
「俺はなにをしたらいいですか?」
「棚の拭き掃除……」
神南は棚の端っこ部分を指差す。
「布巾がおいてあるところの右、もう拭いたから、そこに道着を置いて。そこ以外はまだ拭いてないの」
その箇所を勧めるわけは、拭きおえてから時間が経っており水気がとんでいるはず、という根拠にある。拓馬のために一か所だけ先に拭いてくれたようだ。
「だいじょうぶだと思うけど、ぬれてないか確認してね」
「はい」
拓馬は言われたとおりに棚にふれた。湿り気がないのをたしかめたのち、荷物を置く。そしてその左隣りにある棚の布巾を手にした。布巾を使い、物が入っていない棚部分を拭いていった。
棚掃除を終えようかとしたころに頭巾の男性がやってきた。彼はバケツを二つもっている。おそらく片方は拓馬の分だ。
「お、そっちの棚を拭いてるんだ」
「はい、でももうおわります」
「じゃあその布巾でミット用の棚も拭こうかな」
男性はミット置き場からすこし距離を置いたところにバケツをおろした。ミットをぎっしり積んだパイプ棚の前に立つ。側板と背板のない棚を抱えるように両腕を広げた。四本ある棚の支柱を、対角線上に二か所つかむ。
「棚をうごかすよ〜」
男性は横幅も重量もある棚を簡単に持ち上げた。ゆっくり後退し、壁から一メートルほどはなれた場所におろす。
「ここの壁もきれいにしたいんだ。掃除をやれてないって話だから」
「はい、棚をずらすの、たいへんですから……」
その大変さは作業工程の多さに由来する。通常、棚を移動するときは最初に棚にあるものをどかす。そののちに棚本体をうごかす。そうしなくては安定した棚の持ち方ができない。安定した持ち方というのは、対角線上の支柱をつかむこと。棚板や手前の支柱二本を持とうとするとあぶないのだ。拓馬のような体の小さい者では、棚板にあるものをすっきりなくしたうえで、棚板の上へ腕を通して、奥の支柱を持つ必要がある。
「オレはものぐさだからいっぺんにうごかしちゃったけど、きみが掃除するときはミットをどかしていいし、二人がかりでもいいからね」
「はい、いまのやり方は真似したくてもできません」
この男性は力技で荷物ごと棚を運んだ。彼の体格がなせることだ。拓馬は自身の身長が平均未満であることを気にしているので、高身長だからできることを見せつけられると、内心ではおもしろくなかった。
拓馬はすぐに荷物置きの棚を拭きおわらせた。掃除に使った布巾を手にしたまま、次の作業場である男性のもとへ近寄る。男性はパイプ棚上段のミットを両手に持つ。
「どうせミットをどかさなきゃ棚は拭けないんだ。さきにミットを移動したほうがいいね」
男性は自身のやり方を推奨しない口ぶりをした。拓馬の微妙な傷心を察して、フォローしたのだろうか。そのやさしさを受けて、拓馬は妙に男性への親しみをおぼえる。
「あの、この棚を拭くのは、だれが?」
男性の言い方では拓馬にやってもらう、という意思があまり伝わらない。どちらかがやることはたしかなのだが、男性は分担を決めていないようだった。
男性は全高一七〇センチほどのパイプ棚の天板を見下ろす。拓馬にとって棚のてっぺんは見上げる部分だ。
「オレがやろう」
「じゃあ俺が壁を拭くってことで」
「ああ、お願いする。こっちのバケツと雑巾を使ってくれ」
男性はいったんミットを棚にもどし、水を張ったバケツを持った。バケツの縁には雑巾がかけてある。拓馬はそれを受け取った。同時に男性は拓馬の手にあった布巾をにぎる。
「ここの壁が拭けたら、ほかの壁もきれいにしてもらっていいかな。手のとどく範囲でいい」
「わかりました」
拓馬は水につけた雑巾を絞り、パイプ棚と密着していた壁を拭く。木製の壁を拭くと茶色のほかに灰色のよごれが雑巾についた。
(壁の中じゃここがいちばん汚れてるか……)
そう判断した拓馬は一帯を清掃すると雑巾を一度洗った。バケツの中の水が濁る。これは水を換えたほうがよさそうだ、と思いながら、ひとまず洗った雑巾でいけるところまで清掃した。棚のあった壁以外は思ったほど汚れがたまっておらず、水替えの頻度は一回で済んだ。雑巾では拭けない壁はワイパーを持つ神南が拭く。その間、男性はミットを一段ごとに場所をかためて床におき、棚が空になるまで棚の拭き掃除をした。それらがおわると床──マットの拭き掃除にかかった。
三人がかりで取り組んだおかげで練習場内の掃除は早くおわる。次に道着へ着替えることになる。だが男性は「道具を片付けてくる」とまた別行動をした。その際に、
「おじさんのハダカなんか見たくないだろ?」
と冗談めかして、拓馬にひとりで更衣室を使うようすすめた。男性と気心の知れない拓馬が更衣室で二人きりになる状況を避けてくれたようだった。拓馬としては男性に苦手意識はなく、同時に着替えることになってもかまわなかった。
(なんかいい人みたいだな……)
あの大畑の身内に悪人がいるとも思えず、ある意味正しい状況だと感じた。
(師範代とどういう……ってことは聞かないほうがいいか)
大畑はあまり詮索してほしくないようだった。こちらから男性の素性はたずねないほうがよい。
(名前は聞いていいよな。呼び名がないのはこまる)
体験会の受付がはじまるまでの猶予はある。この自由時間を利用して、最低限の自己紹介をしておこうと拓馬は留意した。
室内の中央には神南がいた。彼女は長い柄つきの掃除用ワイパーをふるって天井を掃除している。拓馬はまずあいさつをする。
「神南さん、おはようございます」
「うん、おはよう」
「俺はなにをしたらいいですか?」
「棚の拭き掃除……」
神南は棚の端っこ部分を指差す。
「布巾がおいてあるところの右、もう拭いたから、そこに道着を置いて。そこ以外はまだ拭いてないの」
その箇所を勧めるわけは、拭きおえてから時間が経っており水気がとんでいるはず、という根拠にある。拓馬のために一か所だけ先に拭いてくれたようだ。
「だいじょうぶだと思うけど、ぬれてないか確認してね」
「はい」
拓馬は言われたとおりに棚にふれた。湿り気がないのをたしかめたのち、荷物を置く。そしてその左隣りにある棚の布巾を手にした。布巾を使い、物が入っていない棚部分を拭いていった。
棚掃除を終えようかとしたころに頭巾の男性がやってきた。彼はバケツを二つもっている。おそらく片方は拓馬の分だ。
「お、そっちの棚を拭いてるんだ」
「はい、でももうおわります」
「じゃあその布巾でミット用の棚も拭こうかな」
男性はミット置き場からすこし距離を置いたところにバケツをおろした。ミットをぎっしり積んだパイプ棚の前に立つ。側板と背板のない棚を抱えるように両腕を広げた。四本ある棚の支柱を、対角線上に二か所つかむ。
「棚をうごかすよ〜」
男性は横幅も重量もある棚を簡単に持ち上げた。ゆっくり後退し、壁から一メートルほどはなれた場所におろす。
「ここの壁もきれいにしたいんだ。掃除をやれてないって話だから」
「はい、棚をずらすの、たいへんですから……」
その大変さは作業工程の多さに由来する。通常、棚を移動するときは最初に棚にあるものをどかす。そののちに棚本体をうごかす。そうしなくては安定した棚の持ち方ができない。安定した持ち方というのは、対角線上の支柱をつかむこと。棚板や手前の支柱二本を持とうとするとあぶないのだ。拓馬のような体の小さい者では、棚板にあるものをすっきりなくしたうえで、棚板の上へ腕を通して、奥の支柱を持つ必要がある。
「オレはものぐさだからいっぺんにうごかしちゃったけど、きみが掃除するときはミットをどかしていいし、二人がかりでもいいからね」
「はい、いまのやり方は真似したくてもできません」
この男性は力技で荷物ごと棚を運んだ。彼の体格がなせることだ。拓馬は自身の身長が平均未満であることを気にしているので、高身長だからできることを見せつけられると、内心ではおもしろくなかった。
拓馬はすぐに荷物置きの棚を拭きおわらせた。掃除に使った布巾を手にしたまま、次の作業場である男性のもとへ近寄る。男性はパイプ棚上段のミットを両手に持つ。
「どうせミットをどかさなきゃ棚は拭けないんだ。さきにミットを移動したほうがいいね」
男性は自身のやり方を推奨しない口ぶりをした。拓馬の微妙な傷心を察して、フォローしたのだろうか。そのやさしさを受けて、拓馬は妙に男性への親しみをおぼえる。
「あの、この棚を拭くのは、だれが?」
男性の言い方では拓馬にやってもらう、という意思があまり伝わらない。どちらかがやることはたしかなのだが、男性は分担を決めていないようだった。
男性は全高一七〇センチほどのパイプ棚の天板を見下ろす。拓馬にとって棚のてっぺんは見上げる部分だ。
「オレがやろう」
「じゃあ俺が壁を拭くってことで」
「ああ、お願いする。こっちのバケツと雑巾を使ってくれ」
男性はいったんミットを棚にもどし、水を張ったバケツを持った。バケツの縁には雑巾がかけてある。拓馬はそれを受け取った。同時に男性は拓馬の手にあった布巾をにぎる。
「ここの壁が拭けたら、ほかの壁もきれいにしてもらっていいかな。手のとどく範囲でいい」
「わかりました」
拓馬は水につけた雑巾を絞り、パイプ棚と密着していた壁を拭く。木製の壁を拭くと茶色のほかに灰色のよごれが雑巾についた。
(壁の中じゃここがいちばん汚れてるか……)
そう判断した拓馬は一帯を清掃すると雑巾を一度洗った。バケツの中の水が濁る。これは水を換えたほうがよさそうだ、と思いながら、ひとまず洗った雑巾でいけるところまで清掃した。棚のあった壁以外は思ったほど汚れがたまっておらず、水替えの頻度は一回で済んだ。雑巾では拭けない壁はワイパーを持つ神南が拭く。その間、男性はミットを一段ごとに場所をかためて床におき、棚が空になるまで棚の拭き掃除をした。それらがおわると床──マットの拭き掃除にかかった。
三人がかりで取り組んだおかげで練習場内の掃除は早くおわる。次に道着へ着替えることになる。だが男性は「道具を片付けてくる」とまた別行動をした。その際に、
「おじさんのハダカなんか見たくないだろ?」
と冗談めかして、拓馬にひとりで更衣室を使うようすすめた。男性と気心の知れない拓馬が更衣室で二人きりになる状況を避けてくれたようだった。拓馬としては男性に苦手意識はなく、同時に着替えることになってもかまわなかった。
(なんかいい人みたいだな……)
あの大畑の身内に悪人がいるとも思えず、ある意味正しい状況だと感じた。
(師範代とどういう……ってことは聞かないほうがいいか)
大畑はあまり詮索してほしくないようだった。こちらから男性の素性はたずねないほうがよい。
(名前は聞いていいよな。呼び名がないのはこまる)
体験会の受付がはじまるまでの猶予はある。この自由時間を利用して、最低限の自己紹介をしておこうと拓馬は留意した。
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